浄土真宗・お念仏とは


三十七分で 分かる 浄土真宗

〜せめて これだけは、読んでください〜

 

はじめに

 

宗教は、 「 しつけ 」 と 同じように子供の頃に、親から受け継ぐものです。

道徳や倫理と同じく、大人になる前に身につけておくべきものでした。

 ところが、この半世紀の間、知識だけは、一生懸命に教えようと

しましたが、人間として生きる智慧は、国民あげて忘れてしまって

いたようです。

そして、重要だという知識教育でさえも 学校や学習塾の先生にまかせ、

入学試験に出る知識が中心で、自分の子供にとって 最も必要なものを、

ちゃんと伝えることが 出来ずにいたようにも思います。

裏返すと、子供に伝えるべき最も大事なものを受け取らないまま 親になり

親として 子供や孫に 何を伝えたらよいのか、分からずに 迷っているのが、

今の
大人の実態のようです。

人間にとって 何が必要で、何が大事であるのかが、分からない未成熟な

大人たちに養育されている、現代の子供たちこそ 大変かわいそうです。       

 

 ところで、地方の家庭には、ほとんどお仏壇があります。

江戸時代の先祖が、数ある教えの中から選び取った宗教です。

ところが、形だけが残り、先祖が伝えようとしたその教えの内容は

受け継がれていないケースが多いように見受けられます。

今こそ 情操教育が必要だ、宗教教育が必要だと、言われますが、

はたして、わが家の宗教がどんな教えであるのかを、調べようと、

書籍を探したり、所属の寺院の住職に聞いてみても、なかなか

分かりにくいことばかりです。

説明される内容が、常識では 理解出来にくいことばかりだからです。

 

 私ども浄土真宗の教えは、特に 常識を越えた教えです。

「浄土真宗の入門書」 を見ると、子供のころからお念仏に親しんだ

人には 理解出来ても、初めて読む人、聞く人には、難しくて、

その考え方が なかなか理解出来ないことばかりです。

それは、馴染みのない専門語や、違った意味で使われている

用語が多く、読んでも聞いても、なかなか意味が通じないものです。

信者のため、信じる人のために、書かれた解説書や法話が大半で、

予備知識のない人には、外国語を読むように部分的にしか理解出来ません。

 

 そこで、はじめてお寺に行くようになった人。

おじいちゃんやお祖母ちゃんを亡くして、お寺と関わることに

なって、とまどっている人。

毎日の生活に 何の不満もないものの、どこか虚しく感じ、生きがいが

見つけられない人。

そして、自分の親は何で頻繁にお寺に、出掛けたのか知りたい方。

子供や孫に、何を伝えたら良いのか、具体的に知りたい方。

どうぞ、この冊子を読んで下さい。

37分間で読めるよう、基本的なことを 短く紹介しています。

一息に読んで、疑問が出て来たら、専門書やご住職へ聞いて下さい。

 

この内容は、成人してから教えに出会った一人の住職が、俗世間の

生活感覚で、お念仏の教えの味わいを紹介しているものです。

 

平成十二年 十二月十二日 (平成25年10月30日加筆)

 

 

一、祈りの宗教、目覚めの宗教

 宗教は、「祈る」 ものだとの常識があります。

真剣に祈れば問題が解決されるのが宗教で、その対象が神や仏である

そう考えている方が、多いと思います。

ところが、浄土真宗は祈らない宗教だといわれます。

「お願いします」 と祈ることをしないのが、お念仏の教えだといわれます。

祈らないで、どうして願いを聞いてもらうのか、願いがかなえられない

宗教など、意味がないと考える人も多いことでしょうが、はたして、

祈らない宗教を、何故、私の先祖は選んだのか、疑問も出て来ます。

 浄土真宗は、目覚めの宗教だといわれます。

朝、目を覚ますという、あの目覚めの宗教だと言われます。

私たちは、毎日夢中になって生きていますので、ちゃんと目を覚まして、

しっかり生きているようですが、どうも夢をみているような、夢の中に

いるような、ぼんやりとした毎日を過ごしているのではないか

との問いかけです。

 

忙しさのあまり、自分がどんな生活しているのか、どんな行動を

とっているのか、自分中心で、他人を困らせ迷惑をかけていることにも

気づかず無頓着で、自分自身のことは、よく分からず生きています。

周りの人のことは、良く見えるものの、自分のことが分かっていません。

ところが、鏡に自分の姿を写すと自分の目で確かめることができます。

これと同じように、お経には、仏さまの働きを光りに例えて説かれており、

ちょうど暗闇の中で、光りに照らされると、自分の置かれている場所や、

自分が進む道が分かるように、教えに出会うことで、自分自身が

すこしは見えてくるというのです。

そこで、お念仏の光りに照らされる教えは、目覚めの教えと言われます。

しかし 何故祈らないのか、何故祈らなくてもいいのか、疑問です。

 

 

 

二、おねだりの中味は

 

 私たちが、祈るその内容は、ほとんどの場合、健康になること

お金が儲かること、子供や孫の入学試験や就職試験、お店や会社の

仕事がうまくいくこと、農作物が豊作であることなどです。

まずは、自分の家族や親しい人の幸せを願っています。

自分のことよりも、周りの人のことを思って祈っていますから、

自分は、自己中心ではないと思い込んでいます。

しかし、よくよく考えてみると、私の血縁であったり、私の友人、

私の学校、私の応援するチーム、私のことをよく理解してくれる人など、

どれもこれも、私の都合の良い人のことだけを祈っています。

同じ私でも、私にとって都合の悪い人のことは、反対にその人が

幸せに成らないことを願っていたりします。

競争が伴うときには、相手を押しのけて、なんとか自分の味方を

勝たせたいと祈っています。                       

これは、小さな子供が自分さえよければ良いと、兄弟も友達も無視して

玩具を奪い取って、遊んでいる姿と何ら変わらないように思います。

こうした子供を見たときに、大人が思うことは、そんなわがままは駄目、

みんなで仲良くしなさいというものです。

私たちは、小さな子供が玩具を取り、独り占めするのと同じように、

自分と自分に関わる人だけのことを考えて、祈っています。

そんな祈りが叶えられるとは、とても思いませんし、そんな願いが

叶えられたとしたら、本人の為には決して良いことではありません。

自分さえ良ければいいという、わがままは許してはいけないと思うのが

大人です。神も仏も、大人の目と同じように、そのような勝手な願いを

叶えてはくれないと思います。

そうした、わがままを叶えてもらえると思うのは、どうも、科学的にも

社会的にも、問題があるように思えませんか。

 

 

 

三、人間の願いと仏の願い

 

 私たちの願いは、小さな子供のわがままな願いと同じではないか。

それに対して、仏さまの願いは、中でも阿弥陀如来の願いは、そのような

一部の人の幸せだけではなく、すべての人を平等に幸せにしたい

という究極の願いだと言われます。

阿弥陀如来の願いは、大無量寿経というお経に詳しく説かれています。

一人の国王が、仏さまの教えを聞き、自分も、どの国よりも優れて、

すべての人を、本当に幸せにできる理想の国を創りたいと思い立ち、

その理想の国に、生まれさせるには、どうすればよいか。

競争に勝った人、難しいことが出来る人、お金がある人、健康な人など、

特別な人だけが、幸せになれるのならば、それは、すべての人ではなく

選ばれた特別の人だけが幸せに成れるのです。

この現実の世界とまったく同じであり、すべての人が等しく幸せに

成れるという理想の国ではありません。

そこで、そうした理想の国を完成させるために、宇宙的な長い時間考え、

二百一十億という仏の国々、すべてを調べ、また天文学的な長い時間

修行して、すべての仏の国に越え優れた理想の国を完成された、それが

お浄土であると、お釈迦さまが説かれているのです。

 現在、国連に加入している国は、200ケ国以上あります。

二百一十億という数は、いま地球上に現存する国の一億倍にもあたります。

そのすべてを調べ、どの国よりもすばらしい国を創りたいと、努力して、

完成したと説かれているのです。

すべての人が平等に幸せになるようにしたい、難しい条件を必要とせず、

ただ「南无阿弥陀仏」と、
お念仏一つ口にすることで、救い取りたいというのが

阿弥陀如来の
願いであり その国がお浄土であると説かれています。

 

 

 

四、救われるというのは

 

南無阿弥陀仏を口にする生活で、何故お浄土に生まれることができるのか。

それは、人間の知識ではとても理解できません。

しかし、お釈迦さまはすでに、お浄土は十劫(じっこう)という昔々に完成しており、

その場所は、十億の仏の国々を過ぎたところにあると、説かれています。

しかし、その国は、そんなに遠い所にあるのではなく、すぐ近くにある

とも説かれています。

そのお浄土へは、命終わってから生まれることができ、生きている間は、

お浄土に生まれることに決まった仲間、仏になる仲間であると、

親鸞聖人は教えていただいています。

ですから、救われるといっても、いまこのままで、お浄土に生まれ

救われるのではないのです。

お念仏の人は、命終わればお浄土へ生まれ、喜びに満ち満ちた、

仏としての働きが出来るものの、生身の体をもった今は、喜びもあり

苦しみもあり、痛さもかゆさも、腹立ちも怒りもどうすることも

出来ない悲しさを持っているものです。

しかし、その苦しみも痛みもお念仏の生活をすることで、和らげられ、

解決されていくのも、また事実です。

私たちの先輩たちは、お念仏をする生活の中で、どのような苦しい

境遇にあっても、力強く生き抜いて来られました。

とても耐えることのできないような逆境でも、いきいきとにこやかに

心豊かな生活をしてこられました。

科学的な思考しかできない頭で考えては、なかなか理解できませんが、

お念仏の生活で、こうした予想も出来ない変化が起こるのは事実です。

多くのお念仏の人は、この世で、人間であることの苦しみを乗り越えて

生きて行くことが出来たのです。

お念仏の生活は、人びとに大きな変化をもたらし続けてきたのです。

 

 

 

五、南無阿弥陀仏で救われるのは、

 

 南無阿弥陀仏を口にする生活で、人間としての苦しみを乗り越えて、

力強く生きることが出来るのは、どうしてでしょうか。

南無阿弥陀仏というのは、呪文なのでしょうか。

どうしてお念仏で変化が起こるのか、なかなかうなずけません。

しかし、よくよく考えてみますと、南無阿弥陀仏というのは、

どういうことを口にしているのかと言えば、阿弥陀如来さま

あなたほど すばらしい仏さまはありません。

あなたの国ほどすばらしい国は他にはなく、あなたの理想こそ私は、

最もすばらしい理想、願いだと思っています。

私は阿弥陀さまを信じ、頼りにし、すべてをおまかせしますと、

口にしているのです。

 

南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来をほめたたえ、私も阿弥陀如来のように

なりたいのですと、口にする言葉なのです。

今 私が生活するこの地球上のこの国の生活もすばらしいものですが、

それにも増して、阿弥陀如来の理想の国こそが最高だと思います。

私も、その世界に生まれたいと思っていますと、南無阿弥陀仏は、

口にしていることになるのです。

ところが、私たちは、ただ口に南無阿弥陀仏というものの、その意味は

その言葉の意味は良く知らずにいます。

そこで、蓮如上人は、ただ口にお念仏をしただけでは、救われない

お説教を聞き、お聴聞しなさいと勧めておられます。

口に阿弥陀如来を讃えながら、その意味が味わえないと、それは、

ただの呪文と同じように思えます。

将来、お浄土に生まれることは確かとしても、いま、この世で、

その喜びが味わえず、空しい毎日を過ごすことになってしまいます。

お聴聞して、南無阿弥陀仏の意味を味わい、阿弥陀如来の理想の世界

お浄土のことを味わい、阿弥陀如来の願いが少しでも味わえると、

この世界が、今この時が、大きく転じられていくのです。

                       

 

 

六、仏も称える南無阿弥陀仏

 

 阿弥陀如来の願いは、四十八に分けて説かれていますが、その中に

すべての仏さまが、みんな「南無阿弥陀仏」と讃えておられると説かれています。

人間だけではなく、すべての仏さまが「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来を

ほめたたえておられると説かれています。

 お釈迦さまは 何を伝えようとされたのかを考えますと、どんなに

すばらしい仏がおられようが、どんなすばらしい国があろうとも、

お浄土以上の世界は どこにも存在しない。

最高の世界は、阿弥陀如来のお浄土であると説かれているのです。

 私たちは、もっと良い生活が、もっとよい場所が、もっと大きな

喜びが、と最高のものを追い求めています。

もっともっとと、欲張りの心を持っています。

この満足しない心があることで 努力も出来、我慢も出来るものです。

しかし、行き着くところが見えず、いつも不安と苦しみを抱えながら

生活をすることは、重苦しいことです。

その私に、最高の世界を示すことによって、その理想へ向かって

進めば良いことを、目標、目的を示すことで、安心を与えて

もらっているのです。

誰かが、あそこに すばらしい世界があるとつぶやけば、そっちを向き

こっちに もっとすばらしい世界があると聞けば、あわててそっちを見て、

あっちへ行ったり こっちに来たり、うろうろするばかりで、人生を

無駄にしている人も多いものです。

最高の理想の世界は、お浄土である。

すべての仏も、南無阿弥陀仏と阿弥陀如来をほめ讃えている。

阿弥陀如来こそが最高で、そのお浄土に生まれた、すべての人がみんな

最高の喜びを持って活躍していると味わえた時、その方向へ進むことで

大丈夫だと、安心が出来るものです。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来の願いが、阿弥陀如来の世界、お浄土が、

最も理想の世界であり、私もそこに行きたいと口にしているのです。

 

                     

 

七、安心したら努力がない

 

 阿弥陀如来のお浄土へ向かって、お念仏をしながらの生活は、

不安や悩み、痛み苦しみがどんなにあっても、その苦しみを乗り越える

力を与えられるものですが、一般には、お念仏の教えは怠けものの

努力出来ない人のための教えであると、思われています。

悩み苦しみは、大きな望みを持ったとき、前進しようとした時に、

生じてくるものです。

そして、その不安は、緊張感を生み出し、人間をたゆまず努力させ

前進させるものでもあります。

確かに、入学試験や競争社会では、安心してしまうと、怠け心が出て、

もう努力することを忘れてしまうこともあります。

不安がなくなると、投げやりな気持ちになって、ぼんやりと毎日を

送ってしまうケースも多々あります。

 お念仏の人は、将来、仏になることが決まっているのだから、

もう何の努力も必要ではないと積極性がなくなってしまいそうです。

お念仏の人は、将来がはっきり決まっているので、何もしなくて

よい、わがまま放題、怠け放題でいいように 感じてしまいがちです。

しかし、安心すると人間は怠け者になるのでしょうか。

不安で不安で仕事も手につかない。やるべきことも忘れて、悩み苦しみに

心を奪われていることの方が、もっと人生としては無意味なものに

なりそうです。

お念仏の人の特長は、将来が決まって、不安がなくなり、心おきなく

今この時に、精一杯やれることを やらせていただく、その結果、

生きがいが出てくる、喜びの生活が訪れてくることです。

将来の心配がないので、この程度でいいだろう、もう充分だろうという

ことではなく、こんなことではあいすまない。

こんなことでは申し訳ないと。怠けごころどころか、予想もできない

積極性をもたらすものです。

将来の不安に心を奪われて、くよくよするのではなく、阿弥陀さまの

願いに叶った、お浄土の生活を想像した、最も人間らしい生き方が

出来るようにしていただけるのです。

 

 

 

八、下心のない行動

 

 私たちの日常は、周りの人間の目を気にして生きています。

ほめられること、もうかること、評判がよくなることは、素直に

行動出来るものです。

しかし、誰も見ていないところ、自分の仕事でないこと、頼まれて

いないこと、自分が忙しいとき等は、やるべきことを、やらないで、

自分に言い訳をして、気づかないふりをして見過ごしてしまうことが

多いものです。

本当は、自分の仕事をなげうってでも、やればよいのに、素直に

行動出来ない私がいます。

 これに対して、仏さまの働きは、ほめられることがなくても、

誰も見ていなくても、ひたすら人びとを救うために、ご努力いただいて

いると説かれています。

例え、自分がどんな苦しみに落ちようとも、一人の人間も残す

ことなく救わねばおかないと、努力いただくのが阿弥陀さまです。

まずは、自分のことを第一に考えてしまう人間に対して、

仏さまは自分を最後にして、悩み苦しむ人をそのまま ほっては

おけないと、働きかけてくださるのです。

数ある仏さまが おられても、特別の人だけではなく、すべての人を救おうと

されるのは、阿弥陀さまだけなのです。

 私たちも、時には、人のため素直に行動することもあります。

しかし、その多くは、良く思われたい、褒められたい、恩をきせたいと、

心のどこかで、思っていることが多いものです。

行動しているときは、夢中で損得を考えず、がんばっていても、

一息つくと、もう自分がやったことに対して、評価を期待しています。

小さな子供が、お手伝いをして、ごほうびを期待するように、お返しを

期待し待っています。

よく、「あんなにしてやったのに、一言のお礼もなかった」との文句を

聞きますが、自分の行動に価値を付け、お返しを期待しているためです。

自分の行いのどこかに、下心があるように思います。

お念仏の教えは、お返しを期待しない、私の方がお返しする教えです。

下心なく 素直に行動ができるように 育てられる教えです。

 

   

 

九、報恩感謝の教え

 

 お中元や、お歳暮に、これからもよろしくお願いしますと、これから

先のことを期待して差し上げる場合と、大変お世話になりましたと、

これまでのお礼で差し上げる場合とがあります。

これまでの、お礼とこれからの期待と両方の場合もありますが、

お念仏の教えは、これから先をお願いする教えではないようです。

これまでの御恩を感じると、もうじっとしておれないというのが、

お念仏の教え、報恩感謝の教えなのです。

 一般に感謝しています、ありがとうございますと、喜びの生活をして

いると、よく言われますが、その感謝の印として、お礼参りをしたり、

お礼のお金を包んだり、お礼の念仏をとなえたり、寺院や神社を建てたり、

感謝の方法にもいろいろあるようです。

しかし、お念仏の教えは、ただ南無阿弥陀仏と口にお念仏をすることが

感謝の行動であり、感謝の言葉です。

お念仏こそが、報恩感謝の行動です。

こういうと、ただ念仏だけをしておればそれでよく、後は何もしなくて

良いように受け取れますが、実際に報恩のお念仏を続けてみると、

もうじっとしておれなくなる、前向きの人もたくさん出てきます。

病気で寝たきりの人でも、忙しく仕事をしている人でも、お念仏をして

阿弥陀如来の働きが味わえてくると、もうじっとしては、おれなくなるのが、

お念仏の教えです。

寝たきりの人でも、自分が出来ることで感謝を表現する人が出てきます。

自分の痛み苦しみ、自分のつらさだけに目が向くのではなく、

その自分の為にお世話いただく、多くの人のご苦労へも心が届き、

心からのお礼の言葉や優しい笑顔、思いやりが出てくるものです。

自分のことだけを考えていた人が、周りの人のことも考えることが

出来るようになってくるのです。

同じ病気で寝たきりの人でも、自分ほど不幸な人間はいないと嘆く人と、

自分ほどみなさんに支えられて、生かされている幸せものはいないと

喜ぶ人とでは、大きな違いが出てきます。

こころ温まる 一味も二味も違う、有り難い病人を作り出すのも

お念仏の教えの特長です。

 

 

 

十、救われた、助かった

 

私たちが、救われたというのは、困難にぶつかって、その問題が無事

解決したときにいいます。

お金が無くて困っているときに、誰かが用立ててくれたときや、

山で道に迷い 苦労してやっと下山できたとき、助かったといいます。

阿弥陀如来は、すべてのものを自分の国 お浄土へ生まれさせて、

救おうという願いを完成されました。

すべてのものを救うには、お浄土に生まれさせねば救えないというのが

阿弥陀如来の考えです。

その意味では、現在の救いというより 将来の救いのようにも思えます。

現在の困難をすべて解決し、救うことは、なかなか難しいことです。

仏教で言う生老病死の四苦の どれ一つとっても、この世で解決することは

難しいことです。

病気が完全に治っても、人間は死なねばなりません。

どんなに若さを保ち、老化現象を押さえても、どんなに病気にならない

努力をしても、やがて人間は 死なねばなりません。

人間である限り、完全な救いは不可能です。

例え一つ助かっても、やがては次の問題が持ち上がってくるものです。

ですから、この世で、人間である限りは完全な救いはあり得ないのです。

では、この世で救われることは不可能なのか、将来だけの救いなのか

今とはまったく関係ない教えなのかという疑問です。

先程もいいましたが、お念仏の人は、将来だけではなく、今この時に

喜んでいる人がたくさんいらっしゃいます。

将来のことだけではなく、今この時、生きている現在にも大きく関わる

教えであることは確のようです。

 

 

 

十一、過去、現在、未来

 

 良く眠れないという人に、出会います。

いろいろのことが思い出されて眠れないといわれます。

これからの不安もあるでしょうが、過去の悲しい思い出や、

くやしい出来事、あの時ああすれば良かった、こうすれば良かったと、

過ぎ去ってしまった出来事が、取り返しの付かないことが思い出されて、

眠れないことがあるのだと思います。

人間であれば、誰でも一つや二つの後悔することをもっています。

しかし、どれだけ悩みどれだけ反省し、悔やんでも過去のことは

どうすることもできません。

そして、その結果として、現在があることもどうすることもない事実です。

この過去を、そして現在を、また、これから将来のことも、自分の

思いどおりに出来ないのが、人間の悲しさであり、人間の苦しさです。

阿弥陀如来の願いは、どんな過ちを犯しても、取り返しのつかない

失敗をした人でも、どんなに人を苦しめた人でも、過去の出来事を

詮索せずに、等しく すべての人を救いたいとの願いです。

人間である限り、痛みも苦しみも悩みも完全に取り去ることはできません。

しかし、将来、必ずお浄土に生まれさせて、その悩みのすべてを取り去る

今は、どんなに苦しくても、必ずその苦しみは無くすというのが、完全な

救いです。

病院で診察をうけ、病名を告げられて不安になっても、必ず治るものだと

知らされると 安心出来るように、道に迷って不安な時も、目的地が

見えてくると安心出来るように、帰りが遅い家族から、電話がかかってくると

安心出来るように、必ず救うという阿弥陀如来の願いが、そして、

目的地、目標のお浄土が味わえると、今この時の不安や、苦しみの

多くは、たちまちに消え去っていくものです。

南無阿弥陀仏のお念仏は、そうした悩み苦しみが、必ず解決する

最終的には、必ず消え去ってしまうものだ、との呼びかけです。

それが味わえると、過去現在未来のすべての悩みも薄まってきて

生きる力が勇気がわき出てくるものです。

 

 

 

十二、楽しい明日が待っている

 

 子供のころから、今まで楽しかった思い出はいくつもあるでしょうが、

よく言われるのが、孫は訪ねて来るまでが楽しみという言葉です。

明日、来る孫を思うと、もうウキウキと準備によねんがありません。

また、旅行などへ出掛けるときも、楽しい旅行だと、出発の前から

喜びも多いものです。

反対に、気が進まない旅行の場合などは、前の日から つらいものです。

人生も将来が見えず、不安なときには、現在が、つらく苦しいものですが、

将来が明るいと、今現在も明るく楽しくなってくるものです。

 阿弥陀如来のお浄土も、今現在行くところではなく、将来の話です。

しかし、将来の明るい楽しい世界は、未来が明るいと現代も明るく

なってくるとの実感があります。

はた目には、つらい苦しい生活のお年寄りや病気の人が、にこやかに

お念仏をしておいでなのも、将来が明るいためだと思われます。

南無阿弥陀仏のお念仏は、間違いなく この私をお浄土へ生まれさせて

いただくと、うなずけたとき、きっと楽しい明日を待つ私に

転じられていくのだと思います。

その喜びをじっと待っているだけではなく、今から準備をする姿勢

楽しい旅行の前に、地図を見たり、資料を見たり、着替えを準備する

楽しさのように、もうじっとしておれないそんな状態ではないかと

味わいます。

未来が明るいと現代も明るい、それがお念仏の人の、あの笑顔では

ないかと思います。

 

       

 

十三、幸せなら手をたたこう・・・

 

 幸せなら手をたたこう、幸せなら態度で示そうよ・・・という

歌があります。幸せであったら、喜びを感じたら、自分だけではなく

皆に分けてあげたいもの、独り占めにせずに、分かち合いたいものです。

お念仏の人が、その喜びを南無阿弥陀仏のお念仏を称えるとともに、

じっと座り込んで自分だけのものとしないで、周りにも分かち合えるのは、

どうしたわけなのでしょうか。

私たちは、人間と人間との比較で、自分を評価しています。

あの人に比べたら自分は元気な方だ、比べたら若い、比べたらよく

人の世話もしている。

比べれば幸せな方だと、人間と人間の関係で自分の状態を確認しています。

しかし、お念仏の生活が始まると、人間と人間だけではなく、私と

阿弥陀さま、私と親鸞聖人、私と蓮如上人、私とお念仏を喜ぶ人と、

同じように比較したとしても、比較する相手が大きく変わってくるのでは

ないかと思います。

比較しても比較出来ない、大きな存在と 私の小さな存在。

自分なりに努力しているつもりでも、とても比較出来ない大きな存在と

比較できない私がそこにいます。

こんなことでは 相済みません。もったいないことです。

万分の一のご報謝もできません、ただ南無阿弥陀仏です。

などといった言葉は、大きな働きを感じた人の言葉だと思います。

そうした人は、じっと座り込んで一人楽しむなどということは もう

出来なくなってしまうのでしょう。

こんなことでは、こんなことではと生きがいある人生が始まるのです。

 

 

 

十四、他力の教えと自力

 

 蓮如上人のお書きいただいた「ご文章」の中で、一番親しみがあり、

また、多く読まれるのは、聖人一流章といわれるものだと思います。

聖人一流の御勧化のおもむきは・信心をもって本とせられ候。

そのゆえは・もろもろの雑行をなげすてて・一心に弥陀に帰命すれば・・

のご文章です。

この中に、雑行をなげすててとあります。

仏教は、自分の力で悟りを開くことであるとする、聖道門といわれる

厳しい修行をされる方々は、悟りを開くために様々な努力を続けられます。

日常の生活すべてが、その為に費やされ、家族を養うための生産活動や、

人間としての喜びをすべて捨て去って、苦しい修行を一生涯積まれます。

しかし、これは特別の人だけに許されることで、一般の人には、生きる

ための生活があります。

修行できる環境にあればそれも良いことですが、私たちにはとても

許されることではなく、また、長続きもできず、悟りも開くことは

不可能です。

そうした私たちのことを目当てとしての教えがお念仏の教えです。

誰のためではなく、この私のために説かれたのが、お念仏の教え

他力の教え、仏さまの力で、お念仏の働きで救われる教えです。

努力すれば出来るが、やらないだけだと思っている人があれば、

せめて毎朝、毎晩 正信偈のお勤めをしてみてください。なかなか

これだけでも 続けることは 大変なことです。

私には、とても修行など出来ない、その修行出来ないこの私を

何とか救おうというのが、お念仏の教えであったとうなずけます。

 

                   

 

十五、頼りにされている世界

 

 ひと昔前まで農家では、田植えや刈り取りなどの農作業が忙しい時、

猫の手も借りたいといっていました。

まして、経験豊かなお年寄りは頼りにされ、期待され、貴重な存在でした。

食事の準備や、小さな子供の面倒を見てくれる人がいることは、大変に

有り難いことでした。

 

しかし、農業も機械化され、保育所やコンビにが整備されて来ると、

忙しい農繁期でも、田圃で田植えの横でゲートボールをする老人たちを

よく見かけます。

農家だけではなく、核家族が多くなってくると、孫の面倒をみる

チャンスもなくなり、誰かに頼りにされる存在でなくなってきました。   

誰からも頼られず、期待されていない人生は、つらい人生です。

 お浄土は、この私が待たれている、この私が期待されている、

働き場所のある喜びの世界だと味わえます。

浄土真宗の教えの特長は、親鸞聖人がお書きいただいているのは、

廻向に二つの種類があると。

一つは、往相廻向、二つには還相廻向です。

一般に廻向というと、この私が積み上げた功徳を他に振り向けるように

理解されています。

しかし、浄土真宗では、お浄土に生まれさせてもらえるのは、

阿弥陀如来の働き、往相廻向であり、お浄土に生まれると、

そこにじっと留まるのではなく、この娑婆世界に還り来て

衆生救済の働きをする、還相廻向の二つがあると説かれています。

つまり私が受ける徳(自利)も、他に施す徳(利他)も全て

阿弥陀如来の願と行にもとづく、他力(仏の力)による他力廻向であると

説かれています。

この私を、仏と同じさとりを得させて、仏と同じ働きをさせたい

その為に、この私を待ち望みお浄土へ生まれさせたいとの願いに聞こえます。

この私が頼りにされている、手伝ってほしいと仏さまに、期待され

待たれている、望まれている世界だと思えます。

 

 

 

十六、生きがいある人生

 

 過去の楽しい出来事を思い出してみると、私が私であることを

認められた時では、なかったかと思い当たります。

私が期待され、私の存在が重要であることを知ったときに喜びを

感じたと思います。

子供のときも、大人になっても、親になっても自分が待たれている、

期待されている。役立っている。

この自分が必要であること、認められたとき喜びを感じて

いるようであります。

思い出すと、子供がまだ幼かった時とか、自分が若くて元気で

いつも家族や、組織の中心になっていたときには、頼りにされ自分が

いなければ、皆が困ってしまうと、いきいきと生活をしていました。

しかし、年齢を重ねるに従って、新たに中心となって活躍する若者が

現れてきて、自分の存在は、段々と小さくなっていくものです。

 子供たちも巣立っていくと、もう自分を必要とする者はいなくなり、

どことなく空しさを感じるのが人間です。

いつまでも、自分を中心に世界は動いていてほしいものの、そうは

行かないのが、現実です。

淋しさ孤独感は、誰もが味わわねばならないことであり、繰り返し

繰り返し、先輩たちも経験して来たことです。

こうした辛さを解決してくれるのが、お浄土の存在です。

お浄土に生まれ、仏のさとりを得ると、自分の関係者だけではなく、

ありとあらゆる全ての人を、全てのものを救うために活躍する場所を

与えられるのです。

悩み苦しむ全ての人を救う働き、この私でなければ出来ないこと、

これほど私にとって喜びはないと感じます。

それも、逃げ回る者も、振り向かない者も、飽きる事なく、

怒る事なく、辛抱強く、ひたすらお念仏を勧めつづける働き、

それこそ本当の喜びがそこにあるのです。

生きがいあるお浄土、生きがいある働き、この私こそが期待され

待たれている、そう思えることこそが、この私にとって 最大の

よろこびだろうと思います。

どうぞ、浄土真宗の教え、お念仏の教えに出会い、お念仏の生活を

することで、人間らしい最も喜びの多い生活に出会っていただきたいと

思います。

そして、それこそが、ご縁のあった人びとが一番に喜ばれることだと

味わいます。

 

 

参考文献

浄土三部経 現代語版   本願寺出版社

歎異抄現代語版                

蓮如上人御一代記聞書現代語版  

ご文章 ひらがな版 拝読のために 〃

浄土真宗 必携                  

願いに応える人生     大谷光真門主述     本願寺出版社

仏教の基礎知識Q&A   山田 行雄           

仏教を読む 釈尊のさとり親鸞の教え  上山大峻著 〃

やさしい真宗教義                    水野 弘元   春秋社

 

 

 

 

ご文章・現代語 テレホン法話




       

                 掲載者 妙念寺住職  藤本 誠