2010年
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12月
12月31日 今年最後の日を迎えて
今日今年最後の日を迎えて、何だかんだ言っても今年も無事生きてこの日を迎えられたというのが正直な感想だ。何とか 耐えているこの身体と周りのみんなに感謝しなければ!。
今年は特に後半になってから胸がしんどいと感じる事もあり体調に自信のもてない1年になった。最近もここ2〜3日前から 左こめかみの内側が時々少し奇妙に傷む。病院では主治医に告げる程の痛みではなかったので黙って帰ってきたが、少し 気になっている。
今年最大の精神的落ち込みはばあちゃんが逝ってしまった事。人は大往生だと言うが、僕としてはもっともっと長生きして 欲しかった。僕はばあちゃんに何をしてあげたかと考えると今でもまだ落ち込む日々、色んな事が出来た筈なのに何も しなかった、すまない。その内行くから・・・・・。

12月17日〜30日 レスパイト入院
1日目、今回も入院するのはいつもの病棟のいつもの病室のいつもの場所、会う看護師さんたちみんなから「いらっしゃい」 「お久しぶり」と声をかけられる。胸部レントゲン・心電図・血液検査を受けた。いつもの様にオーバーテーブルの下に足で 押す(叩く)ナースコールスイッチを設置してもらったが、足がスイッチの接点部分にピンポイントで当たらないとナース コールが鳴らなかったので不安を覚えた。案の定という訳ではないが、夜中に協力両面テープでオーバーテーブルの梁の 部分(下の出っ張り)に貼り付けていたスイッチが落ちた、それも2回も。その時は運良くスイッチが押せて看護師さんを 呼べたが、そうでなかったらと思うとぞっとする。翌午前中スイッチを塩ビシート(U字に曲げたもの)に貼り付けた大きな ものに換えてもらった。ところが塩ビの反発力が強過ぎてストロークが長くてスイッチを蹴り上げてもなかなか接点が 接触しない、いわゆる確率が悪いというやつだ。その晩はそのまま使ったが翌日不安という事でまた新しいスイッチに 変えてもらった(今度のは以前他の患者さんが使って実績があったものらしい)。僕がスイッチを変えてと言う度に たくさんの看護師さんが集まってきて試行錯誤してくれている。いつもありがたく申し訳なく思っている。でも コールスイッチは僕の生命線だからついつい慎重かつ用心深くなってしまう、申し訳ない。
2日目、看護師のSさんが「今回は私が担当することになりました。よろしくお願いします。」と挨拶に来てくれた。僕は最初 Sさんが今日の部屋担当と言っているものと勘違いをしていた。でも違った。Sさんは愛らしい笑顔を持ち気軽に患者さんに 声掛けをしてくれる看護師さんで僕とも気軽にコミュニケーションをとってくれる、僕の「お気に入り看護師Box」の中の 一人だ。今回の入院でSさんが僕の担当として何らかのかかわりを持ってくれると思っただけでも今回の入院が少しは 楽しいものになる様な気がしてきた。前回の入院に引き続き担当が「お気に入り看護師Box」なんてラッキー。この後またもや 僕の「お気に入り看護師Box」の看護師さんが来て(たわいもない)話をしてくれた。その中で「この病棟の看護師はこの1年で 3分の1入れ替わった。」という話もあった。道理で最近名前を知らない看護師さんが増えたと思った(僕の健忘症が ひどくなった訳ではなくて良かった)。そう言われればこの病棟に3年以上留まっているのは7〜8人かな、病棟スタッフの 平均年齢がすごく若返った?。3〜4年で新しい診療病棟に移動し新しい医療・看護技術を身につけるためローテーション するのがこの手の病院病棟の看護師の常だと思うが、長期に病棟を利用している者としては寂しい(僕の場合8年ほど前から 年に3-4回この病院にレスパイト入院している、レスパイト利用者以外は政府の長期療養病床超削減の指示の影響もあり 長期入院出来る患者が極めて少ないから看護師さんたちの入れ替えもほとんど気付く事はないだろうな)。
入院してから数日間看護師さんたちがよく「24日クリスマス会がありますから楽しみにしていて下さい。」と口にしていたし 僕も大勢から聞かされた。果たしてクリスマス会は如何に!。実は4-5年前に一度僕もこの病院のスタッフ主催の クリスマス会を体験した事があった。その時は開始時間に大幅に遅れて参加した上に会場もただっ広い リハビリ室だったのでただ寒かったという記憶ばかりが残った。寒いのは嫌だなあ!。
8日目(24日)病棟全体が朝から少しざわついていた。僕も朝と昼の経管栄養を早めに始め準備万端、クリスマス会に 備えさせられた。午後2時クリスマス会スタート。会場はこの病棟のエントランス、僕は車椅子への移乗などの準備に 手間取り舞台袖(部屋の中)に鎮座、これが寒くはないし舞台裏は見えるしで丁度よかった。僕の傍らには担当のSさんが 付いていてくれるしぎりぎり間に合った嫁さんが正面から写真を撮ってくれていた。
クリスマス会は笑いの要素を絡めたショートミュージカル形式、医師・看護師長を含めこの病棟の約半数のスタッフが 参加している様だった。みんな忙しい看護という仕事の後に練習したのかな、頭が下がる。ストーリーは次の様だったか、 「継母・義姉から一人家の大掃除を押し付けられたシンデレラ(1年目男性看護師)が魔法使いの力を借りお城のクリスマス パーティに参加し王子様(看護副師長)に見初められお妃候補となるが、ライバル(看護師長)に毒リンゴを食わされ 死んでしまう。しかしそこに行き合わせたトナカイとサンタクロースに助けられて生き返り目出度し目出度し」。圧巻は クリスマスパーティの中でのサンタの服を身に着けた看護師さんたちのハンドベル演奏と一人の患者さんの歌。患者さんは 80をゆうに超えていると思われるが高音は澄んだ歌声を披露してくれた。ハンドベル演奏は「星に願いを」、みんなこれだけ 合わせるのにどれだけ練習したのだろうか、感激した。僕も元気だったらこんな風にボランティアでどこかの施設を 回りたかった、元気な頃なら考えもしなかった事を思って涙がポロリ。それにしても私服に近い装いの看護師さんたちを 初めて見てきれいでかわいい女性が多いなと度きり。ベッドに戻ってからも主治医や担当看護師からクリスマスメッセージ カードが配達されてきたりして、楽しいクリスマス会をありがとうございます!。
今週月曜日(11日目)、主治医から「今回はCTはしなくていいと考えています。」と話があった、夕べ今回担当のS看護師に 「今回の入院中にはCTはやらないのかな?」と尋ねていた事に答えてくれたのだろう。まあこれで30日の退院は決まったな。 でも何故必要ないのかな?。レスパイト入院する感覚を今回から短くしたのは胸水の状況の推移を短期間で調べていく 必要があるから。でもCTを撮らなくても胸部レントゲンで胸水の状況がある程度分かるのなら外来でひと月に一度くらいの 間隔で胸のレントゲンを撮れば済むはず。そうしないのは胸水の悪化を前提にしていて、いつでも入院して治療を 開始出来る様にベッドを確保してくれているのかもね。
今回の入院中にもうひとつ嬉しかった事があった。いつだったか看護師のKさんが僕のナースコールに偶然対応してくれた際 「つめが伸びてますね。後で切りましょうね。」と言い車椅子に座っている時にわざわざ手の爪を切りに来てくれた、それも 手の爪を暖めて切りやすくするためのお湯を僕の所に持ち込んでまで。また別の日にも「髪がばさばさしてますね。髪を 洗いましょうか?。」とも言ってくれた。この日は前回お風呂に入ってから1週間ほど経っていて頭が痒くなってきていた ところだったた。僕は喜んでお願いした。そして午後からKさんに髪をそれもすごく丁寧に洗ってもらった。僕がこの病院に 時々入院するようになってもう8年にもなるが、爪を切ってもらったり髪を洗ってもらったりしたのはたしか過去にそれぞれ 1度だけあったと思う。それだけにKさんの言葉がありがたかったし感激した。Kさんは来年中(暑い時期かな?)に待望の 赤ちゃんが生まれるとの事、看護師は大変な重労働だがそれだけに自分の身体もぜひいたわって欲しい。
30日退院の日は朝から僕は忙しかった。朝6時前から経管栄養を落とし、9時からカニューレ交換、その後お風呂に 入れてもらい、そして早めにお昼の経管栄養を落とした。それから迎えが来た午後2時までの長かった事、日頃この病院で こんな時間の使い方をしてなかったせい?(いつもお昼の経管の後は無理やり就寝time)。だから訪問看護師さんの顔を 見たらほっとした。それから看護師さんが集まってきて着替え・荷物の整理と僕の帰り支度を済ませベッドごとバタバタと 移動、世の中のものすごい寒さを改めて知った(病室での僕の位置は昼間はお日様がさんさんと差し込み春の 陽気だったから)。そして看護師さんたちに見送られながら病院を後にした。
病院を出る時は薄ら明るかった空も波佐見町に入ると曇り空、話が町への峠を越えた所でみぞれ交じりの雨になり家に 着く頃にはボタン雪に、病院から15kmと離れていないのにすごい天候の変化。2週間ぶりに訪問看護師さん立たせてもらって 助手席から車椅子に移ろうとしてもひざに力が入らない。腰を引き上げてもらってひざが伸びきったところで突っ張って ようやく身体を支えた。これが2週間入院の影響か!。そしてベッドに横になり天井を眺めながら、家に戻ってきたと ようやく感じた。

12月16日 入院前日
明日からレスパイトで入院。一応年末までの予定だが、胸水の件もある支配も相変わらず寒いしからからしてる様な気が しているし最近の体調もいいとは言い難いし、少し長い入院になる様な気もしている。入院前日恒例のパソコン保存データ バックアップ作業も何となく気乗りがしない、いったいどうしちゃったんだろう。でも僕にとって今日はおそらく家での 一年を収める日、何とか頑張ろう!。

12月14日 数学
娘に数学の期末テストの問題をスキャンしてもらって解いてみた。今回はベクトルと数列、昔たっぷりやったとはいえ もう34-5年前の事言葉も内容も忘れているものが多くありインターネットでその都度調べながら解いていたから1週間ほど かかってしまった。その間他の事はストップ、もちろんこの雑記帳も。でも金曜日から入院するのでその前に一応目途が 付いて良かった。
最近肺が寒くて体調がよろしくなく思考力も集中力も低下していて平行して色々な事をする事が出来なくなっていた。 それで数学の問題と息抜きのYahoo GYAOのアニメにする事を限らざるを得なかった。でももう入院準備を始めねば。

12月8日 なんとなく身体がしんどい
熱も平熱・SPO2も計った時はいつも96%以上ある、それでも胸のあたりあるいは胃のあたりがしんどい。最近朝起きるのは 6時近く、4〜5時間は寝てる(夜中に一度は痰の吸引と小便で目が覚めるが)、僕には十分な睡眠時間のはずだ(途中で ほぼ毎日何度か昼寝もするし)。栄養も「最近少し太った?。」と言われるくらいだからほぼ寝たきりの身体の新陳代謝には 十分足りているはずだし、どうしてこんなに身体がしんどいのか訳が分からない。
ただ振り返ってみると確かにこの数ヶ月一回一回の呼吸で前より胸全体の力を使ってる様だ。胸がきついと感じる時が 時々あるし、特に経管栄養が終わってしばらくは胸がしんどい、何故だろう。SPO2は正常範囲内値だから息苦しい訳では ないだろうし、やはり胸水の影響かな。それに肺のどこかの部分が時々痛むし胃や他の内臓も具合がいいのか悪いのか どうなのか?。ま1週間後レスパイトで入院した時に色々検査するだろし、夜中寝入っている時にSPO2が落ちてないか 調べる事も主治医に依頼すれば出来る。もし家で余分な感情かなんかを感じているとしたらそれも軽減されるかも。

12月5日 病院用のパソコンが欲しいなあ
もうすぐれレスパイト入院するのだが、病院で使用するための小さくて(B5サイズ以下)安い(もちろん中古OK)パソコンが 欲しいな、出来れば落ちても壊れない頑丈なやつ。病院では思った以上にパソコンを置く場所がない(右サイドに置く僕は 特に)し危険もいっぱい。そんな所(大いに失礼な話だけど自分では一切管理出来ないから)に置くパソコンはいつ壊れても いいやつでなくっちゃ、貧乏人の銭失いになりそうだけど。でもRAMメモリーは最低でも1Gはなくっちゃ。どこかにいいの ないかなあ。

12月3日 通院日
診察予約時間が午後1時に変わって二度目の通院日、今日は車椅子への移乗や外出準備をしてくれる訪問看護師さん達の 雰囲気・様子が今までと違ってちょっと変、バタバタしていて何だか焦ってるみたいに見えた。脚と首に装具をつけて 立たせてもらいながら車椅子に移乗した時も右膝が(ほんの)少し内側に入っていて具合がよくないと合図を送っていたのに 気付いてくれなくて(いつもなら脚を置き直しているはず?)、結局腰砕けに。社協の二人に手伝ってもらってようやく 車椅子に座る事は出来たけど一瞬ヒヤッとした?。帰ってから着替えをした時もいつもより時間を気にしている風に見えて 荒かった・・・・・(僕の思い違い?)。
午後1時病院に着くと主治医はもう待機している(今日は僕の主治医の受け持ちの患者の来院が比較的少なかった)との話、 急ぎ気味にストレッチャーに移りバイタルを取っていると主治医が出現、「肺は相変わらず寒いです?。」と声をかけた後 少し間をおいて診察と処置。そして1時20分過ぎにはもう帰り支度、早かった。最後に外来で僕を今まで 受け持ってくれていたS看護士から「今月末で病院を辞める事になりました。」とお別れの一言、Sさん長い間お世話に なりました、Sさんの持っていたホワンとした雰囲気に僕は安心感を感じていました。そしてSさん他みんなに 見送られながら病院を後にした。

12月2日 中間テスト
先週上の息子の通う中学校では下期の中間テストがあった。僕は中学校の校長先生経由でメールでお願いしてテスト問題を データ化してメールしてもらうようにしている。最初は子供たちにテスト問題を手に持って見せてもらっていたのだが、 見づらいしゆっくり見れない、時間がかかるから子供たちもひどく疲れていたはずだ。それで僕の身体の事情を話し メールしてもらえるよう毎回お願いしているのだ。そして今回も先日送っていただいた。S先生毎度ご足労かけます、 ありがとうございます。
早速テスト問題を開いて自分で解いてみた。数学、基礎的な問題ばかり、生徒の理解度を測るには良い問題だが 10点分ぐらいは上の下の応用問題が欲しいかな。国語、解けるには解けたが正解かどうか、息子も「ケアレスミスで 10点ぐらい損した。」と言っていたので答え合わせやろうかな。社会と理科、僕らの中学生の頃とはカリキュラムが 違い過ぎる。忘れている事もあるが特に理科は半分解かればいい方かな、息子に教えてもらおうかな。英語、息子が もうひとつ伸び悩んでいる科目。これくらいは一緒に復習してもいいだろっ。
最近の大樹は自分なりの勉強の仕方を見つけた様でありまた自分なりの目標も持っている様なので一応安心しています。さらに上位を目指すにはあと一皮向ける必要があるようですが、それは本人の考え方と努力次第でしょう。


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11月
11月30日 諸々?
今日で11月も終わり、何と言うべきか、やはり「もう」っかな?。今日は火曜日だから午前中ケアそのまま車椅子移乗、 今日の受け持ち訪問看護師は○さん、善くも悪しくも訪問看護を仕事捉え冷静かつ淡々と物事を進めていくタイプの方。 看護スタイルは嫁さんに似てるかな?。火曜日の訪問看護はほとんど時間が余るから始めの時刻を15分後ろにずらせば 良いのに。あとケアの時も他の時も見つめていてとは言わないが出来るだけ瞳が見える範囲にいと欲しい、わざと視界外に いるみたい。相性が良くないのかもしれないけれど。
11時10分頃訪問看護ステーションの所長が車椅子移乗の応援に来た時「ベッドに(一時的に)座った時に上半身を捻って」 「肋骨が硬くなってきている様だから」と文字盤で言うと、所長がベッドに横になっている僕の肋骨を胸からも背中からも マッサージしてくれた。ベッドに座った時も上半身を捻ってもらってから車椅子に移乗させてもらった。久々に胸が大きく 動いている様で気持ち良かった。
午前中の車椅子移乗は結構つらい。身体がまだ完全に覚醒していなくて車椅子に座ってからよく痰が出てくるから。 コールを押しても嫁さんはさっき訪問介護が帰ったばかりなのですぐの呼び出しはないはずと思い込んでいる (無理もないが)のか丁度まどろみの時間なのか中々気付いてくれない。たまにしんどい思いをする事がある。毎日諸々で 疲れきっている嫁さん、仕方ないか。
午後からは来客、地区の難病(等)の担当の保健師さんと保健師になろうとしている学生さんがご機嫌伺いに来てくれた。 堅い話ばかりされるのは困るがこの保健師さんは僕の高校の同級生、色々な情報に交えて昔話・世間話を喋り捲ってくれる。 こういう風に対応してくれると僕は本当に楽なのだ、なぜならほとんどの場合相槌を打ってりゃ済むから。僕が話しを するとなると文字盤を使わなくてはならない。時間がかかる、相手を待たせる、そう考えると焦ってしまう。ひと言 ふた言で済む質問ならば心の負担にならないが複雑な質問なら相手をずい分待たせてしまうから申し訳なくて。難しい 質問なら前もってメールでも送ってもらっていればパソコンで答えを作っておくのに。
ところが学生さんの質問は「気管切開する時どういう風に考えましたか?。」という超難しいもの。しょうがないから 「微妙」と答えたが代わりに嫁さんが丁寧に対応してくれた。気管切開した頃の心の動きも僕のホームページの 「思いを綴る」に少し書いてるから見て。

11月29日 これでもてるのか?
相変わらず肺が寒い。朝目が覚めると当然呼吸が深くなり灰が冷えてきて結果鼻詰まり・くしゃみと続く。気を付けては いるがその内風邪を引きそう。風邪を引くとおそらく肺炎になる。死への旅立ちの恐怖が付きまわる。こんな身体で この冬を乗り切れるのか。
こんな気分じゃあこの雑記帳に書く言葉も浮かんでくるはずもなく、毎日YAHOO Gyaoでアニメ三昧。幸い子供が一緒に 画面を覗いてくれるからむなしくならずに済む。しかし見るのはお金を払わなくていいアニメ動画ばかりだから途中までで 配信が終わる。「鋼の錬金術師」は第60話まで、残り4話なのに。続きを見た〜い。娘にDVDを借りてきてもらおう!。

11月28日 ばあちゃん四十九日
今日はばあちゃんの7×7日、ばあちゃんが逝ってしまってもう7週間、早いものだ。まだ一度もばあちゃんは僕の夢枕に 来てくれた事はない。いつかみんなの記憶の中からばあちゃんが段々薄れていくのだろうなあ、何だか少し寂しい。
最近SPO2は95%以上あるのに胸が幾分しんどい、なんだろう。でもばあちゃんの最後の2週間に比べたらまだまだのはず。 レスパイトまで後20日あまり、何とか乗り越えねば。

11月23日 勤労感謝の日
どうして「勤労感謝の日」が今日なのかインターネットで調べてみたがよく分からなかった。ともかく元々は収穫物を祝う日 だったらしい。
とにかく今日は祝日で誰も来ない。そこで朝の経管栄養が終わってお腹が落ち着いたらかねての計画通りパソコンを セットしてもらって「鋼の錬金術師」を見るつもりだった。ところがコールがない。ちょっと前コールを鳴らした時に 何処かに逃げて行ったらしい。マットレスが反っているとコールは逃げやすいし鳴りにくくなるのだ。油断した。右足を 懸命に動かしてコールを探したら・・・・・、左足のそば右足かかとでぎりぎり触れた。でもコールが縦になっている みたい。コールが縦になってとちゃんと踏みしめないとコールが鳴らない、これはコールで人を呼び出すのはかなり 難しそう!。誰か僕の部屋に来てくれるのを待つしかないか。恐怖と絶望感。
今時刻は1時前、今日はみんないるのに誰も顔を見せない。まもなくテレビからは国際千葉駅伝が流れてきたがほとんど目に 入らない。ただ血圧があまり上がらない様に興奮しない様に出来るだけ痰が出てこない様にゆっくり呼吸するので 精一杯だ。ひとつ幸いな事は今着けているカニューレが痰が出にくいという事、うまくすれば痰は数時間出てこない。 それで暗算をしたり百人一首を覚えている分だけ暗誦したりして心を落ち着けようとしたが、時間が経つにつれて胸が ドキドキして鼓動が早くなってきた。もう駄目かな。
3時を過ぎた頃下の息子が僕の部屋に入ってきた。助かった!!。

11月22日 いい夫婦の日、か
今日はいい夫婦(1イ1イ2フウ2フ)の日か、僕らは決していい夫婦とはいえないだろうな?。なんせ嫁さんに言わせれば結婚 当初から仕事ばかり(新婚旅行当日の午前中も仕事していた)で2年半後には病気が発覚、それからは休みの日には山歩き などの運動(年に数回は家族みんなでドライブにも行ったし公園遊びもある程度はしていたと思うのだが)、職場を離れた 10年前には車椅子生活、8年前からは人工呼吸器を着けほとんど寝たきりになった。結婚してからは嫁さんに世話の かけっ放しだ、果たして嫁さんは結婚してから幸せだと感じた事はあるのか?。僕なんかと結婚した事で僕がALSという 病気になった事で若かりし日嫁さんが夢に描いていたであろう結婚生活・願望を壊してしまった。申し訳ない。妻には 本当に感謝している。

11月20日 鋼の錬金術師
僕は時々YAHOO動画GyaOのアニメ一覧をチェックしている(もちろん無料の分)。今のお気に入りは毎週水曜日更新される 「スペースコブラ」、そんな中「鋼の錬金術師」がおnewでアップされているのを見つけた。全話無料で今月末が期限。確か 60数話だったから30時間余り、集中してみなければ間に合わない。幸い来週は火曜が祝日で訪問看護も来てくれないから その日に集中して見よう。

11月19日 通院日
今日は通院日、けれど今日から予約は1時、ゆっく出来る。社協の二人が家に着いたのは11時45分1時間のズレ、こんなに おそくていいのか!。ヘルパーさんに洗顔や髭剃りをしてもらっていると訪問看護師さん達も着きそれから外出の準備、 12時半過ぎに家を出て病院に向かう。途中街路樹のイチョウもだんだん色付いてきていて峠の向こうの県道の拡幅工事も かなり進んでいた。川沿いの田んぼ一面植えてあったコスモスももう総て散っていて車窓から見える山も所々赤く 染まっていた。紅葉も少しずつ進んでいるんだな。
1時過ぎ病院に到着、主治医の他の患者さんへの診察はもうすぐ終わるとの事、丁度よかったという事か。まもなく主治医が 来てすぐに診察とカニューレ交換などの処置、それでもう終わり。2時少し前に病院を出る、いつもとほとんど同じ時刻、 少しおそいだけか、主治医が診察時間をずらしたという事が正解という事か。
2時半前に家に着く。すぐに訪問看護師さんたちに車椅子からベッドに移してもらい着替えさてもらうが、何となく 訪問看護師さんたちがバタバタしているみたい。よほどに次の訪問時間が迫っている様だ。家に着く時間のズレは前に 比べてほんの10分ぐらいなのに気持ちの余裕度の違いがやはり出てくる様だ。

11月17日 やはり
入浴車の跡で首にタオルを巻いてもらったら、しばらく時間が経っても身体がひどく寒いと感じる事はなかった。やっぱり 風呂上り首から身体の熱が放出されて寒気を感じていたんだ。これで問題がひとつ解決した。次の問題は肺が寒い・ 加湿器の加温が呼吸に追いついていかないという問題だが・・・・・。要は呼吸器の周りの空気を三十数°に暖めてやれば いいのだが、呼吸器の空気の取り込み口付近に直接ヒーターを当てる訳にはいかないだろしなあ。

11月16日 書く事が思い浮かばない!
最近書く事・書きたい事が頭に思い浮かばなくなってきた、精神的なものだろうか?。それに右足の親指と人差し指の間に 挟んで使っているピルケーススイッチの感度が落ちてきた?、と言うより挟む指の力が弱ってきた?と言った方が 正しいのかな!。とにもかくにも書く気がしない・ない。
いっそのこと民主党政権の体たらく批判でも書くか。
まず菅さん、総理の器じゃなかった、リーダーシップも能力も、あれではせいぜい閣僚までだな、それも主要経済閣僚 以外の。能力がないのだからせめてそばに優秀なブレーンを置けばいいのに(小泉さんの様に)それもしない。また鳩山内閣の 時からだが閣僚が内閣で意思統一された事ではない個人の意見を口にし過ぎる。その上最近は僕でさえ?と思う様な 失言まで。事業仕分けも民主党内の身内でもめてゴタゴタしている様だし今回も特殊法人によるピンはねには手を付けない みたいだ。3年前自民・民主の大連立構想に敗れた際に小沢一郎氏が言った言葉「今の民主党の国会議員はまだ未熟」を 思い出した。あれから3年経ったけれど今の民主党国会議員の中に閣僚として霞ヶ関を使いこなせる器が何人いる事か、 いわんや総理大臣の器は・・・・・。

11月10日 首から冷えていたのか!
今日はお昼から入浴車が来る日、またいつもの様に他愛もない奥様方の会話「井戸端会議」(僕が唯一巷の話題に触れられる 時間)を楽しませてもらおう。
僕が前々から疑問に感じていた事がひとつあった。それは入浴車の後2時間ぐらい経ってから身体が寒く感じてくる事だ。 湯上りに身体が湯冷えしない様にどんなに気にかけてもらっていても掛け物を充分に掛けてもらっていてもしばらくしたら 決まって冷えが襲ってきて、経管栄養で身体が熱を発する様になるまで続く。いつも何故だろう・対策はないのかと 考えていた。
今日風呂上りに首にタオルを巻いてもらった。するとしばらくしても冷えが襲ってこなかった。もしかしたらお風呂で 身体に蓄えられた熱エネルギーが首から逃げていたの?。本当事は分からないが試してみよう〜っと。

11月7日 長崎コミケンフォーラムに参加する
久々の長崎コミケンフォーラムへの参加、着替えとベッドから車椅子への移乗・外出準備・リフト車のリフト台へ 乗り込む間では二人の訪問看護師さん(今日は日曜なので僕だけのために出勤)、リフト車に乗り込んでから後は社協の 看護師さん(僕が人工呼吸器装着者だから特別?)とヘルパーさんが世話してくれる。もし車椅子への移乗や外出準備を 社教が段取りを覚えてやってくれる様になったら、訪問看護に余分な休日出勤をさせなくてすむのにと考えるのは 僕だけか?。何か出来ない規制でもあるのかな?。
今年のコミケンフォーラムの会場は長崎国際大学、西九州道(三河内〜大塔)・針尾バイパス?を使えば家から20〜25分の 距離だ。まあ近いから町の移動サービス(リフト車)を使えたのかもしれないが。西九州道は今高速道路無料化実験区間で お金が要らない、そこそこ自動車は走っていたが思ったほど多くはない。無料だとバイパス感覚で利用するが、有料なら よほどの事がない限り使わないだろう。国の財布だから膨大な金をかけて建設し延長の計画進行中だが、県民の税金なら 果たして造ったか!。きっと混む場所のバイパス程度にとどめていただろう。
会場に入ると懐かしい顔が、Hearty Ladder製作者GのYさん・N大のI先生・S高専のM先生・S特別支援学校のE先生他、みんな 今までのコミケンフォーラムで知り合いになった人たちだ。それに川棚医療センターの主治医・リハビリの先生・連携室の 面々も参加していてその上フォーラムに参加する患者のため(僕のため?)に病棟の看護師を二人も連れてきてくれていた。 有り難い事だ。
午前中の講演は八幡西特別支援学校の本田先生、『自ら行動してもらう』ためにはどういう環境作りが必要か・どういう コミュニケーションをとる必要があるかを実例を交えて分かりやすく説明して下さった。今回のコミケンフォーラムには 娘にもついてきてもらったが、娘は特別支援とかいう話には興味がある様なのでためになったのではと思う。
昼食時間の後コミュニケーションツールの展示会場に連れて行ってもらった。でも車椅子で自由に見て回るには狭くて…、 あまり見る事も係りの方と話す事も出来なかった。毎年どんな新しいツールと出会えるのかコミケンフォーラムに参加する 楽しみのひとつだったのに、残念!!。
昼からの公園は長崎平戸在住の同じALSを患う方(人工呼吸器を装着)の講演、冒頭病気の進行とともに移り変わる心の混沌を 綴っておられたが、みな同じ様な苦悩・苦労をしてきているとほろり涙が溢れてきた。毎日理学療法の先生と病院の周りを 車椅子で散歩しているそうである。毎日車椅子に座り太陽の光を浴び行き交う人と挨拶を交わす、本人にとってもとり巻く 人たちにとっても難しい事だが人としての尊厳を持って生き続けていく上では大事な事だと思う。日本ALS協会の年次総会に 参加し橋本前会長にお会いしたくて新幹線で東京まで行ったとの事、地域で講演活動を続けているとの事、Iさんは心の強い 人だ。それに比べ僕は環境の変化に気持ちが折れて引き篭もり気味・・・・・。
本日最後の講演は桜ヶ丘特別支援学校の松尾先生、ベッドから離れられなくなったA君の人間関係をよりよくするために テレビ電話を使い教室にいるみんなとゲームをする事により笑顔が浮かんでいく様子を話して下さった。最後のスライドの A君の笑顔が印象的だった。
交流会は社協のリフト車のお迎えが4時に来る予定だったから出るつもりはなかったが「少しだけでも。」と勧められたから ちょっとだけ参加することにした。その席でIさんと一緒に来ていた理学療法の先生から「長崎のALSの患者は外出しないと 言われたからIさんは外出する様になったんですよ。この頃は散歩に連れて行く病院も増えてきたそうですよ。」と、 そういえば数年前の患者会で嫁さんを通してそんな事を言ったかもしれない。僕らのちょっとした発言が影響を 与えたとは、でも今はその僕が引き篭もり気味。お迎えは思っていたよりも早く着き記念撮影が済むまで待たせる結果と なってしまった。申し訳ない。
4時40分過ぎ家に到着、訪問看護師さん二人に車椅子からベッドに移してもらい着替えもしてもらった。久しぶりに車椅子に 長い時間座っていたので途中から腰が痛くなっていたが何とかもてた、訪問看護師さんがいれば途中で立たせて もらえたのに。それにしても今日はあまり肺が寒くなかったな、何故だろう?。ともかくみんなのおかげで久しぶりに コミケンフォーラムに参加してこれまた久しぶりに懐かしい人達に会えた。本当にお世話になりました。ありがとう。

11月5日 通院日
今日は通院日。僕の身体の中で何がしかの変化が起きているのはおそらく確かなのだが、それを主治医にどういった言葉で どういう風に伝えるか?難しいところだ。息苦しい、多分違う、SPO2は常時95%以上ある。車椅子に移乗させてもらった 直後や体位を変えた直後一時的に落ちている事はあるかもしれないが。呼吸(吸気)が重い、肺は十分膨らんでいると 思うから吸気の立ち上がりの感度が合わなくなってきたか?。肺の背中側が重い様な気がすると言った方が具体的では ないが近いか?。
病院に着くと救急処置室(僕の診察室&処置室)で主治医からは12月のレスパイト入院の日程(17日〜)の話と診察時間変更の (強い)打診それに熊本大学で研究中という脳波検出の話。新し物好きの僕は脳波検出と聞いてすぐに飛びつこうとしたが、 今の脳波検出はON OFFレベルまでと聞いていたので今回のも「ON OFFだけ」と尋ねるとそうとの事で一挙に興味が 薄れてきた。主治医は熊代の危機の検出のしやすさを見たい様だ。診察時間に関しては最後にじっくりと診たいとの事で 診察時間を30分遅らせて欲しいとの事。僕は全然構わないが出かける時の準備と帰ってからの対応をしてもらっている 訪問看護の方の時間的余裕がほとんどなくなる様な気がする。診察が順調に行けばいいがもし突発事項が起きて診察時間が 伸びでもしたら次の訪問先に間に合わなくなるのではと心配になった。そんなことをあれこれ考えている内に自分の事を 言うのを忘れてしまった。
次のレスパイト入院は12月17日の予定、それまでこの身体がもてるのかな?。

11月3日 文化の日
旗日なのに嫁さんは町の文化祭の奥様?コーラスに出るとかで朝から一人バタバタと忙しそう。僕は昨日の夜中嫁さんに 「明日は朝から忙しい!。」と言われるまで今日が祝日だという事に気付いてなくて…、でも今日の祝日はたまたま水曜日で 午前中のリハビリは休みだけれど昼の社協の入浴車は来るから僕にはいつもとたいした違いはないと思ってた。
入浴車はいつも通りワイワイガヤガヤの井戸端会議の楽しいやり取りを聞きながら過ごし、湯冷めしない様にといっぱい 掛けてもらっているのだが、時間が経つにつれて身体が芯の方から冷えてくる。何故だろう。やっぱり入浴車の後に 経管栄養を入れてエネルギーを身体の中から燃焼させるしかこの冷えに対抗する手段はないか。
それに夕方4時半からパソコンをやり始めたのだが、7時半頃から両膝がだる痛くなって8時前には気分も悪くなってきたので パソコンを放棄した。膝や足首が痛くなるのはいつもきまって水曜日、何故いつも水曜日なのだろう?。今までは リハビリの時頑張り過ぎたのかパソコンのし過ぎかなと思っていたけど、今日はリハビリもなかったしパソコンの し過ぎなら使っていない左足・膝が痛むはすがない。ならお風呂?。でもたまになのは何故?、入浴とどんな 関連が・・・・・?。ダル痛いのはきまって水曜日とは不思議だ。
夜文化の日とはどんな日だと下の息子に聞こうとしたが、聞く機会が作れず…。


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10月
10月31日 10月もう終わり
今日で10月も終わる、なんと言っていいのだろうかばあちゃんもいなくなりまだまだ寂しさは襲ってくるしお別れ席で 「順番は守るつもり」と言っては見たがこの冬を越せるのか自信がない。肺がいつも寒いしすぐ鼻詰まり・鼻水・くしゃみが 出る。僕としては掛け物を微妙に調整してもらって注意はしているのだが、その内にどうせまたぞろ肺炎かな。
今日嫁さんに着替えをしてもらう時に娘に手伝ってもらったら僕のお腹を見て「メタボだね。」って。一日1200Kcal以下の 経管栄養なのにどうしてお腹に肉が付くの?、どうせなら胸に付けばいいのに。体重もずっと少しずつ増えてきているし (個人的には5kgオーバーかな)経管を減らしてと訴えたが、栄養のバランス上これ以下には出来ないらしい。食事制限は駄目 運動はやりたくても出来ない、どうすりゃあいいのか、困ったもんだ。
体重の増加に伴い11月から大便処置にヘルパーさんが追加加勢に来るという。これまで看護師さんに一人で処置して もらっていたがみんな腰痛もちなので体力的にしんどかったらしい。日頃の様子からそれは感じていたので訪問看護の 所長さんから話があった時ヘルパー追加はOKしたが、ずっと前から僕の頭ごなしの空中戦が進んでいた様なのには思わず むっときた。内内で話し合った次は僕の了解を取る事だろう。その僕が何で最後?。僕が臍を曲げたらどうするの?。 それにこの事でみんなの介護保険費用を余計に浪費する事になる事が申し訳ない。

10月29日 アルプスの少女ハイジ
最近有線(ファミリー劇場)の『アルプスの少女ハイジ』に親子共々はまっている。月曜〜金曜の午後8時からの1時間は ハイジの時間だ。大人になってからももう何回も(You Tubeでも)見たがやはりハイジは良い、ほのぼのとしていて ハッピーエンドなのが良い、最後まで安心して見ていられる、たまーにお涙頂戴のシーンもあるがそれも含めて良い。
ハイジはいつ見てもちょっぴり幸せな気分にしてくれる。ほんのひと時の事だが世の憂いを忘れさせてくれる。あと2週間は 小さいけれど娘と共有しているこの他のしみがある。

10月28日 寒くなった!
この4-5日で急に寒くなった。エアコンを暖房にしていれ掛け物を増やし・毛布に替え万全の備えにしているつもりなのに、 いつの間にか鼻詰まり・鼻水・くしゃみの風邪の初期三症状。まだ風邪薬を服用するほどの事はないがこんなんで今年の 冬を乗り切れるのだろうか?、胸水の事もあるしね。この前レスパイトから退院してきた時から体勢によって呼吸するのに 力がいると感じる事もあるし、やはり胸水が増えてきているのかな。でもまあSPO2は95%以上は保っているし最期の方の ばあちゃんに比べればきつい事はないはずか!。まあ・・・・・。
12月のレスパイト、長期化or在宅付加を覚悟しなければいけないかもね。どうせ自然体しかない!。

10月25日 NHK高校講座 世界史
世界史は高校2年生の時1年間授業を受けて教科書の半分くらいまで学習したはずなのだが、全く覚えていない。高校3年で 理系のクラスに進むつもりだった僕は大学受験で理系では社会科は一教科の選択科目ですむから、2年間勉強しなければ ならない世界史より3年で1年間の勉強ですむ日本史の方が覚える内容は少なくてすむはずと考え世界史は2年の途中でたぶん 諦めたのだろう。それにしても世界史の試験で赤点を取ったって記憶はないから高校2年の試験前に最低でも 付け刃的ぐらいは勉強していたはずなのだけど、世界史の内容は全くと言っていいほど覚えていなかった。社会人になって ある時急に世界史の知識も人の話に着いていけるぐらいは必要だと思いだした。いつかは世界史を勉強したいなと 思いながらも結局この年まできていた。
夏の初めの月曜日の午後3時半過ぎ、嫁さんが「久しぶりに聞くと面白いわよ。」と言いながらチャンネルをNHK教育に 合わせた。それが高校講座世界史の時間だった。僕は食い入るように見つめた。そして思った、内容はあまり深そうには ないけど僕にはこれで十分と。一昨日高校講座のホームページを開いて世界史を見た。すると今年度の初回放送分から ばっちり。それで第1回から見ていたら、夕方6時近くになると動画がスムーズに動かなくなってきた。夕方以降はどうやら アクセスが集中するらしい、みんな勉強し始めるのだろう。どうせ暇なんだから昼間ゆっくり見た方がいいらしい。
そこで今日から昼間アクセスする事にした。1学期分を見て世界史の全体的流れはある程度分かる様になってきたが具体的な 内容はほとんど覚えきれなかった。1回見ただけだからまあこんなもんだろう。でも娘と世界史の世間話ぐらいは出来る様に なったかな?。

10月23日 何もする気が起きない
ばあちゃんが逝ってしまって十日、僕はまだ心の中の何かが抜け落ちてしまった様で何かをしようという気が起きない。 この雑記帳に向かおうにも日々起きている出来事が頭の中に一向に浮かんでもこないのでなおざりになってしまっている。 こんな気力を出そうとしない僕に嫁さんもあきれ果てたのか嫁さんの僕に対する対応もつっけんどんになってしまった。 まあしょうがないのだろうが、僕としては傷ついて砕けている僕の心を優しく抱いて暖めて欲しいのだが・・・・・。

10月22日 通院日
3週間ぶりの通院日、町の社会福祉協議会の移動サービスを利用する事に僕もリフト車に同乗してくれる看護師さんと ヘルパーさんも大分慣れてきて乗り込み・通院も病院に着いてからの診察室(救急処置室)への移動もスムーズになった。 通院前後の移動準備・車椅子への移乗などはまだ訪問看護が担ってくれているけど、社協の看護師さんたちに僕が外出する 時の準備の仕方(移乗含む)を覚えてもらえば定期的な通院時は無理にしても突発的な外出の時は社協だけで対応出来る様に なる。いくら特定疾患で訪問看護の自己負担が発生しないといっても無用に税金で賄ってもらうのも悪いし僕の外出準備・ 移乗だけのために訪問看護師さんたちに出て来てもらうのも心苦しい。
久しぶりの車窓からの風景もいい(よくは見えないけど)。田んぼの稲刈りはもうほとんど終わっていて後は大豆と遅米を 残すのみ、路傍のあちこちに何種類もの花が見えた。川棚町に入ったところの川沿いの田んぼ2枚に一面コスモスが 植えてあって久々に良いものを見たという気になった。久しぶりに秋を味わった。

10月19日 パ・リーグ クライマックスシリーズ最終戦
やはりソフトバンクは打てなかった、実に不甲斐無い。いくら相手投手成瀬が良かったといってもやりようがあるだろう。 ソフトバンクの打線からは何とかしようという意識・工夫の跡が全く見られなかった。一人一人が反対方向に意識を 持つとかファールで粘るとかもっと相手投手を崩そうとする粘り腰工夫が欲しかった。実に淡白、ロッテの選手とは気迫も 違ったしあれでは勝てるはずがない。

10月18日 パ・リーグ クライマックスシリーズ第5戦
それにしてもソフトバンクホークスは打てない、見ていてもイライラして目も耳もおおいたくなるほど打線が振るわない。 投手陣はがんばって自分たちの責任を果たしているのにあの貧打(1〜3戦はチームでたった4安打、4戦は小久保の 犠牲フライで1点は先取したものの後は啼かず飛ばず、9回に反撃してももう後の祭り)じゃどうしようもなかった。
今日の試合だって大隣投手が珍しくテンポ良く投げて5回までロッテ打線を完璧に抑えていた。だけど打線はチャンスを ことごとくつぶし初回小久保タイムリー二塁打の1点どまり、あれじゃあ試合の流れを「ロッテさん、どうぞ」とホークス自ら 渡していた様なものだった、案の定流れはロッテに替わり7回ロッテに3点取られ逆転された。ホークスがチャンスを生かし もう2点取っていたら試合は全然違うものになっていただろう。
秋山監督が6回に好投していた大隣をファルケンボークに替えたのも1点勝負を意識しての事だろう。打線があれだけ 打てないんじゃあ動きたくなるの無理もないところだ、しかも大隣投手は突然崩れる事もあるし。まあそれでも一度傾いた 流れをとめられなかったという事だろう。それにしても8回裏オーティズのタイムリー二塁打で1点差に迫った後小久保に 送りバンドをさせなかったのは僕はいただけなかった、ノーアウトだったのだし。
なんにしても明日こそは打ち勝って欲しいものだなあ。

10月15日 ばあちゃん、告別式
自分だけでもばあちゃんの死を認めたくはなかったのであまり行く気を起こしたくはなかったが、「最後のお別れだから。」 との嫁さんの説得を受けて訪問看護師さんたちにお世話をかけてばあちゃんの告別式の会場まで連れて行ってもらった。 元気な時に作っておいた礼服をばあちゃんの葬式で初めて着る事になるとは思ってもいなかった。
斎場に着き訪問看護師さんたちに車椅子に座らせてもらって会場に入ると祭壇にばあちゃんの遺影が、ずい分若く見えるが いつ頃の写真かなと思っているとまた涙が・・・・・。お焼香が始まり何とはなしに見ていると、親類は遠くから 近くからもたくさん来ていてまた部落や本家の隣保班人たちも大勢来てくれていて懐かしい顔もちらほらと。それを見て またまた涙が。それとは別にどこの家でももうずっと前に代替わりしているのに僕ん家はまだ出来ないかと情けないという 想いも少しだけ首をもたげた。
それから最後のお別れの時、「これがおばあちゃんと会えるの最後だから、最後ぐらい顔見てあげようよ。」と嫁さんに強く 促さればあちゃんの棺の横に車椅子を進めてもらったのだが、覗き込めないのでどうしても見えなかった。そこで嫁さんに 「立つ」と告げた。ざわめきの中訪問看護師さんたちに支えてもらいながら立ち上がると、棺の中のばあちゃんに何とか 会えた。心の中で「バイバイ」と呟いた。これで僕もばあちゃんの旅立ちを認めざるを得なくなった。
そして出棺、みんなの最後の贈り物花々に飾られたばあちゃんは斎場をあとにした。僕はそれを見送ってから家に戻った。 しばらくしてもうばあちゃんの肉体も無いんだという想いが襲ってきてまた涙。
訪問看護ステーションMの皆様には本当にお世話になりました。心から感謝しています。もちろん嫁さんにも感謝!。

10月14日 ばあちゃん逝く
ついにばあちゃんが逝ってしまった、2度目の奇跡は起きなかった。午前2時頃お袋から「ばあちゃん、亡くなったよ。」と 聞かされた。親父とお袋はそのままばあちゃんの眠る特老へ。頭では順番だと分かっているのたが、悲しくて心も身体も 寒くて真っ暗な中涙がとどめなく溢れた。朝戻って来たお袋に「苦しまなかったのか?」と聞くと「眠る様な最後だったと 看護師さんが言ってた。ばあちゃん、可愛い顔していたよ。」と。
また「今日が通夜、明日葬式。」との事。告別式に出るという事はこの世からいなくなった事を認める事、そういう想いが 僕の中にある。だから告別式にはあまり出たくはないというのが本音だが、最後のお別れをしたいという気持ちも僕の 中にはあった。その僕の複雑な心持を嫁さんが察して告別式に参加出来るよう訪問看護ステーションと調整してくれたが なんとも言いようのない気持ちだった。それなのお袋が「孫を代表してお別れの言葉を書くように、誰かが代わりに 読んでくれるから。ばあちゃんにはおまえが一番世話になったのだから。」ととどめを刺す様な事を言う、ばあちゃんの死を 認めたくないこの僕にばあちゃんの死を認めて別れを言えというのか。との想いで返事はしなかったが、他のみんなは こちらに来るので精一杯、どうしても必要ならば僕が書くしかないのだろうな。
ばあちゃん子だった僕はばあちゃんについて回り色々な事を教わった。また色々連れて行ってもらった。それなのに僕は ばあちゃんに何をしてあげたのか、最後まで心配させて・・・・・。近くに住んでいたのだから色々出来た はずなのに・・・、結局何も・顔出す事ぐらいしかしなかった。病気になって・動けなくなってから気付いたが、 遅かった。悔やまれる。

10月11日 体育の日
今日が何故体育の日だと言いたい!。連休を増やすだけのためにいくつかの祝日を月曜日に移動させるという法律が10年前 国会で法制化されているが、これは本当に正しい事なのか。これらいくつかの日を祝日に制定したのにはそれなりの意義と 意味があったはずなのだ。
体育の日は東京オリンピックが開催された(開催出来た?)のを記念して東京オリンピックの開会式の日を祝日にしたと 記憶している。東京オリンピックは第二次世界大戦敗戦後の混乱期から政治・経済的に日本国が脱却した事を世界に アピールするために実施した国家プロジェクト、その記念すべき日をただのスポーツにいそしむ祝日にしていいのか。

10月10日 嫁さんはお疲れ
僕がレスパイトから帰って来て十日あまり、嫁さんは疲れているのか夜の行事(寝る前の痰の吸引や排尿など僕の寝る 準備)に僕の部屋に来ると毎日パソコンの前でウッツラウッツラしている様子。子供たちは朝7時前から順次学校に行くし 僕は夜中1時ごろしか寝ないとなると嫁さんの睡眠時間は4-5時間、せめて嫁さんが昼寝が出来る性格ならいいのだが、 そうでもないしウッツラするのも無理からぬ事か。
「僕が入院している間ぐらい早く寝るように」と言っておいたのだが、嫁さんは久し振りに自分の好きな事をする時間として 夜の時間を費やした様で結局寝不足の解消にはならなかったそうだ。レスパイト入院は元々介護する人が日頃介護で疲れた 身体を休めるためのもの、そうでなければレスパイトした意味がないと言いたいところだが、広義では介護で疲れた精神を リフレッシュさせるという嫁さんのやり方もレスパイト入院の意義に含まれるのだろう。それならばせめて しばしの間だけでも僕の前では疲れた顔は控える様にしていただきたいと思うのだが。

10月10日 ばあちゃん、その後
僕としては相変わらず不吉な電話がかかって来ぬかとビクビクの毎日が続いている。お袋は毎日ばあちゃんのいる 特別養護老人ホーム通い。お袋が帰ってくる度に「ばあちゃん、どうだ?」と聞くが、お袋によるとばあちゃんの容態は 一進一退・見舞いに来ている人も目には入っていない様、(鼻から)痰を吸引した時に血が混じっている事もあるとの事だが 吸引の回数も多くカテーテルも咽喉の奥に入りにくそうだったから咽喉の奥のどこかが少し傷ついているのだろう。 傷つかないよう巧くやって欲しい我、SPO2が60〜70%との事だし少々無理しても痰を取らざるを得ないから 仕方ないだろう。
今日宮崎から叔父さんがばあちゃんに会いに来た。宮崎の叔父さんは親父の一番下の弟、僕ら姉弟とは年が一番近く昔 我が家に住んでいたらしいから兄ちゃんと呼んでいた。ばあちゃんも末っ子が会いに来てくれたのだから叔父さんの事に 気付いてくれれば良いのだが、難しいか。

10月7日 ばあちゃんに会いに行った
今朝嫁さんに「ばあちゃんに会いに行きたい」とお願いして訪問看護ステーションと調整してもらった。そして11時頃 嫁さんと訪問看護師さんたちに手伝ってもらって特別養護老人ホームにいるばあちゃんに会いに行った。
ベッドに横になっているばあちゃんを一目見て「具合は良くないな」と思った。ばあちゃんは酸素マスクを着けていても 肩を上下に動かして苦しそうに肩で息をしていた。僕が来た事もばあちゃんは認識したかどうか?。僕の目からは何度も 涙が零れた。
確か2年前だったと思うがばあちゃんが危ないと聞かされて慌てて会いに行った。あの時も元気はなかったが会いに来た僕を しっかりと見てくれて添えた手を握り返してくれた。その後数時間してばあちゃんは復活した。もうこの前みたいな奇跡は 起きないかも。
ばあちゃんももう106歳、辛いけど覚悟しておいた方がいいかもね。

10月6日 ばあちゃん
朝お袋から「ばあちゃんが1週間前から食事が入らなくて点滴を打っている。部屋も特別の部屋に移った。今回はもう 難しいだろう。」と報告を受けた。そしてお袋はばあちゃんの待つ特別養護老人ホームに行ったが未だに帰ってこない (午後7時半現在)。僕は電話のベルが鳴る度にドキドキしている。
一刻も早くばあちゃんに会いに行きたかったが、訪問看護が入らない今日はどうしようもない。何とか・・・・・。

10月4日 小沢一郎氏、検察審査会でまたもや起訴相当決議
民主党元幹事長・小沢一郎氏が二度目の検察審査会でも起訴相当の議決を受けた。これで小沢氏は裁判という公の場で 裁かれる・話をする事になる。
小沢氏は「強制捜査権を持つ検察が充分に捜査して【不起訴】という結論を出したのだから(己の)潔白は立証されている。」 とメディアを通して国民に主張したが、国民が知りたいのは【土地購入にかかわる陸山会におけるお金出入り】、それを 小沢氏自らの言葉で説明して欲しかったのだ。それをしようとしない・極端な言い方をすれば政治家とお金のかかわり 政治資金の流れについて説明責任を果たそうとしなかった小沢氏に対して司法の場を使ってでも国民に対して 説明してもらおうと考えたのも無理からぬ事と思う。
ただ検察審査会で議決に参加した11人および大多数の国民が陸山会の政治資金規正法事件に小沢氏の関与有無を司法の場で 白黒を付けてもらっおうと思っているかというと、僕はそうではないと思う。僕は検察が不起訴と判断した通り司法が 小沢氏に有罪の判決を下す可能性は低いと思う。僕は国民の大多数が小沢氏に陸山会における土地購入に関する一連の金の 出入りについて公かつ国民が理解出来る言葉で説明して欲しいだけだと思うのだ。だけど小沢氏は説明しようとしない、 だから裁判という公かつ公正な場で小沢氏に説明してもらうしかないと考えていると思う。
起訴相当の議決を受けて民主党内にはもう小沢氏離党論が紛失している。全く情けない。これも民主党がまだ政党として 成熟していないという証拠だろう。

10月某日 下の息子の誕生日
今日は下の息子の誕生日、けれど僕は息子に何にもしてやれない。それどころか、情けない話しだが僕は下の息子に対して 今まで誕生日有無にかかわらず何ひとつしてあげた事がないのだ。
下の息子は僕が不治の病と分かってからできた。下の息子が生まれた時僕はもう満足に走れない状態だった。だから僕は 下の息子を抱っこした事はないし下の息子と手をつないで歩いた事もない。僕には下の息子を含む家族と旅やドライブした 記憶は数は極めて少ないけどあるが、下の息子には父親とどこかに出かけたという記憶も無い。 かわいそうなものである。
それでも素直な良い息子に育ってくれている。ありがとう!。


[2010年の先頭に戻る]



9月17日〜10月1日 レスパイト入院
今日から2週間の予定でレスパイト入院、病室はいつもの神経内科病棟のいつもの所。今日の受け持ちの看護師さんが バイタル測定や僕専用のナースコールスイッチをオーバーテーブルの底面の梁の部分に貼り付けてくれている(右足先で 貼り付けられたタッチスイッチを蹴り上げる事によりナースコールを鳴らすいわば僕の命綱なのだ)間に「今回入院 されている間私たちが担当です。よろしくお願いします。」とYさんが新人のK君を連れて挨拶に来た。Yさんは確か今年 4年目(同級生や会社時代の同期の中には年頃の娘を持つ奴もいるくらいだ)、可愛くて3年前の新人時代難しい事を尋ねると 「先輩を呼んできます。」と逃げて行っていたあの娘が今では新人を指導し看護学校に経験談を講話しに行くまでの看護師に 成長したかと思った次第だ。Yさんはこの病棟で僕が気兼ねなく話しかける事が出来る数少ない看護師のひとり、先日 「最近誰が移動した?」と聞くと「同期の二人が辞めたのは語存知でしょ。それ以外は二人が移動して二人入ってきているから 新人さん服もたら(総数は)この前(ゴールでウイークのレスパイトの時)と同じかな。」と。それにしてもこの病棟 この4-5年でほとんどの看護師さんが入れ替わって平均年齢がかなり若返った、意図的!?。まあそれを部外者で僕が 知ってるというのも驚きだろうけど。
病院での一日はとても退屈、朝6時-6時半に経管栄養開始、9時半頃下を洗ってもらう。11時頃その日の部屋の受け持ちの 看護師さんがバイタルを測定しに来て正午お昼の経管開始、15時過ぎから看護師さん3-4人に車椅子に座らせてもらう。 1時間ほど車椅子に座ったらベッドに戻り看護師さんに洗顔と髭剃り・歯磨きをしてもらいしばし休憩、18時から夜の 経管栄養、そして20時頃からテレビを見て23時過ぎ睡眠導入剤を使い就寝。このパターンが退院まで続く。最も辛いのは 23時に睡眠導入剤を使っても深夜2時ごろにすっきり目覚めてそれから窓の外がうっすらと日明かりに白み始めるまでが 本当に長い事、もう一度ウトウトが襲ってくる事もなく何かを考え事をするしか時間をつぶす術がない、夜が明けるまで暇で暇でしようがないのだ。それが来る日も来る日も続いていると・・・・・。
僕が思いえがける事は昔の事、僕は思い出に生きていくしかないのだ。今回の入院で僕が思い出していたのは多くは 嫁さんと出かけた時の事、結婚する前に何所何所に行った、結婚してからは新婚旅行それからここにもあそこにも 行ったはずだ。僕は今思い出しても嫁さんが一緒に傍にいてくれて楽しかったが、嫁さんは今でも果たして 覚えているのかな?。一度聞いてみたいものだ。でも入院して嫁さんと出かけた事ばかり考えていたら嫁さんが常に僕の 傍にいてくれない事が寂しくなってきた。
今回は入院中に結構検査を受けた。血液検査(17日)に胸部CT・胸部レントゲン・心電図(21日)を受けた。その結果24日に 主治医から「肺に水がたまっている。このまま肺の水が増え続ける様ならもう在宅は難しくなるでしょう。」との報告を受け 大ショック、その夜は一晩中病院に入ってでも出来るだけ長く生き続けるべきか命が短くなっても構わないから家族の 側にいて死を迎えるべきか考えていたが、朝には今更どうせなる様にしかならないと諦めた。後日肺水は心臓の病気から 来る事もあるとかで新エコーの検査(24日)を受けた。結果は僕は聞いていないが、まあ今回帰っても良いと言うのだから 肺水がまだ治療を要する段階まではなっていないかあるいはもう手遅れという事なのだろう。主治医に12月の入院を 約束させられたが、今回も家族の元・嫁さんの所に帰れるのだからまあ良いか。
今回の入院で変わった事といえば、入院中の28日から看護学校の学生さんがつく事になった。初め話しを聞いた時には どうせ1日だけの事だからと高をくくっていたが、よくよく話しを聞いてみると退院の日までの四日間ついてくれるとの事で 話しが正式に下りてきた時には申し訳ないがちょっとうんざりと感じていた。。28日実際に学生さんが来たら・・・、 かなり緊張している様子でバイタルも巧く取れなかった。そこで昼から「バイタルは自分のを測る手順と同じ手順で やりなさい」と差し出がましいが具体的にアドバイス、すると「今日練習してきます。」との返事が返ってきた。熱心で素直な 娘(こ)なのだ。もちろん学生さんと僕とのやりとりは文字盤を使って、多少のぎこちなさはあるが初日から僕と文字盤で これ程のコミュニケーションが取れるとはと僕は感心していた。ところがその日の学生さんたちの反省会で彼女が「(僕の 言う事が)ほとんど汲み取れなかった。話したい事がいっぱいあったでしょうに。」と反省の弁を述べたという。優しい 娘なのだ。次の日のバイタルはまだ多少のぎこちなさは残っていたが巧く測れた、ひと安心。
三日目この学生さんに僕のひとつの想いを託す事にした。僕ら寝たきり状態の患者はどうしても関節が固まってくる。 それは加齢からくるものでもあるが日頃から関節を動かしていないせいでもある。病院の看護師が日頃のケアの中で肩や ひじや手首・四股や膝の関節を動かしてやる事は無理な事なのだろうか。僕はそうは思っていない。確かに看護師の 日々の仕事はルーティーンに時には突発事項も入る事も多くありかなり急がしそうである。それでも体交の時や着替えの 時など看護師さんが患者の膝やひじの関節を動かしてあげようという気が強くあるのなら機会はいくらでも作れると 思うのだ。それを看護師が効率を追求するあまり忘れてしまっているのではなかろうか。その疑問・願望を学生さんに 託したのである。学生さんには患者の気持ちを優しく理解した上で信念を貫ける看護師になって欲しいものだ。
退院の日(1日)僕は忙しかった。午後2時に迎えに来るという事だったので、外が白み始めた頃朝の経管栄養を落とし始め 9時過ぎに浣腸それからお風呂に入れてもらい11時半からのお昼の経管栄養に備えた。ところがそこへ看護師長さんが来て 退院は1時と聞いているという、訪問看護の休憩時間から考えても1時にお迎えという事はありえないのだが。それから 病棟内では少しごたごたがあった様だ。そして2時に迎えが来て、あわただしい中で僕らは家路に着いた。

9月16日 入院前日の恒例行事
明日から2週間ばかり遅い夏?のレスパイト入院。何故この時期かって?。カレンダーを見てご覧、来週には敬老の日・ 秋分の日と祝日が二日あるじゃない!。
入院の前日僕にはやるべき事があった。それはパソコンデータのバックアップ、なぜならパソコンはいつ誤動作を起こして データが飛んでしまっても(消失しても)おかしくない代物だった。最近の機種はかなり安定してきている様だが昔仕事を している時はたまに誤動作でピクリともしなくなって意気消沈泣いたものだ。そもそもパソコンは便利なものだがデータの 安定管理は怪しいと思っていた方が諦めもつく。だからこそバックアップ。
今回動画・画像までバックアップするのは難しそう。せめてメールデータ・作成ファイルデータだけは バックアップしておこう。

9月14日 民主党代表選、決着
経済学をあまりご存じない現職総理菅氏と己の政治資金管理団体と金の問題を国民が理解出来る様に説明しようとしない 小沢氏の民主党代表の座をかけた戦いについに決着が着いた。党員・サポータ票249P:51P/地方議員票60P:40P/国会議員票 412P:400Pで菅氏の圧勝だった。日本の総理をコロコロ代えてはいけないという常識論と小沢氏嫌悪論が一般国民の意識の 中に渦巻いていて、それが党員・サポータ・地方議員の票に色濃く反映されていたという事だろう。
さて菅政権の継続で日本経済が幾分でも浮上するのか政治主導の来年度予算編成が進むのか、一般的意見はNoである。 大体来年度予算の概算要求が95兆円を超えているのがそもそも可笑しい。去年行われた本予算の事業仕分けはいったい なんだったんだ、横串を必ず入れると枝野氏が主張していたが横串を入れてこの金額か?。各省庁で従来通り積上げ方式で 予算作成を行った結果こうなっただけではないのか、メリハリは付けたのか・先送りした予算はどれ、と言いたい。 菅総理は代表選の演説で「出来上がった来年度予算案を見てから言ってくれ」と主張していたが、予算変編成過程で 予算総額が大幅に減額される事は有り得ない。民主党政権4年間で日本の借金は1000兆円を超えるかもしれないな。その結果 3年後から順次消費税の大幅アップ、使い道は広義の社会福祉(厚生行政全般)に変わるかもしれないな。
菅内閣はもう半分無駄の削減は諦めている様に見える。

9月12日 停電
夕方近く夕立が襲って来てピカーッ・ドンとあちこちに雷が落ちていた。そして5時過ぎついに停電!。嫁さんは「買い物と (娘の)体育祭に弁当を持っていくね。」と正午前に出かけていて不在、人工呼吸器の事をよく知らないお袋は大慌てで 飛んできた。僕は呼吸器には充電バッテリーは内蔵されているしUPSも繋いでる、1時間近くは保つ、その内停電も収まると 高をくくっていたのでさほど心配はしていなかった。
しかし今回の停電は4-5分では収まらなかった。すると段々もしかしたら停電が長引くかもと思えてきて、この際この機会に 上の息子にアンビューバッグの使い方を覚えてもらうかと考え息子を呼んで教える事にした。文字盤を使って
@アンビューバックを両手で1分間に15回・4秒に1回のペースで押して
A押す時はゆっくりと、離す時は素早く
と息子に伝え、アンビューバッグをカニューレには繋がないで実際にやってみてもらったが、僕が思っていたより 上手かった。もしこのまま停電が1時間以上続いたら・・・・・、息子にアンビューバッグで押してもらうしかない。
そんな時嫁さんが帰ってきた。嫁さんはまず呼吸器の内蔵バッテリーの充電残存状態や回りの家々も停電している事を 確認した。そして保健福祉事務所から渡された「停電対応マニュアル」を取り出してこの停電が跡殿くらい続くかを聞くため マニュアルに記してある九電の緊急問合せ先に電話した。ところがである、電話が通じない様だ。何たる事だ。これでは マニュアルが意味をなさない。早速マニュアルの再検証・修正のお願いを保健福祉事務所あてにメールした。
今回停電は幸いな事に20分ほどで普及した。

9月12日 娘の高校生活楽しそう!
娘の通う高校で昨日は文化祭今日は体育祭があった。生徒会の何かの端役をしている娘は準備のためか先週1週間家に 帰ってくるのが遅かった。帰ってきた娘に「どうだ?」と聞くと、「暑かった。」「疲れた。」と言いながらも充実した顔を している。
少し前の事だが娘に「学校楽しいか?」と尋ねると「楽しいよ!。」という答えが返ってきた、それも嬉しそうな顔をして。 娘はいくつかの文科系のクラブを掛け持ちしてその上生徒会活動まで参加して(課題もどっさりあって)娘の高校生活は 随分忙しそうなのだが、それでも楽しいか。
もう35-6年前の事になるが、僕の高校時代娘ほど学校が楽しいと僕は思っていただろうか?。確かに1年の時は僕にとって 初めての新たな淡い経験の時だったし、2-3年の時も春夏秋冬その時々なりに馬鹿な事をして(今思えばそれなりに) 楽しんでいたと思う。けれど僕の高校時代には学校行事に対する思い出は全くと言っていい程無い。入学式・体育祭・ 文化祭・生徒会活動(生徒総会も役員選挙投票にも参加した覚え無し)そして卒業式、ほぼ記憶の断片すら残っていない。 多分何の目的(夢)も無く中学の延長として漠然と高校に通っていたからだろう。
今学校が楽しいと言いきれる娘が本当に羨ましい。

9月12日 体調の変化はある?
先々週木曜日(2日)から下痢・絶えずの便意に悩まされていた、原因は??不明。ただ月曜日(6日)整腸剤を出してもらい 以後ずっと服用していたら下痢(軟便が出てしまう)は治まった、便意はまだしょっちゅうあるけど。そして金曜日(10日)に カニューレ交換、交換した事により肺は相変わらずスースーするけど胃までスースーして冷えている感覚はなくなった。 カニューレ交換して二日、体調(便意)にどんな変化が出てくるかまだ分からない。
嫁さんは「カニューレを交換したから下痢になったなんて有り得ない。」と僕のカニューレ交換下痢説を馬鹿にするが、 整腸剤服用を止めた今2-3日したら便秘になるかどうかで結果が出るはずだ。僕ら人工呼吸器を従圧式モードで使っている 人にしか分からないだろうが、何故だか不可解だがカニューレ交換をする度に左肺から左肩にかけてスースーするとか 右肺がスースーするとかスースーする場所が変わるのである。だから僕はたまたま胃がスースーと冷える方向に カニューレの先が今回ピッタリと向いていただけと思うのだ。

9月11日 お袋戻る
夕方お袋が病院から戻ってきた。僕の部屋に顔を出したお袋を見ると、まだかなりしんどそうな顔をしていた。「もう 野菜作り止める。」と言う。身体のしんどさよりも畑で倒れたという精神的ショックが大きかったのだろうと僕は見た。 でも野菜作りはお袋の唯一の楽しみだから体調さえ戻ればまた野菜作りやると言い出すだろうと僕は安心している。
なんにしてもお袋の熱中症が軽そうで良かった。

9月9日 お袋が熱中症
訪問看護師さんによる朝のケアが終わって僕は少しまどろんでいた。障子で仕切られた部屋の向こう側にいつもと少し違う ざわめきがあった。そんな正午前僕の担当ケアマネージャーのTさんが不意に僕の部屋に顔を出した。僕はてっきりいつもの ご機嫌伺いかなと思った。その割には「(訪問看護ステーションの)所長が来るまで私がいるから、ちょっと不安かも しれないけど。」と訳の分からない事を言う、次に訪問看護が入るのは車椅子への移乗の時で午後3時なのに。
ほどなくして理由が判明。畑に野菜作りに出てたお袋が熱中症で倒れそこに偶然行き合わせた親父が救急車を呼んだと言う、 そしてお袋の入院対応に動く嫁さんの代わりにまずケアマネージャーが来てくれて後で所長に代わる予定との事だった。 家族が熱中症にかかる事など全然有り得ないと思い込んでいた僕は唖然とした。またこの部屋以外で起こっている事など 全く知らないなと改めて思った次第だ。
お袋は2-3日入院して帰ってくるという。その間僕のおおかたの介護は嫁さん一人、夜中も対応させて嫁さんの身体は 大丈夫なのかと心配になった。そこで夜はギリギリ(1時過ぎ)まで痰を十分吸引してもらい最後にもう一度小便を 取ってもらって寝た。これで空が白むまでは何とか嫁さんを呼ばずにこらえる事が出来るだろう。しかしこの状況が 2-3日だからいいが、長くなれば嫁さんの身体はとても体調を保てないだろう。結論から言えばヘルパーによる痰の吸引実施 なくしては僕の在宅生活永続は有り得ないだろうな!。

9月6日 ホームページが出てこない
僕には福岡市近郊に住むメルトモがいる。小さいころから難病(筋ジストロフィー)を患いながらも家族みんなでがんばって 最高学府(日本でいう東京大学)に進んだ彼女は、日本に興味を持ち約30年前に来日、結婚して娘が生まれた。娘さんが 生まれた当時彼女はすでに人工呼吸器を着けていたと思われる。家族の愛に包まれて難局を越え新しい命を 誕生させたのだろう。
僕が彼女のホームページを訪れてもう3-4年になるだろうか、彼女の心の強さ・生き様にびっくりした。ほどなく僕と 彼女は互いにメールを交換するようになった。僕が彼女の力になれる事は当然何もなかったが話しを聞くぐらいの事は 出来た。
この親娘が日本の社会福祉制度の不平等・不備に二人の生活を脅かされている。我々人工呼吸器装着者は24時間・365日痰の 吸引の出来る誰かが側にいないと生きていけない。だが痰の吸引を引き受けてくれるヘルパーのいる介護事業所を 見つけるのは難しい。彼女はこれまで町の社会福祉協議会の介護サービスを利用していた。しかし町の社協が本年度から 方針転換、障害者在宅介護事業を止めて(介護保険による在宅介護事業は継続)子育て支援事業を展開する事にしたのだ。 これはどう見ても障害者の切捨てなのだが、どういう(介護)サービス事業を展開するかどこまで展開するかの決定権は 介護時業所側にあり国や県・自治体は口を挟めない。彼女は新たな介護事業所を探さざるを得ない羽目になった。しかし 心身ともに合うヘルパーのいる介護事業所を見つけるのはたださえ難しいのに、彼女は最低12時間介護対応出来るしかも 痰の吸引をしてくれるヘルパーのいる介護事業所を見つけなければいけないのだ。「娘さんにある程度一緒にいてもらったら いい。」などと馬鹿な事を言う介護事業所もあったようだが彼女の家庭の事を全く考えていない。才能のある娘さんには それなりの才能に合った仕事に就いてもらいたい。でも社会が邪魔している。今や二人は我が国の社会福祉制度の不平等・ 不備のために家庭崩壊の危機に晒されているのかもしれない。何か力になってあげたいが、僕には何も出来ない。
その彼女のホームページが数日前から開けない。はじめは更新中で開けないのかと思ったが、一日経っても二日経っても 彼女のホームページは開けなかった。僕は時々ホームページを見て彼女らの生活を垣間見ていたのだが、彼女は今の生活に 心身ともに疲れ果てホームページを止めてしまったのだろうか?。

9月4日 下痢が止まらない
昨日通院から戻ったら何故だ分からないがさかんに便意をもようし下痢か続く様になった。昨日は午後3時過ぎ・夕方・ 8時ごろ・今朝目が覚めたらゴロピー、その度に嫁さんを呼んで処置してもらわなければないのが心苦しいし申し訳ない。 どうせなら一度に大量の下痢が出てくれたらお腹もすっきりするのだろうが下痢は毎回チョコッとだけ、便の量さえも コントロール出来ない自分が歯痒いばかり。
実は昨日通院から戻って訪問看護師さんだちに車椅子からベッドに委譲してもらった時に少し便意を感じた。その時 訪問看護師さんに摘便してもらおうかなという考えが心をよぎったが言い出せなかった、なにせ便処理の日じゃないし それに訪問看護師さんだちがあせっている風に見えたもん。
嫁さんが朝の経管栄養を「おもゆ」にし(嫁さんによるとおもゆには下痢を抑える効果があるとか)今日のケアの中で摘便を 思い切ってお願いして、今のところ下痢は落ち着いているみたい。昨今で下痢を引き起こす要因の可能性を考えてみたが 思い当たらない。強いてあげれば、水曜日お茶を飲ませてもらった事と昨日カニューレ交換してから胃の辺りが妙に スースーしている事。カニューレ交換の後に胃の辺りがスースーするという感覚は初めての経験なのだ。

9月1日 民主党代表選
民主党の代表戦に小沢一郎氏も整式に届出をしてこれで菅総理対小沢一郎氏による民主党代表選ガチンコ勝負が始まった。 経済政策に全く疎い菅総理(経済に疎いとの自覚がおありなら、自分の回りに充分なる経済通ブレーンを置いて緊密に 意見交換していればまだましなのだが)と自分の政治と金の問題で元秘書3人が起訴されているというのに国民が理解・ 納得出来る様な形では説明しようとしない小沢氏との対決。世論は1年間に総理が代わってはならない・小沢氏が何となく 嫌いとの消極的な理由で大方は菅総理支持だ。
個人的にも頻繁に総理が代わる事は日本国民として恥ずかしい。けれど菅氏が総理としてふさわしいかというとこの2ヶ月 見ていて僕にはそうは見えてこない。3年前大連立抗争で失脚した小沢氏が語った言葉「民主党には人材がまだ 育っていない」を思い出した。また小沢氏の鳩山政権時代の幹事長の時に選挙に勝つために道路建設を利用しようとした事も 気に入らない、ある明確な基準に基いて必要な道路は作る・それ以外の道路は造らないとマニュフェストで 書いていたではないか。
これから2週間たくさんの場面で二人の掲げる日本国の将来像・政策を聞く事が出来る。どういう話が展開されるのか、 楽しみだ。


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8月
8月31日 夏の終わり はずなのに!
夏休みも今日で終わり、下の息子に「宿題は終わっているか?」と聞くと「もちろん!。」と胸を張った。僕は子供の頃 夏休みの宿題は初めの2−3日で夏の友・硬筆・毛筆・絵を終わらせて後は工作を残すのみしとていた、まあ工作は夏休みの 最後まで悩まされたが。下の息子もどちらというと夏休みの宿題は先に終わらせて後は思いっ切り遊ぶタイプの様だ。ただ 今の小学生は提出日も2回に分かれているしドリル・プリント・漢字の書き取り・毛筆・etcといっぱいある(多過ぎだ)。 折角の夏休みなのだからもっと圧縮した効率的な宿題にしてあげてもっと遊ぶ時間を与えてあげてもいいと思うのだが。 そういえば僕が小学生の頃は毎日プールに行っていた(プールができたのは僕が小学3年の時)が、息子は夏休みの最初だけ 「プールに行く。」と言って出かけたが後は行く様子がない。「どうして?」と聞くと「下級生がプールの中で小便を するから。」と。そんな事は昔からあったのだろうが僕らが子供の頃はプールが最大の涼む方法だった。今は遊ぶ物は 色々あるし色んな所で涼めるから・・・・・。
8月も今日で終わるというのに世の中はまだまだ暑い。常にエアコンの効いている部屋にいる僕にだって部屋の障子が 開けはなされた際にむっと入ってくる熱気のすごさで世の暑さを感じる事が出来る。本当にいつになったらこの暑さが 納まるのか。

8月30日 修学旅行
今日から上の息子の通う中学校は夏休み明け、早速授業が始まった?。中学2年の息子は明後日から二泊三日で修学旅行に 行くとの事。当初は南九州の予定だったらしいが、宮崎の口蹄疫の影響で急遽広島・山口に変更になったらしい。息子が 少し残念がっていた。
夕方帰って来た息子を呼んで修学旅行の予定表を見せてもらう(実際にはメガネの度が合っていなくて見えなくて息子に 読んでもらったのだが)と、移動は全てバス(大変だ、僕らの時は列車だったから長時間の移動でも列車の中を動き回れた。 SA/PA毎にバスの外に出て少しでも身体を動かすようにしないと堪らないだろう)、1日目は平和公園の原爆関連の見学と講話 (4年間広島にいたが原爆ドームをまじまじと見たのは受験の前の日の夜だけだったし原爆資料館は一度も見ていないなんて 全く情けない話だ)、2日目は厳島神社と錦帯橋と秋吉台、3日目の最終日は秋芳洞と下関水族館を回るようだ。個人的には 2日目の宮島で弥山(ミセン)に登れるくらいの自由時間を与えてもっとゆっくりとしたスケジュールにしても良いと思うし、 また錦帯橋で記念写真を撮るだけではなく橋を下からゆったりと眺めて昔の工法に感心して欲しいと思うのだが。まあ 何にしても息子にとって思い出に残る修学旅行になって欲しいし思い出に残る修学旅行にして欲しい。
僕が中学の修学旅行で記憶に残っているのはほとんどハプニングのところだけ。僕らはSLで久大本線・日豊本線・ 鹿児島本線と一周し、たぶん高崎山(水族館含む?)・地獄巡り・(宮崎県立)平和台公園・西都原古墳群・青島・桜島?と 回ったと思う。が覚えているのは、地獄巡りのバスがバス会社の手違いで5台中2台しか来なかったために我がクラスは 海地獄で記念写真を撮った後出口まで一目散に走らさせられた事(当然地獄は全然見なかった)・平和台公園で天孫降臨の 塔を見上げた事・西都原古墳群が黄緑一色だった事・青島で鬼の洗濯板の上を歩いた事・フェリーで担任に一人だけ呼ばれ 説教?を食らった事・帰りの列車でお別れの挨拶を館内放送していたら真っ黒で何も見えないトンネルに入ったがそのまま 挨拶を続けた事(トンネルの中はうるさくて放送など聞こえなかっただろう)ぐらいだ。
修学旅行中にロマンス発生と聞いた事があったが僕らの周りではその気配すらなかった。高校の就学旅行ならその可能性も 大きくなるのだろうが、我が高校では当時修学旅行に行けるのは女子だけ、男子はその間午前中は特課。馬鹿らしくて やってられないと感じた僕ら3-4人は途中で帰って町やプールに出没していた。もし一緒に修学旅行にいけてたら、面と 向かっては女子と話せなかった僕にだってロマンスが訪れていた、かも・・・・・。

8月28日 友来たる
午後会社時代の友人SさんとOが訪ねて来てくれた。
何年ぶりの再会だろう?。二人とも人工呼吸器を興味深く見ていたからかなり前だ。僕の首から管が出ているのを見ても ショックを顔に出さないでいてくれた。有難かった(気管切開して呼吸器を着けている僕の姿を見たら、大抵の人は何とも 言えない表情を浮かべるのだ)。
Oが僕の田舎まで会いに来てくれるのは確か2回目、僕が呼吸器を着けているのを見ていないという事はおそらく 8年前だろう。自転車を乗り回しているとmixyに載せている日記で見たが、以前より体が横にひとまわり大きくなっていた (ストレスorアルコールとか甘い物の摂り過ぎ?)。「カーナビが家をまた間違えた。」とこぼしていたがそれは地図屋さんに クレームをつけなきゃね。
Sさんとは10年ぶりの再会、ほとんど見かけはほとんど変わっていなかったが、少し貫禄がついた風に見えた。昔から 変わらぬはにかんだ様な笑顔・飄々とした風貌、懐かしかった。若い頃はよく一緒に大酒を飲んだものである。昔Sさんが 住んでいた団地で飲んでいて外からにぎやかな音楽が聞こえてきたので出てみたら、広場で盆踊り大会をやっていたので みんなで飛び入り参加して踊ったのを覚えている。
二人は僕の病気ALSについてはほとんど知らない様で嫁さんからの説明を聞いていた。そして「しゃべれないのはきついな。」 と言い二人で色々話をしてくれたので気楽な気分で時間が過ぎていった。僕はしゃべれないから沈黙が続くと申し訳ない& 気が重くなってくる。パソコンを使ってオペレート・ナビで話す事も出来るが、入力に時間がかかるからその時沈黙が 生じるので好きくないのだ。
話している時にハプニングが二つ起きた。まずパソコンがフリーズした。インターネットで重い動画を走らせている時他の アプリケーションを起動すると時々フリーズする。今回もYou Tubeで動画を見ている時にメモ帳を起動させて オペレート・ナビで会話をしようとしてフリーズした。パソコンに詳しいOが色々見てくれたが駄目で長押しして 強制終了させた。Oは「パソコンではよくある事。」と言ったが僕もそう思って納得している。ようは強制終了しても 壊れないパソコンを選ぶかだと思う。
もうひとつのハプニングはOが座っていた椅子の分厚い一枚板が真ん中からパックリと割れた事。Oは「体重が 増えたからなあ。」と気にしていたが僕はたぶん寿命だったのだと思う。なんせ僕らが結婚する前から嫁さんが使っていた 物だからもう20年以上の代物だから今までよくもってくれたと言うべきだろう。僕がまだ動けた頃、この椅子の背もたれが 一部外れた事があった。あの時木工ボンドを使って背もたれをしっかり押し込んで固定していたらあのハプニングは 起きなかったかもと思う。座る部分の一枚板が割れるくらいだから背もたれから微妙な捻りの力が座るところの一枚板に 走っって割れたのだろう。
今回の友の訪問は久しぶりに楽しいひと時を過ごせた。あっという間の2時間だった。
ありがとう。友達っていいもんだなあ。

8月27日 体調の変化
呼吸器の吸気圧を1大きくしてから1週間、確実に体調に変化が起きている。
このところしばらく肺に寒さを感じていなかったのにまた肺や肩が冷えて寒々感じる様になった。
このところ経管栄養の最後の方になった時顔や頭にべらべら汗をかいていたのに、またあまり汗をかかなくなった。
このところの変化を自分では身体が良い方に変わってきてると喜んでいたのたが、な〜んだ呼吸筋が前より 弱くなっていただけなのか・肺(呼吸)がきついと感じていた分呼吸を深くしようとして肺や周りの筋肉を身体が無意識に 無理やり大きく動かそうとしていたから身体に熱が発生してたのかと逆の結果が分かってがっかりした。こんな風に だんだん弱くなっていって、身体にまだ細々と残っている筋肉も動かなくなっていくんだろうな。

8月23日 幼馴染来る
幼馴染のKが実家に帰省したついでに会いに来てくれるという。Kとは小・中学校の8年間を一緒のクラスで過ごした ただ一人の生徒で、中学3年で初めて別々のクラスに分かれて彼女が嬉し涙を流したというエピソードが聞こえてきた。 僕に波形をいじめた記憶は全くない、ただいろんな事を気兼ねなく言い合える(言い合い過ぎる事もあったかも)仲だったと 僕個人は記憶している。女心は昔も今も分からない。
そのKが4時過ぎには家に入った様だが僕の部屋にはなかなか顔を見せなかった。と、座敷の方からにぎやかな声がする。 どうやら仏様をお参りに座敷に行ったついでにお袋と腰を据えて談笑に入ったらしい、まあKらしいが。しばらくして Kが僕の部屋に入ってきてひと言、「顔色も言いし元気そうじゃない!。」。これでも苦悩はいっぱい抱えているのだが。 Kを見ると年相応の体系をした幸せそうなおばちゃん、今はこういう幸せそうな表情をしているが若い頃はだいぶ苦労を したらしい。見知らぬ地で自分だけの力で幸せを切り開いたのだからたいしたものである。Kの明るい表情を見ていると こっちまで少しは明るい気分になってくる。Kは「実家に帰って来る事があったらまた寄るね。」と言いながら 帰っていった。
K、ありがとね。

8月20日 呼吸器の吸気圧変更
この3−4ヶ月で人工呼吸器を着けていても肺を動かすのがしんどいなと感じる事が多くなった。また夜寝る前に睡眠剤を 使っているのに午後0時−3時の間の一時期やたら眠い時間があるし,訪問看護師さんたちに昼間1時間(水・日・祝日除く) 車椅子に移乗させてもらっているのだが最近車椅子に座っている時に呼吸が辛いと感じていた。それで数日前 難病支援システム(インターネットを使った主治医と僕との日々のホットライン、最近時々サボり気味かな)で「これこれの 理由で次回の通院日呼吸器の吸気圧(呼吸器から肺へ空気を送り込む圧力)を上げて欲しい」とお願いしておいた。同時に 吸気圧の変更で呼吸が楽にならない時はいよいよ従量式(一定間隔毎に一定量の空気を肺へ押し込む)にモード変更だなと 覚悟した。
通院日、病院に着くと救急処置室に移動しバイタルを測定、いつも高めの血圧が今日は異常水準まで高いと指摘された。 僕にとってはもう8年近くベッド上だけで生きているのだしいろんなストレスも蓄積されていく一方(はけ口なし)だから こんなんどうだっていいやって感じ。
主治医が来ると「設定は変える?。」と確認、呼吸器の吸気圧を1増やしていただいた。最初は吸気圧を1増やした事での 違いは
分からなかったが、主治医が診察・カニューレ交換・胃ろう処置と進めていっている内に肺の膨らみが前より 大きくなってると感じた。家に帰りベッドに横になりしばらくすると、逆に肺が膨らみ過ぎかなと心配もしたがまあ 慣れの問題だろう。
この設定でまた数年間もってくれれば良いのだが。

8月20日 メールアドレス変更
ここ2-3年迷惑メールが多くなっていたのと最近訳の分からないオークションサイトが何度も多数送られてきていたので、 しょうがなく意を決してメールアドレスを変更する事にした。
昨日アドレス帳に(勝手に)収めている相手全員(中には10年近く連絡を取っていない方もいる)にメールアドレス変更の 連絡をし、次にどうしても登録内容変更をしなければならないサイトだけメールアドレスの登録変更をした。もしこれで 新しくしたメールアドレスに迷惑メールが送ってくる様なら今回登録変更したサイトから情報が漏れたという事になる。 他のサイトでも登録しているところはあるが、そこでは検索サイトで得たメールアドレスに替える事にしよう。

8月18日 十八夜
今日は十八夜、我が部落(今は地区と言う、部落開放問題の負の遺産?)での伝統ある祭りの日だ。昔はこの日になると 朝からワクワクして遊びも仕事も手につかなくなったものだが、今の我が家にはそのワクワク感はほとんど感じられない。 僕が子供の頃はお客さんもたくさん来たし年に数回のご馳走も食べられた、お寺の境内に夜店も出たし特別にお小遣いも もらえた、浮流も楽しめたし仕掛け花火(ジャーモン)も打ち上げ花火も見て(心の底から)楽しんだ。でも今の家の 十八夜にはお客さんもないし(僕がこうだから我が家は代替わり出来ていないのだ)子供たちもいつも通りだし、とても 十八夜を迎えているという雰囲気はない。一人で今日は十八夜と気持ちだけが気張っているのも寂しいものだ。まあ 嫁さんが昼間(夕方?)発した「今から十八夜の料理を作らなければいけないから相手をしている暇はないの。」という言葉に 我が家でも十八夜用の特別料理は作るのかと少し安堵?したが。
優雅6時を過ぎて娘は高校の特化ら帰ってきて急いでお寺(祭りの集合場所、高校生から浮流に参加)に出かけて行った。下の 息子は昼遊びに行ったまままだ帰って来ない。上の息子は人ごみが嫌いとかで出店が出ているお寺には行かない様、 お祭り好きの僕からは理解し難い行為。でも高校生になって一度十八夜に参加すれば十八夜に対する想い入れが変わると 心配していない。下の息子もようやく帰って来て自分の貯金箱から小遣いを取って7時半過ぎ出かけて行った。
今の僕が十八夜の祭りを楽しむ方法は花火の音だけ。経管栄養を開始しそろそろ9時という時に嫁さんに「テレビを消して」と 言う、僕はテレビも電気も消して暗く静かな空間の中で十八夜の花火の音の余韻・想いに浸りたかった。見知らぬ土地でも 祭りの音が聞こえると飛び入り参加していたお祭り好きの僕なのだ。
以前嫁さんは十八夜に僕を連れて行ってやると言っていた。それに対し僕はあれこれ理由を付けて拒絶していた。最近 嫁さんが(家族の力による)お出かけを口にする事はない。僕は教えて欲しいのだ、今の状態の僕を家族の力だけで どうやって車椅子に移乗させどうやって外に連れ出すというのか?。僕だって本当は田んぼ辺りまで行って十八夜の花火を 見たい。でもどの面下げて、家族に多大な迷惑をかけるのが分かっているのにこんなわがままを言えるのか!。

8月16‐18日 パソコン不調に陥る
下の息子がDSの通信アイテム【wli-uc-g】を使いたいと言ってきた。子供たちが僕に相談するなんて極めて珍しい事、 何とかしてやりたかった。
パソコンにDSのwli-uc-gを対応させるの実は二度目だ、1-2年前上の息子に頼まれてVAIOでやった。その時は何の支障もなく 意外とスムーズにいった。だから今回のインストールで障害が起こるなんて予想だにしていなかった。
下の息子はまずデスクトップはソコンのUSBにDS用のwli-uc-gを差し込んだ。息子が操作している様子はテレビの画面に 映して見ていたがどうもwli-uc-g用のドライバーを探していてドライバーのインストールに失敗したらしい。この後 息子から「このCD要るの?。」と聞かれCDあったのかと気付いた。そこで通信用のアイテムを一度抜きもう一度差し込むよう 言ったのだが、今度はUSBにwli-uc-gが反応しない。再起動させても同じだった。何故USBに反応しないのだ。 「アプリケーションだけでもインストールしたい。」という息子に一応承諾したが、ソフトを走らせ始めると「Windowsに 重大な障害を及ぼす危険性があります」とエラーメッセージが出て嫁さんに止められた。
次の朝実際に僕のパソコン(DELLノート)でwli-uc-gのインストールをやってみようと思ってUSBに通信アイテムを挿させ CDを入れてもらいインストールを開始、無事ドライバーははいりアプリケーションをインストールしようとした。そして 「Windows障害云々」のエラーメッセージは出たが構わず続行した、以前VAIOでwli-uc-gを導入した時は何も 起こらなかったから。しかし結果はDSの通信は動かなかった上にパソコン本体の通信(インターネット)も 通じなくなった。
慌ててwli-uc-gのアプリをアンインストールしたが後の祭り、通信機能は回復しなかった。それからが大騒動、ルーターと ノートパソコンをLANケーブル(1m)を繋ぐために娘と上の息子にベッドとノートパソコンをルーターに近付けてもらう。 ルーターとノートパソコンそれぞれの無線通信の内容を調べてみると全く異常なし。それでは何故?・・・・・。 途方に暮れて、駄目もとで「システムの復元」やってみるかと思って息子に手伝ってもらって復元ポイントを8月10日にして やってみた。するとインターネットとメールは使える様になった。
ところが次の日ホームネットワークを使ってみると、使えない。そこでインターネットでwli-uc-gの不具合について 調べてみると、パソコン本体の無線機器でメーカーがBuffer以外とは併用禁止とあった。それなら何故VAIOで動いたの?。 ルーターと無線子機はNTT形のものを買ったのだけどあの製造元はもしかしてBuffer?。その時不意に気が付いた、VAIOに wli-uc-gをインストールした時はCDは用いなかったんじゃなかったか、ドライバーもアプリもインターネットを使って 最新のものを入手したんじゃなかったかと、それならアプリの不具合が改善されていた可能性はある。だけどアプリを インターネットでダウンロードしてもう一度トライしてみようという気は僕には起きなかった。
ホームネットワークの方はあれこれ調べて機能しない原因らしきものは見えてきた。しかしその原因を取り除こうとして また無線不能に陥ったので止めた(システムの復元で無線機能は回復)。またあれこれ調べている途中でデスクトップの マイドキュメントを参照する(開く)手順は見つけたのでひと安心してこの日のパソコン遊びを終えた。
翌日(18日)は朝からパソコンは問題なく動いた。ところが午後の入浴車の後しばらく休んで夕方パソコンを点けてもらうと またまたトラブル発生、オペレート・ナビが自動起動しないのだ。オベレート・ナビが使えないとパソコンは僕にとって ただの箱、何の役にも立たない。この時はしばらく待たされた後娘にオベレート・ナビをダブルクリックしてもらって 起動させたが、普段の朝お袋がパソコンをセットしてくれる時こんな事は出来ない。大問題だ!。
調べてみてもAll userのスタートアップにオベレート・ナビのアイコンはちゃんとあるのに何故?。散々迷ったが オペレート・ナビのアプリをインストールし直す事にした。でもオベレート・ナビアプリのインストールや バージョンアップにオペレート・ナビは使えない。そこで申し訳ない事だが上の息子に手伝ってもらう事にした。それから 約1時間、無事オベレート・ナビのアンインストール・インストールとバージョンアップは終了した。最初 オペレート・ナビをインストールしたばかりの時は再起動してもオベレート・ナビは自動起動しなくてこれはまずいと 思った。けれど2回バージョンアップした後再起動したら、パソコンが環境設定をし始めたので「いけるかも」と思い直した。 結局今回はインストールをやり直す事で事なきを得た。
この先もまだ不具合は起きるのか?、ちょっと不安。何でもかんでも手を出したら駄目っていうのが今回の教訓。

8月16日 ばあちゃん誕生日
今日ははあちゃんの誕生日。昨日の内に子供たちに「明日は曾ばあちゃんの誕生日だからお父さんの代わりに会いに 行って来て」と頼んでおいた。そして今日の夕方子供たちは特別養護老人ホームにいるばあちゃんに会いに行った。
ばあちゃんは今年106歳になるという。特老から帰って来た娘から「曾ばあちゃん元気だったよ。」と報告を受けた しばらく後、嫁さんがメールしてくれた子供たちがばあちゃんと会っている時の写真を見て「曾ばあちゃんもうベッドに 埋もれてしまっているなぁ」と言いながら涙するとまだ会話に付き合ってくれていた娘から「まだ生きていてくれている、 それだけでいいじゃない。」と諭された。それはそのとおりなのだが、僕の頭の中には3-40年前の元気な頃のばあちゃんが まだ鮮明に残っている。比べちゃいけないのは分かっちゃあいるのだが、つい・・・・・。
もし僕が元気だったら、「ばあちゃん一族会」やりたかった。

8月15日 ひま〜ぁ
息子との勉強会も止めてしまったし、身も心も疲れと虚しさで何のやる気も湧いてこなくてひま〜ぁな毎日が続いている。 この雑記帳には書く事はなくまた書きたいという気持ちも起きてこないが、あまり更新の日にちが開くのも誰かに ひょとして心配をかけるかもと思って無駄話を書いている。あ〜あ、僕らはいつまで何のために生きていなくちゃ いけないの?。
こんな時は人肌が恋しくなるけど、僕の手などゆっくりと触れていてくれる天子などいるはずもなく・・・。唯一 頼めるかもしれない嫁さんはこの暑さに夏バテして眉間に皺をよせて参っているからその姿を見ていると 言い出せなくなるし、元々叱咤激励タイプだから手など握っていてくれる性格でもない。眠るまで人肌を感じさせてくれる 天子いないかな。
脳死状態と判定されたら臓器移植しても良いけど、尊厳死ないからそんな機会巡ってこないだろうな。

8月11日 まきのおっちゃんも逝く
今日お袋から「まきのおんちゃんがなくなった。」と聞かされた。また身内が少なくなった、まあ順番だから仕方ないけど。 僕はまきのおっちゃんとの思い出はほとんどない、覚えているのは顔が長かった事・その長い顔にいつも笑顔を 絶やさなかった事それにおっちゃん家に五右衛門風呂があった事。
おっちゃんは一人身になって十年ほど前にM姉ちゃん(従姉弟)に引き取られていった。古里を捨てるのは 寂しかっただろうな。向こうに行ってからの楽しみはタバコかな、昔から美味しそうに吸っていたものな。
おっちゃん、バイバイ。

8月10日 僕が今存在している事の意味って、何?
僕が今存在している事に何の意味があるの?。子供たちを「てて無し子にさせない!」ためにただ色々な表情を浮かべて 生きていりゃあいいの?、どうせ話せない動けないのだからみんなの話のはけ口に成って黙って(元々口利けないか) 聞いていりゃあいいの?。それなら表情を滅ロボットでもいいんじゃない。まあ管を繋がれ生きているから 同じ様なもんじゃん。
嫁さんは「その内進路や人生の相談に来るから、その時父親の役目を果たして。」と言うが、果たしてそうだろうか?、僕に 来る???。僕は両親に何も相談しなかった、したのは報告だけ。僕は親父の背中を見て育った。僕には成長している 子供たちに見せる背中はない。

8月7日 花火大会、虚しさつのる
今日は旧町の盆踊り・花火大会との事、午後9時前経菅栄養を始めた時、バーンと花火の開く音がして花火大会が始まった。 それを聞いた瞬間ここにこうしてベッドの上で横になって何も出来ないでいる事がとても虚しくなってきた。この虚しい 心持は健康を持っている人には理解出来ないと思う、僕はお祭り好き・盆踊り好き・花火好きでたとえこの身体が 動かないとしても何とかして花火は見たいのだから。だから部屋を暗くして花火の開く音を聞きながら頭の中に花火の 美しくはかなく開く様子を描こうと思ったのだ、ただ花火が頭の中にほんの2-3個開く内に意識が飛んでしまったが。
こんな時はいつもついもし元気だったら・・・と思ってしまう。元気だったらあれもこれも出来ただろう・・・と。

8月6日 通院日
今日は通院日、リフト車に乗り込む前に「かえって来たら少し日向ぼっこしたい」と訪問看護師さんに告げると了解の笑顔を 浮かべてくれた。この話を耳にしていたのかリフト車に同乗してくれている社協のお二人から「病院に着いたら診察の前か 後に池の亀を見に行きましょうか?。」と提案あり、嬉しさを感じた。
リフト車での行き帰り車窓からの風景はほとんど楽しめないが社協のお二人の世間話が掛け合い漫才の様に聞こえてかなり 楽しい。世の奥様方はこんな事を日ごろ考えているのかといつも感心させられる。今日の話題は・・・・・
診察の後車椅子で玄関を出たら少し日差しが弱くなっていたので池の亀を見に連れて行ってもらった。遠くからはどこに いるのかなと思えていた亀たちも池に近づくにつれて近づいて来た。大きいのやら中ぐらいのやら、いつの間にこんなに 増えたのか?。ミドリガメと言うらしい、祭りの時によく売られていたやつだ。買う時にはこんなに大きくなるなんて 長生きするなんて誰も思ってはいない。そして育てられなくなって無責任にも川に放す。繁殖力が強いそうだから生態系に 影響を与える。石亀は何処へ、子供の頃家のすぐ近くの溝で見つけたのに。
家に着くと訪問看護師さんに日向ぼっこをさせてもらう。まず畑の野菜を見た。次に表道に出て目に入る山を見たが、 子供の頃は山はどう見えていたのだろうとふと思った。近くしか見ていなかった様な気がする。
お世話になりました。

8月3日 将棋
一週間ほど前から友人Oに教えてもらったソフトをダウンロードしてパソコンで将棋を始めた。コンピューターのレベルを 初心者にして何とか勝てる程度、まだまだ4-5手先までしか読めないし先を読んでいるとイライラして頭が混乱してくる。 それでつい指してみて結果町としてしまうのだが、せめて2-3種類10手ぐらい先を読めないとダメだなとは思っている。 が、昔から勝負事には根気のない僕には将棋というゲームは合っていないのかもしれない。
初心者レベルはすぐに核を捨てたがる。それでも時々あっとする様な良い手を指す、もう訳がわかんないという感じだが、 そろそろ初級者にコンピューターのレベルを上げようと思う。果たして着いて行けるか?!。目標はインターネット回線を 通して息子とパソコンの将棋盤で対局する事。そのレベルになったらまた相談しますね、O君。

8月2日 汗
最近目の周りに汗が溜まる様になった。きっと前より顔が痩せて目が幾分落ち込んでしまって回りに汗が留まる様に なってしまったのだろう。けれど僕の周りの人たちは誰も「顔痩せたね。」と口にする事はないから見た目には分からない かなり微妙な変化の痩せ方なのだろう。
それに汗のかき方すなわち体調もまた変わってきた。経管栄養が終わる間際からまたドバーと汗をかく様になったのだ。 この現象は前にもあった事、ただここ一年ぐらい止まっていただけだ。だけどかく汗の量は前より増えた様な 気がしている。
顔や頭に汗をかくと額からこめかみや耳に汗が流れてくるし目の周りに溜まった汗が目に入りそうになって気持ち悪い。 けれど自分では拭けないので人を呼んで「汗を拭いて」とお願いするしかない。汗の拭き方も十人十色だ。嫁さんは最近 老眼が出てきたみたいで顔全体をウエットティッシュで拭く。娘は目を中心に顔と頭をタオルでゴシゴシ拭く。上の 息子はティッシュペーパーで汗の出ているところを優しく狙い打ち、下の息子もティッシュで顔のあちこち拭いてくれる。 ま、僕の好みはタオルでゴシゴシかな。訪問看護師さんやヘルパーさんの汗の拭き方も一人一人個性があってなかなか 面白い。僕の好みの強さで丁寧にゴシゴシ拭いてくれる方もいるし腫れ物に触るような感じで恐る恐る拭く方もいる、 中には仕事だから仕方なしにという雰囲気の方も。でもまあ、介護を受ける側も十人十色だし仕方ないか。


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7月
7月31日 ちょこっと散歩
今日の午後ベッドから車椅子に移乗させてもらう時に、訪問看護師さんとヘルパーさんに思い切って「日光浴がしたい」と 頼んでみた(申し訳ないが今日のペアが僕にとって最も言い易い二人なのだ)。二人は「暑いですよ。」と念押しした上で OKサインを出してくれた。
玄関スロープの準備(看護師さん)や足のマッサージに装具装着(ヘルパーさん)を済ませ頚(くび)にも装具を装着し、 看護師さんにアンビューバッグで押してもらいながら玄関を出ると、少しビリビリとくる日差しが手や顔に当たって 心地良い。「今日は風があるからそんなに暑くない。」という言葉に誘われて風の通り道を求めて車椅子をどんどん 進めてもらって家から50mほど離れた田んぼ近くの道まで出ると、日差しとそよ風が身体に当たって本当に気持ち良い!。 こんな感覚を味わったのは何年ぶりだろうか!。回りを見渡すと、子供の頃遊んだ山々が夏の空にあった。
訪問看護師さんやヘルパーさんには手数をお掛けしてまた日に焼けさせて申し訳なかったが、15分ほどの散歩 気持ち良かった。お世話になり "Thank you"。今度は神社のところまで行きたいなぁ。

7月29日 民主党無様
今日民主党の両院議員総会が報道で流されていたが、無残のひと言。まず参院選惨敗の総括が間違っている。確かに 菅総理の唐突な消費税増税検討開始と次期総選挙で信を問うとの発表が有権者の投票行動に影響は与えただろう。しかし その前に民主党の国会議員一人一人が政権与党についてからの10ヶ月国民目線の政治に本気で取り組んでいたのか 自分自身に問うてみたか。党内制度を云々する前に国民目線の政治・国民の意向を汲み取った政治が出来ていなかった 事を民主党の国会議員一人一人がまず反省すべきだ。それに菅代表はひと月前に自分たちが代表戦で選んだ代表だろう。 少なくとも来年の9月までは党内での自由闊達な意見展開は構ないがみんな(小沢一郎氏も)で支えるべきだろう。もし 菅民主党をどうしても支えたくないと思っている人たちの政治心情・方向性が大きく異なるのなら離党すべきだろう。 そうでなければ党内抗争や主導権争いなど止めて支えるべきだ。今のままでは民主党の政権能力が不足していると国民に 思われても仕方がない。

7月28日 入浴車
最近の中学校のクラブ活動は(スポーツ)クラブチーム化している、そうは思いませんか校長先生。公立中学のクラブ活動は あくまでも学校での教育の一環であり、活動を通して中学校の教室では教えきれない心身を鍛えかつ自主性や集団行動(特に 上下のつながり)の何たるかを知るのが目的だと思う。ところが今の中学校のクラブ活動は(全部がとは言いませんが)勝利 至上主義を掲げ勝つ事を主な目的としそのためのスケジュール・試合の予定を組んでいる(中間・期末考査のすぐ後に試合を 組むとかクラブチーム並みの遠征をするとか)。勉強の遅れを取り戻すため居残りを命じたら、監督・コーチに「練習の 妨げになるから止めてくれ。」と言われたとか。何が何でも勝つ事・上手くなる事を希求して支援している・クラブに かけている保護者が存在している事も確かですが、今の中学校のクラブ活動の状態は校訓に反しませんか。
今日は入浴車の日、入浴車のスタッフのお嬢様方の話題は明日から2日間ある中体連県大会の事。話を聞いているだけで その熱心さは分かるがモンスター化はしてない模様。仕事を休みにできた方は各地の会場まで応援に行くそうだ。
次に話題に上がったのは子供たちの夏休みの事、「ともかく宿題が多過ぎる、これではクラブと宿題に追われて何のための 夏休みだか、あそばせる気はないのかも。」というとの批判もちらほら。なんせ家庭科の宿題まであるとか、今年は夕食を (一緒に?)作る事らしいが以前ぬいぐるみ作り?もあったとか。夏休みの終わりにはお母様方も子供と共に苦労している らしい。そういえは僕らが子供の頃の夏休みには家庭の宿題などはなかったが、お昼なんか勝手におかず作って 食べてたもんな。。

7月25日 再生医療
先日テレビを見ていたら再生医療の特集があっていた。心筋梗塞で心臓の左心室の壁肉を壊疽してしまった方の治療に 本人の心臓から幹細胞を取り出しその幹細胞を多量に培養して壊疽した左心室の肉壁部分に埋め込み戻して左心室を 再生させたというものだった。
僕は再生医療には大いに期待しているのだが、筋肉が萎縮してもう何年も動かせた事のない部位に果たして再生医療が 使えるのだろうか?。筋肉が萎縮してほとんど動かなくなってもその部分に近い位置の部位で少しでも動く部分が 残っていればそこの部分の筋肉細胞を再生医療(培養させる幹細胞)に使えるはずだと信じて頑張ってちょこっとでも 動かそうと努めてきた。でもその気力はもうほとんど薄れつつある。何か元気が出る情報が欲しいな。

7月24日 海水浴
今日下の息子と嫁さんは地区の海水浴に行った。地区(昔の言い方なら部落)の海水浴は僕の子供の頃からの年に一度の とても楽しみにしていた行事だった。大人になってもからも海・海水浴・砂浜岩場遊びは僕の夏の最大の楽しみだった。 志賀島・西ノ浦・芥野に津屋崎、よくあちこちの海に行ったし一人でもコンビニで弁当とビールつまみを買いこんで 行っ手人泳ぎしたら腹ごしらえと真夏の太陽の下でひと眠り、そして岩場で今晩の酒のつまみになる巻貝を探して 取りあさったものだった。その頃の僕は海大好き人間だった。
息子たちは二丈の海水浴場に行くとの事、夕方疲れて帰ってきた息子を捕まえて早速「どうだった?」「何をして遊んだ?」 「どこの海岸に行った?」と聞くと、「楽しかった。」「泳いだ。」そして「分からない。」と嫁さんの方を見た。嫁さんによると 鹿家海岸に行ったそうだ。僕らが子供の行った浜辺はもいっこ向こう(福岡より)の海岸だったと記憶してるしそこが 会社時代の同僚と最後に行った海水浴だ。確か1997年夏の事だった。僕は3歳になった娘を一緒に連れて行った。海は 凪だった。僕は岩場の方へ娘を連れて行き波の入ってこないくぼみで娘を円形の小さな浮き袋に入れ込んだ。娘は器用に 泳いで楽しそうだった。僕はいつもの様に巻貝取りを始めた。10分ぐらい経った時変な音が聞こえた。娘の方を見ると 姿がない。急いでくぼみへ戻り見回すと、娘は浮き袋から外れグルグル縦回転してた。急いで抱き上げるとびっくりは していたが泣きはしなかった。僕の苦くて楽しい思い出である。
こんな僕からあの夏の楽しい海を誰が奪った!。

7月23日 暑い日差しの中散歩したい
今日は通院日、リフト車に乗り込むために車椅子で真夏の晴天の下に玄関から一歩?出ると懐かしの太陽の光とジリジリと した日差し、みんなに聞かされていた通り暑い。こんな中「散歩(あるいは日向ぼっこ)がしたい」と言ったら僕の身体には 今はもう無謀だろうか?、病院への行き帰りそんな事ばかり考えていた。
車窓からちょこっと見える風景は田んぼの青々とした苗の生長と大豆、それにふわふわとした雲が浮いていた。病院の池の 亀も見えたのは1匹だけ、あとの亀たちはどこかへ避難?。でも水の中で気持ち良さそう、僕には二度と出来ない行為。

7月21日 お風呂の後は身体が冷えてくる
今日は午後1時から入浴車。いつも通り気持ち良くみんなの世間話を聞きながら楽しく入れてもらったのだが、やはり お風呂の後1時間ぐらいすると時間が経つにつれて身体が冷えてくる、十分着せてもらっているのに。本当になんで どうしてなんだろう?。
理由が分かれば対処もできるのだろうが今はお手上げ状態。経菅栄養を落としながらひと寝入りすると治っている様な気も するからエネルギー不足かな。

7月19日 自由?が無い
世の中は三連休の梅雨も明けた最終日、全国的に猛暑真夏日になって水の事故が多発したと報じていた。しかし海や川に 行ける身体だからバーベキューも出来る身体だから事故にも遭える(不謹慎な言い方だが)。暑い暑いと言うが冷房の効いた 部屋で寝たきりでいるしかない人間とどっちが良い。僕らは夏の暑さを楽しむ事も冬の寒さを楽しむ事も出来ない。
嫁さんは上の息子は夏休みクラブ漬でどこにも連れて行けないからと映画「ソフトボーイ」を息子と見に行った。昨日は 下の息子を佐世保高専のオープン講座に連れて行ったし「どこにも行けない。」と言っている嫁さん孤軍奮闘、身内と いえどもとっても羨ましい。
自分で死を選ぶには気管に痰が詰まってもコールを鳴らさないでおくか栄養を拒絶するだけ(勝手に栄養は繋がれるけど)、 自殺する事もままない僕の楽しみって何?。唯一の救いor楽しみ?がパソコンをする事。パソコンをしていると色々 考えなくてすむし時間は勝手に過ぎ去ってくれるもの。
嗚呼、僕だって時には真夏の日差しをジリジリ浴びて「暑い!」って叫びたい?なぁ。まあ身体がついていかないか!。

7月18日 下の息子・佐世保高専「スイッチ作成」講座参加
下の息子が佐世保高専で行われた一般人向け公開講座「手足が不自由な方たちのための身のまわりの材料で作るかんたん スイッチ作成」に参加、嫁さんも付添いとして(送り迎え)同行した。本当は上の息子にもものづくりの一端を体験させたくて 参加させたかったのだが、中体連の時期と重なっていために打診すらしなかった。でも今の子供たちは幸せだ、探せば 身の回りにこうして色々体験出来る機会があるんだもの。僕らが子供の頃は親父の背中と自然が先生だった。
帰ってきた息子を傍に呼び出して「どうだった?」と尋ねると「面白かった!。」のひと言だけ、どんなものを作ったとか どんな風に作ったとかの説明はひと言もない。下の息子は口下手でぶっきらぼうなのだ、いつもの事だが。代わりに 嫁さんが本体のブザーLED確認器や手作りスイッチを見せて今日の講座であった事を話してくれた。この様な事を通して 機械・電気・ものづくりに興味を持ってくれれば良いのだが。

7月17日 梅雨明け
長く強い雨も上がり今日梅雨明けした模様との事(数年前から気象庁はこんな言い方をする)。ベッドからギリギリ外が 見える窓から空を見るとスカイブルーの空に小さな積乱雲が見えた。空や雲が夏の色に。外は暑いのだろうが、 散歩したいな!。

7月16日 ゲリラ豪雨
最近全国各地で短時間に集中豪雨が起こり被害が続出しているとのニュースが流れている。マスコミは@降雨の範囲が 大変に局所的であるA降雨時間が短いB単位時間当たりの降雨量が多いといった特徴のあるごく限られた範囲に集中して 一度に降る降雨を都市型のゲリラ降雨と近年名付けた。この2-3日ゲリラ豪雨と梅雨末期の集中豪雨が日本の各地で起き 大きな被害が出ている様だ。
テレビ田んぼ一面が濁流に浸かっている様子が映し出されるときまって昔を思い出す。僕も子供の頃一度だけ同じ様な 光景を見た。投じ家の周りは横に保育園50m先に家があるだけであたり一面田んぼだった。その日はたまたま日曜日、 前日から降っていた大雨がようやく上がったので玄関から一歩庭の方へ出てみた(家は床下浸水)。すると辺り一面 川だった、濁った水が東に流れて行く以外は田んぼもそこに植えてあるはずの苗も何も見えなかった。小学生だった 僕は不謹慎だが一面を流れて行く濁った水を見ていてなんか嬉しくなったのを覚えている。この時牛が流されたという 被害があったとの噂を聞いた。この洪水が引き金となって川の湖岸改修工事が行われた。残念な事に(しかたのない事) この湖岸工事で川にいたたくさんの種類の生き物(虹バヤ・ジョウトク・草魚・すっぽんなど)がいなくなった。

7月12日 参院選民主党大敗
昨日は参議院選挙の日、午後8時過ぎテレビ局各社が特番の選挙速報を流した。が、どこの局も最初から民主党惨敗の文字。 結局 民主44 自民51 みんなの党10で民主党の大敗に終わった。民主党の今回の参議院選50議席割れは今後国会が ねじれ状態に入るという事以上に大きな意味を持つ。この50議席割れはそのまま民主党政権の終わりを告げる数字に なるかもしれないから。三年後の参院選各党は参議院議員数削減に合意して回線はおそらく100になるだろう。そんな中で 民主党ががんばって今後国民目線の政策実行に大転換できたとしても67議席獲得は困難の極み、下手したら参議院第一党の 座だって危うい。まあその前に今の民主党に国民目線の政策が実行出来るか、その政権能力自体が大いに疑問だが。
今回の参議院選挙での民主党大敗の要因を僕は次の様に考える。
@民主党が政権についてからの9ヶ月間、民主党は本気で税金の無駄使いの削減実現に取り組んできたのか?。
前原氏がダム建設計画の一からの見直しを宣言した時には「これは本気だ」と期待したが、骨抜きの天下り規制の閣議決定・ 給与法を伴わない国家公務員改革法案の国会への提出・道路建設への妙な動き(昨年の長崎知事選でのあたかも道路建設と 投票を引き換えにさせるかの様な演説、昨年の小沢前幹事長の陳情を受けての道路建設要望、5月?の土日祝日千円 乗り放題変更に伴う道路建設要請-これは補正予算だから使わないで済むのだったら国庫に返納すべき)など税金の無駄遣い 根絶に積極的活本気で取り組む意識が民主党にはあるのか疑わしさを感じてしまう。
A昨年の衆議院選挙のマニフェストで掲げた財源はほとんど出鱈目だったのか?、それに対する明確な説明がない。
B高校授業料無償・子供手当て・農家個別補償(実験)・高速道路無償(実験)などは検討不十分、7月の参院選に 間に合わせるために見切り発車して結局はバラマキ政策(税金の無駄使い)をしたのではないか!。高校授業料無償・ 子供手当ては少子化対策や子育て支援として大事な政策だと思う。けれど検討不足で多くの問題を抱えたまま実施に 移してしまった。あせりとしか言いようがない。国民はその前に待機児童の解消を切に願っているのではないか。
C国会運営の強引さ。
通常国会で議論を尽くす姿勢を見せずに何回も強行採決したし新しく菅内閣が誕生したのに国会を延長せずに閉会、国民の 意向は無視党益だけを考えて国会を運営している様に見えた。
D菅総理の消費税10%発言。
消費税を含む税全体の議論をするのはいつからだって構わない。ただ無駄遣いの削減に本気で努力した後に消費税を 上げるのは認めるが、菅総理の発言のニュアンスだと民主党が無駄削減の努力をしようがそうでなかろうが最長でも3年後の 次期衆議院選挙では民主党は消費税を上げる事を前提に選挙をすると聞こえた。こういう方針・覚悟では無駄の大胆な 削減なんて出来るはずがない。
E政治と金の問題・普天間問題など鳩山政権の積み残し。
小沢氏は結局一連の政治資金規正法問題で国民の前で説明責任を果たす気は無いらしいし民主党現執行部もそれを小沢氏に 促す気もないらしい。これでは法廷で小沢氏自身に語ってもらうしかない様だ。政治資金規正法等の問題を検察審査会で 取り上げるのは本来の主旨には反すると思うが、こういう形で国会議員に説明責任を果たさせるって形(国民感情)も ありって事だろう。
僕はこの20年近く民主党系に投票してきた。だけど今回の参院選ではどうしても民主党に投票する気にならなかった。 民主党は初心を忘れてしまったのか。今後国会はねじれ状態に入る。政策毎に見ていくとかなり近い政策を掲げている 政党がある。国会で政党間の議論を深めて国民目線の政策を実行に移して欲しい。

7月8日 魔?の金曜日?
通院日、10時40分今日も社協の二人が早目に(張り切って?)到着、経管栄養で顔や頭にびっしょりとかいた汗を部屋に 入ってくるなりヘルパーさんに拭いてもらった。11時過ぎ訪問看護師さん到着、ベッドから車椅子に移乗しリフト車に 乗り込む。今日は幸い梅雨の合間の曇り空、けれど僕の気分も2週間ぶりの外出だというのに曇り模様、車窓から景色を 見ていても気分はいっこうに晴れては来なかった。
12時過ぎ病院へ当直、救急処置室で車椅子からストレッチャーに移してもらう。ストレッチャーへ移動の途中頭の上の 方から「めまいがする。」というリフト車に同行してきてくれた社協の看護師さんの声が聞こえた。僕の回りにいた人たちの 話から様子をうかがっていてもかなり具合は良くない様だ。「この前の(半年前)自分の時と同じ。」と話す嫁さんの声が 聞こえてきた。もしそうなら嫁さんはこの日は動けず入院し静養して翌日帰って行ったくらいだからかなり辛いものに なるだろう。中学2年の息子の今度の中間テストの英語の問題ではないが That's too bad ! (お気の毒に)。
主治医の診察を待つ間に相談員のMさんに「(下の)息子を佐世保高専で行われる一般向け公開講座【四肢が不自由な方達の ためのスイッチ手作り講座】に参加させたい」と相談、受付手続きを取っておくと了解を得た。この講座では半田ごてを 使うとの事、僕は大人になってから自己流で半田ごてを使い始めたから半田ごては上手く使う事が出来なかった。 小中学のこの時期に半田ごての使い方をきちんと教えてもらったらきっと息子たちの将来にきっと役に立つだろうし、この スイッチ手作り講座に参加させる事で機械や電気の分野に息子たちの新しい興味の対象が生まれてくるかもしれないと 思ったから。僕はそろばん以外こういう機会に出会わなくて夢などないまま成長してしまった。子供たちには農業始め 色々な分野を早い内に見聞きして欲しいのだ。残念ながら中学生の上の息子は中体連で参加出来ないが。
しばらくして主治医がやって来て「呼吸器の設定変えますか?。」と聞いてきた。実は1週間ほど前難病支援システムに「最近 少し息苦しい様な気がします。吸気圧を1増やしていただけませんか?。」と書き込んで主治医と連絡を取っていたのだ。 「どうします?。」と尋ねる主治医に、吸気圧を上げれば呼吸は楽になるかもしれないがその分肺は今にもまして 寒くなるだろうと考え首を横に振った。そして「しばらく様子を見ましょうか。」という提案にうなずいた。
主治医による診察と処置が終わっても同行してくれている社協の看護師さんの具合はやはり良くなりそうにはなかった。 それで看護師さんを残して帰る事になった。家に着くとある訪問看護師さんがリフト車の中を見てびっくりしていた、 リフト車の中の人が一人少なかったから。リフト車から下ろしてもらいベッドに移乗して着替えをしてもらったら 落ち着いた。それからしばらくまどろみ4時半過ぎから訪問リハビリを受けた。最近なんとなく一日中眠い、それに肺は 相変わらず寒い。あと何年ぐらい僕の身体は大丈夫なのだろうか!。

7月7日 七夕
七夕、牽牛と織姫が仕事を忘れ逢瀬を繰り返していために天の川の左右に分かれさせられ年に一度だけ会う事を許された日。 もう我が家では笹を取ってきて七夕飾りをする事もない、短冊に願い事を書く事もない。我が家にとって七夕はもう カレンダーに記載されただけの存在。嫁さんは夜中外に天の川を見に行った様だ、果たして牽牛と織姫は会えたのか。
我が家では一つ屋根の下に僕の両親と僕の家族が暮らし始めてもう10年になる。幼かった子供たちの成長を見守るため・ 僕の介護のためだけに二つの世帯が一緒に暮らし始めたから当然ほころびが出る。いったい世帯間・家族間のすきま風は いつごろから吹き始めたのか。もしかして最初から!、確かに最初から微風は感じてはいたがいつの間に突風を伴う 風になっていたのか。
二つの世帯・二つの家族の要に位置する僕だが、動けないしゃべれない僕に嫁さんはそして両親はどうする事を期待して いるのか、実際僕に何が出来るのか。一緒に家をで出て嫁さんや子供たちの自由を更に奪う(上の息子や娘は「当番の日を 決めてその日は早く帰ってきて僕の世話をするからやっていけるよ。」と言ってくれるが)、それとも「家族を捨てた」と 蔑まれても別居・離婚してみんなにもうそろそろ自由を返すか(当然僕は入れてもらえるところを探さなくちゃならないから 泣いちゃうほど寂しくてたまらなくなるのは分かっているが)。僕にいったい何が出来るっていうの。いずれにしても 別離宣言?!。
あれからまだ三日しか経っていないのに家の中のこの妙な落ち着き静けさは何?!。

7月4日 あわただしい日曜日
体調が未だに元には戻らず相変わらず肺が冷えるなと感じながら迎えた日曜日は朝からあわただしかった。
嫁さんは唯一?の生き抜きであるママさんコーラスの発表会があるとかで「あまり気は進まないけど参加する人数が 少ないから行かなくちゃあ。」と言いながら朝9時前に(いそいそと?)出かけていった。僕は10時過ぎから暇つぶしに パソコンをセットしてもらい、前日スキャンしてもらった高校生の娘の期末テストの数学の問題を見る。問題は微分の 起訴関連と指数・対数・それに関する方程式不等式関連の2種類でかなりごちゃごちゃした問題が多いなと感じた。 パソコンをしている僕の傍らには娘がいてくれたので安心だった。
午後からパソコンでホークスの野球中継を聞く。パリーグの試合は動画サイトもあるのだが、アクセスが集中するためか 動画がよくフリーズしてしまうので最近はほとんど音声配信を聞いている。今日はすこし身体がだるくしかも眠気も 襲ってきていたのでパソコンをしばらく止め野球の音声配信を聞く事にした。しかし今日も早い会に大量失点で負け試合、 聞いていて面白くない。今のホークスは先発不足。杉内・和田の二枚看板は何とか健在だが、後の試合は小椋・岩崎・ 山田・高橋・ダービンの新人で回しているがなかなかチャンを物に出来ず安定感がない。若手の奮起とホールトン・大隣・ 大場の復帰が待たれる。
4時過ぎテレビを点けてもらい「鋼の錬金術師・最終回」を見る準備、そして5時娘と一緒に「鋼の錬金術師」最終回を視聴した。 娘はわくわくどきどき興奮の連続だったが、僕はそれまでの「お父様」「フォムンクルスたち」との闘いが壮絶だったものだから こんなハッピーエンドの最終回も悪くはないなと思った程度だ。エドワードとアルフォンスは錬金術の新たな可能性を 求めて世界の東へ西へと旅立つ。唯一の懸念事項は「賢者の石」を使って蘇ったブラッドレー婦人の息子。でも エンディングのこれからの写真群中に戦いのシーンはなかった。マスタング大佐は大総統になれたかどうかは分からないが リンは清国の皇帝の座に着いた。そして映し出された最後の写真の中には、エドワード・ウィンディー・アルフォンス・ メイとそれに幼き日のエドとアルに似た子が写っていた。
嫁さんは5時前に帰ってきて「ママさんコーラス」の反省会があるからと子供たちの食事の支度を済ませ6時頃 出かけていった。事件は嫁さんの留守中に起きた。初めは息子たちのささいないさかいだった様だ。そこに通りかかった お袋が口を挟んだ事で大きくなり、その上に下の息子が本当に大事に飼い育てている金魚に上の息子やお袋が話を 飛び火させた事で火に油を注ぐ事になって下の息子の怒りは頂点に達した様だ。口の減らない下の息子は言葉で反撃して (ののしって)逃げた。お袋は息子を追いかける、まるで子供の頃僕が何かしでかした時追いかけ回していたお袋 そのものだ。そしてついに下の息子は泣きじゃくりながら僕の部屋のトイレに逃げ込み中から鍵をかけた。少し遅れて 何ともいえない形相をして僕の部屋に入って来てトイレのドアをドンドン叩きながら「出てきなさい。」と何回も大声で 言う、何でも息子がヘルメットをお袋の方に投げたそうだ。それからしばらく押し問答の後娘がなだめてお袋を部屋から 出し、おえつで過呼吸に陥っていた息子をまたもや娘が落ち着かせてトイレから出し、「落ち着いたら言いたい事を お父さんに全部話せ。」となだめた。二人きりになって下の息子が話した事は、「中学1年になってから兄ちゃんはおいばかり いじめる。友達ん家はそんな事ないのに、どうしてどうしておいばかり。」と。いくら破天荒なこの息子でもかなり悩みは 深い様だ。何とかしてやりたいが今の僕に何が出来る?。とりあえず「今回はお前が悪いから部屋の外からでもいいから 声を出しておばあちゃんにまず謝ってこい」と送り出した。後は息子二人に手紙を書いて僕の父親としての想いを ぶつけてみよう。
このところ我が家の家族の間で色々ゴタゴタが起きている様な気がしてならない。僕がもし元気だったら親父と田んぼに 行ったり海に巻貝取りに行ったり山に山菜取りに行ったりする時に僕は絶対息子たちを連れて行くだろうから、親父と 息子たちの間にもっとふれあいが生まれているだろう。また僕は親父と一緒に晩酌するだろうからそれで嫁さんと僕の 両親との間にも今よりもっと深いふれあいが生まれていたのかもしれない。どうして僕ら家族にだけこんな試練を 与えるのか?。

7月1日 今年もサクランボ来る
今日の午後サクランボが届いた。
もう何年になるだろう、会社時代の後輩からサクランボが来るようになって。会社を離れてもうまる10年が経った。僕の 所属していた事業場もすでになく、会社も親会社傘下の他のグループ会社・本社一機能部門と統合集散分離、もう僕では ほとんど知らない会社になっている。当時一緒に働いていた仲間たちもばらばらそれぞれの地域に散っていきまた 早期退職したさせられた人も結構いたようだ。そんな中で僕の事を未だに覚えていてくれてこうして毎年この時期に サクランボを届けてくれる後輩がいる。
何にも出来ない父親だけど、父にはそんな後輩・仲間もいた事を感じて子供たちはサクランボを食べて欲しい。 M君、ありがとう。


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6月30日 寝不足?で体調不良
夜中サッカーワールドカップに本体パラグアイ戦を見た後ほとんど眠れなかったためか朝から肺が異常に寒い、この異常は 寝不足から来ているのか。肺を温めるためには呼吸が浅くゆっくりに動く様にとにかく眠って呼吸器から肺に加湿器で 常に温められた空気が行くようにする他ない事は自分で十二分に分かっているのだが、パラグアイ戦の興奮が 残っているのか全然眠れなかった。もう僕の身体は睡眠導入剤がないと眠れない身体になり下がってしまった。薬に 依存しなければ生きてゆけない、情けない。


6月29日 サッカーワールドカップ対パラグアイ戦
ついに負けた。
惜しい場面は何度かあった、でもものに出来ず延長まで120分間戦いぬいてPK戦の末破れた。
しかし、日本は日本選手はよくやったと思う。あっぱれ!。
午後11時キックオフ、日本は立ち上がりからパラグアイに攻め込まれる。絶体絶命の危機が2度ほどあった。それを ゴールキーパー川島がそしてみんなが必死に守りパラグアイに得点を許さない。日本にもチャンスはあった。前半22分 松井がフリーでボールを受けミドルシュート、でも高地特有にボールが伸びてゴール上のクロスバーへ。せめてあと数cm 下だったら局面が変わっていたかも。本田にもチャンスはあった。前半40分松井からのパスをゴール左前で本田が受け ダイレクトシュート、ゴール左に外す。相手選手もマークしていたしワントラップは無理だったのか?。前半戦を0-0で 終了、だが0-0は日本には想定内。
後半戦は一進一退、途中松井に換え岡崎・阿部に換え中村憲吾を投入岡田監督は攻めの姿勢を見せるが攻めきれず。ここで 中村俊輔ではなく憲吾を投入したという事は俊輔ではパラグアイの動きにまだついていけないと判断したのだろう。日本は FK/CKのセットプレーやサイドバックからのクロスの攻撃などチャンスは何度も訪れたがパラグアイの堅い守備陣を 崩せなかった。一方のパラグアイにも効果的な攻撃は見られず、膠着状態のまま0-0で延長戦へ突入した。
延長戦に入ると日本とパラグアイは五部の攻撃、日本の攻撃はFKやスルーパスで何度かチャンスを迎えたが枠を外れたり キーパーの正面をついたりパスが上手く繋がらなかったりでチャンスをものに出来なかった。パラグアイの攻撃は 延長戦前半決定的なチャンスを迎えたがゴールキーパー川島が上手くブロックこぼれ玉もディフェンダー全員で 乗り切りそれからのパラグアイの攻撃は全員で潰した。延長も後半になると勝つチャンスがあるとすればもうPK戦しか ないかなと思えてきた。
そして運命のPK戦、5-3で敗れた。驚いたのはパラグアイの選手たちがすごく落ち着いていて少しも浮き玉を打ちそうな 気配がなかった事(日本選手はゴールの半分から上の高さを狙って打っている様なのに、パラグアイの選手は真ん中付近の 高さを狙っている様だった)。これではパラグアイの選手がPKを外す事はないな、ゴールキーパー川島がパラグアイの選手の PKを運良く止めない限り勝てないなと思った。それにパラグアイの選手は高地での試合にも慣れているとも思った。
それにしても日本は日本選手はよくやったと思う。楽しい時間をありがとう。

6月25日 サッカーワールドカップ・デンマーク戦
勝った。
昨日夜10時半に寝たが日頃と違って慣れない事をしたからまた3時半に起きれるか心配でなかなか眠れず苦労した。1回目に 目が覚めたのはまだ2時前、お袋におしっこを取ってもらっても一度寝た。2回目に起きたのは2時40分、もう寝れそうに なかったのでお袋にテレビを点けてもらってそのまま見る事にした。
3時半デンマーク戦スタート、僕の試合前の予想は日本の決勝トーナメント進出の確率は40%守りに徹すれば更に危ういと 思っていた。でも日本チームは前半から思っていたよりずっと攻めたてた。そして前半17分本田がまた前半30分遠藤が フリーキックを決めて前半を2-0で終えた。この時点で僕の確率は70%に跳ね上がった。
後半に入ると当然デンマークは更に積極的に攻め上がる様になってきた。そしてついに後半の36分日本のゴール前で日本が 反則を犯しFkから1点を取られた。けれど僕は残り10分強、今の日本の堅い守備の前ではいくらヨーロッパの強豪 デンマークでもこれから2点を奪われる事はあるまいとの安心感があった。そして岡崎の1点でそれは確信に変わった。
結局3-1で・・・勝った。これで決勝トーナメント進出、たいしたものである。次の相手は南米の強豪パラグアイ、 これまた強い(世界のベスト16なのだから当たり前か)。がんばって欲しい。

6月24日 サッカー観戦のため早く寝よう!
明日の未明3時半ごろからサッカーワールドカップの決勝トーナメントをかけた運命の一戦デンマーク戦がある。今日は 夜の経管栄養を早い時間に落として早く寝て未明に起きてみるつもりだが、果たして起きれるかどうか。それに明日は 通院日、寝不足で通院する事にならない様気を付けねば。
ともかく日本がんばれ!。

6月23日 散髪
最近目や頬に髪の毛が当たっていた痒かったから、今日出張理容「リリアン」さんに来てもらった。訪問リハビリが終わって しばらくして11時半にリリアンさん到着、リリアンさんはいつものKさんと昔勤めていた頃会社にいた人事の娘に似た サポートをしてくれる女性の2人、リリアンさんに初めて髪を切ってもらったのは健康老人施設にデイケアに行っていた 時だからもう10年ぐらい前になる。あの娘も会社勤めを辞めてもう随分経ったからあの女性も随分変わっているだろうなと サポートの女性を見ていてふと思った。
僕の髪に直接にはほとんど触る事のない嫁さんが「短くして。」と勝手な事を言うから僕は歯軋りをして異を伝えた。夏日に 入ろうとしていても僕は相変わらず肺・肩から胸にかけてが寒くて油断するとすぐ鼻詰まりになり連続してくしゃみが 出る様になって風邪の初期症状が出てくるのだ。この上髪を短くして頭からも冷えろと言うのかと。嫁さんは僕の歯軋りの 意を解して「いつも通り。」と言った。
それにしてもKさんたちはベッドに寝たままの僕らを上手く散髪するものだなといつも感心する。僕は鏡を見る事も 手で髪を触る事も出来ないからどういう風に散髪してもらったか分からないが、その後にケアに来てくれている 訪問看護師さんとヘルパーさんそれに家族も笑いをこらえている風には見えないからそれなりに上手く仕上がっては いるのだろう。リリアンさん、いつもありがとうございます。
散髪の後は入浴車、これもいつもの事。頭や身体の中に残った髪を洗い落とすため洗髪は入浴車の前にしてもらうと 決めているのだ。お風呂に入るとどこからともなく髪が出てきて顔にくっついて痒くなった。その痒い場所を入浴車に ついてくれている看護師さんに合図するのだがなかなか通じなくて困ってしまった。けれどお風呂から上がる頃には痒みも とれてさっぱりした。後はしばらく眠ろう。

6月21日 息子の中間テスト
今日から上の息子の前期の中間テストらしい。らしいというのは僕が6月の初めに中学校のホームページを見た時の記憶では 今週水曜からとなっていたと思うのだ、今となっては自信はないが。けれど嫁さんに「中学校の中間テストは今日から。」と 言われあわててホームページを開いてみると、ムムム、そうなっていた。???ナゼ、僕の見間違い!?。
今度の中間テストは上の息子にとって試金石、息子が2年生なっての勉強のやり方はこれでいこうと自分自身で考えて その成果が試される時なのだ。先週土曜日だったか息子に「中間テストの目標(数値)は?」と聞くとある程度上の方の目標を 口にした。自分自身で考え実行している勉強のやり方の自信の表れだろう。良い事だ。
息子に寄れば息子のやり方は教材中心、予習復習を教材を使ってやるという。中学生の頃教科書中心だった僕とは 大違いだがそれもいい、自分で考えたのだから。息子は2年生になってから毎日6時半前には学校へ行く、誰もいない朝の 学校でこの教材を使って予習復習をやっているそうだ。この前どういう教材をどう使っているかその内容を見たくて息子に 国語・数学・英語のまとめを解いたものを見せてもらったが数学は1月に一緒に勉強した時の僕のアドバイスを活かして 問題に対し良い解き方をしていた。こんな解き方が出来ていたら近い内に数学は得意科目になるだろう。国語もよく 出来ていたが良し悪しは国語が苦手だった僕には判断がつかなかった(僕自身が漢字を忘れている事を自覚させられたが)。 英語は何ヶ所か間違えた所があって訂正してあった。ただその間違え方が少し気になった。まあ自分なりの勉強のやり方を 確立して実践しているのだからそれなりに良い成績は残せるだろう。
まあもし中間テストでもうひとつの教科が出てくれば夏休みにでも上の息子と一緒にまた復習をやればいい。

6月19日 サッカー・ワールドカップ 対オランダ戦
いよいよ今日夕方サッカーのワールドカップオランダ戦がある。どうなるか日本が強豪オランダにどこまで迫れる(一矢 報いる?)楽しみだ。
日本が苦戦を強いられるのは間違いない。ボールの支配率はおそらくオランダが70%以上は支配すると思われるが、 日本の組織力でどこまで守りきれるか数少ないチャンスをものに出来るのか。FIFAランクから見てもオランダの実際の試合を見てもかなりの実力差があるのは間違いない。冷静な目で見たら引きわけも難しいだろう。けれどオランダは エースストライカーが怪我をしていて出ないという話もある。逆に日本にはカメルーン戦の勢いがある、選手個々に 勝ち点3を奪いたいとの強い気持ちもある。この強い気持ちを2時間持ち続ける事が出来ればいい試合になるだろう。また オランダの守備はあまり強くないという。チャンスはかなり少なくなるだろうが得点を奪える様な場面は何度かは必ず来る。 もし勝つか引き分けて勝ち点を取れば大金星、負けても1点差なら次のデンマーク戦にかなりの望みが生まれる。 何とかがんばって欲しい。
夜息子たちとサッカー観戦、強豪オランダ相手に 0-1 は実力差から見れば十分善戦したというべきだろう。前半は オランダの華麗なパス回しの前になかなかパスカット出来ず(まあ日本の頭の中に前半は 0-0 で折り返せは十分との意識が ありリスクを伴う様なパスカットはせず守備に徹しようとしていた様だったが)殆んどオランダにボールを支配されていた。 それでも日本は何度か攻め点を取ろうとしたが絶対的なチャンスは来なかった。
後半初めからオランダは少し攻撃の戦法を変えてきた様だった。パスを回して攻め上がるのではなくサイドからボールを 中に入れる戦法に変えた様に見えた。後半8分ゴール前の混戦からオランダ選手が後方にパスしたボールをエース スナイダー雅強烈なミドルシュート、GP川島は反応こそしたが弾いたボールはすごい勢いでそのままゴール右スミへ。 スナイダーをフリーにしたために決められた。その後オランダは攻めの意識が若干薄れ逆に日本は1点を奪い返そうという 意識が前面に出てオランダゴールに襲いかかったが点は奪えなかった。惜しいチャンスは何度かあったがゴールの枠の中に 決め切れなかった。前半も少し攻めたらとも思うが難しいところだ。日本のコーナーキック・ゴールに近い所での フリーキックが極端に少なかった事が日本の戦術を物語っている。また攻撃のために途中交替した選手が(岡崎を除く) ボールに絡んでいなかったのが気になった。中村俊輔の調子はまだまだの様だ。
さて次のデンマーク戦で勝ち点を取れば(引き分け以上)決勝トーナメント進出が決まる。前半からどんどん攻めて勝ち点3を 取りに行くかこれまでの2試合と同じ様に前半は守りを固めて少ないチャンスをものにするまた後半勝負で最悪引分け狙いの 作戦で行くか難しいところだ。でもデンマークは前半からがんがん攻めて勝ち点3を死に物狂いで取りに来るだろう。 その必死の攻めを攻めの意欲・姿勢なくして日本が守りきれるか。それも難しいだろう。やはり日本チームには攻めの 姿勢を忘れて欲しくない。デンマーク戦がんばって絶対勝ち点を奪って欲しい。

6月17日 管総理消費税アップを言及
夕方管総理から今年の夏の参院選に向けての民主党のマニフェストの発表がありその中で消費税のアップについに 言及したとの報道があった。それによると@2010年中に消費税・法人税含む税制の抜本的な見直し議論をやり結論を出す A税制の見直し議論は超党派で行いたい B消費税率は自民党の掲げている10%を参考にする C消費税を実際に アップする前には総選挙(衆院選)を行い国民に信を問う との事だったと思う。
確かに日本の借金残高はもうすぐ900兆円に迫りいずれ日本の国家財政は破綻する、それも数十年先の事ではない。 安定財源である消費税のアップは解決策への必要かつ十分な近道だろう。だけどその前にやるべき事があるでしょと 言いたい。@どうして国と地方の借金がこんなに膨れ上がったのか、その総括。よく景気が落ち込むと政府による 景気浮揚策・財政支出を行えと言う政治家・学者・評論家がいるが借金までして景気浮揚策を打つ事が本当に正しいのか。 財布がすくなったらその中身なりのやりくり(選択と集中)をすべきではないのか。景気対策で景気が回復しても借金を 返した(国債発行を極端に抑えた)という話は聞いた事がない(小泉内閣の時に国債発行額を30兆円に抑えたがあの時でも 国の借金は増えていた)。また景気浮揚策の中身も適切だったのか。 A税金の無駄使いはなくしたのか、目に見える様な 形で税金の無駄使いを無くそうとしている過程を示すべき。 B国家財政が危機的状態にあるのだから、国家公務員の 総人件費の削減・国会議員の議員定数の削減が先なのでは。 Cたとえ消費税をアップしても自民党も民主党も消費税は 社会福祉目的に限定すると言っているのだから今の様な税金の再配分の仕方で日本の借金が本当に減るのか、プライマリー バランスをゼロにするのがいいところではないか。国の借金をどうやって減らすのか政府はその筋道をはっきりと 示して欲しい、そうでないと結局は消費税の大幅アップで国の借金を穴埋めする事になる。
今回はまだ民主党の参院選のマニフェストを見ていないからはっきりとは言えないが、民主党もまず次の事をすべきと思う。 @去年の衆院選で国民に示したマニフェストの検証。何が実施出来たか、今取り掛かっているものは去年マニフェストで 示した進捗表と比較してどうなっているか遅れているものは改めて今後の進捗表を示す、マニフェストから修正するものは その原因と理由及び修正内容 A無駄の削減がほとんど進んでいない様に見える B国家公務員改革に今も本気で 取り組む気があるのかな?
今の民主党政権なら公務員改革も無駄の削減も進まないまま3年後に消費税アップを掲げて衆院選を戦っている様な 気がする。その時我々は同じ様に消費税アップを掲げる自民党とどちらを選べばいいのか!、無駄を削減した後消費税を アップするという受け皿になる政党が出てくるのか。それとも投票する政党がないまま無効票を投じよというのか!。

6月16日 通常国会閉会
今日民主党政権による初めての通常国会が終わった。でも民主党政権はこの9ヶ月間何をしたのか。税収見込が37兆円しか ないのに92兆円強の予算を組み、マニフェストで国民に表明した事で実現させたのは世間受けする経済対策か子育て支援か はっきりさせない高校授業料無償化と子供手当て、それに農家個別補償制度(一部地域:減反など色々な制約があるらしい)と 一部地域における高速道路無料化。僕ら国民は子供手当ては子育て支援対策の一部として時間をかけて検討して 欲しかったし何より小手先ではない公務員制度改革に手を付けて欲しかった。
それにしても国会閉会前のゴタゴタはひどかった。管総理・管内閣の誕生に民主党の支持率が一時的にV字回復したからと いって巷でいわれているように支持率が高い内に参院選やってしまおうなんて「取らぬ狸の皮算用」でナンセンスだ。 国会において開かれた場で議論を展開しようという姿を管内閣が見せる事により初めて支持率が維持出来るのである。 確かに2週間程度国会を延長しても郵政改革法他主だった法律は成立しないだろうしまた短時間の議論で国民生活を大きく 左右させる様な法律を成立させるべきではない。けれど国民に管内閣の真摯に議論姿は十分見せられるではないか。 これでは選挙至上主義の小沢氏と何ら変わりない。尤も民主党及び民主党の責任ある立場の人たちが今の内容の 郵政改革法案は廃案にしたい・二回目の検察審査会で小沢氏の起訴相当を願っているのなら別だが。
さて7.11参院選はどこに投票すべきか。国民目線の改革を忘れた民主党に投票したくはないし、かといって他に支持する 政党もない。落胆と抗議の白票かな。

6月15日 W盃サッカー、日本カメルーンに辛勝
(日本時間)昨晩行われたサッカーワールドカップ南アフリカ大会初戦対カメルーン戦で日本は何とかカメルーンに勝った。 日本国内でも日本代表の下馬評が良くなかった分メディアは一日中ある種の驚き?と共にこぞって日本の辛勝を伝え 勝利に湧いた。
勝因は組織的で堅い守備が出来た事とカメルーンのスーパースターエトーにほとんど仕事をさせなかった事・みんながよく 動いていた事と少ないチャンスを本田はじめ攻撃陣がよく決めてくれた事だろうか。ただ僕としてはミドルシュートをもう 少し打って欲しかった。前半はがちがちの守り合いでカメルーンも積極的には攻めてこなかった。そんな中で前半39分 松井・本田・大久保が連係プレイで1点をもぎ取った。後半10分過ぎからはカメルーンの怒涛の攻撃が始まった。ボールの 支配率は日本は後半40%にも届かなかっただろう。それほどカメルーンの攻めはすごかった。それほどの怒涛の攻撃に耐え 日本チームは勝ち点3を勝ち取った。
この勝利で日本の決勝トーナメント進出への道も少し開けてきた。もし負けなければ決勝トーナメント進出、 最小得点差による一敗一分けでも大きな可能性がある。立ちはだかる強大な壁はオランダとデンマーク。特に19日の オランダ船が鍵を握る。FIFAランク4位のオランダは強い。選手ここの力の差は大きい。それを日本の組織力でどれだけ 縮めることが出来るか。けれど守備一辺倒になった日本はもろい。隙あらば切り込むの攻撃的守備でがんばって欲しい。 ベスト4を狙うと豪語するなら全員が勝つつもりでいかなくちゃ。

6月11〜14日 発熱・体調不良続く
昨日(10日)病院から戻ってきたのだが掛け物の調整で悪戦苦闘が続いた。肩にバスタオル(縦二重折)で肩当をして広めの 布団をかけると汗ばむ、小さめの布団にすると背中が寒い。病院では広いタオルケット(横二重折)とこの小さめの布団の 組み合わせでまかなえていたのに。帰った途端難しい局面、結局少々汗ばんでも風邪引くよりましと広めの布団を選択、 夜まで無事過ごした。
ところが些細な事に腹を立てていた僕は睡眠導入剤を服用せず就寝、夜中あまり眠れずに過ごした。そして朝5時過ぎお袋を 呼んでパソコンを始めた。ところがパソコンをやり始め呼吸量が大きくなって人工呼吸器から送られてくる空気の加温が 間に合わなくなったため、肺から上半身が冷えだした。あわててお袋を呼んでまず小さめの布団次バスタオル挙句の果ては 首にタオルのマフラーまでしてもらったが後の祭りで悪化の一途。これなる事態は予想できたのに就寝時布団を 追加しなかった僕の大きなミス。ここまで身体が衰えている事も合わせて自分ながら情けなし。 この身体いつまでもてる事やら。
まずこの日の入浴車を中止にしてと嫁さんに伝える。嫁さんは入院中にお風呂に入れなかった身体を綺麗にしてあげようと 頼んでいたのにと不満顔だが仕方がない。ついでに訪問リハビリも止めると言う、それだけ体調は悪いのだとアピール。 10時半看護師さんが来田の出「今日は体調が良くない」と告げ検温してもらうと36.8℃と少し高めだがたいした事はない。 僕としては肺(呼吸するの)が結構きついのでもっとあるはずなのだがと不思議顔。今から上がるのか!。それから髭剃りと 洗顔をしてもらい最後にも一度検温してもらうと37.1℃。上がってはきている様だったので「熱冷ましも入れる」と嫁さんに 伝言を託した上で「午後の車椅子(移乗)はなし、着替えをしに来て」と依頼した。
午後1時前風邪薬と熱冷ましを服用、その前に嫁さんに熱を測ってもらうと37.7℃、そうだろうそれくらいはあるはずだと 僕は思った、まあ得意?がっている場合じゃないが。ところが熱冷ましを使っているのに僕の身体に起こる状態変化が いつもと全然違った。汗の出が悪い(今までなら汗が全身からドバーっと出ていた)、肺のきつさがなくならない、小便が 異常に近い(所謂頻尿)、眠くなるはずなのに逆に覚醒している、お腹が空腹時の様にグーグーなって不快。いつもと 違い過ぎておかしいとは感じたが風邪薬を同時に服用したためと思う事にした。でも「訪問看護に着替えの時間を遅らせて 欲しい、汗の出が悪いから」と電話して頼んだ時、電話の向こうで膀胱炎という言葉が出たので妙に気になった、僕の 最近の経管栄養の後短時間の間に何度もおしっこがしたくなるのはもしかしたら僕も膀胱炎なのかと。夕方ドバーっとは 汗をかく事もなく気分ももうひとつだったが訪問看護師さんたちに着替えをしてもらった。夜の経管栄養の時にもう一度 熱冷ましを入れてもらったがまた目が覚めてきたし汗もあまりかきそうになかったので、娘を呼んで「今回の熱冷まし なんかおかしい、眠くならなくて目が覚めてくるしあせももひとつ出ないし」と嫁さんに伝えてもらった。そしたら 嫁さんから「今回使っている熱冷ましはかかりつけの先生に処方してもらったカロナール、今までのは病院で 処方してもらったロキソニン、カロナールは軽い薬だからその違いかな。」と説明を受けた。でも同じ熱冷ましで これ程効果が違うとは参ったな、呼吸器を着けている僕にはカロナールは合わない様だ、肺が楽にならないから。
昨日から身体が少し楽になってきたがまだまだすっきりとはしない。こんな感じじゃ今に肺炎を繰り返し、 その内に・・・・・。

6月8〜10日 胃ろうチューブ交換のため入院
今回は二泊三日入院して胃ろうチューブ(胃にお腹から直接挿入されている部分)の交換。普通胃ろうチューブは半年〜1年で 交換するらしいが、僕は(たぶん)去年の3月末に交換したからもう1年以上経っていた。実は前回ゴールデンウイークを 挟んでレスパイト入院した時についでに胃ろうチューブも交換する予定だったがちょっとした手違いで今回に 延期になった。
交換する日(9日)の朝はやはりちょっと嫌な感じだった。午前9時前主治医・看護師さんたちに見守られながらベッドごと 内視鏡室へ向かう。内視鏡室に入るともう準備は万端、執刀医?・内視鏡(胃カメラ)担当医師・看護師さんが 待ち構えていた。まず胃ろうチューブ交換、抜け防止のバルーンから水を抜きチューブを抜き取り新しいチューブを 挿入してバルーンに水(生理食塩水?)を入れる。その間30秒ほど。前もってバルーンに水を挿入して膨らみ方を確認する 様子を見ていたが、胃の中で結構大きいのが膨らんでいるんだなと思った次第だ。次はいよいよ運命の胃カメラで 胃ろうチューブの入り具合を確認する時間。肩に胃カメラ用の注射を打たれ身体を左向きにして(僕の苦手な方)それから マウスピースを装着しようとするが病気で数年来使っていない僕の口は容易に大きくは開かない、元々開きにくいと 分かっているのだから仰向きの時にマウスピースを嵌めてそれから横向きにすればよかったのに(横向きじゃ口は余計 開かない)と思う僕。すると「無理なら鼻からしよう。」と言って切り替え準備をする内視鏡の医師。それからまもなく光る 頭を持つ黒い子蛇が僕の右鼻の穴から入れられた。親蛇の半分以下の大きさの子蛇なのになかなか僕ののどや食道を 入って行かなくて結構痛い。使っていないからのども食道もこんなに縮んだのかと情けなく思う僕。まもなく胃に到着。 胃の中の胃ろうのバルーンの膨らんだ様子がモニターに映し出されたら「はい、抜きます。」と言って子蛇を抜く医師。 そしてベッドは内視鏡室をあとにした。結局内視教室にいたのは10分ぐらい、簡単なものだ。こんなんならわざわざ 入院にしなくても外来で対応してよかろーもんと思う僕。
病室に戻るとたくさんの看護師さんが「痛かった?。」と聞いてきた。胃ろうチューブの交換はあっという間だったし別に 痛くはなかったが胃カメラはやはりいつも通りの違和感と痛みを伴っていたから曖昧な笑いで答えた。参ったのは夜勤の 担当看護師から「これから昼の分と夜の分2回分の経管栄養を注入する様に指示が出ている。」と言われた事。もう夕方 5時なのにこれから2回に分けてでも500ml×2回=1000mlも胃の中に入れるのは無理、初めから3回入れると 決まっていたのなら内視鏡室に戻ってすぐに経管栄養を始めればよかったのに。だから「1回しか入れない」と言った。
そして今日二泊三日の入院を無事終え家に戻った。

6月5日 久し振りの指数・対数・三角関数
先日娘の数学のテストや課題を見せてもらったら指数や三角関数・対数の問題が出ていたので久し振りに考えてみた。
指数は基本は思い出したが、マイナスの指数や分数の指数の問題は高校時代に見た記憶がない。けれど足し算の指数や 掛け算の指数は覚えていたのでそれから考えてやり方を推察したり実際に簡単な数字を指数に当てはめて(頭の中で) 試みてみたりして計算してみたりしてようやくマイナスの指数は分数に・分数の指数は○√になると理解出来問題の答も 何とか見えてきた。
三角関数は、頭の中に直角三角形を思い浮かべてどの辺をどの辺で割ったらそれぞれsin/cos/tanの値になるのかと 正三角形の真半分の直角三角形の辺の長さは2・1・√3になりまた二等辺直角三角形の辺の長さは1・1・√2になる事を 思い出し、30°・45°・60°のsin/cos/tanの値を導き出すという三角関数の基本中の基本は思い出したが、 それ以上の事はさっぱり。そこでGoogleでsin cosと検索すると、加法定理・・・・・正弦定理・余弦定理と公式の オンパレード。でもどこかで見た事があると懐かしい気がしてついつい先をクリックしていた。それにしても インターネットとは何と便利なものだ、昔ならどこかにある高校時代の数学の教科書をほじくり出してどこに 書いてあるかと探さないと見られない、こんな病気の我らならとうに諦めて投げ出していたところだ。
対数logに至っては問題を見てもピンとすら来なかった、記憶の底をひねり出してようやく指数関数をχについて 解いた形だったなと思い出した程度。そこでまたもやGoogleで対数と検索したところ<>logに関するいくつかの 公式とその証明方法が出てきた。その内容を読んでいてそういえば昔やったなと思い出した次第だ。
懐かしの数学のテスト問題、2-3日かけて娘の役に立つかもと何とか解説入りで解いていたが、最後の最後に来てあと1問が 1週間かけて考えても解けなかった。それで情けないと感じながらも仕方なく娘に模範解答を読んでもらった。すると・・・ 三角形の頂点から辺に下ろす垂線の下ろし方が違ったのだ。ただそれだけの違いでこんな解き方が出てくるとは、 数学も難しい。

6月4日 管内閣総理大臣誕生
鳩山総理の時荷を受けて民主党代表戦(すなわち=次期内閣総理大臣)に大本命の管氏と樽床氏(恥ずかしながら僕は 存知あげてなかった)が立候補し、11時からの民主党国会議員による代表戦・午後からの国会両院による首相指名選挙を経て 管新総理が選ばれた。僕とてしては反小沢で物事をはっきりに口にする真の通った政治家の様に僕には見えている前原氏 及び反小沢の急先鋒仙石氏や枝野氏に立候補して欲しかったが管・樽床両氏以外はみんな立候補を回避した。 それにはどんな意図あるいは思惑があるのか。田中真紀子代議士は「選挙管理内閣」と言っていたが、7月の参院選の 結果如何では連立組み換えや小政党党首への頭のすり替え(総理大臣交代)もありうるかも。参院選で大幅躍進が 期待されている「みんなの党」は民主党の政策を「バラマキ」と反発しているので連立協議は難しいが、子供手当て・ 高校授業料無償化を子育て支援と確定してしかもみんなの党党首渡辺氏を総理最低でも副総理として迎えれば連立は 可能かも、ただ郵政民営化改革法の審理・裁決が終わっている事が前提だが。
マスコミの論調はこぞって「小沢一郎」中心。民主党代表戦の前までは小沢グループが候補者として誰を立てるか誰を推すか (最終的には自主投票になった様だが)、首相指名選挙の後は幹事長や組閣人事でどれだけ脱小沢色を出せるかの 話題ばかり。民主党内で江沢一郎氏の大きさを改めて思い知らされた。民主党に小沢一郎氏が留まっている事ははたして いい事なのだろうか。

6月2日 入道雲?と蛍
僕のベッドからは中々外は見えない。でも今日入浴車の時浴槽に移動する際窓から空が見えた。そこにはもくもくとした 入道雲(まだ6月初めだからみたいな物というべきか?)があった、まだこの時期なのに!。
夜今度は嫁さんが蛍を捕まえてきてくれた、少し前から我が家の周り(溝あたり)で見かける様になったという。部屋の 灯りを消して暗くすると蛍が嫁さんの手を離れて淡い黄緑の光をはなちながら飛び回った。昔よく見た風景だった。 本当は外に出て真っ黒な自然の空間をたくさんの蛍が自由に跳びまわる情景を見てみたいが、無理な話しか!。
入道雲もどきといい蛍といい夏の訪れを告げるもの、また暑さで悩む時期が来るのか。

6月2日 鳩山総理大臣辞任
午前10時前突然鳩山総理辞任の一報が日本列島を駆け巡った。10時からの民主党緊急両院議員総会の席で鳩山氏は 総理辞任の理由を二つ挙げた、@普天間基地移転問題決定の過程での迷走A総理自身及び小沢幹事長の政治と金の問題。 でも国民の心が民主党から離れていった要因は果たしてそれだけだろうか。
確かにこの二つの問題は大きなウエイトを占めているだろう。けれど政権交代したら改革が目に見える形で一歩ずつでも 進むとの期待を大きく損ねているところがずっと大きいと僕は思う。92兆の今年度予算の立案(税収見込み37兆に対して)・ 遅々とさして進まない公務員改革(給与法は先送り)と天下り根絶・民営化の主旨とは逆行しているかの様に思える 郵政民営化改革?(ユニバーサルサービスの維持と今回の会社組織の変更や預け入れや保険料の限度額の上積み変更と 具体的にどう関わってくるのかの説明は一切なし)・予算の大きいところの無駄の削減には手をつけようとしているの?・ 小沢氏主導の地域誘導型道路建設推進(参院選等選挙の票を地域への公共事業の配分と引き換えに買おうとしていると 見える)。これらが国民の政権交代したら政治が大きく変わるとの期待を裏切ったと国民がみなしたいや鳩山・小沢民主党が そう思わせたのが支持率急落の大きな要因だと僕は思うのだ。
鳩山総理はいずれ「普天間基地問題を5月末までに必ず決着させる」との発言の責任とって辞めると僕は見ていたから このニュースが流れてもやはりと感じた程度だ。しかし驚かされる事が別にあった。それは@小沢幹事長をよく道連れに したなあという事Aその小沢氏の政治倫理審査会がまだ開かれていなかったという事(このまま小沢氏が国民に対して 説明しようとしないなら、検察審査会の本来の意図には反すると思うけど二回目の起訴相当が出ても仕方ないな) B野党発言の変わり身の早さ、だ。前日までほとんどの野党が「鳩山総理は普天間発言の責任を取って辞任か 内閣総辞職せよ」と声高に唱えていたはずだ。それなのに鳩山総理辞任の報道が流れた途端「参院選に向けて表紙の 差し替えだ」と一斉に騒ぎ出す、全く日本の政党は節操がない。
こんなことでは本当に現在及び将来の国民のための政治を行ってくれるのはどの政党の誰なのか迷ってしまう。今度の 参院選、地方区も比例区も「該当者なし」とあえて無効票で投票しようかな。


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5月
5月31日 小学校運動会
昨日下の息子の通っている小学校で運動会が行われた。昨年までは小学校の運動会は9月20日前後の開催だったのだが 今年から5月末での開催、いったい何故だろう・5月末に運動会をするメリットはいったい何があるのか?。一般に 新社会人や新大学生の間では昔から「五月病」があり昨年まで生活を懐かしむあまり仕事や講義に身が入らないというのが あるがその「五月病」が弱年齢化しているとでもいうのか、5月に運動会を全員一致協力してやる事により甘えや緩みかけた 気分を一新しようとでもいうのだろうか。ちなみに僕らの小中学校の運動会は10月中旬、昼休みに食べる秋の果物や マタガシ(木の実)は美味しかった(お弁当のいなり寿司・巻き寿司・おかずはいうに及ばず)。
運動会の前日(一昨日)下の息子を呼んで「(運動会は)何に出るか?」と聞いたところ「徒競走(100m)。」と、他にもレク走・ 大山ソーラン・応援合戦などに出るはずなのだが、僕には話さない息子なのだ。「(徒競争は)何番になる?」と聞くと 「4番かな。速いのが2人いるし背の高いのがインコースなんだよ。(おかしいよ。)」との答。それで「コーナーに向かって 一直線に走れ、3番になれ」と告げた。「一応がんばる!。」と息子。
昨日の朝7時過ぎに「行ってきます。」と下の息子は出かけて行き、嫁さんと娘も10時半過ぎに運動会の応援に行った。 家の中はガラーンと静かになった。そして・・・夕方になっても息子は僕のところへ顔も出さずまた学校から帰ってきた 気配さえなかった、おそらく運動会後の地区のカレー会(お疲れさん会&反省会)へでも行ったのだろう。それで夜 この息子を読んで「と競争どうだったか?」と聞くと「3番。」とひと言だけ、僕は「そうか、よくがんばった」と付け加えた。 そのひと言で部屋を出て行こうとした息子に「他は?、応援合戦は?」と聞くと、「別に、どうだったかな?。」と相変わらず 話したがらない息子であった。
今日朝とお昼に嫁さんに下の息子は代休だと思って「(下の息子は)どうしてる?」と聞くと「もうとっくに遊びに 行ったわよ。」と呆れ顔。夜になってもう一度嫁さんに「どうしてる?」と聞くと「2階で運動会の作文を書いてる。」との事。 息子がどんな作文を書いているのか楽しみだ。聞かせてくれるかな!?。

5月28日 恥ずかしながら息子の誕生日を忘れた!
嫁さんが「今日は何の日か?。」と問うたが僕には何も思い当たらない。強いてあげれば10年前の今日あたりついに職場を 離れ在宅療養に移管した日だと思う。僕にとっては非常に感慨深いだが、嫁さんにとって僕の退職は(書類上)9月末日なので こんな中途半端な日を覚えているはずがない。
それでは何、5月28日もうすぐ5月も終わりかと思ったところで上の息子の誕生日が過ぎてしまっていた事を思い出した。 誕生日に僕に出来る事といえば誕生日のその日に「おめでとう」と告げる事だけ、それなのにその誕生日の日を 覚えていなかったとは自分でも情けなくて情けなくて本当にすまない。いくらか言い訳をさせてもらえば、この息子が インフルエンザにかかり僕のところに中々顔を出さなかったから気になっていた事と僕には日にちはいつもよく 分からないのだ(曜日はよく覚えているが)。でもこの時はサッカー日韓戦が24日だとずい分予告が流れていたので日韓戦の ある日が24日だとは覚えていたが。
夜上の息子を呼んで「すまん、インフルエンザが気になっていて誕生日を忘れていた」と謝った。「何か欲しい物が あるか?」と聞くと「何もない。」と。この息子の満面の笑顔が見たい、息子が満面の笑顔を見せるのはどんな時かなと ふと思った。

5月28日 通院日
今日は通院日、社協の二人(リフト車に同乗)は10時40分着と相変わらず早い。事前の準備は清髭洗顔だけなのだから 10分もあれは済むと思うのだがバタバタしたくはないとの社協の体質か?、その割には「訪看さんは少し遅いね。」等と 呟いたりしているが。11時半過ぎ首と足に装具を着け車椅子に人工呼吸器を装着し車椅子に移乗させてもらってリフト車に 乗り込んだ、リフト車に乗り込むまでのTotal時間も随分短くなったと思いながら。
隣町に入るとリフト車の車窓からは薄い黄金色に色付いた麦やもうそろそろ田植えかと思える様な田んぼが見えてきた。 今年は冷夏との天気予測が流れているから少し気になるところだ。
病院に着き主治医が救急処置室に入ってくるとまず胃ろう交換入院日の決定、当初予定通り入院は6月8日-10日と決まる。 10日にはカニューレ交換もやるそうだし排便と忙しくなりそうだ。診察と処置が済み帰りのリフト車の中では入浴車の スケジュール調整の話し、個人的には2日後の土曜日には洗髪・清拭もあるし僕としてはあまりこだわっていないのだが みんなは盛り上がっていた。

5月25日 息子回復
今日からインフルエンザにかかっていた上の息子が1週間ぶりに学校へ行った。下の息子が去年インフルエンザに かかった時は4日目から家の中をうろうろしだして僕の部屋にも顔を出したが、上の息子が顔を出したのは6日目。二人の 基礎体力の違いが出た感じだ。
その息子がクラブ活動にも参加して夕方遅く帰ってきてすぐ僕の部屋に「ただいま。」といつもの挨拶の顔見世しに来たので この息子を呼び止めて「1週間ぶりの学校はどうだった?」と尋ねると、「1間目が体育だったのでしんどかった、ずっと 寝ていたから。」と。その割には放課後クラブ活動をこなしてきたのだから大丈夫だろう。「勉強には付いていけたか?」と 聞くと「予習していたところだったから。」と。これでは僕の出番はないな。上の息子も完全復活?。

5月24日 サッカー壮行試合、日韓戦
ワールドカップ南アフリカ大会日本代表の国内最後の走行試合・韓国戦が今夕行われた。ひと言で言って完敗だった。 日韓の間にこれほどまでに力の差があるとは思っていなかった。特に前半、韓国が大部分ボールを支配していた。日本が 攻め込む場面は前半にはほとんどなかった。いつの間に日韓間にこれ程までの力の差が出来たのか、以前は日本には必ず 勝つという韓国選手個々に気迫の差は感じられたが力の差はこれ程なかったと思う。
さてこのような状況の中ワールドカップ予選リーグを日本はどのように戦うか。今更戦術やフォーメーション云々を 言い出しても始まらないから選手が組織的かつがむしゃらに常に走ってスペースを作り それを生かす攻撃をしていくしかない。

5月24日 介護保険調査
今日の午後介護保健の要介護度の認定に変更がないかの調査が入った。僕の病気はALS、現時点での医学では病状や 重度障害が時系列と共に回復する事はなくむしろ悪化していく事が明らかにされている病気だ。今日調査員が調査に 来る事は嫁さんから事前に話しがあって承知していた。
部屋に入って来た介護保険調査員の第一印象、笑顔が作れないタイプで暗い、外回りに適したタイプには見えなかった。 こういう調査をする人はまず笑顔で接して相手の緊張を和らげるものなのにああいう仏頂面をしていては心を開こうという 気にもならなかった。その上話を聞くと規程に従って杓子定規に80問ばかり質問していくから答えてとおっしゃる、 どうやって!。文字盤でひとつひとつ嫁さんを介して質問に答えろというのか、それともパソコンでいちいち 入力しろとでも。だいたい今の僕の状態を見ればほとんどの調査項目の答を推察出来る筈だ。だからよく分からない 項目だけ調査すればいいはずなのに。あんな杓子定規な調査員なんて僕は嫌いだ。そんなかんなで介護度確認調査員の話を 聞いている内に僕はだんだん苛々して腹が立ってきた。
そこまでいうなら総ての調査項目にパソコンで入力してひとつひとつに答えてやると「早く(質問)しなさい」と促し、最初の 質問に自分の姓名を1分以上かかって入力したところで僕の徒労を初めて垣間見て「どんなに努力されているかよく 分かりました。後は奥様に伺わせていただきます。」と別の部屋に移って行った。
僕がこの調査員を気に入らなかったの安易な言葉遣いのせいではない、田舎での親しげな言葉遣いは多くの場合互いの心を 和ませる。だけど僕はこの調査員から相手の病気を思いやる気持ちのなさ・雰囲気を嗅ぎ取ったのだ、ALSという病気の 知識の事前にほとんどインプットする事もなくただ調査件数ノルマを果たすだけ、僕はそう感じた。 難病在宅療養者宅ぐらいは役場の担当職員が赴いて実情や意見を調査すべきではないか、めったにお目にかかる事は ないのだから。

5月23日 車椅子マラソン
昨夕から激しい雨が降り続いているというのに今日は我が町でセラミックロード車椅子マラソンが開催される日。雷が 鳴らない限り雨天決行という事で娘は朝早く出かけていった、高校で写真部に所属しているという彼女は写真係の 一人として借り出されたらしい。風邪など引かねば良いのだが。
このセラミックロード車椅子マラソンは結構以前から開催されている様で本格派車椅子ランナーも参加している。僕も 9年前に一度見に連れて行ってもらったが競技用車椅子のものすごい速さに驚いたものだ。そして懸命なすごい努力をして 競技用車椅子を操れる様になった選手たちが羨ましかった。僕もこの時来年は500m(介護者付き)に出てみたいと思ったが 言い出す勇気がなかった。
夕方6時ごろ帰って来た娘を呼んで「どうだった」と聞くと「雨がひどかった。この雨では写真が上手く撮れたかどうか? (不安)。」と。けれと車椅子マラソンは無事終了し歓迎バザーなどは体育館で行われたそうだ。雨には降られたが我が町の いくつかの催しのなかのひとつ「セラミックロード車椅子マラソン大会」が無事終わってよかった。インフルエンザが 流行っている中学校の生徒たちが今年の車椅子マラソン大会の応援・ボランティアとして参加できなかったのは 残念だったが。

5月21日 検察が小沢幹事長を不起訴
今日の夕方「検察が民主党小沢幹事長を不起訴」という報道が流れた。よほど新しい証拠が見つからない限り僕は そうだろうなと思っていた。しかし2回目の検察審査会はどうだろうか。小沢幹事長は国民に対して未だに説明責任を 果たしていない。政治倫理審査会に出るという事だが小沢氏がどう説明するか野党がどう追及するのか見ものなのだが、 政治倫理審査会ではたとえテレビで公開されたとしても多数の国民の理解を得るのは難しいだろう。
さて2回目の検察審査会のメンバーが検察の決定や政治倫理審査会をどう判断するのか、証拠不十分による無罪判決が 推定される中それでも裁判という最も公の場で国民目線の質問に対して小沢氏に答えさせるのか、見ものである。

5月21日 左脚付け根にまた痛みが・・・
左脚の付け根の内側にまた痛みが出てきた。ただ3週間(レスパイト入院)前と異なるのは痛む患部が少し前(表)に 出てきた事と痛みの度合いが前よりも強いって事か。何せ痛みが残っていると車椅子移乗の際訪問看護師さんたちに (装具を着け)立たせてもらった時に左脚から一瞬力が抜けたもんな。しばらくは左ひざや脚を内側にひねるリハビリや 左ひざを内側の方に向かって曲げるリハビリをしてもらうのは止めておいた方が良さそうだな、そうした行為をすると 痛みが走るもんな。

5月19日 息子がインフルエンザ!
昨日上の息子が珍しくいつもよりずい分早く帰って来た。「どうした?」と聞くと「今学校でインフルエンザが流行っていて 部活が中止になった。3年生では(生徒が)10人以上休んでいるクラスがある。」との答が返ってきた。その際少し咳を していたので気になっていたのだが夕方嫁さんが体温計を取りに来たので嫌な感じがしていた。
そして今朝はその息子が挨拶に来なかったので「(上の息子の)熱は?」と嫁さんに聞くと「38℃。」と。それほど上がっては いない様だったのでただの風邪かなと一縷の望みをかけていたのだが、昼前に息子を病院に連れて行き戻ってきた嫁さんに 「B型か?」と聞くと「インフルエンザ?、そう。しばらく(ここへは)出入り禁止ね。」との答。やっぱり。上の息子は他の 姉弟ほど体力がないし喘息持ちだから少し心配が大きいのだ。これで息子はまた1週間の勉強の遅れを気にするのかな。
ちなみに僕が息子のインフルエンザをB型と聞いたのは4週間ほど前のかかりつけの先生の訪問診療の中で「今中学校で インフルエンザのB型が出始めている」との話題が出ていたから。もしかしたらこんな時期に応援合戦や騎馬戦・綱引きなど 集団競技のある体育祭をやったからインフルエンザにかかる生徒が増えたのかもしれない。体育祭を秋まで延期するという 英断が必要だったかも。

5月16日 中学校体育祭
今日は息子の通う中学校の体育祭の日。今日体育祭がある事は僕には誰からも知らされる事はなかった、一昨日 訪問リハビリの先生と嫁さんとの会話の中で「今度の日曜日が我が町の中学校の体育祭」との話しが出てきただけである。 そこで昨日上の息子(中学生)を読んで「明日が体育祭?」と聞くと「そう。」、「何に出る?」と聞くと「100mとレク走と リレー。」との答が返ってきた。昔は小学校高学年から全員200mを走らされていたのに今は100mが必須で200mや1500mや リレーが選択だそうだ。どう判断すべきやら、200mが必須でいいと思うのたが。
朝出かけようとする上の息子を呼び止めて「がんばれ」と声を掛けた。嫁さんも10時過ぎお弁当を持って出かけていった。 ところが11時頃から少し息苦しさを感じる様になってきた。一度は嫁さんを呼び戻そうかとも思ったが娘に色々指示し 対処してもらって嫁さんを呼び戻すまではないと感じれる様になったので、一応嫁さんの携帯への「呼吸が少し苦しい  いつ帰れる?」とのメールを用意しておいた。
ところで下の息子は中学校の体育祭にはほとんど興味はない様だ。そういえば僕が小学生の時中学の体育祭なんて 行こうとは思わなかったものな。
夕方6時過ぎ嫁さんもさすがに今頃は帰って来ているだろうと娘に「少し息苦しい」と伝えてもらった。そして痰の吸引・ 人工呼吸器の確認・アンビューバッグによる呼吸補助をしてもらったのだがあまり改善したとは感じられなかった。そこで 「タッピングをして」と頼むと嫁さんは僕を横向きにして背中を叩たいてくれた。嫁さんがいない時に呼吸器が おかしくなると本当に困ってしまう。かといって「ずっと側にいてくれ」と駄々をこねる訳にも行かないし(本当は「いつも 僕の見える所にいて!」と言いたいのだが、だって嫁さんが傍にいてくれるだけで安心出来るしそれにやっぱり 嬉しいんだもの)。

4月30日〜5月14日 レスパイト入院
世の中が連休・連休と騒がしい時に今年も僕は例年通りレスパイト入院。
入院中の出来事・気付いた事、@今年も3月の人事異動の折いつも入院している病棟から僕が顔見知りで心を開けるかなと (一人で)思っていた看護師3人が病院を去り(この3人がいなくなるとは想像だにしていなかったから大ショック)5月末の 人事異動でまた1人変わるとの事。別れは世の常とは分かってはいるがまた心を開ける(と一人で思っている)看護師が 減るのはやはり寂しいし心細い。新しい看護師さんたちが増えてはいるが年々人見知りがひどくなっている僕の心が この新旧交代についていけるか不安。これでこの病棟で接していて気軽に話しかけたりと相対出来心が休まる看護師は 5人ほど・・・・・。
A日まで考える事がひとつもなくなると目の前が真っ白にはじけて以後心に何か描こうとしても何も浮かばなくなって かなりしんどい。僕は病院で何もしていない時は天井の模様を眺めながら物思いにふけっている。今回パソコンを 持ち込まなかったからほとんどの時間そうしているしかなかった。今回の入院中も色んな事を考え思い描いていたが 暇過ぎて考えていても目の前で突然何雅がはじけそれからは頭の中に一切浮かばなるという新しい発見をした。入院中は その繰り返し、頭に何も浮かばない・考えても何も出てこないそんな苦しい日々だった。
B今回の入院中に胃ろうチューブの交換をする予定になっていたが、ちょっとした手違いで中止なり6月に再度二泊三日で 入院する事になった。嫁さんや看護師長さんからはもう1週間延長してチューブ交換してから退院したらと勧められたか 「いや」と駄々をこねた、入院中暇過ぎてあきあきしてもうかなり辛くしんどくなっていたから。
Cご近所の青年がとある事故で亡くなった、まだ24歳だったという。僕は33年前にこの地を離れ10年前にこんな 身体になって戻ってきたから青年と接する機会はなかったが、甥っ子がまだ小学生だった頃夏休みに遊びに来てよく 行き来していたそうである。そういえば親父から当時よく遊びに来て将棋の相手をしてくれる子がいたと聞いていたがこの 青年の事だったのか。6日の日に嫁さんから「今日がお通夜。」とこの事故の事を聞いた時に「天は神はなんて無慈悲な事を するのか、せめて順番ぐらいは考えて欲しい、こんな僕でも生きているのに」とこの無残さに涙が溢れてきた。
Dほんの2週間家を離れただけなのに家での過ごし方・掛け物掛け方が分からなくなった、少なく掛けたら肩や胸が ゾクゾクして寒いし掛け過ぎたらかいた汗で結局身体が冷えてきてまた寒くなってくるし。病院でもしばらく苦労したが この身体の難しさを改めて感じさせられている。
といったところか。
病院からの帰り訪問看護師さんに「どこか寄って行きます?。」と尋ねられたから「国見の中腹の道」と答えた、 盗人岩洞窟遺跡(下の息子の話だと縄文時代の遺跡と習ったとか)への入り口を確認したかったから。ずっと前自動車で 通った時に標識だけは見たのだが場所は覚えていなくて教えようとして困ったから。夕方帰って来た息子を呼んで 意気揚々と「盗人岩遺跡分かったか?」と聞くと「行ったけどちっぽけで面白くなかった。」との答が返ってきた、友達の お父さんに連れて行ってもらったという。残念!。


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4月
4月30日 レスパイト入院
今日から2週間の予定でレスパイトで入院、本音で言うとみんなと離れ一人病院で過ごすのは寂しいし、 病院では 電話回線もないからインターネットにつなげられないし野球・You Tube等無償動画の視聴・諸々が出来ないから暇を 持て余すだろうけどまあ仕方がない家族の。みんなもレスパイトの主旨を大いに活用して家族で遠出や心身の リフレッシュをして欲しいものだ、僕は病院で寂しくいじけているから。
特に嫁さんはぎっくり腰と極度寝不足を直して2週間後は笑顔でやさしく僕のいじけ虫を寛大な心で包み込んで迎えて 欲しいな。最近の嫁さんの僕の練る前のケアはほとんど眠った状態でしているもんな。嫁さんはこの2週間で生活リズムの 改善と寝る時間の1時間前倒しをしたらどうかな。

4月29日 昭和の日、ゴールでウイーク始まる
今日は昭和の日、いよいよゴールデンウイークが始まった。
昔まだ勤めていた頃はゴールデンウイークが来るのが本当に待ち遠しかった、というのはうちの会社は基本的に4月29日〜 5月4日連休にする会社だったから。G.Wにはよく出かけたものだった、阿蘇・九重・四国・沖縄などへと同期の友人とよく 遊びに行ったものだった。むちゃくちゃ楽しかった。でも今は大型連休は(年末年始も含めて)基本的に病院だ、日曜祝日は 訪問看護がないから天気が良くても散歩へも行けないし家族も僕がいると遠出も出来ない。時には僕もみんなと遠出でも してみたいと思う事もあるのだが、今の在宅療養・訪問支援の制度やシステムでは僕の外出は難しい。
さあ明日からレスパイト、左脚の付け根の内側に痛みがあるから丁度良い機会かもしれないな。

4月27日 親父が気弱な発言
夕方6時前親父が珍しく僕の部屋にやってきて「もう80年も生きたからそろそろ(死んでも)いいな。」とずい分気弱な事を 言い出した、顔に飯粒を付けしわくちゃな顔をして元気をどこかに置き忘れた様子で。ここ数年親父は神経痛を患っている 様だし入れ歯が合わなくて少し苦労しているとの事。気長に医者に通えば済む事なのに、親父の医者嫌いもほとほと 困ったもんだ。最近親父は「楽しみは酒飲む事だけ、この先何の楽しみもない。」とこぼしている様だ。お袋が「孫たちが 成長していく姿を見ていくのが楽しみじゃあないの。」と言うと苦笑い?。親父の気持ち、僕はよく分かる。子供たちが 成長していく姿を見ているのは確かに嬉しいし楽しみでもある(一抹の寂しさもあるが)。でもそれと違った次元 自分自身でやる事出来る事で自分(だけ)の楽しみも欲しいのだ。僕はこの種の楽しみをパソコンに求めるしかない、 けれと時にはパソコンを操作する事以外なんにも出来ないと虚しさや寂しさに心がつぶされそうになる事もある。
親父の一番楽しみは百姓米や野菜を作る事、そして自分の守ってきた土地をやり方を子孫に引き継ぐ事。その親父の 楽しみを僕が僕のこのALSという病気が何もかも奪ってしまった。もし僕が元気だったらまだ(福岡)春日にいる可能性が 高いが、暇を見つけては息子たちを有無を言わさず連れて田舎に戻り親父と一緒に田んぼに出ていただろう。そうすれば 息子たちももっと田んぼに馴染んでいただろうしいつか百姓・農業というものを見つめたかもしれない。今の息子たちは 息子たちは今はまだ農業というものにほとんど関心がない。僕がこんなでも、親父には昔僕を否応なしに田んぼや山に 連れていった様に息子たちを田んぼに連れて行って手伝いをさせればいいと思うのだが、さすがの親父も孫には息子に やっていた事は出来ない様だ。僕の右手を握って動かないと分かっているのに「手を動かしてみろ。」と言う親父を 見ていたら、改めて僕が親父の期待を裏切ったと再確認させられて寂しかったし申し訳なかったと思う。
どうすればこんな僕でも親父が今まで守ってきた土地をこれから守り誰かに受け継がせる事が出来るのか?。農業は やり方によっては将来有望な職業になれると思う。ただ零細農家の問題点は生産コストが高くて利益が出ない事。 うちもそうだが、日本の農家はあまり広くない田んぼ・畑しかないのに個々の農家が農機具を揃え過ぎる事、これでは 生産高(金額)に見合うはずがない。個々の農家が生産高に見合う設備投資に抑えるべきなのである。そのための てっとり早い方法は十数軒の農家が(小型トラクター以外の)総ての農機具を共同購入しグループ内で個々の農家が効率的に 利用できるようにみんなで計画を立てる事(台風などの被害で個別の農家が損失を被った時のためにセーフティネットとして グループ内に基金を創設)。合わせて農協以外の販売ルートを見つける事かな。いずれにしても親父の守ってきた土地を僕が 守る方法が見つかれば親父も案真して百姓仕事がまた楽しいと思える様になるかもしれない。
夜下の息子を呼んで「おじいちゃんが「もう80年も生きたからそろそろ(死んでも)いいな。」なんて気弱な事を言ってるよ」と いうと「じいちゃんはまだまだ死なない、絶対長生きするよ。90までは大丈夫。」と取り合わない。僕のおばあちゃんは 健在で子供の頃よく遊んでもらって思い出もいっぱいあるが、父方の祖父も母方の祖父母の思い出はちっともない。 いつの間にか逝ってしまっていた。人間いつ死ぬか分からない。ある日後悔しない様にしておかねばならないのだが 元気な時はそれが分からない。僕はこの十数年後悔しきりである、この四十数年を振り返ってあの時ああしておけば 良かったと。

4月27日 民主党小沢幹事長、検察審査会で起訴相当の議決
今日夕方のニュースで「民主党小沢幹事長検察審査会で起訴相当の議決」の報道が流れた。驚きだったが国民感情としては まあそうかもしれないなという想いがした。僕は前にも書いたが二十年来の小沢一郎シンパである。その僕から見ても 小沢一郎氏の政治資金団体陸山会の政治資金規制法違反事件における小沢氏の国民に対する説明は「東京地検に参考人として 呼ばれ事実を包み隠さず十分に説明しそれで不起訴になったのだから(国民に対して)説明したのと同じ事。」と不十分 と言うより国民に対しては一向に説明しようとしない。国民はどんな考えで政治資金で土地や建物を買ったのか?・ 不透明に見える小沢氏個人からの陸山会への金の流れ(小沢氏側の相続や貯蓄及び解約などお金の動きも含めて)・献金が 噂されている水谷建設など建設業界から陸山会への数回に渡る5000万円の入金の具体的明細・検察でのやり取りなどを 小沢氏自身の口から説明して欲しいのに。そして小沢氏がどんな場所であれ説明しようとしないなら法廷で 明確にしてもらいたいと考えるのも無理からぬところだと思う。
今回の検察審査会での民主党小沢幹事長検察審査会で起訴相当の議決の決定は本来の検察審査会の主旨には 会わないのかもしれない。けれど小沢氏の政治家としての説明責任に対する国民の不満の表れだろう。小沢シンパの 僕としては小沢一郎氏にまず説明責任を果たしてもらいたい。小沢氏の幹事長辞任云々はその説明を聞いてから 話題にしてもいいのではないか。

4月26日 鋼の錬金術師
この数日YAHOO動画GyaOで「鋼の錬金術師」(第1話〜第40話)を見て楽しんでいた。時代背景はよく分からないが、 20世紀初頭のヨーロッパ東部or西アジアあたりだと思われる(中国 清王朝はまだ滅びていない)。けれど無条件に面白いし 色々と考えさせられるアニメである。
鋼の錬金術師は1-2年前同じTBS系列で放送があった。その時は途中から見始めた(第10話ぐらいから)し最後も レスパイト入院したので見れなかったからストーリーがよく分からなかった(主人公エドが突然真理の扉?を通り異なった 時空間・我々がいる世界の20世紀に来たりしたものだから(2つの時空間上の世界を行き来する、でもアルの魂だけをエドが 鎧に錬成した事と矛盾する?)混乱して余計分からなくなった)。今回1年前から鋼の錬金術師を見始めて当初は前の鋼と どの様な関係があるのかと思って探りながら見ていたが、登場人物・その(組織)属性及び初めの背景だけ同じであとは 全然別のストーリーになっていると分かって余計に面白くなった。
「約束の日」のホムンクルスとの戦いもそろそろ佳境、この戦いがどうなるのか・この戦いの中でアルがどうやって体を 取り戻すかエドは脚と腕・手を取り戻せるか、次回の放送が本当に待ち遠しい。

4月24日 体調不良
眠っていて目が醒めると眠っていた時より呼吸は当然の事ながら深くさかんになる。するとその呼吸に応じて上半身(胸や 肩・腕や手)が内側から冷えてきて直ちに風邪に似た症状(鼻詰まりに始まり続いて鼻水やくしゃみ)が襲ってくる。しかも この冷え方、年々激しく広範囲になって来た。2年前この時期なら肩を出して寝ていた。しかし今はバスタオルで 肩当をしてその上毛布2枚を肩まで上げ肩を覆い隠している。それでも時々寒気が襲う。何とか改善して冷えていくのを 防ぎたいがその方法が分からない。嫁さんは「加湿器の温度を上げたら。」と言うが、加湿器を上げたまま眠ってしまうと 呼吸がゆっくりになって肺の中が空気があまり頻繁に入れ替わらないために肺自身が熱くなる可能性が大きい。それに 加湿器を上げても加湿される空気の量はそんなに多くないから僕の自発呼吸の回数に呼吸器から送り込まれ加湿器の空間を 通る事で温められた空気がついてこれるか。多いに疑問。
昨日も朝早く目が覚めお袋にパソコンをセットしてもらってこの「雑記帳」を書いていた。左肩が少々スースーするなとは 思ってははいたが完全防備はしていると放っておいた。すると30分後には鼻水がほほに垂れ1時間後にはくしゃみが出て 次第に気分がすぐれなくなってきた。10時半朝のケアのときの体温は36℃ぐらいで平熱、それでも訪問看護師さんに「気分が あまり良くない」と訴えケアの終わりにもう一度体温を測ってもらったら36.8℃、昼過ぎ呼吸するのに力がいってしんどいと 杯が感じ始めたので突然の軽いぎっくり腰で休んでいた嫁さんを呼んで再度体温を測ってもらうと37.8℃、かかりつけの 先生に血液検査を伝言(今日は訪問診療の日)し訪問リハビリと車椅子への移乗の中止それに夕方訪問看護師さんに着替えを しに来て欲しいと嫁さんに言伝した。
訪問診療で血液検査をしてもらった後熱冷ましを服用、けれど思ったほど汗が出ない。いつもならドバーっと汗が出て あとはすっきりとするのだが、今回は汗がしっとり出るだけで気分はよくはならなかった。夕方訪問看護師さんに着替えを してもらっても気分はもうひとつ、血液検査で炎症反応が出ているという事だったがこの身体のだるさと関係あるのか。 ただ夜かかりつけの先生に処方していただいた抗生剤を服用し睡眠誘発剤を使って寝たら今日の朝にはある程度 回復していた。
僕のこの身体これからどうなるのか、少しは回復していくのか、それともこのまま悪くなっていくだけなのか。不安・・・ がしのび寄ってくる。
あと最低7年は生きていなくちゃいけないのに。

4月22日 民主党政権はダメだな!
僕は政権が交代して民主党政権が誕生すると政治が刷新されて世の中の雰囲気がきっと明るくなるとずっと思っていた。 色んな意味で利益誘導のための政治に終わりを告げ真に国民のための税の再配分に近付ける政治を行ってくれるものと 思っていた。鳩山政権のゴタゴタもまだ民主党が若過ぎて政権運営になれていないため・連立を組む国民新党や社民党との 政権運営の円滑な継続を願うあまり配慮し過ぎているからとこの半年間信じて今しばらくはまだまだ見守り続ける時期だと 思い込もうとしていた。けれどどうやら間違っていた様だ。
今の民主党政権の代表者は片方は「友愛」を連呼するだけで友愛に満たされた我が国の将来ビジョンなどは全く示さずor 持たず、総理になる夢を果たしただけの裕福な家庭に育ったただの世間知らずの坊ちゃんだった。もう一人はこの政治家が 夢に描いていた二大政党政治に近付けた今 党の幹事長として時期参院選に勝つ事だけを至上主義として政権政党の持つ 権力をフルに活用して参議院の過半数獲得を狙っている強引な行動も辞さない政治家だった。幹事長としては選挙に 勝つ事が第一の目標なのは当たり前なのだろうが、長崎県知事選に見られた様な道路建設を政治的圧力の様に駆使し (反対意見を封じ込め)持ち出した言動や今回の突然の道路建設の進言はコンクリートから人へと大目標を掲げている 民主党のマニュフェストに大きく反するものだと思う。我々国民の大多数は現時点での高速道路料金の無料化は望んでは いないと思う(高過ぎるとは思ってはいるが)。我々は無駄な道路は作らない・高速道路建設に使われた借金(建設国債)を 適切な形で出来るだけ早く返済するよう努めるべきだと思っている。一部の利権者や首長の嘆願を国民の声と称するのは 止めて欲しい、全国津々浦々で国民の多様な声を聞いて論じて欲しい。民主党の議員のみなさんはこれでいいと本当に 思っているのかと思う。
僕はもう二十年来小沢一郎氏のシンパで混乱の時代なら総理大臣は小沢一郎と思ってずっと支持してきた。けれど最近の 選挙至上主義の手法・行動には付いていけなくなってきた。民主党はずっと無駄な道路は作らないと言ってきたでは ないか。民主党の幹事長として道路を作りたい作るつもりなら、その前にまず計画されている中で採算を度外視しても 作るべき道路・採算や効率を最新の指標に基づく将来の需要予測を再調査した上での作る事が検討に値する道路・ 計画上では採算が取れなくても作りたい道路・無駄と思われる道路を明らかにした上でこれらの道路はこれこれの理由で 作りたい道路と提言すべきじゃないのか。ただ次期参議院選挙など選挙で民主党が不利と思われる地区だから道路建設の 名の下にこの地域の陳情を受け入れ利益誘導で基礎票を取り込もうとする、こんな選挙と道路建設をバーターする様な 手法に異を唱える民主党議員はいないのか。ちなみに僕は九州内では東九州(縦断)自動車道だけは国が作るべき道路だと 思っているがそれ以外の高規格道路はそれぞれの該当する県が話し合って地方交付税刀剣の予算で有効性と採算性を 検証して作るかどうか決めるべきだと思う。
さて明日から事業仕分け第二弾が始まる。今回のターゲットは独立行政法人と公益法人、天下り止る投げ・非効率な 経営体質にメスを入れるわけだが多くは望めまい、事業仕分けそのものが国民の納めた税金の再配分(使われ方)の一端を 国民の前にさらし国民が自分自身で考える事が出来るという意味ではかなり有意義だが。。そもそも今回の事業仕分け 規模は何故47法人151事業なのか。枝野行政改革担当大臣ら政治家が仕分けをやれるのはこの短時間ではこれくらい かもしれない。けれど大幅な権限を与えた仕分け人を任命すれば最後の仕分けは政治家がするとして全事業仕分け作業は 出来るはず。各省庁や総務省の評価委員会が機能していないのだから行政刷新会議でなすべきである。枝野大臣はこれから 行う仕分け作業は151事業以外にも参考にされると言う。事業仕分け第一弾の時も同じ事を聞いたが結局僕らには他の事業の 予算計画削減はちっとも見えては来なかった。

4月20日 体調不十分?
このところひと月ほどどういう言葉を使って何と言い表せは僕の状態or心情がみんなに伝わるのか分からないが 寒さという名の恐怖におののいている。真冬並みの掛け物をして顔や頭・背中や胸や肩に汗が沁み出して来ているのに肺は 身体は寒いと感じている。胸や肩の汗による痒みを止めようと手を掛け物から出してもらいしばらくすると今度は肩は スウスウ背中はゾクゾクしてきてあわて手を掛け物に入れてもらう、毎日こんな事の繰り返し。汗は出るのだから身体の 代謝機能はそれほど落ちてはいないはず。最近手・腕・脚・足に痺れを感じる事もあるが身体の各部位をリハビリして くれている方の手の温もりや冷さはちゃんと感じているから部位そのものの熱探知機能に異常はない。じゃあこの寒さの 要因はどこにあるのか?。
そういえば最近ずっと何となくしんどいしそれに身体から熱を発する事がなくなった。経管栄養を落としても前みたいに 熱くならないし、病気の進行で身体の構(つく)りがまた変化したのだろうか。しかし身体がこんな調子じゃ子としての最後の 親孝行・ばあちゃん孝行も難しいかもしれないな、あと最低でも7年は存在していなくちゃあいけないのに。一応 認めておくべきものは認めておくか、お願いと感謝で支離滅裂になりそうだが。

4月18日 地区の運動会と花見
今日は我が地区(僕らが子供の時でいう部落)の運動会と我が班の花見(という名のご近所の家々の懇親会)があるとの事、 我が家からは嫁さんと娘と下の息子が参加した。嫁さんや子供たちが地区やご近所付き合いに参加するというのは大いに 喜ばしい事だ(僕は大学進学と共にこの地を離れたので班の中で知っているのは4-5軒、それも二世で子供の頃遊んだ事が あるのは一人だけ。子供の頃僕の家の周りは保育園の他は田んぼだけだったがいつの間にか新興住宅地になっていた)、 催し物好きの僕も元気だったら真っ先に・・・と思うが如何ともし難い。が、取り残された様で寂しい。
ちなみに上の息子はクラブ活動の試合とかで昨日の朝早く出かけて留守、以前だったら中学校のクラブ活動で通学の 時間より前に家を出るのはおかしいと怒りをあらわにしていたが、今は校区の保護者の強い要望と我が母校の中学校の 方針が学業中心の文武両道からスポーツ優先に変わったのだと諦めた。

4月16日 通院日
今日は2週間に1度の通院日、リフト車に同乗してくれる社会福祉協議会の看護師さん・ヘルパーさんも外出準備と 車椅子への移乗やリフト者への乗り込みを手伝ってくれる訪問看護ステーションと打ち合わせしたのだろう10時50分過ぎの 程よい時間に僕のところへ来た、となるはずだった。ところが僕は嫁さんに痰の吸引をしてもらった後急に人工呼吸器の 調子が悪くなって過呼吸に苦しんでいた。通常は僕が吸おうとした時に(または5秒以上吸わなかった時に)送られてくる 空気が1秒ほどの間隔で勝手に送られてきて肺が反応してしまい肺が動き過ぎて疲れてきた。嫁さんを呼ぼうにもコールに 足が届かなかった。もうすぐ社協の二人が来ると耐えていたが今日はなかなか着かなくて苦しんでいた。20分ほど 耐えただろうか、社協の二人と嫁さんが同時に僕の部屋へようやく来たので嫁さんに「呼吸器がおかしくてしんどい!」と 状況を訴えた。嫁さんは回路を調べサービスセンターに連絡を取って回路を交換して・・・・・、ようやく呼吸器が正常に 戻った。だけどこの事件で僕の身体は行く前から疲れてしまった。
外はもう桜も終わりそろそろつつじの季節、道路脇の街路樹のつつじもピンクや白の花が付き始めた。惜しむらくは つつじより背丈の高いぺんぺん草や雑草があちこちで伸びていて見苦しい。ヘルパーさんによると陶器市(2週間後)前には 掃除するらしいが、定期的に見栄えを整えて欲しいものだ。田んぼにはまれに蓮華草が咲いていた、昔はほとんどの 田んぼで蓮華草がいっぱいでよく寝転がったり花びらをむしりとって蜜を吸ったりしたものだったが。病院に着くと今日も また池を見た、今日も亀たちが気持ち良さそうに甲羅干ししていた。
今日の診察は救急車が入って来るという事で玄関から入って奥の部屋、でも呼吸器を着けての車椅子移動なので全く支障は なかった。主治医を待つ間に地域連携室の相談員?さんが「呼吸器を着けた後不安な心持が消えたのはどのくらい 経ってから?。」との質問を投げかけてきた。それで僕は「よく分からないけど半年ぐらいかな」と答えたが、僕は気管切開し 呼吸器を着けた直後は呼吸器から送られてくる空気に呼吸(吸気)を合わせながらずっと時計の秒針を見て下の息子が高校を 卒業するまであと何日生きねばならないかとずっと考えていた。僕の場合主治医がそれまでと同じリズムで 生活させようとして呼吸器を着け2週間後?食事をさせたし3週間後には車椅子に座らせた。そしてひと月半後には 在宅療養のための話し合いの場も持たせた。この主治医の方針がものをいったのかほとんど不安を感じずに済んだ。 しばらくして主治医が来て2週間後のレスパイト入院の確認と診察・処置を済ませて戻っていかれた。帰りに池まで行って 今日こそ亀の甲羅干しを見たいと思ったが今日もまた言い出せなかった。
帰り道山の方に目を移すと木々に新緑が芽吹き始めていた。春はもう来ているのに身体が何故こんなに冷たく感じるのか!。

4月15日 迷走している鳩山内閣・民主党政権の行方は?
昨今の世論調査で鳩山内閣の支持率が危険水域の30%を切ったという。国民が去年8月の総選挙(衆議院議員選挙)で民主党に 投票し政権交代を成し遂げさせた(というより一度民主党にやらせて見ようとの消極的な気持ちと何かしてくれるんじゃ ないかとの期待五分五分で安易に投票=風が吹いた)のは、@予算における徹底的な無駄の削減A国家公務員改革(天下り 撲滅と国の出先機関と地方の二重行政の解消・仕事に見合った給与体系の実現含む)Bマニュフェスト実現などの 期待からだった。しかし2010年度一般会計予算92兆円超に見られる様に莫大な国債発行頼りで予算の無駄の削減はあまり 見られない。4月末からの独立行政法人・公益法人に対する事業仕分けが期待されているが内閣支持率はどこまで アップするのかは大いに疑問だ。
鳩山政権の内閣支持率急落の要因は、小沢一郎民主党幹事長や鳩山総理自身の政治活動とお金の問題・民主党が始めて 政権に就いたその未熟さゆえに生じている内閣不一致とも受け取られかねない閣僚のばらばらな発言・財政再建に将来の 筋道を示さない上にマニフェスト実現のためには国債増発やもしかすると消費税大幅アップもやむなしとする姿勢・ 長崎県知事選や今回の道路建設決定に見られる様な選挙と公共事業とりわけ道路建設をバーターする様な民主党小沢幹事長の 選挙至上主義的な政治手法など色々あるが、国民に鳩山総理がリーダーシップを発揮していないと受け取られている事が 最大の要因だろう。普天間基地移設問題は迷走しているが日本郵政の問題は社長人事にしても郵政見直し案にしても大筋で 了承していたと思うのだ(亀井大臣の郵政関連の記者会見の席に原口大臣も同席していたから)。了承していたのなら 鳩山総理が自らの言葉で背景と共に記者会見すべきだった。そうすれば国民は総理のリーダーシップをいくらか 見直しただろう。それを亀井大臣に任せたからまたごたごたが起こりまた支持率が低下した。
さて普天間基地移設問題は5月末までに解決を見る事はないだろう。その時鳩山内閣は総辞職する。その前に小沢一郎氏が いつ自ら幹事長辞任を決めるか次期総理は誰か興味が湧く。あるいは二人とも色々理由をつけて居座って7月の参院選の 結果を受けて総辞職と解任という事もありえなくはない。その時民主党が誰を代表そして総理として指名するかだ。 僕は元々小沢一郎シンパだが、個人的には閉塞感が蔓延し混乱しているこの時期には民主党で一番はっきりとものが言える 前原誠司氏の行動力に期待している。未成熟な民主党中心の連立政権では総理の強力なリーダーシップこそが混乱した 政治を沈静化し新しい税金の無駄使いを少なくした世の中に導いてくれると思うのだ。まあみんなの党と連立政権が 組めればバランス派の岡田氏あるいは総合派の原口氏またはみんなの当の渡辺氏でいいと思うが。

4月13日 体調不良?
昔からの諺に「三寒四温」とあるけれど今年の春特にこの1週間は日々の気温差はあまりに大き過ぎて体温調整が 出来なくなっているこの身体には結構しんどい。朝目覚めた時は4-5時間の睡眠であったかくなっていた身体が目覚めと共に 呼吸換気量が大きくなって朝の冷たい空気を一気に何度も肺に取り込んで肺や肩を冷たく冷やしてしまう。その結果僕は 次第に鼻詰まりとくしゃみに襲われる。しかし「寒い」と口に出さないと誰も気付かない。
身体が少々しんどくても僕が「何だかしんどい」口にしないとやはり誰も気付かない。何回もくしゃみをしているし(音は 出ないが)痰の出方が極端に悪くなっているのだから嫁さんなら僕の身体に何らかの異変が起こっている事が 分かりそうなものなのだが、まあ分かっていて気付かぬ振りか回りを見る余裕が心労でもうなくなったのかもね。

4月12日 町長選挙・町議会議員選挙結果出る
昨日が我が町の町長選・町議選の投票日、昨晩その結果が出た。
昨晩11時から有線のローカル放送で選挙速報を見ていたら12時過ぎに結果が出た。結果は幸いにも近くのおじちゃんも 小・中学の同級生も見事に当選、安心したというのが本当のところかな。
ほぼ寝たきりで口も利けない手も使えない僕の投票は郵便代筆投票、役場に前もって申請し告示以後送られてきた 投票用紙に嫁さんに候補者氏名を書いてもらって郵送するというもので重度障害者にとって有効で便利な選挙投票制度だ。 まだ車椅子で気軽に動ける内は不在者(今でいう期日前投票)代筆投票をしたが今はもう難しい。僕の自慢はこの二十数年 選挙に投票しなかった事はないという事、なんせ政治・行政にかかわれる唯一の機会なんだもの。

4月11日 お疲れ様
今日も朝8時前から娘が地区(昔でいう部落)の公民館の掃除とかで出かけて行った。僕としてはこうして家の代表として 地区行事に参加してくれている娘だからこそそのお礼の意味も込めて娘の所望していたペンタブレットを買ったのだが。 まあ嫁さんも娘にペンタブレットを購入した事は伝えた様でひと安心。あと自由につかえるようになるかは娘の諸々の 頑張り次第。

4月10日 エリア88
今日You Tubeで「エリア88」というアニメを見つけた。
僕が「エリア88」というコミックと出会ったのは多分大学の時、四畳半一間(+流し+押入れ)に間借りしていた頃近くの ジャスコの中にあった本屋でしょっちゅう立ち読みしていた時に見たのだろう(でもコミックを立ち読みした代わりに 文庫本をよく買ったよ、僕がよく本を読む様になったのはこの頃からかな)。その当時は「エリア88」のコミックは 出たばかりだったのでほんの2-3巻読んだだけだったけど続きがずっと気になっていた。社会人なってから休日の昼食時 喫茶店やラーメン屋などに入った時探したが見つけられなかったが、今日30年振りに巡り合ったという訳だった。
「エリア88」は、幼なじみで親友でもある野心家神崎に騙されて外国人戦闘機部隊で働くという契約書にサインさせられた 風間真が エリア88という戦場にある飛行場で3年間の兵役(または150万ドルの違約金支払い)に耐え生きて日本に帰る事 帰って大和航空の社長令嬢でもある恋人涼子に会う事だけを夢見て日夜戦闘に明け暮れるエリア88の戦闘機部隊の中での 人間模様を描いた重いストリー。もっと長い物語かと思っていたが12話と意外と短かった。

4月9日 金魚が今度は白点病?
昨日久し振りに下の息子に「金魚は(どうしてる)?」と尋ねると「白いのがぽつぽつと出来ている。白点病?。」と逆に 聞かれて困ってしまった、なぜなら僕は「白点病」という言葉を聞いた事があるだけだったから。そこで今日息子が学校に 行っている間にインターネットで調べてみた。
白点病はイクチオフチリウスという虫が金魚に寄生する事で起こるという。そして白点病の感染力はかなり強いとの事。 また寄生虫は成長すると金魚から離れ1日で数百に分裂して再び金魚に寄生する、その離れた時が虫を死滅させるチャンスと 書いてあった。それで下の息子が学校から帰ってきた時に「白点病の金魚は分けた方がいい?。」と聞いたので「分けろ」と 答えた。これでしばらく様子を見て本当に白点病だったら薬を使う事にしよう。
それにしてもイクチオフチリウスという虫はどこから水槽に入って来てあの金魚に寄生したのだろう、息子によると あの金魚がオランダ獅子頭が死ぬ前にオランダ獅子頭の頭を突いていたらしいが。

4月7日 ペンタブレット
夕方2-3日前にインターネットショッピングで注文していたペンタブレットが着いた。ひと月ぐらい前(僕が聞いたのは)から 娘が熱望していたから購入した。僕としては娘が家や僕の手伝いをよくしてくれて世話になっているし子供たちみんなで 使える(特に下の息子はパソコンで絵を描くのが好き)・プレゼンテーションにも使えるという事だったのですぐに渡しても 良かったのだが、まだタブレットを買った事を知らせていないと聞いて嫁さんは「タブレットを(娘の)次のテストの 発奮材料としようかしら。」と。それならそれでも良いかも。
ペンタブレットを調べてみたら三千円台のものから十数万円するものまで値段も様々。(もちろん高いのは論外)スペックを 見てみると、入力の仕方(付属のペンだけor指も使える)・製品の大きさ(入力可能範囲)・筆圧・付属アプリケーションに 主な違いがあるようだ。でもよく分からなかった。そこで娘に「筆圧って何だ。付属ソフトは何がいるか?」と聞いたところ 「筆圧って紙に鉛筆で絵を描く時鉛筆をどのくらい押さえるかで線の太さが変わるでしょう。それと同じ事かな。ソフトは Adobe Photoshop Elements がある方が言い、ペイントではタブレットを使っても絵は描きにくいから。」という答えが 帰ってきた。それに(入力範囲が)広いと値段が高くなるし小さくてもいいよ。」とも。筆圧は512レベルと1024レベルが あるがどのくらい違うのかよく分からない。だから筆圧は1024が無難そうだ。それに付属ソフトに Adobe Photoshop Elements が付いているとなると安い店を見繕っても10500円はする。入力範囲をもうひとつ広いものに するともう6500円以上増える。それでも入力範囲が小さ過ぎると「貧乏人の銭失い」になりそうな気がしたからひとつ 広いのを求める事にした。子供たちは喜んでくれるだろうか。

4月6日 町議会議員選挙
夕方近くの国道を選挙カーが通った、どうやら町長選挙・町議会議員選挙戦が始まった様だ。今度の町議会議員選挙には 近所のおじちゃんと同級生の二人の知り合いが立候補した。どちらも町議会の議員になって欲しいが僕が投票出来るのは 一人。困ってしまうしどちらに入れるべきか本当に迷ってしまう、日頃から家族がお世話になっている度合いからいうと 明らかなのだが。
僕がこの町の行政に望む事は産業と自然の共生のただひとつだけ、特に川や溝(側溝)の再棲。僕らが子供の頃は川や小川・ 溝にたくさんの生き物が棲んでいた。ところが効率だけを求めコンクリートで塗り固めた結果多くの生き物が いなくなった。男の子が外で遊ばなくなった遠因がそこにあるのかもしれない。僕らが子供の頃は身の回りのすぐ近く 道や小川・石垣に自然があふれていた。しかしアスファルト・コンクリートで塗り固められた道や側溝からは自然は 見つけ辛い。元に戻せとは言わないが自然・生き物と共生出来る創意・工夫があるはずだ。

4月4日 城山(唐船山)
今日は日曜だというのに娘は朝7時半過ぎに出かけて行った。地区で城山のあちこちにあるお地蔵さんやその周りの掃除を するらしい。本来ならば「巡いさん」や遊びで家で城山に一番お世話になった僕が行かなければならないのだが、動けない 僕の代わりに娘が地区苦役(行事)に参加してくれたという事か。お世話になります。
子供の頃4月の第一日曜(多分)に行われていた巡いさんでは駄菓子や煎餅を求めて城山のあちこちに点在するお地蔵さんに つながった山道を巡り歩いたものだった(お地蔵さんのところにいる係りのおばちゃんに一握りの米を渡すとお菓子が もらえた)。時には獣道をたどってお地蔵さんにたどり着く事もあった。中学の時?の山火事で城山の南側が消失しその後 城山一帯が整備されて新しい散歩道やベンチが作られたが面白みがない道になった。今になって思うが折角整備したのなら 城山の南側一帯に桜やつつじや紅葉する木々を一杯植えて春や秋の町民・近隣の人々の癒しのスポットにすれば 良かったのに。もしかしたらあの山火事で埋もれた存在なったお地蔵さんがあるかもしれない。息子の夏休みの自由研究に お地蔵さんの配置調査をするのも面白いな。僕は巡いさんを通してお地蔵さんなどを尊びお参りする事を教えてもらったが 今はこういう行事も少なくなり近所の人たちとの結びつきも弱くなってきた。寂しいものだなあ。
城山(唐船山)の北側にある山田神社は室町時代末期の唐津・松浦半島を拠点とした松浦等(元寇への反撃で活躍した事で 有名)の身内有田氏の城址に建つ神社。この神社は今では参道や境内には桜や八重桜・沈丁花が鮮やかに咲いて静かでとても 綺麗なところになっている、僕らが子供の頃はこの神社や境内はただ薄暗くて薄気味悪いところだったのに。僕の わずかばかりの郷土史の知識はそろばん塾の恩師である郷土史研究家の塾長からそろばんのついでに教えてもらったものを 覚えていたものだ。こう考えるとそろばんの先生からは色々な事を教えてもらったなあ。

4月3日 散歩
朝のケアの時に訪問看護ステーションの所長から「良い天気だしお昼から散歩に行きません?。」と誘い水があった。それで 午後車椅子に座らせてもらった時に訪問看護師さんとヘルパーさんが散歩に連れて行ってもらった。外は爽やかな青空で 良い天気だったが冷たい風が吹いていて結構肌寒かった。そこで厚手の毛布をかけ靴下を履きしっかりと防寒対策をして 外に出た。
久し振りの日の光は顔に心地良かった(通院の時は玄関から直接に近い形でリフト車に乗り込むから直射日光はほぼ 浴びない)。まず風邪がさえぎられている庭でチューリップやスミレ?畑の野菜を眺めてから冷たい風の吹く中を外の道へ 向かった。家から少し離れると(2−3本桜の咲く)神社が見える。僕が子供の頃よく遊んだ神社が見える。向こう人魚岩・ 二つの三角の山・牧ノ山が見える。後ろに国見山も見える。子供の頃は毎日見ていた山々や神社なのに違って見えるのは 何故!。久し振りに懐かしい?風景を見て嬉しかった。
お世話になりました。

4月2日 通院日
今日は通院日。病院の予約は12時半(多分)だからリフト車に葉11時30分ぐらいまでに乗り込んで出発すればいい。 病院までの移動サービスに同行してくれる社会福祉協議会の看護師さんとヘルパーさんはその割にはいつも早め早めに 来る。外出準備及び車椅子への移乗をしてくれる訪問看護師さんが来るのは11時なのだから両者で上手く時間調整すれば いいのにと思う。社協の二人は今日は特に早くて10時半前に着いたので申し訳ないが少し待ってもらう事になった。
病院の桜は散り始め、昨日の雨風で花びらが結構下に落ちていた。まだまだ美しさを保ってはいるが桜ももう今週末で 見納めだろう。ひとつの季節が過ぎてゆく。次にいつもの様に池に目を移すと亀が浮島に5匹・縁(石)に3匹上がって 甲羅干ししていた。本当に気持ち良さそうでちょっと羨ましくなった。でも池の亀いつの間にこんなに増えたの!。
今日の主治医は外来が少ない日なのか看護師さんが連絡を入れるとまもなく顔を見せた。そして先週の花見ドライブの事を 尋ね次のレスパイト入院の事を確認しながらいつもの様に診察と処置処方を済ませ(あっという間に)戻っていった。 この先生のカニューレ交換はいつもながら素早いし痛くもない、驚いてしまう。
帰り道でも所々に桜や菜の花が咲いてはいるのだが近くまで来るとリフト車の窓の境境で遮られて見えなくなる。それが リフト車の寂しいところなのだ。でもまあ2週間に1度通院でまがりなりでも外に出れる事を幸せだと 思わなくっちゃ、ね!。

4月1日 アルプスの少女ハイジ
この1週間暇にまかせてYou Tubeで「アルプスの少女ハイジ」を見ていた。最初は懐かしさから見ていただけだったが次第に 感情移入してしまい感動的なシーンでは涙ぐんでしまっていた。すると僕の部屋でパソコンをしていた娘が「お父さん 泣いてるの!。」と。恥ずかしかったがどうにもならない。
僕は子供の頃?見ていた「世界名作劇場」の中でこの「アルプスの少女ハイジ」が一番好きだ。「フランダースの犬」は最後まで 悲し過ぎるからYou Tubeにもアップされている様だが見ない。やはりこの手のアニメはハッピーエンドでなくちゃ。 そういえば「アライグマラスカル」を見てアライグマをペットにしたはいいが結局最後まで飼えなくて野に放ったふとどきな 輩がたくさんいて今の都会には野生になったアライグマがいっぱいいるという話を聞いた事がある。そんな事は 困った話だが、でも今が殺伐とした世の中だからこそ「世界名作劇場」や「日本昔ばなし」を復活させて欲しいものだ。


[2010年の先頭に戻る]



3月
3月31日 金魚その後、オランダ獅子頭逝く
一昨日の夜中からオランダ獅子頭の水面を叩く音が全く聞こえなくなった。これはどう考えればいいのか?。水面を叩いて 潜れないほどオランダ獅子頭の体力が無くなってしまったというのか、それが朝からずっと気になっていた。
昨日お昼過ぎ下の息子を呼んで「金魚は(どうしてる)?」と聞くと、「いつもと同んなじ。ただ少し水面から出ているお腹(の 体積)が小さくなったかなぁ。」という答が返ってきた。しばらくしてクラブ活動から帰って来た上の息子を呼んで 「パソコンがしたい、(それと)水槽を(見える位置に)動かして」と頼んでパソコンをしながらオランダ獅子頭を見ていると、 オランダ獅子頭は時々音をたてずに潜ろうとしていたし一昨日までと同じ様にちゃんともぐれていたので安心した。
ところが夕方遊びから帰って来た下の息子に金魚の水槽を見てもらうと「(他の)金魚が(オランダ獅子頭を)突いてる。 うろこが取れている。(他の)金魚をもうひとつの水槽に移さなくっちゃあ。そうした方が良いよね?。」と急いで他の金魚を 移動させた。そして・・・・・今日の昼前オランダ獅子頭は動かなくなっていた。
お昼に下の息子を呼んで「残念だが仕方ない」と言うと意外とさばさばしていて「うん。畑に埋めてくる。」と、落ち込んでは いなかったので少し安心した。夕方下の息子が僕の部屋に入ってきた時に「どこに埋めたのか?」と聞くと「畑の人が 通らない所。」とそして「飼い始めてからもう5年目だったから寿命だった。」という答が返ってきたので再び安心した。
オランダ獅子頭、ごめん、治してあげられなくて!。

3月30日 また肺が寒い
相変わらず肺が寒い、しばらくはそれほど感じなくなっていたのに。先週の金曜日起きたらまたひどく肺が寒く感じる様に なった。どうしてだろう。その日(金曜日)ぐらいからまた気温が随分下がってきたせいだろうか。だけどこう寒暖の差が 大きくちゃ身体がもたないなあ、人工呼吸器を着けている僕らは扇風機に当たっている様な感じで肺に直接外気がかなりの 力で押し込まれてくるもんな。眠りから覚めた朝なんか眠っている時より呼吸が大きく早くなるから急に肺から肩にかけて ぐぐーっと冷えてきてすぐ鼻詰まりになったりくしゃみが出たりしてしまう。精神的にほんとに参ってしまうな。

3月28日 現行介護保険の問題点
「今厚生労働省では介護保険の見直作業に入っており世間一般からも広く意見を求めているそうよ。」と嫁さんから聞いた。 ALSである僕は介護保険の指定難病という事で10年前42の時から介護保険を利用している。現行の介護保険の問題点は色々 ある様だが、人工呼吸器を着けてほとんど寝たきり状態にある僕にとって経済的な理由ではなくて介護保険の時間の枠を 目一杯使える状況・環境にない事が問題なのではなかろうか?。
僕の利用している介護保険サービスは、訪問看護・訪問リハビリ・ヘルパーと訪問看護師と一緒による清拭・ベッドと 車椅子とサイドテーブルのレンタルだ。僕にとっての介護保険の問題点は、ヘルパーによる痰の吸引が僕の住む地域では 全然進んでいない事と(自家用車での)外出支援の問題。
痰の吸引が出来ないヘルパーさんが来ても家族は出かけられないからためになるとは言い難い。厚生労働省は ヘルパーによる痰の吸引の実施状況に地域格差がある事をどう考えているのか。嫌々ながら通達を出した?のだから ヘルパーによる痰の吸引の普及状況なんてどうでもいいと考えているのかな。ヘルパー吸引が進まない地域では何か対策を うってくれないものか、例えば同一の報酬で1日に複数の訪問看護ステーションの利用を認めるとか。または今のヘルパーの 認定制度を見直ししたらどうか。この前テレビで専門訪問看護師?がいる事を知った。ヘルパーの認定制度に同じ様な 考え方でヘルパー1級認定に簡単な医療行為(吸引・胃ろう・難航塗布など)を行う研修・実習を義務付けまた1級の指導員の 資格を特級にしたらどうか。その上で各介護事業所に支給されている補助金をヘルパー一人当たりの人数及び認定級の 人員の割合で支給する様にしたらどうか。それに訪問介護サービスの身体介護・家事支援・折衷型にもうひとつ 重度障害対応身体介護を追加したらどうか。予断だが家事支援は被介護保険者対応のものに限られているがせめて食品の 買い物ぐらいは家族分の買い物も家事支援の中に含めるべきと思うのだ。なぜなら介護保険の元々の導入主旨が 介護される者及びその家族を社会全体で支援するために作られたと僕は思っているから。
僕は外出・散歩などをする事は生活のQOLを高めるための重要なファクターだと思っている。けれど我々重度要介護者 (重度障害者)にとっては外出出来得る社会環境に整備されているとはまったくもって言い難い。重度障害者の生活のQOLを 高めようと打ち出しているのだから政府・行政として地域格差のない十分な外出支援制度及び体制を整えるべきだと思う。 我々人工呼吸器を着けている者にとっては外出するには準備や移動中の痰の吸引など専門的な事が多い。自分勝手な事を 事を言うようだが気管切開をしている者・呼吸器装着者あるいは要介護5の者に限って自家用車への訪問看護師の 同乗(報酬付)を認定して欲しい。

3月27日 桜を見にドライブ
今日午前中の訪問看護の時訪問看護ステーションの所長さんが突然「午後から桜を見に行きませんか?。」と言い出した、 同じ敷地にある事業所の入所?デイケア?の人たちが花見の準備をしているのを見て突然そう思いついたらしい。けれども 今日は午後から訪問診療(カニューレ交換)と訪問リハビリの日、そこでかかりつけ医には少し早く来てくれるよう お願いしてまた訪問リハビリは中止にするよう連絡を取ってもらって出掛ける事にした。
カニューレ交換も終わった午後2時15分訪問看護師さんたちが着いて外出準備、30分過ぎに車椅子に移乗させてもらって 外に出るとブルブル花冷え、お袋に見送られながら出発。コースは所長さんと嫁さんが色々話し合ってくれてまずは 明星桜。樹齢数百年の桜らしいが山の斜面にあるので自動車の助手席に座っている僕からじゃあ窓から見上げる事も 出来ないので色々工夫してもらっても端っこしか見えなかった。しょうがないのでデジカメに撮ってきてもらう事に。
次は浦ノ崎駅、駅に行く途中車窓からは様々な所に桜のスポットが見えた。行ってみたい衝動に駆られたが口にする事は 出来なかった。浦ノ崎駅は線路の両側に数十本の桜の木が生い茂りかなり綺麗に咲き誇っていたが、嫁さんや所長さんに よると昔はもっと綺麗で桜の花のトンネルの中を列車が通って行く様だったとの事。けれどやはり桜は木の下から見上げて みるのが良い。でも今日は花冷えで肌寒かったから風邪を引きそうで自動車の外に出て桜を 見上げるという気にはならなかった。
次に向かったのは伊万里大橋を通って国見台公園、途中海岸沿いを通った時元気だったらこんな所で海蜷(食べられる 巻貝)でも取っていただろうにと思ってしまう。また伊万里工業団地を久し振りに通ったが新しい建物がいくらか 増えていたし佐賀大学の海洋(発電)研究センターを初めて見て噂には聞いていたがこんな所にあったのかと思った次第だ。 伊万里川沿いにもずっと桜が植えてあって後10年もすると綺麗な桜並木になるだろうと思いながら通り過ぎた。 国見台公園の桜は今が満開、今夜はここらあたりのあちこちで楽しい花見の宴が展開される事だろう。宴会好きの 僕としてはちょっと(かなりかな)羨ましい。
時間もかなり押しているというのに嫁さんが「炎の博(記念公園)を回って帰ってもいいですか?。」と言い出した。そして 所長さんから「OK」のサインが出たので炎の博公園へと向かった。炎の博がいつあったかもう忘れた(おそらくバブル 全盛期)がこの公園には多分数百本の桜の木が植えてある。今はまだ枝振りが小さくて見栄えはそれほどでもないが 十数年後には県下有数の桜の名所となる、そんな事を考えながら見ていた。
5時前に家に到着、近所のおばちゃんに「お花見をしてきたの、良かったね。」と出迎えられながら。久し振りに3時間 外出して腰が痛くなったが楽しかった。みんな本当にお世話になりました、ありがとうございました。

3月24日 終業式
今日は子供たちの学校の終業式で明日から春休み。僕は子供の頃春休みになるとツワやワラビを採りによく山へ 行っていた。そしてツワは薄皮を剥きどちらもお袋にゆがいてもらって朝農協の広場に来る市場のトラックに預けて小金を 稼いだものだった。春先のこの時期になるといつも筍掘りやツワとワラビ採りに行きたくなる。よく息子たちと山でツワや 蕨を採りに行っているシーンを思い描く、少しも動けない身体にもかかわらずだ。そして最後にはいつも僕が何でこんな 病気にならなくちゃいけなかったのかと思うのだ。
また最近JR九州の「ノッテル?」というCMで子供たちが色々な列車(九州新幹線・SL・由布院の森号など)で出かけているCMを 見ていると、僕が元気だったら息子たちと一緒に吸収内の列車の全路線を踏破して回るのにと思ってしまう。途中途中の 駅で下車し美味しいものを食べて日帰り温泉に入って所々で釣りやキャンプをして・・・、楽しいだろうな。でもそれは 残念ながら出来ない事。
夕方帰って来た子供たちを一人一人呼んで(恒例の?)成績表を見せてもらう。みんなそれなりにがんばっていた様だったが 成績表としてはあまり変わっていなかった。大体今の成績表は細かい項目別に「よく出来る・出来る・努力しよう」の3段階の 評価が下されるが「出来る」にかなりの幅があると思うし、僕らが子供の頃と違い絶対評価だからどのくらいの基準で 5段階評価がなされているのか僕には理解出来ないから前の期と比較して「まあがんばった」とか「少し下がっているな、 がんばろう」とかしか言いようがない。具体的に褒めるところを見つけるのが難しい成績表だと思うのた。まあみんな 自分なりにがんばっている様だから良しと言うべきか。

3月23日 金魚、その後
てんぷく快全液入り水溶液に水替えしてから5日が経った、オランダ獅子頭に改善の様子は見られない。それどころか水面に 出ているお腹の量が前に見た時よりも大きくなっていた。金魚を飼っている下の息子などは「(てんぷく快全液は) ションベン臭いだけでちっとも効かない。」と不平顔で言い出す始末。体質改善のてんぷく快全液ではもう治らない ところまで来ていたてんぷく快全液の入手・投入の時期が遅かったという事だろう。後ひと月早く「てんぷく快全液」を 検索出来ていれば間に合ったかもしれないのに、可哀相だし残念だ。
ところでオランダ獅子頭が水面を叩く音が前より大きくなっているのは何故。苦しいの?、それともてんぷく快全液投入で 少しは元気になったの?。

3月22日 春分の日
今日は春分の日、昼と夜の時間が同じになる日。と言う事は地球は太陽に対してどの位置にあるの?。地軸が右に傾いて そして自転しているから、昼と夜の時間が同じになるためにはと頭の中に太陽と地球を描いて地球を太陽の周りで回して 日向と陰になる部分を頭の中に思い浮かべてみるが、???。
今日は月曜日で祝日、世間一般の人は連休と浮かれているが我々365日看護や介護を必要とする者と家族にとっては月曜と 祝日が重なる事は喜ばしいものではない。仕事や仕事をする時間が多様化した世の中ワーキングプアや在宅勤務が 叫ばれ始めた世の中に祝日を日曜にくっけて無理やり連休にした法律は果たして必要だったのか、みどりの日と海の日以外 祝日に制定した日にはちゃんとした意味があったろうに動かしてもいい祝日なんて制定した時の時代背景やその祝日の持つ 意味をなくしたと言わざるを得ない。この法律は本当に国民のためを思って作られたのか、国会議員や行政職員・一部の 観光業者のために作られた法律ではないのかと今更ながら疑問を感じてしまう。

3月20日 球春到来
今日からプロ野球・パリーグが開幕、これで半年間暇つぶしが出来る。今日の注目カードは日本ハム−ソフトバンク戦、 先発はダルビッシュと杉内、白熱した投手戦が予想された。けれど二人とも立ち上がりはよかったが調子はもうひとつ。 最初に崩れたのはダルビッシュ、ソフトバンクが小久保・多村連打の後エラーとダブルプレイ崩れで2点をもぎ取った。 小久保は打撃好 調、3回にもタイムリーを放ちこの試合3安打。.結局この試合ダルビッシュから9回5点を奪った。
杉内も今ひとつ、6階で3点を奪われた。しかし勝利の方程式が機能した。7回摂津と8回ファルケンボーンは昨年より制球が 定まっていない様に見え少し心配したが、抑えの馬原は今年は調子よさそうだ。結局5−3でソフトバンクが勝った。
ソフトバンクにとってこの試合の1章よりもダルビッシュから5点取ったのが大きいなあ。

3月19日 てんぷく快全液A
いよいよてんぷく快全液を試す時が来た、下の息子が今日学校から帰ってきてからオランダ獅子頭らの水槽の水替えを したのだ。水替えの後には当然今回入手したてんぷく快全液を入れた。果たして効果はあるのか?。
金魚の水槽の水替えは下の息子が全部一人でやっている。それが金魚を飼い始めた時の約束だったのだがもう4−5年 続いている。偉いものだ。僕は息子がどんな風に水替えをやっているのか見た事がないが、バケツで井戸から水を 汲み上げて水槽と砂利とフィルターを綺麗にしてそして水を入れ替えているのだろう。そこで嫁さんに「息子が水替えをする 様子をビデオに撮ってきて」と頼んだ。
その後のオランダ獅子頭らの様子はというとみんな元気な様だ。赤い金魚と黒い出目金は元気に動き回っていると言う。 オランダ獅子頭は水中に潜ろうとする音が前よりもよく聞こえてくるから少しは元気を回復してきているのかもしれない。 何とかオランダ獅子頭の転覆病が治ってくれれば良いが。

3月19日 通院日
今日は2週振りの通院日、車窓からの風景にもそろそろ桜が登場して良い時期だ。
11時半過ぎに出発、今日はいつもより段取りが早かった。いつも思うのだが車椅子に移乗させ外出準備をしてくれる 訪問看護師の二人は11時に来るのだから、リフト車に同乗する社会福祉協議会の二人ももう少し遅く来れば訪問の二人を 待つ事にはならないのに、髭剃りと洗顔だけなら15分もあれば済むだろうに。
峠を越えたところでまず僕の目に入ってきたのは鮮やかな黄色をした菜の花。でも菜の花って何のために 植えられているの?、昔は菜種油を作ったらしいが。そんな事を考えながら見ていた。しばらくしてショートカットの 横道に入るとしだれ桜がちらちら見えてきた。ここのしだれ桜は以前向こうの県道で病院に行っていた時に側で 見てみたいと思っていた枝振りが見事な桜だった。ところが側を通る時にはリフト車の窓と車椅子に座っている僕の視線の 範囲に桜のしだれた枝が入らなくて花群が見えなかった。これがリフト車での移動の寂しいところなのだ。
病院の桜はまだまだ咲く気配はなく池の亀4−5匹は中央にある置石の上で並んで日向ぼっこをしていた。救急処置室に 入りストレッチャーに移乗、バイタルが済むと外来の看護師さんが担当Docterへ連絡、主治医が対応出来るまで30分ぐらい かかるとの事、今日は忙しい日の様だ。しかし連携室のMさんや看護師さんととりとめのない話をしている内に主治医が もう現れて僕にとっては不可思議な話をした。主治医はいったい僕に何を言いたかったのか??。診察とカニューレ交換・ 胃ろうの処置が終わると「次のレスパイトはいつにしますか?。」と。そこでゴールデンウィーク中4月30日からの レスパイト入院が決まった。
帰り道春の息吹を感じながら帰ろうと車窓からの風景を見るつもりでいたが目がしょぼしょぼして開かなかった。これこそ 「春眠暁を覚えず」か。それにしても通院が疲れる身体になったなあ!。

3月17日 ナゼ温かくならない!
今日はお昼から入浴車の日、熱めのお湯に手がちょっとジンジンしたがその分身体はよく温まった。
ところがしばらくすると肺から左肩にかけてが冷えてきて挙句の果ては鼻詰まり、こんなにたくさん着込んでいるのに寒く 感じるのは何故。ほんとにこのポンコツの身体は・・・・・。でもしょうがないので嫁さんを呼んで布団をもう一枚 掛けてもらってその上首にタオルを巻いてもらった。夜中寝る時にはそれでも足りなくて「左肩にほっかいろを貼って」と 嫁さんは「可笑しいわよ。」と言いながらも貼ってくれた。可笑しいのは自分でも充分分かっている。でも放っておくと くしゃみまで出てきて風邪を引きそうなんだもの。難しい身体だよ、この身体は!。

3月16日 てんぷく快全液
昨日今日とオランダ獅子頭が水中に潜ろうとして水面を叩く音がよく聞こえている。果たして温かくなってきたので元気を 取り戻してきたのかただ単に苦しくてもがいているのか?。昨日車椅子に座らせてもらった時にちらりとオランダ獅子頭の お腹を見たが、10日ほど前より水面に出ているお腹の容積が大きくなっている様な気がした。これはまずい!。
先日Google検索で「転覆病」を調べていたところ、「てんぷく快全液」なるものに行き着いた。どうやら転覆病の薬?らしい。 下の息子を呼んで「欲しいか?」と尋ねたところ「欲しいけど高い(\1,160)しどこで買うの?。」と。販売元に使い方を メールで問い合わせてみたら金魚の体内バランスを整えるサプリメント的な使い方をするとの事だった。どっちにしろ 今はお手上げ状態なので一縷の望みを託して注文した。しかし販売元が品切れとの事で入荷まで少しかかる様だ。 何とか早く送ってもらって試してみたいものだ。治れば良いな〜あ。これで治らないときはココア浴しかない。

3月14日 従姉妹来たる
今日本家の伯父さんの7回忌があったとの事。本家の伯父さんが逝ってからもう丸6年、早いものだ。どちらかというと 強面の伯父さんだったが僕や僕の子供たちには優しかった。最後に会いに行った時伯父さんは町の病院の奥まった雰囲気の お世辞にも綺麗とはいえない様な部屋にいた、いや僕には押し込められているという風に感じた。お互いこれが最後と 自覚していた。僕はこんな部屋で伯父さんは最期の時を迎えるのかとそれが無性に悲しかった。最後にお互いの手を 重ね合わせ分かれた。
あれから6年、法事の後本家の従姉妹たちが訪ねて来てくれた。子供の頃姉弟(妹)の様にして育った従姉妹たち、 この従姉妹の二人とはよく一緒に遊んだものだった。遠くに住んでいる従姉妹の方と会うのは久し振り、懐かしさが こみ上げてきた。子供の頃は春休みになると毎日山へ行きツワやワラビを取ってきて市場に出してお金を 稼いだものだった。僕の山菜好きはこの時から始まったといっても過言ではない。他にも一緒に色んな事をして 遊んだものだった。何かもが懐かしい。

3月12日 胃が痛い
今日の朝は胃が痛くて目が覚めた。僕は元々が潰瘍持ちで人工呼吸器を着けて4ヶ月目(7年前)に吐血した事があるし 若かりし頃暴飲暴食をした後はよく胃が痛くなっていたものだった。数ヶ月前の朝も同じ様に胃が痛くて目が覚め水を 飲ませてもらったら治ったので今回もお袋を呼んで水を飲ませてもらった。けれど痛みは薄らいだがすっきりしない。 胃潰瘍が進行しているのかもしれない。
胃潰瘍といえばストレスがつき物、では今僕は何にストレスを感じてるの?。将来への不安、今更って感じ。 外出出来なくて自然と触れ合ったり季節の移り香を感じる事が出来ない事への不満、オランダ獅子頭の転覆病に対し 何もしてやれない事への苛立ち、どちらも有り得る。だけど・・・・・それだけじゃあないって感じ。世の中への不満・ 苛立ちかな。

3月10日 散髪
大分前から髪が目にかかって痒かったし邪魔だったので散髪をしたいとは思っていたが、寒い中散髪すると風邪を 引くのではと二の足を踏んでいた。3月に入ってもうそろそろ良いかなと思って10日ほど前に看護師さんを通し予約した。 今日がその散髪の日、けれど外は雪。何でそうなるの。
11時半○リアンさん到着、いつものKさんと昔勤めていた会社の人事にいた娘(こ)に似た人。ただ似ているだけで何となく 嬉しい。「耳は出して。あんまり短くしないで」とお願いする。言っておかないと嫁さんがすぐ「短く。」と言うから。 30分ぐらいで終了、鏡で見せてくれるという。自分の顔を見るのは久し振り、てかてかしていた。自分の中では 十数年前から時計は止まっているが、鏡の中の僕はそれなりに年相応。

3月9日 う〜ん難しそう
下の息子がオランダ獅子頭たち金魚の水槽の水替えをし砂利を敷いて水温が上がる様にと常に暖房を効かしている僕の 部屋に運んできた。見るとオランダ獅子頭はいつも完全にお腹を上にして(見事に)ひっくり返っている。たまに水中に 潜ろうともがいてはいるのだが、大きなお腹(の中にある浮き袋?)が浮かんでしまい潜れそうもない。このままでは 治るのは難しそうだ、金魚を懸命に可愛がっている息子にはかわいそうだけど。こうなると塩を入れるしかないのかなあ。 でもなぜ薄い食塩水が転覆病に有効な対処療法と言われているのか、浸透圧で体内に取り込まれるであろうNaが 関係するのかなあ。
金魚の水槽を見て感じた事がもうひとつある。それはこの水槽にいる金魚が3匹とも前に見た時よりもずっと肥満児に なったって事。金魚は縦横に広がっているし出目金も大きくなった。オランダ獅子頭も腹が出っ張ってる。息子は餌は そんなにやってないというが食べ過ぎじゃないのかなあ。今日から僕の部屋の金魚たちはしばらく絶食、 これで少しは変わるかな。

3月6日 このままでは金魚が・・・
先日下の息子に「金魚はどうしてる?」と聞くと「いつもと同なじ。元気にしてる、ひっくり返ってるけど。」という答えが 帰ってきた。オランダ獅子頭の水槽を僕の部屋から縁側に移動させた後しばらくしたらどうやら転覆病が再発したらしい (転覆病は水温と密接な関係があるとの事だから)。
それで今日車椅子に座らせてもらった時に看護師さんだちに縁側の金魚を見に連れて行ってもらった。すると オランダ獅子頭が水面からお腹を出して見事にひっくり返っていた。まだ元気はある様だけど以前僕の部屋に来た時よりも 大分お高を出してひっくり返っていた。これを見た瞬間僕は「これはもう危ない」と感じた、以前インターネットで 転覆病について調べた時に恐ろしいのは水面に出たお腹から感染症にかかる事とひっくり返っているために餌を 食べきれなくなって衰弱死してしまう事と書いてあったのを覚えていたから。それで嫁さんに「金魚がもう危ない」と 言ってはみたが「どうしようもないじゃないの。(それに)オランダ獅子頭が家に来てからもう5年ぐらい経つのだから。」と つれない返事。遊びから帰ってきた下の息子を呼んで「このままじゃあオランダ獅子頭は死んでしまうぞ」と言ったら 「どうすれば良いの?。」と逆に質問されて困ってしまったが、「ここに連れてきた方が良い?。」と言うからとりあえず この部屋で水温を上げてみるしかないと頷いた。また「縁側の水槽はどうしてあんなに濁っているのか?」と聞くと 「砂利を敷いてないからフンが舞い上がって濁る。」と。それで「お母さんと砂利を買ってきたら」と促した。
誰か転覆病の治し方を教えてくれないかなあ。オランダ獅子頭が何とか元気になってくれれば良いな、下の息子の 悲しむ顔なんて見たくはないもの。

3月5日 通院日
今日は通院日、外出?外の空気が味わえる日。町の移動サービス(社会福祉協議会のリフト車と同行)を利用する様になって もうどれくらい経つだろうか。10回は下らないが目と窓の位置が合わなくて車窓からの風景が見ずらいのには相変わらず 慣れない。今は菜の花と白梅・紅梅が見ごろな季節、けれどどちらも中途半端にしか見えないのは寂しいところだ。途中 白梅にしては花が大きい木(まるで八重の様)が見えたが、あれは梅?杏?桃?。
病院に着くと僕はまず池を見る、亀たちは今日はどうしているかと。亀たちは春の日差しに誘われてのんびりと甲羅干し。 1・2・3・・・・・、いったい何匹いるのか、傍に行って見てみたい親交を図りたいが今日も言い出せなかった。
主治医を待つ間に地域連携室の方に「この病院ではヘルパーさんに対して痰の吸引の研修会はやっているのですか?。」と 尋ねてみた。それに対しヘルパーに対する痰の吸引の研修会は数回実施しているとの事。ただし研修会を開催する主体は あくまで地域の各保険所であってこの病院はあくまでフォローする立場だと言うのだ。病院としての立場建前は分かるが 保険所が集めてもヘルパーによる痰の吸引の現状が全く進んでいないのだから。僕としては病院の権威や名前を 振りかざしても現状を打破して欲しいのだが。僕が研修会の被験者となればヘルパーによる痰の吸引が進むというのなら 僕は喜んで何回でも被験者になるのだが。

3月3日 僕はもう不要?
年末に退院した後から上の息子と一緒に英語(と数学)の勉強をする様になって時にはアドバイスもしてきた。ところが 僕が2月の初めから2週間レスパイト入院をしている間に息子は自分の勉強の仕方を見つけた様だし学校の成績も 上向いてきた様なので息子自身もう僕のアドバイスは不要と考え始めたらしいのだ。確かに僕と一緒に勉強していると 途中でも僕が一向に構わずに文字盤を使ってしばしば息子にどうしてそう考えたのかと説明を求めるから時間がかかるし それに。父親と勉強するというのも息子自身はひと言も不平は言わないどころか終わったら「お父さんもお疲れ様。」と 言ってくれるのだが煩わしいのだろう。息子が自分自身で自分の勉強の仕方を見つけたというのは喜ばしい事だしもう そろそろ潮時かもしれないな、寂しいけれど。

3月3日 ひな祭
今日は3月3日桃の節句・ひな祭、我が家のお雛様はお目見えしているのかな。
僕が子供の頃はひな祭なんて縁遠いテレビの中だけの世界だった。子供たちは男も女も5月5日こどもの日に 楽しむものとばかり思っていた。けれど近年うきは・柳川・日田市では街を上げてひな飾りをしていると知ったし、 佐賀市の佐嘉神社では流しびなの風習を行っているとのニュースが流れていた。どうも城下町ではひな飾りの風習が強く 残っている様だ、浮羽が何氏の城下町だったかは知らないが。そういえばいつの頃からだったか3月3日の給食には ひなあられが付いていた様な気がする。

3月2日 誕生日
今日は娘の16回目の誕生日、早いものだ。朝バタバタと出かけて行った娘に「おめでとう」のひと言が言えなかったから 夕方帰って着て僕の部屋に顔を出した娘を待ち構えて「誕生日おめでとう」と声を掛けた。今の僕に出来るのは それくらいの事だけだから。それに対し娘は「お父さん、ありがとう。」と笑顔を返してくれた。人工呼吸器を着けて僕は 生きるので精一杯・嫁さんは僕の世話で目一杯だったから子供たち特に思春期を迎え始めていた娘は誰にも相談出来なくて ほっぽり出された様な気になって辛くて寂しい思いをしたらしい。良い娘に育ってくれていると僕は思う。誕生ケーキも なかった様だがみんなはちゃんとお祝いやプレゼントはしてくれたのだろうか。
娘とは二人でよく出かけたものだった。初めて行った(小)山は春日市野外活動場、娘がまだ1歳の夏だった。娘の小さな リュックには紙パンツを数枚入れ僕のリュックには凍らした棒ジュースとおやつを入れて登った。頂上の小さな天文台で 食べた、美味しかった。蛤岳にも二人で出かけた、娘2歳の晩秋.この時僕は検査入院した直後で「5年後には車椅子生活に なるでしょう。それを遅らせるにはとにかく運動してください。」と言われていて運動しなければとむきになっていた。 途中のコンビニで弁当とお茶・お菓子を買い林道の入り口に自動車を止めて蛤岳に向かった。蛤岳の山頂に着いたのは 午後4時少し前、急いで引き返したが登山道入り口(林道との別れ)で暗くなった。林道まで出れ広いし暗くても 何とかなるという気持ちと最悪娘と二人での塾かなという気持ちが交差したが、幸い登山道の途中で挨拶を交わした 登山者の人たちが(おそらく林道入り口に止めていた僕の自動車に気が付いて)登山道のところまで自動車で迎えに 来てくださったので助かった。天拝山にもよく登ったが一度だけ娘と上の息子と三人で天拝山に登った、娘3歳・息子1歳の 初夏の事だった。半分ほど登ったお社のところで息子が「もう行かないと駄々をこね座り込んでしまった。そこへ 通りかかった親子三人が声を掛けてくれて一緒に山頂まで歩いてくれた。娘はその親子に任せて僕は息子と手をつないで 歩いて無事天拝山の山頂に着けた。宝満山にも娘と二人でも登った、これも娘3歳の夏だった。朝8時前に目が覚めて 娘だけを起こして自動車で大宰府に向かった。竈神社入口にあるコンビニでおにぎりとお茶とお菓子を買い竈神社の 駐車場に自動車を止め宝満山に登り始めた。宝満山は結構厳しい山だ。さすがの娘も五合目で根を上げた、まだ 3歳なのだから無理もない。だが僕は病状が進んでいておんぶは出来ない。そこへ偶然天拝山で出会った親子が通りかかり 娘を励ましながら一緒に登ってくれた。その親子とは「先に下りる。」という事で山頂で別れた。山頂で昼飯を食べ 1時間ほど休憩した後僕と娘は山を下り始めた。一合目?の林道があるところまでは娘は歩いてくれたがそこで娘は 歩くのを渋った。仕方がないのでそこからは林道を時には抱っこして時には一緒に歩いて行く事にした。家に着いたのは 午後5時過ぎ、実に僕は嫁さんに黙って娘を連れ出して9時間以上家を留守にしていた事になる。当然僕は嫁さんに こっぴどく叱られた。懐かしい思い出である。
かわいそうなのは息子たち特に下の息子であろう。記憶にはないかもしれないが上の息子とは手をつないで近くの公園へと 散歩もしたし数えるほどだが家族でドライブ旅行にも行った。けれど下の息子がよちよち歩き出来る頃には、僕はもう杖が ないと歩けない状態だったから下の息子とは手をつないで歩いた事もないし抱っこや飛行機・お馬さんをしてあげた事さえ ない。家族特に下の息子には申し訳ない気持ちで一杯である。


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2月
2月28日 2月も今日で終わり
2月も今日で終わりだと思うと今年はこのふた月がとても早く過ぎ去っていってしまった様な気がしてしまうのは 何故だろう、それだけ充実していた?・・・そうはとても思えないが。
相変わらず肺は寒い。特に眠りから覚めた時が肺において温かさと寒さのギャップが相変わらず大きくて、掛け物を多く 掛けていると汗だくになるし逆にちょっとでも油断しているとすぐにゾクゾクしてきて鼻詰まりになる。難儀だ。
今日は娘が朝6時半頃出かけていって上の息子は午前中はクラブに昼からは遊びに行った。下の息子はいつの間にか いなくなり嫁さんはぜんざい会の手伝いとかでお昼前に出て行った様だ。僕の部屋ではテレビの音がガンガン 響いてるだけで部屋の周りに人の気配はない。ひとり取り残された様で何だか寂しい。春先のこんな良い天気の日は下の 息子でも連れて野山を歩き回りたいなあ。

2月26日 女子フィギュアフリー
女子フィギュアフリー、キム・ヨナは流石に強かった、このオリンピックに限って言えば強すぎた。フリーで150点も 出されるとトリプルアクセル2回の浅田真央といえどどうにもならない。浅田真央はあの状況の中でよくがんばったと思う。 ライバルに150点も出された後でよく緊張の糸が切れずにあれだけの演技が出来たと思うのだ。浅田真央ちゃん偉い。 フリーで二つのトリプルアクセルを完璧にきめ合計得点も205点を越えているのだから日本人には金に見える 立派な金メダルだよ。
僕はキム・ヨナが135点以内なら真央ちゃんにも十分金メダルを獲れるチャンスはあると思っていた。だからキム・ヨナの 演技中はしたない話だがどこかで小さなミスをしろと願っていた。だけどキム・ヨナは完璧に演じてしまった。これでは どうにもならないと見ている僕が諦めた。
さて4年後に向けての浅田真央の課題を上げるとすれば、基礎点10点以上のトリプル-トリプルを身に付ける事と1.1倍となる 後半のジャンプをどれだけ身に付けられるかだと思う。後はフィギュア協会に対してのお願いだが今シーズンは加点の 出来映えでの差があまりにも大きくつき過ぎた。難しい技に挑戦し成功した者にはそれが報われる採点方法でなければ ならない。そのためには例えばジャンプの基礎点を男女同じじゃなくするとか男の四回転・女の四回転や トリプルアクセルの点数をもっと高くして欲しいな。

2月24日 女子フィギュアSP
今日待ちに待った女子フィギュアショートプログラムがあった、日本にとってバンクーバーオリンピックで最もメダルに 近い種目である。フジテレビ系で朝9時半ごろからLive放送があったので僕も楽しんだ。
僕の予想はミスがなければキム・ヨナ75点、浅田真央70点、安藤美姫他有名どころ65点、転倒したら-10点と見ていた。 コンビネーションジャンプは浅田がトリプルアクセル-ダブル・キム トリプル-トリプルだが、過去の評価を見ていると どうやらトリプル-トリプルの方が点数が高い様だ。その理由は今まで分からなかったが、今回テレビで解説を聞いていて 少し分かった。そもそもトリプルとダブルとでは同じ跳び方をしても2.5点の差があるとか、それに各技に出来映えという 加点システムがあり±3点の加点があるとか。客観的に見ても確かにキム・ヨナはスピンやジャンプにはいる時のスピードが あるしトリプルジャンプにしても難しい跳び方をしているらしい。過去の試合でもこの難しい跳び方や加点でキム・ヨナの 方が多かったからキム・ヨナの方がパーソナルベストは浅田真央より5点ほど高いのか。
オリンピックというこの大試合でも浅田真央/キム・ヨナ/安藤美姫も普段(以上)の力を遺憾なく発揮した。キム・ヨナ 78.5点、浅田真央73.78点、ロシェット71.36点、安藤美姫64.76点とみんな好成績だった。だが嫁さんはキム・ヨナが 浅田真央の点数を上回った事に大いに立腹。しかし僕の見方・考えではショートプログラムで5点差以内なら想定内で 浅田真央の逆転金メダルの可能性も十分ある。僕は個人的には日本の選手以外にはロシェットを応援した、「ロシェット (直前の母の急死を乗り越えて)ガンバ」と。まあ今日はお風呂の時間で鈴木明子以降は眼鏡を外していて見えなくて音だけ 聞いて応援していた。それにここだけの話しキム・ヨナの小さいミスを期待していたが浅田真央のあの高得点の後で あれだけの演技が出来るとは流石である。
明後日のフリーで浅田真央の逆転金メダルは十分あり得る。そのための第一条件はトリプルアクセル-ダブル-ダブルの 三連続ジャンプと演技中盤のトリプルアクセルを成功させる事だろう。それにフリーの演技構成点はキム・ヨナより 浅田真央の方が上らしいから後は逆転を信じて今出来る精一杯の演技をして人事を尽くして天命の金メダルを 待つしかないのだろう。フリーで130点オーバーを目指してがんばって欲しい。

2月21日 やっぱり家が寒い
退院して2日、エアコンも一日中26-7℃で効かせているのに家の方が寒い。何故だろう。壁の厚みの差か床下から冷気が もれ伝わってくるのか、肺が底冷えしている様な感じだ。いずれにしても後しばらくは防寒対策はしっかりと怠らない様に した方が良さそうだ。
前々から思っていた事がある。ひとつは壁の方の上半身のベッド柵に厚手の掛け物をかける事、もうひとつは2リットルの ペットボトル数本に水を入れスプレーで真っ黒に塗って、昼間日向で温め夜呼吸器の側に置き周りの空気を温める。 どうだろうか、効果は無い?。

2月5日〜19日 レスパイト入院
今回入院したのは久し振りに以前からよく入院していた病棟の1号室、窓から2本の桜の木が見える。1本は蕾が膨らんでいて 温かくなったら数日の内に白桃の花がつきそう、もう1本は本当に蕾はあるのかと思えるほどか細い。似かよった環境に 育っているのにこれほど蕾の状態育ちが違ってくるのか。今年桜が咲いたらどこか桜の名所に見に行きたいが・・・・・。 まあ無理だろうなぁ、同行してくれる人がいないから。
入院3日目の日曜日、この2日間何もしないでゆったりとベッドの上で過ごしていたがまだ身体がしんどい。やっぱりどこか 身体に悪いところがあるのか。まあ明日の月曜日胸のCTを撮るから肺のどこかが悪かったら分かるだろう。
そして月曜日胸のCTを撮ったがその日の内に主治医から結果の連絡は無かった。でもまあ主治医から結果の連絡も無い・ 血液検査など検査の追加や点滴が始まらなかったという事はCTの結果がそう悪くは無かったという事だろう。翌朝 主治医からその通りの結果(年末の肺炎の影は消えていたので問題ない)の報告があった。では何故に身体がしんどい という思いが軽くならないのか。精神的なところにこのしんどさの原因があるのかなあ。
パソコンは入院して4日目から使い始めた。今回の入院で病院に持ってきたのはVAIO、右足の指でのスイッチ操作する方が 今回の入院時に病棟の複数の看護師さん達にセットしてもらうには簡単に出来そうで都合が良さそうと思ったから。でも 僕のこのVAIO、かなりの気まぐれ屋さん、スムーズに立ち上がる事もあれば突然リスタートを繰り替えしたりする事も ある。メモリーは768Mまで増やしているのだが。やはりあの時惜しまずに1G増やしておくべきだった。買った当時から 学習機能や辞書登録がうまく働かないなど色々あって自分で出来る事は色々と手をうってきた。リスーとの立ち上がりの 不安定さにしても、Windows起動時に自動立ち上がりするアプリケーションを少なくする事により一時はあの気まぐれを 起こす事もほとんどなくなっていたのだ。子供たちがこのVAIOを使うようになってまた勝手なリスターとを繰り返す様に なっていると聞いたから、この機会にもう一度「スタートアップ」フォルダを調べてみる事にした。するといくつかの 「スタートアップ」フォルダの中に見知らぬショートカットや優先順位が低そうなもの・自動起動しなくてもいいのかなと 思えるショートカットが見つかった。そこで怪しいもの以外ディスクトップなどに出し代わりにオペレートナビの ショートカットを入れ込んだ。うまくいけばいいと思っていたがそんなに甘いもんじゃあなかった。そこで ショートカットをさらに思い切って動かしてみると、オペレートナビも起動する様になったし気まぐれも 起こさなくなった。そこでついでに病院では通信はしないから通信PCIを持って帰ってもらったら、今度はオペレートナビが 自動では立ち上がらなくなる事が多くなった。でもまあ気まぐれを起こす事は極まれになったからオペレートナビの起動は 申し訳ないが看護師さんに任せる事にした。これでまあ何とかパソコンを使える環境が整った。
今週の月曜だったか看護師さんから「同じALSの方に呼吸器を見てもらいたいのだが会ってもらえます?。」と申し入れが あった。僕はもっと症状が進んでいる方を想像していたが、お会いしてみると球麻痺はかなり進行しているかに見えたが まだ手も動かせるし自分の力だけで何とか立ち上がる事も出来る方だった。がんばれという言葉は使いたくないが、 動くところは自分から動かす努力は惜しまずしてもらいたいと思った。自分で動かせる部位を動かしていれば何もせず 諦めた時より筋肉は必ず萎縮するスピードはかなり鈍るはずだし、手足がたとえ動かなくなってもどこかの指のほんの 一部の動きでも残るかもしれないと思うのだ。現に僕は2年前の年末まで右手薬指のわずかな動きでスイッチを使って パソコンを操作していたし足は両方ともまだ何とか動く。この日会った方に出来るだけパソコンを使うよう進めたが、 後日パソコンをやりたいと作業療法士の先生に相談していると看護師さんに聞いたので嬉しかった。
火曜日嫁さんがパソコンの宿題を持って来た、娘が物理の落下の問題がよく理解出来ていないので解説してと 頼まれたという事だった。娘が僕に頼むなど極めて稀な事だから何とかしてやりたいが如何せん明日までとは難しい。 とりあえず嫁さんに問題を読んでもらったが聞いた事の言葉が出てきてちんぷんかんぷん、それで問題を見せてもらって ようやく落下の問題と分かった。これなら何とか解けそうだが時間が少な過ぎる。嫁さんは「明日取りに来るから よろしくね、久し振りの物理だから嬉しいでしょう。」と言って帰って行った。それからの僕は必死、夜の経管栄養中に 問題の解答と説明のやり方を考えて経管が終わったらテレビも点けずに直ちに解説作りに取り掛かった。 看護師さんたちからは物理の問題をパソコンでやってるとすごかられたり奇異な目で見られたり、それでも消灯を 伸ばしてもらってヒントとT番を書いた。次の日は朝の経管栄養が終わったらすぐにパソコンをセットしてもらった。 経管が終わってすぐにパソコンするのはちょっと気分が悪くなるがめったにない娘からの頼み、何とかしなければ。そして 昼の経管栄養も遅らせてもらってV盤まで全部何とか形を整えた。ところが夕方になっても嫁さんは来なかった、 34-5年振りの物理、あれだけがんばったのに。嫁さんが取りに来たのは昨日(木曜日)の夕方、「来るつもりだったけど家の 行事が重なってどうしても出れなかった。」との良いわけ。「おい、それならば昨日って期限に切るなよ、こっちは プレッシャーと寝不足の中で仕上げたんだぞ」と心の中で思いながら他の恨み節をひと言ふた言。だいたい病院での パソコンスイッチ操作はマットレスの違い買いえより足の指にか力を入れないと上手く反応しないので力が要って意外と しんどいのだ。それにパソコンが出来る時間も限られるしナースコールのスイッチがずれて鳴らせなくなるかもしれない。 時間を限られているとプレッシャーになってパソコンする事自体結構疲れるのだ。でもそんな事は知らない嫁さんは 保存しているカードを持って娘の話はそこそこに喜んで帰って行った。
今日旗印の日、11時に迎えに来るというので忙しい。経間を早めにし(NaTuが気が付いてくれた)浣腸をしてもらいその上 思いがけずお風呂まで入れてもらえた。そしたらもう11時過ぎ、お迎えが来た。病棟の看護師さん3人に見送られながら 家路に着いた。自動車の車窓からは所々に紅梅・白梅が見えた。その中の二ヶ所にしだれ紅梅があったが、珍しくて しだれ紅梅の盆栽が欲しくなった。家に着いて自動車の助手席から車椅子に移乗させてもらったが立たせてもらった時 思っていたよりひざに力が入ったと思えて安心した、年末肺炎で入院した時はひざにほとんど力が入らなかったので 段違いだった。夕方の訪問リハビリの時もほとんど支障なく立たせてもらえたので更に安心感が強くなった。今回の 入院では身体筋肉は弱くならなかった、良かったなあ。
今回入院した病棟には本当に久し振りに入ったので僕の顔見知り(顔と名前が合う)看護師さんはかなり少なくなっていた。 知らない看護師さんが増えていくのは不安だけれど2週間で僕がファンになった看護師さんが4-5人に増えた。また 入院した時に少しずつでも顔見知りの看護師さんを増やしていくしかないな。

2月4日 立春、入院前の一日
明日から入院するというのに僕の中ですべき事が山の様にあって何から手を付けていいのか分からない。
まずは久し振りにデータのバックアップをしよう、と思ったら恥ずかしながら始めDVD-RWのデータの消去の仕方が 分からなかった。それを何とか見つけてバックアップを終えた。次に入院前ギリギリのホームページの更新の準備と 滞っていたメール、お詫びと近況それにしばし入院と連絡。どこまで出来るか分からないがともかく急ごう。
通ってメールを滞っていた方に送ろうとしたが結局数名にしか出来ず。しばらく入院して体調が戻ったら メールするから許して、ね。

2月3日 豆まきも今年はやらず
暦の上では明日から春、そう今日は豆まきの日、けれど我が家からはもう「鬼は外」「福は内」の掛け声は聞こえて こなかった。末っ子である下の息子も5年生、もう我が家では豆まきは卒業という事かな、もう誰も言い出さなかった様だ。 去年は下の息子が自分で鬼のお面の絵を描いて鬼の役までかってでてくれたのたがはるか昔の事の様だ。そういえば息子の 描いてくれた鬼のお面、ずっと僕の部屋の巣テール棚に掛けてあったのにどこへ行ってしまったのか。しかしまあ 子供たちの成長と共にこうして日本の伝統行事が日本人の家庭からまたひとつ消えていく、寂しいものだ。
年賀状の出し忘れを「寒中見舞い」にして出すつもりだったのたがサボってしまってまた機会を失った。最近メールの返信も 滞らせてているし時間管理がなっていない。いったい何をしているのだろう。


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1月
1月31日 1月も今日で終わり
1月も今日で終わり、このひと月いったい何をしたのか。とても早く過ぎて行った様な気がする。
ひと月の半分を金魚・オランダ獅子頭と過ごしたが見えなくなると(エアコンのない縁側に移っただけの様だが)少し 寂しい。今度はパソコンを置いているサイドテーブルでメダカを飼っていつも見ていたいものだ。可愛いだろうな。 生き物がいつも側にいると(植木、苔でもいいが)やっぱり楽しいものだ。この気持ちはいつも世の中に触れ合う事の出来る 健康な人には分からないだろうな。
このひと月夜は半分ほど上の息子とよく時間を共有した。僕に文字盤でずっと付き合うのはかなり辛いだろうがよく 辛抱してくれている。この僕と息子が共有していた時間がこれから良い結果に結びついてくれれば良いが。まあ僕はそう 信じているし確信も持っているが。

1月29日 最近体調不良
この1週間熱冷まし・眠前薬にお世話になる日がずっと続いている。恐らく年末立て続けての肺炎それに インフルエンザによる高熱でかなり身体は弱っていただろに、無理やり父親としての威厳(それも偏った)を必死で保とうと しているからストレスや寝不足・胃痛の再発などかなり無理が溜まってきているのだろ。以前なら訪問看護師さんに 同乗してもらってドライブでストレス発散って事もあったが、制度の壁の前では言い出せる雰囲気も顔でもない。人の 顔色を伺ってする生活にももう疲れた。
レスパイトまで1週間を切った。せめて自分の出来る事は出来る限りやってせめて道標は立ててやらねば。

1月24日 胸が痛い
今朝5時前胸がキリキリと痛み出した。自分では肺が痛いのか胃が痛いのか分からなかった。嫁さんを呼んでもらおうとも 思ったが呼んでもせいぜい「私に何をして欲しいの?。」と言われるのがおちだからせんない事と止めた。
まず肺を疑った。足でコールを押してお袋を呼んでしばらく人工呼吸器を外してもらった、以前呼吸過多で苦しんだ事が あったから。でも肺ではなさそうだった。残るは胃の潰瘍か、そこでお袋に水を少し飲ませてもらった。すると痛みは うその様に治まった。きっと胃の潰瘍がお目覚めになったのだろう、ここんとこ寝不足やストレスを 色々感じているからね。

1月23日 日本ALS協会長崎支部北部地区総会へ参加
今日は川棚病院で行われる長崎県北部地区ALS患者・家族の集いに参加する事になっていた。僕は長崎県外だが 佐賀県西部では神経系難病患者は長崎県側にお世話になっている場合が多いから、長崎の病院にお世話になっている 関係から僕らがこうして長崎のこういう集いに参加する事もあるのである。
今日の移動手段は町から移動サービスを委託されている社会福祉協議会のリフト車、1時頃に家へ4時に川棚病院へ迎えに 来る事になっていた。リフト車の車中は社協の看護師さん・ヘルパーさんが同乗してくれるが、集い中は他の仕事が あるとかで帰ってしまう。僕としては社協の看護師さん・ヘルパーさんに患者や家族の生の声を聞いて欲しかったし 集いの会場の雰囲気を感じ取って欲しかったのだがそれは困難な様だ。ただ社協から破局さんが参加してくれた。あの 度事なく堅物に見えるような局長さんがこのALS患者・家族の集いに参加して何を感じていただけたかだ。我々 ALS患者・家族が自宅で暮らすためには周りの多くの人の手助けを借りる事が出来なければ確実に共倒れする。そしてそれは 病気の進行と共に顕著になっていく。しかし行政も医師会も看護協会も訪問看護ステーションも介護事業所も何か家族の 負担を軽減しようという動きをしてくれているとはとても思えない。
12時半訪問看護師さん2人・社協の看護師さんとヘルパーさんが着いた。僕は12時50分到着1時10分出発と聞いていたので びっくりした。これではガンダムseedが見えない。駄々をこね12時50までみんなに待ってもらった。
2時少し舞え川棚病院到着、すぐに会場のリハビリ室に入るとそれぞれの患者さんの自己紹介が行われているところだった。 聞いていると、今回のALS患者・家族の集い(日本ALS協会長崎支部県北地区総会)の参加者は僕・隣町の方・平戸の方・ 前の会長さん(体調の関係で遅れてこられたようだが)を除いてここ1-2年に告知を受けた人かほとんどでこれからの 不安ばかり口にされていた。僕も経験してきた事だから気持ちはよく分かるのだが僕の今の現状・悩みとは気持ちのずれ・ ギャップを感じてしまった。確かに最近告知を受けた患者・家族の悩みや不安を解消してあげる事も大事だが、どうすればよりよい在宅療養が出来るか、訪問看護・ヘルパーとは制度上の壁や意欲や気持ちの壁があって1日に利用出来るのは せいぜい2−3時間、しかも訪問看護日曜祝日休みという現状。どちらが降りてきて365日8-12時間対応にならなけば家族も 重度の在宅療養もいつか崩壊するだろう、家族がいつも同一方向を向いている訳ではないのだから。しかも受け入れ出来る 病院・施設は少ない。そしてこういう会でそういう事を持ち出そうとする人はいない。
午後4時集いのお開き共に移動のリフト車が到着、会場で挨拶だけでも交わしたい人が何人かいたが僕は移動に町の 移動リフト車サービス利用しているが時間契約だからどうしようもない。せめて社協の看護師さんかヘルパーさんが集い中 僕の蕎麦にいてくれたなら会場の雰囲気や僕の心の動きも感じる事が出来たかもしれない。まあ社協はサブだし(悲しいが 相手もそう感じているだろうし)時間契約のリフト車に融通を利かせろというのも無理な話だ。もっと気楽て融通の利く 外出方法はないものか。厚生労働省の在宅患者に関する通達でQOLの向上に努めなさいなんて書いてあるのだが チャンチャラおかしい。

1月19日 またもや熱発
昨日の明け方4時頃だったと思うが肩が冷えてきたのでコールを押してお袋を呼ぼうとしたのだが(両親のいる)納戸の 充電対応チャイムが鳴らなかった。当然の事ながらお袋が起きてくる気配はない。それから十数回コールを押したが 無駄だった、2時頃小便がしたくなってコールを鳴らしてお袋を呼んだ時にはちゃんと聞こえたのに。心臓の鼓動はドキドキ パクパク早くなり血圧が上がっていくのが自分でも分かった。幸い今回のカニューレは痰が出ない(というより出なさ過ぎて 辛い)から気管に痰が詰まる事はない・落ち着けと自分自身に言い聞かせた。
それから1時間半ほど経っただろうか、台所の明かりが点いた気配がしたのでコールを押したらお袋が起きてきた。僕が 「納戸チャイムが鳴っていない」と言うと、「ちゃんと鳴っている。2時に起こされてそれから眠れなかったので3時過ぎに 睡眠薬を飲んだから聞こえなかった。父ちゃんが呼んでいると起こしてくれた.」とお袋は言った.そしてしばらく「鳴った」 「鳴らない・音がしなかった」で押し問答した。
朝方肩が冷えたせいかどうかは分からないが背中がゾクゾクしてきてしだいに気分がすぐれなくなってきた。朝の 訪問ケアの時に訪問看護師さんがバイタルを取ったら37.3℃、急いで風邪薬と解熱剤を入れてこの日の清拭は中止と頼んだ。 だからこの日のほう看護師さんのケアは洗顔・手足の稼動訓練と便処理、途中着替えるほど汗が出たら乾式と着替えを してもらうつもりだったが多少汗で湿ったかなと感じる程度だったので止めた。それから午後の車椅子移乗(昨日は 日曜なので車椅子はなし)まで眠るつもりだったが、いざ寝ようとするとかえって目が覚めてきてしかたがないので パソコンに向かったがこんな気分では何も出来るでもなくただ眺めているだけだった。
午後3時過ぎ訪問看護師さんが来て「車椅子どうします、座ります?。」「今着替えをします?。」と尋ねてくれた。僕は 「今日も車椅子に座りたい(昨日は日曜で車椅子に座っていないから今日座らないと二日連続座らない事になる)」「ベッドに 戻ってから着替える」旨を伝えた。本当は肩や腕の部分のシャツが汗で湿り気味だったので着替えたかったが、後で ベッドに戻った時も着替えるので(座った後着替えなかったら身体が冷えてくるから)二度手間になると思い 言い出さなかった。それに車椅子に座った時はいつもは厚手の上着を着ているのだがこの日は暖かいという事で 着なかった。ところが十数分経ったら汗をかいていた肩や腕から冷えてきた(震えがくるほどではなかった)。1時間後 車椅子からベッドに戻って着替えしてもらったのだがなかなか身体が温まってこない。それでこの後の訪問リハビリは 用心のため稼動訓練だけにしてもらった。
今日は朝から体調が戻っている様な気がしたので6時前に御袋を呼んでパソコンをセットしてもらって楽しんだ。ところが 時間が経つに連れてだんだん気分が落ちてきて10時の訪問ケアの時には僕のfavarite nurseのFさんだったのだが、だんだんイライラが募ってきた。そして11時半に車椅子に座らせてもらった時にはなぜだか分からないが身体がしんどいと感じ始めていた。それからの1時間は時計と睨めっこ。12時半過ぎ一人の訪問看護資産は着いたのだもう一人の看護師さんは訪問先で少しトラブルがあったとかで少々遅れてくるとの事。僕はしんどさを和らげるため車椅子の背もたれを倒してもらった。15分ほどで看護師さんが来たので急いでベッドに戻してもらい着替えを済ませてしばらく休む事にした。
それから2時間ほど休んだのだが身体のしんどさがどうしても取れない。それで嫁さんを呼んで体温を測ってもらったら、 なんと38.3℃。あのしんどさはこの熱から来ていたのかと始めて気付いた。でも10時にバイタルを測った時には平常の 範囲だったはずだからこの3-4時間で上がったという事か。それですぐに熱冷ましと風邪薬を入れてもらい 少し眠る事にした。
夕方目が覚めた時にはパソコンをしようと思えるまでしんどさは回復していた。それにしても最近熱冷ましを飲んでも 以前のようにドバーっと汗をかかなくなった、またいつの間にか体質が変わってしまったのか。こんなにしょっちゅう熱を 出す身体なんて、もう僕の未来はほとんど残っていないのかも。今出来る事をしておかなければ。

1月17日 阪神大震災から十五年
15年前のこの日阪神・淡路大震災が起きた。
15年前のあの日僕は富良野にいた。6時半前に目が覚めてテレビを点けた。そこには阪神高速道路の高架のなぎ倒された 無残な姿の空からの映像が映し出されていた。僕は「何だこりゃ」との驚ろきと共に「しまった」という想いに打ちのめされて しばらくは動けず呆然自筆の状態に陥っていた。15年前僕は兵庫県も担当していて神戸には毎週行っていた。この日は 前々からの計画でたまたま有給を取り成人の日の連休に有給をくっつけ四連休にして富良野にスキーに来ていたのだ。 そうでなかったらこの日当初会議が入っていたから前日から神戸に泊まり震災に遭遇していたかもしれなかった。現に この日同僚の一人が神戸に泊まっていて安否確認に右往左往だったと後日聞いた。
当時僕の勤めていた会社には「災害が起きた時は取引先の状況をまず担当者が把握して役員に報告する」との不文律があった。 それで早速量にいた後輩に電話して「会社に行ったらすぐに関西の販売会社と連絡を取って課長に報告して。」と頼んだ。 それから朝食を取り帰り支度をして千歳空港へ向かうバスに乗り込んだのだが、途中バスの中からPHSで会社にも 各販売会社にも電話してみたが通じず後輩が連絡が取れたかどうか気がきじゃなかった。そこで空港に着いたらすぐに PHSやDDIカードで電話してみたが通じなかった。もしかしたらNTTのテレフォンカードなら使えるかもと思いためしに 数千円分のテレフォンカードを買って公衆電話から神戸に電話してみたら、なんと通じたのである。神戸の会社は 高台にある。「どうですか?。」と尋ねたら、O課長は「よく電話が通じたなあ。ひどかったぞ。社員の中にはまだ連絡が 着かないものもいる。町が燃えているぞ。」との答が帰ってきた。会社や倉庫には取り立てて被害はなかったとの事だった。 それから8箇所ほどの拠点に電話したが会社や社員にはそれほど大きな被害は出ていないと聞いて安心した。ついでに 会社にいる後輩に電話して「仕事の連絡はないか?。」と尋ねると「関西方面には何度もかけているのですが全然 繋がりません。」と。驚いて課長に代わってもらいこれまで販売会社とのやり取りを伝えた。課長からは「よく通じたな。 ここからは全然かからん。なぜかな?。」と。そこでふいに会社が通信総額のコストダウンのため長距離回線はDDI回線網を 使っているという話(審議は不明)を思い出し「もしかしたら外の公衆電話を使えばかかるかもしれませんよ。」と提言して 電話を切った。それから飛行機で福岡に向かったのだが、ようやくゆっくり出来た。
僕が神戸を訪れたのは震災から10日ほど経った時だった。大阪から神戸方面はJRも私鉄もまだ不通でJR福知山線で 三田まで行ってそこで神戸電鉄に乗り換えていくつかの機を通過し指定された駅で降りてタクシーで販売会社に向かった。 いつもなら大阪から1時間ほどで着いていたのだがこの時は3時間近くかかったと思う。帰りは名谷から長田の町(跡)を 通って船で帰ったのだが辺りはひどかった。波止場へ向かう道の左側は二階建ての家も一階部分は消え二階部分が かろうじて残っているという状態だった。右側はもっと無残、焼け野原だった。事前にテレビで見て 分かっていたつもりだったがこれ程ひどいとは声も出なかった。戦争を知らない僕でさえ戦争で空爆にあった町(の跡)は こうなるんじょないかと様に想像させた。15年経った今でもあの光景が僕の売りから消える事はない、それほどすさまじい 衝撃を僕に与え続けた。こうして震災の場所真っ只中を通っているというのに何も出来ないなんにもしようとしていない 自分が情けなく惨めと感じた。あの光景・情景が僕の頭から離れる事は決してないだろう。
昨日上の息子に阪神・淡路震災後始めて長田の町を歩いた時の事(あの悲惨というしかない光景を見た時の事)を話したが ピンと来ない様子だった。まあ無理もなかろう、頭では解かっていても自分の眼で見ない事には本当の悲惨さは心には 届かないだろう。丁度広島の原爆ドーム・長崎の平和記念の像・沖縄糸満のかりゆしの塔を見ても語り部の話ほど心に 響かない様に。
ちなみに15年前僕は会社のスキー仲間と1月14日(北海道富良野へ移動・ナイタースキー)15日(成人の日・終日スキー)16日 (終日スキー)17日(福岡へ移動)のスケジュールでスキーツアーに参加していた。僕ら仲間との北海道スキーツアーはもう 10年近くの年中行事だった。でもこの時の僕のスキーは例年と違っていた。とにかくスピードが出ないのである、 それまでは仲間内で1-2を争う「カッ飛び」だったのに置いていかれた。それにコブでよく転んだ。おそらくこの時にはもう ALSを発症していて足の踏ん張りがよくは利かない状態だったのだろう。そしてこれが僕の人生最後のスキーになった。 不本意なスキーだった。

1月15日 通院日
今日は2週間に一度(今回はインフルエンザと肺炎で入院またお正月のため17日振り)の通院日。幸い曇りで2-3日前ほどは 寒くはないがそれでも寒いと言う。それで訪問看護師さんに久し振りに靴下の着用(いつもは足の装具が防寒具、元々靴下は 好きではなくってサラリーマン時代以外ははいていなかった)をお願いする。
リフト車での通院に僕も社協(町の社会副師競技会)も訪問看護師さんも大分慣れてリフト車への移動時間も少しずつ 短くなっている。それでも車中の吸引にはまだ気兼ねがあってなかなか言い出し辛い。病院へ向かう途中の県境の峠を 越えると山や家の屋根の北向きの方に雪がちらほら残っていた。家では昨日の午前中のケアの時にドサッという音と共に 屋根から雪が落ちてきて驚いたが、ここらあたりは僕ん家より寒いのだろう。病院に着く直前堪らなくなって嫁さんに 吸引をお願いした。
病院につくと救命処置室に入りストレッチャーに移乗、バイタルを測りながら主治医が来るのを待つ。今日は脈拍が中々 下がらなかったので看護師さんに「具合が悪くない?。」と心配される。それにしてもいつものことだが片方の腕が ストレッチャーの柵に当たって痛い。車椅子の高さまで下げられるストレッチャーはこれしかないとかで仕方ないが幅が 後5cm広く作っても良いのではと思う。ストレッチャーの規格はいったいいつ頃定められたのか?、最近は身長も体重も でかくなっているというのに。僕からちょっと離れたところで「2月のレスパイト(入院)は5日からでいいですか?。」と 地域連携室と嫁さんの打ち合わせする声が聞こえてきた。僕も建国記念日に合わせてレスパイト入院を考えていたので それはいいのだが、丁度その週の土曜日(もしかしたら一つ前の週かも、だったらいいけど)に有線で 「機動戦士ガンダムseed」の最終回があると思うのでそれが問題。それにしてもこのところちょくちょく入院しているので かなり身体が弱ってきた様な気がするが、(運悪く?)立て続けに病気をしたからだけなのかな。しばらくして主治医が来て 処置(カニューレ交換・胃ろう部洗浄)が終わり2月5日のレスパイト入院が決まった。
後は帰るだけ。いつもならここでしばらく体調の様子見をしているところなのだが今日はこれから救急車が 二台入ってくるという話になって外来がバタバタし出した。僕も帰り支度を急いでする事になった。ところがあまりに 急いだために左足の指が曲がったまま足の装具が着けられてしまった。僕も自覚はあったが家までは何とかもてるだろうと このあわただしい中で看護師さんに「左足の装具を着け直して」とは言えなかった。しかしこれが裏目に出た。3分の2ほど 来たところで痛みに耐えられなくなり「左足の指が痛い」と嫁さんに訴えた。嫁さんは装具の締め付けバンドを緩めれば 事足りると勝手に判断してそうした。まあ締め付けバンドを緩める事で少し痛みは遠のいたし嫁さんの「これでいい?。」 という言葉に勝手に威圧感を感じ「指を伸ばして」とまではこの小心者の僕は言い出せなかった。結局家に戻ってから 訪問看護師さんに入念に左足の指を揉み解してもらうという迷惑をかける羽目になったし「こんな時はちゃんと社協さんに 言ってください。」との注意をいただいた。だけどこの小心者にできると思う?。教訓:何があっても装具はきちんと 着けてもらおう。

1月19日 またもや熱発
昨日の明け方4時頃だったと思うが肩が冷えてきたのでコールを押してお袋を呼ぼうとしたのだが(両親のいる)納戸の 充電対応チャイムが鳴らなかった。当然の事ながらお袋が起きてくる気配はない。それから十数回コールを押したが 無駄だった、2時頃小便がしたくなってコールを鳴らしてお袋を呼んだ時にはちゃんと聞こえたのに。心臓の鼓動はドキドキ パクパク早くなり血圧が上がっていくのが自分でも分かった。幸い今回のカニューレは痰が出ない(というより出なさ過ぎて 辛い)から気管に痰が詰まる事はない・落ち着けと自分自身に言い聞かせた。
それから1時間半ほど経っただろうか、台所の明かりが点いた気配がしたのでコールを押したらお袋が起きてきた。僕が 「納戸チャイムが鳴っていない」と言うと、「ちゃんと鳴っている。2時に起こされてそれから眠れなかったので3時過ぎに 睡眠薬を飲んだから聞こえなかった。父ちゃんが呼んでいると起こしてくれた.」とお袋は言った.そしてしばらく「鳴った」 「鳴らない・音がしなかった」で押し問答した。
朝方肩が冷えたせいかどうかは分からないが背中がゾクゾクしてきてしだいに気分がすぐれなくなってきた。朝の 訪問ケアの時に訪問看護師さんがバイタルを取ったら37.3℃、急いで風邪薬と解熱剤を入れてこの日の清拭は中止と頼んだ。 だからこの日のほう看護師さんのケアは洗顔・手足の稼動訓練と便処理、途中着替えるほど汗が出たら乾式と着替えを してもらうつもりだったが多少汗で湿ったかなと感じる程度だったので止めた。それから午後の車椅子移乗(昨日は 日曜なので車椅子はなし)まで眠るつもりだったが、いざ寝ようとするとかえって目が覚めてきてしかたがないので パソコンに向かったがこんな気分では何も出来るでもなくただ眺めているだけだった。
午後3時過ぎ訪問看護師さんが来て「車椅子どうします、座ります?。」「今着替えをします?。」と尋ねてくれた。僕は 「今日も車椅子に座りたい(昨日は日曜で車椅子に座っていないから今日座らないと二日連続座らない事になる)」「ベッドに 戻ってから着替える」旨を伝えた。本当は肩や腕の部分のシャツが汗で湿り気味だったので着替えたかったが、後で ベッドに戻った時も着替えるので(座った後着替えなかったら身体が冷えてくるから)二度手間になると思い 言い出さなかった。それに車椅子に座った時はいつもは厚手の上着を着ているのだがこの日は暖かいという事で 着なかった。ところが十数分経ったら汗をかいていた肩や腕から冷えてきた(震えがくるほどではなかった)。1時間後 車椅子からベッドに戻って着替えしてもらったのだがなかなか身体が温まってこない。それでこの後の訪問リハビリは 用心のため稼動訓練だけにしてもらった。
今日は朝から体調が戻っている様な気がしたので6時前に御袋を呼んでパソコンをセットしてもらって楽しんだ。ところが 時間が経つに連れてだんだん気分が落ちてきて10時の訪問ケアの時にはなぜだかだんだんイライラが募ってきた。そして 11時半に車椅子に座らせてもらった時にはなぜだか分からないが身体がしんどいと感じ始めていた。それからの1時間は 時計と睨めっこ。12時半過ぎ一人の訪問看護資産は着いたのだもう一人の看護師さんは訪問先で少しトラブルが あったとかで少々遅れてくるとの事。僕はしんどさを和らげるため車椅子の背もたれを倒してもらった。15分ほどで 看護師さんが来たので急いでベッドに戻してもらい着替えを済ませてしばらく休む事にした。
それから2時間ほど休んだのだが身体のしんどさがどうしても取れない。それで嫁さんを呼んで体温を測ってもらったら、 なんと38.3℃。あのしんどさはこの熱から来ていたのかと始めて気付いた。でも10時にバイタルを測った時には平常の 範囲だったはずだからこの3-4時間で上がったという事か。それですぐに熱冷ましと風邪薬を入れてもらい 少し眠る事にした。
夕方目が覚めた時にはパソコンをしようと思えるまでしんどさは回復していた。それにしても最近熱冷ましを飲んでも 以前のようにドバーっと汗をかかなくなった、またいつの間にか体質が変わってしまったのか。こんなにしょっちゅう熱を 出す身体なんて、もう僕の未来はほとんど残っていないのかも。今出来る事をしておかなければ。

1月17日 阪神大震災から十五年
15年前のこの日阪神・淡路大震災が起きた。
15年前のあの日僕は富良野にいた。6時半前に目が覚めてテレビを点けた。そこには阪神高速道路の高架のなぎ倒された 無残な姿の空からの映像が映し出されていた。僕は「何だこりゃ」との驚ろきと共に「しまった」という想いに打ちのめされて しばらくは動けず呆然自筆の状態に陥っていた。15年前僕は兵庫県も担当していて神戸には毎週行っていた。この日は 前々からの計画でたまたま有給を取り成人の日の連休に有給をくっつけ四連休にして富良野にスキーに来ていたのだ。 そうでなかったらこの日当初会議が入っていたから前日から神戸に泊まり震災に遭遇していたかもしれなかった。現に この日同僚の一人が神戸に泊まっていて安否確認に右往左往だったと後日聞いた。
当時僕の勤めていた会社には「災害が起きた時は取引先の状況をまず担当者が把握して役員に報告する」との不文律があった。 それで早速量にいた後輩に電話して「会社に行ったらすぐに関西の販売会社と連絡を取って課長に報告して。」と頼んだ。 それから朝食を取り帰り支度をして千歳空港へ向かうバスに乗り込んだのだが、途中バスの中からPHSで会社にも 各販売会社にも電話してみたが通じず後輩が連絡が取れたかどうか気がきじゃなかった。そこで空港に着いたらすぐに PHSやDDIカードで電話してみたが通じなかった。もしかしたらNTTのテレフォンカードなら使えるかもと思いためしに 数千円分のテレフォンカードを買って公衆電話から神戸に電話してみたら、なんと通じたのである。神戸の会社は 高台にある。「どうですか?。」と尋ねたら、O課長は「よく電話が通じたなあ。ひどかったぞ。社員の中にはまだ連絡が 着かないものもいる。町が燃えているぞ。」との答が帰ってきた。会社や倉庫には取り立てて被害はなかったとの事だった。 それから8箇所ほどの拠点に電話したが会社や社員にはそれほど大きな被害は出ていないと聞いて安心した。ついでに 会社にいる後輩に電話して「仕事の連絡はないか?。」と尋ねると「関西方面には何度もかけているのですが全然 繋がりません。」と。驚いて課長に代わってもらいこれまで販売会社とのやり取りを伝えた。課長からは「よく通じたな。 ここからは全然かからん。なぜかな?。」と。そこでふいに会社が通信総額のコストダウンのため長距離回線はDDI回線網を 使っているという話(審議は不明)を思い出し「もしかしたら外の公衆電話を使えばかかるかもしれませんよ。」と提言して 電話を切った。それから飛行機で福岡に向かったのだが、ようやくゆっくり出来た。
僕が神戸を訪れたのは震災から10日ほど経った時だった。大阪から神戸方面はJRも私鉄もまだ不通でJR福知山線で 三田まで行ってそこで神戸電鉄に乗り換えていくつかの機を通過し指定された駅で降りてタクシーで販売会社に向かった。 いつもなら大阪から1時間ほどで着いていたのだがこの時は3時間近くかかったと思う。帰りは名谷から長田の町(跡)を 通って船で帰ったのだが辺りはひどかった。波止場へ向かう道の左側は二階建ての家も一階部分は消え二階部分が かろうじて残っているという状態だった。右側はもっと無残、焼け野原だった。事前にテレビで見て 分かっていたつもりだったがこれ程ひどいとは声も出なかった。戦争を知らない僕でさえ戦争で空爆にあった町(の跡)は こうなるんじょないかと様に想像させた。15年経った今でもあの光景が僕の売りから消える事はない、それほどすさまじい 衝撃を僕に与え続けた。こうして震災の場所真っ只中を通っているというのに何も出来ないなんにもしようとしていない 自分が情けなく惨めと感じた。あの光景・情景が僕の頭から離れる事は決してないだろう。
昨日上の息子に阪神・淡路震災後始めて長田の町を歩いた時の事(あの悲惨というしかない光景を見た時の事)を話したが ピンと来ない様子だった。まあ無理もなかろう、頭では解かっていても自分の眼で見ない事には本当の悲惨さは心には 届かないだろう。丁度広島の原爆ドーム・長崎の平和記念の像・沖縄糸満のかりゆしの塔を見ても語り部の話ほど心に 響かない様に。
ちなみに15年前僕は会社のスキー仲間と1月14日(北海道富良野へ移動・ナイタースキー)15日(成人の日・終日スキー)16日 (終日スキー)17日(福岡へ移動)のスケジュールでスキーツアーに参加していた。僕ら仲間との北海道スキーツアーはもう 10年近くの年中行事だった。でもこの時の僕のスキーは例年と違っていた。とにかくスピードが出ないのである、 それまでは仲間内で1-2を争う「カッ飛び」だったのに置いていかれた。それにコブでよく転んだ。おそらくこの時にはもう ALSを発症していて足の踏ん張りがよくは利かない状態だったのだろう。そしてこれが僕の人生最後のスキーになった。 不本意なスキーだった。

1月15日 通院日
今日は2週間に一度(今回はインフルエンザと肺炎で入院またお正月のため17日振り)の通院日。幸い曇りで2-3日前ほどは 寒くはないがそれでも寒いと言う。それで訪問看護師さんに久し振りに靴下の着用(いつもは足の装具が防寒具、元々靴下は 好きではなくってサラリーマン時代以外ははいていなかった)をお願いする。
リフト車での通院に僕も社協(町の社会副師競技会)も訪問看護師さんも大分慣れてリフト車への移動時間も少しずつ 短くなっている。それでも車中の吸引にはまだ気兼ねがあってなかなか言い出し辛い。病院へ向かう途中の県境の峠を 越えると山や家の屋根の北向きの方に雪がちらほら残っていた。家では昨日の午前中のケアの時にドサッという音と共に 屋根から雪が落ちてきて驚いたが、ここらあたりは僕ん家より寒いのだろう。病院に着く直前堪らなくなって嫁さんに 吸引をお願いした。
病院につくと救命処置室に入りストレッチャーに移乗、バイタルを測りながら主治医が来るのを待つ。今日は脈拍が中々 下がらなかったので看護師さんに「具合が悪くない?。」と心配される。それにしてもいつものことだが片方の腕が ストレッチャーの柵に当たって痛い。車椅子の高さまで下げられるストレッチャーはこれしかないとかで仕方ないが幅が 後5cm広く作っても良いのではと思う。ストレッチャーの規格はいったいいつ頃定められたのか?、最近は身長も体重も でかくなっているというのに。僕からちょっと離れたところで「2月のレスパイト(入院)は5日からでいいですか?。」と 地域連携室と嫁さんの打ち合わせする声が聞こえてきた。僕も建国記念日に合わせてレスパイト入院を考えていたので それはいいのだが、丁度その週の土曜日(もしかしたら一つ前の週かも、だったらいいけど)に有線で 「機動戦士ガンダムseed」の最終回があると思うのでそれが問題。それにしてもこのところちょくちょく入院しているので かなり身体が弱ってきた様な気がするが、(運悪く?)立て続けに病気をしたからだけなのかな。しばらくして主治医が来て 処置(カニューレ交換・胃ろう部洗浄)が終わり2月5日のレスパイト入院が決まった。
後は帰るだけ。いつもならここでしばらく体調の様子見をしているところなのだが今日はこれから救急車が 二台入ってくるという話になって外来がバタバタし出した。僕も帰り支度を急いでする事になった。ところがあまりに 急いだために左足の指が曲がったまま足の装具が着けられてしまった。僕も自覚はあったが家までは何とかもてるだろうと このあわただしい中で看護師さんに「左足の装具を着け直して」とは言えなかった。しかしこれが裏目に出た。3分の2ほど 来たところで痛みに耐えられなくなり「左足の指が痛い」と嫁さんに訴えた。嫁さんは装具の締め付けバンドを緩めれば 事足りると勝手に判断してそうした。まあ締め付けバンドを緩める事で少し痛みは遠のいたし嫁さんの「これでいい?。」 という言葉に勝手に威圧感を感じ「指を伸ばして」とまではこの小心者の僕は言い出せなかった。結局家に戻ってから 訪問看護師さんに入念に左足の指を揉み解してもらうという迷惑をかける羽目になったし「こんな時はちゃんと社協さんに 言ってください。」との注意をいただいた。だけどこの小心者にできると思う?。教訓:何があっても装具はきちんと 着けてもらおう。

1月13日 大雪
夜中におしっこで目が覚めてお袋を呼ぶと「今日は大雪よ、外は積もってる。」と、道理で底冷えがしていると思ったが これなら下の息子は昔の子供の頃の僕の様に6時前に起き出して活動し始める事だろう。
ところが6時半を過ぎても隣の部屋からは下の息子の着替えをする音が聞こえてこない。7時半までに娘と上の息子が 「行ってきます。」と挨拶をして出掛けていっても下の息子はなしのつぶて。それて経管栄養の時に嫁さんに「(下の息子は) どうした?」と聞くと「顔出さなかった?。もう出て行ったわよ。」と言う。「嬉しそうにしていたか?」と尋ねると「万全の 体制で行ったわよ、手と足にレジ袋を着けていつでも雪を触れる姿をして。」と、きっと下の息子は心ウキウキで 出掛けていった事だろう。
今日のリハビリはこの雪で中止。それでWebカメラで雪を見ようと思い嫁さんを呼んでカメラを外に向けてもらったのだが 光で真っ白になって雪が降っているのがかすかに感じ取れるくらい。やっぱ安物のWebカメラじゃ無理か。しょうがないので 嫁さんにデジカメで庭の写真を撮ってもらった。
午後1番は入浴車の時間、その前に僕のベッドの位置から何とか庭が見える部屋の窓から外を見ると粉雪がいっぱい 舞い降りていた。久し振りに見る激しい粉雪の舞だった。入ってきた入浴車のスタッフの人たちも口々に「外は雪が 降っていますよ。寒〜い。」と口にした。この寒さに対するため僕は汗が噴出すまで時間をかけて湯船に浸かってから身体を 洗ってもらいベッドに戻してもらった。気持ちの良いお風呂だった。
僕は下の息子の口から「雪遊び楽しかったよ。」と聞くのを心待ちにしていた。それで学校から帰ってきたばかりの息子を 呼んで「どうだった?、楽しかったか?」と聞くと息子からは「面白くなかった。下級生がせっかく作っていた雪だるまを 壊した、それでこっちも下級生の作っていたカマクラを壊してやった。(訳もないのに)人の邪魔をしたら自分たちも 邪魔されるって事を教えてあげなければいけない。」って答えが返ってきた。5年生の息子もいっぱしの口をきく様に なったものだ。でもやられたらやり返すでは負の連鎖まるでハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」ではないかと 思ったが口には出さなかった。息子は「今から友達のうちの田んぼで遊ぶことになっているから。」と言って 出かけていった。
ところが帰ってきた息子にまた「どうだった?」と聞くと、「友達のじいちゃんに田んぼで遊ぶな。」と怒鳴られたと。それも 自分家の孫には何も言わないで孫の友達にばかりに怒ったという。息子は「子供の遊びに大人が口を出すなよ。」と言って 部屋から出て行ったがごもっともな意見だ。いったい今の大人たちはいつからこんなに過保護になったのか、 4-50歳台以上なら自分たちや自分の子供たちはどんなに寒くとも外で遊んでいたはすだ。田んぼは僕らにとっては 絶好の遊び場だった。

1月13日 金魚(オランダ獅子頭)その後
11時前嫁さんが「金魚が寒くて全然動かないから。」と僕の部屋にオランダ獅子頭のいる方の水槽をワゴンに乗せて 運んできた、僕が下の息子にいつも「金魚はどうだ」と聞いているのを見ていたという事もあるのだろう。
ベッドの横に見える様に置いてもらった水槽を見ていると始めは動きの鈍かった金魚も時間が経つにつれて少しずつ 活動し始めた、エアコンで温められた部屋の温度で水槽の水温が上がってきたのかもしれない。しばらく見ていてある事に 気が付いた。この前金魚の水槽をこの部屋で見せてもらった時にはオランダ獅子頭は上の方ばかり泳いでいたのに(もちろん その時はひっくり返っていなかった)、今は下の方にばかりいる.僕はてっきりこの頭の大きいオランダ獅子頭は上の方が 好きなんだとばかり思っていた。もしかしたらあの時唐子のオランダ獅子頭は他の金魚たちにストレスを感じて上の方に 避難していたのかもしれない。今はこの水槽で独りになり他の金魚たちからのストレスが無くなって本来の自分自身の 動きを取り戻しつつあるのかもしれない。出来れは下の息子のためにもこのまま元気になって欲しい。
それにしてもこうして見ていると、このオランダ獅子頭の不細工な姿がとっても可愛く見えてくるなあ。

1月11日 金魚、その後
このところ下の息子が僕の部屋に入ってくる度に「金魚はどうだ」と尋ねている。それに対し息子からは「いっもと 同んなじ。」との答えが返ってくる。「ひっくり返っていないか?」と聞くと「うん。」とうなずく。
息子の話によると 今度かってきた新しい水槽(エアーポンプ付で\880-僕の聞き違い?!)にひっくり返っていた オランダ獅子頭だけを移し替えたらひっくり返らなくなったと言う。前の水槽で大きな金魚が6匹うじゃうじゃと 泳いでいたからオランダ獅子頭にとってそれがストレスになっていたと言うのか。そういえばHPを見た時にストレスで 転覆病になる金魚もいるとかいてあった。「一応しばらく絶食しておく様に」と付け加えると、「分かった。でも水草は いいんでしょ。水草は植物だから消化に良いはずだし。」と。確か水草はダメだとも書いてあったと記憶しているが うなずいた。なんせ家で金魚の事を一番分かっていて金魚のことを最も勉強しているのはこの息子だもの。それに 完全絶食じゃあオランダ獅子頭も かわいそう、せめて食べられる水草ぐらい食べさてあげたいもの。このまま元気になってくれればいいのだが。
転覆病のHPを見ていて僕が思うには、本当に怖いのはひっくり返ったままでいる事ではなくてお腹が空気に 触れたままでいる事による感染病ではないかと。感染病は抵抗力のない僕にとっても恐ろしいが空気に触れる事のない 金魚にとっても怖ろしいのだろう。

1月9日 上の息子と英語の復習
冬休みに入ってから(正確には年末に退院してからだが)夜2-3日おきに上の息子と英語の復習会をやっている。上の息子の 下期中間テストの結果が僕が想像していた以上に悪くて今何らかの手を打たないともう間に合わなくなるという強い危機感を 感じたから(息子自身にはここまでの危機感は無くてただ英語の点数が仲の良い友達よりも悪いので何かしたいが どうやっていいのか分からないとの気持ちからかな)。
息子と英語の復習をするようになってまず驚いたのは息子が教科書に出てくる英単語をあまり覚えていない事、どうやら 今の中学校では英単語の覚え方を指導しない様だ。確かに今日日の中学生の英語の教科書はOral Comunicationから 入っていくから僕らの時代の a pen a desk This is a pen . よりもずっと難しい。「えっ、こんな英単語が中学1年で 出てくるのか。まさに Oh , my goodness . 」状態だ。それでも覚えない訳にはいかない。けれど昔の僕がやっていた様に ローマ字読みを基準に覚えろと言う訳にはいかない。そんな事をしたら僕の様に発音がめためたになり会話が 出来なくなってしまう。だから発音とスペルの関係をよく見考えてその共通するパターンを見出してスペルを覚えろと 言いたいのだが、この声の出ない身体でそれを教えるのはかなり難しいというより困難だ。この部分は誰かに 代わって欲しいのだが。
教科書の内容も全然変わっていて戸惑いを覚える。教科書の本文だけ読んでみてもこの単元(Program)で何を 覚えさせたいのか分かりづらい。単元の目的は欄外に小さい文字で書いてあった。どうもこの教科書は独学するには 向いていない、先生が教える事を前提に作られた教科書の様だ。それに突然 -ed/did の過去形表現が出てきた。ここで 過去形を出すと動詞の現在形と過去形を混同してしまうかもしれないし動詞の過去形は -ed だけではない。動詞の変化する 過去形との違いをどうするのか。動詞の過去形表現が-edだけではない事をどう説明すればいいのか難しい。
冬休みにだいたい6日間×2時間強みっちり復習をやったので息子も少しは身についたと思うが、贔屓目だろうか。後は 息子が普段の学習にどう生かしてくれるかだ。

1月7日 金魚が転覆病?
昨日下の息子が「おやすみ。」の挨拶に来た時に「金魚が転覆病に罹っている。」と聞いた。それで朝からGoogleで転覆病で 検索してみたらいっぱい出てきた。どうやら「転覆病」っていうのは金魚にランチュウや息子のオランダ○○など丸っこい 金魚はよく罹る病気らしい。お袋なんか「そこのお店やNさんの金魚がよくひっくり返って泳いでいるから病気とは 思わんかった。」と言っていたほどだ。まず一番上のをクリックしてみるとやたらと長くて読む気もしなかった。それでも 息子のためと読んでいくと、なんと注射器で金魚の体内にある浮き袋から空気を抜くという手術をしたとの事。いくら 生存率が70%以上あってもこれは息子には無理とやめた。次からは同じ様な事が書いてあった。
消化不良でもひっくり返って泳ぐ事があるからまず絶食して様子を見る。転覆病の場合は出来るだけ水槽を別にする・ 水温を25℃以上(30℃までなら良い)に上げる・エアーポンプをよく利かせておく・水槽の水を0.5%の食塩水にすると。 息子も本を自分で読んで「塩多くない?。」と言っていたが、海水の塩分濃度は4%ぐらいと記憶しているからまあ 大丈夫だろう。それにしてもなぜ温度と食塩水と思うが、食塩水は浮力の調整・水槽の水の温度を上げたら浮き袋が 小さくなるのでは。
いくつかのほーページから分かりやすそうな内容のものを抜き出しコピーして1枚の文書を作った。午後下の息子が 学校から戻ってきたら見せてあげようと急いで作り上げたのだが、その息子は呼んだら「遊びに行くから後でね。」と 出て行ってしまった。寄る息子を呼んでその文書を印刷して見せて「分かったか?」と聞くともうひとつの顔をしても 明るく「分かった。」との答えが返ってきた。明日別の水槽を買ってきて転覆病と思われるオランダ○○を 移し変えるという。これで何とかオランダ○○の転覆病が治ってくれれば良いのだが、可愛がって懸命に育てている 下の息子のためにも。

1月4日 またいつもの様に
正月が昨日で終わり今日から訪問介護も訪問リハビリも再開される事になる。それが一番嬉しい、また週に訪問看護は 5日×3度(ケアと車椅子への移乗・ベッドへ戻って着替え)・訪問リハビリも3日(手足の稼動と首と足に装具を着けての 立位保持訓練)来てもらえるから。訪問看護が来ないと1日がとても長く感じられて暇でたまらなくなる。
この暇に耐えかねてまた年末年始は僕の事を家族だけで見てもらわないといけないからこの数年病院で過ごしていた 訳だが、今年は30日に訪問診療・31日に入浴車そして4日今日から訪問看護再開と誰も来ない日は三が日だけと短かったから 今年は家で過ごす事にした。さて、来年はどうしたものか?。

1月3日 正月も終わり
正月三が日も今日で終わった。結局三が日テレビ三昧だった。2日・3日は午後2時近くまで箱根駅伝、箱根駅伝では東洋大の 5区箱根山登りの柏原はやっぱりすごかった。今年も自分の持つ山登りの記録を10秒縮める1時間17分8秒の区間新記録、 中継地点ではトップから4分以上離されていたのに2位に3分以上の大差をつけトップでゴール。結局この柏原の貯金を 最大限に活用して復路は一度もトップを譲る事なく(二)連覇を成し遂げた(7区で区間勝・8区で区間2位との 活躍もあった)。
柏原選手が公の場に登場したのは2年前の都道府県駅伝大会男子の時、1区高校生区間で鮮烈なデビューだった。柏原の 高校は年末の全国高校駅伝には出場出来ていない、県予選で敗れたそうだ。だから一般には知られてなかったが陸上 長距離界では当時から有名だった様だ。その柏原が2年前の都道府県駅伝の時高校駅伝の名だたる花の1区の有名どころを 途中から置き去りにしてトップで襷を手渡した。僕はあの時「こんなすごい奴がまだいたのか」と思った。そして去年の 箱根駅伝の山登りでごぼう抜きして行く奴がいた。名前を聞くと柏原、どこかで聞いた事のある名だなと思ったがそれが 都道府県駅伝の1区の奴だった。その日から柏原という名は強く僕の記憶に残った。
箱根駅伝の後予約録画してあった「相棒」を見ていると嫁さんの友人のYが顔を見せた、(正月らしく)カルタをしに 来たと言う。僕は小倉百人一首は最初の3首しか覚えていない。それで「(僕の部屋でも)聞こえる様に読んで」と 頼んでおいたが、下の息子の悔しがる声しか聞こえなかった。僕は社会人になった頃から小倉百人一首を覚えようと 考えていたのだが、高校の頃古文が苦手だったせいか必要にからねないからかどうしても覚えられなかった。
あんなこんなで最後になるかもしれないお正月が過ぎていった。

1月1日 新しい年
2010年1月1日新しい年になっても僕はパソコンでスタート。
朝8時ごろ子供たちがそれぞれ別々に「あけましておめでとうございます。」と挨拶に来た。この数年味わえなかった風景だ。 「今からお雑煮を食べる。」と言う。もし元気だったら向こうの居間で親父やお袋も含めてみんなで食卓を囲み、互いに 「あけましておめでとう」と挨拶しあい、お屠蘇と数の子をたしなみお年玉をそれぞれ手渡してから雑煮を ほおばっていただろうに。今はそれも夢のまた夢。せめて雑煮の汁ぐらいは味わいたかったが。
僕の1月1日のパターンは何処にいても毎年決まっていてまずはテレビで全国実業団駅伝を見る事。僕のお気に入りの チームは九州の雄・旭化成、昨年は3位に入ったらしい(去年は昼の経管栄養を落としながら眠ってしまって目が 覚めたばかりでぼーっとしていたのでよく覚えていない)がここ数年振るわない。早く1990年台の強かった頃の輝きを 取り戻して欲しいと思っているがなかなか難しそうだ。
今年の実業団駅伝の勝者は日清食品グループ、新人うまく補強・育てて穴のない布陣で強かった。一方僕のお気に入りの チーム旭化成は第一走者・第二走者の不調が響きやっとこさの8位入賞、最終区間は7位・8位入賞を狙うチームが9チームの 団子状態になり入賞を狙い互いにけん制し合いゴール前のスプリント勝負に勝って8位入賞を何とか確保した。僕としては はじめから入賞を狙っていたチームならいざ知らず、古豪復活に賭けていたのならゴール前のスプリント勝負などには 持ち込まず襷を受け取った時点で早めに抜け出し勝負して欲しかった。古豪復活への道はまだまだ透しという事か。
昼過ぎ嫁さんと子供たちは嫁さんの実家へ新年の挨拶に出かけて行った。僕は上の息子に「お父さんの分も宜しく 挨拶して来て」と託した。本来ならお正月とお盆だけは一緒に行って向こうの両親と仏様に挨拶したいのだが、この身体では 如何ともし難い。
みんなが留守の間お袋に有線のファミリー劇場にチャンネルを替えてもらうと懐かしの「ガメラ」があっていた。それからは テレビ三昧、6時前から延々12時近くまでTBS系列の「SASUKE」に没頭。本来は9時から朝日系の「相棒」を見るつもりだったが、 チャンネルを替えられなかった。まあ「相棒」は予約してもらっていたから後でゆっくり見る事にしよう。明日は箱根駅伝、 三が日は久し振りにテレビ三昧になりそうだ。


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