第977回 極上の良書  〜中溝文治さんのメモ〜

 平成23年 10月13日〜

中溝文次という お念仏の方が 近くに住んでいらっしゃいました。
もともと禅宗の方ですが、若いときからずっと お念仏のお話を
聴聞なさっていた有り難い方でした。

先日 奥様がお見えになって、主人が読んでいた本、もらって

いただけませんかと、金子大栄先生の本を 中心にして お持ちいただきました。

その一冊に、赤のマジックで 極上良書 11年書と 書かれた

「念佛 ただ一筋の大道」(有渾社発行)がありました。

表紙には 赤丸をつけて、赤い字で

「分からずとも再考再考 平20,8,10」とあり。
表紙の裏側には「本書無限の味 19,7,6」

「唯拝読すること、分かる分からんは 次の事。佛のお言葉を唯相続すべし
 平19,8,3」等が書かれ

最後には、
「佛教が分からないというのも お慈悲の内であろう。平成22,1126日」とあります。
 また、金子先生が、「87才から89才までの講話、私は93才にもなる
 そして分かりづらい。」とも 書かれています。

目次の前の頁には、感動した内容が抜き書きされたのか。
「 称うるものが 念佛であって 称うる心が信心である。95」

「 佛のおまことを信ずる心、それが即ち称えるこころになるのである。95」
「 称えということと信ずるということと一つにして いただかしてくださるのが
 曇鸞大師の思し召しであります。」等が見えます。

また、本文の中で 赤い線が沢山引いてあるところの一つに

 「称えずにはおれないもの」181頁

   どうして称えなければならんのでしょうか、ということである。
   称えなければならんというわけはないんだな。
   けれども称えなければこの身と阿弥陀との間柄が実際に感知されません。
   お父さん、お母さんという時に父母と自分との間柄が明らかになるのです。
   そのように南無阿弥陀佛と称えなければ念佛の意味は実現しないのであります。
   したがって称名でない念佛は観念であります。

   また称名念佛は即ち如来の廻向であります。
   それは呼び名があるからでしょう。だからお念佛というものは称えなければ
   ならんというようなものではない。けれども称えずにはおれないものなのであります。
   称えなければならんとうものと、称えずにおれないものというのは違うのです。
   従って、称えねばならんことはないけれども、称えられるものであり、
   称えないでもよいものであるけれども、称えずにおれないものがあります。;・・・

 お念仏の先輩が 還相の菩薩であっただろう方が、赤く印をつけていただいたところ、
 有り難く拝見しております。

 妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
  次回は、1013日に新しい内容に変わります。

         


           私も一言(伝言板)