第584回 念仏申すということ

  平成16年 4月1日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

金子大栄という先生のご本の中に こんな所がありました。

学校の先生に日本の仏教についてお話しした後、座談会で質問がありました。
「浄土真宗には修行というものがありますか]
「修行というものはありません。」

「修行のない仏教というのがあるのですか。」 と聞かれたといいます。

直前に禅寺で3週間ほど座禅をしてきたという方からの質問でした。

 物知りの常識では、念仏信者は、お念仏さえ称えているだけでいいのかと
問題にする。

キリスト教あたりでは、貧しい者を救い、病人をなくす慈善事業をしている。
それがつまり神の心の実践であるが、仏の心を実践するというならば、
南無阿弥陀仏と称える他に、何か行がありそうなものだということになる。

だから、南無阿弥陀仏はどこまでも願であって行でないというのが世間の
常識であり、文化人の考え方である。


 しかし、善導大師は南無阿弥陀仏は行であるといわれ、親鸞聖人は
この行に大の字をつけて 「大行といふは即ち無碍光如来の名を称するなり」と
いわれる。
老少善悪を選ばず、男子も女人も、また智慧ある者もない者も、わけへだてなく、
時所をきらわないところに大いなる行が、南無阿弥陀仏と称えることであると
いっておられる。


 修行をして来たという方々に答えて、あなたたちは山へ入って修行して
こられた、山という一つの道場があったからである。


生活をしばらくはなれて山という道場で修行してこられたのであるが、
真宗念仏者にとってはそういう道場はない。しいて言えば、与えられた
生活がすなわち道場です。


朝起きて夜寝るまで、欲を起こしたり、腹を立てたりしながら、職場で仕事をし、
台所で働く、そういうところが道場であり、それが修行の場所なのです。


人生をはなれて別に修行の場所はなく、与えられた人生をそのまま修行の
場所としていこうというところに、真宗というものの在り方がある。



 禅宗には公案というものがある。なぞみたいなものを出して、そのなぞを
解いていくというところに修行がある。


真宗では、与えられたる人生がなぞで、我々は毎日公案を与えられている。
親が死んだ、子供が死んだ、悲しくてどうしていいかわからん。
これをいったいどう解いたらいいのだろうか。


人生は問題の連続、公案の連続である。この公案を解いていこうというときに
なると、これは容易なことではない。


南無阿弥陀仏がそれを解いてくれるのであります。念仏する心が我々の
生涯を導いていくのであるから、念仏申すほかに、宗教的な実践というものは
ないのです。


口意の三業より離れることが出来ない我々にとって、何の宗教的な実践が
できようか。ただ南無阿弥陀仏を称え、南無阿弥陀仏の心によっていくことの
ほかにないのです。


このように書かれています。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、4月8日に新しい内容に変わります。


    金子大栄著 凡夫のさとり 115頁