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サンド

 

見て・聞いて

     
仏教は、さまざまな説き方が
あります。
南無阿弥陀仏の教えは、
その中の一つです。

仏説無量寿経に説かれる
阿弥陀如来の本願の
はたらきで、すぐれた功徳を、
すべての衆生に与え、
「南無阿弥陀仏」一つで、
救われることを、教えて
くださったのが親鸞聖人です。

親鸞聖人を、宗祖と仰ぐ、
浄土真宗の本願寺派。
そこに所属する九州・佐賀の一寺院で
製作しているのがこのホームページです。

「南無阿弥陀仏」の味わいを、電話で
お話ししています。毎週木曜日に、
内容を変更しています。

法話原稿をこのページに掲載して
います。ここで、「見て、聞いて」 ください。

メールマガジン始めました 「こんな話を聞きました」。
    
   ユーチューブ 妙念寺

0952
 -24-1800

(佐賀局  ニシ  ホンガンと
記憶してください。)

24はニシ、西。 本願は、18願。
そこで、24-1800は、西本願



第1630回 よろこぶ こころ みにうれば

令和6年 4月25日~

 お料理の店を開いていた板前さんは、
自分がつくった料理を 美味しい、美味しいと
食べてもらうのが、一番うれしかったと。話してくださいました。

 現役を退いた今でも、材料が手に入るとドレッシングなどを
大量につくって、近所の人に配っていますと、私も一ついただきました。

 まるで、仏さまのようですね。
仏さまは、お浄土へ生まれるのだと知った人が、南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏と喜んでお念仏をしている姿を見るのが、最もうれしいと、
喜んでおられるといいますからね。

 私たちが子どものころから受けてきた教育は、新たな知識を得ることで
表には現れていない、いろいろの事実を発見し理解出来るようになり、
より多くの喜びを感じることが出来るようになるものです。

 それに対して、宗教は ごく普通の当たり前のもの、平凡な出来事を、
ちゃんと見て、気づき、感じる力を 育てていこうとするもの
でしょう。

 仏さまのお話を聞くことで、この私のためにどれだけ
多くの人々が ご苦労いただいているのかを、感じとる力が、
育てられていくと、どこにでもある平凡で、当たり前の、
普通の出来事が実は、大きな意味、 素晴らしい存在であり、
有り難いことであると気づき感じ取ることができるようになるものです。


 そうした力が、身につき始めると、私の人生は 平凡で、
つまらないものではなくなり、とても有り難く意義あるものであると
感じられてくるものです。
鈍感な私に その真実を知らせ、感じ味わうことの出来る力を 
育ててくださるのが、南無阿弥陀仏の教えでしょう。

 南無阿弥陀仏のお念仏は、自分で経験する前に、失敗する前に
その真実を、有り難さ豊かさを気づかせるはたらきがあるものです。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、お念仏の教えに遇うことで、
大きな力が、はたらきがあることを、知らせることによって、
普通で、当たり前にしか見えないものを、出来事を、本当は
とても有り難く、素晴らしいものであることに気づかせ、
それを感じ取り、感動する能力を育てていただくのです。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を聞き、口にする生活は、
その感受性が
身につき、育てていく、はたらきがあるのです。
お聴聞することで、親たちが最も喜んでくれる生き方が、
知らされるのです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 は 仏さまの願い 親たちの願いです。









第1629回 視点が変わると 世界が変わる

 令和6年 4月18日~

 本願寺派の宗門学校 中央仏教学院には、通信教育があります。
そのホームページに、「通信教育で学びませんか」と、
福間学院長のこんな誘いのことばがありました。


 ネットにこんな話が載っておりました。
あるサラリーマンが真夏に出張に出かけ、電車を降りてバスに乗りました。
するとバスは満員ですごい熱気でした。

「しまった、タクシーにすれば良かった。」でもバスは動き出し、
もうどうしようもありません。

すると赤ちゃんの泣き声が聞こえてきます。もう最悪の状況です。
彼は思いました、「ああ最悪のバスに乗ってしまった。」すると、
その泣き声が近づいてきました。
赤ちゃんを抱いたお母さんがバスを降りようと、入口近くにいる
彼に近づいているのです。

良かった、煩わしいのが下りてくれる。」と思っていたら、

バスの運転手が下りようとしているお母さんに聞いたそうです。
「その赤ちゃんはどうされたのですか?」
「熱があって泣いているのです。」
「でも大学病院はバス停が3つ先ですよ。」
「この子が大泣きして迷惑をかけているので、ここから病院まで
  歩いて行こうと思うのです。」
こんな会話がすぐそばの彼に聞こえてきたそうです。

 するとバスの運転手は、やおらマイクで乗客に語りかけました。
「この赤ちゃんは熱があるそうです。あと3つのバス停で病院です。
  それまで我慢していただけませんか?」と。
その後バス内は大拍手が起こったそうです。
お母さんは泣きながら乗客達に有難うとお礼をしたそうです。
その時サラリーマンは思ったそうです、
「自分は最高のバスに乗った。」と。


 この運転手の言葉の働きが仏法です。
視点が変わると世界が変わるのです。
仏法の視点を持つ時、今までとはまったく異なる世界が広がります。
閉塞した世界が広い世界に転じられるのです。

 みなさんも通信教育で仏教を学びませんか。
家事やお仕事をされながらでも学ぶことができます。
まず、いつでもどこでも短時間で仏教・真宗が学べるようにと、
スマホやタブレットで学習できる入門課程を用意しています。・・・・と


 損得勝ち負けだけの価値観で生きていますが、
仏教の教え、お念仏の教えに出会うと、違った世界が見えてくるものです。
お聴聞 お聴聞といいますが、新たな価値観を知らされていくのです。
それがお念仏の教えです。











第1628回 仏さまは 忘れずに

 令和6年 4月11日~

 こんな話を聞きました。
浄土真宗には 有り難い学者さんが沢山いらっしゃいますが、
昭和の初期に 広島に是山恵覚 (これやま えかく) という
和上 (わじょう) さまがおられました。

 たくさんの書物を残されており、また、たくさんのお弟子さんを
お育てになった有り難い方です。

 しかし、晩年には残念ながら認知症になられ、毎朝お勤めして
おられた正信偈でさえも、最初の「帰命無量寿如来……」は
出てくるものの、次の二句目が、どうしても出てこないことも
ありました。

一緒にお勤めをしておられた坊守さんは、
「昔は、難しいことばでも、みんな暗記し、すらすらと書かれて
いたのに、いまでは、お正信偈も出てこなくなって……」と、
悲しそうにつぶやかれました。

 それを聞いた和上さまは、
「私が忘れても、仏さまが忘れてくださらんけえ、大丈夫じゃのう」
坊守さまに向かって、「私はあんたの顔も忘れていくじゃろうし、
この口から、なまんだぶつのお念仏も、出てこなくなってしまうかもしれん。
それでも、大丈夫。大丈夫。


私は何もかも忘れても、私を忘れてくださらん仏さまが、いまここに
いらっしゃるじゃないか。なまんだぶつの仏さまが、いまここに
おられるから、何の心配もいらん、私のお浄土参りに、何の問題もない」と。


 いのちの長い短い、死に方の良し悪しも一切問題ない、
あなたの生き方に、何の要求もされない。あなたの身の振る舞いに、
何の注文もつけない。今後あなたがどのような生き方になっても、
どのようないのちの終わり方になっても、決して見捨てたりはしない。

 いまこの私のいのちと、ご一緒に、歩みを運んでくださるお方が
阿弥陀さまという仏さま。何があっても、お浄土に一歩一歩、
一緒に足をお運びくださる、仏さまです。

苦難の多い人生ですが、南無阿弥陀仏の仏さまとご一緒に、
生き抜いていける道が、ちゃんと整えてあると味あわさせていただきます。









第1627回 体の中では 変化が

 令和6年 4月4日~

 こんな話を聞きました。
誰かに親切にしたことを、思い出せますか ? 」と
質問すると、多くの人が なかなか思い出せないものです。

ところが、親切をしているという自覚がないまま、
人とすれ違う時に道を譲ったり、道に迷っている人を案内したり、
氣づけば普通にしているものです。

『親切は 脳に効く』(デイビット・ハミルトン著、サンマーク出版刊、
2018530日初版発行)という本があり、そこには
親切な行為を、科学的に検証してみると、本人にも他人にも社会にも
プラスの副作用を もたらすと書かれています。

 気遣いや親切は、日本人には当たり前の話で、先祖代々受け継がれ、
遺伝子に組み込まれたもののひとつでしょうが、親切な行いが
気持ちがいいのは 脳内ホルモンのオキシトシンが、増量され
炎症を抑える作用や、心臓を強くし、血圧を下げ、老化を遅らせ、
うつ症状を治すなど、大きなはたらきがあるからだといいます。

 あの人は、とても若く見えるとか、どうも老けて見えるなど、
その人の見た目の印象も、親切や・やさしさに包まれた生活を
しているのか、そうでないかで、違ってくるのでしょう。

 日頃、親切にすることが出来る人は、自分に対しての親切や、
思いやりにも、敏感に気づくことが出来、感謝の気持ちを
持てるものです。
ありがとうと思う時、脳内では、幸せホルモンのセロトニン、
集中力・意欲アップや幸福物質とも呼ばれるドーパミン、
絆ホルモンと呼ばれるオキシトシン、免疫アップなど脳内麻薬とも
言われるエンドロフィン等が分泌されると言われています

 南無阿弥陀仏のお念仏は、私のことをいつでも、どこでも、
思っていてくださる方があることに、気づかされ、感謝することばです。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と聞えてくると、数々の思いやりや、
親切に気づかされ、いつも見守ら、励まされていることを実感し、
感謝の気持ちが起こるとき、私の体の中では、大きな変化が起こって
いるのです。

 お聴聞をして、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を口にする生活は、
ここちよく、ありがとうございますと、よろこびを感じられるのは、
こうした体の中の変化が起こっているからなのでしょう。










第1626回 これさえ残せば

 令和6年 3月28日~

 墓地の草を取っていると、高齢の男性がお参りになりました。
今日は 父親の命日で お参りにきましたと、50回忌もとうに終わり
80年前になくなった父親です。

 その方がおっしゃるには、日にちと時間を知らせる目覚まし時計で
起こされたのですが、今日が父親の命日であり、また外孫の
一人の誕生日であることに気づきました。

ご院主さんに教えていただいて、今ユーチューブで、ご本山の
ご晨朝に、毎日あわせていただいていますが、お勤めの後、御文章を
聞きながら思いました。とお話しくださいました。

 一年365日ですから、確率は365分の一でしょうが、たまたま
孫が私の父親の命日に生まれています。父から見ればひ孫にあたるのですが、
その孫が、これからの長い人生、どうか喜び多い豊かな人生を送って
くれるようにと願うものの、遠くに住む孫に対して、経済的に
援助してやれるだけの財力もなく、何かしてやりたいものの、
どうしてやることもできません。

 そう思っていると、私が子どもや孫を思うように、私の父親や
祖父母も同じように私のことを思っていてくれているのだろうなあと、
思い当たりました。

ご本山の、御文章の拝読を聞きながら、これこそが、親たちが
私に当てた手紙であり、そして、私が子どもや孫に伝えたい内容であることに
気づきました。

お念仏の教えにさえ出会ってくれれば、老病死、いかなる苦しみの時も、
きっと力強く生き抜いてくれるに違いない、これさえ残しておけば
間違いないと思いあたりました。

そこで、孫や子どもが、間違いなくお念仏に出会うことができるように、
はたらきかけてほしい、ご縁をつくってほしいと、お墓参りにきたのです。と。










第1625回 みんな違ってみんないい

 令和6年 3月21日~

こんな話を聞きました。
日曜学校の子どもたちに、
赤い丸いものをイメージしてくださいというと、
それぞれに違ったものを教えてくれます。

真っ赤なリンゴ、トマト、イチゴ、太陽、信号機、日の丸の旗、など
いろいろなものをイメージして発表してくれます。
同じ、ことばでもそれぞれに違って受け取るものであることを
教えてくれます。

私たちは自分と同じことをみんな思っていると、ついつい思いがちですが
そうではなく、みんなそれぞれに違った受け止めをしていることが
分かります。

いくら説明しても、あの人はどうして分かってくれないのかと、
悩みをもつものですが、それぞれに個性があり
自分とは同じではないことを、理解しておきたいものです。

そういう自分自身でも、時とところと、時代が変われば同じ言葉でも
まるで違ったものを想い浮かべています。
子どもの頃から、正しい答えは一つと、思い込んで成長してきましたが、
大人になってみると、答えは沢山あるものです。

 お経には、青い花は青く輝き、黄色の花は黄色く、赤い花は赤く、
白い花は白く、それぞれに、すばらしく美しく、その香りは気高く
清らかであるとお浄土のことが説かれています。


それぞれの花がいのちをもっていて、自らの色そのままで輝いて
咲くことが尊いことであると語られています。


花の色は、人間の個性をあらわしており、この世の中に
たった一つしかないかけがえのない尊いものです。

他と比べて優劣がつけられるものではありません。

私が私に生まれたということ、そのことが尊く思え、
そして一人ひとりが今、輝いている。
みんな違ってみんないい、そう味わえる人生を
送らせていただきたいものです。










第1624回 いつも 私を

 令和6年 3月14日~

 知り合いのお嬢さんの結婚披露宴に出席しました。
新郎新婦の紹介が、写真を大きく映しながらありましたが、
新婦さんが、こんな風に話してくれました。

アルバムを開き、多くの写真を見ながら、
どの写真を使おうかと、選び出していたとき、気づいたことがあります。

 赤ちゃんの時から、幼稚園、小学校といろいろの行事、
そして、遊園地や海水浴、旅行と家族揃って写った沢山の写真に
兄弟や母親は、写っているのに、父親の姿が、一つもないのです。

 知らない人が見れば、父親の居ない家族と思われるでしょうが、
車を運転して、いつも連れていってくれたのは、お父さんでした。
そのお父さんが、どこにも写っていない。
それは、いつも父さんが写真を撮ってくれていたからです。

 そう思って、写真を選んでいると、どの写真も、
ただの記念写真ではなく、お父さんのまなざしの記録であるということに
思いあたりました。

 当たり前になっていましたが、
いつもあたたかいまなざしの中に、生かされていたことに
写真を選びながら、はじめて気づきましたと
父親への思いとお礼のことばがありました。。

 これを聞きながら、
私の周りの多くの人々も、阿弥陀さまも、
どの写真にも写っていませんが、いつも私を見守り、励まして

くださっているのに、気づいていない私がいることに。

 私が気づかなくても、いつも見守って応援し、サポートして
くださっているのに、気づかなければ、何でもないことですが、
気づくと、本当に有り難いことだと、感じさせていただきました。

当たり前で終わらずに、多くの思い、はたらきかけに、
気づくか気づかないかで、私の人生は 大きく違ってくることを。











第1623回 はたらき続ける

 令和6年 3月7日~

 先日 お寺の年忌法要をお勤めしました。そこで、こんな
挨拶をしました。

 西蓮寺さま 光明寺さま そして、ご参列くださいました
みなさまのお陰で 前住職の25回忌 前坊守の7回忌法要を 
おつとめすることができました。誠にありがとうございました。

 次の 33回忌は 8年後、 13回忌までは 6年もありますので、
これは、若い方に、よろしくお願いしたいと思います。

 若いといえば、今 若い人の将来の人気の仕事は、ユーチューバー
だそうですが、このひと月 私も ユーチューバーをやっておりまして、
ユーチューブに画像をアップしておりました。

 内容は、電話で法話をしておりますものを、動画にしたもので、
親鸞聖人のまとめていただきました、『教行信証』によれば、
お釈迦様が説きたかった、仏さまのはたらきは

お浄土へ往生させる 往相と、 仏となったら、この私たちを導く
還相のはたらきがあるということだとあります。

 どんなはたらきか、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と耳に聞こえる
仏さまとなってはたらきかけておられるとあります。
ですから、今日、ずうーうと、はたらきかけ続けていただいていた、
そうした内容を 四、五分でアップしたものを、30本ほど、
現代語訳のお聖教と合わせて120本ほど、アップしております。
 一日、300回ほどアクセスはありそうです。

 

 これは、1000人の登録があれば、コマーシャル料の一部を
いただけるそうで、それを期待していますが、現在 521人の段階です。
どうぞ、ご協力くださればありたたいことです。

 本日は お忙しい中、みなさま誠にありがとうございました。
孫、ひ孫、ヒイヒイ孫も、参列しておりますので、
仏さまに成られた お二方も喜んでいただいていると思います。

別室で、おときを準備いたしておりますので、そちらへどうぞ、










第1622回 諦めず呼び続ける

 令和6年 2月29日~

 大阪に行信教校という 浄土真宗の専門学校がありますが、
その卒業生の方が 在学中の校長先生のご法話を思い出して
こんな話をされました。

 まだ携帯電話が珍しい頃のこと、新しいもの好きのこの先生は
早速購入されたそうです。しかし、携帯電話の電源はいつも
切ったままだったと言います。
それは、どこからか電話があるのが、イヤで、自分の方から電話を
するとき以外は、電源を入れることはなかったといいます。

 ある日、先生が 外出中に、お寺に急ぎの電話があり、
坊守さんは住職さんに、連絡をとりたいものの、いくら電話をかけても
つながらない。
それでも、諦めないで、繰り返し繰り返し、電話をされ、いつか電源が
入るときに、気づいてもらえるように、かけ続けられたそうです。

 そして、ついに、重要な急ぎの連絡がとれたことがあったといいます。
そのことを、校長先生は、ご法話で、有り難いことだと気づいたと。
阿弥陀さまも、こっちが電源を入れていなくても、気づかなくても、
絶えず、呼び続けていただいている、いつか気づいてくれるだろうと、
諦めず呼び続けていただいているということに、
携帯電話を通して、阿弥陀さまの有り難さを 改めて
味わわせていただいたとのお話だったといいます。

 「心配いらない必ず救う お浄土に生まれさせ 仏にするぞ」との
はたらきかけに気づかずにいるのが 私たちなのでしょう。
それでも、あきらめることなく南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と
呼び続けていただいている。

いつかは気づいてくれることを願いながら、そして、先だった父、母、
祖父母は、阿弥陀さまと一緒になって、一日でも早く気づいてくれ、
気づいてくれと呼び続けていただいている。、

 そして、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏の呼びかけに気づくことが出来れば、
平凡なつまらない、当たり前の人生ではなくなりますよ。
仏さまになるこの身であることに気づかされ、人生の受け取り方が、
生き方が違ってくるものですよと、
はたらきかけ続けておられるのです。
私のことを、諦めず呼びつつけていただいているのです。

自分だけのいのちではなく、仏さまになる尊いいのちを今
生かされているのですと。











第1621回 ける かるのご法話

 令和6年 2月22日~

こんな 話を聞きました。
「ける・かる」という お話です。

 ある法座で、連続してご法話があり、最後のご講師の
時間が無くなってしまいました。
そこで、ご住職さんは、大変申し訳無さそうに、
終わりの時間も迫っていますので、ご法義を短く、一言で
お願い出来ませんでしょうか、お頼みしますと。

 その先生は分かりましたと、うなずき登壇されました、そして、
ご門徒を一通りご覧になり、
「ける、かる」とおっしゃって、「肝要は ご文章で」と、
ご文章を拝読され、降壇されてしまいました。

 一瞬の出来事に、ご門徒は唖然とするばかり、
驚いたご住職さんが、あわてて講師控室に伺って
誠に申し訳ありませんでした。ご無理を申して、でも
どうゆう意味なのでしょうか。「ける・かる」とは、恐縮しながら
お尋ねしました。

「一言でとのことでしたから、一言で話したまでのことですよ」と、
ご住職は、どういうことでしょうか。と
ご講師は、「ける」とは、阿弥陀様のお喚び声、はたらきです。
それは、私の行為や努力に関係無く、必ず救ってくださる。
阿弥陀様は、助けるの仏さま、つまり、【助(ける)】の、けるです。

 そして、「かる」とは、私の側の話です。
その阿弥陀様のお救いに私たちの疑いや、はからいを、持つ余地もなく
南無阿弥陀仏で、私は、ただ助かるのです。
つまり、私の方は【助(かる)】、ただ助かる(救われる)だけ。
ですから、かるです。

阿弥陀様は、私を助けるのける、
私の方は、 助かる、かるです。
そこで、「ける、かる」と一言お話いたしましたと。

これ以上短い法話はないでしょう、これこそが浄土真宗の神髄です。

「ける、かる」に込められた阿弥陀様のお心、すべての人を救うという
阿弥陀さまのはたらきのお話です。









第1620回 赤ちゃんに聞く

 令和6年 2月15日~

 西本願寺のお晨朝のご法話で、こんな話に出会いました。

ある布教使さんが、布教のため海外に出かけられた時のこと、
ご法話の後に、質問の時間があったそうです。
そこで、ある若いご婦人が、「お任せする、阿弥陀さまに任せる」
ということは、どうゆう事ですかとの質問があったと言うことです。

 外国の人に、どのように説明すれば理解していただけるか、
一瞬迷ったものの、質問した方が赤ちゃんを抱いているのに気づき、
「その答えは、抱っこしているあなたの赤ちゃんに聞いてみてください」と
答えられたということです。

 赤ちゃんは、母親を信じ切って、すべてを任せて安心して抱かれています。
お腹がすいたら泣けば、間違いなくおっぱいがもらえます。
何の疑いもなく母親に任せきりで生活しています。
同じように 私たちも、阿弥陀さまにおまかせして生活するのが、
浄土真宗の教えとの味わいでしょう。

 ところで、思い出すと、赤ちゃんも成長し、少し知恵がついてくると、
なかなかそうもいきません。
小さな子どもを、遊園地に連れて行ったとき、ジャングルジムにつかまり、
年上の子をまねて、どんどんと登っていき、一番高いところにまで登りきり。
振り向いて、親がいることを確認し、自慢げに一瞬笑顔をみせますが、
その高さに気づき、怖くなって、ついには泣き出してしまう子がいます。

「大丈夫、自分で登れたんだから、ゆっくり降りて来なさい」といっても、
怖がって、棒にしがみつき固まってしまいます。
親が、いくら呼んでも、泣くばかりで身動出来ずにいます。
親が上まで登っていき、体を支え、手を持って棒を持ち変えさせてあげると、
一つずつ、ゆっくりゆっくり、降りることが出来るものです。

 阿弥陀さまは 南無阿弥陀仏と私を呼び続けておられます。
心配要らない大丈夫、今やれることを精一杯やればそれでいい、
南無阿弥陀仏を口にして生活をしなさい。間違いなく救うから安心しなさいと。
怖くて立ち止まり、どうすることもできない時も、大丈夫 大丈夫と
呼びかけていただいています。

高いところに登って怖がっている子どものように、立ちすくみ心配して、
動くことが出来ない時でも、その声に励まされ、次へ進むことが出来るのです。


 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏の声は、大丈夫、大丈夫と
阿弥陀さまと一緒になって、父も母も、南無阿弥陀仏と
呼びかけてくれているのです。

貴方と同じように、悩み苦しみ 悲しみながら、母さん達も
生きた来たんだよ、大丈夫、南無阿弥陀仏で大丈夫だから、
心配せずに大丈夫だよと、呼び続けていただいているのです。











第1619回 遺伝に加えて

 令和 6年 2月8日~

  間違えて、うかつにも別のお宅にお参りする途中で気づき、
慌てて、本来のお宅に電話をして遅れて伺うことになりました。


  たまたま土曜日で 80歳代のご主人と 隣の住宅に住む 
50代の息子さんが一緒にお勤めをしてくださいました。


「会社の方はどうですか、若い方は なかなか大変でしょう」と
話しかけると、「今の若い人は よく分かりませんよ、
男までも 髪をそめるし、爪にまで色のついたマニキュアはしてくるし」
と、笑いながら答えられました。

「手は汚れる仕事ですか、手袋はするんでしょう。」
「油が付くので 手袋はしていますが、どうも理解出来ない」と。

 でも、考えると ライオンも鳥たちも メスより 雄の方が
立派で 目立つようですね。
動物は 本来 雄の方が 目立つように 選ばれるように頑張るものかも
しれませんね。と話しながら おもいました。

 動物たちは 本能 遺伝子で、生き抜く智慧を、次の世代に伝えて
いくでしょうが、人間はそれに加えて、言葉を使って 文字を使って、
より多くのことを伝達してきたのではないかと思いました。

 それが、現代は 表面的で利己的な動物的な本能は伝わっているかも
しれませんが、精神的なこころの有り様の伝承は はたして出来て
いるのだろうかと思えてきました。

 宗教というものは、特に 南無阿弥陀仏の教えは、人間が動物ではなく
人間として 生きがいを持ち よろこびを感じ、協調して生きていく
その力を 次の世代に伝えようとするものであり、それが、はたして
現代は うまくいっているのか。
だんだんと、動物的な本能をむき出しにした、価値観が中心になって
いっているのではないかと、思われます。

 すべての人が、人間として充実して喜び多く、生きていることが、
有り難く感じられる、そうした価値観が忘れられ 消えつつあるように
思えてなりません。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 先輩達が伝え残したかった、
人間の本当のよろこびを 感じ味わう力を受け継ぎたかったのだろうと
思います。
もっとも大事なものを 残し相続してほしいと。











第1618回  遠くて 近いのは

 令和6年 2月 1日~

 日頃 車でばかり移動していますが、忘年会や新年会
お酒を伴う会合では 自分の車で出かけるわけにはいきません。
研修会など、1時間以上かけて遠くから参加される方、
特にお酒の出る会合では 悩まれることだろうと思います。

 先日、久しぶりに、ひとり、てくてくと歩きながら、
一休さんと 蓮如上人の逸話を思い出しました。

浄土三部経の一つ 「仏説阿弥陀経」には、
「ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、
極楽と名づけられる世界がある。そこには阿弥陀仏と申しあげる
がおられて、今現に教えを説いておいでになる。」と

説かれています。

そこで、一休さんは
 極楽は十万億土と説くならば 足腰立たぬ婆は行けまじ と
読まれたと伝えられています。

 お念仏の教えは、阿弥陀さまのはたらきである他力というが、
お浄土までが、十万億の仏の国々を超えた世界であるのならば、
とても、老人ではたどりつくことができないではないか、との
皮肉がこめられた歌とも取れます。

それに対して 蓮如上人は
 極楽は十万億土と説くなれど 近道すれば南無のひと声

 一休さんは 修行してさとろうとする 聖道門の方ではありますが、
阿弥陀さまの他力のお念仏の教えに 好意的で 理解されていたのだと
思います。

そこで、庶民の疑問をうたでよみ、蓮如上人がどのように
答えてくれるのかを 楽しみに 問われたのでしょう。
お釈迦様の教えも お弟子さんの問いに答えて説かれたものが
ほとんどと言われます。

 仏教の教えは 問題意識 問いがなければ とても伝えることのできない
大きく深い教え、漠然と聞くのではなく、人生、毎日の生活の
老病死をはじめ、苦悩の中で 問いを持ってお聴聞すると
私のための教えであったと 納得いくものです。

 どんなに遠くにあろうとも、南無阿弥陀仏のお念仏一つで 仏の国に
生まれ、今度は 人々を救うはたらきに従事するのだよ、待ってるよと、
私の大切な人々が 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と 見守りながら
よび続けていただいているのです。











第1617回 梅は こぼれる 菊は 舞う

 令和6年 1月25日~

 早いもので 境内の紅梅、白梅ともに 開きはじめました。
日本語には 豊かな表現があり、梅の花は 丸く咲き ちょうど
涙のように見えるので 花が散ることを 涙がこぼれるようだと
梅の花は こぼれると言うのだそうです。

昔から〝桜散る こぼるる梅に 椿落つ 牡丹崩れて 舞うは菊なり“と
この他 朝顔は しぼむともいいます。
「しぼむ」、「落ちる」「くずれる」等、花びらの変化を表した
味わい深い表現です。

 では どうでしょうか、私たち人間の最後は……? と聞かれると 
私たちはついつい「死ぬ」と答えてしまいます。
また「人間死んだら終わり」ということも耳にします。
しかし、いのちの終え方は「死」や「終わり」だけではなく、
違った言葉があるものです。それは 「往く」という表現です。

 花の終わりも、言葉で雰囲気が違って聞こえるものですが、
私たちの終わりも、表現することばで、大きく違ってくるものです。
「往く」の元になっている言葉は、「往生」です。

 私たちのお仏壇のご本尊、阿弥陀如来が、私たちの為に開かれた
救いの世界、お浄土に往き生まれることを「往生」と言います。
人間がいのち終えることを、「終わりだ」「死だ」と表現するのは
私たちの見方。

一方で、阿弥陀さまは「仏としてのいのちの始まりだ」
「生まれるんだ」と、私たちに呼びかけておられるのです。


  阿弥陀さまは、死で終わりではないよ、自分の国、
お浄土に往生させ、仏さまのいのちへと実を結ばせたいと

願いを発して、はたらき続けてくださっています。

  私たちは、美しく咲く花だけしか見ていませんが、花は 咲きほこり 
やがて枯れて、散ることで、実を結ぶことが出来るのです。

その果実が、次のいのちを生かしてゆく、重要なはたらきをするのです。

 仏さまへと実を結ぶと、今度は 慈しみをもって多くのいのちを包み、
育み、導いていくはたらきが出来るのです。
先立って仏さまと成られた方々の ご苦労で はたらきによって、
お念仏に 南無阿弥陀仏に 出会えたのが、この私なのです。

そう考えると、人間に生まれて、今 花をさかせていますが 
南無阿弥陀仏のお念仏で、やがてお浄土に往生して、仏に成る、
そして人間の時よりも、もっと大きな 重要な はたらきができる世界に
生まれるのです。


今、まだ助走中で これからが 本番、大事なはたらきが、
本来のはたらきができる日も近いのです。












第1616回 渋柿の渋

 令和6年 1月18日~

  渋柿の 渋がそのまま 甘味かな
という句があります。

 私どもの寺院の境内に 甘柿と渋柿の木があります。
青い間は甘柿も 渋くてとても、食べられませんが 赤く色づいてくると
渋味が取れて、食べることができるようになります。

一方、渋柿の方は 赤く色づいても渋がのこり、完全に熟してぶよぶよに
柔らかくなってしまうまで、渋みが残っています。

 色づいた渋柿をもぎ取り、皮をむいて 軒先に干していると だんだんと
甘みが出てきて、甘柿以上に甘みが強い 干し柿が出来上がります。
干し柿の渋がぬけるのには、太陽の光や冷たい風、夜露などの力
自分の力ではなく 大きな自然の力、はたらきによって 
変えられていくのです。


 ご和讚に

 罪障功徳の体となる  こほりとみづのごとくにて

 こほりおほきにみづおほし  さはりおほきに徳おほし

           (『高僧和讃』曇鸞讃 『註釈版聖典』585頁)

 氷が多ければ多いほど とければ水が多いように、渋が多い渋柿の方が、
甘柿にくらべて甘みが強くなるものです。
私たちも 悩み苦しみ悲しみ、怒り腹立ち煩悩が多い人ほど よろこび多い
人生へと転じられて、味わい深い人生に変えられていくことでしょう。

 仏さまのはたらきを 光であらわしますが、干し柿も 光や風のはたらきで
大きく変化させてもらうのです。
氷も 光や風 暖かさでとけてくるものです。
仏さまの大きなはたらきを 繰り返し聞かせていただき お念仏の生活を
はじめてみると、煩悩一杯の私が、渋一杯の柿が、少しづつ甘みが強くなる
うに、変化していくのが、味わえてくるものです。


 渋が甘みに変えられていくように、煩悩が喜びに変えられていくこの教えを 
素直に受け取って 悩み苦しみ悲しみから 転じられ、有り難い充実した
人生を 南無阿弥陀仏とともに 送らせていただきたいものです。











第1615回 ただ念仏して

 令和6年 1月11日~

 これまで 私どものお寺での ご正忌報恩講では
御絵伝を写真にとって プロジェクターで投影しながら
親鸞聖人のご苦労を、四幅の絵像を、二日間にわけて 
解説していました。


 今年は、本願寺派の総合研究所で作成された 「はじめての歎異抄講座」
を、アレンジしてのご正忌報恩講にしたいと 今 準備しています。

歎異抄の魅力についての項目や 歎異抄の概要と構成などの説明につづき
歎異抄誕生の背景 親鸞聖人のご生涯から という項目があり、その中に、
比叡山で厳しい修行をし、煩悩を無くして、さとりを開こうと
親鸞聖人は、20年間、努力されてきたものの、どうしても煩悩を
無くすことが出来ず、悩まれていました。

 そして、得度した青蓮院の近く、吉水の法然聖人の元を訪ねられると、
そこでは、比叡山とはまったく違って
「阿弥陀仏の救いの前では、煩悩は邪魔にはなりません。
  阿弥陀仏は どんな人もわけへだてなく、お救いくださるのです。」と
そして、命懸けの厳しい修行するのが仏教の常識であるのに、
「ただ念仏して阿弥陀仏に救われ往生させていただくのですぞ」との
ことばに 非常に驚かれたことでしょう。

 そこには、比叡山とはちがって、僧侶ばかりではなく、
商売をする普通の街の人たち、女性も その話を聞いて、
よろこびお念仏をしている人たちがいたのです。

 仏さまは すべての人を救おうとされる、すべての人を
救うには、誰でもできる方法、それはこれしかないと、お念仏に
生きる道を選ばれたのです。

 自分の力で さとりを開くのが仏教ということを信じて、
励んでこられたのに、人間の力を頼っては、すべての人が
すくわれることはなく、
仏さまのはたらきによらねば、お念仏でなければと
確信されたのです。

 阿弥陀さまは 信じさせ お念仏させて お浄土に往生させたいと
はたらき続けておられることを、親鸞聖人は、かずかずの書き物を残し、
私たちに 教えていただいているのです。










第1614回 生かされている不思議

 令和6年 1月4日~

 こんな話を聞きました。
築地本願寺の朝の法話で ある布教使さんが
お話しいただきました。

あるお寺にうかがった時 有り難い尊い方とお会いしました。
それは、ご年配の方ではなく、20歳の青年でした。
ご法座が始まるまでの 短い時間でしたが、
その青年は 自分が生まれたときのことを話してくださいました。

 わずか八百グラムの未熟児として誕生したのだそうです。
そして、すぐに集中治療室に入れられ、無事成長出来るかどうかわからない
退院出来ても、何歳まで 生きておれるか分からないと、
両親には告げられたということです。

 その私が 20歳を迎えることができたのです。
これは みなさんのご苦労、多くのご縁のお陰です。ですから、
私は、みなさんへご恩をお返していくことが、勤めだと感じています。
こう青年は 話してくれたそうです。

 生きていることが当たり前で 感動もない人生をおくって
いますが、その青年の言葉に、今日まで両親をはじめ 
自分の知らない多くの人々のお陰で 今 生かされているということに、
改めて気づかせていただきました。

 そして、その青年は そのご恩返しをするのに 
自分が出来ることは何かというと、
お聴聞することだと思っていますと言わて
また驚ろかさせられたといいます。

 ご恩返しに何が出来るのか それはお聴聞することだと思と
その20歳の青年は いうのです。
仏さまのお話を聞かせていただくことが、ご恩返しであると。

 言われてみると、お聴聞することで、気づかないでいる
多くのご恩に気づかせていただく、そうすることで
自分がやるべきことが見えてくるのは確かだなあと感じました。

 南無阿弥陀仏のお念仏を聞く度に 私に はたらきかけていただく
数々の力に 気づかせいただくことで、この人生は もっともっと
有り難く 素晴らしいものであることに気づくことが出来、
平凡な人生ではなく、当たり前の人生ではなく なんと多くの願いに
包まれて これまで生かされてきたのかを
改めて 味わわせていたくことが出来るのです。










第1613回 卒業式 入学式

 令和5年 12月28日~

 こんな話をききました。
お通夜は 人生の卒業式、お葬式はお浄土の入学式。
という お話です。

 年末の忘年会の帰り ある人は 今年も もう終わりかーあ
この一年早かったなーと 言う人
まもなく新年か 準備をはじめるかあという人もあり様々です。

春が来て 卒業式。
友だちと別れるのが悲しいと 感傷的になる人があります。
これから、中学校や 高校 大学 あるいは就職と 
新たな世界へ旅立っていくのだと、新たな未来を思う人もあります。

 これと、同じように、この世で いのちが つきてお別れするのも、
これですべてが終わってしまったのではなく、阿弥陀さまの国
お浄土への旅立ちをするのだと、思える人もあります。
お浄土へ生まれたら、自己中心の私でも、他の人のために頑張るのが
よろこびの利他的な仏さまのはたらきが出来ると喜ぶ人もあります。

 死ぬんじゃないよ、生まれていくのだと。
仏さまの国(浄土)に生まれる、いのちの故郷に、
父母がまっていてくれる世界に往くのです。
往き生まれるのです。

 生まれるのですから、めでたいことです。
現在でも滋賀や福井のある地域では、お通夜に赤飯を炊くところが
あるそうです。
お通夜は亡き人の死を悼み、ご苦労さまでしたと、
そのご苦労をたたえていく人生の卒業式。
そして、お葬式はお浄土の入学式だというのです。

 死んで終わる人生は 寂しいものです。
人生の行き先がはっきりしなければ、いのちの行き先が

見えなければ不安でしかたがありません、真っ暗闇です。
それでは、寂しく虚しく死んでいくしかありません。

 念仏者は光の国であるお浄土に生まれるのですから
安心して命終えていけるのです。
懐かしい人と再会出来る、倶会一処のお浄土に
生まれていくのですから、先に往き生まれた方々と
また会うことができるのです。

 「待ってたよ」「ご苦労さん」「お帰り」と迎えてもらえる、
いのちの故郷に生まれていくのです。
そう味わうと、歳をとることも喜びとなってくるものです。
明るい未来が 開けてくる、
期待され待たれている私であることを 感じ取れるのです。









第1612回 育ち盛り ~いつも私を~

 令和5年 12月21日~

 2歳になる外孫が 時々訪ねてきます。
先月 妹が誕生して 誰もが 自分の方を見ていたのが
今は、赤ちゃんの方へも みんなの目が向かっていきます。
母親が赤ちゃんのお世話をするのを、横目でみながら、
ちょっと淋しそうです。


 母親を独占して遊んでいるとき、赤ちゃんが泣きだすと 
慌てて 赤ちゃんのお世話に向かう母親に あまえて 
「抱っこ抱っこ」と だだをこねています。

自分の方を向いてほしい 赤ちゃんよりも自分を大事にしてほしいと
ぐずり出します。

 夕方 父親が仕事から帰ってくると、その父親を独占して とても
嬉しそうです。自分だけを抱いて、食事の世話をして、遊んでくれる父親が
一緒なのがとても嬉しく、満足そうに見えます。

 これを見ながら 大人になっても 自分のことを一番大事にし、
自分をいつも見守ってくれる人がそばにいると、とても安心なの
だろうと思います。

 高齢の方で、歳をとると いろんなものを失っていきますが
歳を取ることによって、はじめて気づく、目覚めることも
あるのですね。とおっしゃる方がありました。

 仏教を聞くことで、お聴聞することで、仏さまにお育ていただいて、
70歳で気づくこと、80歳でわかることもあるもので、
自分は 今、子どもの時のように、精神的には
ずうーと 育ち盛りだと感じています。
年を重ねることが、今は喜びとなってきましたと。

 南無阿弥陀仏を聞くと ひとりぼっちではなく、 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏の阿弥陀さまは、 先だった親たちと一緒になって
いつも一緒だよ、ここにいるよ、
南无阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と呼びかけてくださっている。

 姿は見えませんが、触ることはできませんが、ここにいるよ
かあさんはここだよと、子どものころに聞いた声を思い出しています。
運動会のときの 応援の声のように、暗闇で怖いとき
大丈夫だよと、声をかけてもらった時のように、
いつも 私を見守っていて 一緒に居てくださるように思えています。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏は 私を呼び、応援してくださる
言葉です。

 一人で淋しいとき 困ったことがあったとき 嬉しいことがあったとき
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏が聞こえると もう一人ではなく
いつも私を見守ってくださっている方が 一緒であるように 
思っていますと。

お話下さった方がありました。








第1611回 何がしあわせ

 令和 5年  12月14日~

 あるお寺の掲示板に

 何のために生まれて  何をして 生きるのか
   答えられないなんて    そんなのは 嫌だ! 

と 書かれていました。


 これは 仏教のことばのようにも聞こえますが
もう何十年も前から 子どもたちに 人気のマンガ
アンパンマンの挿入歌の一つ

「アンパンマンのマーチ」一節です。

 その歌の出だしは
 そうだ うれしいんだ  生きるよろこび
 たとえ 胸の傷がいたんでも  とあります。

 人生は それぞれの受け取り方で大きく違ってくるものです。
何が しあわせで 何が よろこびか 
探し求める 一生を みんな送っているのでしょうが、
それが分からずにいる人が 現代は 多いのではないでしょうか。

先輩たちは それを 宗教で確認していたのでしょうが
本物の宗教を知らない人が多い 現代の人々は 
一生わからないまま 終わっているのではないでしょうか。

「終活」という言葉が、よく聞かれます。
「子どもに迷惑を かけないように」と、自分の世代で
すべてを解決して終わらせておこうということでしょうが、
一番大事なことは 子どもたちに しあわせとは何かを 
確認する方法を しっかりと残え残しておくことでは

ないでしょうか。

 いろいろの宗教がありますが、自分の親たちが口にした
南無阿弥陀仏の教えを 子どもたちに、伝え残すことが
父や母、そして祖父母や 多くの先輩が最も喜んでくださる
ことではないでしょうか。

 お念仏の人は 死んで終わりではなく お浄土へ生まれ
仏となって この私をずうつと導いてくださっているのです。
それに気づかずにいる私ですが、お聴聞をすると、
仏さまのお話を聞くと、そのことを
繰り返し 繰り返し 教えてくださいます。

 それは 先輩たちの呼びかけ、阿弥陀さまと一緒になって
私が進むべき方向を、目標を 生きる目的を知らせていただいて
いるのです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を口にし、耳に聞くことで
何のために生まれ 何が幸せかを はっきりと確認し
生きるよろこびを ほんとうのしあわせを 知ることが出来るのです。










第1610回 自分が居なくても

 令和 5年 12月7日~

 60年前 希望を持って会社に入り、3ヶ月ほど新人研修を受けました。
現場から来て講義してくれる先輩、研修所の教授として、系統だって
専門教育をしてくれる先生、それぞれの経験を精一杯伝えてくれました。

 そんな中で、こんな話をした方があります。
「君たちは 自分が居なくてもちゃんと動く組織を作りなさい。
 何でも自分でやっていると、そこに塩づけになって
 出世できないぞ」

 チームにとって、無くてはならない有能な
社員になろうと思っているのに
どうゆう意味だろうかと、疑問に思ったものです。

 創造的な能力を発揮するチームは
知識も技能も経験も優れた者が責任者となりますが、
やがて、その技能を超える力を持つ者が現れてきます。
その時に、自分の立場を護ろうとする責任者は
折角育ったその後輩を評価せずに、はじき出してしまうものです。

 一方、自分と同じ能力を持つものが育ってきたら
自分がそのチームを譲り、次のチームを作るために
離れていけば、実行力のある素晴らしいチームが
もう一つ新たに出来てくるものです。

 人間は自分の立場に固執したいものですが、
そこに安住せずに次を目指せ、それが組織全体を強くする
そう言いたかったのではないかと、今思います。

 いつも自分が中心で、周りをリードするのは 
心地良いものですが、そこに安住せず、次を目指して
新たな挑戦をしてほしいとの願いだったのでしょう。

 お寺には、住職や女房役の坊守さんがいますが、
次の世代が育ってきたとき、どう引き継いでいくのか
前任者は完全に手を引くのではなく、今まで出来なかった
個々のご門徒との接触を密にするなど、新たな仕事を開発して
いくように努力することが大事ではないか。

 考えると 阿弥陀さまは、すべての人を救うには、
自分と同じ能力を持つ仏をつぎつぎと新たに作り、
一緒になって人々を、救うはたらきを続けようとされている。
そう考えると、私の出来ることは、まだまだあるはず、
救われていない人が沢山いるのです。阿弥陀さまの仕事は 
そして、それを助ける諸仏の仕事は、完結することなく
永遠に続くのです。











第1609回 里帰り 「あら お帰り」

 令和 5年 11月30日~

 西本願寺の朝のおつとめ、ご晨朝をユーチューブで拝見し、
こんなご法話を聞きました。

 あるお寺の掲示板に こんな言葉がありました。
「里に帰れば 親がいるのではない 親が居るところが 里である。」
 里とは ふるさとのことで、親というのは、両親はじめ 
  お世話になった なつかしい方々のことでしょう。

 父親が亡くなって、実家には 母親が一人で 住んでいました。
その母が、ひと月ほど入院したことがありました。
その時、実家に帰り、ゴミ出しや掃除をしていて、母のいない実家は
いつもと違って、とても淋しく感じたものです。

 コロナ感染症の流行する以前のことで 病院は自由に見舞える時でした。
病室を訪ねると
「ごめんね、忙しいのに、こめんね ごめんね」と、何度も口にしながら
迎えてくれました。

 何度か病院を見舞ったある日のこと、母親は穏やかな顔をしていましたが
私の顔を見るなり「あら、お帰り」と声をかけて、笑いながら、
「ここは 病院やったね、おかしかね」と。
「こめんね」の言葉より、「お帰り」の言葉に、こころ和みました。

 私は、顔を会わした時だけしか、母のことを思っていませんが、
母の方は いつも私のことを思っていてくれていて、
帰ると、「お帰り」と おやつを出してくれたことを思い出しました。

 この母親とおなじように、阿弥陀さまは
私が忘れていても、いつも私のことを心配し、思って
くださっているのだといいます。

 母を亡くした今、「お帰り」と迎えてくれるのは、
故郷ではなく、お浄土にいる親たちでしょう。
こちらが忘れていても、私のことを思い、そして、お帰りと
迎えてくれる 母が、父が 祖父母が 待ってくれている
お浄土があることを 有り難く感じています。

「里に帰れば親がいるのではない、親がいるところが里である」

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏とお念仏するとき、
阿弥陀さまは そして、お浄土の親たちは いっしょに 
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と呼びかけ
私が元気に活き活きと生活していることを、よろこんで
お浄土で、待っていてくれることでしょう。










第1608回 プレゼンの原語は

 令和5年 11月23日~

 こんな話をききました。

現在は プレゼンテーション、プレゼンの時代。
相手に正確に情報を伝え、商品を買ってもらったり、
仕事の発注を受けたり、受取り手が、何らかの行動を
起こしてもらえるように、働かけすることが
重要とされています。

 プレゼンテーションの語源は英語の「present(プレゼント)」で、
動詞としては、「提示する」「示す」「進呈する」という意味を持ち、
相手に渡して 喜んでもらうもの、相手が幸せになるものを
送ること、伝える言葉であるといいます。

 プレゼントは 相手が 欲しかったもの、期待していたもの、
予想もしなかったもので 頂いて喜んでくれるものでないと、
意味がありません。
ですから、プレゼンは、受取り手、聞き手の立場に立って、
分かりやすく伝えることが重要となるのです。

 「聞き手の要望をしっかりと認識し、伝えたい内容を
分かりやすく説明する」
「聞き手に自分が望む意思決定を行ってもらうためにも、
 それに見合った明確な提案」をするなど配慮が必要です。

 浄土真宗のご法話も 一つのプレゼンテーションでしょうが、
はたして聞く相手が喜ぶもの、期待しているものに
なっているでしょうか。

 阿弥陀如来さまは、私たち全員に、もれなく プレゼントを
贈っていただいているのです。
それは、ものではなく、南無阿弥陀仏という言葉で、是非
聞いてほしいと、はたらき続けてくださっているのです。

 私たちすべてのものを必ず救う、お念仏を口にして、
お浄土へ生まれさせ、仏にしたいと、呼びかけ、はたらきかけて
いただいているのです。

 そのことを、みんなにわかるように、お取り次ぎ
しているのが、ご法話です。

お話を聞いている人が、自分の為の贈り物であり、
自分が目当てであり 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏で、
間違いなく 親も祖父母も行っている、お浄土へ生まれることが
出来ると、喜べるようにとお話しているのです。

 聞いていてくださる方に、それが届くように、言葉のプレゼント
お浄土への招待状を配達し、南無阿弥陀仏のお念仏を
お渡しているのが、浄土真宗の
ご法話です。







第1607回 逃げ回る 落ち葉

 令和5年 11月16日~

 門前の駐車場をアスファルトで舗装し、大型の量販店のように
車と車の間に、U字の二重の白線を引いていただきました。
身近なコンビニのように、たびたび、いつでも、お寺にお参して
いただけるように、高齢者でも、駐車しやすいようにと、
車の間隔も、少し広めにとってもらいました。

 これまでの砂地の駐車場ですと、松葉箒で落ち葉も簡単に
集められましたが、真っ黒のアスファルトは、落ち葉やゴミが目立ち、
追われるようにたびたびお掃除をしています。


 雨の後、紅葉した葉っぱが一面に広がり、小さなホウキで
掃除をしている時、風に吹かれて逃げ回る落ち葉や、
地面に張り付いて、なかなか動こうとしない、
しぶとい濡れ落ち葉などを、掃き集めながら思いました。

 わずか10数台の駐車場でもこんなに苦労しているのに、
阿弥陀さまは、ありとあらゆる人々を、一人残さず救いとると
はたらき続けておられるのに、私たちは、逃げ回り、
そっぽを向いて、従わないものばかり、とても大変だろうなあと、
味わいました。

 阿弥陀さまだけではなく、私の父母、祖父母、曾祖父母、みんな
そろって南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と、呼びかけて
いただいているだろうに、忙しい忙しいと聞く耳を持たず、
素知らぬふりをして、逃げ回っていることで、大変、
ご苦労が多いことだろうとつくづく感じます。

 今度は、私が仏になって、子どもや孫、多くの人々へ
はたらきかける立場になるということですが、
濡れ落ち葉のように、地面に張り付いてなかなか動かぬものや、
ひらひらと風にあおられて逃げ回る、木の葉のように、
それでも、一つ残さず、一人残さず、救わねばおかぬと
はたらきかけることを、遊ぶように、生きがいをもって
はたらきかける、そんな仏さまにしていただくと思と、
今、ご苦労をかけていることに、申し訳なく
感じています。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 風に吹かれて逃げ回る
落ち葉のように、どうしようもないこの私を、間違いなくお浄土へ
生まれさせて、仏さまにするというはたらきを味わい 
有り難く喜ばせていただきたいものです。









第1606回 まだ 間に合う

 令和5年 11月 9日~

 こんな話を聞きました。
腰が曲がった高齢の住職が、導師を勤められた葬儀でのこと。
朗々としたお勤めの後、振り返り 持っている中啓で、
喪主のご長男さんを指して

「お前さん お前さんは 親孝行したかい」と
 おっしゃったといいます。

東京に住む長男は、なかなか郷里へは帰れず、今回も
お父さんが亡くなったとの知らせを受け、慌てて
帰ってこられたのです。
突然の住職の言葉に、喪主の長男さんは、肩を震わせて、
泣きはじめられたそうです。

「お前さん、まだ間に合うぞ、親孝行はな、これからでも
  間に合うぞ・・ 大丈夫じゃ。

 お前さん、お念仏したことあるかい。
 お浄土で 仏になられたお父さんはな、
 お前さんが、南無阿弥陀仏を口にしながら、阿弥陀さんと
 一緒に生きていく姿をみるのが、一番嬉しいんじゃ。

 大丈夫、まだ、親孝行は出来る まにあうぞ 」という
 有り難いご法話だったといいます。

 親が一番喜んでくれるのは、遠く離れていても
子どもが生きがいをもって、活き活きと生活していることです。
それには、阿弥陀さまの願いを聞いて、願いにかなう
生き方をすること。

 お浄土へ生まれた、両親やご先祖は
子どもや孫たちが、活き活きと、喜び多い人生を送ってほしいと
はたらきかけておられるのです。

今からでも、まだ間に合うのです。
南無阿弥陀仏を口に、阿弥陀如来の願いを聞き、
親が喜んでくれる生き方をすること
それが、私に今、出来る親孝行なのです。










第1605回 組織は 人で

 令和 5年 11月2日~

 2年に一度、組の総代会の会員の追悼法要の会所になりました。
今回は、4人の方々を ご縁とする法要でしたが、こんなお話をしました。

 みなさまは、これまで いろいろな組織に所属してこられたことと存じます。
自営業の方もいらっしゃりましょうが、会社であったり、地域、ボランティアや
趣味のグループなど、さまざまな組織の中で活躍され、あるときは責任者だったり、
二番手であったり、実務的な立場であったり、いろいろの経験をお持ちのことと思います。

 私も 僧侶 30年以上勤めておりますが、その前に 厚生年金が頂戴できるほど
サラリーマンをしておりました。
たびたび転勤をいたしましたし、さまざまな職場、多様なプロジェクトに所属しましたが、
組織は、まさに人でありまして、その所属メンバーの構成によっては、
いろいろの対応に迫られたことを思い出しております。

 普通の組織ですと、管理能力が高い者を もっとも経験豊かな者を
責任者にいたしますが、
お寺の場合は そうはいかないことも多く、世間のことに、どちらかといえば、
精通していない、世間に うといご住職であったり、
あるいは若い住職だったり、こうした責任者を、なんとか支えて、財政面でも、
人を集めることでも、総代の皆さま方、並並ならぬ ご苦労をかけているであろう
と存じます。

 これが、営利目的の会社などでしたら、目標の設定や、成果を測ることができますので、
みんなで同じ方向へ向かって進んでいけますので、ある面、運営がやりやすいものでしょうが、
目的が、ご門徒のみなさんをまとめ、念仏繁盛をめざすという、
宗教団体は なかなか難しく、また、昔のようにご門徒のみなさんも、純粋、純朴では
なくなってきましたので、総代のみなさま方に大変ご苦労をかけていると思います。

 今回、四人の総代さんの追悼法要ですが、この後、それぞれの方の思い出も
ご披露いただくようですが、どの方も、陰になり日向になり、本当によく
ご尽力いただいた方々ばかりでありました。

 ご遺族の皆さまのお宅でも、大黒柱が亡くなられて、とても大変でしょうが、
お寺でも、とても貴重な存在でありまして、おられなくなって
その後を、残された方々がカバーしていただいておりますが、
尚一層ご苦労をおかけしていることでしょう。現役の総代の皆さまも、
本当にありがとうございます。
これからも、皆さまのお力で、寺院を 護持していただけいますよう、
お願いいたします。

 とともに、ご遺族の方も、ご主人さま、お父様が がんばっていただいたように、
その意志を受け継いで、お寺のお世話役、ひいては、
総代を引き受けていただければ 誠にありがたいことだと、存知ますし、

先だった方が、喜んでいただくことではないかと、味わっております。








第1604回 今 困っても

令和 5年 10月26日~

 浄土真宗の特徴の一つは、全員で声を出して読経することです。
今から 500年前の蓮如上人が、日常の勤行を誰でも
お勤めしやすいようにと、親鸞聖人のまとめられた
教行信証の中の偈文 正信偈と、ご和讃の繰り読みに
定めていただきました。

 それまでは、一日に六回お勤めする六時礼讃という、有り難いものの
すくし難しいお勤めでしたが、みんなが容易におつとめ出来るよう
変更されたのでした。

 ご本山では 毎朝六時からご晨朝がつとまり、その様子は
ユーチューブで配信されています。
また、東京の築地本願寺では、朝7時からのお勤めも
ユーチューブで見ることができます。
ご本山では、まず阿弥陀堂、続いて御影堂での
お勤めがあり、645分ごろから
全国各地の布教使さんによる、短いご法話もあります。

 築地本願寺の場合は、7時半ごろからご法話があります。
北海道からこられた若い布教使さんが、
こんなお話をされました

 今日は 今から50年前の、日本で4人目のノーペル賞を
江口玲於奈さんが受賞された日です。
コンピュータなどで使われる半導体、ダイオードの
研究者だそうです。

 子どもの頃から大変優秀な方でしたが、なぜか中学受験に
失敗し、高等小学校へ進学、それから再度、中学校を
受験されたそうです。
その一年間に、外国から来た先生にであい、幅広いものの
見方と、英語を学ぶことが出来たことで、アメリカでの研究など、
将来大きく役だったと、後に語っておられます。

 研究でも、仲間が失敗した沢山のデータを、再確認して
いる中で、たまたま大発見をし、それでノーベル賞の
受賞につながったと。

 親鸞聖人の人生も、波瀾万丈でした。
伝統的な比叡山を降り、法然聖人の元で学ばれていた時、
念仏禁止令によって、遠く越後に流罪になられました。
この大きな災難も、お念仏教えが広がる尊いご縁だったと
味わっておられます。

 自分の思い通りになることだけを期待して、私たちは生きていますが、
今日一日、困ったことや悔しいこと悲しいことが起こったとしても
一つも無駄なことはなく、みんな有り難い尊いご縁だったと
喜べる そんな一日でありたいものですね。と








第1603回 つれていくぞの 親の呼び声

 令和 5年 10月19日~

【仏教のことば】
「生苦」は「生まれる苦」と言いましたが、
 …「誕生」がどうして苦なのでしょうか。
 仏典は主に二つの理由を挙げます。まず、
   「誕生は後の苦(老・病・死など)の原因となるから」です。
 もう一つは、②「誕生はそれ自体、苦痛を伴うから」です
    (岡本健資『季刊せいてん』124P582023912日配信

【仏教のことば】
「〈わかる〉ではなく〈聞く〉である」と聞いても、
 それを聞かずにわかろうとしてしまうのが「わからない!」
 の理由です。
(石田智秀『季刊せいてん』126号特集「信心がわからない」P48
           913

【仏教のことば】
 われ称(とな)え われ聞くなれど 南無阿弥陀
 つれてゆくぞの 親のよびごえ   (原口針水) 914

【仏教のことば】
 辛いとき、悲しいとき、嫌なとき、嬉しいとき、
 あらゆるときに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と
 念仏するならば、それによって私たちは真実に
 呼び覚まされていく。
 絶えず呼び覚ましを私たちにもたらす声が念仏である
   (梯實圓『浄土教学の諸問題』上P71)  918

【仏教のことば】
 あらゆる悪と人々を救ふ世界を見出したのが浄土真宗である
 …仏を信じたとて、病気が回復したり、貧乏が金が
 儲かつたりするやうな利益はない。
 されど如何なる境遇にありても「安らかさ」と
 「ゆたかさ」とが恵まれてある。 (梅原真隆『人生と宗教』P18
        916

【仏教のことば】
 経典にも「仏心とは、大慈悲心これなり」と出ているように、
 「慈悲の心」とは、一切衆生を平等無差別に救わずには
 おかないという、末通った深い愛情ひとすじの「仏の心」である。
  (花岡大学『親鸞へのひとすじの道』P208 917









第1602回 難しい道と 易しい道

 令和5年 10月12日~

 西本願寺の総合研究所からの【仏教のことば】の紹介です。

【仏教のことば】
 仏教の重要な目的の一つは自己を知ることだとよく言われます。
 まさにそのとおりであって、仏陀とは自己を知り尽くされた人だと
 言ってもよいでしょう。
  (徳永道雄(一道)『観無量寿経を読む』P42 202391日配信


【仏教のことば】
 布教使の方によく言うのですが、自分の考えを言った時に、
 相手が共鳴してくれたら、それは…真実であることを証明して
 くれているのです。
 承認してもらえることが有り難いのですから、
 「教えてやるなんて思ったら大間違いだ」と言うのです。
   (梯 實圓『季刊せいてん』106P3992日配信


【仏教のことば】
「自分が信心を得てもいないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、
 自分は何もものを持たないでいて、人にものを与えようとするような
 ものである。これでは人が承知するはずがない」と、蓮如上人は
 お示しになった
   (『蓮如上人御一代記聞書(現代語版)』P6693


【仏教のことば】
 仏法には、はかり知れないほど多くの教えがある。
 たとえば、世の中に難しい道と易しい道とがあり、陸路を
 歩んでいくのは苦しいが、水路を船に乗って渡るのは
 楽しいようなものである。
 菩薩の道も同じであり、修行に努め励む道もあれば、
 仏の教えを信じるという易行(いぎょう)によって
 速やかに不退転の位に至る道もある。
  (『十住毘婆沙論 浄土論(現代語版)』P6)9月4日


【仏教のことば】
 私たちは「南無阿弥陀仏」という名号を通して、間違いなく
 お救いくださる阿弥陀さまと、いまここで出遇(あ)って
 いくのです。ですからお念仏を称えながら阿弥陀さまを
 探す必要はありません。
 (赤井智顕『なぜ?どうして?浄土真宗の教学相談』P995


【仏教のことば】
 私が疑わないことに決め、私が信心する。
 その私が残っている事が問題なのです。
 …深く信ずるとは…如来回向の信心のことです。
 自分が信心によって救いを掴もうとする立場から、この身
 このままを如来に摂取されて行く立場に転換されることです。
    (井上啓一『真宗の法話』P2398








第1601回 溺れる人がいれば

 令和5年 10月5日~

 今回も 本山総合研究所から届けられた言葉です。

【仏教のことば】
 人びとは、ややもすると他力の救いということを、他人をあてにし、
 自分は何もしないでなまけていることのように誤解するのですが、
 決してそうではありません。
 他力とは仏の願力をいうのであって、仏力を主体として、真実に
 生きることをいうのであります。
         (『山本仏骨法話集』2P30· 2023825日配信


【仏教のことば】
 他力の教えは、自分で悟りを開けないもののための仏道であり、
 そのための仏が阿弥陀仏なのです。
 川で溺れている人と、土手にいる人とがいれば、溺れている人を
 救いますよね。(釈 徹宗『歎異抄 救いのことば』P72 826日配信


【仏教のことば】
 懺悔は単なる道徳的反省の心ではない。
 それは光によって映し出された相であることにおいて、
 そこにはすでに光の中にあったという法悦(ホウエツ)と、しかも
 常にその光に背きつつあるものという慚愧(ザンギ)の心とが
 交錯するものである。(村上速水『親鸞読本』P182) 829


【仏教のことば】
 唯円房があやまっている人たちを、…打ち破ってしまえば
 それでいいのだというような裁きの態度でかいたものでなく、
 …そのあやまれるものを抱きしめて歎かずにおれないところに
 「歎異抄」全体に流れている持ち味が知られると思うのであります。
      (山本仏骨『歎異抄のこころ』P22830

【仏教のことば】
 今、諸君たちは現実的に宗教を必要としないかもしれない。
 しかし今、君たちは宗教に対して決して無関心であってはならない。
 何が正しい宗教であるか、また何が誤った宗教であるかを
 見極める目を今の時期に養っておかねばならない。
    (淺田正博『私の歩んだ仏の道』P32) 831









第1600回 私の生活の中に

 令和 5年9月28日~

 ご本山 総合研究所からの【仏教のことば】の紹介です。

【仏教のことば】
 お浄土に往かれたわが父や母は、往きっぱなしではありません。
 お浄土より娑婆に還り来て、私たちをみまもり、私たちが
 お念仏申すところ、共にお念仏を唱和して、私たちによびかけ、
 阿弥陀仏の大悲をあおがれているのであります。
  (普賢晃壽『阿弥陀仏の救い―人生の帰趨―』P233)
        2023815

 浄土真宗の特徴は 往相廻向 還相回向の教えです。
正信偈の意訳には、
 蓮華の国にうまれては 真如のさとりひらきてぞ
 生死の園にかえりきて まよえる人を救うなり とあります。
どうか、お念仏の教えに出会ってくれ、この教えに遇えば、
これから迎える老病死の苦しみも、素直に受け入れることができ、
生きがいある人生を味わえますよと、はたらきかけて
くださっているのです。


【仏教のことば】
 私達は平素から、見えるものだけに夢中になって、
 見えないものの恐ろしさや、有難さを忘れているのでは
 ありますまいか。 (井上啓一『御文章の味わい』P53)
          ·  816

 親や周りの人の思い、多くの人々のはたらき、仏さまのはたらき
見えないものを、感じられるように育てられると、この人生は
有り難く、すばらしいものへと変化するのですよと。


【仏教のことば】
 如来の心に触れ、これまで如来さまを泣かせて来たことに気付いたのなら、
「もっと泣かせてやろう」と思うでしょうか。そうではなく、
「もうこれ以上、泣かせることはすまい」と思うはずです。
 (「悪人正機」について)(満井秀城『季刊せいてん』110P55·
              819

··

【仏教のことば】
 阿弥陀仏は私の心に信心の喜びを与えてくださるばかりでなく、
 更に、私の寿命のある限りは称名念仏の声として、
 私の生活の中にいつでもどこでも現われましょうという
 お慈悲から「乃至十念」の称名をお誓いくださった
 ものであると味わわれます
    (
灘本愛慈『やさしい安心論題の話』P177)
 821








第1599回 子どもや孫の将来を思うと

 令和5年 9月21日~

 ご門徒のお宅へお参りし、自動車を止めた途端
吠え出す犬がいます。そしてお勤めの間中 泣き止まず
吠え続ける犬がいます。

一方で、必ず玄関まで出迎え、歓迎の挨拶を一通りすまし
お勤めを始めると、静かになり、お勤めが終わると、
また近づいてきて、触ってほしいと催促する利口な犬もいます。

 近頃、うるさい犬が増えたのは、犬の種類や性質が
変わったのかと思っていましたが、飼い主がしつけをせず、
ただ甘やかすだけなのではないかと聞かされました。


 そう考えると、人間の子どもも、少し前までは、
多くの人の前では余り騒がず、おとなしくしていたように思います。
近頃は、小さな子どもが法要に参加すると、走りまわり、騒ぎ出し、
保護者が耐えかねて、外に連れ出すケースをよく見ます。

 子どもや ワンちゃんが変わったのではなく、親が、飼い主が
甘やかしてばかりいることが原因ではないかと思われます。

 核家族化が進み、2世代3世代で生活する家庭はごく希で、
年寄りたちが口をだすチャンスもなくなりました。
怖いおじちゃん、うるさいおばちゃんの存在もなくなり、
友だちのような優しい祖父母、両親、おじさんおばちゃん
だけになったようです。


 子どもや孫の将来を考えると、心を鬼にして、言うべきことを
ちゃんと
言い、嫌われても、うるさがられても、大人の役割を
果たすべきだとは思ものの、なかなかそうはいかないものです。


 ご法事を勤めながら、仏事は、自分が生きている間に、子どもや
孫に言えることが出来なかったことを、自分が亡くなった後に、
仏教のお話を通して、人間として最も大切なことを、代々伝えて
きたのではないかと、思います。

 子どもの将来を考えると、仏さまの事だけは、ちゃんとしてほしいと、
伝えておくことが大事だと思います。

子どもに迷惑をかけないようにと、葬儀も法事も、墓地も仏壇も
無くしてしまう人いますが、自分に変わって、人間に必要なこと、
やるべきこと、そして、老病死を恐れず、受け入れていく力を、
伝えてきた伝統が、仏事、法事だったのではないか。
それを護り、繰り返し伝えていくことが、残された
子や孫にとっては有り難く、大事なことだろうと、痛感しています。

 伝承してきたことを、取りやめることで、自己本位で
わがままな生活、それは、心豊かな生き方には、決して
つながらないと感じます。








第1598回 さとりの身となって

 令和5年 9月14日~

 今回も 本願寺派総合研究所からの【仏教のことば】の紹介です。

【仏教のことば】
 念仏の行者とは、わたしを念仏の行者たらしめている
 本願力の不思議を信知し、感動しているもののことである。
         (梯 實圓『教行信証の宗教構造』P72· 202387

【仏教のことば】
 「この源空(法然聖人)の信心も、阿弥陀さまからいただいた
  信心じゃ。そして、善信さん(親鸞聖人)の信心も、
  阿弥陀さまからいただいた信心。だったらまったく同じ、
  一つと言うべきでしょうな…」
         (『いつでも歎異抄』P71「後序」意訳) 202388


 毎年のご正忌報恩講で 親鸞聖人ご伝絵をご紹介していますが、
法然聖人のところで、先輩同僚と 信心についての論争のところです。
自分の努力で起こす信心ではなく、阿弥陀さまからいただいた信心
そこで、師匠の法然聖人の信心も、お弟子の信心もみな一緒のくだりです。


 【仏教のことば】
  ほんとうの宗教はこの自分の中に最も危ないものを
  蔵していることが知らされることであります。
  浄土真宗の御念仏とは正しくこの私の中に鬼を
  見出すことといえます。
  危ないことを危ないと知らされると、危ないことに
  気をつけることとなります。
         (稲城選惠『人生の道標』P158· 202389

 【仏教のことば】
  浄土真宗の仏事は、阿弥陀仏のお徳を讃えるとともに、
  亡き人を、阿弥陀仏と同じさとりを開かれた仏さまとして敬い、
  そのお徳を讃えるということでもあるのです。
  追善供養ではないからといって、亡き人への思いを
  軽んじるということではありません。
     『季刊せいてん』115P52· 2023811

 【仏教のことば】
  仏の国に往き生まれていった懐かしい人たち。
  仏のはたらきとなって、いつも私とともにあり、
  私をみまもっていてくださる。このお盆を縁として、
  すでに仏となられた方々のご恩をよろこび念仏申すばかりである。
     (『拝読 浄土真宗のみ教え』P53· 2023812


 【仏教のことば】
 「…私が死んだらお浄土へまいらせていただきます。
  …けっして遠いところへ離れていくのでもなければ、
  子供と別れていくのでもありません。
  ほんとうのさとりの身となって永遠に子供のうえに
  生きることができるのです…」(山本和上のお母様の言葉)
     (山本仏骨『親鸞人生論』P222) · 2023814









第1597回 さるべき業縁のもよほさば

 令和5年 9月7日~

 今回もご本山総合研究所からの【仏教のことば】のご紹介です。
どの言葉を見ても、お念仏の教えに遇えた人の有り難い言葉です。

【仏教のことば】
人間というのは自分が思っているほど一つに決っていない。
固定的な善人、悪人というようなあり方にはなっていない。
…状況や環境次第で、この私自身がどちらにでもころぶのである。
       (相馬一意『本物に出あう』P138 2023731日配信


 新聞やテレビで見る容疑者を見て、悪人と批判していますが、
一歩間違えば 誰もが同じ過ちを犯すのかもしれません。


【仏教のことば】
経典を読む(読誦)ということは、本来、清らかな悟りの世界から
ひびいてくる仏陀のよび声を聞くことであり、それによって
真実の何たるかにめざめしめられることである。
  (梯實圓『浄土教学の諸問題』下P278 202381


【仏教のことば】
よく、成仏というと死ぬことだと思われていますが、それは違います。
「仏に成る」ことを成仏と言うのです。
  (松﨑智海 『鬼滅の刃』で学ぶはじめての仏教 P22) 202382


【仏教のことば】
必ず浄土に往生する人生を生きるということは、尊い命を
生きるということです。
そこには感謝と喜びをもって生きることができる、これこそが
浄土のこの世におけるはたらきといってよい、私はそう思います。
 (勧学寮編『今、浄土を考える』P70 202383


【仏教のことば】
諸行無常という言葉を、知らない方はいないと思います。…
しかし、それは知識として知っているだけではないでしょうか。
本当にこの世は諸行無常なのだということの納得がなかなかできないのです。
       (淺田恵真『お念仏の真実に気づく』P91 · 202384









第1596回 疑り深い私のために

 令和5年 8月31日~

私たちは 疑い深い性質を持っています。
常識の範疇だと素直に受け入れるものの、常識を超えていると
そんな馬鹿な だまされるものかと、疑い拒否します。
そんな私を 何とか信じさせようと、
お釈迦様は いろいろと苦心して 教えを説いて

いただいています。

 仏説無量寿経の中には、
これまで沢山の仏さまが、この世に出て多くの人々を
救っていただいたこと、そして世自在王仏という
仏さまの時代に 一人の国王が、すべての人々を一人残らず
救いたいとの大きな願いを建て、
その理想の国をつくるために 多くの仏さまの世界を
手本にしたいと、さまざまな仏さまの世界を見せてもらったこと。

 その数が 1020ではなく、210億もの仏さまの国を
見せてもらい、その中から特に優れたものを選び取るのではなく、
疑い深い 私たちのために、五劫という長い長い宇宙的時間
考えに、考えて、48項目の設計図を建て、その完成のために
また宇宙的長い間修行して これまでにない最も優れた
お浄土が完成したと説かれています。

 その設計図の17番目には すべての仏さまが、
自分(阿弥陀仏)のことを、誉め讃えるような 最もすぐれた
はたらきができる仏に成りたいというのです。

 過去の仏さま 現在の仏さま すべての仏さまが
実現できなかった、努力出来る人も出来ない人も、すべての人を、
「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」の名号を口に
するものを 自分の国・お浄土へ生まれさせ 仏にしたいと。

 ですから、私がご縁を頂いて 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と
お念仏するとき、もう仏さまと同じ はたらきをしている
ことになります。


阿弥陀さまの偉大さ、そのはたらきが、分かっていなくても
お念仏する私は もう仏さまと同じ阿弥陀仏を讃嘆する
はたらきをしていることになるのです。

 疑り深い私がどう思と お念仏する時は、もう
仏さまと同じように 阿弥陀さまを讃嘆するはたらきを
しているのです。

 ですから、今は 悩み多い人間ですが、やがて いのち終われば
お浄土に生まれ 引き続き 阿弥陀さまを讃嘆する仏さまの
はたらきをさせていただくのです。
もう 今は 仏さまの仲間なのです。










第1595回 物差しを変える

 令和5年 8月24日~

 今回も本願寺派の総合研究所のツイッター【仏教のことば】のご紹介です。

【仏教のことば】
 信心を得る以前は いわゆる常識という物差しで社会を生きてきました。
 しかし信心を得るというのは、いままでの常識の物差しを捨てて、
 法という新しい物差しの世界へ生まれ変わるのであります。
       (霊山勝海『聖典セミナー親鸞聖人御消息』P86
           配信 · 2023726

 私たちは 学校で長年教育を受け、社会での経験を元にした常識で
今まで生きてきました。
しかし、学校教育では ○か×か、採点できることが中心であり
社会では 損得勘定を基本にして、いかに上手に生き抜くか、
老病死を嫌い否定する、価値観で生きてきました。

しかし、現代の科学ではなかなか評価、証明出来にくい、
先輩たちが受け継いできた、大人の智慧、仏法があることを
知らないままでこれまで生きて来たようです。

 キリスト教を基本とした西洋的な考え方、ものの見方を
現代人は常識として生きているようです。
そうした、世間の常識を超えた価値観が日本には存在していたこと、
そうした物差しを知り、その世界を体験し、生きていくこと、
それが仏法という新しい物差しの世界に生まれ変わることなのでしょう。

 すべてのものを救いたいという仏さまの願い、はたらきを 
繰り返し聞き、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を口にし、耳に聞き 
どこへ向かうのか、それはお浄土へ向かって力強く生きていく
世界があることを、教えていただいているのです。


【仏教のことば】
 仏道を歩むとは…人間の逃れられない根源的な苦悩を乗り越えていく道を
 目指すのであり、仏陀の説かれる「苦悩を除く法」とは、「生老病死」の
 苦悩を除く法なのである。
 親鸞聖人が目指された仏道も、生老病死の苦悩を乗り越えていく道であった。
       (勧学寮篇『親鸞聖人の教え』P14配信 · 2023727

 医学や科学が進み、あたかもこれが万能であるとの誤解があります。
「生老病死」の苦悩を除くには、薬を飲む、手術を受けるなど、
外側からの何らかの治療を受けることでしか、解決法は
ないと信じこんでいます。

 しかし、先輩たちは、科学だけに頼るのではなく、仏法を通して
内側からの、精神的な解決法を受け継いできたのです。
そうした世界があることを 教えていただいているのです。


【仏教のことば】
 死の問題の解決こそ、同時に生の問題の解決でもあるわけで、
 ほんとうの幸福とは、お念仏によって生死の問題を超えさせて
 いただく以外にはないと思うのです。
   (村上速水『道をたずねて』P27 配信· 2023728

  ともありました。





第1594回 受け継がれていくもの

 令和5年 8月17日~

お盆の間 境内にあるお墓に 子ども連れの見知らぬ若い家族の姿を
多く見受けました。
本堂にお参りする家族、直接お墓にお参りする家族さまざまですが、
年配者が一緒ではなく、自分たちでお参りしているのを見ると、
子どものころに大人に連れられて 参拝していた世代が、
夏休みに帰省して子ども連れでお参りしているのだろうと思います。

 大人と一緒に 本堂にお参りしていた家族は、本堂へ上がり
お墓だけの家族はお墓だけ帰る、こうして次の世代に受け継がれて
いくのだろうと、感じています。

 さて、浄土真宗本願寺派(西本願寺)総合研究所【公式】から
送られてくる【仏教のことば】に
こんな内容がありました。

【仏教のことば】
 わが身の善悪にとらわれて、これで助かるだろうとか、
こんなことでは救われまいと思いわずらうことを、
自力のはからいというのです。
そのはからいをやめて「必ず救う」のおおせ一つをあおいで、
おおせに安んずることを安心とも信心ともいうのです。
 (梯實圓『妙好人のことば』P226· 2023721日配信

【仏教のことば】
仏教というのは世界の見方を変えてくれる教え…
その教えに一度出会うと、出会う前のものの見方に戻ることはありません。
毎日、大量に消費され廃棄されていく情報とは違う、
出会うとその人の人生をも変えてしまう…それが「仏教」です
 (松﨑智海 『鬼滅の刃』で学ぶはじめての仏教 P4)
            
· 2023723日配信

 【仏教のことば】
仏教は道徳ではありません。
私の窺い知る(うかがいしる)ことのできない「仏の世界」を
学ぶのです。道徳と同じレベルで学べば大きな誤りを犯します。
(淺田正博『生かされて生きる―どうして人を殺してはいけないのですか?―』P28
           2023724日配信

【仏教のことば】
本堂においては、すべて本尊を中心にして語られる。
前後、左右というのも、本尊の前後、左右…であって、
私から向って左右ということではない。…あらゆることがらを
自己を中心として考え、行動している日常的な意識が
堂の中では逆転する…。 (梯實圓『浄土教学の諸問題』下P165)

                  725日配信










第1593回 この世に無駄なし

 令和5年 8月10日~

 毎日送られてくる 【仏教のことば】 そこに こんなことばが
ありました。

【仏教のことば】
「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」
 この世に無駄なしということなのですね
 (鈴木章子『癌告知のあとで―なんでもないことが、こんなにうれしい』P134
     2023717日配信

 北海道のお寺の坊守さんで 癌で亡くなられた鈴木章子さんの残されたことばです。
 (※摂取不捨=摂(おさ)め取って捨てずという、阿弥陀如来の救い)のことですが、
 私たちは 役にたつもの、有益なものだけが 有り難く感じていますが、
 この世には 何一つ無駄なことはなく、私たちが忌み嫌っている、老病死も
 みんな平等に訪れてくるもの、それをどう捉えることができるかで
 人生は 大きく変わってくるものでしょう。

  限られたいのち、毎日毎日をどう味わって生きるかで 私の人生は素晴らしいものに
 転じられていくのです。
 長い命だけが素晴らしいのではなく、健康だけが素晴らしいのではなく、
 何一つ 無駄なことはない、ひとつひとつ 味わい深い毎日を
 送らせていただきたいものです。

  またこんなことばも 送られてきました。

【仏教のことば】
「自由」とは何でしょうか。多くの人は、「自分の思い通りになること」と
考えるでしょう。しかし、仏教では、「自分の思い通り」とは、欲望という
煩悩に支配された「不自由」に過ぎないと見ます。

 (『いつでも歎異抄』P51 2023719日配信

【仏教のことば】
慈悲深い両親だからといって、その両親の前で悪事を行って、はたして喜ぶだろうか。
嘆くに違いなく、それでも見捨てないだろう。
また、大切に思ってくれても、悪行については許せない思いのはずだ。
如来の思いも、まったく同じである。(法然聖人の言葉)
   (『季刊せいてん』110P54)  2023722日配信









第1592回 仏法は 聴くべきもの

 令和5年 8月3日~

 毎日 ご本山の総合研究所からツイッターで送られてくる 
「仏教のことば」その中に こんなことばが ありました。


【仏教のことば】
 世界はこんなに苦しいけれど、解決していく道はきっとある。
 月並みな言葉ではありますが、仏の教えというのは、
 この苦しい世界での希望なのです。
     (松﨑智海 『鬼滅の刃』で学ぶはじめての仏教 P52)

  仏教は 生老病死の苦しみを解決するために説かれたとも言われます。
  生きるということは 苦しみの連続 その苦しみを解決するために
  お釈迦さまが説かれ 多くの先輩たちが その味わいを
  具体的に説き 伝えていただいたものが 仏の教えなのでしょう。
  先輩が残していただいた、折角の教えに 気づかないでいることは 
   もったいないことです。
  浄土真宗は お聴聞 その教えを 聞くことが大事だといわれます。

【仏教のことば】
「仏法は毛孔(けあな)から入るものである」ならば、
  わたしの心身をあげて聴くべきものであろう。
  わたしの生活行動を通して、教えのまことを確認する
  という意味を含むであろう。
     (村上速水『親鸞教義の誤解と理解』P112)

【仏教のことば】
「本尊」とは帰依尊重する本仏をいう。
  この本尊が教法の根源であり、また礼拝の対象である。
      (『浄土真宗本願寺派「宗制」解説』P43

【仏教のことば】
「必ずあなたを救いとる」という如来の本願は、
  煩悩の闇に惑う人生の大いなる灯火(ともしび)となる。
  この灯火をたよりとする時、「何のために生きているのか」
 「死んだらどうなるのか」、この問いに確かな答えが与えられる。
       (『拝読 浄土真宗のみ教え』P3

  【仏教のことば】毎回 短いことばですが、お念仏の教えを
    味わうには 誠に貴重なことばです。








第1591回 しあわせ 幸せ 仕合わせ

 令和 5年 7月27日~

 私たちは「しあわせ」を 追い求めて、生きています。
その「しあわせ」を「幸せ」と書くことが多いものですが、
ひと昔前までの辞典は「仕合わせ」と 表記されていました。                
「幸せ」の「幸」とは「山の幸・海の幸」の 恵みを意味します。
人間は  その山や  海の恵みを  有り難い 恵みと受け取ることが出来ず、 
思いのままに乱獲し、乱開発してきました。


 「幸 多かれと・・ 」の「幸」も「恵み」の意味でしたが、
今では、人間の「望み(欲望)」の延長線上にあるものと受けとられています。 
「幸」には「恵み」以外に、「こいねがふ」という  欲望の意味や 
「むさぼる」をも 意味します。 
「むさぼる」とは、三毒の煩悩の一つである「貪欲(とんよく)」で、
「足ることを 知らない」ということです。  
そんな私たちが「しあわせ」を  望んだとしても、むさぼり続けるだけで、 
いつも満たされず、不平・不満ばかりを いいながら生きています。
自分の思い通りにならず「愚癡(ぐち)」を こぼし、
「憤り( 瞋恚・しんに)」を  感じるしかありません。  
そんな私たちに、本当の「しあわせ」は あるのでしょうか。


 一方、「仕え合う」と書いて「しあわせ」は、お互いが  相手や
周りのために  仕え合うことを「仕合せ」と言うのです。
欲しい 物が  手に入り、自分の思い通りになることに満足するのでなく、
信頼している人に 喜んでもらえることを「仕合せ」だというのです。
作家の司馬遼太郎氏によれば、「仕合せ」の「仕」は「ある人に
つかえること」だそうです。


 自らの生命をかけて  仕えるべきものに出会うことです。
生きている中で、辛いこと・苦しいことなどが あったとしても、
自分の「めぐりあわせ」言いかえれば  不思議な「出会い」が 
ぴったり合う因縁を「仕合せ」というのです。


 私たちは人間として  この世に命を恵まれました。
しかし、生まれてきたことを当然のこととして、また、恵みを恵みとして
受けとめていない 私がいます。 
そうして、命の営みの中で、多くの恵みや 出合いがあるのに

まったく気づかず、生かされている「しあわせ」も 生きている慶びも
味わえないままでいます。

 親鸞聖人は、法然聖人と出会えたこと、そして阿弥陀如来のご本願に
出合えたことを「仕合せ」だったと慶ばれています。
親鸞聖人の生涯は、決して幸せであったとは言えないものです。 
幼い頃 両親を亡くされ、念仏禁止令で遠く越後に流罪になり、

晩年は、ご長男の善鸞さまを 義絶せねばならないなど、苦難の連続でした。
しかし、親鸞聖人は その不幸を 嘆くのではなく、お念仏とともに

慶びをもって力強く生き抜かれました。 

 それは 法然聖人と巡り会えたこと、そして何と言って
阿弥陀仏のご本願に遇うことができ、人間として生まれてきた

不思議と、慶びを味わうことが出来て、とても仕合せだったのだと思います。
それが、教行信証の総序に「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、
真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」
という言葉として 表れているのだろうと味わえます。

 お念仏の教えに遇うことが出来れば、当たり前なこと、平凡なものが、
不思議で有り難く、しあわせに感じられるようになることを、

教えていただいています。








第1590回 仏教のことば

 令和 5年 7月20日~

 コンピュータを開くと いろいろな情報が入ってきます。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)総合研究所から
「仏教のことば」も、定期的に 送られてきています。

 その中に こんな言葉がありました。

 お説教というのは、私を中心にした世俗の領域から如来を中心とした
聖なる領域へと、人びとの心を転換させることでしょう。
                 (梯實圓『平等への視座』P132)

 私たちは 人間中心の損得勘定の生活をしていますが、
そうした価値観だけではなく、仏さまの価値観があることに 気づかせ
そして、現実を正しく見る力を得らさせようという はたらきなのでしょう。


また、 こんな【仏教のことば】もありました。

 仏さまの教えによって、新しい心の視野を開いていただくことを、
お救いにあずかるというのです。
                  (梯實圓『仏の願いに遇う』P52)

という言葉もありました。

こんな【仏教のことば】
   話を聞くということは、こちらがものを考えておったら、聞えません。
  こちらを空っぽにし、素直に向うのいうことを受取ることであります。
              (桐溪順忍『他力ということ』P27

また、

  私の手のつけようのないような広大な世界に、私は
つつまれているのだなということが味わえてくるようになりますと、
わからないというわかり方がわかってきます。
                 (梯實圓『仏の願いに遇う』P37)

私たちは 目の前の現実に目を奪われ、一喜一憂しながら
生きています。
仏教の教えに出会うことで、その悩み苦しみが少しは違って見え、
感じられてくるものです。
そうした 仏教の教えがあることを 先輩たちは 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏と口にして聞く、お念仏の教えとして 
私たちに残してくださっているのです。










第1589回 仕合わせな人生を

 令和5年 7月 13日~

 今でこそ どこの家にも空調が備わっていますが、
30年ほど前までは 扇風機と団扇の時代でした。
お盆のお参りなど、勤行する私の後ろで、ずうっと団扇で
あおいでくださっていたおばちゃんがあったものです。

 それから、しばらくして 冷房だけのエアコンが
付けられるようになりました。
ある冬 寒い朝の月忌参り、玄関で声をかけると、
さっさと二階の仏間に上がってお勤めを開始
慌てて奥さんが飛んで来てエアコンを付けてくださいます。

 ご自分の部屋は、冷暖房のついた空調でしょうが、
仏間は冷房だけの古いタイプ、「もうちょっと待ってくださいね。
もうすぐですから」と、言い訳しながら、リモコンを持ち、
空調の風に手をあてて ゴメンナサイねと声をかけられます。

 この部屋は冷房しかないことを知っている私は、
エアコンを止めてくださいと、手で合図しながらお勤めを続けます。
冷気が真横から いきよいよく吹きつけます。
時間がたつに従って、ますます冷え込んで来ますが
お勤めを止めて、冷房を断る訳にもいかず、
冷凍室のような極寒の中でのお勤めでした。

 お勤めが終わり、ありがとうございます。
ここは 冷房しかないようですからと、断ると
アーそうでしたねと、慌てて、石油ストーブを運んでくださいました。

その奥さんが、先日97歳でご往生になりました。
家業を手伝いで早朝3時からの働きづめのお母さんでした。
お姑さんが厳しい方でしたから、ご苦労も多かったでしょうが、
これが自分に与えられた仕事と、腰が曲がった姿で
にこにこしながら、はたらいておられた様子を思い出します。

 都合のよいことも、不都合なことでも自分のやれることを
精一杯勤めさせていただく、それが仕合わせであると、
教えていただいたよな、有り難いお念仏の方でした。
こうした有り難い方が 一人また一人お浄土へと生まれて行かれます。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏を聞くとき、あの方々が
阿弥陀さまと一緒に 呼びかけていただいていると、
味わい 私もこの世の勤めを、自分で出来ることを
にこにこしながら精一杯、果たしていきたいと思います。








第1588回 きく・菊・聴く・聞く

 令和5年7月6日~

 幾たびか お手間かかりし 菊の花
   加賀の千代女の俳句とも言われています。

 菊つくりというのはなかなか手間のかかる作業らしいです。
大輪の菊を一本仕立て、三本仕立て、断崖仕立てなどの鉢に
育てるまでには大変な苦労がかかるようです。


春先から、挿し芽をし、苗を育て、ある程度の大きさになったら、
鉢に植え替える。
鉢を植え替える前には、土作り。川砂、腐葉土、赤玉土などを混ぜ、
どの肥料も入れるのか・・・・

2週間ほどなじませ、その後、鉢の下に網をしき、・・・・・
水やり、施肥、わき芽摘みなど、花を咲かせるまでには、こうして
かなりの時間と手間がかかるのです。

  幾たびか お手間かかりし 菊の花

の俳句の中には、菊つくりの手間ひまにかけて、私たちの今の仏縁を
いただくまでの手間ひまを込めて詠んでおられるのです。
「菊」は私たちが阿弥陀さまのご本願を「聞かせていただく」身に
お育てをいただいた、その「聞く」に通じるものです。

そして「花」はその聞かせていただくことによって阿弥陀さまの
お慈悲に気付かせていただくことができたよろこび、すなわち
「信心の花」を咲かせさせていただくことができたよろこびを
表していると味わうことができます。

「きく」という漢字もいろいろありますが、代表的なものは
3種類あります。「聞く」と「聴く」と「訊く」です。
『聞く』は、音・声を耳で感じとる。耳に感じて、知る。
という意味で、「鳥の鳴き声を聞く」「話し声を聞く」「うわさを聞く」
というように使われます。

『聴く』は、耳を傾け、注意して聞き取る。という意味で、
「ラジオ講座を聴く」「講義を聴く」「名曲を聴く」と
いうように使われます。
『訊く』は、たずねて、答えを求める。問う。相手に質問する。
という意味で、「訊問(じんもん)する」というように使われます。

 親鸞聖人が「教行信証」に書かれている「きく」は「聞」です。
「聞即信」「聞というは、衆生仏願の生起本末を聞きて
  疑心あることなし。これを聞と言うなり」と示されます。

 私たちの五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)のうち最初に
身につく感覚は「聴覚」と言われています。
お母さんのお腹にいる時からお母さんから呼びかけられている
「声」を聴くとはなしに聞いて、生まれてからも
「あなたのお母さんよ」と呼びかけられている声を
聞いて育っていくのです。

物心ついて、こちらから真剣に物事を把握しようと
耳を傾けて一生懸命に聴いていきます。
そして、学びを深め人生の幅が広がって行きます。
しかし人生50年ないし100年の間に学び尽くすことは不可能です。
そして、いのちの最後のぎりぎりまで残る感覚も「聴覚」と
いわれています。

阿弥陀さまのお慈悲に出遇うこともよく似ています。
はるか昔から、阿弥陀さまに「南無阿弥陀仏」
(あなたの真実の慈悲の親は阿弥陀であるよ。)と、
呼び続けていただいたのであります。

有る時、仏縁をいただいて「南無阿弥陀仏」とはいったい
なんだろうと疑問に思った時に、こちらから仏法を聴く
(求めていく)ご縁をいただくのです。
その聴聞のご縁の中で、私の方が聴きに行っていたのでは
なかった。阿弥陀さまから呼びづめに呼ばれていたのだと
(聞かされていたのであったと気付かされる)お慈悲の
大きさを知らされるのです。

阿弥陀さまの「呼び声」は、耳に聞こえる聴覚だけでなく
「こころ」の底の底まで、響いて下さる救いの響きなのです。

    淨教寺さま ホームページより 奈良県奈良市









第1587回 人は 誰しも いつかは

 令和 5年6月29日~

 コロナの前まで、月に一回「浄土真宗の常識 勉強会」を
開いていました。沢山の方にお参りいただいていましたが、
この3年間はお休みし、今では、老人施設に入られた方や、
お亡くなりになった参加者の方もあります。

坊守さんが作る 毎回違った 手作りおやつが楽しみと
言われながら続けていました。


 先日、その参加者の親戚の方から電話がありました。
参加していたお母さんではなく、その息子さん71歳が お亡くなりに
なったとのこと、息子さんのお宅は知らず、慌てました。
お母さんは老人施設に入られ、お寺からの連絡の葉書や手紙は、
息子さんのところへ住所変更になっていたことを思い出し、駆けつけました。

 肺癌の告知を受けてからも、8年間 仕事を続けながら
病気と闘っておられたとのこと、ご本山で おカミソリを受け
ご夫婦で 法名を受けられたことは聞いていましたが、
病気のことは内緒にされていたとのことでした。

 一人息子だったご本人は、自分が癌になったことを、母親が知れば
どれだけ悩み苦しむか、絶対、親にだけは知らせたくない、
頭髪が抜ける治療は避けてほしいと、頼まれていたそうです。

 通夜、お葬式、初七日が済み、二七日の席で、喪主の奥様から
こんな本を残しています、よろしければ読んでくださいと、
160頁ほどにまとめられた癌告知からの8年近くの治療の内容や
さまざまなエピソードが、克明に記録された立派な本をいただきました。

 その記録を読ませていただくと、癌告知から2年ほどたって、
母に病気のことを内緒にしておくと、もしもの時、家族がきっと
責められるだろうと、母親あての手紙を書き残していたとのこと。

4年ほど経った頃、一人住まいだったお母さんが自宅で転倒、
救急車で運ばれ、今後は老人施設がいいだろうと
医者に勧められ、介護施設に入所されたものの、毎日荷物をまとめて
自宅に帰りたいと言い、面会した息子さんは声を荒げることも
あったといいます。

 ついに母親に、自分が癌であることを告げたところ、
お母さんは「人は誰しもいつかは死を迎えることとなる、
最後は痛くないようにしなさいよ」との返事に
話の内容を理解出来ていないのか、はたまた90歳を過ぎた
老人の卓越した心情なのかと、困惑したと書かれています。

 息子さんは、母親が認知症で正確に理解出来ていないと受け取られた
ようですが、毎月、毎月、仏さまのお話、老病死は避けられないと、
聞いて来た人の言葉だったのだろうと、有り難たく感じました。
仏教の話を聞くことがなかった息子さんには、それが理解出来なかった
ようです。

 そして、息子さんが数日後、自分の病状を再び話しても、反応が乏しく、
「風邪をひかないように」と、言うだけだったと書かれています。
親としてはどうしてやることも出来ない、悩み苦しみながらも

四苦八苦を受け入れることが出来る人と、仏縁のなかった息子さんとの
違いだろうと思われます。

 仏教は 死んでからの話ではなく、生きている間に聞いておくべきもの、
この息子さんに、お聴聞するご縁がなかったことが お聴聞を勧めることが
出来なかったことが、誠に残念でなりません。
ほんの数回でも良いから 仏さまのお話、お浄土のお話、聞いておられたら、
また違った味わい深い闘病生活になっただろうにと、残念に思いながら
癌告知後の揺れ動く心を、読ませていただきました。









第1586回 ちゃんと見られている

 令和 5年 6月22日~

 ご門徒と一緒に 記念行事などの準備をするときに思います。
歳を重ねたせいか、若い住職たちが 若者独特の派手な衣装で
参加していたり、お勤めの稽古を始めたのに、布袍を着用しなかったり、
ついつい気になるものの、口に出せずに見過ごしています。

 どうして、気になるのだろうかと、考えました。
会社勤めをした経験を思い出すと、ボーナス査定や昇進、転勤などのために、
責任者は自分のチームの人たちの人事評価を書く必要があります。
また、どこに異動させるのか、その適性を見て判断し、最適な所への
配置転換の案、移動の案を出さねばなりません。

本人の希望が優先されますが、上司がそれに賛同して推薦しなければ
希望どおりの部署への移動は成立しません。

 若いときには、人事部などが勝手にやっているのだろうと思っていましたが、
実は、一番近い上司が、その人の人生を、将来を左右しているものなのです。
それはちょうど、プロ野球の監督が自分のチームの選手の特性を見て、
試合に起用するか、起用しないか、自分のチームに残すのか、他のチームに
放出するのかを、毎試合 毎試合見ているようなものです。

 お寺は、そうした競争がありませんから、大丈夫と気を許していますが、
ご門徒の方々は、こうした世の中で生活していた人たちです。
取引先のこの若者は信用できるか、ちゃんと上司に伝わるか、もう一度
相手会社の責任者に確認する必要があるのか、文書で確認しておくべきか、
ひとつひとつ見定めないと、大きな失敗につながるものです。

 ですから、多くのご門徒は、この住職の言うことは大丈夫か、信用できるか、
理解力や行動力、包容力はあるのか、
人生の岐路にさしかかったとき、相談できるか、相談しても無駄かなどと
ついつい観察し、評価しているものなのでしょう。

 そうした、ご門徒の思い、目があることを、気づき、自分を律して
いるのか、のんびりと勝手気ままに、自分のいいようにしているのかで
違いが出てくるのだろうと、思います。

 若い人たちに、それをどう伝えたらいいのか、そんなの関係無い、自分は
自分で思うようにやる、自分は他人をそうゆう見方をしないので、
大丈夫だと思うのか。

こうした、世間の厳しい目が存在することを、知っている人間は
どのように伝えたらいいのか、そのチャンスをどうつくるのか、
感じたことを、だまっておかずに、 ちゃんと知らせることが、
年寄りの勤めだろうと思いながら
 どうしていいのか分からずに、
イライラしているのだろうと、思います。










                        妙念寺       

 

電話法話一覧表へ (平成9年)~
                        

     

掲載者 妙念寺住職  藤本 誠


電話法話一覧表

( 平成18年 )
第676回 味わえる人生  1月 4日~
第677回 祈らない宗教  1月12日~
第678回 どんな苦しみでも  1月19日~
第679回 世間の人々は  1月26日~
第680回 一つの目印  2月 2日~
第681回 デジタル時代の一つの試み  2月 9日~
第682回 来迎は諸行往生にあり  2月16日~
第683回 真実ということ  2月23日~
第684回 善悪のふたつ  3月 2日~
第685回 永遠のいのち  3月 9日~
第686回 念仏せよの呼びかけ  3月16日~
第687回 目的地は  3月23日~
第688回 肥 料  3月30日~
第689回 蓮の花  4月 6日~
第690回 今 ここに寄り添って  4月13日~
第691回 人間と動物の違い  4月20日~
第692回 善 と 悪  4月27日~
第693回 足元にある  5月 4日~
第694回 降誕会によせて  5月11日~
第695回 願いの言葉  5月18日~
第696回 生涯を疑わない  5月25日~
第697回 ありがたい  6月 1日~
第698回 好きなものだけ  6月 8日~
第699回 痛みは 呼び声  6月15日~
第700回 出る息 入る息  6月22日~
第701回 預かりもの  6月29日~
第702回 気づいてみれば  7月 6日~
第703回 誰が 救われるのか  7月13日~
第704回 誰のために  7月20日~
第705回 仏の仲間  7月27日~
第706回 二つの言葉  8月 3日~
第707回 気づくか 気づかないか  8月10日~
第708回 伝えたい  8月17日~
第709回 行き先変更  8月24日~
第710回 GNP より GNH  8月31日~
第711回 卒業記念の団体参拝  9月 7日~
第712回 積極的に参加したい  9月14日~
第713回 念仏と呪術  9月21日~
第714回 新たな価値観  9月28日~
第715回 ある遺書 10月 5日~
第716回 み仏の影 10月12日~
第717回 同じ 光なのに 10月19日~
第718回 無関心は 無責任 10月26日~
第719回 今を生きる 11月 2日~
第720回 誰かのために 11月 9日~
第721回 光と ともに 11月16日~
第722回 自然法爾ということ 11月23日~
第723回 男の料理教室 11月30日~
第724回 伝統の意味 12月 7日~
第725回 有り難い 尊いご縁  12月14日~
第726回 やはり基礎工事が大事 12月21日~
第727回 遇 う 12月28日~
( 平成 19年 )
第728回 賢い主婦は  1月 4日~
第729回 伝統の有難さ  1月11日~
第730回 無我について  1月18日~
第731回 後をたのみます  1月25日~
第732回 闇を破る  2月 1日~
第733回 青色青光  2月 8日~
第734回 功 徳  2月15日~
第735回 あなた この世に  2月22日~
第736回 仏に成る  3月 1日~
第737回 犬に噛みつく  3月 8日~
第738回 ご縁をいただく  3月15日~
第739回 広大なる智慧  3月22日~
第740回 照らされている  3月29日~
第741回 表面だけでなく  4月 5日~
第742回 呼び声 聞こえたら  4月12日~
第743回 更新プログラム  4月19日~
第744回 スペースができました  4月26日~
第745回 見方 考え方 味わい方  5月 3日~
第746回 アンパンマン  5月10日~
第747回 いのちの願い  5月17日~
第748回 わがまま坊や  5月24日~
第749回 応報大悲弘誓恩  5月31日~
第750回 あなたの願いは 何ですか  6月 7日~
第751回 右か 左か 1か0か  6月14日~
第752回 その名を聞くと  6月21日~
第753回 他力ということ  6月28回~
第754回 いただきもの  7月 5日~
第755回 習 慣  7月12日~
第756回 お掃除  7月19日~
第757回 人間に生まれても  7月26日~
第758回 人間と環境  8月 2日~
第759回 ハードとソフト 機と法と  8月 9日~
第760回 浄土真宗の教え  8月16日~
第761回 ベースが大事  8月23日~
第762回 深く生きるためには  8月30日~
第763回 子供が思う以上に  9月 6日~
第764回 癒しと 安心と  9月13日~
第765回 名号は 声である  9月20日~
第766回 私を救ってくださるのは  9月27日~
第767回 私にかわって 10月 4日~
第768回 学仏大悲心 10月11日~
第769回 生きている 今が 10月18日~
第770回 知らされた時 10月25日~
第771回 念仏者へのお手紙 その1 11月 1日~
第772回 念仏者へのお手紙 その2 11月 8日~
第773回 念仏者へのお手紙 その3 11月15日~
第774回 健康第一と言うけれど 11月22日~
第775回 感謝する だけでなく 11月29日~
第776回 明日に向かって 12月 6日~
第777回 ナンマンダブのマーチ 12月13日~
第778回 明日が 12月20日~
第779回 死んだら おしまい ? 12月27日~
( 平成 20年 )
第780回 気づくか 気づかないか  1月 3日~
第781回 電子顕微鏡  1月10日~
第782回 敬いの こころ  1月17日~
第783回 福は内 鬼は内  1月24日~
第784回 信心まことにうるひとは  1月31日~
第785回 隠れた能力  2月 7日~
第786回 ふかくたのみまいらせて  2月14日~
第787回 育ち 盛り  2月21日~
第788回 愚者になりて  2月28日~
第789回 引いたら ゼロ  3月 6日~
第790回 注意していたつもりでも  3月13日~
第791回 順調は プラスか  3月20日~
第792回 名号のほかに 何が不足  3月27日~
第793回 唯説→ 唯聴⇒ 唯説  4月 4日~
第794回 悪人正機  4月10日~
第795回 本当に可愛いのなら  4月17日~
第796回 私の歩む道  4月24日~
第797回 迷いの世に還って  5月 1日~
第798回 念仏は称えるが  5月 8日~
第799回 仏と語る人  5月15日~
第800回 無明我執の中で  5月22日~
第801回 情報操作  5月29日~
第802回 いのちの尊さ  6月 5日~
第803回 自他ともに 心豊かに  6月12日~
第804回 この世も  6月19日~
第805回 奥の座敷には  6月26日~
第806回 目的は  7月 3日~
第807回 見る人の能力で  7月10日~
第808回 いま はたらいて  7月17日~
第809回 自然のはからい  7月24日~
第810回 いのちに組み込まれた  7月31日~
第811回 功徳の宝海  8月 7日~
第812回 これでいいのだ  8月14日~
第813回 恥ずかしいこと  8月21日~
第814回 報いは 自分自身で  8月28日~
第815回 仏教もさまざま  9月 4日~
第816回 感じる能力  9月11日~
第817回 ウイルス対策ソフト  9月18日~
第818回 戦争は したくない  9月25日~
第819回 新しい誕生 10月 2日~
第820回 法味愛楽の目 10月 9日~
第821回 信心は 信受 10月16日~
第822回 私 ひとりのために 10月23日~
第823回 ホンマは 私の娘よ 10月30日~
第824回 伝わっていく 11月 6日~
第825回 亡き人の はたらき 11月13日~
第826回 それを幸いに 11月20日~
第827回 小倉山 モミジの葉 11月27日~
第828回 待たれる身 12月 4日~
第829回 最終の目標 12月11日~
第830回 お預かりします 12月18日~
第831回 通過点 12月25日~
 ( 平成21年 )
第832回 無量寿  1月 1日~
第833回 阿弥陀如来の化身  1月 8日~
第834回 お誘いするのは  1月15日~
第835回 如来と共に  1月22日~
第836回 名号を となへんものをば  1月29日~
第837回 お祝のことば  2月 5日~
第838回 二種の回向  2月12日~
第839回 新たな出発には  2月19日~
第840回 如来のはたらき  2月26日~
第841回 自分の心の中に  3月 5日~
第842回 癒しで 止まったら  3月12日~
第843回 八万劫中大苦悩  3月19日~
第844回 聞くべきものを 聞いたか  3月26日~
第845回 共に歩いて  4月 2日~
第846回 こころにも 栄養を  4月 9日~
第847回 目標は  4月16日~
第848回 信ずるは 喜び  4月23日~
第849回 よく見れば  4月30日~
第850回 赤ちゃんを授かって  5月 7日~
第851回 私なりの花が咲く  5月14日~
第852回 自力回向 他力回向  5月21日~
第853回 ブッダの願い  5月28日~
第854回 法然の発見 親鸞の確信  6月 4日~
第855回 二つの宗教  6月11日~
第856回 ギリギリ最後の  6月18日~
第857回 北風と太陽  6月25日~
第858回 みんな輝け  7月 2日~
第859回 お聴聞のご縁に  7月 9日~
第860回 ああ そうか  7月16日~
第861回 リーダーになる  7月23日~
第862回 いつも一緒に  7月30日~
第863回 生まれた意味は  8月 5日~
第864回 目標を持って  8月13日~
第865回 親の願いは  8月20日~
第866回 問題の解決  8月27日~
第867回 一人 ひとり  9月 3日~
第868回 あまえ  9月10日~
第869回 一歩 一歩  9月17日~
第870回 いま はたらいて  9月24日~
第871回 ご本山と同じように 10月 1日~
第872回 ハタと 気づく 10月 8日~
第873回 人間の考えは 10月15日~
第874回 明るくて たしかなくらし 10月22日~
第875回 知恩 感恩 報恩 10月29日~
第876回 頼む 後は頼みます 11月 5日~
第877回 平生業成の世界 11月12日~ 
第878回  第28願 (本 願) 11月19日~
第879回 ローマの休日 11月26日~ 
第880回 二軒屋の譬え  12月 3日~
第881回  私たちのみ教え(浄土真宗) 12月10日~ 
第882回  これも預かりもの  12月17日~
第883回  仏教の基本  12月24日~ 
第884回 朽ちていくもの 萌えるもの 12月31日~ 
   ( 平成22年 )  
第885回  科学だけでは   1月 7日~
第886回 56億7千万   1月14日~
第887回  多くの いのち と   1月21日~
第888回  仏さまって どんな方   1月29日~
第889回  いつも ニッコリ 笑うこと   2月 4日~
第890回  アア そうか そうなんだ   2月11日~
第891回  不幸の完成   2月18日~
第892回 「昨日の私」 「今日の私」   2月25日~
第893回 なにの分別もなく   3月 4日~
第894回  風船の外側の世界   3月11日~
第895回 決して無駄にはしません   3月18日~
第896回  生老病死の問題   3月25日~
第897回 今 末法の時代には   4月 1日~
第898回  どうぞ お先に  4月 8日~
第899回  ちょうどよい  4月15日~
第900回  安楽浄土に いたるひと   4月22日~
第901回  栄光への脱出   4月29日~
第902回 讃えます  5月 7日~
第903回 可愛い子には  5月13日~
第904回  呼ばれたら   5月20日~
第905回  お浄土のただ中に   5月27日~
第906回  はたらきかけ   6月 3日~
第907回  分別を離れて   6月10日~
第908回  低反発の   6月17日~
第909回 転じられて  6月24日~
第910回  願いにかなった   7月 1日~
第911回  若者に こそ   7月 8日~
第912回 ここは愛敬町  7月15日~
第913回 第二の矢   7月22日~
第914回 あなたは すばらしい   7月29日~
第915回  こころに 唇に  8月 5日~
第916回  縁起するいのち   8月12日~
第917回  見てますよ   8月19日~
第918回  数限りない仏がたが  8月26日~
第919回  遠い国でも  9月 2日~
第920回  見ているもの  9月 9日~
第921回 いそいそと   9月16日~
第922回  骨を砕きても  9月23日~
第923回  親の心を  9月30日~
第924回  子どもと どう向き合えば  10月7日~
第925回 そのうちお世話に  10月14日~
第926回   たった一日のいのち 10月21日~ 
第927回 おかあさん おかあさん  10月28日~
第928回  親指と小指の法則  11月 4日~
第929回  私のために生まれてくれた人 11月11日~
第930回  今がチャンス 11月18日~ 
第931回  目覚めれば弥陀の懐  11月25日~ 
第932回 「今ここ」 の 生き方  12月 2日~
第933回  莫大な遺産  12月 9日~
第934回 見聞が蓄積されても  12月16日~ 
第935回 罪の消滅  12月23日~
第936回 阿弥陀仏の救い  12月30日~ 
   ( 平成23年 )  
第937回  それまでして   1月 6日~ 
第938回  みちみちて   1月13日~
第939回  母の愛よりも   1月20日~
第940回 生きる意味と方向   1月27日~
第941回  自己満足のためではありません   2月 3日~
第942回  人と宇宙との関係   2月10日~ 
第943回  み教えを あなたと聴く   2月17日~
第944回  いよいよ ご本山の大遠忌法要   2月24日~
第945回 お念仏に生きる喜び  3月 3日~
第946回  命の尊さと喜び   3月10日~
第947回 与えられた いのち   3月17日~
第948回 念仏しなされや   3月24日~
第949回  今大切なもの   3月31日~
第950回 新しい誕生   4月 7日~
第951回 修正プログラム   4月14日~
第952回  いつも人々の中にいて   4月21日~
第953回  迷惑では  ないよ   4月28日~
第954回  ボランテイア   5月 5日~
第955回  アクセス解析   5月12日~
第956回  片思い    5月19日~
第957回  自在の救い   5月26日~
第958回  人生そのものの問い   6月 2日~
第959回  真実の教え  6月 9日~
第960回  限りなき光と寿の仏    6月16日~
第961回  今ここでの救い    6月23日~
第962回 光の浄土   6月30日~ 
第963回  報恩の念仏    7月 7日~
第964回 かならず再び会う    7月14日~
第965回  まずは 南無阿弥陀仏から    7月21日~
第966回 ありがとう、よかった、うれしい    7月28日~
第967回  周りのすべてに    8月 4日~
第968回  VIP待遇    8月11日~
第969回  二泊三日    8月18日~
第970回  人生は 自分のものではない   8月25日~
第971回  無党派層は 無関心層ではない    9月 1日~
第972回  いのち終わっても    9月 8日~
第973回  痛手を受けて  9月15日~ 
第974回  今から練習   9月22日~
第975回  トウガラシ    9月29日~
第976回  自業自得(自因自果)  10月 6日~
第977回  極上の良書 10月13日~
第978回  八方の風に 柳は  10月20日~ 
第979回  本当の慈悲は  10月27日~ 
第980回  ピーコちゃん  11月 3日~
第981回 大いなる恵み 11月10日~ 
第982回 反抗しても 抵抗しても  11月17日~
第983回  南无阿弥陀仏の意義  11月24日~
第984回  前提が違う  12月 1日~
第985回  一水四見  12月 8日~
第986回  二つのグループ  12月15日~
第987回  雑行雑修自力  12月22日~
第988回 何事も 初ごと  12月29日~
   ( 平成24年 )   
第989回 泥の中の白蓮華    1月 5日~
第990回 元気が自然に    1月12日~
第991回  野菜づくり   1月19日~
第992回  信心をいただくと  1月26日~ 
第993回   たまたまの出あい  2月 2日~ 
第994回   最高のプレゼント  2月 9日~ 
第995回   生きる基本   2月16日~
第996回  他力本願とは   2月23日~
第997回  さすがあー   3月 1日~ 
第998回  聞く側の問題  3月 8日~ 
第999回  もっと分かる話を  3月15日~ 
第1000回   遠い目標   3月22日~
第1001回  阿弥陀如来=南無阿弥陀仏   3月29日~
第1002回  蓮如上人と 一休和尚   4月 5日~
第1003回  全体を見る    4月12日~
第1004回 三つのよろこび   4月19日~
第1005回   心は 六つに変わる   4月26日~
第1006回 仏さまの拝み方   5月 3日~
第1007回  仏さまのこと  5月10日~
第1008回 生まれてきてくれて ありがとう   5月17日~
第1009回  喜びの言葉を口に   5月24日~
第1010回  呼び続ける親  5月31日~
第1011回  私の一冊  6月 7日~
第1012回 二河白道のたとえ  6月14日~
第1013回  宝もの   6月21日~
第1014回 天与のオモチャ  6月28日~ 
第1015回  桧舞台と味わう  7月 5日~
第1016回 親の片思い  7月12日~
第1017回  素通りしてはいませんか  7月19日~
第1018回  キーワードは 恩  7月26日~ 
第1019回 人生の目的   8月 2日~ 
第1020回  往生の彼方に  8月 9日~ 
第1021回  無くして はじめて   8月16日~ 
第1022回  見えぬものでも  8月23日~
第1023回  迷惑でも  8月30日~
第1024回  声の仏さま  9且 6日~ 
第1025回  ただ念仏  9月13日~
第1026回  百獣の王  9月20日~ 
第1027回  おつとめ  9月27日~ 
第1028回 うらを見せ  10月 4日~ 
第1029回  判断の基準は  10月11日~
第1030回  毎日が 表現の舞台  10月18日~ 
第1031回 生前中は  10月25日~ 
第1032回  なんまんだぶつの子守歌  11月 1日~ 
第1033回 主役は あなた  11月 8日~ 
第1034回 ご縁に 遇えば  11月15日~ 
第1035回  仏教の基本  11月22日~
第1036回 次の世代へ  11月29日~ 
第1037回  ほめ称えずには おれない  12月 6日~
第1038回 追善供養を超えて  12月13日~ 
第1039回  確かな道  12月20日~
第1040回  本願の意味  12月27日~ 
  ( 平成 25年 )  
第1041回 み光をうけて   1月 3日~
第1042回  そっとつながる  1月10日~ 
第1043回  学ぶ 喜び  1且17日~ 
第1044回  お念仏の教えは 仏教です   1月24日~ 
第1045回  ナモアミダブツとは、なんですか  1月31日~ 
第1046回  近道すれば 南無の一声  2月 7日~ 
第1047回 親を喜ばせたければ  2月14日~
第1048回 出家と在家をえらばず  2月21日~
第1049回  念仏の行者   2月28日~
第1050回  手を合わせられる   3月 7日~ 
第1051回 今 気づかせていただく    3月14日~
第1052回 いそぎ 仏に成りて   3月21日~
第1053回 過去 現在 未来   3月28日~
第1054回 仏心とは 大慈悲これなり   4月 4日~
第1055回 いただいている名号   4月11日~
第1056回  前に生まれた人は   4月18日~
第1057回 阿弥陀さまの願いの中に   4月25日~
第1058回 往き易くして人なし    5月 2日~
第1059回 花は 菊だけ?   5月 9日~
第1060回 味わい深い人生   5月16日~
第1061回  こころと身体   5月23日~
第1062回  かえると 一茶と あみださま    5月30日~
第1063回  この私には   6月 6日~
第1064回 根本的な治療法   6月13日~
第1065回  なぜ今 「仏教」 なのか   6月20日~
第1066回  今ここでの救い 2   6月27日~
第1067回 幸せの見える人   7月 4日~
第1068回  独り生まれ 独り死し   7月11日~
第1069回 信心と利益   7月18日~
第1070回  本願力にあひぬれば   7月25日~
第1071回  宮殿に生まれて   8月 1日~
第1072回  わたくしの救い   8月 8日~
第1073回  見守られている私   8月15日~
(平成25年)  
 第1074回 ただ信心の救い   8月22日~
 第1075回 目標がある   8月29日~
 第1076回 彼の岸をめざして いまを生きる   9月 5日~
 第1077回 み仏を よぶわが声は   9月12日~
 第1078回 はたらきづめの 仏さま  9月19日~ 
 第1079回 念仏成仏 これ真宗  9月26日~
 第1080回 ほくほく 生きる 10月 3日~
 第1081回 大好きだよ 10月10日~
 第1082回 ゆらぐ心の支え 10月17日~
 第1083回 お育ていただいた人は強い 10月24日~
 第1084回 行き先が決まった 10月31日~
 第1085回 自力心の否定 11月 7日~ 
 第1086回 失敗のない人生 11月14日~
 第1087回 わが身に驚く 11月21日~
 第1088回 信心 11月29日~
 第1089回 後生 12月 5日~
 第1090回 煩悩 12月12日~
 第1091回 大悲 12月19日~
 第1092回 救うが先手 たすかるが後手 12月26日~
 (平成26年)  
 第1093回 涅槃  1月 1日~
 第1094回 聴聞  1月 9日~
 第1095回 転じられる  1月16日~
 第1096回 やわらかな眼  1月23日~
 第1097回 願作仏心  1月30日~
 第1098回 千無一失  2月 6日~
 第1099回  六神通の願  2月13日~
 第1100回  恩を感じる能力    月 20日~ 
 第1101回  子どもへのメッセージ  2月  27日~ 
 第1102回  地獄と極楽   月  6日~
 第1103回  法要は どんな気持ちで   3月13日~
 第1104回  お念仏で 何が変わるか   3月20日~
 第1105回  浄土とは どのような世界なのか   3月27日~
 第1106回  天上天下唯我独尊   4月 3日~
 第1107回  近道すれば 南無のひと声   4月10日~
 第1108回  磁石のたとえ   4月17日~ 
 第1109回  願いの方向   4月24日~
 第1110回  聴 と聞   5月 1日~
 第1111回  耳で聞く 如来の慈悲   5月 8日~
 第1112回  迷いのHO   5月15日~
 第1113回 浄土は黄金の大地   5月22日~
 第1114回 お念仏は 誰の仕事   5月29日~
 第1115回 「他力」と「自力」の違い   6月 5日~
 第1116回 大きな視線   6月12日~
 第1117回 頑張り知ってるよ   6月19日~
 第1118回 念仏は 呪文では ?   6月26日~
 第1119回 見えぬものでもあるんだよ   7月 3日~
 第1120回 諸行無常   7月10日~
 第1121回 プラス条件を増やせば幸せか   7月17日~
第1122回 いま浄土とは・・   7月24日~
 第1123回 おかあさん   7月31日~
 第1124回 「まかせなさい」の南無阿弥陀仏   8月 7日~
 第1125回 供花のこころ   8月14日~
 第1126回 ロボットにも大事  8月21日~
 第1127回 布施のこころ  8月28日~ 
 第1128回 ご法義のお風呂   9月 4日~
 第1129回 いい人が集まると   9月11日~
 第1130回 アミダさまは ナミダさま ?   9月18日~
 第1131回 星は見えない時でも光っている   9月25日~
 第1132回 育ちざかり  10月 2日~
 第1133回 人は「モノサシ」で物を見る  10月 9日~
 第1134回 「嫌いな人」は あなたを映す鏡  10月16日~
 第1135回 あなたを仏さまにする  10月23日~
 第1136回 どんな あなたであっても  10月30日~
 第1137回 地獄と極楽  11月 6日~
 第1138回 心が変わると景色が変わる  11月13日~
 第1139回 バトンタッチ  11月20日~
 第1140回 わかってるー  11月27日~
 第1141回 習っていないのに  12月 4日~
 第1142回 相手のよろこびは  12月11日~
 第1143回 迷惑かけずに  12月18日~
 第1144回 無駄なものはない  12月25日~
 (平成 27年 )  
,第1145回  遊ぶように   1月 1日~
 第1146回 阿弥陀さまのサイン   1月8日~
 第1147回 右と左   1月15日~
 第1148回 傷つける言葉   1月22日~
 第1149回 一人じゃないから   1月29日~
 第1150回 思い上がり   2月 5日~
 第1151回 プレゼント   2月12日~
 第1152回 両手あわせて   2月19日~
 第1153回 流す涙   2月26日~
 第1154回 あなたが大切   3月 5日~
 第1155回 位牌か 過去帳か   3月12日~
 第1156回 お寺にお参りするのは ?   3月19日~
 第1157回 葬儀は 何故するの   3月26日~
 第1158回 お仏壇は なぜ金色なの ?   4月 9日~
 第1159回 お寺の名前の意味は   4月16日~
 第1160回 阿弥陀如来の救い   4月23日~
 第1161回 他人の失敗は   4月30日~
 第1162回 自分が大切なら   5月 7日~
 第1163回 お浄土でまたあえる   5月14日
 第1164回 死後の浄土より 今が大切   5月21日~
 第1165回 生命は   5月28日~
 第1166回 虹の足   6月 4日~
 第1167回 トンボは 水たまりを 池だと思う   6月11日~
 第1168回 鬼は 私のなかにすむ   6月18日~
 第1169回 どのいのちも 生きようとしている   6月25日~
 第1170回 泣きたいときは   7月 3日~
 第1171回 信心の利益   7月 9日~
 第1172回 憶念の心   7月16日~
 第1173回 求めなくても   7月23日~
 第1174回 有ればあったで   7月30日~
第1175回 ほんとうの宗教とは   8月 6日~
 第1176回 必ずお救いに   8月13日~
 第1177回 お恥ずかしい   8月20日~
 第1178回 如来さまのプレゼント   8月27日~
 第1179回 阿弥陀仏の金の鎖   9月 3日~
 第1180回 出てる 出てるよ   9月10日~
 第1181回 一本の藤蔓   9月17日~
 第1182回 智慧のはたらき   9月24日~
 第1183回 人生は価値ある一瞬  10月 1日~
 第1184回 こころの進歩  10月 8日~
 第1185回 「おかげさまで」のこころで生きる  10月15日~
 第1186回 艱難なんじを玉にす  10月22日~
 第1187回 こころを休める  10月29日~
 第1188回 「自分探し」に惑わされない  11月 5日~
 第1189回 生命科学は万能か  11月12日~
 第1190回 食は いのちの基本  11月19日~
 第1191回 「自分が正しい」 ばかりでは  11月26日~
 第1192回 「苦」 は喜びの種  12月 3日~
 第1193回 自分に自信を持つ  12月10日~
 第1194回 老いも尊い  12月17日~
 第1195回 不安の中で生きる  12月24日~
 第1196回 感激する こころ  12月31日~
 (平成 28年)  
 第1197回 過去から逃げない未来を   1月 7日~
 第1198回 美しく生きる   1月 14日~
 第1199回 この世に生まれてきたのは   1月 21日~
 第1200回 人にまけて信をとる   1月 28日~
 第1201回 母の背中で聞く   2月 4日~
 第1202回 仏さまのお育て   2月11日~
 第1203回 出世本懐   2月18日~
 第1204回 私が如来となる   2月25日~
 第1205回 則我善親友   3月 3日~
 第1206回 報恩 忘恩   3月10日~
 第1207回 にんげんを卒業したら 何になる   3月17日~
 第1208回 私が目覚める   3月24日~
 第1209回 心田を耕す   3月31日~
,第1210回 手を合わすご本尊は ?    4月 7日~
 第1211回 往生浄土の真実   4月14日~
 第1212回 一番良い方向に   4月21日~
 第1213回 聞法の道場   4月28日~
 第1214回 喜んで 勤めて見せる   5月 5日~
 第1215回 祖父母が体験した価値観   5月12日~
 第1216回 乳母車でご案内   5月19日~
 第1217回 手の温もり   5月26日~
 第1218回 阿弥陀如来の本願は   6月 2日~
 第1219回 オキシトシン   6月 9日~
 第1220回 散華楽(さんげらく)   6月16日~
 第1221回 金箔の輝き   6月23日~
 第1222回 正座は 僧侶だけ   6月30日~
 第1223回 老いのよろこび   7月 7日~
 第1224回 私でよかった   7月14日~
 第1225回 世界は誰のために   7月21日~
 第1226回 親のよび声   7月28日~
 第1227回 万人平等の   8月 4日~
 第1228回 人生のもしもしコーナー   8月11日~
 第1229回 自力ということ(聞法のいとなみ)   8月18日~
 第1230回 本願招喚の   8月25日~
 第1231回 還相の菩薩   9月 1日
 第1232回 本当の姿を知る   9月 8日~
,第1233回 精いっぱい生きた いのち   9月15日~
 第1234回 「ナモアミダブツ」 は   9月22日~
 第1235回 目覚まし   9月29日~
 第1236回 条件をつけない  10月 6日~
 第1237回 自分を優先  10月13日~
 第1238回 好き嫌い  10月20日~
 第1239回 欲を拝んでいた私  10月27日~
 第1240回 苦しみからの解放  11月 3日~
 第1241回 熱気球の世界大会  11月10日~
 第1242回 あなたがいて 私がいる  11月17日~
 第1243回 自分は自分の主人公  11月24日~
 第1244回 信心の利益  12月 1日~
 第1245回 空蝉の家  12月 8日~
 第1246回 釈迦の本概  12月15日~
 第1247回 老苦の解決  12月22日~
 第1248回 人間の知恵 仏の智慧  12月29日~
 (平成 29年)  
 第1249回 甚難信   1月 5日~
 第1250回 闇を破る   1月12日~
 第1251回 おそだて   1月19日~
 第1252回 感じる力   1月26日~
 第1253回 法蔵菩薩と阿弥陀仏   2月 2日~
 第1254回 他力は 超・大回転   2月 9日~
 第1255回 わが身ひとつ   2月16日~
 第1256回 憂いも悩みもない世界   2月23日~
 第1257回 完全燃焼の生き方 ー南無ー   3月 2日~
 第1258回 おつとめする意味   3月 9日~
 第1259回 優しい心遣いに応える言葉   3月16日~
 第1260回 独りじゃない場所   3月23日~
 第1261回 四門出遊 ~お釈迦さまの出家~   3月30日~
 第1262回 お葬式と浄土真宗の救い   4月 6日~
 第1263回 報恩講の赤い蝋燭   4月13日~
 第1264回 みな漏れず往生すべし   4月20日~
 第1265回 むなしさを超える   4月27日~
 第1266回 念仏の声   5月 4日~
 第1267回 二種の回向   5月11日~
 第1268回 降誕会とは どういう意味ですか?   5月18日~
 第1269回 本願寺 Q&A   5月25日~
 第1270回 仏教の「救い」とは ?   6月 1日~
 第1271回 一緒性   6月 8日~
 第1272回 仏教の「救い」とは ②   6月15日~
 第1273回 仏教の「救い」とは ③   6月22日~
 第1274回 念仏は 喜び   6月29日~
 第1275回 人身受け難し   7月 6日~
 第1276回 教行信証総序 その一   7月13日~
 第1277回 教行信証総序 その二   7月20日~
 第1278回 南無阿弥陀仏とは   7月27日~
 第1279回 お通夜の席で   8月 3日~
 第1280回 仏教への先入観 ?   8月10日~
 第1281回 仏教への先入観 ②   8月17日~
 第1282回 門徒葬後の朗読法話   8月24日~
 第1283回 他者のしあわせを   8月31日~
 第1284回 夢と希望と喜びを   9月 7日~
 第1285回  誰の、私のお寺   9月14日~
 第1286回 いのちのふるさと   9月21日~
 第1287回 わかりゃいい   9月28日~
 第1288回 乾杯というよりは  10月 5日~
 第1289回 「蜘蛛の糸」の後に   10月12日~
 第1290回 お育ていただいて  10月19日~ 
 第1291回 信心獲得とは  10月26日~
 第1292回 みんな仏に成れるのか  11月 2日~
 第1293回 若い二人に(結婚式での挨拶)  11月 9日~ 
 第1294回 私が私になる  11月16日~ 
 第1295回 引力 浮力 磁力 本願力  11月23日~
 第1296回 生きる喜びに  11月30日~ 
 第1297回 新しいいのちを聞く み仏の声  12月 7日~
 第1298回 至極最上の教え  12月14日~ 
 第1299回 三つの生き方  12月21日~
 第1300回 ただ法を聞く  12月28日~ 
 (平成30年)  
 第1301回 むなしく過ぐる 人ぞなき   1月 4日~
 第1302回 おつとめする意味   1月11日~ 
 第1303回 他力本願とは   1月18日~
 第1304回 今や 稀少な教えに   1月25日~ 
 第1305回 ご先祖が最も喜ぶのは   2月 1日~
 第1306回 お墓や納骨堂は   2月 8日~ 
 第1307回 お礼をする   2月15日~
 第1308回 盲亀浮木(もうきふぼく)   2月22日~
 第1309回 親の七光り   3月 1日~
 第1310回 もらったこと   3月 8日~ 
 第1311回 おばあちゃんのように   3月15日~
 第1312回 小さな石に お花が   3月22日~
 第1313回 「行く」のか 「来る」のか   3月29日~
 第1314回 会葬御礼    4月 5日~
 第1315回 凡夫はわたくし   4月12日~
 第1316回 遇えて はじめて   4月19日~ 
 第1317回 自力と他力   4月26日~
 第1318回 恥ずかしい   5月 3日~ 
 第1319回 私の心に入って   5月10日~
 第1320回 智慧の念仏   5月17日~ 
 第1321回 人生が変わる   5月24日~
 第1322回 みほとけとともに   5月31日~
 第1323回 断捨離   6月 7日~
 第1324回 面白い 楽しい   6月14日~
 第1325回 信心の本質   6月21日~ 
 第1326回 ありのままに見る    6月28日~
 第1327回 足るを知る    7月 5日~
 第1328回 自らを灯明とせよ    7月12日~
 第1329回 布施のこころ    7月19日~
 第1330回 憍慢のいましめ   7月26日~
 第1331回 倒懸 とうけん   8月 2日~
 第1332回 悪を転じて 徳とする   8月 9日~
 第1333回 人生と念仏   8月16日~
第1334回 願以此功徳   8月23日~
第1335回 あみだくじ   8月30日~
第1336回 お願いごと    9月 6日~
第1337回 老いの中で   9月13日~
第1338回 相続すること   9月20日~
第1339回 聴聞のすすめ    9月27日~
第1340回 法を聞く 10月 4日~ 
第1341回 仏さまのおこころ 10月11日~
第1342回 正定業 10月18日~
第1343会 み仏は共に悲しみたもう  10月25日~
第1344回 つなぐ 受け継ぐ  11月 1日~ 
第1345回 帰すべきところ 11月 8日~ 
第1346回 のんのさま  11月15日~
第1347回 恵まれた念仏  11月22日~
第1348回 お念仏のこころ  11月29日~
第1349回 「相続メモ」の手引き 12月 6日~
第1350回 私たちのちかい  12月13日~ 
第1351回 「聞く」 ということ 12月20日~
第1352回 信心正因のおすすめ 12月27日~ 
(平成 31年)  
第1353回 南無阿弥陀仏のおいわれ    1月 3日~
第1354回 念仏の生活   1月10日~
第1355回 慚愧と歓喜    1月17日~
第1356回 悪を転じて徳とする   1月24日~
第1357回 人生と念仏   1月31日~ 
第1358回 チューリップの花    2月 7日~
第1359回 法名と戒名   2月14日~
第1360回 命日は「いのちの日」   2月21日~
第1361回 年忌法要   2月28日~
第1362回 光顔巍々   3月 7日~
第1363回 先哲のことば    3月14日~
第1364回 いつもが臨終法話   3月21日~
第1365回 私の側 仏さまの側   3月28日~
第1366回 努力の質が問題    4月 4日~
第1367回 毎日を仏法という鏡に   4月11日~
第1368回 自己中心の心   4月18日~
第1369回 いつも見守っていてくださる   4月25日~
  (令和 元年)  
第1370回  逃げている私を   5月 2日~
第1371回 次の世代に引き継いでいく   5月 9日~
第1372回 ご先祖をしのんで   5月16日~
第1373回 仏弟子として   5月23日~
第1374回 供花のこころ   5月30日~
第1375回 念仏往生こそが真実の教え(1)    6月 6日~
第1376回 念仏往生こそが真実の教え(2)    6月13日~
第1377回 真実の如来の言葉 「大無量寿経」    6月20日~
第1378回 お念仏によって方向転換する人生(1)   6月27日~
第1379回 お念仏によって方向転換する人生(2)   7月 4日~
第1380回 念仏と信心によって浄土の世界があらわれる   7月11日~
第1381回 聞法の道場に    7月18日~
第1382回 誤解されたお念仏   7月25日~
第1383回 往相回向・還相回向に集約される浄土真宗   8月 1日~
第1384回 ねがいの歌    8月 8日~
第1385回 今すぐに聞く   8月15日~
第1386回 宗教と道徳   8月22日~
第1387回 宗教と科学    8月29日~
第1388回 念仏は 唯一の道    9月 5日~
第1389回 阿弥陀経は 名医の言葉    9月12日~
第1390回 諸仏に護られる    9月19日~
第1391回 もうあう   9月26日~
第1392回 空過か 勝過か   10月 3日~
第1393回 世界の宗教と民族宗教   10月10日~
第1394回 後生の一大事  10月17日~
第1395回 仏智を疑う  10月24日~
第1396回 苦悩は なぜおこるのか  10月31日~
第1397回 苦悩を解決する道 (縁起をみる その1)   11月 7日~
第1398回 聞の宗教  11月14日~
第1399回 予告編   11月21日~
第1400回 老病生  11月28日~
第1401回 信心あらんひと  12月 5日~
第1402回 「なも」か 「なむ」か  12月12日~
第1403回 一時停止は 南无阿弥陀仏  12月19日~
第1404回 忙しいので   12月26日~
(令和 2年)  
第1405回 南无阿弥陀仏は   1月 2日~
第1406回 迷える者は道を問わず   1月 9日~ 
第1407回 内定通知    1月16日~
第1408回 煩悩を持ったままで    1月23日~
第1409回  自灯明とは   1月30日~
第1410回  よかったね   2月 6日~
第1411回 お念仏の人は    2月13日~
第1412回 48願の最初の願は   2月20日~
第1413回 地獄はあるのか   2月27日~
第1414回 ありがとう   3月 5日~
第1415回 終活で一番大事なこと    3月12日~
第1416回 聞くということ   3月19日~
第1417回 価値観の転換   3月26日~
第1418回 水の浮力   4月 2日~
第1419回 死と往生の違い   4月 9日~
第1420回 往生と成仏   4月16日~
第1421回 一切の聖教章の大意   4月23日~
第1422回 雑行・雑修自力の心   4月30日~
第1423回 ほんものの念仏   5月 7日~
第1424回 少しずつマシに    5月14日~
第1425回  怠け者   5月21日~
第1426回 人生を導く教え   5月28日~
第1427回 念仏は 目的   6月 4日~
第1428回 他力のお育て   6月11日~
第1429回 天眼通の誓い   6月18日~
第1430回 天耳通の誓い   6月25日~
第1431回 お世話され 上手になろう   7月 2日~
第1432回 お仏壇って 要りますか ?   7月 9日~
第1433回 仏様の視点   7月16日~
第1434回 発事とは   7月23日~
第1435回 常識を超える教え   7月30日~
第1436回 明るい未来が 開ける   8月 6日~
第1437回 誰に感謝するのか   8月13日~
第1458回 ともに   8月20日~
第1439回 宗教的目覚めを求める叫び   8月27日~
第1440回 命の長短を 超える   9月 3日~
第1441回 取り扱い説明書に気づく   9月10日~
第1442回 親鸞聖人の御恩   9月17日~
第1443回 親鸞聖人の他力観   9月24日~
第1444回 後生の一大事  10月 1日~
第1445回 磁石のたとえ  10月 8日~
第1446回 信心の行者  10月15日~ 
第1447回 すべては如来のお育て  10月22日~
第1448回 大悲還相   10月29日~
第1449回 歯医者さんの言葉   11月 5日~
第1450回 見て聴いてください   11月12日~
第1451回 怖さを知らずの皆様  11月19日~ 
第1452回 おまかせして生きる   11月26日~
第1453回 私の歩む道  12月 3日~
第1454回 素晴らしい発見  12月10日~ 
第1455回 信心は 如来の心  12月17日~
第1456回 最強のワクチン   12月24日~
第1457回 還相回向の菩薩方  12月31日~
    令和  3年  
第1458回 念仏の人を護る    1月 7日~
第1459回 二艘の船    1月14日~
第1460回 健康も病も    1月21日~ 
第1461回 好きか 嫌いか    1月28日~
第1462回 喜びを感じる力    2月 4日~
第1463回 老病死 と 老病生    2月11日~
第1464回 仏さまも 南無阿弥陀仏    2月18日~
第1465回 聞くこと    2月25日~ 
第1466回 待たれていた私    3月 5日
第1467回 小さな針箱    3月11日~
第1468回 言ってしまった一言    3月18日~
第1469回 母が植えた花     3月25日~
第1470回 頭がさがる人生     4月 1日~
第1471回 お念仏に 違いは    4月 8日~
第1472回 見守られている私     4月15日~
第1473回 愛敬父母     4月22日~
第1474回 人生の目的を    4月29日~
第1475回 人形を抱く 母    5月 6日~
第1476回 いつも見守る親    5月13日~
第1477回 私一人が苦労して    5月20日~
第1478回 二の矢を受けない     5月27日~
第1479回 今 よかろうか     6月 3日~
第1480回 声に余言をあらはさず    6月10日~
第1481回 お寺の近くに    6月17日~
第1482回 感じ 味わう力を     6月24日~
第1483回 背番号 17番     7月 1日~
第1484回 浄土真宗は 出会いの仏教    7月 8日~
第1485回 ありのままの自分との出会い    7月15日~
第1486回 声の仏さま 「南無阿弥陀仏」    7月22日~
第1487回 親鸞聖人を知ろう    7月29日~
第1488回 「阿弥陀さま」 との出会い     8月 5日~
第1489回 阿弥陀さまとの出会いを伝える    8月12日~
第1490回 たった2泊3日だけ?    8月19日~ 
第1491回 名前を呼ぶ    8月26日~ 
第1492回 本当の姿を映す鏡    9月 2日~
第1493回  お寺は どんなところ    9月 9日~
第1494回 「おぶっぱん」    9月16日~
第1495回 期待され 待たれている私    9月23日~ 
第1496回 お念仏は 讃嘆のことば     9月30日~
第1497回 今や 貴重な教えに   10月 7日~
第1498回 ご縁で人生は変わる   10月14日~
第1499回 平等な はたらき   10月21日~
第1500回 願いが届いたところ   10月28日~
第1501回 思い通りに    11月 4日~
第1502回 教信行証か 教行信証か   11月11日~
第1503回  温泉とお念仏   11月18日~
第1504回  みえないものでも あるんだよ   11月25日~
第1505回  釈尊も 南無阿弥陀仏   12月 2日~
第1506回  ご本尊は お釈迦さま 阿弥陀さま   12月 9日~
第1507回 すべての仏さまが 讃嘆される   12月16日~
第1508回  ご縁のある人 ない人   12月23日~
第1509回 人間の力の限界   12月30日~
        令和 4年  
第1510回 伝絵には 比叡山が    1月6日~
第1511回 よろこぶこころ 身にうれば     1月13日~
第1512回 のんのさま    1月20日~
第1513回 遇い難くして 今遇う    1月27日~
第1514回 平生業成    2月 3日~
第1515回 信心正因    2月10日~
第1516回 信心を いただくということ     2月17日~
第1517回 総代さんのお通夜    2月24日~
第1518回 総代さんへの弔辞     3月 3日~
第1519回 念仏者の生き方     3月10日~
第1520回 選択称名の願     3月17日~
第1521回 第17願     3月24日~
第1522回 限られた情報だけでは     3月31日~
第1523回 新しい会を 開きたいと    4月 7日~
第1524回 考えに 考えて 選ばれた道    4月14日~
第1525回 こころ ころころ     4月21日~
第1526回 私が ここにいるよ     4月28日~
第1527回 19願 20願     5月 5日~
第1528回 お寺 楽しいーん     5月12日~
第1529回 仏縁を結ぶ     5月19日~
第1530回 初めての道を行く     5月26日~
第1531回 浄土真宗は 讃嘆の教え     6月 2日~
第1532回 あじさいの花     6月 9日~
第1533回 一番上等のお供え    6月16日~
第1534回 ただ 「今」 を 生きる     6月23日~
第1535回 歩くカラス     6月30日~
第1536回 命の代表選手     7月 7日~
第1537回 サラダ記念日    7月14日~
第1538回 半 眼    7月21日~
第1539回 仏さまになって    7月28日~
第1540回 かくれんぼ    8月 4日~
第1541回 大丈夫は 優しい言葉    8月11日~
第1542回 見えないぬくもり    8月18日~
第1543回 人の為は 偽    8月25日~
第1544回 知ろうとすること わかろうとすること    9月 1日~
第1545回 いつも一緒のアミダさま    9月 8日~
第1546回  健康寿命日本一    9月15日~
第1547回 お世話したのか されたのか     9月22日~
第1548回 驚いたこと     9月29日~
第1549回 お母さんの写真が   10月 6日~
第1550回 しあわせな人生    10月13日~
第1551回 かけがえのない君へ   10月20日~
第1552回 朝のどまんなかに   10月27日~
第1553回 片道か 往復か   11月 3日~
第1554回 誓いと 願い   11月10日~
第1555回 言葉で 救う   11月17日~
第1556回 人間にわかる言葉で    11月24日~
第1557回 お念仏は 公の言葉    12月 1日~
第1558回 伝え 伝えて   12月 8日~
第1559回 お仏壇の前で   12月15日~
第1560回 何事も お念仏の助縁   12月22日~
第1561回 遇い難くして 今遇う   12月29日~
           令和 5年  
第1562回 深い 深い 思い    1月 5日~
第1563回 最も確実な親孝行は    1月12日~
第1564回 酔っぱらって    1月19日~ 
第1565回 親は 子どものために     1月26日~
第1566回 最も度し難いのは この私    2月 2日~
第1567回 はたらき続ける仏さま     2月 9日~
第1568回 お浄土への道     2月16日~
第1569回 等しく ~すべてのものを~    2月23日~ 
第1570回 還相の菩薩さま方     3月 2日~
第1571回 願いを伝えていく   3月 9日~ 
第1572回 お育ていただくと     3月16日~
第1573回 合格通知が届きました   3月23日~
第1574回 お浄土も人手不足か    3月30日~
第1575回 信心喜ぶ そのひとを     4月 6日~
第1576回 すれ違い 行き違い   4月13日~
第1577回 法事の参拝者は    4月20日~
第1578回 親のよび声   4月27日~ 
第1579回 問題は 内側に    5月 4日~
第1580回 葬儀をなぜするの?    5月11日~ 
第1581回 お経を聞くと アルファー波が   5月18日~
第1582回 忘れなければ 生きていけなかった   5月25日~ 
第1583回 新しい領解文   6月 1日~ 
第1584回 仏前結婚式での ご法話   6月 8日~ 
第1585回 頼まないのに 呼びかけ   6月15日~
第1586回 ちゃんと見られている   6月22日~
第1587回 人は 誰しも いつかは   6月29日~
第1588回 きく・菊・聴く・聞く    7月 6日~ 
第1589回 仕合わせな人生を    7月13日~
第1590回 仏教のことば    7月20日~
第1591回 しあわせ 幸せ 仕合わせ   7月27日~
第1592回 仏法は 聴くべきもの    8月 3日~ 
第1593回 この世に 無駄なし    8月10日~
第1594回 受け継がれていくもの   8月17日~ 




                       
               妙念寺



記載者 住職  藤本 誠

 
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