生かされていた私

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

お念仏で本当に救われるのですか、その意味が

よくわからないという録音が、この電話サービスの

最後に録音されていました。


ちょうど、千代田町の貞包哲朗先生の

親鸞聖人の手紙に学ぶという新しい本を、

読んでいました最中ですので、その中からの

「 生かされていた私 」 という文章の一部をご紹介して、

ご質問の答えとしたいと思います。


貞包先生が胃の手術をされて、その後肝炎に感染されて、

長い入院をされていたときのお話です。

やっと歩けるようになったとき、自分の足で自由に

歩けることが出来て、なにより有り難く感じられたそうですが、

医者に進められて早朝の散歩を始められました。


「 ある朝、朝霧の流れる田園の中の道で、

東の地平線に赤い太陽の美しさを見ていて、

ふっと、これは二千五百年前、ブッダが悟りをひらかれた時、

また、八百年前、親鸞聖人が比叡山で修行をされていた時、

仰ぎ見られた太陽と同じ太陽だなと思っていて、

そうだ、私はこの太陽に、そして、このかぐわしい空気や

この川を流れる水や、草木の中で  「生かされて 」 いたのだと、

全身で感じて足を止めたことがありました。


お恥ずかしいことですが、四十歳を過ぎて、

これは生まれて初めての経験でした。

その時、心の底から思ったことは、恵みの真ん中にいながら、

この歳までその恵みに気づきもせず、感じもせず、

まして感謝することも知らずに来たということでした。


かぎりなき 恵みのなかに 生かされて

  恵みも知らず み恵みに生く


この歌は、まさしくそれは、私を指したものでした。

そう思ったとき、われ知らず 「 なもあみだぶつ、なもあみだぶつ 」 と

いうお念仏が出ていました。

今まで私はごくあたりまえのように

「 わたしが生きている 」 と考えてきました。

しかしそれは間違いで、ほんとうは私は 「 生かされて 」 いた

のだということです。


「 オレが生きている 」 という幼い常識的な自己中心の立場から、

すべてを評価して生きてきた私のような人間こそ、

正信偈にいわれる  「邪見驕慢の悪衆生 」 に当たると思われました。


私はここに、「 我がはからい 」 だけを頼りとし、

その中だけに住んでいた人間が仏智にふれて、

限りない本願の働きに気づき、我見が打ち砕かれ、

私を包む大きな 「 おはからい 」 の世界があることに驚き、

めざめること 「 他力への目覚め 」 の機縁が

あったように思われるのです。


千代田町の貞包先生のご本の中から 「 生かされていた私 」 の

一部をご紹介させていただきました。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

次回は、5月28日に新しい内容に変わります。

( 平成10年 5月21日〜 第278回 )