2011年
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12月
12月31日 大晦日
今日は2011年の大晦日、今年も1年間無事生きてこれた、嫁さんに感謝。両親・子供達・訪問看護師さん・リハビリの先生・ ヘルパーさん・主治医・かかりつけの先生・病院のスタッフのみなさん・僕を見守り支えてくださった大勢のみなさん、 本当にありがとうございました。
今日は午前中はうとうと、昼からは予約しておいてくれたテレビ番組を見てそしてYAHOOGyaOで動画やアニメを楽しんで、 夜9時からは久しぶりに紅白歌合戦を見た。途中でひと眠りしてしまったが十数年ぶり?に見た紅白は面白かった。 その後ゆく年くる年を見て0時過ぎに寝た。昔はいつもレコード大賞・紅白と続けて見てゆく年くる年が始まったら 近くのお寺へ行き除夜の鐘を一人3回ずつ突いて境内の焚き火にあたり集まっている人たちと話してから帰る、いつも そんな大晦日だったのに。楽しかったなぁ。
いつかまたみんなと一緒に年越し蕎麦を食べれたら…なあ。

12月30日 入浴車
午前中訪問看護師さんに洗顔や髭剃り・リハビリなどケアをしてもらい年末年始はしばらく座れないという事で我がままを 言ってお昼に訪問看護師さんたちに1時間ばかり車椅子に座らせてもらった、感謝!。
そして年の瀬ということでお昼から今週2度目の入浴車。年の瀬?非定例?だからなのか入浴車のスタッフの顔ぶれが いつもとちょっと違う。でも久しぶりにおしゃべり(失礼・言い直し)楽しい身近な世間話をいっぱいしてくれるFさんが いるから楽しく騒がしいお風呂になるだろう。と思っていたが・・・、みんな意外と静か、顔ぶれが違って普段とは段取りが 違うからみんな緊張しているのかな。
いつもと違い静かな中で僕の入浴作業は進みいよいよ最後の段階で事件は起きた。何とお湯が出なくなったのだ。僕が 「もう上がる」と合図して僕の身体を乗せたネットから浴槽から上げられ浴槽のお湯が抜かれ後はすすぎ湯を身体に かけるだけという段階だった。スタッフは大慌て。僕の身体が湯冷めしない様に何枚もバスタオルを掛けてくれたり髪に ドライヤーをかけて乾かしたり外の入浴車の様子を見に行ったり。原因は誰かが間違えて入浴車のボイラーのコードを家の コンセントから抜いたため(入浴車のボイラーの電源って家のコンセントから取っているのかと今日初めて僕も知った)。 ボイラーの水って電源を入れてもなかなか湧かないらしい。背中のネットが冷たくなってきて「もう限界」と思い始めた頃 ようやくお湯が出て人心地。
入浴車のスタッフのみなさん、今年もお世話になりました。ありがとうございました。

12月27日 スムーズに立てた
今日は火曜日、朝のケアの後お昼に車椅子に座る日だ。昨日の訪問リハビリの時に立たせてもらった際右膝の皿に少し 痛みが走ったので無事立てるかと心配だった。でも訪問看護の所長さんにサポートしてもらって意外なほどすんなり 立てた。右膝に痛みもなかった。すっごく安心した!。

12月26日 退院した日は
退院した日一番心配なのは立てるかどうか(もちろん首と脚に装具を着け十分に身体を支えてもらって)だ。自動車から 車椅子へまた車椅子からベッドに移乗する際に2人の訪問看護師さんに支えてもらって立った時は膝にはやはり力が 入らなかったが何とか膝を突っ張る事は出来た。その後訪問リハビリで理学療法士のO先生に立たせてもらった時は3回目 立った際に右膝の皿に少し痛みが走り右膝から崩れ落ちそうになった。病院でのリハビリの時に作業療法士のU先生から 「膝が少し反りかえってきているから家で立つ時ちょっと気をつけた方がいい。」と注意されていたのに。やはり入院すると ただでさえ弱っている筋力がもっと弱るなぁ。
家に帰ってからまずしたかった事、YAHOOGyaOのアニメで「ヒカルの碁」「ちはやぶる」「ダンボール戦士」の続きを見る事。 入院する日それに前の日これらのアニメだけは毎週の楽しみで見ておいた。この続きだけはどうしても見たかったのだ。 「ヒカルの碁」だけは入院する前の続きが見れて良かった。

12月9〜26日 レスパイト入院
今日からレスパイト入院、今回は僕の方もこの頃身体きついと思っているからこの機会に体調の回復を図りたいのと 人工呼吸器を調整してもらいとも思っている。
病院へ着きしばらくするといつもの病棟の看護師さん達が迎えに来てくれていつもの病棟のいつもの病室のいつもの場所に 入った。ストレッチャーからベッドに移りすぐにオーバーテーブルの下に右足の甲で蹴り上げて押すナースコール スイッチを貼り付けてもらった。ところが今回スイッチはなかなか不安定でスイッチを叩いてもコールが鳴らなかったり 鳴ったり、その上テーブルから剥がれ落ちたりで安心して夜を過ごせそうになかった。そこでスイッチを替えてもらったら 感度は幾分良くなったが夜になってスイッチがまた剥がれ落ちた。そこへ丁度居合わせた看護師さんに今度はしっかりと 貼り付けてもらったら月曜まではもてた。そして月曜日に作業療法士のU先生にスイッチを調整してもらってそれからは 安心して病院生活を過ごせる様になった。
病院での1日は夜11時過ぎに睡眠導入剤を入れてもらってそれでも遅くとも朝3時には目が覚めてそれからはもう肺が冷えて 眠れない。朝の経管栄養を入れながらひと眠り。朝方肺を中心に身体が寒くて起きているので午前中は眠くてほとんど うとうとしている。正午過ぎ昼の経管栄養、2時頃には経管も終わりひと休み。3時過ぎから車椅子に座る準備に入り テレビを見ながら1時間ほど車椅子に座らせてもらってベッドに戻る。それから髭剃り・洗顔・歯磨きなどケアをしてもらい その後またひと休み。そしてUん製と楽しい会話をしながら手足のリハビリを施してもらう。6時から夜の経管栄養を 入れてもらいながらひと眠り、8時過ぎから11時までテレビを楽しむ、これが僕の一日。
人工呼吸器を調整してもらう事も今回のレスパイト入院の目的のひとつ。8月に呼吸器を替えてから肺が一層寒くなったし 身体がしんどく感じる様になった気がする、まあ本当は僕の身体がだんだん弱っていってるだけかもしれないが。呼吸器は 入院した日に主治医がまず呼吸回数を増やした。そしたら(呼吸器の画面をじっくり見ていると)今まで級気圧が設定値まで 上がった後僕の自発呼吸に対応してよく2回呼吸器の画面の吸気圧の目盛が10cm以下しか上がっていたのが自発呼吸に 対応した10cm以下の目盛の出現が1回しか現れなくなった。それでも呼吸の調子がもうひとつと感じたので次の月曜日今度は 主治医がプレッシャーサポートの設定値を少し上げてくれた。その時主治医に改めてこの呼吸器の仕組みを次の日には メーカーの人にも同様の事を教えてもらった。それらの説明を聞いて僕は今使ってる呼吸器の性能に納得しあとは僕の 身体をこの呼吸器に合わせるよう努めて僕の身体の方を慣れさせていくしかないなと思った次第だ。
レスパイト入院中にあった事、いつもの検査・実習生との面会・病棟のクリスマス会・病室の隣の患者Fさんに絵を 描いてもらった事。検査では異常はなかったらしい、なぜなら主治医からは何も聞かされてはいないが新しい指示や処方は 出なかった様だから。
今回のレスパイト入院中に病室を訪れた実習生は3グループ。1グループ目は保健師さんと看護師さんたちの研修、さすがに 現場に出ているだけあって[パソコンが始めての方にパソコンに触ってもらえる様にしたい時はどうしたらいいと 思われますか?。]と難しい質問が飛んできた。僕にはもう[難しい]と答えるしかなかった。2つ目のグループは 看護学校の学生さんたち、副看護師長さんがほとんど説明してくれたから僕は1つ・2つの質問に答えるだけでよかった。 3つ目のグループも看護学校の学生さんたち、今回は実習に付き合っていた看護師さんが忙しかった様で僕と 看護学生さんたちがパソコンで会話させる道を選ばせた。ただ僕のノートパソコンの中のウイルスバスターが回線が 繋がっていないのにアクセスしようと試みる度に邪魔して入力を中断させるので会話が上手くいかない。 ウイルスバスターを終了させて何とかコミュニケーションが成立する様になった。
22日病棟のクリスマス会があった。去年のクリスマス会にも参加して感激したが今年も胸に詰まるものを感じた。演目は 寸劇・ハンドベルの演奏・踊りなど、決して上手とは言えないが看護師さんたちを中心に先生方や病棟の幹部の皆さんと 素人ならではの心のこもった演技や演奏、みんな忙しい中で集まって練習して、感動した、涙がポロリこぼれた。 思わず笑みもこぼれた、嬉しかった。
病室で僕の隣に親父よりひとつ年上の方が入院していた。驚いた事にパソコンをやっていた、病気で震える手でも絵を 描いているという。今まで焼き物の染付け師を生業にしていたそうだ。絵を描いていると楽しそうで生き生きとして いそうな雰囲気が隣にいてもひしひしと感じ取れたので看護師さんを通して「絵を描いて」と頼んでみた。するとその日の 内に風景画を描いてくれた。独特の雰囲気を持つ僕の好きな絵だった。僕は感激したしお隣さんも嬉しそうだった。そこで 退院する前にもう一度「(来年の干支の)昇り竜と登り窯を描いて」と頼んだ。ただ登り窯の方は看護師さんにも 聞こえなかったようで残念ながらお隣さんには伝わらなかった。そして退院当日お隣さんから昇り竜を祝いにいただいた。 細かい所まで描かれた活き活きとした龍だった。Fさん本当にありがとうございました。
今回の退院の際はいっぱい?の看護師さんたちが見送りをしてくれた。そして我が家の自動車で家路についた。久し振りの 我が家、どうだろう?。

12月8日 レスパイト入院前夜
明日からレスパイト入院する。このところ身体がかなりしんどいから丁度いいんだろうけど入院する準備・年賀状の作成も ホームページの更新もメールの返信もパソコンのデータの整理も全然出来ていない。どうしよう!。
せめてホームページの更新ぐらいは終わっておきたくてこうして今日の雑記帳を書いている、そのくらいは しておかなくちゃあね。後は何が出来るかな。

12月6日 体調は?
理由は分からないが最近の僕は呼吸するのがしんどくて身体がきついと思っている。SPO2(血中酸素飽和度)は97%以上 あるから呼吸そのものは苦しくはないと思うのだが楽な呼吸は出来ていないと感じている。しかし主治医に人工呼吸器の どのパラメーターをどのように調整してもらえば呼吸が楽になるのか分からない。どうしたら身体は楽になるのかな。
下痢の方はここ2-3日何とか収まっている。多分カニューレを交換したからだろう。気管に対してカニューレのちょっとした はいり具合の差で呼吸器からの空気の肺や胃に対するはいり方・冷え方が変わるから。以前の呼吸器LTV-950にの時も 似たような感覚は味わった事があるが、LTVの時は軟便になる程度で今回の様に下痢が続く事はなかった。やっぱり呼吸器が 替わった影響かな。

12月3日 今度は下痢?
木曜の昼・金曜の昼間・夜中と二日続けて3度の下痢、相変わらず肺と胃が寒いし少しお腹も痛くなってきた。寝ている時は 吸気回数も吸気量?も減ってくるから加湿器の過熱で肺も身体もぬくぬくしていたと想像するが、目が覚めると途端に 吸気回数も吸気量も一気に増えてくるから加湿器による過熱が間に合わずに外の冷たい空気がそのまま肺に送り込まれて 肺や胃が冷える(私見だが)。
肺が冷えるのを解決する方法はもう人工呼吸器のモードを従量式にするしか手はないのかな?、モードを従量式にすれば 呼吸器から一定時間に決めた量の空気しか送り込まれてこないから加湿器の設定を調整さえすれば基本的に 送り込まれてくる空気を一定の温度にする事が出来るという理屈になるから肺に対し加湿器をちょうどいい温度に 設定しさえすれば肺は寒くなくなるはず。それとも他の呼吸器に変えることは可能なのかな。
このまま下痢が続くようなら金曜からのレスパイト入院の前倒しを主治医にお願いするしかないのかな。

12月2日 推薦入試か
大学への推薦、僕らの高校時代はスポーツ推薦という制度はあった様だが、我が母校はスポーツ推薦を受ける様なその道に 抜きん出た生徒が高校受験する事はないと思われるただの普通高だから我が母校からスポーツ推薦で大学に行ったなどの 話はとんと聞いた事はなかった。
最近は大学に入る方法も一般入試・推薦入試・専門学校からの3年次への編入など色々あるらしい。それに推薦入試にも 学校推薦やスポーツ推薦などもあるらしい。僕らの頃は学校推薦による入試などピンとこないし訳も全然分からないが 嫁さんが色々説明してくれた。学校から推薦を受けるにはまずそれぞれの高校に推薦入試の受験生枠がある様だ。また もちろん入試を受ける大学の講義レベルに付いていけるだけの学力がある事、それに高校が推薦するに値するだけの人格の ある生徒である事。授業をサボったり遅刻ばかりしていた僕なんかは学校から推薦を取り付ける事さえ出来ないだろうが。 その上大学での試験に合格する事か。
当然の事ながら推薦入試には色々難しい関門がある様だが説明を受けても未だにピンと来ないなあ。


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11月
11月28日 体調はもうひとつ
寒い、人工呼吸器から送り込まれてくる空気で肺が寒々する。いつも風邪引きそうで怖い。
それに何故だか分からないが身体がしんどいししょっちゅう眠い。最近はパソコンするのも億劫なほどでYAHOO GyaOで 動画を見るのがやっとかな。こんなことではいつまで生き続けられる事か、自信がないな!!。

11月25日 息子たちの定期テスト
今週は息子達の中学の定期考査があった様だ。上の息子に「調子はどうか?」と聞くと「今回の(定期考査)が学年末テストに なるけどいつもの調子でいくよ。」との事。初めは何の事か意味が分からなかったがよくよく聞いてみると高校入試の 関係で3年は後期は中間テストはもうなくて今回が学年末テストになるとの事。ただでさえ中学が3学期制から前・後期制に なって定期考査の回数が2回も減っているというのにこの上3年は後期は中間テストもないなんてね、まあ今の中学は かなり実力テストが増えているからテストの回数は昔より増えているだろうけど。
今日の夕方息子達が僕の部屋に来た時に「テストはどうだった?」と聞くと、上の息子は「まあまあだった。」との返事。 下の息子は「まあまあ出来たけど、社会の問題を作った先生が授業で習っている先生と違ったので問題の意味が 分かりにくかった。」と。そんな事を言っていると社会の実力テストの意味なんかも分かりにくいだろうに。
それにしても僕は息子たちの役にはもうたたないのかな、子供達は勉強の事も他の事も僕には何にも 相談してくれないもんな。

11月23日 勤労感謝の日
今日は勤労感謝の日、祝日だから訪問リハビリはお休み、本当は今日リハビリが休みなのは前から分かっていたのだから 月曜は何としても立つ練習をすべきだったのだがどうしてもやる気が起きなかった。でも入浴車は祝日でも来てくれるから ありがたいな。
最近入浴するといくら温まっていても浴槽からベッドに戻って2時間ぐらいすると肺から身体が冷えてきて寒々としてくる、 まるで身体から気化熱が逃げていく様に。ここ3週間は身体が冷えると分かってきたので掛け物をしっかりかけてもらって 肺のところの掛け物に小さめのホッカイロを貼って対処しているが、全く何とかならないもんかな。寂しいもんだ。
働けるって羨ましい。もし僕の身体が動くならどんな仕事でもどんなにきつい仕事でもなんだって頑張るのに。

11月21日 寒かったから立つのをやめた
僕は月・水・金と訪問リハビリに来てもらっている。まず毎回20分くらい手足を動かしてもらいそれから首と足に装具を着け 先生に両脇に手を添えて持ち上げてもらい3回立たせてもらっている。
今までは基本的に体調がよっぽど悪くない限り必ず立たせてもらっていたが、今日は寒くて立ったら風邪を引くという気が したのでリハビリの先生の「立ちますか?。」という問いかけにNoの意思を示した。我が身体ながらなんと情けない事か。 僕の身体はこのまま更にだんだん弱っていくのだろうな!。いつまでもつのかな僕の身体は!、何かないのかなあ。

11月20日 ホークス日本一ダ
昨日ホークスが中日に負けて日本シリーズは三勝三敗、今日が最終決戦。問題はホークスの先発杉内が中日打線を後半まで 0で抑えきれるかどうかだ。中日に先取点を取られたらホークスはおそらく勝てないだろう、なぜってホークス打撃陣は 中日投手陣をこの日本シリーズではほとんど打ち崩してはいないから。全く内川が打てないとなるとホークスはほとんど 先取点が取れないのだ。
第7戦も今年の日本シリーズ特有の重苦しい雰囲気で始まった。そして3回裏多村の内野安打・長谷川のツーベースヒットで ノーアウト2・3塁のチャンスを作り中日ピッチャー陣から山崎・川崎がフォアボールをもらい押し出しで先取点をもらった。 なおもノーアウト満塁のチャンス、けれど本多・内川が犠牲フライも打てず小久保も凡打でチャンスを潰した。結局この回 相手がくれた1点どまり、これは中日ペースの試合になりそう、杉内のピッチングもだんだん良くなっては来ているが 不安がよぎる。
ところが4回裏思いがけなく追加点が入った。ツーアウト1・2塁でバッターはもっとも期待薄の山崎、せめて右方向を 狙ってくれたら運良く野手の間に落ちるかもと思っていたら・・・、打球は快音を響かせてライト前へ。2塁走者松中も良く 走りキャッチャーのタッチをかいくぐり追加点。山崎エライ!。
7回まで杉内が中日打線を抑え7回裏にようやく内川のタイムリーが出て3−0、あとは8回・9回をどのピッチャーで 逃げ切るか。ここで僕は夜の経管栄養タイム、8回表ファルケンボーグがリリーフを告げられCMになったのは覚えているが 薬の影響か不覚にも眠ってしまった。目が覚めたらマウンドに森福がいた。解説を聞くと打球がファルケンボーグに あたっらしい。アウトカウントを見るとノーアウト、どうやらファルケンボーグは1アウトも取らない内に交代したらしい。 あと2回を森福・馬原・摂津・金沢で抑えるのか、こりゃあ大変かも、と思っていたら森福が2アウトを取ったところで 「日本一まであと1アウトのところで森福に代えて摂津を投入。」のアナウンス、ここで始めて今が9回だと気が付いた。 そして摂津が最後のバッターを三振に取りゲームセット。秋山監督と孫オーナーの胴上げが映し出された。
夜中は祝勝会のビールかけを見て楽しんだ、みんな嬉しそう。それにしても今年の日本シリーズは見ているだけで 疲れたなあ。これで負けていたら体調が更に悪くなっていたかも。ホークス日本一ダ、嬉しいっ!。

11月18日 体調は何とか上向き?
先週の金曜日の朝また38.3℃の熱が出てまた体調不良に陥った。2週間前も熱が出てまだ体調が戻らないうちにまた発熱、 なんて情けない身体なんだろう。
襟度とパソコンにも触らずにテレビを見ながらゆっくりしてた。そんな土曜日の日本シリーズの初戦ホークスが中日に サヨナラ負けしてまた気分が落ち込んでしまった。日曜日になってようやくパソコンで動画でも見ようかという気に なってきて、パソコンをセットしてもらった。すると動画を見ている僕を見ていつもの僕と勘違いして娘が「お父さん、 数学の問題解いて。」と頼んできた。久しぶりの娘からの頼み事にお父さんはこの頃気分がすぐれないと言う訳にもいかず 「一応(問題を)スキャンしといて」と返すと「出来れば早めにお願いね。」と簡単に言う。「どの問題を先にしたらいいのか?」 とせめて優先順位はつけてもらった。
この日もホークスは中日に延長で逆転負け、気分が落ち込んだ。次の日少しは体力が上向いてきた気がしてきたので娘が まず解いて欲しいという数学の問題を眺めてみた。数列の問題、どこかで同じ系列の問題を見た事があるのでまあ何とか なるだろう。一日かけて数列の問題を解き夜娘に解答例をプリントし渡すと、娘が「ありがとう。他のはまだ?。」とか 言いやがる。そこで「お父さんは気分がもうひとつすぐれないからそんなに簡単には出来ない」と返す。すると「急がなくても いいから。」と昨日とは反対の事を言う。正直、ひと安心。それでも火・木・金と自分の出来るペースで次の数学の問題確率を 解いた。実は僕は確率の問題は答があっているかどうか検算しづらいから苦手なのだが。
今日は通院日、火曜日からの敵地ナゴヤドームで中日に3連勝して日本一に王手を打ち体調も少し上向いてきたので昨晩 久しぶりにALS支援システムに書き込みをして明日の通院に対し最低限の取り繕いをした。
病院につくまでは検査をして結果如何では僕は自分としては入院する心積もりでいたのたが、主治医の見立てでは検査する 必要もなかった様だ。それにしても今日の通院は車椅子に座っている時間が長かったので疲れた。脚と首に装具を着け 車椅子に移乗させてもらい出かける準備は万端なのにリフト車はなかなか来ない、リフト車は初めての運転手さん・ちょっと いらついている風に見えた、リフト車で同行してくれている方が「安全運転でお願いします。」と声をかけるとすごく ゆっくりに・そうじゃないカーブや段差が見えたらスピードを落としてって意味じゃないの、それに僕が通院する病院も 知らない様。帰りは雨の中で耳鼻科の病院に寄って(耳鼻科の病院で一度リフト車から降りて診察室で診てもらい再び リフト車へ)、帰り道も安全運転でゆっくりと、その上道を間違え遠回り。疲れた、今日は早く寝たい。

11月5日 ホークス、日本シリーズ進出
ホークスの2戦2勝(アドバンテージを含めホークスの3勝0敗)で迎えた第3戦は西武・涌井とホークス・杉内の凄まじい投手戦と なった。9回の表裏まで両チームともゼロ行進、まあホークスは5回まで涌井に完璧に押さえ込まれていたが6回からは毎回 チャンスを作っては生かせなかっただけなのだが。全く杉内が投げると打線が打てない、今シーズンの杉内が投げる試合を 象徴する様な試合だった。しかし10回表杉内も力尽き西武に1点を取られた。引き続き1アウト2塁のピンチ、ここを金澤・ 森福が締めてピンチを乗り切った。10回裏ホークスの攻撃、マウンドに上がるのは涌井、僕はもうこの時点で実はもう 諦めていた。2アウト2塁でバッター長谷川、ここで長谷川が思いもよらぬ起死回生の一打を放つ。これで1−1の同点、 引き続き2アウト2塁のチャンスでピンチヒッター松中、だが松中はチャンスを生かせなかった。そして11回は森福が12回は 馬原が西武の攻撃を押さえホークスの日本シリーズ進出を決めた。
それにしてもリーグ優勝のアドバンテージは@ホーム主催での試合A1勝のアドバンテージB3勝3敗でもリーグ優勝チームが 日本シリーズ進出とあまりにも良過ぎるのではないかと思う。
夜テレビで日本シリーズ進出を祝うビールかけを何度も見た。本当に嬉しかったがちょっと浮かれ過ぎではとも思う。 こんなで「日本一になるんダ。」は大丈夫?。

11月5日 右耳は聞こえない
今日の朝のケア・洗髪してもらっていた時気が付いた、右耳が聞こえていない事を。洗髪の時用心のために両耳に綿球を 入れて髪を洗ってもらっていたのだが、右耳の綿球が外れた途端にテレビの音が聞こえなくなった。その時始めて右耳が 聞こえていない事に気が付いた。
昼嫁さんに「右耳が聞こえないよ」と告げると嫁さんは「耳の鼓膜の検査をした時に右耳の鼓膜の振動しているというしるしが 出ていなかったからね。」と驚いた風もなく言った、せめて同情の顔くらいして欲しかったのだがそんなの僕の甘え。

11月3日 CS Final 1試合目、ホークス勝利
いよいよパ・リーグのクライマックスシリーズファイナルステージが始まった。今年のホークスはレギュラーシリーズを 通して安定した力を発揮していたが、もう5年以上日本シリーズ進出を勝ち取った事がないホークス、やはり不安・心配は つきまとっていた。
しかし今年のホークスはそんな心配は要らなさそう、クライマックスシリーズでも普段通りの野球が出来た。和田投手が 西武打線をしっかりと抑えているうちに3回裏長谷川・川崎が出塁して内川が2点タイムリーの先取点、6回裏ツーアウト 2-3塁から多村が3塁線に放ち気迫あふれるヘッドスライディング、2塁ランナー小久保が好走してホームまで還り2点を 追加して4-0。7回に和田が中村にソロホームランを打たれ8回ファルケンボークが不運なスリーベースヒットから1点を とられたが4-2でホークスが勝利。これでリーグ優勝のアドバンテージ1章を含め2−0、あと2勝で日本シリーズ進出だ。 今年は大丈夫!、かな。


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10月
10月31日 肺は春と冬
寝ている時は、春蓮華草のいっぱい咲いている田んぼの中で春のあったかな日差しを浴びながら眠っているぬくぬくとした 気分なのに、起きてしまったら雪山の山頂で深呼吸した時の様に冷たい空気が一気に肺の中に滑り込んだ時の様に肺の中が 寒々となる。このまま起きていたら風邪でも引きそうな気分だ。かといってこのまま寝てるって訳にもいかないし、 起きねばならぬ、か。
眠っている時と起きた時の肺の中の温度差・ギャップの大きさは何とも言い難いものがある。身体へのダメージも結構ある。 いつから肺にこういう違和感を感じる様になったのか?。もう何年前になるか、人工呼吸器をバイパップからLTV-950に 替えた後ぐらいからかな。そして最近は余計に肺が寒々と感じる様になっていた。きっと肺の肉壁そのものが 薄くなってきたのかなのと自分では想像してた。そんな時また呼吸器が変更、理由は分からないがまた更に肺が冷える様に なった気がする、今度の呼吸器の方が呼吸器から入ってくる空気の勢いはゆっくりしているはずなのに。それだけ僕の 身体に抵抗力がなくなったという事かな。

10月28日 通院、ついでに耳鼻科へ
今日は通院日、病院へ着きリフト車から車椅子ごと降りて救急処置室に入りストレッチャーに移乗して主治医を待った。 主治医に診察の時に嫁さんは「昨晩38℃の熱が出た。」と状況を話し僕からは「昨日から右耳の中が痛い」と告げると主治医が すぐに両方の耳の中を見て「右耳の内側が腫れているから(この病院のすぐ近くの)A耳鼻科に寄ってみたら。」との事。
そこで帰りに耳鼻科の病院へよりもう一度リフト車から降りて診察室に入り耳鼻科の先生に耳を診てもらったら「中耳炎か 内耳炎ですね。点耳薬と抗生剤を出しておきます。」と。僕はそれで治るのかなと首をかしげたくなるばかり。3週間後の 通院日が予約になった、それまでに良くなっているといいなあ。

10月27日 発熱
今週になってから右耳の奥が気圧の薄いところに入った時の様にずっとキーンといっている様な違和感があった。こんな時 元気だったら鼻と口をつまんで水抜きをすれば一発で治るはずなのに。人工呼吸器を着けている今の僕には水抜きをして 耳の不調を治す事も出来やしない、情けない身体だ。
そんなこんなで月曜から身体に変調をきたしていると思っていたら、朝から右耳から右の方の頭まで痛みが出始め夕方には 何年ぶりかに38℃を超える発熱。昨日入浴車の後あんなに何枚も重ね着をして温かい様にしてたのにそれでも僕の軟弱な この身体は冷えたというのか。しょうがないので昨日今日とはパソコンにも触らずにおとなしく早めに寝た。僕は熱が ちょっと出ただけでも肺がきつくなるので困る。いつになったら元の調子に戻るのかなあ。

10月24日 暖房
気温が20℃を切ったならばエアコンの暖房を入れようと決めていたが、ついに今日寒さに我慢できなくなって暖房を 入れてもらった。情けない。

10月21日 インフルエンザ予防接種
今日T先生の往診の時にインフルエンザの予防接種を打ってもらったが思ったほど痛くはなくて少しばかり拍子抜けして しまった、先生に同行している看護師さんも「去年ほどではないけど今年の予防接種も結構痛い。」とげに怖ろしい事を さっきまで言っていたけれど。
さてこれでたとえ今年インフルエンザにかかってもさほどひどくならなくて済むのかな。けれど僕の体力も免疫力も 相当弱っているから回復はもう難しいかな。

10月20日 散歩
今週も看護学校の実習生が訪問看護師さんと一緒に2人来ている。実習生が2人も看護師さんと一緒に同行してくると僕の 周りでケアする人がウジャウジャと多過ぎて煩わしいと思ってしまう事もある、ヘルパーさんが看護師さんと一緒に ケアする排便と清拭の日は特にね。
今日の朝のケアが終わってお昼訪問看護ステーションの所長さんが現れて「実習生もいる事だし午後の車椅子に座る時間外に 行きませんか?。」との提案、微妙な沈黙の後外を見て「その時の気温次第で」とありがたく承諾した。
午後3時訪問看護師さんと実習生4人がみえて外出準備。タッピングとアンビューバッグで入念に痰出しして吸引を済ませ 装具を着けて車椅子に移乗、毛布を掛けてもらいスロープ(木製・組み立て式)で外に出る。この前の土曜日より少し日差しも 弱いが風も弱い、それでも顔に当たる日差しも風もいい気持ち。所長がアンビューバッグを押して呼吸をさせてくれて 実習生2人がガードと車椅子操作をしてくれた。家の後ろの道に出ると「今日は神社の方に行きたい」と目で合図を送り神社の 方に連れて行ってもらった。その途中途中で今回来ている実習生2人が家庭持ちで病院で仕事をしながら看護学校に通い 勉強しているとの話を聞いた。どうりで看護学生にしては脚のリハビリが巧いと思った。そこまで苦労しながら夢を 追いかけているのかと感心した。
所長が「今日は神社から遠回りして帰りましょうか?。」と言ってくれたので久しぶりに神社の前の道を登る方向に 行ってもらう事にしたが、久しぶりに通る道は昔とはかなり変わっていて僕の面影のある景色ではもうなくなっていた。 道を遠回りしている途中偶然嫁さんが通りかかって写真を撮ってくれた。思い出の写真がまた一枚増えた。
1週間に二度目の散歩だけどやはり外は良い。もう寒くなったからこれからはもうなかなか外には出れないだろうが暖かい 日にはまた外に連れて行って欲しい、外に出たいなあ。

10月18日 プロ野球もそろそろ最終戦かな?
ホークスの試合も今日を入れてあと2試合、パ・リーグで優勝を決めてからずっと連勝していたが土・日と杉内・摂津で 勝てなかった。そして今日は最多勝を狙うホールトンが投げる最後の試合。僕としては日曜日と次の土曜日のあと2試合 投げる機会を与えて20勝出来るチャンスを与えて欲しかったのだが、秋山監督はクライマックスシリーズ・日本シリーズを 見据えてピッチャーのローテーションを崩すべきではないと考えたのだろう。まあ日本一を狙う監督としては当然かも しれないが、少し惜しい気がした。この日もホールトンは好投し19勝目を上げ楽天のマー君と最多勝のタイトルを 分け合った。
さあいよいよクライマックスシリーズ。ホークスは杉内も戻ってきて先発四本柱も好調、中継ぎも森福・ファルケンホーンが 安定している。心配は押さえの馬原、戻ってきてから何とか抑えてはいるがあまりにもヒットやフォアボールでランナーを 出しすぎる。
クライマックスシリーズまであと2週間あまり、果たしてホークスは今の好調を維持できるのか。少し心配!。

10月16日 見るアニメがなくなった!
日頃から暇な時はよくYahooGyaOでアニメを見ていたが、最近好みのアニメが次々に終わってしまい見るアニメがほとんど なくなったので暇つぶしに困る様になった。特に日曜日は訪問看護も来ないから何して時間をつぶすか考えてしまう。
本当はe-bookで小説やコミックをダウンロードして読んで楽しめばいいのだが、クレジットカードはもう持ってないから 買えないし。どこかにコンビニ決済や銀行振込で換えるe-bookのサイトないかな。

10月14日 呼吸器の設定を変更してもらったら
今日は通院日、車窓から見た田んぼはもう稲刈りの季節か、まあ我が家はもう親父が米作りを諦めてしまったから稲刈りは 関係なくなってしまった。かなり寂しいが仕方がない。
病院に着いてから診察の時に主治医に「(呼吸で)吸う時に少し力が要るみたい」と訴えて人工呼吸器の設定を少しばかり 調整してもらった。すぐに主治医から「具合はどうですか?。」と聞かれたが僕は素直に「まだ分からない」って顔をした。 でも家に帰るリフト車の中で呼吸が軽く出来る様な気がしてきたし吸った時(呼吸した時)設定を変更してもらった前よりも 胸が膨らんできた様な気もした。それで家に着いてから訪問看護師さんに吸気量の実測値を見てもらったら500cc前後に、 以前より50cc以上増えていた。道理で楽なはすだな。しかし身体がしんどいのは相変わらずだし呼吸は楽になった様な気は するが吸気量が増えた分肺が冷えてよけい寒がりになった様な気がしてきた。難しい身体だ。

10月13日 実習生
今週は訪問看護に看護学校の実習生が2人も同行している。昨日は入浴者における僕の入浴を実習生が見学に来たのだが、 浴槽の周りは人でいっぱいでうじゃうじゃ、僕にも恥ずかしいという心もあるのだがな。入浴車のスタッフのみんなも この人数の多さに少し戸惑っていた様だった。
今日2人の実習生が手浴・足浴をやってくれるとの事。そして手と足をお湯に浸して丁寧に洗ってくれた。有難い事だし 気持ち良かった。それにしても今度の実習生はなかなか積極的だ。あの二人、きっと優秀な看護師になるだろう。

10月11日 サッカー タジキスタン戦
サッカーワールドカップブラジル大会3次予選タジキスタン戦、先日のベトナム戦における相変わらずの決定力のなさを 見たら今日の相手タジキスタンにはたして勝てるのかと思ってしまった。それに試合が始まってから見たタジキスタンの 守備陣形、あんなに引いた相手・ワントップ以外の10人でゴール&ペナルティエリアを守っている陣形の始めから0−0の 引き分け狙いの相手から点が取れるのかと思った。
けれどその心配は無用だった。ハーフナー・マイクの先取点、相手のディフェンス選手より胸まで出たヘティングで最初の 1点を取った、すごい高さだった。2点目は岡崎の綺麗なシュート、ゴールが決まった瞬間のタジキスタンゴールキーパーの 顔、「こりゃかなわん!」って顔してた。4点目の香川の中村からのホットラインシュート、後方からの難しい角度の シュートだったが見事に決まった。でも香川のシュートが決まった瞬間相手がかわいそうで見ているのが辛くなった。
それにしても4日前のベトナム戦と変われば変わるものだ、ボランチに遠藤が入っただけで有効なパスが繋がる様になるし 中村がアシストパスをあんなに打てる様になるなんて。やはりそこが遠藤のすごさなんだろう、経験のない僕にはよく 分からないけど。まあタジキスタンも相手がペナルティエリア外でボールを持ってもあまりつめて来ないからパスを 出すのもそう難しくはなかったかもしれないが。
結局この試合は8−0で日本の圧勝だった。これで勝ち点はウズベキスタンと並んで7で日本がトップ、次11月11日の試合で 日本とウズベキスタンが共に勝てば最終予選進出が決まる。頑張って欲しい。

10月9日 散歩
今日の午前中の洗髪のケアの時訪問看護ステーションの所長さんが「良い天気だからお昼から散歩に行ってみませんか?。」と 誘ってくれた。最近ちょっと体調が良くない日があったので少しどうしようかと考えたが有難くOKした。
午後3時前所長とヘルパーIちゃんが来て外出(組立式スロープなど)の準備を始めた。僕は外出中に痰の吸引をしなくても すむ様にタッピングと痰出しのアンビューバッグ押しをしてもらい出来るだけ痰を出して吸引してもらった。そして首と 脚に装具を着け車椅子に移乗させてもらい外に出た。日差しと風が心地良い。田んぼの中を西へ行く、道が緩やかな 登り続きだから車椅子を押す所長はしんどいかな。風が稲穂を揺らし日差しが黄金色に染める。頭の中を稲穂の匂いが 駆け巡っている様な気がしてきた。久しぶりに味わう雰囲気、清々しくしかも心地良い。家から500mくらい来ただろうか、 ここまで来たのはほんとに何年ぶりだろう、目の前には子供の頃からずっと眺めてきた国見山が広がっといた。 懐かしい。
ここでUターン、今度はなだらかなくだりだから所長も少しは楽だろう。子供の頃みんなとよく遊びながら登った人形岩が 見えた。でも子供の頃とは見え方が違うなあ、人形岩の後ろの方に隠れていた牧山に連なる巨大な岩肌や青螺山など昔は 見えなかった風景が広がっている。車椅子だから子供の頃と目の位置は同じくらいなのに、何故だろう!。それでも 久しぶりに人魚岩をじっくり見れて嬉しかった。
所長それにIちゃん、今日は散歩に連れて行ってくれて本当にありがとうございました。秋の移り香を身体でいっぱい 感じる事が出来ましたよ。

10月7日 サッカー ベトナム戦
今日のサッカーベトナム戦、僕はワールドカップブラジル大会の3次予選だとずっと思っていた、なんせあんなにたくさん CMが入っていたから。でもよくよく考えてみるとベトナムが3次予選に残れるほど強いはずがないもの。
そのベトナムに対しても1-0と接戦での勝利とは情けない。1対1で相手を抜けないなんて、ベトナムのディフェンス選手の 技術の高さを見ているとベトナムサッカーの水準が本当にワールドカップ2次予選を勝ち抜けないほどの低いのかと疑いを 持ったほどだ。こんな事で11日のタジキスタン戦勝てるのか?、心配になってきた。このホームのタジキスタン戦に 勝てないようならワールドカップブラジル大会出場は危ないな。

10月6日 19世紀が終わらない
1年以上前から世界史を勉強し直しているがまだ19世紀が終わらない。いったいいつになったら僕の世界史の勉強は 終わるのだろう。
それにしても嫁さんと娘が世界史について話している事を少しは理解出来る様になった。世界史は高校の時に覚える事が 多過ぎて大変だと一度捨ててしまった教科だから、世界史の流れはかなり分かる様になたからなんとなく嬉しい。出来れば 今年中に僕の世界史の勉強を終わらせて来年のセンター試験の世界史の問題をやって見たいが、無理かな?。

10月4日 入浴車
水曜日は入浴車の日。以前は入浴車の日が来るのを楽しみにしていた、僕の浴槽の回りにたむろする入浴車のスタッフの 井戸端会議の話も面白いし。けれど最近入浴の後は結構疲れる様になってすぐ眠くなるから少し辛く感じる時もある。
それに社協の看護師さんが一人辞めたそうだ。その看護師さん、結構面倒見が良かったし話す内容も面白かったからかなり 寂しい。いつかまた会えるかな。

10月1日 ホークス リーグ優勝
今日福岡ソフトバンクホークスがパシフィックリーグでの優勝を決めた。ここ数年のホークスは8月下旬になるといつも 息切れしていたから今年もまた息切れするのではないかと心配していたが、今年は杉内・和田両投手が勝てなくなっても ホールトンと摂津が踏ん張ってくれていたしこの苦しい時に大隣・大場が出てきてくれた。山田と岩崎も一年を通して ローテーションを守ってくれたし押さえの馬原が抜けた穴をファルケンホーク・森福・金沢が埋めてくれた。それに打線では 若手が台頭してきて9月になってからは日替わりヒーローが出たしそれまでしつこく追走していた2位日本ハムが勝手に 脱落してくれた。
僕の中でリーグ優勝のMVPは内川選手、3番に定着し打線の軸になってくれたし多くの試合で先取点を取ってくれた。もし 内川がFA権を行使してホークスに入団していなければここまで勝ててはいなかっただろう。それにしても優勝祝賀会での ビール賭けでの選手の喜びようをテレビで見ていたらこっちまで嬉しくなった。出来ればあと2回この喜びを 味わいたいな!。


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9月
9月30日 ALS患者に介護時間増を命じる判決
昨日僕の家に定期訪問に来ていた伊万里保険福祉事務所の保健師さんから「和歌山でALS患者に関する判決」が出たと聞いた。 このところALSに関する話題は全然報道される事が無かったので興味が湧いてインターネットで調べてみた。
記事によるとこのALS患者さんには1日に12時間の介護サービスが障害者自立支援法に基づいて市役所から認めていたらしい。 要介護5の僕の限度が1月に100時間ぐらいだから(僕の場合受け得る介護サービスが無いからそれでも余しているが) この患者さんはかなり多い方だ。地方裁判所の判決では「一緒に暮らす高齢の妻も健康に不安があり、1日20時間の介護が なければ、生命や身体に危険が生じる恐れがある」とある。これは我々人工呼吸器の管理下にある者は常に痰の吸引や 人工呼吸器の管理が我々が生きていく上で必要と認めた上での判決だろう。けれど介護事業所に痰の吸引を義務付ける法律は 無い。ただ望ましくはないがやむを得ずヘルパーに痰の吸引をさせる場合は事前にヘルパー個人と覚書を交わしておけとの 通達が厚労相から流れているだけだ。今回の裁判官はヘルパーが痰の吸引もしているという事実の上で判決を下したと 思うが、競争の無い田舎の介護事業所で「好ましくは無い」という枕詞の通達に誰が従うというのか。

9月28日 よく分からん
経管栄養をしている最中や後に顔いっはいに汗をかく日もあれば全く汗をかかない日もある、掛け物はいつもと同じ様に かけているというのに。何故だろう、よく分からない。違いといえば気候・気温それに嫁さんが下の息子のアトピー対策にと 飲ませているという香酢を僕にも経管栄養の終わりに入れている事かな、免疫力が増すかもしれないという。 あと経管栄誉中に起きているとあんまり汗はかかないけど眠ってしまうと大汗を書いてしまうのも事実。
そういえば数年前にも同じ様に寝ると大汗をかくという期間があったなあ。あの時も全然訳が分からなかったけど いつの間にか汗をかかなくなった。またいつか寝ても汗をかかなくなる事があるのかな。

9月26日 コミケンに行きたかった!
今日島原で『ながさきコミュニケーションフォーラム』が開催されている。本当は僕もコミケンフォーラムに 参加したかったが、島原は遠い(自動車で片道2時間半かな)から嫁さんに「行きたい」とは言い出せなかった。
コミケンフォーラムに参加すれば1年ぶりに懐かしい人々フォーラムの関係者に会える、いろいろな問題・困難を共有出来る 人たちに会える。でもその楽しみは来年までお預けらしい。もし僕が若かりし日々友人達ともっと深い付き合い方を していたらこんな時駆けつけてくれる友人もひとりはいたろうに、八方美人で広く浅くの付き合いしか していなかったから。自分のせいだな。

9月22日 寒くなった
20日火曜日から急に気候が変わって寒くなった(普通に健康な人ならこんな場合涼しくなったと言うのだろうが)。そのため 僕の身体が気候の変化にまだついてゆかない。夜は冷えてきたからエアコンにそろそろ暖房を入れようかとも思ったが、 まだ9月精神的にも経済的にも暖房を入れるにはさすがに早過ぎる。いつもの様に掛け物による調整と手や腕を掛け物から 出し入れする事で対処するようにした。
けれど今日の朝方は寒くて目が覚めた。火曜日に昔子どもが使っていたハーフサイズの布団を嫁さんに 出してもらっていたのだが、また「毛布を出して」と頼んだ。これでも寒かったらいよいよエアコンで暖房だな。 情けない!。

9月19日 敬老の日
今日は9月19日だというのに敬老の日、ハッピーマンデー法か何か知らないがなんて味気ない事だろう。確かにお年寄りを 敬い大切だとの思いを寄せる日は必要だと思うが、日付の動く祝日なんて止めてしまえと言いたい。
ハッピーマンデー法が施行された時期以前は日本人は働き過ぎと先進国から言われ続けていて国会/政府行政の中で連休を 増やせとの意見が大勢を占め大多数の国民がそれを支持したと当時聞いたが果たしてそうだろうか?、不自由な身体に なって思うに国会議員や公務員がただ自分達の連休を増やしたかっただけではないのかなあ。今常に介護が必要な身体に なってハッピーマンデー法で月曜が祝日になり家族がかかっている。軽い障害の人ならデイケアに通うとかヘルパーさんに 来てもらってケアしてもらうとか出来るが、超重度の障害を持つ我々の介護は看護師さんか吸引等の技術を持つ ヘルパーさんしか出来ない。でも介護事業の競争のない田舎では祝日は訪問介護は休みだし介護事業所はヘルパーに吸引を させようとしない。世情は変化しているのだからそろそろハッピーマンデー法見直しして祝日を元の意味のある日付に 戻してもいいと思うのだが、民主党はそれ以上のシルバーウイークを計画しているとか。困ったもんだ!。

9月16日 息子たちは期末テスト
今日で中学生である息子たちの前期定期テストが終わった。
帰ってきた息子たちを呼んで「どうだった?」と尋ねたら、下の息子は「国語が最後まで出来なかった。ほとんど(生徒)が 時間が足らなかったと言っていた。」との返事。娘の時から主要5教科のテスト問題を見せてもらっているが確かに今日日の 中学校の定期考査は数学にしても理科・社会にしても主要5教科問題が多過ぎると思う、この多さではじっくり考えている 暇はないし先生方も十分考えさせる問題を出題する事なんか出来ないだろう。もう少し問題数を減らしてもっと考えさせる 応用問題を出す様にすればいいのに。それにしても今回の期末テストの問題と点数で下の息子の実力が測れる。日頃も結構 真面目に勉強していると嫁さんは言うが息子の学力はいかほどのものか、楽しみでもあり不安もあるかな。
上の息子は「まあまあかな。」との事、ただ「美術の問題が気に入らなかった。」と。上の息子はもう自分の勉強の仕方を 持っているし定期考査ぐらいなら大丈夫だろう。まあもうひと伸びするためにはまだ何かが必要だろうが、それは僕に 聞かれても分からない、息子自身が自分で見つけないとね!。
それにしても息子たちは理科や社会のテストを簡単だと言う、あんなに問題が多くてあれほど内容が深いのに。社会は昔 取った杵柄と常識で答えはある程度は想像がつくが、理科はカリキュラムが昔と違い過ぎて半分も分からない。だのに 息子たちは簡単と言う、不思議だ。
中学校に主要5教科の問題をデータ化して送って欲しいとまたメールで依頼した。データを送ってもらったら一度解いてみて 息子たちと反省会が出来たらいいな。

9月16日 通院日
久しぶりの通院日(9週間ぶりかな)。それに新しい人工呼吸器になって初めての通院日、訪問看護師さんがどうやって リフト車に呼吸器を積み込もうか迷ってた。
リフト車に乗り込み見づらいリフト車の窓から外を眺めると田んぼの稲穂がかなり色付いて頭をたれているのが見えた。 もうすぐ稲刈りの季節。しかし我が家の稲刈りはない、親父に稲を作ろうという元気がもう出なくなってしまったらしい。 寂しいし申し訳ない。
病院に着いた途端不思議な事に救急処置室のドアが突然開き外来の看護師さんが僕らを出迎えてくれた、まるで僕たちの 来る時間が分かってでもいたかの様に。そしてストレッチャーに移乗させてもらい主治医を待った。しばらくすると 主治医が来ていつもの様に診察をしカニューレ交換と胃ろうの処置を施してもらった。それから主治医から「新しい 呼吸器の調子はどうですか?。」と聞かれ、まさか最近また肺が冷えてきて時々寒気がする事があるから試しに級気圧を ちょっと下げてみて欲しいとは呼吸が苦しくなりそうなので言えず一応「大丈夫です」と答えておいた。
帰りも車窓からずっと田んぼを見ながら帰ったが寂しさと空しさを感じるのみだった。親父は元気も気力もなくし 駄目になったまま余生を生き続けるというのか、動ける身体を持ち食事も出来るというのに。

9月15日 気候の変化に身体がついていかない
一度は少し涼しくなってきてそろそろ秋に向かっていって過ごしやすくなるかなと期待していたが、厳しい残暑が 戻ってきてしまった。こう気温の変化が大きいと軟弱な僕の身体はすぐついてゆけなくなる。なんとも情けない話だ。
エアコンの調整や掛け物の枚数・掛け方でしのいではいるが、風邪ひきそうで怖い。このところ顔がよく汗だくに なっているから嫁さんや訪問看護師さんは「エアコンの(設定)温度を下げたら?。」とか「掛け物はこのままでいいの?。」と 助言してくれるが、僕はちょっと汗ばむ様にしていないと怖いのだ。けれどこの状態起きている時は良いが眠ってしまうと 肩に汗をかいてしまい目が覚めてから肩が冷えてきて鼻詰まりになってしまう。人工呼吸器を着けているとこのあたりが 難しいのだ。
嗚呼、そろそろ涼しくなってくれないかな。

9月14日 やっぱり立ちづらい
退院してから2週間、やっぱり立ちづらい。首と脚に装具をしっかりと着けて立ったら背骨と腰骨の付け根の所が痛いし 立とうとしてもひざに力が入らない。それに脚の付け根が両方とも変だし確実に5週間の入院が響いているな。
嫁さんは「リハビリを続けていれば元の様に戻るよ。」と励ますが我々の様にALSに犯された身体が筋肉がいくら頑張って リハビリしたってそう簡単に元の様に立てるようになるものか、いいやもう無理なのかも。
とにもかくにも24時間ずっと寝たきりになるのは絶対いやだからもうひと息もふた息も頑張ってみるか!。

9月11日 大学時代の友人からのメール
ここ数日大学時代に親しくしていた友人達から続けてメールが来ている。懐かしい名前と当時の良き思い出が頭の中に 蘇ってきた。大学を卒業していつの間にかもう30年、早いもだ。大学に入り一人暮らしを始めて時は食い物に苦労する日も あったが損得のない仲間に囲まれて楽しかった。九州の方言がひどかった僕は入学して数ヶ月の間は回りに僕の言葉を 理解出来る学生は一人もいなかった。けれどまず一人の友人が僕の言う事が分かってくれる様になりそして二人・三人・ いっぱいに増えていった。本当に嬉しかった。
あれから30年、大学の友人達とはほとんど連絡を取っていなかった。それが年賀状だけで連絡を取っていた友人が卒業した 学科の同窓会の幹事を務めるメンバーの一員となって同期のメーリングリストを作るとの連絡が入った。僕にはみんなと 連絡を取るような内容は何もないしどうしようか散々迷ったがメーリングリストに入れてもらう事にした。万にひとつ 僕が誰かの役に立つ事があるかもしれないから。

9月10日 体調悪し?
昨日の昼過ぎから体調が少しおかしいなと感じ始めて、夕方になると寒気がし始めた。僕の冷え対策は掛け物枚数を 替える事と首にタオルを巻く事、特に背中がゾクゾクする時は首にタオルを巻くと効果てきめんだ。昨日も4枚もタオルを 掛けて首にタオルを巻いて寝た。
今日朝方目が覚めたらのどに渇きを覚えたので足でコールを押しお袋を呼んで薄い塩水を飲ませてもらった。時刻は 朝5時過ぎいつもならもう起きてパソコンをするところだが朝パソコンをしていると肺が冷えて鼻詰まりになる事が多いから 今日は用心してパソコンをするのを止めて寝てる事にした。その緒崖か朝のケアの時間にはかなり体調が戻ってきた様な 気がしてきた。
夕方になっても体調はまだ今ひとつだが大分戻ってきた。このまま体調が戻ってきてくれればいいのだが。

9月7日 新しい呼吸器
退院して1週間・新しい人工呼吸器になって2週間、前の呼吸器が吸気圧を少し強めに設定してもらっていたから今の呼吸器は 吸気の時に少し力がいる時があってちとしんどく感じる時がある、まあSPO2は常に95%以上をキープしているから多分 大丈夫だよね。
問題はこの呼吸器に僕の身体が順応する前に僕が体調を崩す事でもあればかなりしんどい思いをするだろうな、僕は熱が 少しでも上がると肺の動きが悪くなるから。体調を崩さない様に気をつけなくっちゃ。

9月5日 娘の高校の体育祭
娘の高校(僕の母校でもあるのだが)の体育祭、昨日の日曜日にある予定だったが台風12号による雨の影響で今日に 順延になったらしい。
娘は高校生活がとても楽しいと言う。羨ましい話だ。かといって僕の高校生活が楽しくなかったという訳じゃけっしてない。 僕も当時はそれなりに楽しい高校生活を過ごしていたと思う、初めて女生徒を好きになったのも高校1年の時だったしな。 でもその割には不思議な事に覚えていない事も多い。1年の時の体育祭は少しは覚えているが2年・3年の体育祭は記憶にない。 自分の高校に生徒会があった事すらもちっとも覚えていないのだ(娘は生徒会活動にも熱心だというのに)。
夜娘に「どうだった、楽しかったか?」と聞くと「失敗した。」との答え。なんでも娘はこの体育祭でアナウンスを 務めたという。そして閉会式の時予定以外の出来事が起きてパニクってしまいアナウンスで失敗したとの事。しかし 今回の出来事は娘にとって一生の宝物になるに違いない。

9月3日 何もする気が起きない
病院に入院していた5週間何もしていなかったからなのか家に帰っても何もする気が起きない。パソコンに向き合ってせめて 留守中に来ていたメールに返信しなければという義務感には駆られているのだが書く文章が思い浮かんでこない。 YAHOO GyaOの無料配信アニメを見てもワクワクしないし楽しい気にならない。
僕はどうしちまったのかなあ。


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8月
8月31日 居場所
今日退院して久しぶりに家に帰ってきたのたがなんとなく感じてしまった、ここももう僕の居場所ではなくなっている様な 気がすると。誰も僕が家に帰ってきた事を喜んではいない気がするのはどうしてだろう。僕が家にいる必要をこの家から 感じ取れなくなったというのかな?。僕の独りよがりな想いなのかもしれないが寂しい。


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7月
7月27日〜8月31日 入院
5週間の入院はさすがに長かった。そして考える時間はたっぷりあった、朝の経管栄養が終わった後から昼の経管栄養までの 3時間・昼の経管栄養が終わってから車椅子に座らせてもらうまでの1.5時間・夜の経管栄養が終わってから9時の消灯までの 1.5時間・消灯から眠剤を入れて眠るまでの2時間・それに眠剤が切れ覚醒して朝の経管栄養が始まるまでの3時間とたっぷり。 時間が有り余って考える事もなくなるくらいにね。
色々考えた上での結論。あまりにも暇すぎてこうしてベッドの上で動けない自分がいる事を客観的に見つめて未だに戸惑い 落ち込んでしまう、今この時なぜどうしてここにこうしているのが僕でならなくっちゃいけないんだ 僕がそんなに 悪い事をした?とついつい考えてしまう。自分がこれまで生きてきた過去を決して悔いてはならない。VOXY煌 男旅のCMを 見ていると僕も息子たちと一緒に色んな旅をしてみたかったと思うがどうせ出来ない 考えるだけ無駄な事だ。将来の事を 考えたいのだがいつまで経っても何も思い浮かばないから諦めて今をなんとか大切にするしかないと。

7月26日 明日からお袋と入院
朝ってお袋が脊髄狭窄症の手術を受ける。お袋が入院するのに伴い僕も一緒にレスパイト入院、入院期間は最短2週間お袋の 脚が改善に向かいリハビリも順調に行き元気になった・もう退院してよろしいとお袋の主治医が判断を下す時までだろう。 入院期間は果たしてどれくらいになるのかなあ??。
明日から入院だというのに僕の準備はきわめて不良、この雑記帳は10日以上手づかずだった、メールとか世界史他にもまだ やっておきたい事も沢山あるし日記どこまで埋められるかなあ。大好きなYAHOO GyaO無料配信動画アニメも先週からあまり 見ていないのに。嗚呼、もっと時間が欲しい!。

7月24日 アナログテレビから画面が消えた
僕の部屋のテレビはアナログテレビ、もうすぐ正午、ついにカウントダウンが始まった。そして正午、テレビ画面は青地に 白の文字の「デジサポ」の案内画面へ変わった。アナログ放送さよならの瞬間だった。
さて僕はこれからDVDプレイヤーを通してテレビ伸びで入力で「地デジ」放送を見る事になる。自分でテレビ操作するのなら 簡単だが、嫁さんや子供達以外にチャンネルを替えてもらう場合僕が文字盤を使って「大きなリモコンの方の下の方の蓋を 開いて……」と説明して替えてもらわねばならぬ。そんな事が出来るのか。不安…!!!。

7月23日 父ちゃん、なさけなか
昼間から酒を飲み今度いとこの息子が家を建てるそうなのでその建て地を見に行って大きな擦過傷を負った上に肋骨に ヒビが入って入院、1週間ほどの事だ。それなのにまだ4-5日しか経っていないのにもう病院で酒飲んで強制退院だって。 嫁さんからは「親のアルコール依存症に対して息子として何か方策を考えたらどう?。」と言われ、お袋からは「お嫁さんや 孫たちが父ちゃんの相手をちっともしてくないから寂しさのあまりこうなった、まあ子供が成長するって事は こういう事だって分かってはいたけれど。」とまるで僕達家族が悪かったと非難?した様に僕には聞こえた、カチンと来た。 ベッド上から動けない・しゃべる事も出来ない僕に二人ともいったいどうしろというのか、自分の事だけでも精一杯なのに。 だいたい親父もお袋もこの11年間子供たちが相手をしてくれる様な努力とかふれあいをしてきたのか?。親の僕だって 子供達に何にも出来てないから呼ばないと相手してくれないのに。
親父はまだ僕の病気を受け入れる事が出来ないのか。昔のあの強かった親父はどこにいったのか、なさけなか。

7月17日 中体連
昨日今日と西部地区の中体連、上の息子は試合に出れるのか・下の息子は真剣に応援しているだろうか。嫁さんはこの2日間 午後から息子たちの入っているクラブの会場を見て回ったらしい、それでもって夜には「昼間会場を動き回って疲れたから 相手をする元気はもうない。」なんて僕からみれば寂しくもありまた何て贅沢な事を言っているんだとつい思ってしまう。 僕なんてただ黙って寝ているしか出来ないのに。
夕方帰ってきた息子たちを呼んで「どうだった?」と聞くと、下の息子は「ぼろ負けした。」と言い上の息子は「個人戦には 出た。惜しいところまで行ったけど負けた。でもこれで良いよ。夏休みにテストがあるからがんばるよ。」とさばさばした 様子。3年間間やってきて悔しくはないのかなあとつい思った。

7月15日 お盆
お盆、ばあちゃんが逝ったのは去年の10月。もう9ヶ月か、早いものだ。
今日は通院日。病院から帰ってから訪問看護師さんだちに仏さんの前に連れて行ってもらった。仏さんの前に座るのは いつ以来だろう。お盆には僕達のせいで幼くして逝った妹が帰ってきている。もしかしたらばあちゃんもちょっと 立ち寄っているかも。訪問看護師さんが手を合わさせてくれたが久しぶりなので何を話したらいいのか・・・。仏様を前にして 言葉が思いつかなかった、情けない。
お盆という事で向こうの部屋ではお坊さんがお経をあげてくれたりおはぎを食べたりみんなで送り火をしたりしているのに 僕は部屋のベッドの上で動く事も出来ずにただ黙って天井を見ているだけ、…むなしい。みんなと一緒に僕も 何かしたいのに…なあ。

7月13日 友来たる
ともT.Fが福岡より来たる。最後に会ったのはいつだったか、もう思い出さないくらい昔の事だ。たぶん病気になってからは もう会っていないから20年近くはなるだろう。
Tは一人で昔中学生の頃の事を話してくれた、「お前は初対面の時から馴れ馴れしかった。」とか「お前は昔から おしゃべりだった。」「上級生とでも下級生とでもちっとも構わずに声をかけた。」「本村の下り坂を自転車で走っている時に 急にいなくなったと思ったら、家にぶつかっていた。」・・・・・・と。僕は「おいはそんなおしゃべりだったか?」と言い返そうと 思ったが…。「あんなにおしゃべりだったお前がひと言もしゃべれないなんて…、寂しいな!。」「少しずつでも… しゃべれたらいいのにな!。」、Tは僕の腕をゆっくりとさすりながらそう言った。
Tよ、また何度も何度も…会えたら…いいな。それまで…身体に気をつけてな、僕も何とか頑張るから…。

7月11日 さみしいな!
夕方上の息子がいつもより早く帰ってきた様なので呼んでみたら顔を出した。「今日はどうしたのか?」と尋ねると「練習中に 転んで怪我をした。」との答えが返ってきた。「大丈夫か?」と聞いたが口では「膝は痛いけど大丈夫。」とは言いながらも あまり大丈夫じゃないみたいみたいだった。「中体連は何とかなりそうか?」と聞くと「なるようにしかならないよ。」と ほとんど中体連を気にしてない風な答え。そんな事を言ったってパートナーの事は気にならないのかなあとふと思う。
ついでに聞いた、「中体連が終わったらお父さんと中間テストの英語の反省会をやらないか?」と。すると寂しい事に「復習も 自分でやったしもうやらなくていい。」との事。もう上の息子の勉強にお父さんは必要ないってか!、自分の事は自分で やるから構わないでってか、子供の成長って嬉しい様でも寂しいもんだなあ!。

7月9日 散歩
今日の朝のケアの時訪問看護ステーションの所長さんが「今日は天気が良いからお昼から散歩に行きませんか?。」と 言ってくれてついでにヘルパーさんにも「一緒に行こう。」と頼んでくれた。
そして昼の車椅子に座る時間、アンビューバッグを使いながら僕と所長とヘルパーさんの3人家の周りの散歩に出かけた。 空はスカイブルー天気は良かったが風は強かった。でも久しぶりに外を歩く?僕にとってはとっても心地良かった。天気が 良かったからヘルパーさんが傘をさし掛けてくれた(所長はアンビューバッグを押しながら車椅子を押す離れ業・大大変、 あいちゃんも強い風邪に傘が飛ばされない様にして僕を日の光から守るだけで大変)、僕としては顔や手が日に焼けても 本当は良かったのだが。30分ぐらい心地良い太陽・風・景色を浴びて家に戻った。それから時には気分を変えようと所長が 言ってくれて庭を眺めながら座敷へ鎮座、所長が親父やお袋と話しているのを見てた。
所長・ヘルパーさん、今日は本当にありがとうございました。久しぶりに自然の香りを感じる事が出来ました。 出来れば…またいきたいな!!。

7月8日 テスト反省会
夕方下の息子と中間テストの数学の反省会をした。何問かケアレスミスをしたから70点台だったと息子は言っていたが、 本当にケアレスミスなのか・解いていく途中で何か基本的なミスをしていたのではないかと途中の式を見たりどういう風に 考えたのか息子に話してもらった。
結論、基本的に息子の間違えた箇所はケアレスミス、計算問題は途中の式もきちんと詳しく書いているし考え方も 間違っていない。このまま今の勉強のやり方を続けていれば成績はそのうち伸びてくるだろう。少し気になるのは息子が 「時間内に数学のテストは終わらなかった。」と言っていた事、計算するのに時間がかかっているのかなあ。

7月7日 七夕
今日は七夕、でも今の我が家では七夕という言葉を聞く事はない。子供たちが成長していくというのも寂しいものだ。
もし僕が元気だったら・・・ひとりでも山に笹を採りに行って色々飾り付けひとりでも楽しむのになあ。パソコンで笹に 飾り付けしてその上天の川が出てきて織姫と彦星が出会うってアプリないのかな。

7月5日 お袋の脚
お袋はずい分前から足が痛いといっていたのだが最近は少し足を引きずっている様だ。近くにある町の病院でいくつかの 診療科を回り最後は脳外科の先生から「手術をした方がいい。」と言われた様だが踏ん切りがつけられない。その上周りから 「どうせ神経系の手術をするのなら(この地域の神経難病の基幹病院である)川棚病院で受けるようにしたら。」と勧められ 頭の中が少し混乱している様だった。
少し前お袋とゆっくり向き合う機会があって「どうして川棚病院を受診しないんだ?」と尋ねたら「(町の病院の)脳神経外科の M先生を信頼しているし先生に紹介状を書いてと依頼するなんて出来そうもないし紹介状を書いてもらう事自体申し訳ない。 それに次に診察していただく機会もたくさんあると思うからM先生とは気まずくなりたくない。紹介状なしで行ったら ダメか?。」という返事が返ってきた。だがそれは違うと僕は思う、紹介状を書いてもらうからこそ次に診察を受ける 機会にも堂々と診てもらえる、もし隠して川棚病院に行って手術でも受けたとしたらまた何らかの機会にM先生の診察を 受ける機会に「脚の具合は如何ですか?。」と尋ねられでもしたらどう答えるのか、気まずくなるだけだろうが。その事を 文字盤でお袋に説明しようとしたが僕の意図するところは上手く伝わらなかった。挙句の果ては言い合いになり「お前には 分からん。」という言葉を僕に投げつけた。それに対し「そんなに信頼しているのならM先生に手術をしてもらえば いいじゃないか」と僕は言おうと思ったが、口にしなかった。
そんなお袋が胸椎に重い腰を上げ川棚病院の脳外科のを受診した(紹介状を持って行ったかどうかは分からないが)。診断は 脊髄管狭窄症で早急に手術しないとすぐに立てなくなりますよと。それでお袋も手術する決心をしたようだ。お袋の手術は 今月の28日、お袋の手術の日程に合わせて僕もレスパイト入院する事になった様だ。もう4年前になるが嫁さんが 入院しても今回の様にお袋が入院するようになっても僕も合わせて入院、僕の将来を暗示しているなあ。
お袋は当然手術に不安を感じている。それと同時に心配事も抱えてる。それはお袋の入院中に親父が問題なく過ごして くれるかどうかだろうな。せめてお袋の入院中ぐらいは親父がお酒を控えてくれればいいのだが。誰か親父の酒飲みを セーブさせに来てくれないかな。

7月4日 息子たちの前期中間テスト試験問題
息子達が通う中学校に前期中間テストが終わった日に試験の問題用紙をパソコンで見れる形にデータ化して送って欲しいと (校長先生宛に)メールしておいた。そして今日S先生から5教科の問題用紙が添付されたメールが届いた、それも上の息子 (3年)の分も下の息子(1年)の分もだ。S先生、いつもありがとうございます。いつもご足労をおかけして本当に 申し訳ございません。
折角送っていただいたテスト問題、大事に使わなくっちゃね。上の息子は中体連が終わるまで僕の相手などしてくれそうも ないから(中体連が終わってもどうかな)まずは下の息子のテスト問題から、この2-3日の内にテスト問題を見て自分なりに 解いてみて、それから下の息子とテストの反省会をしなくっちゃ。でも社会と理科は解けるかな。

7月3日 サンダーバード
4-5日前テレビCMで流れていたDVD付きのサンダーバードの本を買って欲しいと駄々こねて嫁さんに買って来てもらった。 出来れば息子たちと一緒に見て1960年代にこんな見事なSF人形劇があったのだぞと自慢しながら楽しみたいと 思っていたが、まず下の息子に「一緒にサンダーバードを見よう」と声を掛けたら「夜暇だったら。」とやんわり断られ続け、 昨日上の息子に「明日クラブから戻って来たら一緒にサンダーバード見よう」と誘ったら「明日の練習は今日以上に疲れる 内容だからとても無理。」ときっぱり断られた。もう父親とDVDを見る様な年ではなくなったのかな、寂しい!。以前 息子たちと一緒に『ゴジラ』を見た頃が懐かしい。
結局昼から1人でサンダーバードのDVDを見る羽目になったが、このDVDの内容(初めてサンダーバードが登場した編)は よく知ってるから一人ではそう興奮する事もなかった。せめて息子たちと一緒に見ていられたら「サンダーバードってどんな 意味だ?」とか「お父さんがこれを見ていた頃はサンダーバードの1号から5号までのプラモデルが人気でどうしても欲しくて たまらなかったけど、小遣いをためて一番安かったサンダーバード4号だけは買った」とかの話も出来て盛り上がったかも しれないのに。もう息子たちも親父に付き合ってくれる年齢ではなくなったか。寂しい〜!。

7月1日 通院日
今日は通院日、車窓から外の景色を見るとほとんど田んぼで田植えが終わっていた。苗があちこちの田んぼに植わっている 風景、なんにも出来ない自分が虚しい。
病院へ着くとリフト車から降り車椅子からストレッチャーに移りバイタルを取ってもらう。今日は外来患者の巡り合わせが とっても良くって程なく主治医の先生が顔を見せた。「どうですか、お変わりありません?。」との主治医の問いに僕は少し 迷ったが「(人工呼吸器の)級気圧を少し上げて欲しい」との依頼を伝えた。実は数ヶ月前から息を吸い込む時の立ち上がりに 勢いをつけなければちょっと吸い込みにくいと違和感を覚えていた。けれど級気圧を上げてその状態に肺がなじむとその分 自発呼吸が落ちて呼吸器を外しておける時間がまた短くなるなあと悩んでいた。主治医は呼吸器のパラメーターを 調整しながら「どうですか?。」と尋ね、余りに呼吸が楽になり過ぎてると感じたので「過呼吸になりそう」と返した。その後 主治医が再度微調整してOK。それからいつもの様に診察・処置して、またもや主治医から「支援システムの入力はやはり 難しいですか?。」の呟きが。それに対し自分からは支援システムのホームページを開こうとしない嫁さんが「そんな事は ないですよ!。」と簡単にひと言。僕が支援システムを入力するのにどれくらい時間がかかるか嫁さんは全然知らないのに 思った事をそのまま簡単に言うものだ。まったくもう、責任は取れるのか。僕が入力するのって結構大変なんだぞ。
ここで僕の診察に付き合っていた連携室の方が「そろそろ夏のレスパイトは如何?。」と話を持ちかけてきた。そう 言われてもお袋次第なんだなと嫁さんの方に目をやると、嫁さんが「母が来週ここの整形外科を受信しますのでその結果 次第で入院をお願いするつもりです。」と我が家の状況を説明してくれた。
病院での用事も終わったのでそろそろ帰る準備、首と脚に装具を着け車椅子に移りリフト車に乗り込んだ。病院を出る時 玄関前の丸い池が見えたが数匹の亀が水の上にぷかぷかと、気持ち良さそう!。帰る途中川棚川を見ると河原の雑木が全部 切り倒されていた。ここの河原の雑木がある風景、僕の好きな景色のひとつだが洪水対策のためだ文句の つけようがない。
今回人工呼吸器の級気圧を調整していたたので呼吸がずい分楽になったと思う、これまでは吸い始めうんこらしょと肺で 吸い込もうとする時余計な勢いが必要な場合が多かったので。ただ自分では呼吸が少し楽過ぎ・空気を吸い過ぎかなあという 気もする(過呼吸になりそう)し、楽になった分肺が寒いなあ。


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6月
6月30日 6月ももう終わった
今日で6月も終わり、無事半年が過ぎた。今年は親父が体力に(気力も?)自信をなくしうちは田植えをしなかった(誰かに 頼んだらしい、僕が元気だったら…すまない)。。今年は蛍も見なかった、うちの周りで蛍が飛んでいたという話も僕の 耳には届いてこなかった。嫁さんも子供たちも自然をめでる気持ちは起きなかったのかなあ。今年蛍を見れなかったのは 寂しい。
嬉しかった事、今年も会社勤務時代の後輩からさくらんぼが今日届いた。会社を離れて11年、まだ僕の事を覚えていて 「病気に負けるな」とエールを送り続ける人たちがいる。最近病気に立ち向かう気力が萎えてきてもうなる様にしか ならないと諦めムードで負け犬の様になっている僕だけど、何度でも気力を振り絞り病気立ち向かう心を持てと 言われているみたい。Thank you , M 。

6月28日 模試の数学
10日ほど前から娘に模試の数学の問題をスキャンしてもらって解いてみている。一日に一問ずつ解く様にしていたので 当然の事ながらなかなかはかどらない。特に数日前に大設問に取り掛かる様になってからは(それまでは小設問が8問あった) 大設問を1設問解きながらパソコンで式及び答を入力するのに6時間以上かかる始末。嫁さんはいきいきと時間つぶしを している僕を見て「ただの数学バカ。」と悪口(褒め言葉?)を言うがそんな簡単に割り切れるもんじゃない。本来なら 20分で解かなくてはならない(手が動いて字さえ書ければきっと20分で終わると思っているが)設問を6時間以上もかけて 解いてゆくのは結構辛いものなのだよ。
今日ようやく模試の数学の問題が終わった。どうしても解けなかった設問がひとつ、三角形の内接円の決まり事を 思い出さなかった(内接円の中心から三角形の各辺に垂線を下ろすところまで思い出したが)。仕方がないので インターネットで内接円と検索して、三角形に内接する円の半径の求め方がようやく理解出来た。それと余弦定理を 間違えて覚えていて後の設問を解いていて辻褄が合わなくなったり(cosθが1より大きくなっちまった)必要条件と 十分条件を逆に覚えていたりした(自信がなくなりnetで調べて訂正した)。
僕が娘の模試の数学を解いていったいなんになるのか、少しは娘の役に立つのか&娘は僕の解いた解答を少しは役に 立ててくれるのか、それは僕には分からないが、少しは役立て欲しいなあ。

6月25日 なんだって?
今日のケアは洗顔・洗髪・清拭。最近経管栄養を始めひと寝いりして目が覚めるとたっぷり汗をかいている。今日も朝の 経管栄養が終わって汗をかいていたからケアの最初に「汗を拭いて」と頼むと「今から洗顔するのにですか?。」とそんなの 必要なの?って返事が帰ってきた。「なんて、なんだって」、今から顔を洗うから汗なんか拭く必要があるのってか?。 そんな事を言われるとは思っていなかったからびっくりしたし無性に腹が立った。今から洗顔するからとかそんな問題じゃ ないと思う。僕は「もういいから帰れ!」と伝えた。
汗をかいてびちょびちょだったら自分だって汗を拭くだろう。気持ちの問題だな。

6月23日 中間テスト結果は如何に?
今週始めに息子たちの通う中学校で上期の中間テストがあった。今日辺りから息子たちの受けたテストが息子たちの手元に そろそろ戻ってきている様だ。果たして中間テストの結果は以下に?。
中間テストの結果が相当悪い場合は別だが子供たちは結果を気にする必要はない、解いてゆく過程が大切なのだ・同じ様な 間違いを二度しない様にすることが大事なのだ。そのためには自分がどこでどういう風に間違えたのか見極める事が 出来るかまた見極める様な解き方をテストの時にいや普段からしていたかどうかだ。僕はその普段からの心構えを 子供たちに教えるべきだったのだが、その術がない。

6月21日 体調不良かな?
相変わらず天候に身体がついていかない。大雨が降ってむしむし暑い日が続く中でも、僕の肺は時として寒さに震える。 特に経管栄養を始める時と朝目が覚めてパソコンを操作し始めている時に身体が肺が冷えてきて時々鼻詰まりするし鼻水が 滴り落ちる事もある。しょっちゅう息苦しいという訳ではないけれど息しているのも幾分身体はしんどいしいつも眠い。 それに球麻痺も一層進んできた様で口の中に唾液が溜まる様になったし、右上腕や左右の太腿が最近たまにぴくぴくする。 僕の身体がまた次の段階に入った様だ。
僕の身体はいつまでこんな体調不良に悩まされるのだろうか。

6月19日 父の日
今日は父の日かな、何もしてないから世間で父の日が今日だといわれていてもちっとも実感がない。何とも情けない話だ。 嫁さんや子供たちのために何か役に立つ事してあげたいのだが、こんな僕に果たして何が出来るのか?。恥ずかしながら ちっとも思いつかない。
体調に注意に注意して何とかこのまま家にいるだけでいいのかなあ、生き続けているだけでいいのかなあ!。

6月17日 外出(通院日)
今日は通院日、2週間ぶりの外出だ。車窓から見るともうすでに田んぼに苗が植わってるの・水が張ってあるの・まだ土も 耕されてないの・麦がまだ刈ってないの、色々だ。あんなのを見ているとつい僕も元気だったら・・・と思ってしまう。 僕も元気だったら、嫌になるほど田んぼ仕事が出来たのに。
いつ気付いたのだろう、自分がこんなに自然が田舎が百姓が好きだったなんて。子供の頃田んぼの手伝いばかりさせられて 百姓は大嫌いだったのになあ。

6月15日 交流戦ホークス優勝
プロ野球交流戦のホークス優勝が今日決まった。過去2試合を5回終了時点で途中交代したため心配していた先発和田投手は 中日打線を7回1失点で抑え勝ち投手、あまり心配する必要はなかった。打線も内川が1回と3回にランナーを2塁において ライト前のタイムリー、6回には満塁から相手投手が乱れて3点をもらった。最後は守護神馬原がきっちり締めて5-3で勝利、 優勝を決めた。
来週末からリーグ戦が再開、交流戦の貯金をどう生かせるか。リーグ戦は交流戦と違い6連戦となるから先発と中継ぎが 不足する。二軍から誰を上げるのか?、どう捨て試合を作るか?、結局はそれがリーグ戦優勝の鍵を握るだろう。ここ数年 ホークスは8月になるといつも失速する、先発投手陣の疲れがたぶんピークに達するからだろう。その時期までに何とか 新垣に復活して欲しいものだが。それと一昨年のドラフト1位巽にもそろそろ出てきて欲しいが。

6月13日 もうすぐ中間テストか
月曜なのに息子たちが学校から珍しく早く帰ってきた。「クラブ活動はどうした?」と聞くと「テスト休み。」と。もうすぐ 息子たちの中間テストがある様だ。下の息子にとって中学に入って初めての定期考査、どんな結果が出る事やら。
僕は子供たちがどんな風に勉強しているか見た事がない、いや見る事が出来ない。僕は子供たちがどんなやり方で 勉強しているか知らないから何のアドバイスも出来ない。でもまあ僕が勉強のアドバイスなんかしたらまたみんなから 嫌がられるかもしれない、お父さんは勉強の事しか言わないと。上の息子はいつの間にか自分の勉強のやり方を 見つけた様だし、下の息子もその内自分なりの勉強の仕方を見つけるだろうから(期待)今はがんばれと応援しながら 見守るしかないな。

6月11日 東日本大震災から三ヶ月
東日本大震災からもう三ヶ月、それなのに被災地の復旧も福島原子力発電所事故の対応もほとんど進んでいる様には 見えない。政府も国会も政治家も全く何をやっているのか、民主党政府が民主党がこんなに駄目だとは思ってもいなかった。 何が政治主導だ、何が行政の無駄を削減するだ、結局民主党は出来もしない大風呂敷を広げただけだったのだ。少なくとも 地震被災地の復興に関しては自民党が政権に就いていた方がもっと進んでいたはずだ。まったく今の政治家は何もかもを 政局に結び付けすぎる。真の政治家としてのプライドはないのか!。ちょっと危険だが石原慎太郎東京都知事に期限付きで 震災復興内閣を任せてみたいなあ。

6月9日 ソフトバンク交流線は強し
今年のソフトバンクは強い、特に交流戦では。今日もジャイアンツ相手に2-0、ホールトン−馬原の完封リレーで見事に 抑えた。これで交流戦は18戦15勝1敗2分け、負けない・強すぎ。特にピッチャー陣がいい、ホールトンが安定しているし 摂津・山田も安定してきた。杉内が投げた時打線がもう少しフォローしてくれていれば勝ち星はあと2-3勝は上乗せされて いたはずだ、エースが投げている時はもっと打撃陣が必死に点を取る工夫をしてくれないと困る。勝利の方程式は馬原が 出遅れてちょっと気をもませたが、ここにきて森福・ファルケーンボーグ・馬原もぐっと安定してきた様だ。少し 心配なのは和田、ここ2試合5回で降板しているが何かあったかな?。
打撃人は内川が入っただけでぐっと厚みを増した。カブレラもオーダーに名前が載るだけで威圧感が増すのは流石だ。 秋山監督も松中・カブレラ・オーティズそれに伸びてきた若手をどう回していくか贅沢な悩みだろうが、その中で若手を どう育ていくか秋山監督の手腕を期待している。
交流戦の優勝はもう間違いないだろうが問題はリーグ戦に戻ってから、先発が岩崎とあと一枚欲しい。去年活躍した小椋と それに新垣は夏場までには何としても出てきて欲しい。それと中継ぎ、今勝ちパターンに登板できるのは金沢だけ、藤岡と もうひとり・・・。ドラフト1位で獲得した大隣・大場・巽もそろそろ出てきて欲しいものだ。

6月7日 「カペタ」と「あした天気になあれ」が終わってしまった
YAHOO GyaOの無料動画の「カペタ」「あした天気になあれ」が今週で終わってしまった。両方とも社会人時代営業で担当地区を 電車で移動する時に毎週読んでいたジャンプ・マガジン・サンデー・チャンピョンのいずれかに載っていたとの記憶はあるが、 最終回のあたりは読んだ記憶は一切ない。だからなのか「カペタ」の最終回には思わず感動してしまった。まだまだ続きを 見たいのだが終わってしまってとっても寂しい。
まあその代わり「ブラックジャック」と「ジャングル大帝」が始まったが。どちらも手塚アニメ、ついでに「リボンの騎士」も 始まってくれないかな!。ジャングル大帝は1965年の作品らしい。僕が7歳の時だ。確かに子供の頃見たと思うのだが ストーリーは全然覚えていない。覚えているは西部ライオンズ球団旗にもなっている白ライオンの顔だけ、それと多分 オープニング歌も聞いた事があるはずだ。ともかく懐かしくなって見てみたが結構面白かった。来週からも楽しみだ。

6月5日 将来の事
5月のゴールデンウイーク入院していた時から「将来についてぼんやりとでもいいから一度は考えてみるように」と上の息子に 言わなくてはならないと考えていた、息子が昔の僕と同じ轍を踏まなくてすむ様に。
今日上の息子が僕の部屋でパソコンをしている時に「中学を卒業したら高校は普通高に行くつもりなのか?。普通高は大学に 行くための高校だ。君はどんな事が好きなのかな?、自分がどんな事が好きなのか?大学でどんな事をやってみたいのかを ぼんやりとでいいから一度考えてみろ。」と伝えた。パソコンを度々中断させられ僕に呼び出される話を聞かされる息子は 面倒くさい事を言うなという顔をしながらも仕方なさそうに話を聞いていた。

6月3日 通院日
今日は通院日、久々の外出。車窓から外を見るとよその家の様々な色の花が新緑輝く山が黄金色した麦畑が田植えを待つ 田んぼが見えた。夏の気配が見えた。また夏が来るんだな。
病院はいつも通り、今日は待ち時間もほとんどなく主治医が来て診察・処置を済ませた。ただ診察の前に主治医からひと言 「まだ(支援システムをするだけの)体力になりませんか?。」と。支援システムに向かうかどうかは体力や体調よりも 気持ちの問題だから難しいところだ。さてどうしたものか?。
帰りに病院の池を見ると水があまりに満ちてなく亀がどこにも見当たらなかった。この池の亀はミドリガメらしいが、もし 僕が元気だったらどこかの田んぼに水を張って日本固有の種石亀を飼って増やしてそこいらの川やツツミに放したかった。 僕は子供の頃家の近くの溝で石亀を見つけたものだったが今はほとんどいないらしい。

6月2日 政治家の体たらく
最近の政治家の体たらくには呆れ果てる。特に今日の不信任案否決、全く情けないったらない。管総理が総理大臣の器では ない事は以前から分かっていたが、昨年の民主党代表戦でいったん党の代表として選出したからにはたとえ能力ない事が 判明したといえどとことん守り抜きたとえダメな総理だとしても国民が期待する方向へ導いてやるのが政党に所属する 国会議員の最低限の道義というものだろう。それを党内で変革も出来ずそして事もあろうか野党の提出した不信任案に 賛成の態度を示すとは政党政治の政治家としては本当に情けない。もし賛成票を投じたとしたら直ちに国会議員を 辞するべきだ。そして選挙区で選ばれた議員ならば次の補欠選挙で別の政党名を掲げてまたは無所属で立候補し自分の 信念を述べて戦うべきだ(比例区で復活当選した議員はその資格すらない)。
確かに管総理では震災の復興ついても福島原発事故の後処理についてもリーダーシップを発揮できずまた復旧・復興や 原発事故に明確な方向性を出せずにいるから不信感でいっぱいだ。民主党は一大臣の力しかあるかどうかの菅氏を何故に 党の代表=総理大臣に据えたのかとの想いがある。でも一度総理として持ち上げたからには民主党として支える必要が ある。何のために政策調査会を復活させた?、国民の声を聞いて政策・政府方針に生かすためだろう、玄葉氏は何を しているのか?、政策調査会のメンバーで被災地をくまなく回り被災地の声を吸い上げてこいよ。国家戦略局の古川氏は どうしているのか?、今こそ出番だろう、大胆な予算組み替えをして復興のための予算を出来るだけ多く捻出しろよ。 小沢氏も総理批判はやめて復興再生プランをマスコミを通じて発表して欲しい、もしあるのなら。安住氏国会対策 上手くやってよ。そして自民党、二次補正予算丸呑みさせればいいじゃん、僕は子供手当てと高校授業無償化は子育て 支援として継続すべきと思う。ただし運用方法は大きな問題を抱えているから大きく改善すべきだ、なんせ経済的に余裕の ない夫婦(母父子家庭)のため日本に住んでいる子供たちのための子供手当てなのだから。

6月2日 最近の僕は昔のアニメオタク
前にも書いたが最近YAHOO GyaOサイトで無料動画にはまっている。最近のお気に入りは月曜日更新の「カペタ」「鉄腕アトム」 「鋼の錬金術師」火曜日更新「明日天気になれ」水曜日更新「第三野球部」「あしたのジョー」。懐かしのアニメが多いのだが とっても面白い。毎週何話ずつか更新されるのだが今回の分を見終わると次が見たくなってもう待ち遠しくてたまらない。 楽しみを出来るだけ長くしたいと1日に1シリーズだけ見る様にしているのだけれど意志の弱い僕はついつい他のシリーズも 見てしまう。そして週の後半はいっぺんに暇を持て余してしまう、自分ながら困ったもんだ。でもその分世界史を学ぶ 時間はたっぷりあるけどね。



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5月
5月31日 5月も終わる
今日で5月も終わり、早いもので今年ももう5ヶ月が過ぎた。5月になってから気温の変動が大きくて体調管理が難しいの なんのって、掛け物を何枚どういう風に掛ければ丁度良くなるのか手や腕を掛け物からどういうに出していたら暑さが しのげて肩や肺が寒過ぎないか色々工夫しているが難しかった。
なんにしてもちょっとした事ですぐ風邪引きそうになるこの身体、情けないったらない。いつも何か方法がないのかって 思うけど、今は少し掛け物多く掛けて風邪を引かない様にする事ぐらいしか思いつかない。でも掛け物を掛け過ぎると かえって汗をかき後で身体が冷えてくるという悪循環に陥る事も。結局ちょっと寒いかなくらいで睡眠導入剤の力を借りて 早めに寝るくらいしかないのかな。眠りさえすれば呼吸がゆっくりなって肺から暖かくなってくるもんな。

5月30日 世界史は奥が深い!
去年NKH高校講座世界史を見てから世界史に興味が出てきてこれはいいチャンスかもと思って半年ぐらい前からNHK高校講座 世界史を中心にして学び始めたのだが、半年以上も経ってようやくフランス革命まで終わった。
僕は昔からフランス革命は漫画ベルサイユのバラ程度つまりパリ民衆によるバスティーユ牢獄襲撃から国王ルイ16世と王妃 マリー・アントワネットのギロチンの刑までだと思っていたが、バスティーユ襲撃の前もギロチンの後も色々と複雑な 出来事があった事を今回始めて知った。1週間以上もかかってフランス革命をやったが次から次と意味不明な言葉出てきて インターネットで色々調べてようやく次に進む、フランス革命とナポレオンがこれほど近世ヨーロッパ全域及び ラテンアメリカ諸国独立(これは今から学ぶ)に影響を与えた出来事だったと今回知った。全く世界史は奥が深い。こんな 調子じゃあいつになったらこの世界史が一通り終わる事やら。

5月27日 下の息子も中学生、か
僕がALSと告知された時下の息子はまだ嫁さんのお腹の中にいた。その息子は今年もう中学に入学した。よくここまで 生きてきたものだ、と自分でもそう思う。嫁さんのお陰子供たちのお陰だ。ただ他の人から「(下の子が)中学生になるまで よく生きていてくれた。」と言われた日には「あなたは今日までよく生きていてくれた、もう十分よ」と言われた気がした、 まあ言った本人がそんな事を思っていない事は百も承知しているが。僕が必要とされる理由はもうないのかななんて。

5月26日 しんどい
今日朝の経管栄養が終わった時から身体がなんかしんどい、どうしたのかな?。夜5時間近くは寝ているから寝不足では ないだろうし最近一日一日気温の寒暖差が大きく変動しているからその変化に身体がついていってないからか、それとも 何か別の理由なのか?。ともかく身体がしんどい、これはもう寝てるしかないか!。
僕は掛け物を掛けたり取ったりしてまた手や腕を掛け物から出したり入れたりして寒暖差に対応しているのたが、最近 室温に対する感覚や体温調整機能が鈍くなっている様で1-2日遅れて肌寒さを感じている。つまり訪問看護師さんが「今日 少し寒くなりましたね。」と言っててもいつもより少ない掛け物で平気なのだ。その代わり次の日には真冬の様に掛け物を 着込んでふるえている。全く我が身体ながら体調管理が難しい。

5月24日 誕生日
今日は上の息子の誕生日、嫁さんに「何かしてあげたか?」と聞くと「腕時計が欲しいと言ったから買ってあげた。」との 答え。僕も上の息子にはいつかGPS付きの腕時計G-shockを買ってあげたかったのに。実はGPS付きのG-shock僕が 欲しかったのだ。これを着けて山々を縦走でもしたら楽しいだろうな、地図を見ながらポイントポイントにGPSデータを 書き込んで歩き回る、想像しただけでもワクワクする。僕には二度と出来ない。子供に愉しみを託したかったって 訳じゃないと思うけど。

5月22日 ちょっとなかなおり、かな
僕1人でいじけていて子供たちともう二十日近くまともに話す事なくいたけれど、僕の心の中で子供たちとちょっとだけ 仲直りかな。十日ぼど経って最初したの息子とだんだん無駄話をする様になり次に娘に学校での様子を聞く様になりそして 昨日から上の息子と以前の様に話しかける様になった、まあ勉強に関する話題にはほとんど触れない様にしているけどね。 こんな事をしていたら今度は無関心と言われそうな気がするけど。

5月20日 通院日
今日はレスパイト入院後初めての通院日、皮膚科の診察もあるのでいつもより30分ほど早く11時45分頃出発、車窓からは もう水を張っている水田も見えた。親父が左腕を骨折している今年は稲の種蒔きはどうなるのだろう。何にも出来ない 自分が不甲斐ないし情けない。病院へ向かうリフト車内では僕の世話をするために同乗してくれている社協のスタッフ2人の 取り留めのない世間話がいつもの様に僕を和ませてくれていた。
病院に着くとリフト車から降りて車椅子からストレッチャーに移乗、呼吸器を着けて移動して来た患者の場合まず痰の 吸引の準備をするのが病院側の常識だろうと僕は思うのだがぐずぐず。その上対応してくれた看護師さんが僕の表情は 見ないし痰の吸引の仕方が僕に合わなかった。朝から体調もうひとつの僕はこんな看護師さんは好きじゃないと文字盤で 「替わって」と呟いた。
まもなく皮膚科のIん製登場、左腕と首の手術跡を診て「順調!。」と。それから手術で切り取った皮膚組織の病理検査結果を 検査表の図を見せながら説明、「病名はボーエン病。皮膚の異常部位はきっちり取れています、ちょっと 取り過ぎたくらいかな。これくらいきちっと取れてたら再発は99%ないと思う。でも3カ月毎3年間見せてください。僕は 転勤ですから後任の皮膚科の先生が診てくれます。」。僕は文字盤で「ざんねん」と告げ涙ぐむ、I先生ほど気さくに 話しかけてくれて面倒見もいいそして分かりやすく十分に説明してくださる医師はめったにいないもの。
神経内科の外来は協も患者が多そうだ。30分ほど待つと主治医が表れてまずきつーい一発、「最近ずっと支援システムの 書き込みがないけど体調が悪い?。」。確かに僕はこの3ヶ月支援システムの入力を止めている。でもそれは体調が 悪かったという訳ではない、支援システムには今ではもう主治医と僕だけが入力するだけ。それに僕は自分が 感じた事だけしか書けない、顔色がどうかとか発疹や浮腫があるかとか胃ろうや気設の状態なんて僕は見えないから 分からないし介護者の状態も分からない。主治医や僕だけでなく嫁さんや看護師さん・相談室みんなが利用するからこそ 支援システムの意味があるのだと思う。今回の左腕の黒子の事だって僕は痛みも何も感じなかったからどうする気も なかった。訪問看護師さんや嫁さんが黒子の様子がおかしいと気付いてくれて連携室と電話で連絡を取ってくれたからこそ 早めの手術が受けられて今の状況がある。なら支援システムがなくても嫁さんが電話で連絡を取ればいいのかと矛盾を 感じたまま止めて今日まできた次第だ。主治医には愛想笑いで返した。その後はいつも通り診察を受けカニューレ交換と 胃ろう洗浄を受け帰った。さて支援システムはどうしたものか。

5月17日 入浴車
今日は水曜日、午後から入浴車の日。果たして入浴車のスタッフの井戸端会議ではどんな話題で盛り上がるか楽しみ。
今日の話題は昼ドラ、残念ながら僕は昼ドラは見た事がないので内容は全く分からなかったが結構ドロドロしたものが あっているらしい。そして次の話題に移ったら、今度の日曜日中学校の運動会があるらしいのだが降水確率が50%以上 との事。お弁当を作る主婦の立場としてはやるかやらないかはっきりして欲しい。中には少しぐらい雨が降ってても やるとか開会式は雨はなくて途中から雨が降り出して午前中で終わっても構わないという意見も。もし日曜日雨が降って 中止になったら運動会は月曜日に順延になって観客もずい分と少なくなるからかわいそうというのだ。僕らの頃は運動会は 10月のだいたい2週目で台風でも来ない限り雨とは無縁だった。運動会の日雨が降りそうな時はうちのお袋もこんな風に やきもきしたのかな。

5月16日 さびしいかな
子供たちとまともに話さなくなってもう10日、僕らの間には違う意味でもう会話が必要のない関係なのかもしれない。 嫁さんによれば僕は勉強の事だけ聴いて言うお父さんらしい、だから子供たちがこの部屋に近付きたがらないんだと。 僕としては子供たちに「(諸々)どうだ?」とか「体調は?」とか「何してる?」とかそして時には勉強の進み具合を聞いていた つもりだったのだが、子供たちは煩わしいと思いながらも無理して付き合ってくれていると知ったたので話しかけるのは もう止めた。今は挨拶に目配せするだけだ。
嫁さんが言うには「親離れ、経験あるでしょ、何かあったら相談するわよ。」と。でも僕は今まで子供たちから相談を 持ちかけられた事は一度だってない。それに子供たちだって文字盤で長く会話するのは大変だし煩わしいだろうから。 手も正直寂しい。

5月14日 体育祭か
今日は息子たちの通っている中学の体育祭、でも嫁さんも息子たちも日曜日体育祭がある事を直接には話してくれない。 それなのに「どうせ子供の体育祭なんてどうでもいいんでしょ。」なんて。僕が話を聞いたのは入浴車のスタッフの 井戸端会議で、「高校は土曜日総会がある。」とか「中学校は日曜日体育祭ですね。」と。どおりで水曜日なのに子供たちが 3人ともいつも時間になっても出かけないと思ったら子供たちは3人とも代休と、その割りには娘も制服を着て出かけたし 下の息子もクラブへ行ったが。
夜上の息子が顔を出したので「どうだった?」と聞くと「青はよかったよ、リレーも勝ったし騎馬戦も綱引きも勝って 総合優勝した。応援合戦は惜しかったけど。白は何にも取れなくて可哀想だったけど。」と嬉しそうに話してくれた。 この息子がアンナうれしそうな顔を見せるのは久しぶりだ。
今度はパソコンをしにきた下の息子に「どうだった?」と聞くと「面白くなかった。」と、この息子は白のグループなのだ。 「自身はどうだった?」と聞くと「自信はなかった。」とトンチンカンな答え。しょうがないから「来年がんばればいいさ」と 伝えたけど。
本当は見に行きたかったなあ。

5月12日 また寒くなった
明日から晴れ間が続くとの天気予報、だからなのか昼過ぎから少し寒くなった。このちょっとだけの気温の変化にも身体が ついていかない。なんとも情けない!、情けない身体だ。

5月11日 久々のお風呂
左腕を手術したせいで4月26日からお風呂に入っていなかった。今日は久々のお風呂(入浴車)の日、はいる前に「入浴剤は どうします?。」いつも聞かれるが僕は答えようがない、見えないから色を楽しみようもなく匂えないから香りも 味わえない。保温効果があるならとりあえず入れておくかって感じ、それに入浴剤が入った瞬間みんなが「綺麗」って 顔するのを見るのも好きだし。でも今日は頭や背中をゴシゴシ洗って欲しい、もう痒くて痒くて。
浴槽に浸かると「気持ちいーい」って感じ。だけど今日はなんか変、だって僕の好きな井戸端会議が飛びかってないもの。 少し寂しいかな。
お風呂も終わって休んでいると左腕の傷が少し疼きだした、入浴剤のせいかな。ちょっと気になる。

5月8日 気候が変わった
今日から気候ががらっと変わって急に暑くなった。情けない話だが身体がついてゆかない、28℃の除湿でエアコンを 入れてみたら肺と肩が冷えて鼻詰まりするしエアコンを切ったら汗だくだく。掛け物の調整が難しい、どうすりゃいいのか 分かんない。
今日も激しい雨もしかしてこのまま梅雨に入るのか、まだ心も身体も梅雨に入る準備は全然出来ていないのに。20代の頃は 確か5月いっぱいは五月晴れが多くて5月末にはみんなでよく海に行き初泳ぎしていたのに。なんだか梅雨が年々 早くなってきている様だ。僕の身体は大丈夫?。

5月6日 家に帰った夜からもう大騒ぎ
二週間ぶりに家に戻ってきたというのに家の方には何にも変化なし、子供達も「ただいま。」と顔を見せるだけ、連休中に どうしたとかお父さんに聞かせる話はないのか。二週間の入院ぐらい・ゴールデンウイークに僕がいない事ぐらい この家にとっとは年中行事で当たり前の事。
ところが夜9時前障子の向こうから親父とお袋が大騒ぎ。帰ってきたその日から大騒ぎなんてやってられないよ、こんな 騒ぎを聞くくらいなら僕はずっと病院に居たいよ。親父、しっかりしてくれよ!。僕は何のために生きてるの?。


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4月
4月22日-5月6日 レスパイト?入院
午前ギリギリに病院に到着(まあこの時間が僕の入院の定刻らしいが)、病棟の看護師さんたちに迎えに来てもらって マイカーからストレッチャーへそして病棟病室のベッドへと移乗。病室は先月のレスパイトの時と同じだがベッドは今度は 窓際だ、個人的には窓際より看護師さんを身近に感じられる入り口近くの方が安心出来るから好きなのだが。
入院の片付けもひと段落つき後は足で押す(叩く)ナースコールの設置・調整を残すのみというところへ皮膚科の先生が ベッドサイドに現れた(いらっしゃったと言うべきところだが以後も謙譲する事なく失礼な言葉遣いのまま)、3週間前の 左腕の成長して少し盛り上がってきていた黒子(約5mm大)の病理検査の報告をしに来ていただいた。先生によると「あれは 早期の皮膚癌だった。来週の木曜の午後3時から手術をするから。」諸々詳しく説明してくださった。それでも僕と嫁さんは びっくり、おおごとなら検査結果が出た直後の1週間前に連絡が入る様になっていたから。まあ主治医と皮膚科の先生の 本人を前にして話した方が良いまた手術までのきちっとした段取りがついてから説明した方が良いとの判断から入院した その日に(先伸ばして)伝えたのだろう。また嫁さんと話して両親には皮膚癌の事は黙っている事にした、不要な波風を 立てる必要はないから。その後ナースコールの調整等を終わらせしばらくゆっくりしていると主治医が来てカニューレ 交換を済ませ「来週の水曜日に胃ろうチューブを交換します。」と。来週は忙しくなりそうだ。
僕の入院中の一日のパターンは次の様なもの、朝6〜7時経管栄養(約2時間)・9時半〜10時下洗その後寝るかパソコン・12時 昼の経管栄養・15時過ぎ車椅子(約1時間)・その後ケア(髭剃り洗顔歯磨き)・18時夜の経管栄養・20時半頃テレビ観戦たまに パソコン・23時過ぎ睡眠誘発剤を胃ろうから入れてもらい就寝(ただ3時前に覚醒するからそれからの夜はかなり長い)。
月曜日、午前中手術部のT看護師がご機嫌伺いに来てくれた。Tさんとはもう8年以上前からの顔見知り。人工呼吸器を着け 3ヶ月が経った頃ストレスから胃潰瘍を併発し大量に血を吐いた。その時T看護師は内視鏡室での胃洗浄・止血処置それに 病室に戻ってからの輸血の間中僕の手を握りしめ励まし続けてくれた人。そのT看護師が僕の手術を行うチームには 入ってくれているという、それなら手術中のコミュニケーションもばっちり。午後4時今度はCT検査、主治医に アンビューバッグを押してもらいながら2人の看護師さんにベッドを押してもらい放射線科へ向かう。CTの検査中も主治医に アンビューバッグを押してもらいながら検査を終え病室に戻った。CTの結果は僕は聞かされていないが主治医から退院日の 延期の話は出なかったから胸水の状況は改めて入院して治療が必要なほど悪化はしていなかった様だ。
水曜日胃ろうチューブ交換の日、昨日予定時間が朝一番(9時)から午後に変更になったと聞かされて朝の経管栄養はないと 決め付けていた僕は昨晩も朝方3時頃目が醒めてからも大いに面食らっていた。当然朝の経管栄養が終わってもパソコンも 何もする気は起きなかった。そして午後1時内視鏡室からお呼びがかかった。この時は人工呼吸器も台ごとベッドと移動 主治医と内視鏡室に向かった。内視鏡室に入るとそこには消火器内科の先生が待っていたので今では胃ろうチューブの 交換も消火器内科専門医がやるのかと思ったものだ。胃ろうチューブの交換はすぐに終わって次は咽喉が痛くて 堪らないから嫌な胃カメラでの確認、口からの胃カメラは口が開かなくてマウスピースをくわえるのが無理なので幾分細い 鼻から胃カメラにしてもらった、それでも咽喉はかなり痛かった。胃ろうチューブが無事胃に入っている事を胃カメラで 確認し内視鏡室を後にした。病室に戻ったら昼の経管栄養の時間。だけど時間も2時近くになっていたので夜の経管栄養を いつもの夕方6時頃行える様に経管栄養の量をいつもの半分にしてもらった。
木曜日手術の日、朝から複複数の看護師さんが「緊張していませんか?。」とたびたび聞いてきた。僕に何かが出来る訳でも なくまた僕の腕がびくりとでも動かせる訳でもない、僕はされるだけ受身なのだから僕が緊張してもしょうがない。それに 僕はたかが腕の皮膚層を削り取るだけだから。でもこれほどたびたび緊張してるかと聞かれると最初は緊張していなくても だんだん少しずつ緊張してきた。朝の経管栄養が終わってしばらく休んでいた時に皮膚科の先生が来て切り取る部分を マーキングするという。まず首の右のたびたび小さな血疱が出来る部位から。マーキングされた様子から感じたところでは 首の削除部分は結構小さそうだ。次は左腕の黒子、マーキングし終わった皮膚科の先生に「幅はどれくらい切るの?」と 聞くと「長さは6cm、幹部の周りを5mmぐらいずつ切るから1円玉くらい。見る?。」と言ってマーキングした左腕を持ち上げて 見せてくれた。そこには大きさ6cmで瞳が1円玉の大きな目があった。ついでに「深さは?」と聞こうと思ったがタイミングを 逸し皮膚科の先生は帰ってしまった、残念。
午後3時手術室へ向かう時間、ベッドと人工呼吸器を載せた台を4人の看護師さんだちに押してもらい手術室へ向かう。 ところがエレベーターの所まで来たら呼吸器の台が入らない。そこで1人の看護師さんが呼吸器を抱えてエレベーターに乗り もう1人が台を抱えて階段を駆け上がる。ご苦労様です。そしてエレベーターを降りた所でもう一度合体しいよいよ 手術室へ。嫁さんはまだ顔を見せない、授業参観が伸びたのか。嫁さんは僕と同じ様に左腕の皮膚層をただ削り取るだけと 考えているからこんなに大きな目を削り取る手術と知ったら驚くだろう。
手術室に入るのは多分二度目、8年半前に気管切開をした時この部屋で手術を受けたはずなのだが記憶がない。8年半前 朝から痰が咽喉に詰まり気味で、訪問看護のケアの途中でついに(というかやっぱりというか、僕はバイパップをどうしても 使いこなせなかった)呼吸不全を起こし救急車で川棚病院に運ばれて、G先生から「気管内挿入をします。いいですね。」と 言われ了承して、ここで一回記憶が飛んで、気が付いたら見晴らしがよさそうな個室にいて嫁さんが傍にいて「手足がとても 冷たいし重い、どうして?」とつぶやいて、主治医から「明後日(明日?)気管切開します。」と言われ、それ以後記憶がなくて 気が付いたらいつもの神経内科病棟にいて首には太い人工呼吸器の管が繋がっていた。
手術室前でストレッチャーに乗り換え手術室に入りついに手術台へ、見回すと皮膚科の先生・主治医・T看護師それに手術部の スタッフが3人(T看護師を始め手術部のスタッフは優しい目をしてる)。皮膚科の先生の「始めましょうか。」の声で手術 スタート。まず首右の今は潰れてしまってもうない血疱の根の除去から。皮膚科の先生がやる前にこれから行う事を逐一 詳しく説明してくださるから僕も心の準備が出来る。「麻酔、チクッとします。」、そして新型インフルエンザ予防接種並の 痛みが何ヶ所かに。それからしばらくして先生は首の患部の周りを針の様なもので何ヶ所か刺し「痛みはありますか?。」と 麻酔の聞き具合を確認し「切ります。」と、僕は首の皮膚が何かで少し喰いちぎられた様な気がしたが痛みはなかった。 「縫合します。」ギリギリと突っ張られる様な感じが少ししたがこれで首は終わった、ものの5分位か。「左腕いきます。」。 次は左腕、血止めの機械を使うとの事。今度の麻酔は広範囲、そこそこ痛い局部麻酔用の小さな注射を何本も打たれた。 麻酔が効いている確認の上いよいよ執刀、よく見えないがメスを使ってるみたい。麻酔が十分に効いていて痛くないから よく分からないが、皮膚科の先生はあの大きな目の端の方からメスを入れ血止めをしながら少しずつ切っている様だ。 先生と血止めの機械を調整をしている看護師さんとのやり取りを聞いているとある程度は想像出来る。10分も経たない内に あの大きな目の切り抜き作業は終了し次は縫合、ギリギリと皮膚が引っ張られる感覚からすると結構な箇所を縫い合わせて いるようだ。やがて先生が「終了。」と宣言し手術は終わった。どこからか「24分。」という声が聞こえてきた、左腕の手術の 所要時間らしい。手術室の時計を見るともう4時半少し前、結構時間が経過していた。すぐに病棟から迎えのベッドが来て それに移って病室へ戻った。病室には嫁さんが待っていた、首は長かったかどうか?見えなかったから????。それにしても 手術中の先生とスタッフとの会話というものも聞いていると結構面白い、手術中にこういう風にしてスタッフに自分の 技術を伝授するのかと感心しながら聞いていた。
病室に戻りしばらく休憩、数人の看護師さんが「痛かった?。」と聞きに来た、僕は「そうでもなかった」との合図を送った。 まもなく皮膚科の先生が現れて嫁さんに(僕にも?)手術の内容を詳しく説明してくださった。首の右の血疱は取れてもう なかったけれど根を前回の左腕の病理検査をした時と同じ要領でパチンと抜き取り三ヶ所縫合した。左腕は黒くなった 部分の周りを取れば安全といわれている5mmの幅を確保して6cmの長さで腕の筋肉のぎりぎり上まで切り取った。今回の場合 切る長さは4cmで十分という医者もいるだろうが、再発してもう一度再手術を受けるよりも最初から大きめに切り取った方が 良いと自分は考えていると説明してくださり切り取ってホルマリン漬けした部位を見せてくださった。嫁さんは自分の 予想外だったその大きさに驚いて「こんなに切ったのね。」と呟いた。僕はまず首の部位を見てこれが根というものかと 思った。次に左腕の切り取られた部位を見て「綺麗に切るもんだな」と感心した(皮膚科の先生に失礼か)。黒い部分(皮膚癌 細胞?)が遥か先に?透けて見えた。また縫合は中の方を4ヶ所・表面を6ヶ所したとの事、だから結構縫合に時間が かかったのかと僕は思った次第だ。最後に嫁さんが「もし取り残しがあれば再発する恐れもあるのでしょうね。」と失礼?な 事を聞く。先生は「この仕事を15年やっているけれどここまで綺麗に取れて再発した例には出会ったことがない。」との 回答。それに対し嫁さんは「でも万が一再発したらどこに転移します?。」ともう一度質問、それに対し先生は「再発する事は ないと思うけどその場合は肺です。」と教えてくださった。先生が去った後嫁さんが言うには「癌の場合家族もそれだけの 覚悟をしているという事を医者に伝えておかなければならないものよ。」と、僕はそんなものかなと思った。
手術を受けた夜は左腕よりも首の右の肌が突っ張る感じが痛かった(痛みの度合いは10のうち2ぐらいか)。次の日皮膚科の 先生が来て「左腕の手術跡は順調に回復しています。」と言いながらドレン(傷の奥から溜り血や浸出液を外に出すために 傷口に差し込んであった小さな管)を2本抜き取った時が今回の手術の中で一番痛かった。その夜も時々左腕の傷が疼いて (10のうち4〜5)痛み止めの薬を使おうかと迷ったくらいだ。次の日も皮膚科の先生は様子を見に来てくれて「これならもう 開放していい(傷口にもうガーゼを当てなくてもいい状態)。」と。傷はたまに痛みが襲ってくるぐらいで少しずつ落ち着いて きていた。
世の中はゴールデンウイーク、でも僕らはいつもと同じパターンの繰り返しの日々。ところが5月3日だけはいつもと少し 違っていた。5月3日は僕の誕生日。11時前突然たくさんの看護師さん達が僕のベッドの回りに集まってきてT看護師特製の バースデイカード(主治医や看護師さん達のメッセージ入り)を渡されみんなでハッピーバースデイの歌を歌ってくれた。 久しぶりに嬉しかった。また夜には嫁さんが子供たちを連れて来てくれた。久方ぶりの家族団欒、今では家でもこうして 僕の回りに家族が一堂に集まる事はないもの。
5月6日退院の日、6時から朝の経管栄養を繋いでもらった。今日は早め早めに動かねば昼の経管栄養の途中で抜糸って事に なりかねない。10時前に浣腸も終わり後は何をして過ごすか、パソコンするって手もあるがそんな気分でもない、ボーっと してることにした。11時半昼の経管栄養を繋いでもらう、早めに落とせば13時の抜糸の前に終わるはず。それまで経管を 繋いだままひと眠り。
13時過ぎ経管栄養も無事終わり皮膚科の先生を待つ。しばらくすると先生が来て抜糸開始、「どこまで取れるかな。」と ひとり言の様に言いながら先生は抜糸をしていく。そして「こりゃあ全部取れるな。」と抜糸終了。その後先生から説明、 中の糸は自然に溶けてなくなる・(左腕の傷に貼った)テープは自然にはがれるまで放っておく・手術の時取った組織の 病理検査の結果は次の(主治医の)外来の時に説明するから外来に来て欲しいと。僕からも「お風呂は?」と質問、それに対し 先生から「普通に入ってかまいませんよ。」との答えが返ってきた。
14時迎えが来る時間だがいつもの如く少し遅れていて担当の看護師さんは少しやきもき。そして嫁さんと訪問看護師の Mさんの姿が見えて、こりゃあ今日の看護師さんは大変だと僕は独りで思った。案の定家のパジャマへの着替えも首・脚の 装具着けも病棟の看護師さん任せ。病棟の看護師さんは日頃脚の装具は着けた事がないから苦労してた。やがて帰る準備も 終わって僕を乗せたベッドながら玄関へ移動しマイカーの助手席へと移乗、ここでも自動車の移乗に慣れていない病棟の 看護師さん達は苦労してたが何とか乗り込ませてもらい看護師さん達に笑顔で見送られながら家路に着いた。
それにしても今回の入院は諸々の理由で落ち着かない入院だったが看護師さん達の優しさに触れた入院でもあった。 主治医の先生・皮膚科の先生・手術部のスタッフの皆さんそして病棟の看護師さん達、お世話になりました、 ありがとうございました。

4月21日 入院前日
入院前日の僕はいつも忙しい。まずYAHOO GyaOでアニメのカペタ・あした天気になあれ・あしたのジョーの合計10本を なんとしても見なければならない。それにデータのバックアップもとらないといけない。当然僕のホームページも 更新しなければならないし・・・。本当はメールもうたないといけないのだが、どうもそこまでは出来そうもない。
アニメを見なければいいって、それはそうなんだけど・・・。なんせみんな懐かしの漫画だし・・・、あした天気になあれと カペタは元気な頃仕事で列車で移動する時にジャンプ・マガジン・サンデー・チャンピョンと毎週欠かさず見てたがその中の どれかにあった。あしたのジョーはいつテレビで見たのか忘れたが、ずっとずっとずっと見たかった。それがようやく 始まって・・・、それなのに見ない訳にはいかないじゃないか。
面白かった!。

4月19日 家庭訪問
今日は午後から息子たちの通う中学校の家庭訪問の日、嫁さんはこんな身体の僕をどうしても息子たちの担任の先生に 会わせたいらしい。パソコンに向かいながらも先生がいつ頃来る予定なのか嫁さんに聞こうと思ったが、その時すでに上の 息子の担任の先生が来た。
上の息子の担任は去年も息子のクラスの担任だったから見覚えはあった(なんせ僕が子供たちの先生と接するのはよほどの 事がない限り4月のこの家庭訪問一度きりだから)。先生と嫁さんはかなりの顔見知りらしくすぐに井戸端会議(失礼?)を はじめた。その話しを聞いていて分かったことは息子が今年の目標を問われてよく「勉強をがんばる。」と公言してる事、 その割には結果がもうひとつ伴ってなくて息子の掲げる目標に届いていないそれに家庭学習の時間が極めて少ないと。 息子は中学での自分の勉強のやり方をもう自分で確立しているから僕はそれに口出しする必要はないと思っている。 マイナス面はいずれ息子自身が気付くだろう。僕は時々息子の勉強の進め方を確認するもうそれだけでいい。二人の会話を 聞いていてもうひとつ分かった事、クラス替えの時成績だけでなく先生方がつかんでいる生徒たちの人間関係も考慮して クラス替えを行っているという。僕らが中学生の頃もそうだったのかな。先生と嫁さんの限りなく続く会話をさえぎる様に 玄関で「ごめんください。」と声がした。「もうそんな時間?。」と上の息子の先生は帰っていった。
下の息子の担任は新任の若い女性の先生だと聞いていたから息子がまた6年の時の様に担任に馴染めず元気をなくすのではと 心配していた。でも一目見て生徒の声を聞く耳はありそうだなと安心した。下の息子の目標はついていけるか不安だが 勉強がんばる・クラブもがんばる、私傷な事を。嫁さんがお兄ちゃんが下の息子の言葉遣いが気に障って時々喧嘩すると 話すと、先生から息子が一人っ子の友達に言葉遣いが悪いと注意してたと聞かされてしたの息子も色々考え 感じているんだなと気が付いた。僕からは息子が我慢強くなるよう指導してほしいとお願いした。この先生となら息子も うまくやっていける様な気がする。お願いだからあんまり先生を困らせるなよ。

4月16日 真夜中に変な音が・・・
真夜中に目が覚めたら枕元からピーピーピー・・・と変な音がしている。UPS(無停電・落雷対応電源、僕は人工呼吸器の バックアップに使っている)の大元のコンセントが抜けた時の音に似ていると思ったが、こんな真夜中に自然に抜けるはずが ない。しょうがないからコールを押してお袋を呼び「変な音がするから(嫁さんを)呼んできて」と頼んだ。
ところが嫁さんは熟睡しているのかなかなか起きてこない。そこで次は「上の息子を呼んできて」と頼んだ。息子に音の 発生源を探してもらうとやはりUPSのコンセントボックスからピー音が出続けているらしい。こうなると嫁さんを呼ばないと どうにも対処できない。嫁さんに来てもらい嫁さんはコンセント周りをごそごそと繋ぎ替えていた様だが、結論「(UPSを) 外したら音はしなくなった。」と。
その時僕は大分前の事をひょんと思い出し「どこかに前に買っておいたやつ(UPS)があっただろう?、それに付け替えて」と 言うと嫁さんはそこいらを探し「オムロン?。」と聞く、僕がそうと合図を送ると繋ぎ替えた。備えあれば憂いなしと 言ったところか。ところがあまりに前に買っていたものだから充電が空っぽらしくバックアップの方のコンセントが 反応しないらしい。まさか不良品と思ったが、呼吸器もバックアップなしのコンセントに繋いで(この呼吸器は一応充電池 内蔵だから)しばらく様子を見ようという事になった。
みなさん真夜中にお騒がせしました。

4月15日 体調不良?
昨日から痰があまり出ないし(痰が出やすいかどうかが僕の体調のバロメータ)掛け物を増やしても身体が中々温まらない。 昨日の夜の経管栄養の時に眠れなくて身体冷えた成果?。朝になっても身体が少ししんどかった。でもこんな事嫁さんに 言っても「だからどうして欲しいの?」と言われて返事に窮しそうだししばらく様子をみる事にした。
朝のケアが終わった後訪問看護師さんと嫁さんに打ち明けた、「少ししんどいから昼から車椅子に座るのと(訪問)リハビリを 止める」と。車椅子に座ると痰が出やすくなるので座るかどうか散々迷ったが、車椅子に座ると身体が冷えてくる事があるし 僕の中では車椅子に座る事とリハビリはセットだという想いがあったのでどちらも止めにした。その代わりベッドを ジャッキアップしてもらって1時間半ほど上半身を起こしていた。この態勢を取っていたおかけかどうか分からないが痰が いくらか出てきた。それでもすっきりとするまでにはいかなかった。
熱が出ている訳ではないのに身体がしんどいし風邪に似た症状が出ている。きっと免疫力がかなり低下しているのだろう。 こんな状態でいつまで生きていられるのかなあ。

4月13日 クラブ活動決めた?
最近の僕は下の息子の帰ってきた気配がしたらいつも呼んで「クラブ(活動にどこに入るか)決めたか?」と尋ねている。 すると息子は決まって「友達が入るやつに入る。」と誤魔化して教えてくれない。
息子達の野通っている中学校(僕の母校)はクラブ活動が盛んだ、僕から見れば何か異様とかんぐりたくなる様に。僕は 中学校の教育はまずす勉学ありきその上で集団教育の一環でかつ他方面の教育としてクラブ活動があると思っている。 ところが今のわが母校は文武両道どころか武の方に軸足が入っている様に僕には思える。休み(夏・冬・春休み含む)の日の 連取日数・時間・(公式戦・練習)試合の多さ・中間・期末テスト前の練習休止日数の減少(僕らの頃は1週間前からクラブ活動 禁止)・親のクラブ活動へのかかわり方、ひと昔×3の人間から見ればこれは勝ちにこだわるクラブチームと思うほど。 それに体育祭でのクラブ紹介の時間もプログラムの中で一番長くとっとあってこれが体育祭のメイン?、通知表では クラブの枠がほぼど真ん中。中学校でクラブに入らないと身体に何か問題を抱えていると周りにかんぐられて仲間外れに されるのではと心配になるほど。それにクラブかづうをしてないと内申書でマイナス査定になるという噂も耳にした。 僕らの頃は好きなやつが好きなクラブに入るだけ、僕は気に入ったクラブ見つけられなかったから入らなかった。もし 水泳部とか体操部とかあったら入っていたかも。それでも休みの日にはクラブに入っている奴と結構遊んでいた。
今日帰って来た下の息子にいつもの様に「クラブ決めたか?」と聞くと「バスケット。」、「どうだった?」「面白かった。」と 嬉しい答えが返ってきた。面白かったか、それなら良い!。

4月12日 暖かくなっても体調もうひとつ?
4月になり確実に暖かくなってきているっていうのに僕の体調はもうひとつかな?、相変わらず肺が寒いんだもんな。
眠っている時はじわーと寝汗をかいているのにひとたび目が覚めたら呼吸が活発になって肺に冷たい空気が流れ込む。僕の 肺がこの寒暖差にいつまで持ちこたえていられるのだろうか、とっても不安。汗をかいているからと1枚掛け物を取ると たちまち鼻詰まりしてくしゃみも出てくる始末、あわてて掛け物を戻してもらう。だから僕の体温調整法はもっぱら手の 布団からの出し入れ。僕の身体、いったいどうなっているの?。

4月10日 日曜諸々
日曜だというのにいつもよりやけに早く朝7時過ぎ嫁さんが経管栄養を持ってきた、なんでも午前中地区の運動会をやって その後班のお花見お食事会があるそうだ。これで夕方まで家にいるのはお袋と僕の二人。いつもの事でしょうがない事だけど 取り残された気分、元気だったらお祭り好きの僕は年も忘れて暴れまわっているだろう・・・とつい考えてしまう。下の息子を 呼んで「今日頑張れ!」と言うと「目立つの嫌いだから。」とあっさりかわされた。どうも息子達は僕のお祭り好きのDNAは 受け継いでいないらしい。夜嫁さんに話しかけると「今年班長だから後始末で忙しいの、誰も手伝ってくれないし!。」と 話し相手になろうともしない。案内状や会計書類とか僕にだって出来る事はあるだろう。僕ってそんなに信用しきれない 木偶の坊なの。
今日は佐賀県知事選の投票日。選挙に投票行動を起こさないのはいつ以来だ、30年近くどんなにつまらなくても投票だけは してきたが今回は投票する気も起きなかった。古川知事に福島原発事故を受け「原発があんなに水に弱いって事を ご存知でしたか?」って聞いてみたいけど、県民の声を聞く耳は一応あるし長崎新幹線への対応以外そんなに不満はない。 ただ民主党政権に対しては不信感で一杯だ。絶望感さえある。ちょこっと無駄を削減しただけでもう諦めて安易に 国債発行、入ってくる金がないのなら財布の紐を閉めるって事知らないのか。こんなに有言不実行な政党だとは 思わなかった。でも民主党を政権に就かせたのは僕ら・・・・・。

4月9日 さくら散歩
先週の通院の日車窓からちょこっと見えた桜が2-3分咲きだったので火曜日の車椅子への移乗の時に訪問看護ステーションの 所長さんに「土曜日天気が良かったら桜を見に散歩に行きたい」とお願いしてみた。すると一緒に移乗介助をしてくれていた 訪問看護師のFさんが「土曜の午後は私が来るから大樹神社かお寺まで車椅子で散歩に行きましょう。」と言ってくれた。 そこいらまでの散歩なら僕はアンビューバッグを押しながらでも構わないと思っていたが所長との話し合いで車椅子に 呼吸器をつけて行く事になった。
そして土曜日前日の雨も上がり最高の青空、幸い体調も崩さずにきた。午前中の洗髪・清拭のケアを終えしばしテレビ観戦、 午後1時45分アニメも終わったのでパソコンをしようと足でコールを押すと・・・、誰も反応してくれる気配がしない。 コールを押しても誰も着てくれないと分かってからが精神的地獄の始まり、心臓パクパク・血圧が段々と上がっていくのが 自分でも分かった。痰が出てきたらどうしようなどと考えながら5分おきにコールを押すが相変わらず誰も来る気配がない。 絶望と諦めの感、3時に訪問看護師さんとヘルパーさんが来るまでただ耐えるしかないのか・もてるかな?心底心配しながら 時計と睨めっこ。身体が動かせる人には分からないだろうが、コールを押しても誰も来てくれないというのは命綱を 繋いで崖の上に立たされて命綱を持ってくれている人がいなくなった心境かな。そして3時直前隣の部屋の方から音がして コールを押したら娘が顔を出して・・・、つい「1時間以上前からコールを押しているのに誰も来ないから・・・死ぬかと思った」 娘にグチグチ言ってしまった。すまん。
さくら散歩を手伝ってくれたのは看護師のFさん・ヘルパーのYさんそれにケアマネージャーのTさん。脚をほぐしてもらって 車椅子に移乗させてもらい呼吸器を着け外に出ると、暖かい春の日差しと爽やかな風、久しぶりに外の雰囲気をゆっくりと 味わい身体全身で春の香りを感じ取れた。車椅子を押してもらい道に出ると久しぶりにこの角度から見る国見山の姿や 田園風景、懐かしい。大樹神社に向かうと鳥居の横の桜が満開。綺麗だ!、昨日嫁さんが満開の桜の写真を撮ってきて 見せてくれたがやはり実際に見る桜とは感動と美しさの受け取り方が違ってしまう。思わず見とれてしまった。大樹神社は 子供の頃の僕の遊び場、でもあの頃は階段を一目散に駆け上がっていたので桜がある事すらすら知らなかった。しばらく 暖かい日差しの中で桜を眺めていたら幸せな気分になっていた。やっぱり外に出るっていい!、沈んで暗くなっていた心が 一気に明るくなってきた、外はいい、自然を感じられるって素晴らしい。
「何時?」って聞くと「4時15分」、もう帰る時間。道すがら東の山々を見ると、にんぎょう岩・牧山・腰岳・青螺山・黒髪山?。 懐かしい!。家に着いてももうしばらくの間春の日差しの温かみを味わいながら家の前の畑を見せてもらった。ここは 親父とお袋の趣味と憩いの場所、数年後どうなっているのだろうと考えると両親には申し訳なく自分が情けなく自分自身が 嫌になってしまう。ベッドに横になり着替えをしてもらって今日の散歩の余韻を楽しんでいたら突然訪問看護師さんの 「どうなってるの。」と当惑した様な声が聞こえてきた。「なに?」って聞くと人工呼吸器の「LOW POWER」?のエラー表示が どうしても消えないからと。「呼吸器の充電バッテリーがおそらくすっからかんになってるから、(充電出来たら)そのうち 消える」と(あてずっぽの)説明をしたら安心した様子。あてずっぽといっても理由はある。この呼吸器が僕の所にきた時 メンテナンスは完全でも新品ではなく使い回しの商品のはずだ。だから内部の充電バッテリーは劣化しているはずなのだ。 その証拠にAC100Vに繋いでいる時はフル充電緑の表示でもACアダプターを外すとたちまちバッテリー不足のアラームが鳴り 橙色の表示に変わる、新品ならありえない事だ。今日のさくら散歩では充電なし危険赤色を通り越し何も表示しない状態に なっていたそうだ。ケアマネージャーさんが「危なかったわね。もう少し長く外にいたらアンビューバッグを使わなければ ならない状況でしたね。」と呟いた。でもまあ僕は最初はアンビューバッグで散歩に行くつもりだったし・・・・・。
Fさん・YさんそしてTさん、今日は本当にありがとうございました。おかけで久しぶりに自然の香りを感じれました。 出来る事ならば月に一度ぐらいはお日様の日差しを浴びてこうして自然を感じたいものです。
来年のさくらは見れるかなぁ・・・。

4月8日 往診
今日は我が家の掛かり付け医であるT先生の往診日。T先生が往診してくださるようになってもうどれくらいになるのか?、 僕が人工呼吸器を着けて家で生活する様になってからだから確かもう9年目。僕は通常2週間に1度川棚の医療センターに 通院する様にしているから、隔週及び僕が体調を崩しかけた時T先生に往診をお願いしている。今日は通常の往診日だから 胃ろうの洗浄とカニューレの交換それに先週川棚医療センターでした左腕黒子病理検査痕の抜糸をしていただいた。 失礼ながらT先生は内科の先生だから抜糸はちょっと痛いかもと独り心配していたが、何事もなかったかの様に終わり少し 拍子抜け。
T先生ごめんなさい、そしていつもありがとうございます。

4月6日 散髪
目に髪の毛が入って鬱陶しい、けど自分では振り払う事すら出来ないし人にやってもらうにしてもいちいち文字盤を使って それだけの事を言うのも面倒くさいし申し訳ない。そう強く感じ始めたので先週始め訪問看護ステーションの所長さんに 「髪を切りたい」と伝えておいた。そして今日入浴車の前に散髪。
訪問リハビリの先生が気がせき気味にリハビリを済ませ(まもなく床屋さんが来る事がケアマネージャーの方から事前に 伝わっていた?、僕はまだもう少しあるからそんなに気にしないでと思っていたが)待っていると、11時半頃リリアンさん 登場。このお二人とはもう10年来の付き合い?だが(実際は年に2-3回髪を切ってもらうだけ)年齢不詳、10年前からちっとも 変わらず若々しい、職業柄?(10年来だから20歳代って事はないだろう)。ともかくこの二人に任しておけば寝たままでも 安心、いつもみんながさっはりなったと褒めてくれる(自分ではもう姿見の前に立つ事もないから格好などもうどうでも 構わないのだが)。タダリリアンさんは訪問理容でご年配の方の相手をしているから、男性の場合「短め」と言うと坊主に されそうでいつも嫁さんに「少し長め」と言ってもらうようにしている。それでも後ろなどは結構短く刈ってあるそうだ。 まあともかく散髪はリリアンさんに任せて安心、優しいしね。ありがとうございます。

4月4日 保健福祉事務所の難病担当の交代
今日の午後伊万里保健福祉事務所の難病担当(当然難病だけでなく他の職務も兼務)が交代の挨拶に来た。10年8ヶ月前に 僕の田舎に越してきて難病担当の保健師が交代するのは4度目・平均3年弱の付き合い、異動は役所の常といえど交代してちゃ 難病を取り巻く環境の意識改革・重度在宅療養者のQOL対策など継続した対応を本気で取り組む気があるのかは県庁にも 地域の健康福祉事務所にも疑問を感じてしまう。我が家の介護環境はほとんど改善される事はなく僕の生き続けなければ・ 在宅でがんばらなくちゃという意欲・意識も近年減退気味。
難病担当の前任者は僕の高校3年の時の同級生、年に数回訪ねてきて少しの連絡事項と嫁さんとの世間話に大いに盛り上がっていた。けれどその世間話の中に僕の関心を引く事柄も含まれていた。さて今度の保健師さんはどんなタイプでどんな事に取り組んでくれるかな?。

4月1日 通院日
今日は退院後初めての通院日、でもこの2週間僕にはいつもより少し長かった様な気がして・・・・・、色々あったから。 今日は皮膚科の先生にも左腕の黒子(拡大かつ盛り上がり中)と首筋の極小の血疱(出来たり取れたり)を診てもらうとの事。 正午過ぎリフト車に車椅子で乗り込み嫁さんを待っていると今日はすぐに来た。いざ出発!。
(よくは見えないが)車窓からは所々春の景色。峠を越えしばらく行くと色鮮やかな菜の花が見えてきた。この黄色まさしく 春。川沿いの道を行くと見事な枝垂桜、残念!リフト車の僕の位置からは見えなかった。またしばらく行くと田んぼ一面 菜の花、心が洗われる気分。道沿いの小学校や病院の桜は1−2分咲きといったところかな、よく見えないから 分かんないや。
今日の病院は何となく慌ただしい雰囲気、なんでも病院の電子システムの変更に伴い端末のパソコンの操作も変わり てんやわんやと言う。何も週末の金曜の僕の通院日にシステム変更しなくてもよかろうもんと思ったが今日は年度始めの 4月1日、運が悪かった諦めよう。慌ただしい中処置と皮膚科の診察のどっちが先にするかで先陣争い?、結局検査の必要な 皮膚科が後へ回りまずカニューレ交換と胃ろう洗浄の処置から。今日は主治医ではなく神経内科の他の医師がスタンバイ、 処置が終わってしばらくすると「パソコンが変わってバタバタですよ。」と言いながら主治医が現れて診察と薬の打ち込み。 しばらくALS支援システムへの打ち込みを僕がしていない事へのお咎めはなし、何かあったら嫁さんが必ず病院と連絡を 取るはずという僕と同じ考えからか。
次は皮膚科の番、その前に黒子部分の組織を切り取って病理検査に出すからと血液検査。でも血液がなかなか取れない、 手足の静脈がそれほど細くなってしまったのかと自分でも情けなくなる程だった。30分ほどかかって血を必要量絞り出し ようやく検査室へ。それから更に30分待ち血液検査の結果が良好と出てようやく皮膚科の出番。皮膚科の先生は お話し好きの先生のようでこれからやる事を逐一口に出して説明してくださった。最初の局部麻酔はインフルエンザ並みの 痛さ、次の皮膚組織の切り取りはいつの間にか終わり最後の縫合は皮膚が突っ張る様な痛みがあった。検査結果は2週間後に 出るという。3週間後からまたレスパイト入院する事になっているのでその時に検査結果の説明もして貰えるようになった。 皮膚科の先生は「1時間ぐらいで麻酔が切れるのでその時痛みが出るかも?。」と鎮痛剤も処方してくださったが、その後も 皮膚が突っ張る様な感じと傷口が重痛い感じがしただけで嫁さんに「我慢出来ないほど痛い」と訴える必要がなかったから 嫁さんが鎮痛剤を服用させてくれたかは??。
家に戻ったのは4時ちょっと前、通院所要時間が予定より大幅に伸びた。訪問看護師さんや社協の移動サービスの皆さんに 迷惑をかけて申し訳なかった。


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3月
3月31日 3月も今日で最後か
3月も今日で終わり、春休み真っ最中の子供たちは娘と上の息子は毎日クラブ活動で忙しそうだし今度中学へ上がる 下の息子は昼飯もそこそこに一日中遊び呆けている。当然みんな楽しそうだ。
かくいう僕も春休みには毎日山へワラビやツワブキを採りに行ってた、時には昼飯用のおにぎりを作ってまで。子供の頃は ワラビやツワを市場に出して小遣い稼ぎをしていたが、いつの間にか春の山菜取りは僕の趣味になっていた。福岡にいた頃 まだ2−3歳だった娘を連れて那珂川町の山奥五ヶ山に行き娘を自動車の中に残しワラビ採りに興じてた(娘とはピッチの トランシーバーモードで話しながら)、身体の動きが悪くなると家族連れで。今でも春の夜になると、もし元気だったら 暇を見つけては息子たちと山へ行き山菜取りをしているだろうなといつも考える。そしてここでALSで寝たきりなのが何故に 僕なのだ・世の中には人はいっぱいいるのだから僕を選ばなくてもよかろうもん・僕がこんな仕打ちを受けるほどの 悪い事をした?、と涙が零れるのである。

3月29日 訃報
同じ部落(今は「地区」と呼ぶ)の同級生YTが亡くなったとお袋から聞いた。Yは確か早生まれだったから52歳に なったばかりのはず、若過ぎる。僕がこんな状態でなお生き続けているのに、いったいYが何故死ななくちゃあ ならないの?!。
1年くらい前かなHに連れられてYが遊びに来てくれたのは。その時のYを見て結構痩せているなと思ったけど、子供の頃から 細身だったから気にもしなかった。その頃はもうすでに自覚症状はあっただろうにおくびにも感じさせなかった。Yは 最後まで働いていたそうだ、えらいなあ。

3月28日 膝の奇跡は1週間?
車椅子に移乗するために立たせてもらう時少しだけだけど膝に力が入る様になったと喜んでいたのも束の間、その効果は 1週間で消えた。今は前より力が入らなくなった気がしている。消える前のロウソクの炎だったのかな。訪問看護師さんや リハビリの先生にまた負荷をかけてしまう、申し訳ない。
1日に1200kcalほどしか摂っていないのに少しずつ体重が増えている。嫁さんや訪問看護師さんは僕のお腹を見て呆れ顔。 「どうせ肉が付くのなら首か胸に付けよ!」と言いたい。栄養のバランスとの関係でこれ以上経管栄養は減らせないそうだし やせるにはどうすればいいの、運動はしたくても身体は動かないのだから。

3月28日 パソコンの文字がやけに見にくい
ここ数日パソコンの画面の文字がやけに見にくいと感じていた。それに目がとっても疲れるし痛い。
そこで眼鏡を替えようと思い上の息子に引き出しを捜させたら、思いがけない見知らぬ?眼鏡が二つも出てきた。 昔使っていた眼鏡らしいのだがとっておいた覚えがない。ためしに掛けさせてもらったら、ひとつはフレームが少し 捻じれていて(昔掛けたまま寝て寝返りしたのかな?)顔にしっくりこなかった。もう一つはフレームが広がっていて 落ちそうな気がするしレンズが目に少し近付き過ぎる。しかし今の眼鏡より鮮明に見えた。他にフレームのクラックが ないか息子に注意深く見てもらったがそれはない様だ。最近作った今流行の細めの眼鏡もかけてもらったが、視野が狭くて 寝たまま使うには不向き、余所行きにしよう。結局フレームが広がっている眼鏡を掛ける事にした。
タダこの眼鏡、近くの物だけ見るには少しレンズの度が強過ぎてまだ目が疲れる。時には遠くを見たいな。

3月26日 ひとり・・・ぽっちかな?
退院する時に色んな看護師さんがよく「家に帰れるから嬉しいでしょ!。」と声をかけるが、果たしてどうなのか。家に 戻ったらパソコンがインターネットつながるからする事も増える、暇さえあればパソコン三昧。でもそれ以外は寝るしか する事がないもんね。家に戻っても訪問看護・訪問リハビリ・入浴車以外の時間は締め切った部屋の中でひとり(僕は寒がり だから)。コールを押して呼べば家人が来てくれるし時には嫁さんも子供たちもこの部屋でパソコンに向かっているが、 僕との)普通の家庭がリビングでやっていると思われる)家族団らん・会話はない。僕はみんなが障子の向こうでどんな事を しているのか・いつ出て行っていつ帰ってきたか何をしに行ったのか一切知らない(娘だけは「行ってきます」「ただいま」と 挨拶に来てくれる)。この部屋は孤独を楽しむ洗濯物の陰干し部屋?(湿度を上げるための嫁さんの気遣いだろうけど)。
今日嫁さんが朝の経管栄養を早めに持ってきた。何でかなと思ったが昨日嫁さんと娘がこの部屋で話していた事に 思い当たった、今日みんなで映画を見に行くんだ。嫁さんとしては経管を早く始めたかった様だが僕としてもやり掛けの 作業を中断したくはない、結局いつもの時間まで待ってもらった。やがて経管栄養を始めて1時間、娘と上の息子が 「行ってきます。」と挨拶に来た。僕の正直な気持ちは、いいな!、羨ましいな!、妬ましい!。嫁さんとしては僕の 代わりに子供孝行をしているというのだろうがやはり楽しそうだし羨ましい。仕方のないことだとは分かってはいるが、 ひとり置いてきぼりは寂しいなぁ。

3月25日 兄弟喧嘩
僕のシップ薬を子供たち3人中で誰が取りに行くかでじゃんけんに負け下の息子が取りに行くようになったらしいのだが、 動きが悪くてお兄ちゃんに「早く行け。」と言われまずはぶてた。それでも下の息子はしぶしぶ医院(処方箋を取りに)と 薬局へ向かったようだった。それからしばらくして嫁さんに「みんなで居間を片付けなさい!。」と言われお姉ちゃんと お兄ちゃんは片付け始めたのだが、下の息子の動きは鈍かった様だ。号を煮やしたお兄ちゃんは「早くやれ。」と 注意したのだが下の息子は「今からやる。」と生返事。それでお兄ちゃんもカチンときて強い口調で「ちゃんとやれ!!。」と 叱ったところ下の息子は逆切れして諍いに。それからしばらくは下の息子はぶーたれていたそうだ。(上の息子からしか 話を聞いていないから片手落ちかなって思うけど)。
姉兄弟がいるって事の良さが本当に分かるのは大人になってから、僕はそうだった。姉が高校を卒業し家を出て行くまで よく喧嘩をし泣かされもした。姉は口が達者で強かった(僕にはそう見えた)。喧嘩の原因は主にチャンネル争いだったと 思う。いつも負けて泣き喚いてはチャンネルを取り戻しいじけては姉の部屋に忍び込んで腹いせにいたずらをする、 そんなだったと思う。僕の初めての一人旅は当時(僕の大学時代)川崎に住んでた姉の所、鈍行列車を乗り継いで二日かけて 行った。途中観光などは一切なしともかく姉の顔を見て安心したかった、今考えればすごくもったいない事をしたが当時は 気持に全く余裕がなかったんだと思う(金はもちろんなかった)。

3月25日 ほくろ拡大中
嫁さんと訪問看護ステーションの所長さんが左腕のほくろが段々大きくなってきてしかも盛り上がってきている・首の右に 繰り返し極小さな血豆?ができると気にしている。今日はカニューレ交換の日だったので往診に来ていただいた 掛かり付け医のT先生に診ていただいたら「次回の通院の際に皮膚科の先生に診てもらった方がいい。」との事。それから 嫁さんは病院と連絡を取った楊で事前にほくろの画像をメールしたいとかでてんやわんや。
僕としては他の病気で命が尽きようが風邪→肺炎→肺不全で寿命がつきようがそんなものどっちもどっち、それが僕の 定められた運命。下の息子が今年小学校を卒業、よく生きた。願わくばあと六年・・…。でも肺は相変わらず寒い!。

3月23日 膝・足首痛
入浴車に入った日たマーにだが夜膝と足首(両方の脚とも)がだる痛くなる。このだる痛みは初めはちょっと膝がだるい 程度なのだが、時間が経過するにつれて痛みが増してきて最後は泣きそう、シップを貼って一晩寝たら治る。
初めは午前中のリハビリでの頑張り過ぎ&パソコンのし過ぎと考えたたが、リハビリは月水金・パソコンは毎日の事。痛みが 出るのは不思議な事に決まって水曜・入浴車の日。なんだろう??。
まあいいか、入浴車の時間は楽しいから。

3月22日 不安少し解消
入院した時の一番の不安は、退院した後はもう立てなくなっているかもという事。現に年末にレスパイト入院した後は首と 脚に装具を着けベッドの縁に座ってから訪問看護師さん2人に脇と腰をつかみ持ち上げて立たせてもらおうとしても膝に全然 力が入らなくなっていた(膝で踏ん張る事は出来たから立てたけど)。今回もっと弱くなって立てなくなってたら どうしようって不安は入院の間中強く感じてた(体幹は病院では毎日1時間以上車椅子に看護師さん3人がかりで 座らせてもらうから全く不安なし、感謝!)。
けれど何か変!、土曜日助手席→車椅子→ベッドそして今日車椅子に座る時立たせてもらったら膝に少しだけだけど力が 入った。なんで!、なんで!、だけど嬉しい誤算。もしかして夜中のもそもそ運動がものをいったかなあ、眠剤を使っても 夜中3時過ぎには目が覚めるから暇つぶしに端を開くつもり運動・閉じるつもり運動を毎日左脚・右脚・両脚と結構 激しく?やったもんなあ。

3月21日 春分の日
今日月曜日が祝日だなんて知らなかった、カレンダーなんて見ないから。気付いたのは土曜日に訪問看護師さんが帰る時に 言った言葉、「今度は火曜日ですね。」。えー、何で!。その後お袋が部屋に来て「お帰り。今回は足が痛くて病院には 行けなかったよ。ところで月曜日は社協さんは来るのかい?。」と。それで月曜が祝日だと悟った。テレビの天気予報でも 震災の影響でかいつもの様に三連休三連休と連呼していなかったから気付かなかった、僕はある番組の天気予報で日付と 曜日を確認しているから。日曜祝日が続くと分かっていたら退院は22日でもよかった、月曜は浣腸・摘便の日でもあるしね (そうすれば嫁さんの手を煩わせる必要もなくなって僕も気分が楽だしね)。ただゴーでウイークのレスパイト入院との 間隔がひと月開くかがちょっと気になるが。でも土曜日退院だったから訪問看護師さんがうちの自動車に同乗して 大島経由で帰れたんだもんな。
祝日ヘルパーさんたちだけでの訪問介護ではやはり支障が出る事がある。それは@社協のヘルパーさんではFさん以外は 文字盤が使えない・使わない、A段取りが狂った時の対処の仕方に差が出る(しょうがないけど)、B吸引が必要になると 都度家人を呼びに行かなければならない(コミュニケーションに詰まった時もそう)。
今日は割りとスムーズにいったと思ったけど昼過ぎから少しずつ寒気が出てきて夜11時ごろ娘に体温計で計ってもらったら 37.9℃。そこまで熱が上がっているとは思わなかった、いつもならこれほどの熱ならもっと身体がきついはずなのに (体温計の計り間違いかと思ったほど)。原因は土曜の疲れ?、知恵熱?。ともかく解熱剤と眠剤を入れてもらって寝た。

3月4〜19日 レスパイト入院
ショック、3月の人事異動でTさんとHさんそれにI副看護師長さんも異動したとの事。その上僕の「お気に入り看護師Box」の 一人bigHさんも6月で辞めるかもと言う(もしかして寿退職?、最近めっきり可愛くなっていたから何かあるなとは思っては いたけど)。短期での人事異動は総合病院の常と分かっているし個々の看護師の知識とスキルアップのために絶対に必要な 措置だと分かっているし身に着けて欲しいけど、僕の「お気に入り看護師Box」の看護師さんが一気に4人もこの病棟から 消えるなんて大ショック!。入院初日から元気がうせた。
2日目朝からI副看護師長さん(新)が「お久しぶりです。」と明るく声をかけてきた。I副さんは6年ぶりにこの病棟に 戻ってきたという。もちろん僕とは6年前から顔馴染み、でもその間この病棟の看護師さんの顔ぶれはみんな変わった。 そのI副さん曰く、「今回は私が受け持ちになりました。」と。同じ病室の他の患者さんにもIさんが同じ事を言っているのが 聞こえたから一時はてっきり今日の部屋担当の事を言っていたのかなとも思ったが、さにあらず今回の受け持ちは Iさんだった。Iさんは昔からの顔見知りだし僕の事もある程度承知していてくれているから受け持ちに不満はないのだが、 それにしても毎回毎回受け持ち看護師を変える必要が何故あるのか?。僕の場合昨年までは年に3-4回入院していたし昨年の CT検査で肺に水が溜まっている事が判った時点で主治医の「在宅の期間を短くして様子を見ましょう。」との提案で年に 5-6回は入院する事になっているのに、もう3年余り入院の度に受け持ちの看護師が変わるのはなぜ?。
3日目、卿の部屋の担当看護師は前回受け持ちだったSさん、流石に前回受け持ちだっただけあって僕の入院中の 行動パターンを分かってくれていて先回りして動いてもらえるから楽。そういう意味ではたくさんの看護師さんが入院の 度に受け持ちになってくれた方がいいのかも。でも受け持ちに対する考え方も看護師によって十人十色だし・・・。
今回の入院中にSさんが外出を計画してくれているという。でも看護師長さんが言うにはSさんは自分の休みの日に僕の 外出を計画しているとの事、折角の休みなのにそんなSさん好意にただ甘えていいものかという事が頭をかすめた。夕方 Sさんが「どこに行きたい?、長崎空港なんてどう?。」と尋ねに来てくれた。僕は文字盤で「どこでもいい!」と 答えたのだが…、僕の顔には「空港か、あまり楽しそうではないな」との落胆の色が浮かんでいたのだろう。後日Sさんが 見せに来た外出計画書の行き先は大島大橋となっていた。大島は前回のレスパイトの時にSさんが「外出するならどこが 好い?。」と尋ねられた時に僕が口にした言葉。別に大島に深い思い入れがある訳ではない、二十数年ぶりに長崎の外海が 見たかったし昔仕事で佐世保に来ていたころ会議や説明会の折大島のお店の方がよくいらしていたので昔から一度は 訪れてみたいと思っていた地名、それが大島だった。
しかしこの大島外出は実現しなかった、医師から許可が出なかったのだ。理由は万が一のとき道中それに目的地付近に 対応出来る病院がない事。そんな万が一の事を言い出したら僕らの様に人工呼吸器を着けている者は医師が同行でも してくれない限り外出などできそうもないと思うのだが、それが入院中に外出するという事の重さなのだろう。後日Sさんが 「ごめんね。」と謝りに来てくれたがとんでもない事、僕のほうこそせっかくのSさんの好意にうまく対応出来なくて 申し訳なく感じているのに。あの時僕が「空港に行きたい」と言ってさえいればおそらく医師の許可もすんなり下りて外出の 計画を実行に移す事ができただろう。
それに僕は外出の場所にこだわってはいないし大げさに外出するという事にもこだわってはいない。僕はただ外に出て 自然を季節を移り香を我が身で感じてみたいだけなのだ。その意味では今は寒いから身体が嫌がってしまうが散歩だって いいんだ。でも病院では人数を割けないからそれも難しそう。Sさんにも別れ際「車椅子でTさんに会いに行きたい」と 言ってはみたが。今度の事で溝が出来ない事を僕は望むだけ。(数日後Tさんが会いに来てくれてゆっくり話す事が 出来たので嬉しかった。)
入院してから丁度1週間の金曜日の午後全世界に衝撃が走った。宮城県沖でM9.0の地震が起き東北地方太平洋沿岸地域を 津波が遅い甚大な被害が出た。どれもこれもがショッキングな映像だったが、最も衝撃的だったのは翌日の被害者への インタビューの映像、「わしら年寄りは今度の地震を甘く見て逃げなかった。」。甘く見たのはみんなだ、政府も気象庁も 市町村役所もマスコミも我々視聴者も。これだけ甚大な被害が出ると分かっていたら違った対応報道の仕方を 取ったはずだ、津波は時間差で襲ってきたのだから。地震直後に気象庁かマスコミか自衛隊が震源地付近にヘリコプターを 飛ばして観測取材が出来ていたらと思う。今は被災地から遠く離れた自分たちにでも出来る事はないかと考えそれを 実行していく事が同じ国に生まれ住んでいる人間としての務めだろう。
今回の地震では東京電力の福島第一原発での対応のまずさが目立つ。1-3号機で何故立て続けに同じ様な事が起きて しまったのか・休止中の4号機の使用済み核燃料棒保管プールからも大惨事が生じたので、今回の原発事故が沈静化したら 原発の構造(耐震化や津波対策)や使用済み核燃料棒の保管のあり方から東京電力の今回の事故における対応の手順まで 政府並びに国会で責任の所在(人事ではなく)を含めてきっちりと精査して、今後の原子力安全行政に役立てる義務を負う。 現時点で我が国は残念ながら原子力発電に目一杯頼らざるを得ないのだから。
今回のレスパイト入院は検査も一切なかったしいったいなんだったのだろう。それぞれの想いが交差したレスパイトだった 気がする。病棟や地域連携室は重度難病患者の入院中における外出支援のデモ&モデルケースにしたかった様だ。主治医の 想いは僕の考えの及ぶ所ではない。嫁さんは一番下の息子の卒業・入学準備に合わせてあと10日ほど遅くレスパイトして 欲しかったか。僕はゴールデンウイークにもレスパイト入院する予定ででも主治医の「在宅期間を短く」のあの言葉で ゴールデンウイーク前に入院する必要がありしかもゴールでウイークにもレスパイトするには今回出来るだけ早く 入院しないとゴールデンウイークの入院に間に合わないと思っていた。だから病棟から3月4日入院の知らせが来た時 これならぎりぎり間に合うと安心したもだった。
そして今日が退院の日、朝下洗いが終わったらゆっくりパソコンをしてお迎えの時間を待った。やがて11時いつの間にか 時間が来て訪問看護師さんの顔が見えて。今回足で蹴るナースコールの感度がよくて今回の入院期間中初めて何の心配も 要らないコールスイッチだった。その事を伝えたくて帰る準備の最中なのに看護師さんに文字盤を持ってもらって会話。 病棟の看護師さんたちに見送られながら病院を後にした。病院を出た所で訪問看護の所長さんが「外出は出来ました?。」と 聞いてきた。それに対し嫁さんが「大島なんてへんぴな所を言うから緊急の時に対応出来る病院がないからと許可が 下りなかったのよねぇ。」と説明した。すると所長が「今から大島へ行ってみます?。」と提案した。嫁さんは娘と午後1で 約束していたようでかなり迷っていた様だが、僕の「迷うようなら止めたら」という言葉と所長の勢いに負けて大島行きを 決意した。(大島行きはまたいつかどこかで書くとして・・・)。
午後3時家に到着、みんなで病院からの荷物を降ろす、その中に娘の姿も。僕は助手席に3時間以上座っていたので腰が 痛かったし腹も空いていた。そこで助手席から車椅子へ移乗してもらう前に所長に「どこかで腰を伸ばしたい」と伝えた。 訪問看護師さんたちはベッドに横になる前にしっかりと腰を伸ばしてくれた、気持ちいい!。そして訪問看護師さんたちは 着替えをしながら上半身にストレッチを施してくれた。その途中で娘が顔を出し「行ってきます。」と、どうやら嫁さんと 約束していた眼鏡屋さんに行くらしい、経管栄養の注入は諦めた。やがて訪問看護師さんたちも僕の在宅療養の体制を整え 帰っていった。いつもありがとうございます、感謝しています。
僕が家族の呼び出しに使っているインターホン、コードレスインターホンの充電電池が劣化して入院前家でも1時間もすると 充電切れのブザーが鳴り出す始末(よくお袋が「呼んだ?。」と顔を覗かせていたくらい)。入院中車椅子に座る時はその日の 部屋担当の看護師さんにこのコードレスインターホンをポケットに入れてもらっていて僕が用事がある時に右足の親指で ボタン(乾電池式)を押すシステム(病院のナースコールは押せないから)。病院でも車椅子に座る目標を1時間として 座らせてもらうのだが、今回は途中でぽっけに入れているコードレスインターホンがピーピー鳴りだすので僕の所へ 引き返してきたり追加充電をしたりと看護師さんに迷惑をかけた。だからこそ入院初日に嫁さんに 「コードレスインターホンの充電池を電気屋さんに注文して」と頼んだのに。
家に着いた時コートレスインターホンの充電池はもう空っぽの状態、だからコードレスインターホンは帰ってからずっと 充電台の上、訪問看護師さんが帰った後少し寒くなった気がしたので足元のコールを右足で押してお袋を呼んで掛け物を 直してもらった。ついでに少し世間話、そしてお袋は部屋を出て行った。4時過ぎも少し寒くなってきたのでまたコールを 押した。ところが全然お袋が来そうな気配がない、どうやらお袋は畑にいてコールの音が聞こえないらしい、いつもお袋は コールを身に着けているので今日もコールを持っていると勘違いしているのかもしれない。それから10分おきにコールを 押してもお袋は来なかった。5時過ぎ自動車が止まる音がして玄関が開いた。そこでコールを押すとようやく娘が顔を 出してくれた。「お母さんに充電池はどうしたのと聞いてきて」と言うとしばらくして嫁さんが部屋へ来て「電気屋さんが この震災で乾電池も充電池も品不足でいつ入ってくるか分からないと。」と平気な顔をして言う。どうやら嫁さんはコールを 鳴らしても誰も来てくれない恐怖・一歩一歩死が近づいてくる恐怖というものが分からないらしい、まあ無理もないが。 でもそれで納得出来る訳がない、これからも死の恐怖を続ける訳にはいかないのだから。僕がいかにも不服そうな顔をして 「危機意識がないんだ」と言うものだから「被災地では同じALSの人で痰の吸引が出来ずに亡くなっている人もいるし関東でも 苦しんでいる人もいるっていうのに。」とさも電池がないくらい些細な事をなんて顔して言う。それから僕はテレビを 見るのを止めた。僕と嫁さんはお互いしかめっ面しか見せなくなった。

3月4日 レスパイト入院
今日から一応2週間の予定でレスパイト入院、季節の変わり目僕の体は体調を維持するのが難しいから室温の変化が少ない 病院の方がいいのかも。最近は調子ももうひとつで気分が高揚する事もあまりないしこんな暗い顔した僕が家にいても みんなにいい影響を与える事もないだろうしね。。それに一番下の息子が小学校を卒業、これから卒業式まで保護者参加の 行事が色々あるのかも。
ただ心配事もある。昨年の年末に2週間レスパイト入院した後立ち上がらせようとして支えながら持ち上げてもらっても膝に 力が入りにくくなっていた。今回の入院で残り少ない膝の筋肉の劣化がさらに進みもう立てなくなっているかも。 ふあん!。

3月○日 早いものだなあ!
今日は娘の17回目のbirthday、早いものだ。何も出来ない僕は朝「おめでとう」と声をかけただけ、せめてプレゼントでも 送れれば自己満足ぐらいは出来ただろうに。昔娘の毎年の誕生日毎に何粒かの真珠を送ってもらえる生産者を探そうと 思っていた時期もあった、二十歳の誕生日にはネックレスを作れる様に。だけど僕の優柔不断さとリーマンショックが それを許さなかった。
娘がこの家にいるのもあと1年ちょっと。子供たちには高校を卒業して大学進学しても社会人になっても一度は一人暮らしを させようと思っている、こんな身体だから本当はとても寂しい。けれど一人暮らしする事は人を育てる。経済観念がつく、 料理を覚える、人友の大切さを知る、新しい自己を発見出来る。僕もうだった。大学時代一人暮らしして、パンの耳を買い チラシ(新聞を取っていた)を見て安いスーパーまで自転車で買い物へ行き料理をして家計簿つける、仕送りしてもらった お金が尽きる前に日当制のアルバイトで自己完結(家庭教師は人の運命を背負うのが嫌でやらなかった、教える事は 好きだったしまた得意だったのに・悔やんでいるのは夏休み北海道の牧場でアルバイトの募集があっていたのに一度も 行かなかった事、故郷での友人達との交友と十八夜を味わう事つまり目先の快楽を優先させてしまった)、本を読む事を 覚えたし人付き合いの大切さも学んだ、故郷や両親に対する見方が変わったのも大学時代、。一人暮らしをした事により 僕は成長したと確信している。子供たちにもぜひとも経験させたい。

3月1日 終わった!
今日やっとNHK高校講座のホームページ世界史の1学期分がやっと終わった、完全に自己満足の世界だがひと安心。残りは また退院してからゆっくりと、と言いたいところだがNHK高校講座は昨年度の再放送。2011年度変わったらどうしよう。


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2月
2月28日 2月もう終わり
今日でもう2月も終わる、今年になってふた月がもう過ぎた、いったいこのふた月僕は何をしてきたのか?。
今年の冬はここまで幸い風邪引く事もなく来たが、肺の異常な寒さは年々ひどくなっている。夜眠れないと肺から全身が 冷えてか鳴らす風邪を引く。だから夜の睡眠導入剤は欠かさず飲む?(正しくは毎夜胃ろうから注入してもらう)、風邪を 引きたくはないから。去年までは家で睡眠剤を使う事はほとんどなかった。「細かい。」と嫌われながらも都度掛け物は 直してもらう、特に方と首、スースーするとそこから全身が冷えてくる。肺は寒いと感じていても身体には汗をかく、 そこからまた身体が冷える、一般人には分からない難しい身体!。
僕の死への旅立ちはおそらく風邪→肺炎→呼吸不全のパターン。遠からずその日が来ると僕にはそんな予感がある。 妻には自由が残る(姉ちゃんお願い)。子供たちにはその日までに何を残せるか?、せめて懸命に生き続けていたって事と どんなになっても知識の気優秀は出来るって事は伝えたい。

2月26日 伊万里梅園
今日朝のケア(洗顔・洗髪・清拭・蔭洗)が終わった時、訪問看護師(今日は訪問看護ステーションの所長さんが担当)が突然 「今日はいいお天気だから昼の車椅子移乗の時、車椅子で散歩しませんか?。」と聞いてきた。僕は昼からの移乗介助の ヘルパーさんが僕にとって気心の知れたKさんだと朝のケアの時に交わされていた会話で分かっていたので「行きたい」との 意思を示した。丁度そこへ偶然嫁さんが部屋に入って来僕らの会話に参加して「それなら折角だから自動車で梅園に 行こう。」と提案してきた。今の僕はマイカーで移動は嫌いになったし訪問看護では入退院時以外のマイカーへの同乗は 認められていない(難病患者のQOLを高めよと唱えている厚生労働省においてこの条項は矛盾している)等諸々の理由で僕は 首を縦に振らなかったけど押し切られた。
2時半過ぎには所長さんが来て一人で外出準備(お疲れ様)、3時過ぎ(定刻)ヘルパーさんが来て早速ベッド→車椅子→ マイカー助手席へ移乗させてもらう。久しぶりに助手席の車窓から見る風景は視野が広い、リフト車とは段違いだ。 少しずつ楽しい気分になってきた。
3時半前出発。伊万里方面に向かうのはいつ以来だろう、2年は行っていない気がしている。だから色々な風景が目新しく 見える。お袋が「農協の跡地に葬祭場ができた。」と言っていたが屋根にそう書いてあった、ライオンズクラブが保険屋に なっていた、山の中腹で何かやっている、病院建設予定地にも巨大なクレーンが2機立っていて建設工事が進み始めた様だ、 いつの間にかうどん屋やマクドナルドができている・・・、目新しい物が一杯だ。伊万里の街中の見知らぬ細い道・太い 道を通ってしばらく行くと、伊万里梅園の文字が。そこから曲がって人家の横を通り抜けると、もう梅園に入ったらしい。 やがてたくさんの梅の木が見えてきた。
この梅園は白梅だらけ、紅梅が好きな僕にはちょっと残念。それにしてもこの梅園どのくらいの広さどのくらいの梅の木が あるのか、広すぎて想像がつかない。梅の花の香りが漂ってくるという、気管切開している僕には何の香りもしないのが残念だがそれでも目で十分に楽しめている。山の上の方の伊万里梅園の看板?がある所まで自動車でいけるそうなので 連れて行ってもらった。助手席を90°回転させ座ったまま自動車の外に出してもらうと(呼吸はアンビューバッグで)、 「絶景かな!絶景かな!」、眼下に広い梅林・正面に伊万里富士(腰岳)・間に町並み。なかなか見事、この景色が見れただけで 今日外出した甲斐があったというものだ。誘ってくれてありがとう!。
梅園からの帰り道同乗してくれていた所長が「新しい伊万里駅に行った事あります?。」と尋ねるのでNoと合図を送ると、 嫁さんは「なかったはず。」と言いながらそっちの方にルートを取ってくれた(僕は伊万里のこの方面には初めて来た strangerだったのでどこをどういっているのか全くちんぷんかんぷん)。伊万里駅は僕が高校3年間を毎日見守ってくれた 通過点・大学の長期休みには鈍行を丸半日乗り継いで帰っていたが関門トンネルに入ると周りから九州弁が聞こえてき 筑肥線に乗り込むと車窓からの景色に故郷の臭いを感じ伊万里駅に降り立つと故郷に帰って来た気がしてた、伊万里駅は 僕の淡い青春の入り口だった。「アーケードの天井も外れた。」と声をかけられ見ると普通の道に成り下がり (旧)ベスト電器はホテルに様変わり。いよいよ突き当りが伊万里駅、amazing(今時の中学2年はこんな英単語も習うの!)、 突き当たりのはずが道が通ってる、駅舎がない!。「新しい伊万里駅は東がJR西がMR、そして渡り廊下で つながっているんです。」と所長が説明してくれた。確かに駅前商店街通りとバイパスがつながっていれば街の機能はずい分 アップするし駅舎もモダンで機能的。だけど僕の青春の1ページがなくなった、ショック!。
家に戻ったらもうすぐ5時、着替えさせてもらったら5時を過ぎてしまった。訪問看護師さんにもヘルパーさんにも 時間延長させてしまって申し訳ない。でも訪問看護師さん・ヘルパーさん・嫁さんのおかげで久しぶりに外出を楽しむ事が 出来ました。

2月26日 焦る!
あと1週間でレスパイト入院だというのに僕がそれまでにパソコンでやっておきたい事(NHK高校講座のホームページ世界史の 1学期分を見て金単にまとめる事)がなかなか進まない、YahooGyaOのアニメも見ずにやっているのに(「ガラスの仮面」最終 3話だけは2月末で配信終了だったから見てしまった)。今日もホームドクターT先生の往診の時間ぎりぎりまでやったし 主治医との日々の連絡用ホームページ「難病支援システム」の書き込みも2-3日おろそかにしても(申し訳ありません) 夜9時過ぎまでやっているのに。あと1週間、焦るぜ!。

2月22日 世界史
確か去年の9月だったと思うが、子供たちがその内にそしてみんながいつか世界の歴史を話す時に僕も仲間に入りたいと 思って、どうせ時間だけは腐るほどあると世界史の勉強の真似事を始めた。世界史は高校2年の時に教科書の半分位までは 学んだはずなのだが、大学受験の社会は来年(高校3年の時1年間で)習う日本史を選択する・2年もかかって学ぶ世界史は 止めた方がいいと考えた瞬間リセットされて僕の記憶の長期に保存しておく記憶システムに世界史は受け付けなくなった、 ただ高校2年の時の世界史で赤点を取った覚えはないからテスト前だけは記憶一時フォルダにその時々の世界史データが 保存されてはいたのだろう。
世界史学習に使う教材は「NHK高校講座世界史(ホームページ版)」、広く浅くという僕の希望とはちょっとタイプが違うが まあ気に入っている。それに趣味の歴史という ホームページを時々覗いて内容を補足させてもらっている。ところが他に誘惑が多くてなかなか進まない、まだ1学期の分も 終わっていない。来年度「NHK高校講座世界史」のホームページが無くなったら変わったらどうしよう!。

2月20日 理不尽
夜嫁さんが僕の痰の吸引をしながら「私達いつまでこんな厳しい生活をしなくちゃいけないのかしらね?。」と珍しく気弱な 言葉を口にした。僕は「ずっーと」と答えた、僕が死んだら今の生活にも終止符が打てて新しい展望が待ってると思いながら。 「私達二人そんなに非道な事をしたという訳でもなく普通に生きてきただけなのに、世の中って不条理だわ。」とも続けた。 僕だって今までに「何で僕がこんな病気(ALS)にならなくちゃいけないんだ、何で僕なんだ!」と何度思った事か。でも口に しても詮無い事。結局「子供たちがひどい病気もせずすくすくと育ってくれている、それだけでも良いか。」で終わる。 それに元勤めていた会社や仲間のおかげで経済的に困窮しないで済んでいるし僕個人には会社時代の思い出もいっぱいだ。 感謝!。
惜しむらくは、せめて発病するのがあと5年遅かったらあと5年待っていてくれたら、家族の思い出ももう少し作れたろうし 子供達の足腰や忍耐力ももう少し鍛えてあげれたのに。その意味でも世の中ってものは運命?は理不尽だ。

2月19日 体力が落ちたか?
最近身体が何となくしんどくといつも眠たい。昨日は久方ぶりの通院日で社協のリフト車で病院まで出かけたが、もう うきうきする気分でもなく大半は目を閉じて時々「今どの辺りかな?」と目を開けて確認するだけ。今は車窓の風景に何の 楽しみもない時期。今のリフト車での楽しみは同乗してくれている社協のお二人さんのおしゃべりだけかな。でも帰り道 車窓から紅梅が見えた時には感激した。以前ならこの時期でもこの時期ならでの季節の移り香を楽しむ目を持っていたが、 今はもう無い。
先日訪問看護ステーションの所長さんが「どこか行きたいところはありませんか?、奥さんの運転で。」と尋ねてくれたが 僕の頭の中にはそのような風景は全然浮かんで来なかった。僕としては自家用車で出かけるよりももう少し 暖かくなってからでいいから家の周りを・神社まで散歩に連れて行ってくれたらそれだけで良いんだ。
病院に着いたら、再来週からレスパイト入院、その時に胃ろうも交換しようと相談員さんと嫁さんが相談してた。まだ1年 経っていないのに何で!、次のゴールデンウイークにかけてのレスパイトだってその次の6月から7月にかけての レスパイトだってあるじゃないか、急いで交換する必要は無い。そう言うと二人とも「ゴールデンウイークに入院するの。 (随分間が短いじゃあない。)」と驚きの声。ゴールデンウイークに僕が家にいたって何の楽しみがある、嫁さんもそして 子供たちだってそれぞれの時間の過ごし方があって家にいないか呼んだ時しか僕の部屋に来ない(まあしょうがないと 言うべき事なのだが)、数日間訪問看護もないからベッドの上ででく人形のごとく横になってテレビとパソコンで一日中 暇つぶしだなんてただもうしんどいだけだ。
胃ろう交換の話を持ち出したのは胃ろうチューブの接続部の凸部が潰れているからの様だ。だいたい胃ろうチューブの 接続には慣れているはずの看護師が十数回と凸部を潰すのだから構造的もしくは材質的にあるいは注意喚起の表示の仕方に 問題ありと言える。メーカーは取扱説明書に書いていると逃げるかもしれないがメーカーにおそらくそれ相当のクレームが 入っているものと思う。僕に言わせれば設計上の不良で始めから予備を2-3本入れておくべきなのだ。それを購入するしか ないなんて弱いものいじめじゃないかと僕は思う。
今日佐賀県の「ALS患者・家族会」があって嫁さんが出席した。嫁さんは「まあ、盛況だった。」と言うがでも僕に言わせれば 開催したのが何故冬のこの時期なのかと、こんな寒い時期では症状が進んでいる患者は怖くて始めから行く気にも ならない。

2月17日 寒い
「今日はそれほど寒くはない。」と嫁さんもお袋も言うが、僕の肺は身体は相変わらず寒さに打ち震えている。まるで何かに 熱を吸い取られている感じだ。手に汗を掻いたり熱いタオルで顔と糧を拭いてもらってもすぐ乾式をしてもらわないと そこの部位から身体中の熱が放出されていく様でブルブルッとくる。僕の身体が温かいと感じているのは眠りから 目覚めた時だけかなあ。

2月14日 久々の政治談
民主党に対する期待が大きかった分民主党政権への落胆も大きかった。今は国会中継なんて見る気も起きない。
今年度にしても来年度にしてもよく90兆円を超える予算が組めるものだ、チャンチャラおかしい。来年度の国債発行額を 44兆円に抑える?、おいおい44兆円というのは麻生内閣の時リーマンショックによる経済の混乱に対応するため特別に確か 7兆円の緊急対策を打って膨れ上がらせたものだろう。それをあたかも当然のごとく歯止めの国債発行額として平気な 顔をして使うなんて。いったい民主党の国会議員の金銭感覚はどうなっているんだ。
総理に就任してしばらくは管さんでも何かはやってくれるだろうと少しは期待していたが、もう税金の無駄遣いの削減は 忘れてしまった様、財務省の代弁者になって消費税アップに一本槍。マニフェストで約束した国家公務員総人件費の 20%カットは・天下りの全廃は・国会議員の削減はどうなったの?、特殊法人・公益法人が仕事を請け下請けに丸投げする ピンはね対策は?・ひも付き補助金の全廃は?・地方分権は?。子供手当ての財源は予算の組み換えで捻出するんじゃ なかったの、そのまま上乗せして結局は国債で穴埋め、情けない。子供手当ては少子化対策・日本に住む子供たちの 子育て支援、見栄を張らずに国外住んでいる子は対象から外しまずは所得制限をかけ予算を組み替えて捻出する。あわせて 都会の保育所の要件・規制を緩和し補助金を支給数を増やす。ちんたらやっている幼保一元化じゃ間に合わない。結局 民主党政権で出来たのは事業仕分けで税金の無駄遣いの一端を国民の前に曝してくれた事だけかな。その事業仕分けも 民主党内部から不要論が出てると言う。でも仕分けすべきものはまだあるじゃん、ピンはねと国と地方の二重行政。 僕は事業仕分け続けて欲しいな。
今管総理は衆議院による予算関連法案の三分の二再議決の仲間集めに奔走していると僕の目には映っている。最後の 手段とはいえ衆議院三分の二再議決は強権的・数の暴挙でありやたらめったら振り回すべきでない本当に愚かな行為だ。だが ねじれ国会の中でこの数年与党の数の力による再議決の乱発が繰り返されている。管総理は総理ほどの器ではないと僕は 思っているが、それでも国会での審議に入る前から再議決に走り回るとは愚の骨頂だ。もっと野党と話し合い解決への 糸口を探るべではないか。それなのに口先だけで何の努力もしてない様に見える。もし管総理がTTPを全身全霊を賭して やりたいのなら予算関連法案の衆議院での三分の二による再議決もやむを得まい。でもそこまでの覚悟がないのなら 修正協議に応じて民主党として最もやりたい事だけは通すとの意志で協議すべきである。国民は国債を乱発する予算案を 支持してはいない。
小沢氏の問題にしても強制起訴されてからではもう何もかもが遅過ぎる。たとえ野党が証人喚問に持ち込んだとしても 公判を控えている小沢氏は動こうとしないいや動けないだろう。せめて昨年の民主党党首選のすぐ後までならば党として 小沢氏に説明させる可能性もあっただろうに。もう野党も与党も小沢氏問題は裁判の成り行きに任せて国民の生活のための 政治に専念してもらいたいものだ。

2月13日 ようやく終わった
センター試験「数学T・数学A」「数学U・数学B」を解き始めて3−4週間、やり方が皆目検討つかない図形の問題二つ(一つは 設定される点を総て座標に置き換えるためにsincos/1次関数を使って座標の位置を無理やり割り出し特定すれば何とか 解けるだろうが受験生といえども座標の割り出しには結構時間を要する、たかが1点のためにそれほど時間を 浪費させる事は無いバス、何か裏業が有りそう)を除けば一応解けた。後は答え合わせ。
それにしても時間がかかり過ぎ、メモが取れない・ワンスイッチでパソコンを操作しているといえどもね(スイッチ操作では 分数・ルート・乗・数学記号の入力が煩わしい)。また設問の中にはどうするのかなと考えさせられる問題も幾つもあった。 それにあの設問の量、1時間で受験生はこなせるの、かなりのスピードでやっていかないと間に合わなそう。数学で点を 稼がなければならなかった(古文漢文がまったくで0に近かった)全盛期の僕でも書けるのは8−9割かな。それに数学Bの 選択問題にプログラムがあるのには驚いた。今日日の理系の高校生は統計なんかもコンピューターとのかかわりで やるそうだ(今回の統計はかかわってなかったけど)。あれは何のプログラム言語かな?。
夜娘に「ようやく終わった」と言うと、お父さんも好きねという風で「よかったね。」と。おいおい来年君がセンター試験 受験するんだろう。少しは興味を示せよ!。

2月9日 身体がしんどい、何故
ここ2〜3日身体がやけにしんどい。体温36℃くらい・血圧100−140mmHg(hp?)・SPO2 97-8%、血圧が高めなのはいつもの事、 バイタルはいつもと同じなのにこのしんどさは何・何故!。このしんどさは寝不足の時に似てるけど僕は寝不足だったら 胃も痛くなる。どうして、僕の身体にいったい何が起きているのか。
嫁さんは「季節の変わり目だからじゃない、私もこの頃身体がきついし。」と言うが、年中布団の中にいる僕に季節の 変わり目なんてあるの?。

2月7日 先生急遽家庭訪問
先日嫁さんから「(下の息子が)小学校が面白くないから早く卒業して中学に行きたいと言っている。」と聞いた。僕は 小学校時代学校が面白くないと思った記憶はないし、下の息子も去年まで学校は面白いと言っていたはずだから今年度に なって何か変化があったのだろう。息子見かけよりずっとシャイ(今までまともな顔で写真に写った事がない)で繊細な 部分(何か些細な事でも気にし過ぎて苛立つ)も持ち合わせている。僕は担任の先生と性格的に合っていないのだろうと 想像した。それにもうひとつ通知表の生活の様子の評価が気になっていた。親バカと言われるかもしれないが家での様子を 見ていても金魚の世話はずっと一人でしているし僕はいいところもあると思うのだがあそこまでよくない評価を普通の 先生がするものかと。普通の先生なら悪ガキや自分と合わない様な児童でもひとつはいいところを見出して評価してやって いいところを伸ばそうと努めるはずだと思いたい。それで先日学校宛てに「息子を出来れば楽しく卒業させてやりたい」と メールで相談した。
とりあえず責任者に宛ててと思い校長先生宛にメールを送ってみたのだが、土日はさんで校長先生から調査確認を行うとの 素早い対応の返信が返ってきた。そして息子と関わりのある先生方に確認したところ、この頃の息子は元気があまり ないとの話しだったので息子と面談したいとの申し出を請われた。校長先生との面談なんてめったに出来るもんじゃない (僕は小中学時代校長先生とまともに話をさせてもらったという記憶はない)、息子にとって校長先生と話せる事は良い 経験になると快諾させてもらった。合わせて先生方が元気がないと気付いているのになんら対応していない・家に対して 息子が学校では元気がないという連絡もいっさいないとの不満と僕のあゆみの「生活の様子」の評価基準に対する不信を 記して再度メールした。その事が気になったのか息子の担任の先生から急遽訪問の申し入れがあったらしい。
今日の午後5時半前担任の先生が来られた。僕はよく分からなかったが嫁さんによると先生はかなり緊張していたとの事。 先生は最近の息子の授業中や休み時間の様子を話しをして下さり好きなことは集中して取り組むタイプと。その話を 聞きながらこの先生もわりと息子の事を見てくれているんだなと知って少し安心した。僕からは「児童たちに 厳しくしなければ場面では厳しくしそれ以外の時は出来るだけ褒めてやって欲しい」とお願いした。僕は児童全体に対して いったつもりだったが先生は息子に対してと受け取った様だった。また先生は「生活の様子」の評価の仕方についても詳しく 説明して下さったので一応納得はしたが、子供たちが了承しているとはいえ通知表の評価の方法として本当に 最適なのかとの疑問を感じた。
先生はこの後もう一度学校に戻るそうだ。大変だなあ。僕には昔の暖かくていつ愛のゲンコツが飛んでくるか分からない 厳しさを併せ持った教師しか思い浮かばないし卒業式の歌といえば当然「仰げば尊し」、今日日の先生からはそのイメージが 思い浮かばない。誰が学校の教師をそんな先生にしたのかなぁ、政府?社会?親?。

2月6日 センター試験数学U・Bと格闘中
2011センター試験数学1・Aをしている時には解けない設問がいくつかあり苛々してきたのでもう解くのを止めようと 思っていたが、数日前から今度はセンター試験数学U・Bと格闘中だ。高校の数学の問題を解くのは今の僕にとっていい 暇つぶしになる。どうやら僕は数学を解いていく過程が好きな様だ。メモ書きも出来ないから途中の考え方や式や計算を 忘れない様にいちいち書きとめていく(書きとめねばならない)地道な作業、かなり時間がかかる。鉛筆でメモ書きすれば 5分で済むところが1時間、それでも面白い様だ。
今日新しい発見をした、おそらく僕の高校時代でも気付いていない事。3次グラフにおいてある範囲で最大値・最小値を 求める問題。僕は因数分解も出来ないし???「しょうがない」、0.5間隔でグラフの値を求めた、分数を含む式結構複雑な式、 僕の案産力で太刀打ち出来ない、地道に計算。その計算値からようやくグラフの形の傾向が掴めグラフの最小値が x=1.5前後にある事が分かり更に三分の一間隔を計算、最小値のある程度の目途を付けた。でもその時思った、受験生に こんな複雑な計算を何度もさせるものかな、何か方法があるはずと。そして3次式を眺めていて、ハッと気が付いた。 3次グラフの頂点における接線は横一線、接線の傾きが0のはず、微分してとおいて2次方程式を解けば頂点のx座標が 出るはずと。この思い付きは自分でもすごい・よく気付いたと感心娘が帰ってきたら話してやろうと思った。その後実際 3次のグラフを微分して0とおき2次方程式を解くと先ほどの三分の一間隔の数字と一致、やった解けた!。
寄る娘が帰ってきたので早速呼んで「3次のグラフの2つの頂点を求める方法分かるか?」とワクワクしながら今日の 思い付きを話すと、「3次のグラフは描き方を習っただけだから。」と僕の予想に反し無表情、どうやら娘はこの思い付きの すごさにピンとこなかった様だ。がっかり!。数学センスの違いかな。2次のグラフにも適用出来るのになあ。

2月4日 立春
機能は節分、そして今日は立春。昨日テレビでは色々な所で有名人を招き豆まきする様子が紹介されていたが、一般家庭で 豆まきをするのは50%以下になったと。かく言う我が家も数年前から豆まきをしなくなった。春の彼岸の草餅もずっと 前から見ないし5月の鯉のぼりも親父の元気のなさとともに揚がらなくなった。8月の十八夜も静かなものだしおくんちも 我が家にあるのかどうか?。継ぐべき世代がこんな身体だから我が家で廃れていく。
そして今日が立春。世間は暦通り暖かくなっている様だけど僕の身体は相変わらず肺から冷えている。僕の立春はあと どれくらい?。嗚呼、暖かい日々が待ち遠しい!。

2月2日 レスパイト入院
次のレスパイト入院は3月4日からに決まったとの連絡が病院から入ったとの事、訪問看護師さんは「今回は(前のレスパイトと 次のレスパイトとの)間が短いですね。」と言うが今の僕はもういつだってかまわないのだ、なぜなら体調もこのところ ずっともうひとつ優れないしそれに僕が在宅療養している事の意義を感じなくなってきたから。僕は僕が自宅にいる事で 僕の妻や子供たちにとって何がしか役に立つ事もあるだろうと思っていた・僕が自宅にいる事が両親と僕の家族との間の 見えないクッションになると信じてた。蹴れとこんな身体の僕では役不足だった様だ
僕は妻の愚痴の相手すら出来ない(相槌を打って真剣そうな顔をして黙って聞いていりゃあいいものをすぐ反論が口を突いて 出る)し、子供たちは挨拶には来るものの自分から学校の事やクラブの事・遊びの様子などを話しに来てくれる事も無い (僕から「どうだ多?」と聞いても「別に変わった事はない、いつもとおんなじ。」だけ、いわんや相談事を持ちかける様な 様子はさらさら無い。僕には話し辛い雰囲気があるのだろう(文字盤で話すのも疲れるし)。遊びや仕事をする姿を通して 子供たちに模範となる行動・背中を見せる事も出来ず毎日ベッドにただ横になりパソコンしてるだけの存在の僕。本当に 僕が家にいる意義があるのか?。もし僕が病院にいたら、妻も母も僕のために時間を取られる事も無く好きな事も 出来るだろうに。僕が家にいる事の意義って本当にあるのかな?。
ただ問題は入院したら装具を着け両脇を支えてもらって今何とかたっているそのわずかに残っている筋力も更に 落ちるって事。前回の12月のレスパイト入院の後家で立たせてもらったら立とうとしてもひざに力が入らなくなったと 感じた。あの後ひと月経ったがひざには力が入らないまま。次入院したらどこまで落ちるのか・もう立てないかもとの恐怖が ある。ああ、病院でも装具を着けて立たせてくれないかな。

2月1日 センター試験・数学1が解けない
ここ1週間暇を見計らって今年の2011センター試験・数学1(60分 100点)の問題を解いている。別に娘のための模範解答作りと 言うわけではなく個人的な趣味だ。思い出し出ししているという事もありまたWordで数字や式等を数式書式で 整えているって事である程度時間を要するとは思っていた。ところが1週間たってもまだ解けてない。本当に今日日の 高校生は1時間でこれだけの量の問題を解き終わらせる事が出来ているのか(僕が受験生なら難解そうな問いは始めから 後回しにして、後ででも解けなかったら候補を絞って鉛筆でも転がすか)。
どうしても解けそうにないのが、第1問(2)(集合は高校で習った記憶がないから中学の時の古ぼけた知識に基づく 勘かな?)と第3問の図形の最後の問い。図形の問題は設問に基づいてフリーハンドである程度似た図形を描いてから 解くのが一般的だが、最後の2つの胃はコンパスや定規で設問通りの図形を描かないと答えを出すのは難しい。僕も パソコンで図を書いて二日眺めているが解けそうにない。だいたい同一円上に四角形が置ける場合は相対する角の和が 180°になるはずなのだが、どの答えもこれに当てはまりそうにない。解けないと思うとだんだん苛々してくるし、 もうやめ時かな!。


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1月
1月30日 サッカーアジアカップ決勝 対オーストラリア戦
今日未明サッカーアジアカップ決勝日本対オーストラリア戦(0時キックオフ)が行われ、これを見たら一日中寝不足で身体が しんどくなるだろうな・これを最後まで見たらサッカー嫌いの嫁さんを最後までつき合せる事になり(僕は夜中睡眠誘発剤を 服用しないと肺が冷えて風引きそうで眠れない)申し訳ない&嫌味のひとつふたつには謹んで忍ぶ事になるだろうなと 思いながらも最後まで診てしまった。実は・・・、日本かオーストラリアどちらかが自分たちの戦法を見せて先取点を取れば 前半が終わった時点で睡眠剤を入れてもらって寝てもいいとも思っていたのだが。
日本は選手間で素早くパスを回してサイド攻撃・中央への飛び出しなど流れの中で点を奪う戦法、オーストラリアは後方から ワントップの選手に高いボールを合わせ二次攻撃を展開するカウンター攻撃、前半はオーストラリアの高さに翻弄され 日本はなかなか攻撃の形が作れなかった。それでもオーストラリアの攻撃を何とかしのいで前半は0−0。後半流れが 代わったのはザックローニ監督が攻撃の藤本に変え高さに定評のある岩政を投入してから。吉田と岩政がオーストラリアの 攻撃のゴール前の高さを封じ今野を含め3人で守りを固め、長友と内田を攻撃に参加し易いようにした。これでようやく 日本の攻撃の形が作れる様になった。
この交代以降日本はサイドからの攻撃が出来る様になり攻めたり攻められたり攻守の切り替えが早いスリリングな試合に なった。日本はサイドをえぐりセンタリングを上げチャンスを作る場面も何度かあったが逆に決定的に攻め込まれる事も、 それらの場面を守備陣特にゴールキーパー川島が神がかり的な守りを披露して踏ん張った。そして後半も0−0に終わり 試合は延長戦に入った。
先に動いたのは日本のザックローニ監督、フォワードとしてこれまで点を取ってきた前田に代えて同じフォワードの李を 入れてきた。正直僕は李で点が取れるのかとこの交代に不安を覚えた。ところがザックローニ監督のこの交代がピタリと 当たった。延長線後半の7分過ぎ左サイドでパスを受けた長友が巧くマークを外してセンタリング、ゴール前で待っていた 李がワンステップフェイントでこれまたマークを外し華麗なボレーシュート、貴重な1点を奪い取った。後は守るのみ、 最後の最後でペナルティエリアのすぐ外ゴール前でFKを取られたが全員で何とか守りきり、ついに4度目の アジアチャンピオンの座をもぎ取った。
それにしても日本のサッカー精神的にも成長したなあ。

1月28日 人工呼吸器の設定を変更
今日は通院日。最近は肺の調子がもうひとつだからあまり外出したい気がしなくなっている。そんなところに4週間ぶりに 通院日が来ても昔の様に愉快な気分なるはずもなく当然車窓から季節の移り香をめでる気も起こらなかった。
病院に着きみんなにより車椅子からストレッチャーに移乗させてもらいバイタルを計り終え、主治医が救急処置室に 来るまでの間に僕が嫁さんや地域連携室の相談員さんに「最近理由はよく分からないが肺がしんどい様で身体が疲れている みたい、SPO2はいいけど呼吸器の設定が合わなくなってきている様、どういう変更をすればいいのか自分ではよく 分からないけど」などと訴えているところに主治医が着て、「最近体調が思わしくないみたいですね。肺は膨らせまた方が いいから級気圧を上げましょうか?。」と尋ねてくださったので僕はお願いしますとの意味でOKの合図を送った。
そして診察・処置が終わってから人工呼吸器の級気圧を上げてもらった。しばらくし呼吸が少し軽くなった気がしてきた。 また帰り道は風景を見る余裕も出てきた。この調子で疲れがなくなり体調が回復すればまた外出を楽しむ雰囲気が僕の中で 頭をもたげてくるかもしれない。

1月25日 サッカーアジアカップ 日韓戦
サッカーアジアカップ決勝トーナメント準決勝日韓戦が夜10時30分キックオフ、今の僕の体調では夜中12時を越えると しんどいが頑張って見た。
速いパス回しから攻撃を仕掛けるという似た様なチームの対戦、日本はパスをつないでサイド攻撃・スルーバスによる 中央突破を狙うチーム、韓国は強いワントップに縦パスを集めてそこから二次攻撃を仕掛けていくチーム、両チームの 特長が出た見ごたえのある面白い試合だった。
前半はどちらかというと日本ペースで試合が進んでいた。そんな中で韓国に先取点を取られた。韓国の縦パスからの流れの 中で肩で相手選手を押して倒しPKとなり1点を取られた。あれくらいの当りでファールというくらいの微妙な判定だった。 どうも今日の主審はもみ合って倒されたらすぐファールを取る様だ。僕は香川に期待した、ペナルティエリア内でボールを 受けパス・ドリブルで突破しようとして倒されてPKそんなシーンを想像した。
昔の日本チームなら先取点を取られたら覇気が落ち動きが硬くなっていた。しかし南アフリカワールドカップから 日本チームは変わった。特に今の日本チームは精神が強い。諦める事を知らない。その後も攻め続けついに左サイドで 駆け上がって来た長友が相手選手3人を引きつけた本田からのパスを受けゴール前に切り込み相手を引きつけて前田にパス、 流れの中で前田の同点ゴールが決まった。その後も日本チームは攻め続けたがゴールを割る事は出来なかった。
後半は一転韓国ペース、足が止まってきた日本チームは懸命に耐えた。そして延長戦、日本は再び攻めを開始、前半7分過ぎ 本田?遠藤?からゴールへ向かうボールに合わせて飛び出した岡崎がペナルティエリアギリギリで倒されPKを得た。これも 厳しい判定だったと僕は思う。PKを蹴るのは本田、思いっきり真ん中低目を狙ったがキーパーにはじかれた。そこに キーパーがPKをはじく事もあると走りこんでいた細貝がゴールに蹴りこみ値千金の追加点を奪った。
しかし日本チームにはここからが難しい。過去日本チームは何度となく1点差で出来るだけボールをキープして残り時間を 逃げ切ろうという作戦を展開してきてことごとく失敗してきた。残り20分あまりボールをキープして時間をつぶすのが サッカー会では常套手段だが、「攻撃は最大の防御」個人的には攻め続けて欲しかった、ほとんどイレブンにその体力は 無かったか!。延長戦前残り6分・後半13分、日本チームは耐え続け踏ん張った。しかし、(韓国の)FKから選手の密集する ゴール前に蹴りこまれごちゃごちゃの中で同点ゴールを奪われた。
2−2のドロー勝負はPK戦、日本1人目のキッカーは先ほどPKを止められた本田、落ち着いてゴール右上に決めた。守るは 守護神川島、仁王立ちから左へ飛び韓国の1人目を止めた。日本2人目は岡崎これまた落ち着いて決め、川島は韓国2人目も 止めた。日本3人目は長友、ここで決めれはあと2人残して勝ちという有利な条件の中で上に抜けた。韓国の3人目には相当 大きなプレッシャーがかかっていたのだろう、右に外した。日本の4人目は今野、ベテランらしく落ち着いて決め これで勝利。

1月24日 これでいいのか!
この四日間高校2年の娘の県下一斉テスト数学の問題(娘が??とした問題をスキャナーでパソコンに取り込んでもらって)と 脇目もふらずに格闘していた。最初に問題を眺めてみると問題の意図がよく理解出来ないのがひとつ・実際やってみないと 解けるかどうか判らななそうなのがひとつあったが、娘が急いでいる様なのでとにかく取り掛かる事にした。
ところが1日目大設問(2次グラフの応用問題)がひとつなんとか終わったところ(問題の意味がよく理解出来なくて自信は もうひとつ)でWordが突然エラーを起こしこの日一日の作業がパァに、早く保存しなければと思いつつそうしなかったのが アダになった。僕のモーチベーションも一気に下降した。学校から帰ってきた娘にエラーで消えたと告げ「どれからやって 欲しいか?」と尋ねると「まずは数列の問題かな。」と。それからしばらく数列の問題を確認した後、もう一度娘を呼んで 「(3)はやってみないと分からない」との前提で(1)と(2)の問題の解き方を文字盤で説明し「自分でやってみろ」と告げると、 もうひとつ気乗りしていない様子。その時僕は娘に対し自分のこのやり方が正しいのか・僕のこのやり方がかえって娘を 駄目にしているのではないかと疑問を感じた。
それでも2日目も僕は数列の問題に取り掛かった、他に娘を応援する方法が思いつかなかったから。しかし(1)と(2)は 出来たがやはり(3)の解き方が分からなかった。色々やってみたがさっぱり見えてこなかった。この問題は何か解くための テクニックがあるなと感じたがちっとも思いつかなかった。そこでしょうがないから帰ってきた娘に、「この問題を解くには テクニックがいるからヒントが欲しい」と言うと模範解答を見せてくれた。それを見て「な〜んだ解答があるのか、これを 見れば僕の解答がなくても理解出来るだろうに」という気持ちと、「なるほど、こうするのか!・これは難しいと。こんな問題 県下一斉に出すな」という気持ちが入れ混じった。
もう二日かけて僕の解答作業は終わった。よる印刷して渡すと「お父さん、ありがとう。」という言葉は返ってきたがあまり うれしそうな風ではない。「判らないところがあったらいつでも危機に濃い」と言って解放したが、本当にこれで娘の支援に なるのか!、これでいいのか!。せめて口が効けたら・・・・・。

1月20日 パソコン用のTVチューナがうまくいかない
今使っているノートパソコンと一緒に買っておいたTVチューナを数週間前から上の息子に取り付けてもらおうと しているのだが、なかなか上手くいかない。ドライバーもアプリケーションソフトも(メーカーにメールで相談して)一番 新しいものをダウンロードして入れ込んだけどオートスキャンしない。何故!、アンテナもテレビについている 同軸ケーブル(CATV)を外してつないでもらったのに。
だいたいF型アンテナって何!、同軸ケーブルと違うの?。

1月19日 娘、修学旅行から帰宅
昼間嫁さんが「今日の夕方帰ってくるわよ、嬉しいでしょう。」と声をかけてきた。ボーカーフェイスを装ってはいたが、 やはり嬉しい。あと1年で娘はこの家を出る事になる。僕も子供達が高校を卒業したら一度は家を出て一人暮らしを 経験した方がいいと思ってはいるが、そうなると寂しく感じるだろうな。娘は僕が病気で動きが鈍くなる前によく連れて 出た。講演にも行った、山にも行った、休みの日仕事場にも連れて行った。それだけに思い出もいっぱいだ。
夜帰ってきた娘に「修学旅行どうだった?」と聞くと「楽しかった!。」と少しだけ様子を話してくれた。「(僕の作った) スキーのやり方チラシは役に立ったか?」と尋ねると「ありがとう、解かりやすかったよ。飛行機の中で見たよ。」と 言ってくれた。でも実際は娘達は個別に別れそれぞれのグループにインストラクターが付きみっちり教えてくれた様だから 鯛よりはまし・予習程度には役立ったか。まあ僕の気休めにはなったか。それから娘はスキー体験の様子も話してくれた。 その話を聞きながら「スキー場で子供たちに実際にスキーを教えたかった・一緒にスキーをしたかった」などとの想いが ぷ津ぷっと沸いてきて目末から水がポロリ。やっぱり寝たきりのこんな身体じゃ駄目だなぁ、何も出来ない!。

1月19日 お風呂で大騒動
今日は水曜午後から入浴車の日、何と5人ものおばちゃん美女が現れた。そしていつもの様に浴槽を運び込み排水ポンプと 入浴車からの給水ホースをつなぎお湯を供給し始めた。ところが美女達の会話がいつになく変、「お湯の出方が普段より 少ない。」「お湯の温度がこれ以上上がらない。」「熱いお湯が出てこない。」などが聞こえてきて部屋の名を異様なムードが 支配した。
急遽ヘルパーさんが責任者と連絡をとって簡易ポンプを持ってきてもらうことに、家の風呂に熱いお湯を貯めそこから 簡易ポンプでお湯を供給する事にしたらしい。幸い簡易ポンプのホースは浴槽と見事につながって熱いお湯が出始めたので 僕はいつも通りお風呂を楽しんだ。
ところが裏方では大変な苦労があったらしい、簡易ポンプが家のお風呂に届かず嫁さんも参加して人数をかけてお湯の バケツリレーがあったらしい。みんなのお世話があってからこそお風呂を楽しめたのだ。 皆さんありがとうございました。

1月15日 娘の修学旅行
娘の修学旅行も二日目、北陸地方は大雪との事、娘のスキーが何とか上手く滑れているかちょっと気になる。スキー場では 吹雪で視界不良にさえならなければ大雪は対歓迎、娘も背丈を越す雪の壁やリフトから見える本当の一面の銀世界を初めて 目にして驚き感激していることだろう、二十数年前の僕がそうだった様に。
それにしても高校時代の修学旅行はロマンスの可能性もあり楽しいだろうな、僕も行きたかったなあ。全ては遠い思い出。 僕に勇気があったら・・・・・。36年前に戻れたらとたま〜に思う。

1月13日 第二次管改造内閣も期待薄?
管総理が内閣改造を行った。参議院で問責決議を受けた仙石官房長官(「自衛隊は暴力装置」発言はやはり許されないだろう)と 馬渕国土交通大臣(かわいそう)を野党に配慮して交代させ、与謝野氏を経済財政担当大臣に据える人事、脱(反)小沢の 意思を鮮明に出し消費税増税を伴う財政再建を目指す人事か。与謝野氏を起用するところに管総理の財政再建に対する 意気込み(財務省の言いなり・操り人形?)と民主党にまだ人材が育っていない事を自ら表明した内閣改造といえる。
僕は管さんは総理の器ではなかったと思っているから、この程度の改造では消費税増税への筋道はついても民主党が2年前に 追求していたHAT-KZの税金の無駄遣い根絶は実現に近づく事はないのだろうな。嗚呼、第二次管改造内閣も期待薄だなあ。 でも与謝野さんが動く事が出来れば株価は上がるかも。

1月13日 寒い
昨日からお腹の調子が変、人工呼吸器から入ってくる風の冷たさに肺が冷やされ胃も冷やされお腹がグジグジしているし うんこもやわらかい。今日カニューレ交換をしてもらって胃が直接冷えている感じはなくなったし用心のためにお腹に 厚手のタオルを当ててもらったからもう大丈夫だとは思うけど。

1月12日 B5サイズノートパソコンに外付けDVDドライブ装着
オークションサイトで入手したし外付けDVDドライブとハートディスクドライブが今日届いた。どちらも新古品(昨年11月 生産完了)で自分では安く入手出来たと満足している、まあ商品に比べ運送料と振込手数料が割高だといつも思うがこれは 日本経済のひずみ仕方がない。
早速夜上の息子に手伝ってもらってB5サイズノートパソコンにDVDドライブを就け入院前出来なかったオペレート・ナビの バージョンアップとワード・エクセルのインストールをしてもらった。病院用はこれで十分だ。ただ気になるのは DVDドライブの置き場所、元気だったらホームセンターで木の板かアクリル板を買ってきて台を作るのになあ。

1月12日 久しぶりの雑記帳
娘が今週の週末から修学旅行で新潟にスキーに行くという。その前に何にも教えてやれないダメ父の代わりにと「歩き方と ボーゲンでの滑り方」をチラシとしてまとめた。経験に基づいて書いたつもりだが、わずか2枚、それもボーゲンでの 曲がり方までという中途半端なもの。せめて斜滑降までは書いた方がいいかなと思いもしたが、初めてのスキーで正味3日で 斜滑降まではいけまいという思いと今日までに渡さねばという時間的制約が僕にそうさせた。夜娘に渡すと、「ありがとう。 やっぱりお父さんが書いてくれた方が解かり易い。」と言ってくれた。でも???、そうかスキーの仕方を記したものも 渡されていたのか、まあ考えてみれば修学旅行に行く生徒のほとんどがスキー未経験者なのだから学校側もそんな事ぐらい していても当然だ。それに娘も表面上だけかもしれないが喜んでくれた。それでよしとしよう。残るは1日、出来れば 「斜滑降」まで書いて渡そう。
去年レスパイト入院をする前に中古のB5サイズノートパソコン(OS:XP CDドライブなし)を買った。SDカードに アプリケーションソフトを入れておけばインストール出来るだろう・CDドライブ必要ならばネットワークを組んで デスクトップパソコンのCDドライブからアプリケーションCDを読んでインストール出来るだろう・最悪の場合は レンタルショップからCDドライブを借りればいいとたかをくくっていたが、甘かった。プロダクトIDを入力する必要のある アプリケーションは外付けCDドライブがないと先に進めない・田舎にはレンタルショップは無い八方塞だ。ワード・ エクセルが使えないと不便なので、しょうがない!オークションで安い外付けDVDドライブを買う事にした。同時に 外付けハードディスクドライブも物色した。結局これらのオークションの一連の手続きが今日までかかった。それにしても オークションで安い物を手に入れても運送料や振込手数料馬鹿にならないなぁ。
しかしスキーのチラシ作りやオークションの手続きがあったからといってそれで雑記帳が書けなかった訳ではない。 要するに雑記帳を書く気が起きなかっただけだ。この頃何となくそんな気分でYahooGyaOやYouTubuばかり見て時間をつぶす 日々。喜びが見つけられない!。

1月6日 以前の生活パターンへ
正月三が日が終わり三日経った。訪問看護も入るようになり段々以前の生活パターンに戻ってきた。ただ何かが違う。
ひとつは寒くなった。掛け物をどんどんかけて調整しているがまだ寒い、特に肺と首筋時には脚が。それに今日久しぶりに 車椅子に座らせてもらって1時間後ベッドに戻ったら、中々身体の隅々が暖まらない。まあ身体がブルブル震えるまでは ないけどどうして?。
二つ目、背中が痛く感じる様になったからマットレスを追加してもらった。でも何故急に背中が痛いと感じる様に なったのかなぁ?。2週間の入院で僕の身体が病院の柔らか目のマットレスに慣れてしまったのかなぁ?。
三つ目は僕の心の問題、誰に対してもsuspicionが深くなっていっている。

1月5日 就学旅行
1月中旬に娘(高校2年)が修学旅行に行く様だ、聞くと「新潟で四泊五日スキー。」と。
スキーか!、会社時代よくやった、冬芸北(広島県北西部)に雪が降ったと聞けば毎年出かけた、贅沢して北海道にも何度も 行ったなあ。もし僕が元気だったら毎年の様に家族みんなを引っ張ってスキーに行っていただろう。この身体だから身振り 手振りも出来ないが、思い切って「教えてやろうか」と言うと「スキー場で見るから紙に書いて。」と難しい事をさらりと 言う。でもよくやってくれている娘の為だ、やってみよう。
僕の高校時代修学旅行はなかった、うちの高校では修学旅行に行くのは当時女子だけだった。高校に入ってからそれを 知ったが何の抵抗もなくすんなりと受け入れてしまった。けれども女子が修学旅行に出かけている夏休みの日々僕ら男子は 学校で暑い中特課を受ける日々、馬鹿らしくてやってられないという想いがして特課をサボって学校近くのスポーツ施設の プールで涼んでいた。何故「男子も修学旅行に行かせろ」と声を上げなかったのか、それは高校時代の僕がパワーもなく 事なかれ主義だったから。こんなだからロマンスも生まれるはずもなく・・・・・。

1月5日 友H
昌・紂・高校と同級生だったHが突然ふらっと訪ねて来てくれていつもの様に世間話しながら手足をマッサージしてくれた。 こういう身体(どこもほとんど動かせない寝たきり・しゃべれない)になると、対応出来ない相手にどう接すればいいのか 分からないからなのか訪ねて来てくれる人もほぼ皆無。そんな中でいつも用もなくふらっとご機嫌伺いしてくれるHの存在は かなり嬉しい。
友とか親友とかこういう身体になって考える様になった。僕には友・親友と呼べる存在は果たしていたのか?。おそらく 僕は友達はいても親友という存在は作れなかったと思う、何が足りなかったのか自分ではよく分からないが。
僕は昔からどこへいっても新しい環境の中でもあまり時間を置かなくて周りにいた人たちのほほ誰とでも話は出来る様に なっていた。その中で友が出来、深い付き合いもする様な仲間も出来ていた。でも新しい場所次の環境に行くとそれがほぼ たち切れてしまう。何で!。

1月3日 パソコンに地デジ対応テレビチューナーを
このパソコンに地デジチューナーを着けようと思ってこのパソコンを買った時にチューナーも一緒に購入しておいた。今回 その作業を上の息子に一人でやらせようと考えた。まず苦労したのは息子にアンテナ線(同軸ケーブル)を見つけさせる事、 この部屋のアンテナ線は壁のアンテナ端子からDVDプレーヤーに入りそれからテレビに入っている。DVDプレーヤーに 繋がっているのと同じケーブさえテレビの後ろから見つければそれがアンテナ線と僕は簡単に見つけられると思っていたが そんなに簡単に見つけられものでもないらしい。まあ僕の部屋のテレビには線がごちゃごちゃとつながっているからね。 (まず電源コード、それからデスクトップパソコンの画面を表示させるS端子ケーブル、それにDVD用のD端子ケーブル 音声用赤白ピンコードも)と同軸アンテナ線(これらはDVDプレーヤーから)。最後に結局息子が「VHF/UHFと書いてある。」、 始めからVHF/UHFに繋がっているケーブルと言えばよかった。
チューナーの導入作業は順調に行くかに見えた。しかしチューナードライバーインストール中に警告表示 (使用するためにインストールしようとしているソフトウェアは、Windows XP との互換性を検証するロゴテストに 合格していません)が出た。そこで息子に一応作業を中断させメーカーに問い合わせる事にした。パソコンメーカーが自身の ホームページでオプションとして紹介していたチューナーだからパソコンメーカーとして検証しているとは思うが、息子の 手前正しい手順を踏む事にした。チューナーメーカーに問い合わせのFAXを送ったが、対応は如何に。

1月3日 駅伝三昧
正月は毎年相変わらずの駅伝三昧。元日実業団・2-3日箱根、しかしそれが終わったらとたんに暇、訪問看護も年末年始は ないから。嫁さんと子供達は「明日からみんな出かける(娘特課・上の息子クラブ活動)し来年は行けそうにないから。」と 太宰府天満宮に出かけて行った。羨ましい!。元気だったらみんなを強制的に連れ出して宝満山本宮にまずお参りして ついでに太宰府天満宮かな、それとも山陰に大雪が降ったから芸北でスキー?、なんて一瞬頭をよぎったが考えるだけ 虚しい。暇つぶしにYahoo Gyaoで懐かしのアニメ「釣りキチ三平」と「ガラスの仮面」を見る事にした。
僕が子供の頃正月には親戚やいろんなところを回る親父の後をよく付いて回った(連れて行かれた?)ものだった、目的は もちろんお年玉。元気よく「あけましておめでとうございます。」と挨拶をし正月料理を食べあいそよくしていれば必ず お年玉をもらえた。それがお年玉集めが正月の一番の楽しみだった。正月に有名所に出かけたいとは思わなかった。 今では正月に家に訪れる人もめっきり減った。時代の変化で正月に互いに行き来する事をしなくなったのかそれともうちの 世代が代わっていないからお客が来なくなっただけなのか。

1月1日 新しい年を迎えて
新しい年2011年を迎えて、僕はこの1年を生き続けてゆけるのか?、1年をどう生きてゆけるのかな。どちらもほとんど 自信がない。まあ僕としてはその日一日一日を大事に大切に生きていくしかないのだろうな。


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