2009年
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
     (2008年の雑記帳はここをクリック)


12月
12月31日 大晦日
今日は大晦日、年末・年始を家で過ごすのは何年振りだろう。あまりにも久し振り過ぎてよく覚えていない。
今日の五戦中は忙しい、浣腸をしてもらって便を出しその後お風呂。最近入浴車の後身体が結構冷たくなるしそれに 病み上がりときてる。今回は風呂に入ってどうにもならないのか・本当に大丈夫なのかと気にしている自分がいる。 こんな事初めてだ。
この不安が入浴車の時ハプニングとして出た。10時半入浴車到着。窓から外を見ると雪が降っていた、寒そう。パジャマを 脱がせてもらって4人がかりでベッドの横に持ち込まれ熱めのお湯を張った浴槽に移動し人工呼吸器を着けると、呼吸器から 送り込まれてくる空気が弱い。入浴車の看護師さんにそう訴えても原因が分からず看護師さんにアンビューバッグで 押してもらいながら嫁さんを呼ぶ事に。嫁さんが呼吸器の回路を確認すると、呼吸器との接続部分の回路にクラックが 入っている事が分かり急いで回路を交換する事に。けれど回路交換しても僕は呼吸器から送り込まれてくる空気をまだ 弱く感じた。嫁さんに荘訴えると、嫁さんは入念に確認していたが異常なし。呼吸器のアラームも止まったのでしばらく このまま様子を見る事になった。結局この日の入浴はアンビューバッグで押してもらいながらの入浴だった。お風呂から 上がってからも僕が呼吸器から送られてくる空気がまだ少し弱いと言い続けていたので後ろ髪を引かれながらも入浴車の 看護師さんたちは帰って行った。入浴車の皆さん、1年間お世話になりました。
しばらくすると僕は呼吸器から送られてくる空気が少し弱いと言っていた事など忘れてパソコンをしていた。
夜は久し振りに紅白歌合戦を見ながら過ごした。昔は9時になるとみんなでコタツを囲んでばあちゃんの打った蕎麦を 食べながら紅白歌合戦を必ず見たものだった。子供たち・みんなはもう年越し蕎麦は食べたのか、今頃どうしているのか。 向こうの部屋からは声も聞こえてこないから・・・・・、分からない。
寝る前に妻にそっと伝える「もう僕の身体には身体を温かくする機能もなった。こんなに身体が寒いんじゃ来年の今頃は もういないかもしれない」と。嫁さんは「何を後ろ向きな事を言ってるの。筋肉で燃焼して身体を温かくする、その筋肉が 無いのだから温かくならなくて当たり前。(筋肉が今無くなった訳ではないのだから今更急に寒くなったりしない、気持ちの 持ちよう。)」と笑い飛ばしたが、僕の今の素直な心持で悔しくて辛くて寂しくて涙がこぼれた。ただ逝く前に妻に 告げなければならない感謝の言葉「今まで本当に有難う」はまだ言えなかった。

12月25日〜29日 入院
昨日(24日)の訪問看護の時から37℃の微熱があり少し体調が思わしくないなと思っていたが、夜足が冷たくてなかなか 寝付けなくてとうとう丑三つ時の3時頃寒気がしてきたのでコールを足で押してお袋を起こして作ってもらったふたまわり 小振りの羽根布団を掛けてもらった。それでも寒気が収まらなくて朝6時頃まで何とかこらえたが、ついに 耐えられなくなって「解熱剤が欲しい」と嫁さんを起こしてもらった。
薬を服用する前に「熱は測ったのか?。」と聞かれ「まだ」と答えると「まず熱を測ろう。」と体温計を使ったら何と39.6℃と 今までに聞いた事のない様な高い熱、慌てて解熱剤を入れてもらった。いつもなら38℃にならなくても肺がもっときついと 感じているはずなのだがそれさえ感じ取れないほどの精神状態だったのかそれとも身体の衰弱が激しかったのか。ともかく 解熱剤の効果覿面であっという間に寒気も収まり身体中からどばーっと汗をかき、8時過ぎに着替えをしてもらって人心地 着いた。そしてたくさん汗をおかげか10時半の訪問看護の時には身体のだるさは残っていたが熱は37℃に下がっていた。 けれどまた熱は上がるとの予感はしてた。そしてその予感は的中、12時過ぎに再度熱を測ってもらったら39.3℃とまた ぶり返した。しかし今日は2時にかかりつけのお医者さんが来てもらう日だから今解熱剤を飲んで大汗をかいても着替えは 出来ない。そう考えて訪問看護が来る3時過ぎに着替えが出来る様に解熱剤の服用時間を遅らせた。そして1時半我慢に 我慢を重ねてようやく解熱薬を服用した。
2時カニューレ交換のためにかかりつけの先生が到着、先生には嫁さんから今朝39℃を超える熱が出たとの連絡が 入っていたとの事で先生は肺炎かインフルエンザまたは併発を疑っていた様だった。そのため先生はまずインフルエンザと 血液検査を実施、それから胃ろうの洗浄・カニューレ交換の処置を行った。検査の結果は3時過ぎに出るとの事、その際 状況によっては僕の通院している病院の主治医と連絡を取って入院する事になると念を押して帰っていった。
そして3時(いつもは車椅子に座らせてもらっている時間)を少し過ぎた頃訪問看護師さんに着替えしてもらっていた時に、 検査結果を聞きに行っていた嫁さんから訪問看護師さんに電話が入り入院する事になり4時に救急車が来ると。解熱剤の 効果でかなり気分が回復していた僕は事の成り行きに驚いたが、如何ともし難いと諦めた。嫁さんも展開の早さに驚いたと 帰ってきて言っていた。
4時救急車が到着。救急車に乗るのはこれで3回目。前回2002年10月の時は呼吸不全で息も絶え絶え、苦しくて耳で救急車の 現在位置を知るのが精一杯だったが解熱剤の服用で様態が落ち着いていた今回は目と耳で位置を確認出来た(救急車の窓は 高くてストレッチャーの上の僕が位置を確認出来たのはNTTだけ、救急車に同乗してくれていた訪問看護師さんが「今○○」と 教えてくれていた。それにしても救急車は結構揺れた、前回は気付かなかった。
病院に着くと救急室でインフルエンザの検査と血液検査を受け放射線科でCTとレントゲンを撮り病棟へ向かった。 入院するのは今回も呼吸器病棟でしかも個室、検査ではまだ陽性反応ば出ていない(発熱して時間が経っていない)が インフルエンザの可能性大という事の措置らしかった。実は僕は個室は嫌いだ、看護師さんが自身の用がある時と僕が ナースコールを押した時しか来てくれないから。もしコールを押せなくなったりオーバーテーブルに 貼り付けてもらっているナースコール用スイッチがはがれて落ちたらどうしようと考えてしまう。大部屋なら他の 患者さんの体位交換やおむつ交換で部屋に来る。そこでナースコール用スイッチを準備してくれている看護師長さんに 「いつまで個室にいれば良いのですか」と尋ねたら、「インフルエンザのウイルスは熱が引いてから2日でなくなるから 早くても29日でしょうか。」との答えが返ってきた。それからしばらくして主治医が病室に来て「検査ではまだ インフルエンザと出ていませんがインフルエンザの可能性が極めて高いのでタミフルで治療しましょう。また気管支肺炎も 起こしています。熱さえ下がれば年内に家に帰る事も出来ますが。久し振りにお正月をお子様たちと過ごしたい でしょうしね。病院の仕事納めは29日です。僕は30日に病院内の総ての患者さんのカニューレを交換しなくちゃあ ならないから忙しくなりそうです。」と告げた。僕は主治医の話を聞いて年内退院はもう無いと感じたし、「このまま レスパイトに入っても良いかな」と告げた。告げたつもりだった。しかしその場の雰囲気は僕を年内に家に帰してあげたい・ お正月を久々に子供たちと過ごさせてあげたい一色だった。それは看護師長さんが言った「29日退院が第一目標ね。」によく 表われていた。
入院中の治療はタミフル・抗生剤と1日1000mlの栄養剤の点滴・ラコール200ml×3回、初めの内はタミフル服用で汗が出た。 タミフルには発汗作用もあるのかと思ったが2日目からは汗も出ず、発汗効果があるのは熱がある時だけらしい。 26日(2日目)の朝からは熱も37℃以下に落ちつき、28日(4日目)の朝の血液検査で主治医から「明日の退院で奥様と 打ち合わせをしましょう。」、どうやらどうしても年内に退院させてあげたいらしい。12時近く個室から6人部屋に突然? ようやく?移動、昼過ぎ嫁さんから「訪問看護と調整が取れたから明日10時半迎えに来るね。」と言われた。これで29日 退院が決まった。
29日10時を大きく回った頃最後の抗生剤の点滴がぎりぎり終了、後はお迎えを待つばかり。身体の調子は昨深夜の対応への 不満もあってか?もうひとつ優れず、相変わらず時々寒気が襲ってくる。10時半お迎えの訪問看護師さんたちの顔が見えた。 それから帰る準備をしてもらいベッドのまま玄関まで移動、外に出ると寒ぶいー。看護師さんたちに見送られながら 家路につく。自動車の中ではほとんど何も考える事が出来ずぼーっとしていたが、途中から装具を着けている右足首の 前右が痛くなって随分気になっていたがじっと我慢していた。家に着いてから見てもらうと、装具のベルトで足首の皮膚が 擦れてまた水脹れが出来かかっているらしい。痛かったはずだ。4日間ずっと寝ていたから車椅子に移乗させてもらう時 また膝に力が入らないのではと心配していたが、大丈夫だった。ひと安心。そして着替えをしてもらい人心地ついた。 訪問看護師さんにお世話になるのも今年はこれで最後、訪問看護ステーションMの皆さん一年間お世話になりました。

12月23日 金魚
今日は天皇誕生日の祝日で子供たちはお休み、だけど平成の天皇誕生日には昔も今もあまり良い思いでは無い。今は 訪問看護も訪問リハビリも祝日で休みだし、昔も月締め前でゆっくりと休んだ記憶が無い。
今日下の息子は寒い中午前中金魚の水替えと水槽の掃除をやった様だ。そして午後の入浴車の後嫁さんと二人で僕の部屋に ベッドサイドに水槽を運んできて金魚を見せてくれた。それにしても下の息子の育てている金魚みんなすごく 大きくなっている、2〜3年前に十八夜の金魚すくいでそれぞれ捕ってきたはずなのに。今では六匹の金魚(15cm大の 緋ブナが三匹・15cm大のオランダ○○(息子が教えてくれたが分からんかった、ずっと僕はランチュウだと思っていたが)・10cm超の金魚・10cmほどの出目金)が水槽の中を所狭しと泳いでいた。でも僕は久し振りに生き物のゆったりと動く様子を 見ていて心が穏やかになってきた。
しばらくそれらの金魚を見ていてある事に気が付いた。それは一番でかい緋ブナの背ビレの下にコブがある事、急いで 下の息子を呼んで「金魚の一匹に変なコブがある」と尋ねると「それは以前水替えの時に跳ねて暴れて傷ついてうろこが 取れた後。前は白かったけど大分色が付いてきてほとんど周りと同じ色になってきた。」と教えてくれた。僕はうろこが 取れた時こんな風に回復するのかと感心した。
それにしても下の息子は金魚たちを本当に大切に丁寧に育てている。そんな息子の生き物を大切に育てる心根に 僕は感心しているし、生き物好きのそんな息子が僕は大好きだ。

12月21日 今度は上の息子が新型インフルエンザに
下の息子が新型インフルエンザから回復してひと月経ったと思ったら、今度は上の息子がインフルエンザにかかって しまった。我が町でこれだけ流行っているのだからいつかはまた我が家にも襲ってくるだろうと思っていたが、今度は 上の息子が餌食になってしまった。上の息子は喘息持ちだからインフルエンザの発症に併せて喘息が出ないかと 心配していたが、今のところそれはないようだ。一安心。
今日から1週間上息子は隔離される。当然その間息子は僕の部屋には出入り禁止だ。上の息子は学校に行く時・ 帰って来た時挨拶に必ず来てくれていたがしばらくはそれもない。寂しいけれど仕方がないな。

12月20日 浅見光彦シリーズ
確か10月からだったと思うがTBS系列で内田康夫氏の浅見光彦シリーズが始まった。僕は社会人時代内田康夫氏の本を 100冊以上読んでいたからとても楽しみにしていた。でも浅見光彦シリーズが放送されるのは水曜日の夜9時、その時間帯は いつも「相棒」を見ているしまた経管栄養の影響で後半は寝ている事が多い。だから子供たちにDVDプレイヤーに 予約してもらい日曜日に見る様にしていた。
この番組「浅見光彦 最終章」と銘打っているくらいだから僕は大いに期待しこの番組はてっきり2時間物で放送されるものと 思っていた。ところが蓋を開けてみると番組が1時間物になっているために内容がどこか半端なものになっていた。謎解きに 至る行程が短くて内容がかなり薄くなってしまっていると思うのだ。浅見光彦シリーズは全てが長編小説なので1時間に 収めようとしてもどだい無理、どこかに無理が生じる。事件に至る背景・浅見光彦が現地警察から紹介されるシーン・ 謎解きの部分は省けないので、今回の場合どうしても謎解きに至る行程が省かれている。しかし浅見光彦シリーズでは その部分が重要なはずなのだ。そこを省いて内容が薄くなっていた事は残念だし期待はずれだった。
その上先週で最終回だったとは中途半端だし最終章と銘打った名が泣くというものだ。それにしてもわずか2ヵ月半で 終わるとはなんと短かった事か、元々予定通に終わったのか視聴率がとれずに急遽中止になったのか。個人的には2時間物 シリーズに編成しなおして出直して欲しい。

12月19日 雪
昨晩やけに冷えると思っていたら下の息子が外を見て嬉しそうに「雪が降っている。」と大声を出した。嫁さんは 「もう犬と一緒なんだから。」と笑っていたが、その息子の気持ちは僕にはよく分かる。なんせ子供の頃僕も同じで、雪の日の 僕は前の日からワクワクしていたし朝はまだ暗い内から起きだして外に出て遊んだものだった。
今日午前中のケアの前にヘルパーさん・訪問看護師さんが入ってきた時2人とも開口一番「(下の息子は)元気ですね。外に出て 雪だるまを作っていますよ。」と言った。それも靴が濡れない様にビニール袋まで履いて作っているらしい。面白い息子だ。 ケアの後下の息子を呼んで「雪だるまは出来たか?」と聞くと「雪が少なくて作れなかった。」との返事が返ってきた。 残念ながら今回は雪だるまは見れないらしい。
それにしても下の息子の行動パターンは僕によく似ているものだ。雪の日には僕も朝早く学校に行って誰の足跡もない 校庭で雪だるまを作ったものだった。ただ上の息子が雪が好きではないらしいのは残念だ。

12月18日 通院日
今日は通院日、10時半ごろ部屋の窓から外を見ると雪が降っていた。寒そう。
11時前に社協のリフト車で同行してくれる看護師さん・ヘルパーさんが、11時丁度に訪問看護師さんが到着、僕の外出準備に 取り掛かる。そこで僕は「靴下をはかせて」とお願いする(今年初めて?)。それから訪問看護師さんたちにベッドから車椅子に 委譲してもらい上着を着掛け物をかけてもらってリフト車へと移動。玄関で下の息子が育てている金魚をちらりと見ると、 みんな元気そうに泳いでいた。リフト車に乗り込むと思ってた以上に寒い、慌てて掛け物の追加をお願いする。
リフト車の車窓からの風景は相変わらず広い視野が確保できないので見づらくて寂しい。それでも椿の赤い花と柿ノ木の カーキ色した実が目に飛び込んできて冬のうら寂しさを感じさせた。刈り取られた稲の切株から伸びている黄緑の葉を 見たらこのままにしておいたらどこまで育つのだろうまた稲の実がつくのかなと思ったりした。今年も息子たちに干し柿を 作らせる事は出来なかった、昔の保存食の作り方を体験しておくのも大切だと思っているのだが。
病院に着いた時出発前はちょっと風邪気味かなと感じていたのだがリフト車でほんのりと汗をかいたおかげか体調が少し 良くなった様な気がした。病院での対応はいつもの様に看護師のSさんと地域連携室の二人がしてくれて今日はとても スムーズに進んでいった。その上主治医の先生の待合の患者さんも少なくてほとんど待たずに診察・処置をしていただいて 速めに帰る事が出来た。
病院からの帰り病院の玄関の前の池をちらりと見ると、さすがにこの寒さの中では亀は甲羅干しはしていなかったが2−3匹 水面から顔を出している様に見えた。ここで亀を見ると小学生の頃家の近くの小川で石亀を見つけた時の事を思い出す。 あの時その石亀を家に連れて帰ったがあの後どうしたのか覚えていない。家の池に放したと思うから恐らく 逃げたのだろうが。帰り橋の上から川を見たが暗い冬の川だった。これからしばらく暗い冬の日々が続くと思うと 寂しくなる。

12月16日 入浴日
今日は水曜、午後一番に入浴車の来る日。背中が痒くてお風呂はとっても大歓迎のはずなのだが、最近は随分寒くなって 油断していると身体が早々と冷える様になって下手をすれば風邪を引きそうな気がするから少し億劫になってきた。
入浴車のメンバーの井戸端会議は相変わらず面白くて僕の身体が冷えない様に湯加減や湯上りの掛け物やらに随分気を 使っているのだが、僕のこのポンコツの身体は一方で汗をかきながらも肩から冷えていってしまう。情けない。
今日も外はかなり冷えているらしいから熱いお湯を継げ足しながら入れてくれた。入浴車の皆様方、いつもお疲れ様です。 これからもよろしく。

12月12日 口内炎
今回口内炎がいっぺんに3個も出来てしまって痛いのなんのってありゃしない、夜中に目が覚めた後は眠れないほどだ。 僕の口内炎は気管からの吸引の時唇や舌の先を歯で噛んでしまうのが要因だ。吸引してもらう時自分の唇や舌なんだから 上手く逃がせればと思うのだが麻痺が進んでいて何も出来ない。何とも情けない身体だ。
口内炎ができると以前は1週間は痛かったのだが、口内炎の傷口を消毒してもらうようにしてからは痛みの期間も半減した。 だけど僕の場合口内炎を消毒してもらおうにも口が大きく開かないから難しい。嫁さんよろしくお願いしますね。

12月10日 身体がまた変わった?
家に帰ってきて3日、掛け物のかけ方を色々変えて工夫してはいるがやっぱり寒い。けれど寒さの質が変わっていて 入院する前みたいに身体の底から底冷えするような寒さではなくなった。僕の身体の中でまた何らかの変化が起きた様な 気がする。
この身体の中で何かが変わったという感覚は2-3年前に一度味わった。まあその時は数ヶ月で僕の身体に起こった変化は 終わってしまったが。今度の変化はいつまで続く事やら。

12月7〜9日 ドラゴンボール、その後
病院から戻って少し休んだらパソコンをセットしてもらいYou tubeを開き気になっていたドラゴンボールGTのつづきを早速 見た。
ドラゴンボールの神龍(シェンロン)にこの十数年という短い間に願いをかなえてもらったために生まれた7匹の邪悪な ダークドラゴン、悟空とパンちゃんは地球の運命を背負って懸命に戦ったが最後のダークドラゴン一星球(いいしんちゅう)は 強かった。その上残りの6個のドラゴンボールを取り込んでさらに強大になった一星球にはスーパーサイア人4になった悟空と ベジータそれにサイア人の血を受け継ぐ悟飯・トランクス・悟天・パンが束になっても足元にも及ばなかった。そこで悟空と ベジータはスーバーサイア人4同士でフュージョンし合身、一度は一星球を倒せるかに見えたが、お調子者になる フュージョン、千差一隅のチャンスを自らの油断で逃し時間切れでフュージョンが解けてしまう。その後も悟空とベジータは 何度もフュージョンを試みるが悟空の疲労が激しくて合身出来ず、やがて悟空たちは一星球に破れてしまう。息も 絶え絶えの悟空は最後の力を振り絞り元気玉で反撃、地球のみんなや(昔の)神とピッコロが分離する前に作られ悟空を ちびっ子に戻すというピラフの間違った願いをかなえた後宇宙に散ったドラゴンボール集めの時知り合った宇宙の惑星の みんなの元気を少しずつ分けてもらって出来上がった巨大な元気玉がついに一星球ダークドラゴンを倒し地球・宇宙に平和が 戻った。
その後元の様にオレンジ色に戻ったドラゴンボールから呼び出してもいないのに神龍が出て来た。いつもと様子が違い 神龍が出ているのに空が暗くならない。ただ悟食うだけはその理由(わけ)を悟っている様だった。やがて悟空はみんなに 別れを告げ行き先も言わずに神龍と共に旅立っていった。後には今悟空が着ていたはずの胴着だけが残った。その胴着を 見つけていぶかしがるパンちゃんにベジータがひと言「(肩身の品だから)大切にしろ。」と、僕の目からも涙が零れた。 その後神龍に乗った悟空は海原の島の亀仙人とクリリン・地獄のピッコロに別れを告げいずこかへと旅立った。ここも 泣かせるシーンだった。
舞台は変わって五十年数後の天下一武道会、ちびっ子の部の決勝は悟空の肩身の胴着を着たパンの孫悟空、対するは トランクスの孫、二人はスーパーサイア人なって互角の戦いをしている。そんな天下一武道会の会場でパンは おじいちゃんである悟空を見た様な気がして探してみた。けれと悟空は見つからない。パンはおじいちゃんは空の上から いつも見守ってくれていると思う。ここでドラゴンボールの長い話はついに終わった。
これで僕の長いYou Tubeにとらわれた時間は終わった。これからはたまにYou Tubeで音楽でも楽しむ事になるだろう。


[2009年の先頭に戻る]



11月
11月27日〜12月7日 体調不良、肺炎、入院
24日火曜日に車椅子に座らせてもらってベッドに戻った後からだんだん体調が落ちてきて夜発熱、解熱剤を使って汗をかき 一度は熱も下がったが、その後も薬が切れる度に発熱を繰り返した。これはおそらくただの風邪ではないなと 想像していたが、金曜日の通院の折に新型インフルエンザ検査と胸のレントゲンと血液検査をして肺炎という事になり この日から入院する事になった。
驚いた事は僕の主治医の入院指示の前から入院する病棟が決まっていた事、嫁さんが連携室と連絡を取って検査を 依頼しているらしい事は察していたが通院時に入院準備をしている様子はなかったのだが。僕は今回は入院になるとの 予感がしていたから素直に受けたがやはりいい気分はしなかった。
今回入院した病棟は呼吸器の病棟。この病棟に入院するのは今回で今年3度目だからほとんどの看護師さんも顔見知り、 だから気兼ねする事無く入っていけたし受け入れてもらえた。だけど看護師さんたちは他の患者と同様の対応を してくれていたと思うのだが、僕は何となく疎外感を感じていた。
入院して熱が出たのは初日だけ、後は朝晩の抗生物質の点滴が効いてきたのかすっかり収まった。その抗生物質の点滴も 7日目の木曜日の血液検査の結果でようやく終わり、先生からも「今度奥さんが来られたら退院の日程を連携室と打ち合わせ してもらいましょう。」と退院の許可が出た。けれどもその後嫁さんから「訪問看護ステーションの所長さんのお子さんが インフルエンザにかかったとかで所長さんが休みだから打ち合わせできない。ともかく今週の退院はもうなしね。」と 告げられた。だから僕は退院は早くとも火曜日もしかすると金曜日になるなと覚悟した。
ところが月曜日の朝看護師長から突然「今日(月曜日)退院ですね。」と言われびっくり。僕は看護師長さんに「そんな事は全然 聞いていない(しありえない)」と言ったほどだ。「私も人伝いに聞いた話だから奥様に電話して聞いてみますね。」と言って 戻っていった。けれど昼前に看護師長さんがもう一度来て「2時にお迎えに見えるそうですよ。だから1時半にお風呂に しましょ。それで大丈夫?。」と伝えた。だけど後で嫁さんに聞いた話だと土曜日に月曜日に迎えに来る事はきちんと 連絡していたと、どうやら病棟内で僕や主治医に連絡が届かなかっただけだった様だった。知らぬは僕ばかりなりか。
それからの僕はバタバタ。12時になると経管栄養を速めのスピードで落としてもらい1時で終了、30分休憩してお風呂に 入れてもらった。そして(珍しく?)2時丁度に迎えが来て慌ただしく病院をあとにした。帰り道「どこかに寄って行く?。」と 尋ねられたが僕が黙っていたので嫁さんが(勝手に)気を利かせて自動車は有田ダム・竜門ダム経由で我が家へ。 もう紅葉は終わっていて見るものはほとんど無かったが、久々に我が家の自家用車の車窓から見る風景は新鮮だった。
このまま今回の入院も無事終了かと思っていたがそうは問屋が許さなかった。驚いた事に自動車の助手席から車椅子に 移乗させてもらおうと立たせてもらった時に膝に力が入らなくなっていたのだ。車椅子からベッドに移乗してもらう時も 同様で膝に力が入らなくて腰砕けになってしまった。確かに入院していた11日間寝てばかりだったがこれほど弱くなって しまうとは、情けない身体だ。これでまた訪問看護師さんに迷惑をかけてしまうと思った。そこでつい嫁さんに「もう 立てなくなった」と泣き言を漏らしてしまった。これもまた情けないが・・・・・。

11月23日 エアコンが壊れた
ここ数日エアコンが突然止まるという現象が起きていた。一昨日電気屋さんに見てもらって(制御)基板?とセンサーを 交換してもらったのだが昨日また止まった。どうやら寿命らしい。この8年間ほとんど1日も欠かさず24時間働いてきたの だから素直に「お疲れさん」と言うべきだろう。でも電気屋さんが嬉しそうに見えた。
そして今日新しいエアコンと交換。電気屋さんが設置交換作業するのをじっと見ていた。壁に新たに穴を開ける必要は ないけど作業は電気屋さん一人で1時間弱で終了、たいしたもんだ。僕も30年ほど前販売実習でエアコンの設置を数軒 手伝った事があるが、あの頃は二人で半日仕事だった。ちょっと懐かしい。
それにしてもエアコンの価格安くなったものだ。お掃除機の付・工事費込みで10万円を切るとの事、それに電気代も 前機種の半分以下だと。これでは電気屋さんも儲からないだろう。エアコンを新しくして分かった事、前のエアコンの トラブルは突然止まるって事だけじゃなかったって事。だって同じ温度に設定していても部屋の暖かさが全然 地が生んだもの。やっぱり相当ガタが来ていたんだな。本当にお疲れ様でした。

11月21日 なるほど、ドラゴンボールGTはZのつづきなのか!
このひと月間You Tubeでドラゴンボール・ドラゴンボールz(大半はアチャラ盤、息子と同様言葉はどこの国の言葉か全然 分からずただ動画だけを楽しんで次々と登場してくるキャラクターを懐かしんでいたというのが本音なのだ。
でもどうやら291話で悟空がウーヴを気に入ってみんなに別れを告げ連れて行った時点でドラゴンボールZは終わった様だ、 言葉が分からないから内容もよく分からずなんだか尻切れトンボの様な終わり方だったが。一緒に見ていた下の息子に 「これで終わりらしいよ!」と言うと「探してみる。」と言って自分でパソコン操作に乗り出した。そして「日本語が ない。」などとぶつぶつ言いながらもしばらくするとドラゴンボールGTを映し出した。見てみると天空の神の宮殿にデンデや Mr.ポポがいる。悟空とウーヴが戦っている。GTの第1話を見て分かった事、「なるほど、ドラゴンボールGTはZの つづきなのか」と。以前下の息子がドラゴンボールGTを見ていたのを覗き見したが、小さな悟空がある惑星でパンという 女の子とトランクスと一緒にドラゴンボールを探しているところだった。なるほど、これでようやく話が繋がった。 納得。
ドラゴンボールZを見終わったらもうYou Tubeしばらく見るのを止めようと思っていたのだが、まだしばらく 続きそう・・・・・。

11月20日 新型インフルエンザの予防接種
今日は近所のかかりつけの先生の訪問診療の日、先生に新型インフルエンザの予防接種の注射をしていただいた。 隣県の病院にの神経内科に通院している僕の場合はその病院の僕の主治医と訪問していただけるかかりつけの先生とが 連絡を取り合って新型の予防接種を実施いただいたとの事だった。ありがたい事である。ほうぼうから新型インフルエンザの 予防接種はかなり痛いという話を耳にしていたからそれなりに覚悟していたのだが噂話は大きくなるものである。
棺おけが傍にあるような僕としては喘息持ちであまり体力がありそうに見えない中1の息子を優先して欲しかったのだが、 子供たちはいつになるのか???。

11月19日 下の息子回復!
下の巣子が新型インフルエンザを発症してから今日で1週間、息子も無事回復した様で明日からようやく学校に行ける様だ。 息子の通う小学校では(新型)インフルエンザを発症したら熱が下がっても1週間自宅待機という指針が出来ている様で、 昨日ぐらいから暇を持て余していた(嫁さんから聞いた話)息子も明日からその指針に従い学校に通えると嬉しそうな顔を していた。
今日久し振りに下の息子が僕の部屋に入ってきて文字盤で話しをした。「大丈夫か?」と聞くと「もう元気になった。」との 返事が返ってきた。そして夜僕がパソコンでDragon Ball Z(You Tube 外国語)を見ていると息子が部屋に来て ベッドサイドで一緒に見だした。だけど「(外国語だから)何て言っているか分からん。日本語のドラゴンボールを 見たいよ。」とぶつぶつ言っていた。けれど僕としては久し振りに下の息子と一緒に時を過ごせて嬉しかった。
いつだったか「新型インフルエンザにかかっていない証明書」を発行してもらいに病院に来る人がいるので病院の忙しさに 拍車をかけているという問題がニュースで報じられていた。少し視点は異なるが学校または市町村がこういう明確な指針を 設けてくれていると親も助かる(子供をいつから学校に復帰させていいか明快だし仕事を休まなければならない場合の 期間と理由も明確)し当事者の子供もしかとなどいじめにあう可能性も低くなる。インフルエンザでいじめを心配する僕も 親バカだろうか。だけど僕らが子供の頃は赤痢などの伝染病の後でこんなケースもあった様な気がするのだが、もちろん 健康優良児に近かった僕は被害者側になる事がなかったのでよくは覚えていないが。

11月17日 寒い!
エアコンを効かし僕の身体には目いっぱいの掛け物がかけられているのに僕は相変わらず肺や背中や肩や手足そして 心にも寒さを感じている。エアコンからは暖かい空気がほんとに出ているのかと懐疑の目を向けながらそろそろフィルターを 掃除して欲しいなと心の中で呟きながらも口をついて出る事はほとんどない。もうそんな元気もなくなった。今年冬は 越せるかなあ。
いったいいつまで寒さに耐えなければならないのかなあ、僕の心の中で時々「もういいのに」と呟く声が聞こえてくる。 僕の心も弱くなった!。

11月16日 下の息子のその後
インフルエンザにかかっている下の息子は僕の部屋へは寄り付く事さえ禁止だし家族の誰も息子の様子など話さないので よく分からないが、金土日と息子の気配さえ感じなかったのだが今日は息子の声が向こうの居間の方から聞こえてきた。 嫁さんに時々尋ねていると「(土曜日から)食事も摂れる様になった。」し「(今日は)もう食事は下に下りて来て 食べている。」との事。知らぬは僕ばかりなりか。
新型インフルエンザの上は医療機関にも正しく伝わっていない様だ。季節性のインフルエンザの予防接種を打った時には 新型(を打つの)は1〜2週間あけた方が良いと聞いたが今日は季節性と新型を一度に打った人もいると聞かされた。僕は 重度の持病を持つ患者に分類されるらしいが、主治医は隣県の病院かかりつけ医は近所の医院、新型インフルエンザの ワクチンは数十人分がある日一度に配給されてくるらしいから新型の予防接種がいつどういう風な予定で行われるか さっぱり分からない。まあ僕が子供の頃は本家に豚も飼っていて周りでよく遊んでいたから、豚インフルエンザには かかり難い体質になっているのかもしれないな。

11月13日 我が家にも新型インフルエンザ見参
ここひと月わが町の小中学校でも新型インフルエンザが流行ってきていて学年閉鎖や学級閉鎖がちらほら出ていた。
そんな中「自分のクラスだけは小学校で新型インフルエンザで休校になっていない。」とはしゃぎ回っていた家一番の 元気印の下の息子が嫁さんが学校に偶然?迎えに行った時に発熱している様なのでそのまま病院へ、検査してもらうと 新型インフルエンザとの事。夜嫁さんに息子の様子を聞くと「熱は38℃は出てないが関節が痛いと言っている。典型的な インフルエンザの症状ね。」「ミレンザはもう飲んだ。」と。僕が「食事は?」と聞くと「普通のご飯は欲しくないと。ジェル状の 物を食べると言ったから栄養入りの物を渡したら食べていた。」との事。あの食欲旺盛で(僕の遺伝子をしっかり 受け継いで)食い意地が張っている下の息子が、食事を欲しがらないというのはよっぽど辛いのだろう。
ついに我が家にも新型インフルエンザ見参、一番心配していたのは喘息持ちの上の息子がかかる事。軽い喘息持ちは 他にもいるし酒好きの親父もいる。何とか今回は下の息子だけに止めたいものだ。
僕が新型インフルエンザにかかってどうにかなろうともそれはALSを患った事による定まった流れすなわち定め(変える事の 出来ない運命)だと観念しているのだが、家族がどうにかなる事は見たくはないものだ。

11月11日 報道の倫理・あり方?
昨日今日とテレビ各局が「リンゼイさん事件の市橋容疑者逮捕」の報道を我先にと競って流している。確かに今回の事件、 千葉警察の市橋氏取り逃がしという失敗に始まり2年7ヶ月間顔の整形手術を施して逃げ回った上での逮捕という話題性・ 特異性には事欠かない事件だった。それに1週間ほど前からニュース・ワイドショーの類がこぞって整形後の市橋容疑者の 顔写真を報じた事が今回の逮捕劇に繋がったのは確かだ。
けれど逮捕後の移送および市橋容疑者の両親への会見カメラの向け方は報道の倫理・あり方が問われていると感じた。 一般人がどんなに迷惑を被ろうとも我関せずとの報道各社の傍若無人な態度、特に新幹線での移送時の新大阪駅 新幹線プラットホームおよび車中通路における報道陣の態度やたむろしている数の多さが映し出される度に日本人の いじめの現況がここにもあるのではないかと思えてきて辟易した。さらに昨日市橋容疑者の両親の会見をモザイクも変声も なしで流したテレビ局があった事、報道の倫理も落ちたものだと思った次第だ。
一概に言うべきではないのかもしれないがほとんどの場合大罪を犯した者の両親にも犯した罪の責任の一端(大半かも)は あると僕は思う、なぜなら大罪を犯した者の人格形成の時期の環境作りにその両親は大きくかかわっていたのだから。 けれど僕が子供の頃は青少年が関係する大きな犯罪はこれほどなかった。僕らが子供の頃は自分の親だけではなく 祖父母や学校の先生・近所のおじちゃんやおばちゃんに良い意味で見守れていたのでよく叱られもしたし温かい指導を 受けたものだった。だが今の世の中はそ学校の先生や他所の人・祖父母でさえ自分の子に注意でもしたら自分の子が 悪い事をしたと承知していたとしても文句を言い出す親が多いと聞く。それならその親たちがしっかりと人の道を 説いていたかというとどうもそれは出来てはいないらしい。今の世の中競争が常の社会なのに勉強だけ順位付けして それ以外の事はみんな仲良く一緒にと個人個人は競わせない風潮だ。そんな風潮の学校を作った社会と親たち、 今の子は勉強以外普段は勝ち負けを経験していないのだから、些細な事で挫折を覚え立ち直れなくてそのまま大人になって 犯罪を犯す者がたくさんいるのではないか。いつからこんな世の中社会になったのか。
こんな寝たきりで何もしてやれない父親を持ってうちの子達は大丈夫なのかとこんな事件を耳にする度に僕は どうしようもない不安にさいなまれる。

11月9日 体調不良
ここのところ朝昼晩の寒暖差が大きかったためか、この僕の何とも情けない抵抗力もなくなったこの身体は踏ん張る事もなく 気温差についていけなくて体調を崩した様だ。身体がだるいし背中や腰にだるい痛みがある。熱も37℃台半ばあり 呼吸するのに力がいるとかしんどいなぁと感じる事さえある。さらに時々鼻水・鼻詰まりと背中へじわーっと寒気が 襲ってくる。これではパソコンに向かおうという気持ちやこの日記を書こうという気力さえ湧いてこなくなる。
いつも小山のような薬に加え風邪薬に熱さまし、それに金曜からは往診していただいているT先生にお願いした血液検査で 血中白血球が増えているし炎症反応も出ていると抗生剤も処方してもらった。それに加えて夜中眠れなかったり眠りが 浅かったりすると呼吸器から送られてくる暖かくない空気で肺から伝わって余計に身体が冷えてるのかもしれないと早目に 眠れるようにと眠り薬まで飲んで寝る。最近は風邪で身体がだるいのか薬の作用で身体がだるいのか自分でも 分からなくなってきた。
今日昼過ぎからパソコンに向かったが、本調子じゃないなあ。

11月3日 文化の日
下の息子に「今日はなぜ祝日なのか?」と尋ねると「文化の日だから。」と。「それでは文化の日って何?」って聞くと首を 傾げていた。
5年生の息子に「文化の日」は現在の憲法日本国憲法が1946年(昭和21年)11月3日に公布された事を記念にした日そして この半年後の1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行された日(5月3日が「憲法記念日」)と『公布・施行』という難しい 言葉を使っても理解出来ないだろう。日本国憲法を国民に対して日本政府が大々的に発表した日とでも言ってみるか。
でも当時日本憲法の全文をどうやって知らしめたのだろう。ラジオで日本国憲法の全文を朗読する訳はないし新聞各紙に 全文を載せるはずもない。結局当時の政府は広報だけで見たい人は公的図書館でも行って読めという事だろう。

11月2日 散歩のお誘い
今日訪問看護ステーションの所長から「時には家の周りやそこいらを車椅子で回りましょうか?。」と散歩のお誘いがあった。 僕にとっては大歓迎な話なのだが、玄関へのスロープの設置や人工呼吸器・吸引機・吸引セットの運搬それに11月なので 僕の防寒対策と同行する人は大変だ。それを考えると気の毒で今まで・・・・・。まあ、所長さんの「検討しましょ。」って 言葉にお任せしましょ。後は僕のこの貧弱で病弱な身体がついていけるか?。ひとつには僕の気持ちの張りの 問題もあるだろうけど。
ちょっと前嫁さんが「何所か行きたい所ある?。」と聞いてきて「蛤岳」と答えたけど、もう実現は難しいだろう。 もう11月だしね。嫁さんも言ってみただけだろうなあ。
蛤岳は僕にとって娘と登った初めての山、11月下旬娘がまだ3歳になる前の秋の終わりだった。それに一番下の子が 生まれる前だが、家族4人(息子は嫁さんの背負子の中)で歩いて登った山だ。蛤岳は小さいけれど僕にとっては宝満山と 同じくらい思い出多き山なのだ。


[2009年の先頭に戻る]



10月
10月30日 通院日
今日は社協のリフト車を利用するようになって4度目の通院日。リフト車に同乗してくれる社協の看護師さんや ヘルパーさん・僕が移動するためにと吸引・足と首への装具装着・僕が外出するための人工呼吸器や吸引セットの準備そして ベッドから車イスへの移乗・家の外へ移動までを担う訪問看護師さんたちももう大分慣れてきた様で幾分短時間で済むように なってきた。
そこで今日はリフト車が着くまでの間「外に出(て日光浴し)たい」と申し出た。久々に浴びるお天道様の光はぽかぽかと 温かかった。家の前の田んぼでは親父が野菜の草むしりをしていた。久し振りに親父の働いている姿を見たが、親父も80歳 小さくなった。本当は1週間に1度ぐらいはこうしてお日様の光を浴びたいのだが・・・・・。
リフト車に乗り込むとサイドの天窓を開けてもらった。移動中に山が少しでも見えるといいなと思った、空が見えるだけでも 開放感はあった。リフト車に乗り込み病院に向かっていつもの道を出発、リフト車の車窓からはところどころにコスモスが 咲いているのがのぞき見れた。田んぼの稲刈りはもうすっかり終わっていて藁を集めた?円筒形の物体が田んぼにまれに 転がっていた。牛の飼料にするのだろうか、100kg以上あるらしい。田んぼにはまだたくさん大豆が植わっていて 刈り取られるのを待っていた。これらの大豆はどのくらいで取引されるのだろうか。米に麦に大豆、日本の様な小さな 田んぼで外国の対規模大型機械化された農業に対抗するためには零細規模の農家が集まって共同経営して今一戸一戸に 掛かっている機械化のコストを大幅に小さくしかつ販路を独自に開拓して出きるだけ消費者に近づいて売るように しなければならない。そのための現時点での一番の近道は農協がその方向に方針転換する様に組合員である農家が後 押しする事だと僕は思う。
リフト車の中に車椅子で乗り込んでいる僕の頭部は道の凸凹に素直に反応して前後左右に振れる。それを同行している 看護師さんやヘルパーさんが支えてくれている。その看護師さんやヘルパーさんがリフト車の中で世間話をしているのだが、 その二人のなんら意識していない会話・話が掛け合い漫才の様ですごく楽しく腹を抱えるほど面白いのだ。リフト車で 2週間一度行く通院でこの掛け合い話が僕の楽しみになってきた。

10月28日 鳩山内閣、大丈夫?
民主党鳩山内閣ができてひと月あまり、95兆円を超える来年度予算概算要求、各大臣のマニフェスト至上主義の発言や 内閣不一致とも取れるばらばらで勝手な発言、内閣と党の足並みの乱れ・方針不一致、郵政事業見直しにおける社長人事の 天下り是認とも取れる決定など早くも首を傾げたくなる様な事柄がいっぱい出てきている。国民は民主党政権にまず税金の 無駄遣いの徹底的な是正と年金問題の解決を託したのに、民主党政権・鳩山内閣は本当に大丈夫?。
新しく政権が交代したのだから少なくとも1年は黙って見守らなくてはならない事は分かってはいるのだが、大きな不安が 僕の中で頭をもたげ始めている。

10月27日 昔の稲刈りはそんなもんじゃなかった
昨晩下の息子が「明日何を着ていけばいい?。」と騒いでいた。「なぜ?」と聞くと明日稲刈り(の実習)があるらしい。
今日僕は「稲刈りどうだった?」と聞きたくて下の息子が帰ってくるのを首を長くして待っていた。けれども息子は一向に 僕の部屋に顔を出さないし帰って来た気配もしない。それで5時半過ぎしびれを切らして息子を呼んでもらうと、 不機嫌そうな顔をしてやって来て「疲れた。ちょっと待って。」と言ってから僕のベッドに横になり身動きすらしなくなった。 僕は昔の稲刈りはそんなもんじゃなかったと思った次第だ。
昔のうちの田んぼの広さは約四反(4アール弱)、小・中・高校とクラブ活動に入っていなかったので放課後・日曜と田植え・ 稲刈り・脱穀とよく手伝わされた。僕が下の息子の年齢の頃は田植えも稲刈りも手作業だった。今回息子は実習で何株 刈った事だろう。あの頃稲刈りに放課後も含め何だか1週間以上借り出されていた様な気がする。その上稲刈りした夜は みんなで小屋でまあかし縄作り(刈り取った稲株を10株ほど集めて結ぶための縄)、また刈り取った稲を結ぶ前に ひっくり返して乾燥させる作業もある。稲が程よく乾いたらまあかして(結んで)田んぼや畦道の所々に結んだ稲束を つんでおく。そしてようやく脱穀機を田んぼに持ち込んで脱穀開始。当時脱穀機の所まで稲束を運ぶのも僕の仕事、親父が 脱穀するスピードに負けない様にお袋と僕とで稲束を運ぶのが大変だった。
僕の子供の頃の稲刈り・脱穀に比べれば今回下の息子の経験した田植え・稲刈りの実習は屁の様なものだ。 もし僕が元気だったら、親父から一番小さな田んぼを借りて子供たちと一緒に手作業で米を作り、米作り大変さ・楽しさを 一緒に味わいたかった・・・・・。

10月26日 この冬を乗り切れるのか?
最近ずっと思っている事がある、それは人様が「暑い暑い」と額から汗を流していた夏の間もずっと一人だけ寒さを感じていた こんな身体の僕はこの冬を乗り切れるのかと!。
この2-3ヶ月の間に先に逝った本家の伯父ちゃんや遊び友達だったTちゃんの夢を見た。あんなに仲良くしてたのに 初めてだった。「今まで良く頑張ったからもうこっちへ来たら」と言ってるのかとも思った。僕の中にももうそろそろいいかなという 気持ちと逝く順番だけは守らなければせめて下の息子が高校を卒業するまでは逝けないという気持ちが交差している。 こんなに身体が寒いともうお迎えが近いのかなとつい思えてしまう。

10月23日 今度は「ドラゴンボールZ」にはまった
2-3日前から今度はYou Tubeの「ドラゴンボールZ」を見始めた。一度見だすと面白くてなかなか止められない。おかげで? 病院の主治医との日々の連絡(支援システム)もサボってしまうし夜の経管栄養も遅らせてしまうから嫁さんは 少々お冠だ。
今日もドラゴンボールZを見ていたら音に引き寄せられて息子たちが僕の部屋に入って来て一緒に見始めた。一人はベッドに 上がって僕の横に寝そばりもう一人はベッドサイドに陣取って僕に寄り添ってみんなで見ていた。息子たちが僕に幾分 寄りかかっているから少し重いけどこうしていると温かい。丁度娘が「パソコン使わせて。」と僕の部屋に来ていたから 子供たちが僕の部屋に勢ぞろい。僕のささやかな幸せの時。

10月20日 こんな事があって良いのか!
知り合いのホームページを見ていたら「今朝は信じられない通知を受けました。町の社会福祉協議会は来年度から 障害者支援事業を停止になるということでした。介護保険なら継続するけど・・・なぜ?」との記述があった。その方の 町の社会福祉協議会にもそういう事を言わせるその町にも国にも腹が立った。僕に何か出来ないかと思ったが 気の効いたアドバイスさえ思いつかなかった。
日本には介護事業所はたくさんあるから我々介護を受けるものは選択する側介護事業所は選択される側と思っている人も 多い様だがそういうものでは決してない、僕らの様に人工呼吸器を着けていなければ生きていけない者(気管切開 している者)と痰の吸引をするとの契約をしてくれるヘルパーを認める介護事業所は(大都市以外は)皆無に近いしそれに 介護事業所には拒否権まである。いくら選択出来る立場にあるといっても僕らにとって自分が必要とするサービスを 提供してくれる介護事業所やヘルパーを見つけるのはなかなか難しいのが現状なのである。
上記の僕の知り合いの方は高校生のお子さんと二人暮しで呼吸器を着けておられる24時間介護(痰の吸引も含めて)が 必要な方、今回の町の社会福祉協議会が打ち出した方針は家族を離れ離れにする可能性を示唆する仕打ちだと思うのだ。 いくら社会福祉協議会が責任もって後釜を見つけるといっても痰の吸引をしてくれるヘルパーが簡単に見つかるはずがない。 それは今年の4月彼女がヘルパーを増やす必要があった時に役場や社会福祉協議会が一緒に探して難しかった事を 自らが体験しているのだから。

10月19日 シャツで多分違う!
少し前嫁さんに「厚手のシャツを買ってきて」と頼んでおいた。嫁さんは「厚手の介護用のシャツってなかなか 無いのよねぇ。」と言いながらも今日肩がふたえの少し厚い六分袖のシャツを買ってきてくれた。車椅子に移乗して戻った後 訪問看護師さんにそのシャツに着替えさせてもらったら肩がいつもほどスースーしない様な感じがした。
夜経管栄養の時間、薬の影響もありしばらくの間うたた寝をして目が覚めると掛け物をいっぱいかけているせいか体温が 上がってきて少し息苦しい様な気がしているし顔と頭に久し振りに汗をかいていた。やはりふたえ肩の新しいシャツの影響が ここにも出ている様だ。
確かに新しいシャツにしてから僕が身体に感じている寒さ・冷えがこれまでとは違っている。肺は呼吸を深くまたは 激しくするといつものように冷えるがその冷えがこれまでの様に肩や腕の方までには伸びてこず、肩は寒いのは寒いのだが 肩が寒さでズンズンと底冷えする事はなくなった。この事から考えるとこの一年で肩と腕で肉がシャツ1枚分以上僕の 身体から減ったということか、去年の夏までは肩を出しても寒いと感じずに寝られていたのだから。

10月17日 クライマックスシリーズ、ホークス惨敗
パ・リーグクライマックスシリーズ第一ステージはホークスの惨敗・完敗に終わった。実力通りの結果が出たという事か。 今シーズンの楽天はそれなりに強かった。ピッチャーは岩隈・田中の両輪両エースに加え永井がそれなりの結果を出した。 これで中継・押さえにしっかりとしたピッチャーがいたら日本ハムファイターズと優勝を争っていたはずだ。打撃陣も山崎・ 草野・鉄平を中心によくがんばった。各バッターもそれぞれ工夫をしていた様だし工夫せよと徹底されていてこの クライマックスシリーズでもそれぞれのバッターがセンターから反対方向を狙ったバッティングを心掛けている様だった。 一方ホークスのバッターにはシーズン中と同じ様に何の工夫もなくただ思いっきり振り回すだけ(川崎選手は流し打ちに こだわり過ぎてバッティングフォームを崩しっぱなしだった)、ホークスの選手たちは今シーズンのスローガン 【フリキレ】を振り回せとか大きいのを狙えと解釈してしまったのではないかと思えるほどに。交流戦ではセンター中心に 打ち返す粘りの野球が出来ていたのにパ・リーグのピッチャーにかかると途端にそれが出来なくなる。弱点を見抜かれ 攻められて気持ちに余裕が出来ない?、けれどそんな時こそ色々と工夫すべきだったと思うのだが。
クライマックスシリーズ第一ステージを見て第1戦で杉内投手が4点目を取られた時点でホークスの今シーズンは終わった。 合点がいかないのは第2戦7回表、楽天田中投手から初めて連打を放ちノーアウト・1・2塁スコアは4-0で楽天の勝利濃厚、 この場面で秋山監督はなんと送りバンドを命じたのだ。ここで田中マー君をノックアウトしなければ勝利はないと思える 場面で送りバンドはないだろう、この回でたとえタイムリーが出て2点取ったとしても8回・9回で田中マー君から2点以上 取れるか、ボールが少し上ずっているこの回が湾チャンスの回だと考えなかったのか不思議だ。秋山監督が7回にきて点差が 3・4点離れているのにノーアウト1・2塁で送りバンドのサインを出すという作戦はシーズン中にもよくあったがどれくらい 逆転した試合があるかはよく覚えていない。確かにシーズン中で残り試合がまだ残っている時期ならこの様な作戦も ありだろう。でも今日負ければ終わりの試合でまして相手投手マー君が好投しているのだからこの作戦ないだろうと思った しだいだ。結果は川崎が送りバンド失敗3塁ホースアウト、オーティズ内野ゴロで2アウト2・3塁、小久保センターフライ 0点で終わった。僕としてはヒットエンドランをかけて川崎に1-2塁間にゴロでひっはらせて欲しかった。
結局この試合も東北楽天イーグル数が4-0で完勝、パシフィックリーグクライマックスシリーズ第一ステージは何の 盛り上がりもなく終わった。こうなったら楽天に日本一になって欲しいものだ。

10月16日 通院日
今日は前回のレスパイト入院から2週間経ったという事で通院日、でも今回の2週間は比較的長く感じた。珍しい事だが 何故だろう。色々と考えさせられる事があったからか、身体がなかなか気候や環境の変化についていけなくていつも身体が 寒いと感じているからか。いずれにしても何かが違ってきている様な気がしている。
通院に町の社会副師協議会の移動サービスを利用する様になって今日で3回目、相変わらず結構揺れるけどリフト車での 移動そのものにはかなり慣れた。けれども外出の準備にはまだまだ時間がかかっている。回路の固定の仕方とか結構 面白いアイデアを僕は持っているのだが伝える術がない、というより伝えても誰がやってくれるのか考えると難しい。
リフト車の車窓から風景を楽しむのは難しい。今頃はコスモスの季節かなと思って見える窓から覗いていると道ばたに ちらほら見えたがこれくらいで秋を感じ取れというのは度台無理な話だ。嫁さんに秋の季節を味わいにどこかに行きたいと 言ってみようかな、難しいだろうけど。
いつもの様に診察と処置が終わってリフト車に乗り込もうとする時に一瞬秋の日差しにさらされた。暖かかった。こんなに 暖かいのなら日向ぼっこしたいと思った。だっていつも心も身体も寒くて堪んないと思いながら過ごしているんだもん。

10月14日 嫁さん、体調不良?
ここ数日嫁さんの体調特に首の調子があまり良くない様だ、昨日は一日中首にカラーまで巻いていた。長時間自動車の 運転を続けていると首の痛みがぶり返してきて身体に変調が出てくる様だ。
嫁さんも自分でそれが分かっているのならこの前の日曜日太良町に竹崎蟹を食べに行った時にどうして諫早干拓地・大村・ 川棚と遠回りをして帰って来たのかと僕は思う。久し振りに嫁さんも親孝行したかったかもしれないし、嫁さんが言うには 息子たちに諫早潮受堤防の中と外では水の色が実際どれだけ違うか見て感じて欲しかったしまた諫早経由で帰っても それ程距離的には変わらないと思っていたし現地の人にも同じ様なものと言われたと。でも諫早経由が距離的には 変わらないないなんてとんでもない話だ。佐賀・長崎県の地図を思い浮かべてみればいい、それに長崎本線肥前鹿島-諫早間で どれだけ時間を費やしているかを考えてみればいい。諫早・大村・川棚経由の方がおそらく時間は2倍かかるだろう。でもまあ 僕が元気なら太良に竹崎蟹を食べに行ったついでにみんなを島原・雲仙まで連れて行ったかもしれないな。
また以前から僕は嫁さんの言う事と実際の行動には矛盾があると思っている。しんどそうな顔をしている時も夜中僕の 寝る前の最後の介護(痰の吸引とおしっこ)が終わったらさっさと寝ればいいと思うのだがよくパソコンの前に座っている。 そんな事をしているくらいなら早く寝ればいい、口では「疲れている。しんどい。」と言いながら電気を消した後もしばらく パソコンの前に座っているから本当にしんどいのかただ僕の相手をするのが嫌なだけなんじゃないかと思ってしまう。 せめて体調が悪くない時ぐらい時には僕だけの相手をしてくれてもいいと思うのだ、僕にも嫁さんにゆっくりと話したいと 思う事もあるのだから。
まあ嫁さんには自分の身体にももっと気にかけて大切にして欲しいものだ。

10月11日 ドラゴンボール
最近下の息子がYou Tubeのドラゴンボールにはまっている様で僕の部屋に来てはパソコンでよく見てる。そしてその息子に 釣られて昨日今日と僕も息子と一緒にドラゴンボールを見ている。息子は僕と一緒にベッドに横になり見ているのだが、 こうして同じ時間を共有していると思うとなんとなく幸せを感じてしまう。
それにしてもドラゴンボールは四半世紀前の作品だと思うが未だに面白く見ていても飽きない。僕はドラゴンボールZしか 知らないが語尾に色々ついたものがドラゴンボールにはある様だ。またテレビでは現在もドラゴンボールが 放送されているという。しかしこの前今テレビでやっているのを息子と見たが基本のストリーはあまり変わっていない様に 見えた。「どこが違うのか?」と息子に聞いても「???」と、まあ無理もない。面白いからそれで良いか!。もしかしたら ハイビジョン仕様に替えただけかもしれないな。

10月11日 ながさきコミュニケーションエイド研究会
今日は第7回ながさきコミケンの日。U先生から「今年は長崎大でやる。」と聞いていたので是が非でも参加したかった。 何故って長大でなら石松先生の研究室の大掛かりなものが見られるかもしれないと思っていたから。でも諸々の縛りが僕の 参加を許さなかった。

その中で最大の縛りは訪問看護師さんの外出支援が得られない事。僕も嫁さんも外出は訪問看護師さんたちに 頼りきっていた。訪問看護師さんたちがいないと自動車に乗り込む事すら出来ない。でも厚生労働省が外出支援を 訪問看護の業務の一環として認めていないのだからどうしようもない、まさか訪問看護師さんに「ボランティアで ついてきて」とは言えないものね。数日前嫁さんは「参加したいのならもっと早く言えばよかったのに。」とぶつぶつ 言いながらも介護タクシーなどの移動手段がないかと調べてくれた様だが無理だった。でもコミケンが今日開催される事は 先週半ばに嫁さんから言われて僕も初めて知ったのだからそれは無理な話だ。それに僕が今年のコミケンに関心がある事は ひと月ほど前僕が嫁さんに「今年のコミケンの案内は来ていないか?」と尋ねた時点で気付いてもいい事だと僕は思う。 どうやらあの時点で嫁さんは僕は端から行かないものと決め付けていて聞き流していた様だ。
いずれにしても今回の事で嫁さんも僕も人工呼吸器を着けた者が外出するという事がどんなに難しい事かを 再認識させられたという事だ。

10月11日 竹崎蟹
上の息子に聞いたところによると今日嫁さんと息子たちは嫁さんの両親と有明海(太良町?)に蟹(竹崎蟹)を 食べに行くと言う(娘はレオ倶楽部で障害者施設の運動会ボランティア、僕は一度としてやった事が無い、 たいしたものだ)。
竹崎蟹は(おそらく)渡蟹、元気だった頃2〜3度現地まで行って食べた事がある。まだ呼吸器は着けていなくて嚥下障害が ほどほどだった頃、蟹好きの僕のためにうちの両親と子供たちとみんなで竹崎蟹を食べに行こうと嫁さんが 言ってくれていたのだが、実現させる前に僕の嚥下機能が落ちてしまった。
竹崎蟹は食べやすかった事はよく覚えているが味はあまり覚えていない、あっさりした味の中にも幾分甘味があった様な 気がしている。息子たちが帰ってきたら「どんな味がしたか?」と聞いてみよう。
ちなみに僕の一番好きな蟹は「ツガニ」、親父の味噌で煮たツガニが一番美味しいと思っている。まあ僕はもう二度と 食べる事はないと思う、残念だが。

10月8日 死というもの
本日の午後友人のご母堂様があちらの世界に旅立ったと嫁さんにメールが入った。彼女は僕と同じような神経難病を患い 他にも梗塞などの疾患も抱えていたという。最近嫁さんからかなり回復してきたと聞いていたので安心していたのだが ご母堂様は穏やかに旅立たれたのだろうか。
最近身近な者の死に遭遇するたびに死というものについて考えさせられる。健康な者は「死」というもの遥か彼方に ある自分にはまだまだ無縁のものと捉えているだろうが、病気と隣り合わせで生きている我々は死がすぐ身近にあると いつも感じている。例えば体調がおもわしくなくなるとそろそろお迎えが来る時期かと思ってしまうしコールに届かない事が 分かるとまるで高い川に架けられている丸太橋を渡ってでもいる様な死の恐怖におののいてしまう。
僕もその内に死を迎える日が来るだろうが、死する時僕はどんな気持ちでいるのだろうか?、安堵それとも恐怖・・・・・。

10月6日 入浴日
今日は入浴車が来る日、久し振りにゆっくり浴槽に入れると思うと嬉しくてたまらない。けれども朝起きてから身体を 冷えてしまったのか朝から体調がもうひとつ。寝ている時は呼吸回数が少なくて呼吸も浅いから肺には加湿器で暖められた 空気が送り込まれてくるけど、起きたら自然に呼吸が激しくなってしまい加湿が間に合わなくなり冷たい空気が肺に 入ってくる。そうしたら身体が肺や肩から冷えていく。何とも惨めな身体だ。今日は折角の入浴日なのに危機である。 といっても熱が出たという訳ではなくただ時おり鼻水が出てくるだけ。それでも用心してリハビリはお休みする事に、 立ち上がるリハビリをすると身体が少し冷えてしまうから。
午後いよいよ待ちに待った入浴車の時間、今日の入浴車のお嬢様方は僕にとってほぼベストだと考えられるメンバー。 それでも2週間の入院で生じた背中の痒みと今日は体調が少しだけだがすぐれない事をどのようにして伝えようかと 迷ってしまう。今日は体調がもうひとつだったせいか湯船に入っても汗がなかなか出なかったし湯船からは十分に温もって 上がったのだが着替えをして十分に掛け物をかけてもらっていたのに湯船での温もりを持続出来なくて夕方には少し 冷えを感じてしまった。自分でも何とも情けない身体だとまた思い知らされてしまった。
これから秋も深まり冬に向かって行くと段々と寒さも増していくというのに、楽しみのお風呂はどうなってしまうのか。 不安だなあ。

10月5日 テレビドラマ、高千穂伝説殺人事件
元気な頃僕は内田康夫氏の浅見光彦シリーズが好きで仕事の移動中中心に100冊以上読んだものだ。。テレビでは時々 「浅見光彦シリーズ」や「長野のコロンボシリーズ」をやっている。今日もテレビで3時間スペシャルで「浅見光彦シリーズ・ 高千穂伝説殺人事件をやると聞いていたので夜の8時になるのを楽しみにしていた。2時間仕立てのシリーズのドラマ化も それなりに面白いがどうしても端折ってあるのでストリーが浅くならざるを得ない、3時間スペシャルではその辺が どう変わるかと楽しみにしていた。
僕の記憶に間違いがなければ三分の二までは確かに高千穂伝説殺人事件だった、でも残りは別のシリーズではなかったか?、 二つのシリーズを上手くくっけて3時間スペシャルの高千穂伝説殺人事件として放映したのではないかと思うのだ。ただ僕の 記憶も曖昧で薬の影響で高千穂における終戦前後の出来事に端を発したこの連続殺人の謎解きの場面では 寝込んでしまっていてドラマのクライマックスを見逃しているから何とも言いがたいが。期待の大きさに比べて 並だったかなあ。

10月4日 家は寒い?
2週間振りに家に戻って気がついた事、それは家が寒かったって事。まあこの4〜5日でめっきり寒くなっただけなのかも しれないが。退院した次の日久々に入念に清拭してもらったら(病院での清拭は短時間で多くの患者さんを受け持つので 在宅よりどうしても簡素になってしまう、まあしょうがない事と割り切っている)身体が少し冷えてしまった様で昼過ぎから 鼻水が出てくる様になって3時半過ぎに車椅子に座らせてもらった時には雫となって落ち始めた。全く難儀で情けない 身体だ。それに夜になって身体がなかなか温もらないと感じたので用心のために風邪薬を服用して寝る事にした。これでは 全く薬依存症だ。嗚呼情けない。
風邪薬を服用したせいか今日は少しだるい。入院中の2週間あれだけ寝ていたので今日は色々とやりたかったが、諦めて 寝る事にした。まあしょうがないかな。


[2009年の先頭に戻る]



9月
9月18日-10月2日 レスパイト入院
2週間のレスパイト入院。今回の病棟は以前よく利用していた所、ただこの前この病棟にいつ入院していたかよくは 覚えていないくらい前だ。それでも顔見知りの看護師さんは「いらっしゃい。お久し振り。」とほとんどが明るい顔して 笑顔で挨拶してくれた。顔見知りの看護師さんも多くて安心して入院出来るはずなのだがしかし今回の入院も色々な想いが 折り重なって何もする気が起きなかった。
今回の入院中3時過ぎぐらいに3人の看護師さんが集まってきて車椅子に移乗させてもらって1時間ぐらい過ごす以外は 何もせず一日をベッドの上でボーっとして過ごした。初めの頃は昔の事を懐かしみ、ありもしないもし治ったらあれも しようこれもしようと考え、時には政治・経済事情に思いをはせ、もし昔に戻れたらいつどの時点でどこに戻りそこで何を しようと考えを巡らせていたが、1週間も経つと思い描く事もなくなりついに頭に何も浮かばなくなった。
そうなると前にもまして毎日昼も夜も何もする事もなく退屈で暇で堪らなくて気分が悪くなるほど時間を持て余した。 看護師さんの中には「今回はパソコンは持ってきてないの?。」とか「もうパソコンはしないの?。」と気遣いの言葉を かけてくれる者もいたが、様々な想いや鬱憤が相まってその結果どうなろうとも今回の入院中は決して何もしないとの想いが 僕の中でずっと渦を巻いていた。何故・・・・・!。そして退屈で耐えがたくなるほどの日々だったが結局何もしなかった。 まあ嫁さんには「退屈で堪らん」と命乞い?してみたがそれでどうにか出来る訳もなくする訳もなく・・・・・。
今回の入院中にした事といえば、経管栄養をエンシュアからラコールに代えた事と「ダンボールの魔術師」作業療法士の U先生に足の指で押す2スイッチタイプのスイッチを新しく作ってもらった事。
経管栄養をラコールに代えたのは前回入院した時の検査で血中タンパクが低くなり過ぎて異常値を示していたからとの事。 エンシュアとラコールはカロリー率は同じだが中の成分比率が異なりラコールの方がタンパク質の成分が多く 入っているという。元々医師たちの中にも飲むんだったらエンシュアの方が美味しいが経管栄養だけだったらラコールの方が 良いとの考え方があるのだと巡回の時知った。入院初日から経管栄養がラコールに代わったがラコールの方が早くお腹が いっぱいになって張る様な気がした。また屁が頻繁に出る様になりお腹がいつもグジグジし二日目から便意があり便も 少し柔らかめになった様な気がしていた、まあ下痢をするほどの事はないが。ラコールの方が消化が 良いのかもしれない。
U先生に作ってもらった新しいスイッチは足の左右それぞれの親指で押す二つのスイッチがついたもの。これで右足の親指と 人差し指の間に挟んで使うピルケーススイッチを含めると三つのスイッチを使える事になる、流石に同時に使うのは 無理だが。けれど順繰りに使う事は可能だ。だから疲れたら代わりばんこに使おうかな。それともパソコンや呼出コール それに今回の入院中にモニターとして貸してもらった「レッツ・リモコン」 (ワンスイッチ操作でもテレビの基本動作(ON/OFF・音量・チャンネル)をが出来る機器)等にそれぞれつないで使おうかな。 ともかく僕の世界が広がるのは確かで嬉しい事だ。
2日の日に2週間のレスパイト入院を無事勤め上げ家路についた。迎えに来た家の自動車の車窓から見えた稲穂も頭を垂れ 刈り取られるのを待っていたし彼岸花もところどころで咲き誇っていた。嗚呼1年振りに見る秋の風物詩。
それにしても今回入院した病棟の3年目の4人の看護師さんたち成長したなあ。今回入院した初日にその中の1人の 看護師に採血をしてもらったが1度の注射で済んだ、病気で血管がかなり細くなっている僕の採血ではベテランの看護師でも 2度・3度とかかる事が多かった。それに相対する時良い笑顔をする様になった。ここ2〜3年で看護師の半分以上が 入れ替わったあの病棟で今では3年目の看護師さんたちももう僕の入院中の心のよりどころに近い存在になったなあ。

9月17日 入院の準備?
明後日からシルバーウイークに入るという事で明日から僕はまた2週間あまりレスパイトで入院。それで久し振りにメールや データの性やバックアップを取る事にした。
最近はホームページを更新する事だけでかなり時間がかかるようになりメールを出す事や文章を書く事はほとんど やらなくなった、まあ書きたい文章も最近はあまり頭に浮かばなくなってしまったが。だからバックアップを取る時間も 情けないがほとんどかからなかった。
入院したらしばらくパソコンはおさらば、かな。看護師さんみんなにあれこれ頼むのも面倒くさいし。

9月16日 鳩山政権スタート
今朝の室温は23℃、数日前までは僕の部屋に入ってくるみんな(嫁さんは特にいつも)が大汗をかいていたし僕自身も 顔や頭には大粒の汗をかくという暑さと肩から肺にかけては寒いという身体の中でのせめぎあいだったのに、今朝は掛け物の バスタオル類を何枚重ね着しても寒い。いつの間に急にこんなに寒く(世間一般ではこれぐらいはちょうど気持ち良いと 言うのだろうが)なったのか。そういえば2・3日前床下から秋の虫の音が聞こえた。
本日の臨時国会で民主党の鳩山党首が過半数の首班指名を獲得し内閣総理大臣になり、ついに鳩山新政権がスタートした。 テレビでは午前中から閣僚人事の報道と閣僚人事の報道が進むにつれて人事に小沢幹事長の介入があったかどうかの 話しばかり、僕は国会での各委員会の委員長が出来るぐらいの人材は残しておいてくれよぐらいは言ったかも知れないが 閣僚人事に小沢幹事長が口を挟んだ事はなかったと思う。
閣僚になった大臣の顔ぶれを眺めていてもその大臣がその道の専門家かどうかは僕には分からないが、これから大臣に 指名される副大臣も含めて民主党のシャドーキャビネットメンバーが最低でも入っていないとおかしいと思う。当面の注目は 国家戦略局の管大臣と行政刷新会議の戦国大臣それに長妻厚生労働大臣の動向、政治の世界は新政権発足後100日が 勝負と言われている。今年の大晦日までに新政権が目に見える改革が出来るか、不安も感じるが楽しみでもある。

9月13日 ホークス杉内連敗を止めてくれた
この日の先発エース杉内投手が好調楽天打線を相手にエースとしての意地と力を発揮初回の山崎選手の二遊間を抜ける タイムリーの1点に抑えてホークスの連敗をよくぞ4で止めてくれた。斉藤和巳のいない中連敗ストッパーを確実に託せる 投手は杉内を除いて今やいない。
その杉内投手も1・2回は球が走らず苦労していた、それをコントロールでカバーした。初回の山崎選手のタイムリーヒット だって山崎選手が何としても先取点が欲しいとの強い想いでセンター返しを心掛けていたから打てたと思う。3回からは 杉内投手の球が走り出し危なげないピッチング、だけど味方打線の援護がないから今日もただただ懸命に我慢のピッチングを していた。打線よ何とかせいと祈る様な気持ちだった。唯一のピンチは9回球が少し上ずってきて2アウトながら ツーベースヒットとフォアボールで1・2塁、ここでオーティズが3塁線上の鋭い当たりを何とか処理して3アウトにした。
打線はチャンスは作るものの相変わらず決定打が出ない。初回ワンアウト2塁・2回ノーアウト2塁でまた得点なし。5回 吉川選手の(出会い頭?)のホームランで同点にし、6回2アウト1・3塁で7番バッター田上がセンター方向にあわやフェンスに 当たろうかという大フライ、もうひと伸びあれば2点入っていたのに、惜しかった。でも最終回になってようやく攻めに 転じる。松中選手の執念のヒット・長谷川選手の粘りのフォアボール、田上選手の送りバンドの後代打田村選手の敬遠の フォアボール、そして9番に下がった川崎選手がセンター左に弾き返しようやく勝った。
今日の勝利の立役者は一にも二にも杉内投手、もし打線が半分でもチャンスをものにしていたらもっと楽な試合に なっていただろう。明後日からは打撃好調のオリックス、打線がもっとセンター返しや各自工夫をしてくれれば勝利に 近くなると思う。これから同一カードに最低でも勝ち越さないともう優勝はない。死に物狂いでがんばって欲しい。

9月12日 ホークス不甲斐ない!
折角日本ハムが連敗してくれてパリーグを面白くしてくれているというのに、ホークスも4連敗と仲良くお付き合い。全く ホークスに優勝したいという気があるのかと言いたくなるほどの不甲斐なさに見ていてもイライラがつのる。こうなると やってはいけない事だ分かってはいるけれどつい監督批判がつい出てきてしまう。
秋山監督はあまりにも手堅すぎる。ノーアウトランナー二塁ではクリンナップ以外は3点差をつけられていても必ず犠打 (攻撃が7階以降の時はさすがに違うが)、時には選手の打撃を信じて1-2塁間を狙わせたらと思う場合もある。それに 若手を育てたいとの気持ちは分かるが終盤になってしかも優勝争いをしているのだから、代打に一発のある若手ばかり 使わずにつなげる打者も使ってもいいのにと思う。それにしてもピッチャーが踏ん張っているにもかかわらずチャンスに バッターが打てなさ過ぎる。これでは秋山監督がどんなに確率の高い作戦を組んでも得点するのは難しい。目立つのは ホークスのバッターに工夫がない事。小久保・松中両選手でさえセンター返し・逆方向打ちをしているのに他の選手は 引っ張りが多い。また本多・川崎・長谷川三選手はレフと方向ばかり狙いすぎて当てるだけの半端なバッティングに なっている。みんなセンター返し・逆方向へのミートとかもっと工夫を凝らしたバッティングをして欲しい。現に 得点シーンの多くは選手がこの様なバッティングをしている場合が多くあるのだから。
このままでは明日先発するエース杉内投手の試合でも勝つのは難しい。なんせ杉内投手がどんなに抑えても点が 取れなければ勝てないのだから。明日こそはバッターに何とかして欲しいなぁ。

9月11日 自分でも体調がよく分からないなあ
この1週間痰がうまく出なくってイライラしっぱなっしだった。今日カニューレを交換してもらったから痰はおそらく 出る様になると思うが本当に厳しい1週間だった。カニューレは身体に直接挿入する器具だから1/100mm以下の規格で管理して 出荷されているはずだと僕は信じたいのだが、カニューレ交換する度に「また少し感じが違う」と思ってしまうからついつい カニューレメーカーの生産・出荷規格をいつも疑ってしまう。
よそ事に見れば痰が出ないのならその分吸引しなくても良いのだから自分も介護者も楽になると思うかもしれないが、 なかなかそう上手くはいかない。痰が詰まっていると感じているのに出ない・出せない・取れないは結構苦しく気持ち悪く そして精神衛生上よろしくない。確かに呼吸が苦しい訳ではない。だがひどく胸焼けしている気分なのだ。それにのどの イガイガもきついし気管に絶えず何かが引っかかっている気分なのだ。この嫌さ加減は経験した者にしか 分からないだろう。
それにしても最近自分でも体調が悪いのかどうかが分からない。それを見極める感覚でさえも落ちてきた様だ。 参ったなあ。

9月8日 命と健康を引き換えてくれると言ったら
もし神か死神か分からないが「命と健康を換えてあげるからどうするか?」と尋ねられたなら、僕は「5年間昔の様に ちゃんと動ける身体にしてくたら僕の残りの命と引き換えても良い」と僕は答えるかもしれない。
5年あったら僕は何をするだろうか。まず日曜毎に親父と嫌がる息子たちを田んぼに連れて行き米や野菜を作っていくとは どういう事かをじっくり教えてもらうだろう。そしてこれからの農業のあり方(大規模農業に移行するには地域農民のどんな 組み合わせなら可能か(地域住民の農業法人設立?・地場企業の農業参画・地場以外の企業の農業参入誘致・農協が 中心となって地域毎に土地集め人集めし仮想農業法人化(個別農家はトラクターだけ所有、あとの農機具は農協が 計画貸し出し)それに自主販路開拓について議論するか。
次に山登り、身近な山を縦走して体力を付けてからまずは嫁さんあるいは息子たちと九重連山韓国岳、屋久島の山々を 縦走して最後は富士登山に登りたい、どこの山を登るにももちろん大きなゴミ袋片手に。
時にはキャンプもいいだろう。西岳の田んぼの側や山や海、サバイバルや自給自足に近い暮らしを試してみて子供たちと 一緒に食べれる物を探し出したり釣りをしたり料理をしたりして僕が昔海や山でやっていた事を伝えたい。
子供たちに教えたい事・子供たちに教えてもらいたい事は一杯あるが、5年という動ける時間が決まっているのだから僕も 何とかするだろう、当然命をかけているのだから。

9月7日 体調不良?
最近僕の身体はますます温度調節も温度感知能力も落ちてきた様だ。嫁さんが部屋に入るなり「この部屋異常に 暑くない!。」と言って室温計を見ると30℃超、けれど僕の身体は汗をかきながらも暑いと感じてはいない。だから 室温調整は基本嫁任せ。僕は風向きの調整や身体が冷えた時の切替を頼んでいるだけだ。だがこのところ身体が冷えてきたと 思ってエアコンを切替えてもらっても2-30分後にはくしゃみや鼻詰まり。どうやら僕には身体が寒いと感じるまでに 30分以上のタイムラグが出来てしまっている様だ。
昨日昼過ぎにも嫁さんが「この部屋は他の部屋より暑い。」と言ってエアコンの温度(27℃)と風量と向きを 調整していった様だが、顔に風があたっていて寒いと気付いたのは1時間半後。それから向きを調整してもらったのだが 夕方には気分がすぐれなくなっていた。腰と背中が微妙に痛重く頭もだるい。頭に熱冷シートを貼ってもらって一時は すっきりしたが良くはならなかった。ためしに体温を測ってもらうと37.1℃(健常者にはたいした事ない熱でも僕には微妙)、 用心のため熱冷ましと夜中は安定剤服用して寝た。
今日になっても気分も体調ももうひとつ、相変わらず肩を出しているとさむ暑い。去年夏は肩を出して寝ていても 大丈夫だったのに。嫁さんが冗談めかしに「新型インフルエンザじゃない?。」と言う。そんな事はないと思うがそれが冗談に 聞こえないところに今の体調不良の根深さがあるのかなあ。

9月4日 通院日
今日は社協の移動サービスを利用しての二度目の通院日。社協の看護師さんとヘルパーさんが11時10分前に顔を出す。 リフト車がもう来たのかと驚いたが話を聞いているとリフト車が着くのは11時20分と。11時僕の外出の準備をするために いつもの様に訪問看護師さんが到着、ところが今日は人工呼吸器にキャリングバッグを使って移動するという。僕が この人工呼吸器を使い始めて1年半、キャリングバッグがあったとは全く知らされていなかった。確かに前回リフト車を 利用したとき呼吸器の置き場所が決まらなくてごたごたした様だった。それを改善するためにキャリングバッグを使うと いうのならどうして前もって試しておかなかったのか、そうすれば今日ごたつく事もなかったし僕も出かける前になってから 突然何をするのかと戸惑う事もなかったのにと不思議でならなかった。
車椅子に呼吸器を入れたキャリングバッグをくぐりつけリフト車に乗り込んでいざ出発、車椅子に座っているとどうしても 目の位置が高くなるので窓を見下ろす形になって風景はかなり見ずらい。車窓から見える季節の移り香を通院のひとつの 楽しみにしていた僕にとって一番辛いところだがリフト車を利用する以上仕方がない。今日の病院へ向かうルートは いつも家の自動車で通っていた僕にとって馴染みの道、けれど前方しかよく見えなくて視野が限られるのが残念。車窓から わずかに見える稲穂もところどころ頭を垂れていた。
リフト車は運転手さんが十分注意して運転してくれているのにそれでもかなり揺れた。それで同乗してくれている 看護師さんやヘルパーさんが揺れる度に頭を抑えていてくれた、首に装具を装着しているのだからそんなに神経質に なる必要ないと思ったが黙っていた。まあリフト車も2度目ともなると車の揺れも風景が見ずらい事もある程度は 慣れてくるものだ。
病院に着くとまず嫁さんに痰の吸引をしてもらいそれから高さ調整のきくストレッチャーへ移動。このストレッチャー高さを 調整出来るのは良いが幅が狭いのが難点、しばらく横になっていると落下防止用の柵に当たっている腕が痛くなる。また ストレッチャー移動の際呼吸器を入れているキャリングバッグを車椅子から外すのに少し時間を要した、検討不足?。 そして主治医の先生が来る前に連携室のMさんと嫁さんとで2週間後のシルバーウイークにおける僕のレスパイト入院について 打ち合わせ。血中のタンパク不足改善を図るため経管栄養を変え経過を見るために2週間入院との事、どうでもお好きな様に 決めてって感じ。しばらくして主治医の先生が来て「テレビチャンネル装置のモニターやらない?。」と聞いた。よくは 分からないが多分スイッチ使って切り替えるものと思われる。そこでやってみたいとのシグナルを出すと「その内メールで 連絡が入るかも。」との事。その後診察・処置を受け病院を後にした。
帰ってから嫁さんに「この呼吸器にキャリングバッグが会ったのか、初めて知った」と言ったら「(呼吸器の)担当の人が 一番最初に持ってきたけど使う機会がなかったから出さなかったし知らせもしなかった。」と。もし知っていたら外出した時 使ってみたかもしれないのに、もうその機会もなさそうだ。

9月2日 これでいいのかな?
新学期が始まった。子供たちはいつもの様に僕の部屋に「行ってきます。」と顔を出して出かけていく。
今日から上の息子は二泊三日の合宿と昨日嫁さんから聞かされて「いないと寂しいでしょう!。」とからかわれた。寂しいと いうほどの事でもないが・・・・・、やはり少しは寂しいかな。その息子もいつもと変わりなく「行ってきます。」とだけ言って 出かけていった、違うのは体操服を着ていただけって事か。
それにしても新型インフルエンザの流行が取り沙汰されているこの時期に合宿なんて実際いいのかどうか。息子たちが合宿で 何をしてどこでどんな風に寝るのが僕は知らない。でも息子の通っている中学からは半月前に新型インフルエンザの生徒が 出ているし、昨日息子が帰って来た時に「休んでいる生徒はいるのか?」と聞いたら「いくらかいる。」と。その生徒が インフルエンザかどうかは分からない、まあ合宿を行うくらいだから新型インフルエンザとは関係ないのだろう。それに 9月のこの時期に合宿を行っておかないと余計に新型インフルエンザが流行る可能性がますます大きくなると 考えているのかもしれない。
それにしても中学で二泊三日の合宿があるなんて今時の中学生は楽しそうだしいいな。


[2009年の先頭に戻る]



8月
8月31日 衆議院選挙、民主党圧勝・与党自滅
昨日行われた衆議院選挙は大方の新聞の予想通り与党の大敗・民主党の圧勝で幕を閉じた。自民党の派閥領袖も小選挙区では ほとんど敗れ大臣経験の大物議員や小泉チルドレンと呼ばれた人たちも相次いで永田町を去る事になった。公明党は 太田代表はじめ幹部が相次いで敗れた。自民党議員の敗れた弁を聞いていると「政権交代」というスローガンの逆風が吹いて 勝てなかったと。でもその逆風を吹かせたのは誰か・逆風の原因は何かに言及する自民党議員はほとんどいなかった。 もしかしたら税金の無駄使いや年金をはじめとする社会保障の問題に与党が本気で取り組む意欲はない(小さい)事を国民が 見透かしていた事をまだ気付いていないのか。
昨日の衆議院選挙で民主党が勝って政権交代が行われる事は嬉しいがそれにしても今回の衆議院選挙で民主党が300を越える 議席を取るとは、国民は民主党を勝たせ過ぎたと思う。民主党がこれで慢心する事はないと思うが、国民にマニフェストで 約束した事をどこまで守れるか期待もあるが大きな不安もある。しばらくは静かに見守っていて欲しいものだ。
僕は今回の選挙も郵便代筆投票で済ませた。数年前からこの郵便代筆投票を僕は利用しているが、我々の様に簡単に動けない ・書けない者にとってはなかなか便利な制度である。嫁さんが事前に役場に行って手続きをしてくれたから今回も手軽に 投票出来たのだが、今回は投票用紙がなかなか届かなかった。その上僕は我が小選挙区から誰が立候補しているか 知らなかったし調べてもいなかった、まあ我が小選挙区には親の代からの根強い地盤を持つ保利耕輔氏がいるから僕が誰に 投票しようと関係ない事だったが。比例区は迷わず民主党と書いた。

8月29日 ランチュウも出目金も大きくなった
午前中の訪問洗髪・清拭ケアの時看護師さんとヘルパーさんが話していた、「(下の息子が育てている玄関の水槽の金魚の) 出目金が大きくなった。側で見ているとみんな近寄ってくるのよねぇ。」と。その話が耳に入ってきて久し振りに金魚が 見たくなった。そこで「昼から金魚見せて」と看護師さんに頼んでおいた。
午後3時訪問看護さんとヘルパーさんが着いて車椅子に座らせてもらうとすぐに玄関の金魚を見に連れて行ってもらった。 見ると水槽の中の赤いランチュウも他のヒブナに似負けないぐらい大きくなっていて以前見た時はまだ小さかった黒い 出目金もずいぶん大きくなっていた。これも下の息子がまめにまたしっかりと育てているからだろうが、それにしても 市販の金魚の餌は栄養がつまり過ぎかも。

8月28日 新型インフルエンザのワクチンの優先順位
新型インフルエンザの事を最初にニュースで聞いたのは4月下旬だったと思う。5月に入ってからは主要国際空港での 水際作戦・兵庫大阪での流行・他の県での患者の発生と新型インフルエンザの事が報道されない日はなかったし舛添大臣を テレビで見ない日はなかった。ところがいつの間にかテレビで取り上げられない様になりそれに伴い我々僕は 新型インフルエンザの脅威を忘れてしまっていた。
舛添厚生労働大臣は5月末には新型インフルエンザのワクチンに言及し当時から日本では2000万本弱しか出来ないし 不足するから医療従事者を優先しようとかワクチン接種の優先順位の問題も口にしていたと思う。それなのに(予想の 範疇外とはえ流行の兆しが出てきた)8月下旬になっているにもかかわらずまだ優先順位の議論をしていなかったとは、 どこかの報道機関も言っていたが厚生労働省の危機意識のなさ・怠慢の体質を露呈していると言えるだろう。
それにしても我々人工呼吸器を着けている人間は新型インフルエンザにかかったら死の危険を伴うといわれている持病持ちの対象に入るのだろうか。報道を聞いていてもまだまだでよく分からない。僕は季節性インフルエンザにもかかった事は ないからその辛さは分からないが、もしかかったとしてその後どうなろうともそれは僕自身のさだめと受け入れよう。

8月28日 夏風邪?or新型インフルエンザ?
上の息子が数日前喘息の発作が出て少し身体がきついと言っていた。そして2日前クラブ活動から帰ってきて「熱があるから 休む。」と言いにきてから寝込んでいるのか、僕の部屋には上の息子の出入り禁止の措置がとられそれを気にしての事か ちっとも顔を見せなくなった。
息子の通っている中学からも1週間ほど前新型インフルエンザの患者が出ていた事で嫁さんも新型インフルエンザの 可能性ありと多少は考えていた様で一昨日は息子を病院に連れて行って(白黒)ハッキリさせた方が良いと言っていたのだが 昨日今日と結局は連れて行かなかった様だ。今日も相変わらず自分の部屋にこもっている風の息子の様子を感じて(僕の 部屋からは居間の様子さえ見えない)「病院に連れて行かないのか?」と聞くと、「昨日から微熱が続いているだけだし病院の 方が返って危ないかも。多分夏風邪よ。」と。そういう考え方もあるなと思いながら喘息持ちの息子にとってそれで いいのかと。

8月26日 秋の気配?
この数日早朝になると肌寒く感じる様になってきてお袋を呼んで掛け物を追加してもらうようになった。秋がもうすぐ そこまで来ているのかもしれないが僕の位置からは空の雲も見えないし早秋の様子は感じられない。例年ならばこの時期に なるとツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきてその後床下からコオロギの鳴き声が聞こえてくるのだが。

8月24日 衆議院選挙予想
今回の衆議院選挙は自民党歴史的大敗・民主党圧勝との予想が新聞各紙を賑せているというが果たしてそう上手く いくだろうか。確かに自民党は大きく議席を減らし小泉チルドレンと呼ばれた議員のほとんどが政界を去るだろう (残るのは佐藤ゆかり氏・片山さつき氏それに山梨の議員ぐらいか)し、小選挙区での民主党新人候補の自民党現職議員の 大物食いもあるかもしれない。けれども自民党と民主党のどちらが第一党になるかぐらいの接戦がせいぜいだと僕は 思う。
僕はこの二十数年小沢一郎に期待をよせ二大政党を中心にした持続的に政権交代可能な政治を望んで投票してきた。それは 絶えず政権が交代しておけば政・官・業の癒着が少なくなり官製談合等なくなると思われるからだが、その上に今回民主党が 勝てば自民党政権では無理だった国家公務員の不可思議な手当てや福利厚生の見直し等無駄遣いまで切り込む可能性もある。 また政府の出先機関統廃合もすぐさま着手してくれるだろう。だから今回はメディアの報道がどうであろうと最後まで安心・ 慢心せずに戦って民主党に第一党になって欲しい。まあうちの選挙区は残念ながら保利耕輔氏で決まりで、みんなの党の 広津もと子氏が九州比例で復活当選出来るかどうかだが難しいだろう。

8月22日 自由研究
全く今の小中学校ってものは夏休みの宿題に自分たちにとって都合のいいものを作ったものだ。自由研究は本人および 家族のとらえ方で簡単なものにもなるし難しいものにもなる。僕は自分に分相応な身近にあるテーマを選べばいいと 思うのだがそれではなかなか満足しない出来ない様だ。
もう1週間もしないうちに夏休みが終わると焦っている(焦っているのは嫁さん?)様な上の息子に「自由研究は どうしているんだ?」と尋ね息子も色々説明してくれたがよく分からなかった。が、要するにモーターが回転する仕組みを 理解する自由研究の様だ。けれど中学1年の息子の自由研究のテーマにしてはずいぶん難しいテーマを選んだものだ、 なんせ中学の理科や高校の物理でフレミングの左手の法則を学んでいるはずの僕でさえ何となくその仕組みが分かる 程度だもの。そこで実験装置を見て「装置の個々の条件を色々変えてその時起こる現象をよく調べてみろ。今回はそれで 分かる事・気付いた事をまとめれば良い。いずれ勉強するからその時今回の自由研究の次のステップとして完成させろ」と アドバイスした。
それにしても今日日の小中学生の夏冬休みの宿題は多過ぎる。どうせならもっと遊びの中から見つけられる宿題に すべきだと思うのだが。

8月20日 新型インフルエンザ
我が町でも新型インフルエンザにかかった人がついに出た。夜上の息子のもとに同級生が新型インフルエンザに かかったとの電話がかかってきた様だ。それで電話を受けてから以降その息子が僕の部屋に入ってくる時はマスクを かけてから入る事にしたという。病気の僕を気遣っての息子なりの配慮だろうが、嫁さんも子供たちも僕の部屋に出入りは しているのだし僕の部屋だけで気を使ってもなあ。それより手洗い・うがいの励行をお願いしたい。
夜外出していた嫁さんは外出先でこの情報を耳にしたようで病院にいる方が良いのではと話していた。でもそれは どうだろうか。我が町で今回の事て新型インフルエンザが流行るとしたらこのインフルエンザが落ち着くまでどのくらい かかるのか。たとえ新型インフルエンザのワクチンをいの一番に打ってもらうとしても季節性のインフルエンザのワクチンも 打ってもらわなければいけないから早くても10月下旬だ。今の病院はそんなに長くおいてくれるものだろうか。それに 新型インフルエンザが我が町の隣県の長崎県北部でも流行り始めたらインフルエンザの患者が押しかけてくるであろう病院が 安全だとは限らないだろう。我が家の誰かが新型インフルエンザにかかりでもしたらお世話になれるよう病院に事前に 相談しておくかな。

8月19日 ささやかな幸せ?
今日の夜子供たちが僕の部屋へ集まってきた。まず娘が「調べたい事があるからパソコンを使っても良い?。」と僕の部屋に 来て、次に上の息子が僕の部屋で読書感想文書くと言ってきて、最後に下の息子が「DVD見て良い?。」と入ってきた。僕は こんな事は珍しいから心配になって「向こう(茶の間)で何かあったのか?」と聞いたら「何もないよ。みんな向こう(の部屋)が 暑いからじゃない。」との答え、それならいいとひと安心。
僕の部屋に子供たちが集まってそれぞれ好きな事をしている、子供たちと何か言葉を交わす訳でもないのだが僕は 子供たちを身近に感じている。これが僕のささやかな幸せ?かなぁ。

8月18日 十八夜
今日は我が地区の夏祭り十八夜が行われる日、けれどもALSによってベッドに縛り付けられた僕は祭りの終わりを知らせる 花火すら見る事は出来ない。寂しい寂しい寂しい!!。

僕の子供頃は十八夜は夏休み最大のイベントでしかも夏休み中で最高に楽しい時だった。十八夜には年に一番の美味しい 料理がいっぱい食べられた、お客さんが入れ替わり立ち代り来た、お小遣いをもらって出店で色々買った、浮流を 見聞きするのも楽しかった、打ち上げ花火や祝若・ジャーモンの仕掛け花火も綺麗で迫力があった。けれど今日の僕の家は 祭りの日と思えないほどいつもと同じ静かだ。それでお袋に「今日はお客さんは来ないのか?」と聞くと、「来ない、 父ちゃんたちが祭りで互いに行き来(招待)するのはもう止めようと決めたから。」と。嗚呼そうなんだ、とっくに 代替わりしていなければならないんだ。十八夜で火が消えた家になったのはみんな僕のせいなんだと気付いた。社会人と なっても十八夜が近付くと毎年実家に帰りたかったが盆休みのすぐ後だったので18・19日有給を取りたいとは 言い出せなかった。そして十年前からは病気で動けなくなって十八夜の代替わりどころではなくなった。我が家にも わが地区で十八夜の伝統を守っている人たちに申し訳なく思う。
僕は子供の頃からずっと十八夜の浮流や出店がありジャーモンが行われるお寺の境内に行くのが好きだった。けれども 上の息子は十八夜にあまり魅力を感じない様だ。上の息子に「お寺の出店に行かないのか?」と聞くと「人がいっぱいいる所は 嫌いだから。花火の時には行く。」との返事が返ってきた。お祭り好きの僕からは考えられないし想像出来ない行動だ。 この息子の性質はいったい誰に似たのだろう。高校生になると息子も十八夜に参加する。その時になったら好きになるわよと 嫁さんは言う、そうなれば良いのだが。僕も高校の3年間だけだが十八夜に参加した。十八夜の練習は1週間ほどあったが その時真面目にそして真剣に笛を練習しておけば良かったと社会人なってから後悔した、だって笛さえ吹ければいつだって 十八夜に飛び入りで参加出来るもの。だからこそ子供たちには出来るだけ十八夜の笛をやって欲しいのだ、たとえ子供たちが 将来どこで暮らしても笛を吹けば古里を思い出せるし良い思い出にもなる。

8月16日 ばあちゃんの生まれた日
今日は特別養護老人ホームにいるばあちゃんの誕生日、多分ばあちゃんは今年105歳か。そこで子供たちを呼んで 「今日は曾ばあちゃんの誕生日だからお父さんの代わりにみんなで会いに行ってきて」と頼んだ。
昼過ぎ子供たちは「曾ばあちゃんのとこに行ってくるね。」と出かけて行った。1時間ほどで帰ってきた娘に「どうだった」と 聞くと「元気だったよ。」との声が返ってきたのでひと安心。
本当は二人とも老い先短いのだから年に最低1度か2度は特老に行ってばあちゃん会いたいのだが、今の制度・環境ではそれは 難しい。せめて近くに住んでいる従兄妹・曾孫や僕の子供たちが時々会いに行ってくれれば嬉しいし、特老にいる ばあちゃんの生きている楽しみのひとつになるかもしれない。

8月15日 居残りの心境?
今日の夜遠く離れたところに住む姉の家に1週間ほど一人で遊びに行っていた下の息子が帰って来る。昼過ぎから嫁さんと 子供たちは嫁さんの実家に盆参りに行っていたのだが、夕方嫁さんと上の息子はそのまま空港まで迎えに行った様だ。 迎えに行く前に「今から迎えに行く」と一言ぐらい声かけしてくれても良さそうなものなのに(嫁さんによると僕はその時 訪問ケアの最中で部屋には入れなかったと)。夕方顔を見せた娘を呼んで「(盆参りは)どうだった?」と聞いた後に同じ事を 尋ねようと「(息子を)呼んで」と娘に告げた時に「お母さんと一緒に迎えに行ったよ。」との返事を受けて思った次第だ。
7時前「無事到着」とのメールが飛行機の画像付きで入る。キッズの飛行機での旅は出発ゲートで係員に受け取ってもらえば 到着ゲートの家族のところまで連れてきてもらえるから心配は要らないし、第一飛行機は日本では新幹線の次に安全な 乗り物だ。だから僕は飛行機で事故が起こるとは全く考えていない。それより自動車事故の方が起きる確率は飛行機事故より 格段に高い。それで迎えに行った嫁さんの運転する自動車が帰って来て嫁さんと息子たちが「ただいま。」と顔を見せに 来るまでは待っていようと思っていた。
けれども8時半を過ぎてもなかなか帰って来ない、7時半までには下の息子を受け取っていたはずなのに。9時を過ぎて僕は ようやくみんなで夕食を食べてくるのだな時が付いた。おそらく始めから夕食は食べてくる予定だったのだろう。それなら 下の息子が空港に着いた時のメールに食事もしてくるとなぜ付け加えてくれなかったのか。そうすれば待っていようという 気も起きなかったかもしれないのに。それにしてもこうやって何も知らされずに部屋に残されていると一人居残りさせられて いるような気になって寂しくなるし自分がいなくても構わない人間だと自分自身で思えてくる。また今もそしてこれからも 何の喜びも楽しみも見出せないのに何ゆえに生きているのだと思えてきて空しいだけだ。
一方嫁さんにしてみれば僕が元気だったら迎えに行っていたところを1時間以上運転して迎えに行った訳だし僕が 飛行機は無事着いたかと気にしているだろうと到着メールもすぐに送った、家に着くと「お疲れさん」とねぎらいの言葉を 掛けられてもよさそうなところなのにご機嫌斜めの僕がいた。だから夜中に迎えに行った時も下の子の到着メールでも ひと言無かった事で嫁さんともめにもめる事になった。だが嫁さんとのこの事に関する物事のとらえ方には大きな違いが あった。全く泣きたいのは何も出来ないしかも喜びも楽しみも何も見出せない僕の方だよ。まあ嫁さんは自分の事ばかり 考えているからだというが・・・・・。

8月12日 僕の部屋が寒い?
退院したその日に身体がだるくなりあっさりダウン、嫁さんに熱を測ってもらったら37.5℃と上昇中、風邪薬と熱冷ましを 服用して早めに寝た。そして今日入浴車の後肩を出して過ごしていたら夕方からまた身体がだるく感じる様な気がして早く 寝る事にした。
原因は僕の部屋のエアコンの影響で僕の上半身が冷えてしまった事、病院ではあれほどの冷房でも掛け物を上手く使っていた ためか身体が冷える事はなかったのに。家ではなかなか掛け物の調整が上手く出来なくてこの有様だ。家と病院とでは どこが違うのか考えてみた。それは多分僕の部屋の方が外の外気の影響を受けて暖かくなったり涼しくなったり室温が 変わりやすいからかな?。それならばエアコンの温度設定を思いっきり下げて部屋をギンギンに冷やし外気の影響を 受け難くしたらいいと思うが、エコ活動を推進している現社会に反する事はしたくはない。ならばいっその事エアコンを 止めて汗だくで過ごそうかなと思ったりもするが、体温が一定温度を超えると息苦しくなるし大汗をかくと二度三度と 着替えをしてもらわねばならなくなるからこれも恐らく難しい。どうしたものかな。
それにしてもエアコン27℃設定の自分の部屋の方が病室より寒い時があるとは驚きだな。

8月11日 何のためのレスパイト入院?
夜嫁さんが僕の部屋に入ってきた時いつにもましてあくびばかりして眠そうにしている。昨晩僕が1週間ぶりに我が家に 帰って来て嬉しさのあまり嫁さんにつき合わせて晩遅くまで起きていたというのなら話も分かる。けれども昨晩の僕は 何とも情けない話だが1週間ぶりの自分の部屋のエアコンに馴染めず風邪を引いてしまった様で風邪薬と熱冷ましの薬を 服用して早く寝たのだ。それなのにどうして嫁さんはあくびばかりしてこんなに眠そうなんだ・僕が入院している間嫁さんは 身体を休めようとはしなかったのか・それならば(この時期に)何のためのレスパイト入院なんだとの疑問がぽつぽつと 湧き出してきた。
嫁さんと言い争いになるのは僕の一番好まざる事だからこの疑問は心に閉まっておこうと思ったが、気になる事は いつの間にか口に出してしまう僕の悪い癖が出てしまって「どうしてそんなに眠そうにしているのか?」とつい口にして しまった。それに対し嫁さんは「この暑さだから夏バテ。」と。一度口にした疑問は止まらないこれも僕のいつもの悪い癖で、 「僕が病院にいた間の1週間何をしていたのか、早く寝なかったのか?」との言葉が口を出た。それに対しても「子供たちの 相手とか入院していてもいろいろ忙しいのよ。おかしい?。」との答えが返ってきた。
僕はレスパイト入院を介護してくれている家族の心身の休養のためととらえているが身体の休養に重きを置くべきだと 思っている。そこが気持ちのリフレッシュを重視している嫁さんとの違いなのだ。嫁さんの考え方もよく分かるが、それでは 極論だが嫁さんの身体が休まるのは僕が長期入院するかいなくならないと駄目という事になる。それならレスパイトの意味を なさないしそもそも在宅療養ではなくなると思うのだが、こんな風に考えるのって可笑しいのかなぁ?。

8月10日 夢
昨晩はいろんな夢を見た。その中に本家の伯父さんの夢もあった。本家の伯父さんの夢を見たのは初めてだった。本家の 伯父さんが逝ってしまって今年でもう何年になるか?、もう4-5年は経つか。近くに住んでいた事もあってたぶん甥っ子・ 姪っ子の中で一番かわいがられていただろう。昨晩初めて見た本家の伯父さんのこの夢は何を暗示していていったい何を 伝えたかったのか?。今日までよく頑張ったからもういいよって言ってくれたのか、それともまだまだ頑張りが足りないから もう少し現世で苦労しろとの叱咤激励か。ともかく伯父さんは夢の中で笑いながらも怒っていたな。

8月4-10日 レスパイト入院
今日からレスパイト入院、まあこのところの嫁さんの汗だくだくでこんなに夏に弱かったのかって姿を目の当たりに しているとしょうがないかって気もしてくるが。最近の嫁さんはエアコンの効いた部屋で何事もない様な顔をしている僕を 見ると余計にイライラして余計に汗が噴出してきている風にも見える、体温調整が上手く出来なくなってきている僕は エアコンの微妙な温度設定他変化への対応が難しくて大汗をかいたり身体がゾクゾクとしてきて寒くて堪らなくなったり しているのだが。この気持ちや苦労は健康な人間には決して推察出来ないだろう。それに僕が利用している訪問看護 ステーションも何を感じ取ったのか段々対応が変わってきているし今回のレスパイトは良い機会だったのかもしれない。
今回入院した病棟は3月の春休みにレスパイトした病棟で、病室で出会ったほとんどの看護師さんが「お久しぶり。」 「いらっしゃい。」と声をかけてくれた。ベッドに落ち着いて気付いたのだが病室は思っていたより寒かった。その上 エアコンの送風口からの風が直接身体に当たって冷えてきた。そこで傍にいた看護師長さんにその事を告げると病室を 換えてくれた。そこの病室も冷房が僕の今の身体には効き過ぎている様に感じられて寒いには寒かったが、タオルケットを かければ調整出来る様な感じだった。それでようやく人心地ついた。それにしても他の患者さんは寒くはないのだろうか?。 またいくら動き回っているとはいっても看護師さんたちは気付かないのだろうか?、中にはたまに咳をしている患者さんも いるのだが。
今回の入院にも僕はパソコンを持ち込まなかった。それは初めからパソコンをする気が無かったから。最近ホームページの 更新だけは何とかこなしてはいるが、自分自身に生き続けるための覇気が無くなっている事は十分自覚している。体調にも 自信が持てない、自分を取り巻いている制度もおかしな事だらけとみんな分かっているので立ち向かいたいが援軍は いない、面白い事を何も見つけきれない・見つけようにもパソコン以外手段を見出せない世の中に疲れたしもうそろそろ 良いだろう・許してくれよという気もするのだ。結局病院では七日間窓の外の天空に現れる雲を見ながらそれに天井を 見て過ごした。それで分かった事、空には夏特有の入道雲が現れずにすじ雲やうろこ雲もどきが見えるって事と僕に天井の 模様が見える範囲では天井に貼り付けてあるパネルが1枚だけ逆って事。
退院する時は副師長さんに「今度は9月ですね。」と見送られながら嫁さんが運転する家の自動車に乗って家路に着く。 途中「どこか回って行く?。」って同乗してくれている訪問看護師さんが聞いてくれたが即座に「No」、今後訪問看護師さんに 頼ってはいけないとの僕の想いがそう答えさせた。車窓から見える田んぼの稲も幾分緑が不足している様に見えるのは 天候不順のせいかそれとも気持ちの問題か。

8月2日 全英リコー女子オープン選手権観戦
ここ4日間夜中にテレビで全英リコー女子オープン選手権を観戦、もちろん中継を最後まで見た訳ではないが。そのために 少々寝不足気味、そんな僕に4日間付き合わされた嫁さんはもっとだろう。お疲れ様。
僕のご贔屓はやっぱり宮里藍、藍ちゃんの爽やかなところや躍動感がありひたむきにプレイするスタイルが好きなのだ。 藍ちゃんは今回の全英リコー女子オープン選手権ではよく我慢して頑張っていた。一時は1アンダーで首位にも立った。 けれども全英女子オープンの女神は藍ちゃんには微笑まなかった。女神が今年は藍ちゃんの優勝する年ではないと 言っている様な気がした。優勝したのはカトリオナ・マシュー(英国)、通算3アンダーで初優勝。全英女子オープンの女神は 彼女に試練も運も与えた。最終日4アンダーでスタートした彼女はインで1アンダーまで崩れた。しかしそこで我慢し 踏み止まったからこそツキも味方した、彼女がティショットで打った球が大きく曲がり深いはずのラフに入ったがそのラフは 観客に踏み固められていてラフの草の抵抗も無く打てた事が2回もあった。これこそ全英オープンの女神が彼女の優勝を 後押ししたと言えるだろう。
勝負の分かれ目は14番ホール、このホールは今年の藍ちゃんにとって鬼門のホールだった。三日間このホールでは ダブルボギー二回ボギー一回とパーさえ取り得ない大叩きのホールだった。この日も第一打をフェアウエイバンカーに入れ 第二打は出しただけ、第三打でグリーンはとらえたもののパーパットが惜しくも決まらずボギーで通算イーブンパー。一方 優勝したカトリオナ・マシューはこのホールバーディーで2アンダー藍ちゃんとは2打離れた。15番ホールはお互いバーディー、 16番ホールは藍ちゃん第二打でナイスオンしたもののバーディーパットがまたもや惜しくも決まらずパー、一方 カトリオナ・マシューは三ホール連続バーディーで藍ちゃんとの差は3打と開き優勝をほぼ手中に収めた。藍ちゃんが奇跡の 逆転優勝を遂げるには残り2ホール連続バーディーを取るしかない、そこで藍ちゃんは無理をしてバーディーを取りにいった。 その結果ティショットが大きく曲がりラフにつかまってダブルボギー、3位タイに落ちた。
ゴルフにタラレバはないというが、もしカトリオナ・マシューのラフに入ったボールが観客が踏み均した所まで大きく 曲がっていなかったら又はもし藍ちゃんの14番・16番の惜しかったファーストパットが入っていたら17番で無理をする必要も 無く最後までカトリオナ・マシューと優勝争いをしていたかもしれない。そこが全英女子オープンの女神がどちらに 微笑もうとしたかの差だったろう。
それでも今年の藍ちゃんは全英女子オープンでよく頑張った。近い将来藍ちゃんにメジャーの女神が微笑む事もあるだろう。 それに全英女子オープンでは他の若手女子選手三田・宮里美香両選手も来年の全英女子オープンの出場資格15位以内に 入るほど頑張っていた。将来日本の女子ゴルフ選手が何人も世界に羽ばたく日が来るだろう。

8月1日 自民党のマニフェスト
自民党のマニフェストも速読してみた。実際にどうやって成し遂げるのかを理解出来るように具体策を表記してはいないが ほとんどの項目で納得のいく政策が列記されていた。
ただ自民党のマニフェストには大きな欠点がある。それは今までが年金問題にしても地方分権・公務員・公益法人改革にしても 改革の完遂はおろか意図しての事がどうかは分からないが途中であらぬ方向に向かってしまい僕には元々やる気がなく 頓挫させたのかと思えるほどなのにその反省も謙虚さもない事だ。例えは安倍総理の時代消えた年はいつまでに 終わらせるというニュアンスで話していたか。特殊法人はいくつ減り税金で給料を払わないで済む職員は何人削減出来たか。 国の出先機関は廃止の答申が出されたのにどういう扱いにしているのか。麻生総理は「天下り・渡りは禁止」と言いながらも 最初どの様に言い訳したか。小泉総理時代から保育所の待機児童ゼロ作戦は唱えられていたはずなのに改善する兆しが いっこうにない、など。自民党はいくら立派なマニフェストを掲げてもその反省・謙虚さなくして実際完遂に向かって官僚の 抵抗にあいながらも本気で進む気があるのかは分からないし信じられない。
僕が最も気に入らない事は、@安易に消費税率アップを掲げている事。消費税のアップは景気が回復したらと言うが、 景気回復と同時に特殊法人の廃止・天下り渡りの全面完全禁止・国土交通省ならびに農林水産省の出先機関の廃止・ 国家公務員の手当て福利厚生費の見直しぐらいはオミットされておかないと。今のままでは3年後のGDPがプラス成長 しているだけで消費税はおそらくアップされてしまうだろう。Aプライマリーバランスの黒字化がこれ見よがしに10年後に 先送りされている事。巨額財政出動のアメリカのオバマ大統領だって4年後のプライマリーバランスの黒字化を 明言しているのに、国民一人当たりの借金が800万円もある日本が当初発表していた2010年のプライマリーバランスの 黒字化をいくら緊急事態だからといって2019年まで先送りしてどうするのか。元々2010年のプライマリーバランスの 黒字化は無理と考えていたがこの機会に大幅に遅らせようと考えたと邪推もしてしまう。公約は守らなくても良いと言った 総裁がいたくらいだし、本当に自民党のマニフェストは信用できるのか。


[2009年の先頭に戻る]



7月
7月31日 レオ倶楽部?
朝娘が僕の部屋に顔を出し「レオ倶楽部で出かけてくる。3日に帰ってくる。」と挨拶して出て行った。制服を着ていたので 学校行事だとは分かったが「レオ倶楽部って何?」って思いながらも瞬きで見送った。
後で嫁さんに「レオ倶楽部って何?」って尋ねると、「ボーイスカウトの様な活動でライオンズクラブの高校版の様な もの。」との答え。それでライオンに対してレオかと思った次第だ。そういえばふた月ほど前高校の生徒会の役の立会演説に 出なければいけないと言っていたが何か役に付いたのか、全く知らない。
僕は中が3年の半ばからとある事がきっかけで生徒会とかクラスの役に付く事をもろに毛嫌いするようになり、高校時代は 生徒会活動に全く関心を示さなくなっていた。だから僕の高校時代にも生徒会の役員選出のための立会演説会が あったのだろうが3年間出席した覚えがない。おそらく立会演説会の当日は学校に行かなかったかその時間帯学校を 抜け出していたのだろう。そのくらい高校時代には関心がなかった。もし僕の高校時代も今の様なキャンプ(合宿)を していてその事を知っていたとしたら僕ももう少し生徒会活動などに関心を持っていたかもしれないな。

7月28日 民主党のマニフェト
昨今の国政選挙や知事選・政令都市市長選ではマニフェストが盛んに報道で取り上げられる様になった。でもいったい マニフェストとは何だ、政党や首長選に立候補した人の選挙公約を明文化・公文化したものではないのか、政党や首長が 自分の掲げたマニフェスト実現のために政治生命をかけて(とは言い過ぎか?)尽力すると思いたい。
7月27日民主党のマニフェストが発表された。僕は元々小沢一郎の二大政党政権交代論のシンパだから結局は民主関連に 投票する事になるのだろうが、今回は各政党のマニフェストを税金の無駄遣いを無くししかも明確な優先順位をつけられる 政党はどこかの観点からじっくりマニフェストを読んでみよう。
民主党のマニフェストをざっとだが読んでみた。税金の無駄使いを根底から正す事はしがらみが有り過ぎて改革に対する 本気度を見せる気が無い現与党には到底無理、民主党中心の政権に交代しないと税金無駄遣い改革の途にも付かないだろう。 税金の無駄使いの象徴天下り・渡りについても同じ事がいえる、民主党中心の政権に交代しなければ厳密には天下り・渡りは 根絶しないだろう。
民主党のマニフェストで気に入らない事は、@子育て対策中に保育園・保育所待機児童対策が具体的に載せてなかった事と A高速料金の無料化それにB市町村を人口30万人以上になるまで合併を推進するという点。
今の時代政府や企業は女性が働きやすい環境を積極的に作ってやらないといくら出産一時金や子供手当てを増やしても 出生率増加のための根本解決にはならないと思う。まず保育所設立の条件を緩和し一方大企業には保育所併設の規制をかけ それに見合う補助金を出すとか思い切った対策を打ち出さなければ都会における保育所待機児童問題は解決しないし ひいては日本の出生率の増加も望めないと思う。また高速道路会社は自分たちの人件費と福利厚生費や道路の補修費用 ぐらいは自分たちで稼ぎ出すべきであろう。高速道路料金も高過ぎなければ利用者も時間を買うのだから文句は 言わないだろう。市町村の合併に関しては面積的に広域の地域で合併しても福祉サービスが低下するだけ、行政サービスの 中で特に福祉は合併する事により役所の中で福祉にかかわる人数が合併前よりも減らされてきめ細かいサービスは 出来なくなる(しなくなる)しサービスの内容も合併前の大きな地域(たとえそこのサービスの程度が低くても)に合わせる 傾向にある。それは地域の問題だというだろうが真っ先に合理化という名で削られるのは福祉と人員というのは周知の 事実なのだし福祉はコンピュータで合理化出来ないのだから。
民主党のマニフェストでは財源が曖昧だとの大きな声が上がっている。民主党がかかげる政策の財源が曖昧だとは僕も 思うが、それは民主党に政権を取らせてみて予算の組み換えや政策の優先順位を見てから判断すれば良いと思う。 ともかく一度民主党に政権を任せてみたいものだ。

7月27日 クマゼミ
今日も雨、これで幾日連続か。けれども久しぶりに雨が上がった時今年初めてクマゼミの鳴き声がほんのひと時の事だが 聞こえてきて少し嬉しくなった。そこで下の息子を呼んで「クマゼミの鳴き声が聞こえたよ」と告げると「うん、聞こえた。」と 気のない返事、もっとうきうきしてくれると異なった反応を期待していたので少し寂しかった。
僕の子供の頃の夏休みには毎日の様に近くの神社の境内に行って蝉取りをしたものだ。手にはビニール袋2枚と針金、神社の 裏山で適当な長さの竹を取って針金で輪っかを作りビニール袋の口にその針金を通して竹の先端に取り付け虫取り網ならぬ (半透明の)蝉取り袋を作る。蝉の止まっている木にそっと近付きビニール袋を素早くかぶせて蝉を取る。捕まえる蝉は ニイニイゼミにアブラゼミ、クマゼミが取れたらちと嬉しい。8月半ばからはツクツクボウシ(ヒグラシ)も取れた。けれども 今日日の子供たちは蝉取りは興味は無い様だ。寂しい!?。

7月26日 大雨
個々三日間激しい雨が続いている。北部九州ではこの三日間の雨量が500mmを超える(アメダスの)地点がたくさんある様だ。 テレビを見ていると避難勧告が出ている町名に懐かしい名前が並んでいた。美野島・住吉・竹下、おそらく那珂川が警戒 水位を越えたのだろう。百年橋通りのJR高架下の道はとっくに水没しているか。
僕は窓から外が見えないベッドの上で一日中を過ごしているからどんなに激しい雨が降ろうとも見ることは出来ない、 ただ屋根に当たる雨音を聞き外の様子を感じて雨の激しさを推し量るだけ、けれども今回の雨の激しさは十分に感じ取れた。 それほどすごい雨が続いたから我が町や知人の事がかなり心配になった。
僕自身が水害にあったのは小学生の頃の一度だけだ。その時は床下まで浸水して家の周りの田んぼも濁流でどこがどこだか 分からなくなって家が泥水の流れの中で浮いて流れて行ってる様に見えたものだ。当時降った大雨で有田川が氾濫し 洪水になって何軒かの家や牛や豚も流れて行ったそうだ。あの時の洪水がきっかけで有田川の大規模な河岸の改修工事が 実施され改修工事以来我が町の洪水は無くなったがそれ共に有田川の自然も無くなり有田川に昔から棲んでいた生き物も 鯉・鮒・ハヤ以外は見なくなった、当時の工事技術では仕方がないといえるのかもしれないがコンクリートの河岸と ラバーダムで抑揚の無くなった川は寂し過ぎるし悲し過ぎる。今からでも何とかして昔と同じ生き物が棲む川に 戻せないものか、今の改修技術をもってすれば可能だろうに。

7月25日 留守番?
昨日娘が僕の部屋でパソコンで遊んで?いる時嫁さんが入ってきて何やら話している、「時間はお母さんに合わせるから お母さんの都合で決めて。」「10時?、分かった。」。どうやら(明日の)土曜日みんなでどこかへ遊びに行くらしい。 こういう時動けない僕はいつもひとり蚊帳の外でお留守番、仕方ない事だと頭では分かってはいるがせめていつどこへ何を しに行くかぐらいは事前に知っておきたい。寂しくて涙が出そう。
今日の嫁さんの動きはいつもよりずっと早くて7時半前には僕の部屋に経管栄養を持って「おはよう。」と明るい声で顔を 出した。嫁さんが朝からこんなに調子よさそうなのは珍しい、僕は驚きのあまり今日が土曜日である事を つい忘れてしまいおかしな対応をしてしまった。
10時からの訪問ケアの途中でみんなは「行ってきます。」と出かけていった。訪問の看護師さんとヘルパーさんが帰ると家の 中は静まりかえり僕の部屋のテレビの音だけがただむなしく響いていた。これからしばらくはお袋と二人、と思っていたら 1時過ぎ上の息子が「友達のところに遊びに行ってきます。」と、僕は息子に精一杯の笑顔を返しながらもいったいなぜ息子が いたの??。帰ってきたら聞いてみようと思っていたが結局聞けずじまい。

7月22日 皆既日食
今日は日本国内で46年ぶりに皆既日食が見れる日、一昨日下の息子に「日食はどうする?」と尋ねると わくわくした嬉しそうな顔をして「(体験学習の場所に)先生が日食めがねを準備してくれている。」と、昨日上の息子にも 尋ねると「クラブ活動中だから休んだら先輩に文句を言われる。」と気のない返事。「みんなで日食を見よう!と先生に 言ったら」と提言しても「あの先生に言っても無理。」と取り合わない。「忘れているならともかくそんな事を言う先生は いない」と言ってもぐだぐだと言うばかり。これは上の息子は日食とかそういうものに興味は無いんだなと諦めたが、これも 僕が動けなくてどこにも連れていけていない一緒に自然に接していない影響かとが出てるのかとなんだか寂しい 気がしてきた。
僕は日食をテレビで見た、いやテレビで見るしか方法が無かったというべきだろう。もし僕が元気だったら会社を休んで 家族みんなを連れて屋久島まで皆既日食を見に連れて行っていたかもしれない、あいにく屋久島は今日は雨模様だったが。 皆既日食は恐らく神秘的だったろう。トカラ列島はあいにくの空模様で皆既日食を見る事が出来たのは奄美大島だけだったが どの島でも皆既日食の神秘をそれなりに味わえたようだ。テレビを見ていても皆既日食の前後のほんの数分間で夕闇が 襲ってきた様に暗くなり急に昼になった様に明るさが戻った、あんなに暗くなるなんて不思議な現象だった。我が町でも 多分90%ぐらいの部分日食を見る事が出来たと思う。嫁さんは外に出て90%の日食を見てきた、その間外が暗くなった様な 気もしたがあれはただ雨雲が広がっただけだったのだろうか。

7月21日 衆議院解散
麻生総理がようやく決断衆議院は解散した。実は僕は麻生総理は衆議院の任期満了直前まで政権にしがみつき 8月末になって解散権を行使すると見ていたが自民党党内の麻生下ろしが総理の決断を後押しして早めてしまった様だ。 それにしてもこのひと月の自民党内のごたごたは見苦しかった。昨年9月正式な党内手続き総裁選で自分たちが選んだ 総裁総理なのだから支えていくのは当たり前の事なのに、自分の次期衆議院選で自分が不利になりそうとの理由だけで 自分の保身のためだけに顔のすり替えに奔走してしまう国会議員を見ていると滑稽としか思えなかった。我々はこの現象を どう捕らえるべきなのか次期衆議院選挙にどう反映すべきなのか。
僕は二大政党によって適宜に政権交替が行われる事を望んでいる。民主党が政権担当能力があるかどうかは未知数だ。 けれども少なくとも予算の組み替えに着手する事と国・官僚による無駄遣いが見えてくる事だけは確かだ。今の自民党中心の 政権は安定性はあっても官僚依存の体制を打破できそうもない、すなわち予算無駄遣いを見つけ出し無くしたり天下りの 根絶や公務員改革は少しずつしか進まないだろう。しかし今世相が安心・安全を求めている時代、今回二度は無い? (かもしれない)政権交代のチャンスだから民主党に政権を取って欲しいのだ。
マスコミは政権交代の可能性が高い様な雰囲気で報道しているがそう上手くいくかははなはだ疑問だ。今回の衆議院選で 自民党が大幅に議席を減らすのは間違いない。けれども自民・公明の与党が過半数を割るかどうかは投票率次第だろう。 投票率が前回の衆議院選挙より10%上がれば公明党も議席を減らすから与党の過半数割れの可能性も出てくる。みんなが 自分の投票で政治が変わる・政治を変えるとの自覚を持って8月30日には投票所に行って欲しいものだ。そして政権交代 実現ためために今回は出来れば野党に投票して欲しい。

7月20日 ショック
夜娘の発した一言に大きくショックを受け大いに動揺して頭の中がボーっとてきてしばらくは立ち直れなかった、 側にいた嫁さんに娘が出て行った後話すと嫁さんはただ笑うのみ。
向こうの部屋で娘は夏休みの課題として与えられたプリント問題に取り組んでいた様だ。そこで分からない問題に出くわして 僕の部屋にいた嫁さんに教えを請いに来た。その時僕が「(プリントを)見せて」と合図を送ると「お父さんの苦手の英語だから (分からないでしょ)。数学と理科で分からないところが出てきたら聞くから。」との返事が返ってきた。この返事に娘は僕の 英語力をその程度と見てたのかと大いにショックを受けた。確かに僕はConversion(今はoral communicationというのか?)は 不得手だった、hearingが苦手で英語の言葉を聞き取る事がほとんど出来なかったから。しかし試験英語はどちらかというと 得意にしていた部類だったのだ。それなのにたかが高校1年の英語の問題(解けるかどうかは実際に問題を見ていないから 分からないが)で娘に英語はお父さんに聞いてもどうせ分からないと思われていた事がショックだった。実際英単語や熟語は ほとんど忘れてしまっているが辞書さえ見ればほとんどの英文もうまく訳せるとの自負はあったのだが。娘を見返すために もう一度英単語を覚えなおそうかな。
僕は国語が苦手現代国語はそこそこ出来たが、古文は半分解けるかなだったし漢文は珍聞感奮出来るのは 書き下し文だけだった。だから受験科目に漢文のある大学の受験は避けたのだ、浪人する訳にはいかないと僕自身 自覚していたから。だいたい不得意教科が二つもあって共通一時以前の国公立の大学受験に合格出来るものかと言いたい。 ちなみに僕の受験科目は国(現国・古文)・数(V)・英語・物理・化学・日本史、ほとんど忘れてしまったが。

7月19日 誰もいない日曜日
夏休みに入って最初の日曜日、上の息子は7時前から中体連へ・娘と下の息子は嫁さんの実家の手伝いに・親父とお袋は いつの間にか出かけて家の中には嫁さんと僕の二人っきり。けれども甘いムードはどこにもない、どちらかというと っ苦しい雰囲気。結婚して16年目甘いムードが少しもないっていうのも考えてみるとやはり寂しいものだ、出来れば病気の せいと思いたいものだ。
経管栄養の途中でいつものごとく眠ってしまい熟睡状態から目覚めたのは11時前、『踊る走査線」の柳葉敏郎状態で部屋に 入って来た嫁さんに意を決して聞いてみた、「なぜいつもそんなに不機嫌そうな顔をしているのか?」と。それに対し 嫁さんは「暑い、暑くて堪らないから。もう夏バテしそう。」との返事が返ってきた。エアコンの効いた部屋でじっと 寝ている(しかない)僕と違って掃除・洗濯・炊事・僕の介護諸々と忙しく動き回っている嫁さんは、僕の部屋に入ってくる時は いつもひたいや首筋に玉の様な汗をかきまくっているから確かに嫁さんにとってはものすごく暑いのだろう。だけどいつも エアコンが効いている部屋にいる僕にだってそれなりに悩みはある。体温調整機能が落ちていてしかも身動きできない僕は 自分では袖の上げ下げも出来ないし汗をかいても拭く事も出来ない、肌寒さを感じても掛け物の上げ下げ・調整すら 出来ない。その都度都度にコールを鳴らし誰かを呼んで頼んでやってもらうだけ、それもまたすごく寂しいものだ。それに 対しほとんどの人々は自分でどんなに気温が暑くても何とか出来るのではないか、本当に羨ましい話だ。嫁さんも何とか 工夫の仕方があるのではないか、まあ嫁さんの場合このところの体調の悪さがこの暑さによる変調に 追い討ちをかけている様だが。
僕が独身の頃住んでいたアパートにはもちろんエアコンなどなかったから厚くて寒いアパートだった。僕はこのアパートに 10年以上住んでいたが暑くてどうしようもないときは水風呂に長い時間浸かって身体を冷やしたものだった。どうしても 暑くて堪らなくて眠れない時は何度か自動車にエアコンを効かせて眠った、近所迷惑で今考えると反エコな話だ。でも色々 工夫して耐えていた、ま僕の場合酒を飲んで眠ってしまう事も多かったが。アイスノンを冷凍庫で固まらせて枕にして 眠る手段を覚えたのもこの頃だったなあ。
先日嫁さんが僕に告げた事、「(僕は)何年も在宅療養しているしできているのだからALS(である僕の事)を病気だとは 思っていないし接してもいない。だから気兼ねなく文句も言うし夫としての役割も子供たちに対する役割ももちろん 期待している。」と。嫁さんによる力強く頼もしい言葉だが本当に僕は病人ではないのか、ちっとも動けないし何にも 出来ないのに。

7月17日 移動サービスによる初めての通院
今日は移動サービスを利用しての初めての通院日、11時には訪問看護師さん二人・社協から同行してくれるヘルパーさんに (リフト車の中での僕の状態)観察役の看護師さんそれに(11時半予約の)リフト車まで着いていた。
早速念入りに痰を吸引し首と足にしっかりと装具を着ける、けれどもカニューレ交換して1週間目その上午前中だから痰の 出も切れも悪くいつものごとく痰はあまり取れなかった。それから車椅子に移乗しリフト車に乗り込んだ。けれど 人工呼吸器の場所取りや回路の固定に思っていた以上に時間がかかった、呼吸器の電源はリフト車のシガーライター ソケットにDC-AC変換器を取り付けさせてもらって供給出来たので幸いだったが。今日は初めてだったので時間が かかったのも無理からぬ事だがこの先僕の自発呼吸がもっと弱ってきたら移乗・移動の方法を根本から改めなくては ならないだろう、まあその時が来ても僕はもう家にもいないだろうから無用の心配かな。
リフト車からの車窓の視野はやっぱりかなり狭かった。僕に見えるのは真正面と左前下方の流れ、これでは季節の移り香・ 移り行く風景はあまり味わえない。これで通院の楽しみがまた一つ無くなった。それにリフト車での車椅子のゆれもやっぱり 厳しかった。リフト車の運転手さんは車椅子に座っている僕があまりゆれない様にスピードの調節や路面の選択に随分気を 使って運転してもらっているのが手に取る様に分かったが、それでも結構ゆれて2-3ヶ所は頭が車椅子の背もたれから 外れそうになった。だからゆれそうな道にかかると誰かが僕の頭を後ろから支えてくれていた。また痰の吸引を頼もうと するとリフト車は路肩に止まるそうだから自然と痰の吸引を出来る限り我慢しようという心理が働いてしまうから、 病院までの行程の3分の2ほど行った所から少しずつ気分が優れなくなってきた。まあ病院までは何とか我慢出来て着いたら すぐに吸引してもらったが。分かってはいた事だけど家の自動車とは肉体的にも精神的にもかなり快適さの度合いが違う。 それでも移動サービスのリフト車を利用出来るだけでも幸せ者だと思わなくっちゃね。
病院に着いても僕がリフト車で外来に来るのは初めてだったから結構ゴタゴタ、リフト車から呼吸器と回路をまず 救急処置室に運び出し車椅子に乗った僕をリフト車から下ろして処置室で車椅子の背もたれを倒して僕を寝せ車椅子と ストレッチャーの高さを合わせてスライダー?を使って僕をストレッチャーに移乗させた。僕はそこでようやく人心地、 今までは自動車の助手席から直接ストレッチャーに運んでもらっていたからそれほど時間はかからなかったが今回は 診察の位置に着くのに2倍以上かかってしまった。その上今日のこの時間帯は僕と同じ様な患者さんの来る日のようで外来の 看護師さんも手一杯の様で僕のしんどさは増すばかり。
痰の吸引とバイタル測定が終わると連携室のMさんがしばらくすると主治医が入って来て診察の前に「夏休みのレスバイト (入院)はいつにします?。」と聞いてきた。ひと月半ほど前に嫁さんが倒れたので最近通院の度にこの話ばかりで少々 うんざり。そう思って身じろぎひとつしないでいると入院が8月上旬に決まった。これで9月のシルバーウイークの前後と 合わせて二つのレスパイト入院が決定。この調子だと11月もレスパイト入院しそうな雰囲気、何せ主治医はふた月に1度の 入院を勧めているし嫁さんもそれを願っている節がある。訪問看護師外出に同行出来ない制度の問題といい佐賀県で ヘルパーによる痰の吸引が進まない・我が町の社協でさえもヘルパーによる痰の吸引を認めない事といい、最近の家での 自分自身の存在価値を感じきれない事といいこのところのみんなのレスパイトの進め方といい、僕はもう心がしんどいし 疲れ果てるし何で生き続けているのか・諸悪の根源の僕さえいなくなればせめてこの家に僕さえいなければ嫁さんもみんなも 笑顔と束縛と呪縛の無い自由な行動を取り戻せるだろうと思う。
主治医による診察と処置も終わり外来の看護師さんに首と足に装具を着けてもらい吸引を済ませると僕の帰り支度も完了、 そしてストレッチャーから車椅子にまたもやスライダー?を使って移乗してリフト車に乗り呼吸器を運び込んで装着する。 みんな少しは慣れたのか来たときより短時間で済んだもよう。帰りのリフト車の中ではカニューレを換えたばかりなので 痰は出なくて澄みそう。だけどリフト車の中で車椅子に座った僕に見える車窓の風景はやっぱり面白くなかった。まあ、 リフト車の中で交わされていた看護師さんとヘルパーさんの会話を聞いているのは面白かったが。
僕はこれまで自動車の車窓から風景を見るのがまた季節の移り香を感じるのが楽しみで2週間に1度通院していたのだが、 リフト車ではその楽しみもほとんどなくなって心身のリフレッシュもあまり出来そうもないから2週に1度通院する必要は ないのかもしれない。リフト車の通院が軌道に乗ったら主治医に通院間隔を伸ばせないか相談してみよう。

7月15日 博多祇園山笠・追い山観賞
今年も博多祇園山笠追い山の日、僕は今年も朝4時過ぎに起きてコールを鳴らしお袋を呼んでテレビを点けてもらい 追い山観賞。
今年の一番山は東流れ、4時59分山止めを出て櫛田神社の清道を一周、落ち着いたはっきりとした声で「博多祝い唄」を 歌い上げ櫛田神社を後にした。僕は10年以上テレビで追い山を見ているがこんな見事な「博多祝い唄」を聞いたのは初めてで 感動して「祝いめでた〜の若松さま〜よ、若松さま〜よ、・・・・・」と思わず口をついた、声は出ないけれど。
次僕の記憶に残ったシーンは確か四番山千代流れだったと思うが、廻り止めで台上がりの方が追い山で28分台のタイムが 出たのが本当に嬉しかったのか満足しきった顔を浮かべたシーン。あんな顔が出来る事は人生において極めてまれ、僕は 今までにあの様な顔をした事が果たしてあったか、そう思わせるようなそれ程素晴らしい良い顔だった。
追い山のテレビ中継を見ていると、毎年の事だが昔の色々な事が思い出されて目頭が熱くなる。櫛田神社・祇園・大博通り・ 冷泉通り、あのあたりは何度もさるいたものだ。また若かりし頃一度だけ同期のMと夜通しで追い山を見に行った。前夜酒の 呑みすぎで追い山が始まる頃には睡魔が襲っていて、ワーッと歓声が上がって顔を上げた時にはもう山が通り過ぎていたって事が何度あった。全く懐かしい。

7月13日 移動サービスの結末
今日の午後町の社会福祉協議会の局長さんと次長さんが今回から通院の際に利用する移動サービスについて説明に 来られた、どうやら僕が自分のホームページに移動サービスやヘルパーによる痰の吸引行為についてあれこれと過激な事を 書いていたのでそれが気がかりになって訪問する事になった のかな?。ただヘルパーによる痰の吸引は行わない事が前提の 説明かつ言い訳に終始する事はもう分かっていたので、局長さんには申し訳ないがどういう顔をなさってどういう話し方を するのかしか僕の興味は向いていなかった。それにALSという病気の内容やALS患者を介護する家族の辛労それに我が町の ALS発症率が全国の3-4倍もある事を本当にご存知なのか疑問を感じた。
さてヘルパーによる痰の吸引を認めないについ事の説明(言い訳?)は、@通達の中の「(たんの吸引の)危険性を考慮すれば、 意思又は看護師が行うことが原則であるが、ALS患者の在宅療養の現状にかんがみれば、在宅ALS患者に対する家族以外の 者による痰の吸引の実施について下記の条件の下では、当面のやむを得ない措置として許容されるものと考える。」・「(下記の 条件にあたる)3 家族以外の者に対する教育 入院先の医師や在宅患者のかかりつけ医及び訪問看護職員は、家族以外の者に 大して、ALSたんの吸引に関する必要な知識を習得させるとともに、当該患者についてのたんの吸引方法についての指導を 行う。」を踏まえて、社会福祉協議会としては自分のところのヘルパーは痰の吸引方法を習得してもいないさせてもいないし それに痰の吸引は看護師が行うとの原則を遵守したいという考えから僕の通院の際の移動サービスには最終的に看護師が 同行出来ないか検討している、A同意書例の通達「この同意書は、たんの吸引をされる者とたんの吸引を行う者の間の同意で あり、たんの吸引を行う者の所属する事業所等との同意ではありません。」を踏まえて、事業所等との同意ではなくて ヘルパー個人個人との同意というのが気になるとの事。どうせなら「医師や看護師が行う事が原則」「やむを得ない措置」 「たんの吸引をされる者とたんの吸引を行う者の間の同意であり、たんの吸引を行う者の所属する事業所等との同意ではない」 という様な曖昧かつ回りくどい言い方じゃなくて「原則は原則として、ある一定の条件の下でヘルパーによるたんの 吸引を認める」「ただし、たんの吸引をされる者とたんの吸引を行う者の所属する事業所等と間で同意書を交わす」と政府や 厚生労働省が明確に法律を制定するか通達に記してくれれば何の迷いや憂いもなくヘルパーにたんの吸引を行わせる事が 出来るのにとの事だった。
僕はこれらの通達にそんな読み方もあるのかと意外だったし感心もした。@について僕は通達の「当面のやむを得ない 措置として許容されるものと考える」の部分を介護事業所は重視するものと僕は通達を見た時読んだのだが、そんな 読み方は僕のご都合主義の一方的な見方だったのか。Aについては事業所所属のヘルパーが痰の吸引を行って事故が 生じた時に万が一責任問題に発展した場合(責任問題に発展しない様に同意書をしたため取り交わすのだと僕は思っているが、 それでも・・・・・)に、責任問題が事業所に向かった場合事業所の機能が損なわれない様にその予防措置として個人個人と 同意書を結ぶのだと思っているのだがそれは間違いなのか。
また社会福祉協議会は僕が通院の際移動サービスを利用する時に看護師を同行させる事を検討してくれているというが、 訪問看護では看護師は同行できないのに移動サービスではどうして看護師が同行出来るのかが僕には不可解だし理屈が 通らない気がするのだ。移動サービスは社協独自のサービスだからヘルパーも看護師も同行出来るというが、移動サービス そのものの料金体系には同行費用は含まれていない様だし社協はどんな項目で請求出来るのか気になって仕方がない。
今回説明の終わりに「ヘルパーによる痰の吸引の実施をもう一度検討して欲しい」と局長さんにお願いした。僕は今回利用する 移動サービスでヘルパーによる痰の吸引にこだわっている訳ではない。むしろ平時の訪問介護時のヘルパーによる痰の吸引の 足がかりにしたいのだ、今回の事は我が地区でヘルパーによる痰の吸引を推し進める初めての機会なのだ。だから今回僕は スッポンにならねばならないのだ。

7月13日 お盆
我が町のお盆は今日から、そう我が町はなぜか7月盆なのだ。昨日の朝娘と下の息子はお墓の掃除に行ってきたようで9時前に 「暑ーいっ。」と言いながら帰って来た、「お疲れ様」。
お盆だからといってお坊さんやお客さんが盆参りに来ても僕はどうしようもない、ただその気配・お経を障子越しに 感じているだけ寂しいものだ。でも車椅子に移乗した時に訪問看護師さんが僕が何にも言ってないのに仏壇の前に 連れて行ってお参りさせてくれた。有難かった。僕がいくら無宗教といってもやっぱりお盆の時ぐらいは仏様に お参りしたいもんね。

7月12日 暑いけど寒い
このところ僕の部屋の温度計は30℃を指している。だからか嫁さんは大粒の汗を流しながら眉の間に縦ジワを浮かべ 僕の部屋に入ってくるなり憂鬱そうに「暑い。」「暑い。」を連発、すぐにエアコンを点ける。
部屋の温度が30℃近くあるからといって僕が暑くて堪らないと感じているとは限らない。確かに顔や頭・胸や腕・背中には じっとりとした汗が噴出して入るが肺からかけてが寒いと感じている。現に肩を出していると気持ちは良いがその内に くしゃみが出て鼻詰まりし鼻水まで出てくるのだ。去年は掛け物を胸まで掛け肩を出していくらか気持ち良く過ごせたが、 今年はそうは問屋が卸さない様だ。掛け物で試行錯誤の繰り返し、全く難儀な身体になったもんだ。嫁さんはこんな僕の 変化を感じていないのか、それとも知らんぷりをしてるのか・・・・・。
こんな身体の変化が僕がそんなに長くはない事を僕自身に予感させるのだ。

7月10日 最近の子供たち
うちの子供たちは、出かける時は娘と上の息子は必ず下の息子は気がむいたら「行ってきます。」と僕の部屋に顔を覗かせて 挨拶をする僕にとっては嬉しいそして傍から見たら感心な子供たちだ。上の二人と末っ子の対応の差は僕との肌付き合いの 機会と時間の差から生じたのだろう。なんせ僕は末っ子とは手を繋いで出かけた事は一度としてないのだから。その意味で 下の息子には一番申し訳なく思っているし、僕が病気でなかったらせめてALSを発病するのがあと5年遅かったら色んな 意味で違っていただろうとよく思う。
子供たちが学校から帰ってくると、娘と上の息子は「ただいま。」と挨拶に来るから「どうだった」と尋ねるのが日課だ。 すると娘からは「別に、いつもと同じ。」って答えが返ってくるし息子はクラブ活動の様子を話してくれる。下の息子が 帰って来たのはドタバタという音で分かるから息子を呼んでもらってたどたどしい会話を楽しむ。僕にとっては スキンシップなのだが子供たちには迷惑な話だろう。
今日の夜僕がテレビで「ハリーポッターと賢者の石」を見ながらパソコンでYahoo動画でプロ野球ホークスと楽天の試合を 見聞きしていたら、下の息子が入って来て僕と一緒にベッドの上に上がって見始め1時間ほど経過した頃息子はなぜか 車椅子に移動した。後で分かったのだが息子は途中から「ハリーポッター」よりも野球の試合の方が気になり出して野球が よりいっそう見聞き出来る車椅子に移ったのだ。確かにこの日のホークス・楽天戦はとてもすばらしい白熱した 投手戦だった。楽天は先発田中マー君が9回までを粘り強く投げホークス打線を9回まで零封した。一方ホークス投手陣は 先発と勝利の方程式が十分に機能し11回を零封した。楽天は10回表は何とか乗り切ったが11回にとうとうつかまった。 ホークスと楽天との勝利を得る事が出来たかどうかの差はリリーフ陣の層の厚みの差なのだろう。息子が野球を 楽しんでいるのが分かったのは9回の裏ホークスの攻撃中に解説者の説明に相槌を打ち出したから、どうやら息子も僕と 同じ様にホークスが好きな様で試合の様子に一喜一憂していた。僕は楽天のマー君も好きなのでホークスに3連戦の緒戦を 取って欲しいしマー君には勝って欲しいし何ともいえない複雑な気持ちで経過を聞いていた。
でもこうして息子と一緒にテレビやパソコンが見れるなんて良いなあ。

7月7日 七夕
今日は七夕、だけど外はあいにく曇り空で彦星と織姫の1年に1度の逢瀬は拝めそうにない。
先日下の息子が「夏は天の川はどこにあるの?。」と聞いてきた。天の川は1年中天空に見れる星々の長い帯と 思うのだが天文音痴の僕は北斗七星・カシオペア座・北極星・冬のオリオン座以外は知らないのでしょうがなく「分からない」と 答えた。昨日も下の息子が「つきを見てたら月から青い帯が出ていたよ、あれ何なの?。」とまたもや聞いてきた。僕が きょとんとした顔をしてると「分かんないね。」と言って部屋から出ていった。下の息子は星を見るのが結構好きな様だ。 僕も小学生高学年の頃天体望遠鏡を買ってもらってよく月を見ていたが月のクレータがあれかなと思うくらいの低い倍率の 望遠鏡だった。だからせめて土星の輪が見えるくらいの天体望遠鏡がずっと欲しいなと思っていて、通販で土星が何とか 見える倍率の天体望遠鏡を子供たちが使ってくれればと買ったのだが子供たちはあまり反応は示さなかった。僕が 元気だったら子供たちと一緒にこの天体望遠鏡を持って国見山に登り星の鑑賞会をやったのに。せめて下の 息子だけでも使ってくれればと思うのだが。
福岡にいたまだ元気な頃は七夕の前には山に行って笹を取ってきてみんなで飾り付けしたものだったし実家に戻って来て 最初の頃は親父が笹を取ってきてくれてそれをみんなで飾ったものだったが・・・・・。もうあんな時は来ないのか、 寂しいもんだなあ。

7月6日 金魚が大きくなった
今僕は1週間に5回訪問看護師さんに車椅子に1時間ずつ座らせてもらっている。
今日車椅子に座らせてもらってもらった時に訪問看護師さんに「(久し振りに)金魚が見たい」と頼んだ、というのは先日 嫁さんと下の息子が「金魚がもに卵をたくさん産みつけている。」と話をしていたし看護師さんも訪問に来た時に玄関で 「わあぁ、金魚が大きくなってる!。」と驚きの声を上げていたから急に見たくなった。
訪問看護師さんに車椅子に移乗してもらい玄関に連れて行ってもらって水槽を見ると、ランチュウも緋ブナもすっかり でかくなっていて水槽の中を窮屈そうに泳いでいた。このまま大きくなったらこの金魚たちを育てている下の息子は どうするのだろうと心配になってきた程だ。
それで学校から帰って来た下の息子を呼んで「金魚大きくなったな、(もっと大きくなったら)どうする?」と聞いたら 「緋ブナは学校に持っていく。」って、一応息子なりに考えている様だ。もし息子が「どうしようか?。」と困った顔をしたら 「西岳の池に持っていくか(最悪)大きな川に放せ」とアドバイスするつもりだったが必要無かった。
近年ミドリガメとか外来種を買って育ててはみたものの最後まで面倒見切れなくて川に放してしまい日本固有の生態系を 壊しているという問題が報道されているが緋ブナなら川に放しても問題は無かろう。なんせ緋ブナは作られた魚だと 言っても外来種ではないし僕が子供の頃は溝で緋ブナも取って遊んでいたもの。

7月5日 日曜の昼下がり
今日は朝から嫁さんはサークルで娘は遊びに行くと言って上の息子はクラブ活動に出かけて行って気付いた時には家の中には 僕と両親と下の息子の4人、その下の息子も12時半過ぎに「田んぼに行って来る。」と言って出て行った。田んぼ?って何って 思ってお袋呼んで「どうしたの?」と聞くと、「おじいちゃんがトラクターで畑を耕す時に乗せてやると言って西岳に連れて 行った。」との事。僕は息子が親父について行く事はあまりないからそれだけでとても嬉しかった。
僕の子供の頃の昔親父は有無を言わさず僕を田んぼの手伝いに連れて行っていたのに、孫になると嫌われるのが怖い?からか 無理に連れて行こうとはしない様だ。僕は暇そうにしているとよく手伝えと連れて行かれて時には田んぼで耕運機や バインダーの操作をさせられていた。けれども僕は機械類の操作だけでなく色々な事を親父から教わった。息子たちは 親父から色々な事を教わって欲しいし、親父には子供たちに色々な事を僕の代わりに教えてあげて欲しいのだが。
夜下の息子を呼んで「足を曲げて」と頼んだら「今日は勘弁して。」と、何でも親父に西岳まで付いて行った時に自転車で 行ったと言う。西岳までのあれだけの上りをチャリンコで行くなんて下の息子の体力はたいしたものだ。だがまあ 勘弁してと言うのも無理からぬことだ。僕も春休みにはチャリンコでツワやワラビを取りに西岳まで行っていたが 途中で休み休み行っていた。もしかしたら今の息子は当時の僕より体力はあるのかもね。

7月3日 通院日
今日は通院日、今日から町の移動サービスを利用する事になると思っていたのだが、訪問看護師さんたちに車椅子に 移乗させてもらって外に出るとなぜか家の自動車に座らされた、てっきり車椅子ごとリフト車に乗ると思っていたのだが。 出発しようとした自動車の中で「どうして今日は社協のリフト車じゃないのか?」と文字盤で尋ねると「社協さんの手続きが 済んでいないから、次回の通院から社協さんのリフト車になりますよ。今日の私の同乗はボランティアです。」と 訪問看護師さんが答えた。僕は痰の吸引もしないヘルパーが同行するそれだけなのに何の手続きが必要なのかと疑問を 感じた。同時に訪問看護師さんが嫁さんに「主治医の意見書はいつ出来るのかとケアマネージャーが聞いていました。」と 言ったのでその意見書に主治医が外出に際しては看護師の同行が必要と書けばどうなるのかと思ったら頭が ぐちゃぐちゃになりいらいらしてきた。ただ訪問看護師さんはその意見書がどういう内容なのか知らなかった。車窓には 田植えを終えた田んぼや所々に紫陽花のある風景が広がっていた、けれど混乱している僕には何の感慨も与えなかった。
病院に着きストレッチャーに移乗・吸引も終わって一段落すると外来の看護師さんが「次から移動の方法が変わりますね。 車椅子でリフト車に乗ってこられるんですよね。ちゃんと対応出来る様にしておかなくっちゃいけませんね。」と話しかけた。 病院にも移動手段が変わる事はきちんと伝わっていた様だ。当然の事ながら訪問看護師の同行無しでの通院の準備が着々と 進んでいて『訪問看護師が外出時に同行出来ない』という事を疑問視する雰囲気がどこにも無い事を寂しく感じた。主治医の 診察と処置が終わると「レスパイトはいつにしますか?。」と尋ねてきた。最近夏のレスパイト入院の申し込みが多いらしく いつもこの話題だ。そして僕のいないところで8月のお盆あたりでどうかという話が進んでいた。僕は9月の シルバーウイーク?にもレスパイト入院する事が決まっているのにとんでもないという様な反応をした。けれども僕の周りの 人々は夏にレスパイト入院するのを強く望んでいる雰囲気だ。僕は何もかもが面白くなくなった。
帰りの自動車の中でも僕はぼんやりしていた。何も考えたくなかった。川棚川はこの数日の激しい雨で太っていた。 こんな所でゆっくり釣りでもしたい、そんな事を考えていた。

7月2日 親父の涙
今日の昼1時ごろ呼び出し用のコールを10分以上鳴らしても誰も来る気配がない。僕の心にはまたまた不安が渦巻いた。 そんな時呼び出しコールが鳴っているのにようやく気付いてくれたのが親父、その親父が僕の部屋へ入ってきて 「母ちゃんは今お寺の掃除に行っている。」と、それなら「嫁さんがどこかにいるから呼んで」と伝えようと口を もごもごしたつもりだったのだが気付かずに出て行ってしまった。
それで再度何回かコールを鳴らすともう一度親父が来てどうしたらいいのか分からないと戸惑ったような顔をして僕の手を 両手で優しくさすって揉みほぐしながら「何故こんな・・・・・!!。」と言って左目からほほを伝う涙がひとつ、それを見て 僕は親父がどれ程悔しがっているか・未だにどんなに寂しくそして悲しく思っているかを改めて思い知った。僕がいつか 受け継いでいく事を信じ期待して家を守り田畑を広げてきた親父の想いを受け継ぐ事が出来なくて申し訳なく思う。
僕は親父のそんな姿は始めて見た。僕でさえこんなだから嫁さんや子供たちは親父のそんな姿を見た事はないだろうし親父が 本当はシャイな性格でそれゆえにつっけんどんな態度を取ってしまっている事など全く知らないだろう。僕が元気だったら 二人で酒を酌み交わしたり百姓仕事も教えてもらったりして親父に喜んでもらう事も出来ただろうに。


[2009年の先頭に戻る]



6月
6月28日 日本ALS協会長崎支部総会
ひと月以上前に日本ALS協会長崎支部のI支部長から届いた支部総会の案内状・ALS患者のコミュニケーションについての パネル討論会を行いたいからパネラーのひとりとして参加出来ないかとの事、僕は体調が許す限り参加しようと 思っていた。
けれどもその後訪問看護師さんが外出に同行出来なくなってしまったとか嫁さんの体調不良とかで参加出来なくなった。 体調不良に陥る前の嫁さんは娘に手伝ってもらって僕を長崎支部の支部総会に連れて行くつもりだったが、僕のベッド→ 車椅子→自動車の助手席への移乗介助は事業所に断られ、手伝ってもらおうと思っていた娘は定期試験の直前という事で 頼む訳にはいかなくなり、その上頼みの綱の嫁さんが体調不良、まさに泣きっ面に蜂状態行くのを諦めた。
僕は参加するのは止めたが嫁さんはこういう場に参加して発言する事がかなり好きな様で、体調が少々悪くとも行くつもり 満々の様だ。総会の1週間ほど前に嫁さんだけでも参加して欲しいと電話がかかってきて「どうしよう?。」と相談を受けた時に 「自分だけでも行って来たら」と答えたものの、ここ数日目まいでふらふらしている嫁さんの様子を見ていた僕は「嫁さんは最近 体調ふょうを起こしているので総会への参加は難しいようです、実際に参加するかどうかは嫁さん次第ですけど」と 一応メールを打ちメールした事も嫁さんには話しておいた。その嫁さん今日張り切って?総会へと出かけて行った、昨日の 嫁さんの体調はあまり良さそうには見えなかったのだが不思議なものだ。

6月27日 定期試験
昨日までは中学生になった上の息子の前期の中間試験・月曜からは高校生になった娘の1学期の期末試験との事、娘は 理解出来ない箇所がある様だし息子も「がんばる、大丈夫。」とは言ってはいたがどこまで自分の勉強の仕方を作り上げて どこまで理解しているのやら。子供たちの分からないと感じている箇所を教えてあげる事が出来るならと思うのだが、口も 利けないし身体も動かない、こんな僕に何が出来るというのか。
娘に対しては自分から聞いてくるまで動くまい、嫌われるのが怖いから。息子の試験問題は中学校にメールで頼み込んで データ化したものを送ってもらおう、パソコンの方が問題もゆっくり見れる。息子がある程度は間違うのは構わないが同じ 間違いを二度しない、その事だけは指導したい。

6月23日 今年もサクランボ貰った
今年も会社勤め時代の後輩Mからサクランボが届いた。いつもいつも新鮮で甘いサクランボを送ってもらって申し訳ないとは 思うが毎年それを待っている僕がいるのも確かだ。この時期になると僕はつい「今年もサクランボ来るのかな」なんて 思ってしまう。浅ましい話だが本当の事だから仕方がない。「M、いつもサクランボありがとう!、僕を忘れないでいてくれて ありがとう!」。
Mには常々何かお返しをしたいと思ってはいるのだが、独身を謳歌して未だに一人身を貫いているらしいMに我が町特産の はがくれ牛の牛刺しor焼肉セットや米なんかを送っても出張の多いMは持て余すだけだろうし、いっそのこと嫁さんを 世話出来ればいいのだろうが僕にはそれだけの力も度量も人脈もない。本当に良い奴だが縁遠いだけ。Mの周りにいる 皆さん(PもM様も幹部の方を含めて)、余計な世話を多いにして欲しいなあ。

6月25日 移動サービスの結末
今日11時半過ぎに社会福祉協議会(社協)のヘルパー業務の責任者いう方とケアマネージャーが移動サービスの結論をもって 突然訪ねて来ると10時からの訪問看護の時聞いた。僕は何故突然しかも11時半に来るのかうがった見方しか 出来なかった。
社協の事務長・局長等責任者たちが話し合った結果持ってきた結論は『移動サービスにヘルパーは同乗させるが痰の 吸引はさせない』という僕の提案に対して0回答。ヘルパーに吸引はさせないというその理由を尋ねると、「ホームページを 見たら書いてあった。」と訳の分からないそして納得できそうもない回答が返ってきた。確かに医療工に属す痰の吸引は 以前はヘルパーは出来なかった。けれどもある条件の下でヘルパーと痰の吸引を受けたい患者・家族が個人間で 同意をすればヘルパーは痰の吸引は可能との通達が厚生労働省から出ているはずだ。しかも当事者のヘルパーさんは 痰の吸引を行ってもいいと言ってくれていると嫁さんが説得したのだが、その説明に頷きはするものの「ヘルパーに痰の 吸引はさせない」との決定事項を覆そうとはしなかった。その代わり「12月の定時理事会を経て看護師を同乗させる 予定。」と言う。嫁さんが「もっと早く理事会を開けないのか?。」と聞くと「出来ない。」とつれない返事が返ってきた。僕は 看護師がどんな費用項目で同乗するのかと疑問を感じながら(訪問看護師としては同乗出来ないからヘルパーとしてかな?)も 「町長は社協の中でどんな立場なのか?」「町長はこの決定をご存知なのか?」と全然別の事を尋ねると、「町長は社協の 会長。」「町長には報告は上がっていない。」との事。これを聞いて僕は社会福祉協議会の会長でもある町長にメールでも しないとこの問題もヘルパーによる痰の吸引も進みそうもないなと判断した。全国では広く行われているという ヘルパーによる痰の吸引も佐賀県で行っているヘルパーがいるという話は僕には聞こえてきた事がない。だからこそALS 患者が数人もいるこの地域で最初に始めて欲しいし、また町の資本が入っている?社会福祉協議会だからこそ民間の 介護事業所の範となってヘルパーによる痰の吸引を行って欲しいのだが、このように考えるのは そんなに無理な話なのか?。
また移動サービスとヘルパーの同行がセットになっている理由の説明もなかった。町が移動サービスを委託した時に ヘルパーの同行をセットにするように条件を付けのなら納得するしかないが、そうでないなら移動サービスを利用する時に ヘルパーに同行してもらうかどうかは利用者が決める事だと僕は思う。確かに移動サービスを利用する人は行く際・ 帰って来た時の移乗介助や出先での移動支援などをしてもらうために同時にヘルパーさんを頼む人が多いだろう。けれども ヘルパーさんの介護が必要かどうかは利用者が決める事であって介護事業所側が決める事ではないはずだ。僕の場合移動中の 車内で痰の吸引を行ってくれるヘルパーに同行して欲しいのだから。痰の吸引を行わないヘルパーが同行していったい何を するというのか。行く時の自動車(リフト車)への移乗や帰って来た時の移乗は今まで通り訪問看護師が やってくれるのだから。移動する時に手伝うにしても呼吸器や吸引セットには(社協の責任者の理屈なら医療機器だから) 触れれないしいったい何を手伝えると言うのか、説明(言い訳)を聞いている時にそう言ってやろうと思ったが僕の発言する 機会は巡っては来なかった。
いずれにしても納得のいかない事が多過ぎる。決定権のある方からきちんとした誰もが納得出来る説明を 聞きたいものだ。

6月21日 父の日
6月の第3日曜日はFather's Dayという事なのだが僕には相変わらず縁の無い日、まあ僕が日頃から父親らしい事が 出来ている訳でもなく今まで親父に対してもこの日に何かをして上げた経験も無いのだから何かを期待する方が 間違っているのは重々承知してはいるのだが、いつもつい何かを期待してしまう僕がいる・・・・・。
でも今年はヘルパーさんに綺麗なお花をもらえただけでも良いかな!。

6月21日 ソフトバンクホークス交流戦二連覇達成
今日でプロ野球交流戦の全日程が終了、我がソフトバンクホークスは18勝5敗1分の完全優勝で交流戦二連覇を達成した。
優勝の要因は交流選に入る直前から投打が上手く噛み合う様になった事、ピッチャー陣は元々が駒不足の上に和田・大隣が 怪我で戦線離脱し苦しい上に陥った。しかし杉内・ホールトンが交流戦を通してがんばり、中継ぎから選抜に代わった藤岡も 最初はひやひやものだったがいつの間にか踏ん張ってくれる様になり、離脱した和田・大隣に代わって上がってきた ジャマーノも(僕の予想以上の)活躍をしてくれた(大場は大きく期待を裏切ったが)。中継陣の佐藤・水田も壊れそうな試合を 建て直し勝利に結びつけた。勝利の方程式摂津・ファルケンボーグ・馬原もほとんどの勝ち試合で機能した。この勝利の 方程式が上手く機能していたらからこそ先発陣も6回まで何とか試合を作れれば勝つと信じて踏ん張れたのだろう。今年の 交流戦の優勝は勝利の方程式ががんばったからこそ成し遂げられたと言っても過言ではない。
打線も交流戦を通してよくがんばった。交流戦前のオーティズの加入で打線が目覚め、交流戦の前半戦で公式戦の始まる前・ 緒戦から故障で戦列を離れていた田村・松田・村松が復帰し打線に厚みが増した。これで中押し・ダメ押しの追加点や逆転の 得点が獲れる様になった。(僕が見た)試合で活躍していた選手を上げてみるとオーディズ・田村・長谷川・田上・森本かな、でも 日替わりでヒーローが出てきたのが大きかった。
僕が交流戦でのMVPを上げるとすれば摂津かファルケンボーグ、新人ということを考慮すれば摂津かな。この二人が 出てきたら安心して見ていられたし試合をぶち壊す事もなかった、交流戦においてその功績は大きかったと僕は思う。
今週末からまたペナントレースが始まる。だが去年の例もある様に交流戦を制したからといってペナンとレースも大丈夫だと いえそうにはない。大隣が復帰してくるといっても先発陣がまだ1人不足している。その穴を埋めるために下から誰が 上がってこれるか、新垣はオールスター明けで柱になってくれれば良い。するとローか巽それとももう一度大場に 期待をかけるか。いずれにしても不安が残る。勝利の方程式も摂津が登板過多でそろそろ疲れが出てくる頃だ。また抑えの 馬原もピリッとしない時も間々ある。それに打線は水物、いつ調子が落ちてくるか・・・・・、心配は尽きない。 これからも投打が上手く回って欲しいなあ。

6月19日 通院日
今日は家の自動車で行くそして訪問看護師さんが同乗してくれる最後の通院日、そう考えると僕の心は沈んでいき 車窓からの風景を味わい楽しむ気にすらならない。
次回の通院からは町の移動サービス・リフト車を利用する事になるのでつい一挙手一投足を比べてしまいここはこれから どうなるのかななどと考えてしまう。今日同行してくれる(訪問)看護師はFさん、病院に着いてからでもいつも僕の目に入る 囲にいてくれる看護師さんだ。リフト車での通院で大きく変わるのは車中と病院の外来での対応。車窓からの風景はほとんど 見えなくなるだろう。僕の楽しみが残念ながらまた一つ消えてしまう。それよりも僕が心配しているのは外来での対応と コミュニケーション、車椅子からストレッチャーへの移乗と人工呼吸器の救急処置室への設置と吸引が一度に来てしまう。 あの外来の看護師の人数でやり繰り出来るのか、まあやってみないと分からないが事前に心構えを しておいてもらうしかあるまい。
診察と処置が終わって帰る時本当は「アジサイロードに紫陽花を見に行きたい」と言いたかったが、嫁さんは体調が悪くて あくびばかりとても言い出せなかった。今日でリフレッシュ出来る通院も終わった。通院はもう月一にしようかなあ!?。

6月16日 話し合い?
通院の時に訪問看護師が同行出来ないという事で訪問看護ステーションの所長さんとケアマネージャーが同席して話し合いの 場が持たれた。僕はその場の雰囲気で二人には通院の時に訪問看護師が同行出来ないという事に対して戦う意志は無い事が 分かりまず残念に感じた。通院の時に訪問看護師が同行出来ないというこんな制度の問題は全国でみんなが声を上げないと 絶対に変わらないというのに僕は今回の話し合いは当面の対策を決める場と思いたかったのだが。
ここ数週間嫁さんの体調がずっと思わしくないから運転は難しいだろとみんなが判断して、対応策として町が運営を 委託している移動サービスを利用したらという案が上がった。だがこの移動サービスよくよく聞いてみるとヘルパーの同乗と セットかもしれないとの事。そこでその真偽を調べてもらうと共にヘルパーの同乗がセットならヘルパーさんに吸引を してもらう事が条件になる、そうでなければヘルパーが同乗する意味がないからリフト車だけ寄こして欲しいと伝えてと 主張した。ケアマネージャーさんはどちらも難しいかなって顔をしていたが、そもそも移動サービスとヘルパーの派遣は どちらも介護保険の範疇と入っても別々のサービスで請求も別々に来るのだろうからセットにしているのはあくまでも 委託されている側の都合、だからこういう事は正式に強く主張・要望していかなければならないと思うのだ。
それにこの事がきっかけとなって僕の住んでいる地域でもようやくヘルパー吸引が始まるかもという思惑もあるのだ。 そのあたりの事を深耕して推し進めて欲しい。

6月15日 外出時訪問看護師は同行出来ない!?
今日の午後僕の利用している訪問看護ステーションの所長さんからついにそして正式に「外出する時は 同行出来なくなりました。」と話があった。僕が理由を尋ねるとそれが「訪問看護の決まり」だからとの事だった。
訪問看護では元々訪問先の家の中での看護サービスしか認められていないという。それを今までは通院等外出時 訪問看護師の同行は利用者にとって必要不可欠な事で訪問先での看護サービスであるとみなし続けてきたという。しかし 先般の訪問看護ステーションの責任者会議でまたもや議題に上がりその必要性を訴えたが少数派の意見は取り上げられ なかったとの事だった。僕は「(その)責任者会議の(主催者側の)責任者に会って話がしたい」と告げたが訪問看護 ステーションの所長という立場上そのような機会を作るのは難しそうだ。僕はその責任者の方に会って外出時の訪問看護師の 同行の必要性を患者・利用者の立場から話して許可を請う。許可を得られない場合にはその理由を尋ね、それが訪問看護の 制度によるものならばこのように懇願主張しているALS患者・利用者がいる事を中央での責任者会議に伝えてもらい (他県でも(同じ様な声が上がっていないかを現場第一の立場から真面目に調査し)訪問看護の制度の改革(外出時の 訪問看護師の同行の承認)に尽力していただける様に説得するつもりだ。だけど僕の想いは所長にも伝わらなかった様だ。僕は あらゆる方面にこの問題を提示し協力を仰ぎたいと思っている。そうしないとこの手の問題は解決しないだろう。所長には まず訪問看護の当事者に向かう道しるべになって欲しかったのだが。
政府はこの数年長期療養病床に動いている、受け入れ側の家庭や施設に対する対策をほとんどやらないままに。その結果 受け入れ施設の不足・医療難民の発生(天下りの渡りならぬ病院の渡り)・家族の身体的経済的負担の増加などの事態を 引き起こしている。自宅に帰された患者は完治して帰ってきた訳ではないのだから当然定期的に病院を受診しなければ ならない。通院による負担を家族にだけ負わせていいのか、訪問看護に応援してもらっても何ら不条理とは言えないと僕は 思うのだがそれでも訪問看護の仕事の範疇ではないと言うのだろうか。
そもそも訪問看護や介護保険導入の目的は何だったのか。家族の負担を軽減する事も重要なファクタではなかったのか。 訪問看護が始まった当時は訪問先の家の中での看護サービスで十分家族の負担の軽減になっていたのかもしれない。 でも今訪問看護を必要としている患者・家族は当時と比べて家族構成を含めて多種多様になっている。利用者の変化に合わせて 訪問看護のサービスの内容も再度検討して訪問先での看護サービスに切り替える時期に来ていると思う。
それに看護協会では患者のQOLの向上を推進していると聞いている。それは病院だけではなく在宅の患者も同じだろう。 僕は僕がいつもお世話になっている病院でのQOLの研修会に参加した事があるが、僕はその席で 患者としての立場から 「生活の質の向上とは、生きていたいという欲求が生まれる・生きていたいと素直に語れる事?、生きがいのある生活・ やりがいのある生活をおくれる事?かも知れません。」と発表し社会参加する事もその用件の一つと付け加えた。けれど 社会参加しようにも外出出来なければどんな催しにも参加出来ない。6月21日には日本ALS協会福岡支部の6月28日には 長崎支部の支部総会の案内が届いていたが家族だけで僕を連れて行く事は無理なので諦めざるを得ない。また外出して 外の空気に触れる事は心身をリフレッシュさせてくれる。QOLの観点から外出を見れば高める事につながるのは 分かりきっているのに、患者のQOLを推進しているとされる看護協会が外出時における訪問看護師の同行を 進めようとしないのには矛盾を感じてしまう。

6月9日 外出がもう不可能?
昨日嫁さんから「次回から通院などの外出の時に訪問看護師さんの(家の)自動車へ同乗してもらい付いてきてもらう事が 出来なくなったとケアマネジャーから連絡があった。」と報告を受けた。僕は驚きのあまり目の前が一瞬真っ暗になって しまった。6月2日に天山まで嫁さんの運転・訪問看護師二人の同乗でドライブに連れて行ってもらったのだがあれが最後の 遊びでの外出だったそうだ。また僕には訪問看護ステーションの所長から近い内に直接話があるとか、でも所長さんは僕の 反応が怖くて話出来ないでいるという。
僕に限らず家族の介護だけでは通院など外出する事が出来ないのでお金を支払ってまで訪問看護師に来てもらいついてきて もらっている患者・家族もいるのだから、この報告が本当なら誰もが困惑しているはずだ。僕はALSで人工呼吸器を 着けているから吸引がいつでもどんな状況でも必要になる場合が出てくる。家の自動車で通院する時に僕の吸引が必要に なった場合、今までは同乗してくれている訪問看護師さんが必要に応じて随時吸引してくれていたのだが今後は どうなるのか。運転している嫁さんが安全そうな路肩を適当に見つけて自動車を止めてそこで吸引してもらうしかないのか、 止める路肩がすぐに見つからなかった場合僕はかなり苦しい思いをすることになるだろう。それとも家の自動車での通院は 諦めて片道一万数千円もする介護タクシーを利用しろというのか。北海道滝川市の詐欺事件の様にタクシー代を医療費の 一部と見なして自治体から全額費用補助でもしてくれるのなら別だが、そうでないなら月二回の通院で我が家はいずれ 通院貧乏になってしまう。いずれにしても何と不条理な事か。それに通院の時に外の景色を見る事は僕にとっては リフレッシュの場でもあるのですだ、我々のように病気で動けなくて社会の役に立たない者は外出しようなんてはなから 考えないでベッドの上で常にじっとしていろというのが政府や行政・看護協会の考えなのだろうか。そんな事をしていて 我々になんの生きている楽しみがあるというのだろうか、あまりにも現場の実情を知らなさ過ぎる。またもし知っていて この様な判断を下したとしたらあまりにも非人間的だと言えるだろう。
どうにかして今までのように外出する時に家の自動車に訪問看護師さんたちが同乗出来るようにしたいのだが、どこに どの様に訴えればいいのかが分からない。何かをしなければという気持ちばかりが先走って、でも何から手をつければ いいのかが・・・・・。これは我々にとって生き死に・尊厳にかかわる問題なのだ。可能な限りの努力と当面の対策を しなければならないと思っている。

6月10日 太陽光発電
僕の家の電気料は毎月3万円以上もかかっているらしい、まあ僕の部屋では一日中人工呼吸器が動いているしテレビも パソコンもそれにエアコンだって頻繁に動いているからしようがないともいえる。それを親父が負担してくれている。そして あまりの電気料金の多さと後々僕らが負担するようになる事も考慮して親父が太陽光発電システムの設置を予定していて この日太陽光発電システムの説明に来るときいて僕もその説明に同席させてもらう事にした、僕はずっと前から太陽光発電を つけたいと思っていて、だけど僕は親父にその事を言い出せないでいたから。
僕が太陽光発電システムについての説明で尋ねたかったのは、今年度から復活した政府による太陽光発電設置における 助成金の詳しい内容とどのくらいの広さならどのくらい発電が出来るか(発電効率?)それに蓄電の有無についてだった。 それなのに担当者額に会うのは初めてという事で太陽光発電の概要から詳しく説明してくれた。長い時間説明してもらうと あまりに気の毒なので途中で「そこはいい」と言おうと思ったが折角なので黙って聞いていて色々な事を知る事が出来た。
僕が尋ねたいと思っていた事もある程度理解出来た。補助金は太陽光発電1wにつき7万円・計算すると太陽光発電1パネルあたり 1万円というとこか、これを高いと見るか安いと見るか?。見積では母屋と小屋それぞれの屋根の半分に太陽光発電パネルを 張りめぐらせて設置費用は二百ウン十万円と高額、補助金はその一割というところ。政府が本気で太陽光発電を全世帯の 20%に普及させようと思っているならそれに京都議定書の世界公約に責任を持つもりとしたら、やっぱり安い!!。 その代わり政府は太陽光発電の余った分の電力を電力会社に今までの2倍で買い取らせると決めた。でも電力会社の負担分は 電力料金に上乗せされるという。どう考えてもずるい!!。こんな時こそ電力特別会計を転用すべきと思うのだが。
逐電には別の装置がいる様だ。僕は余った太陽光発電の蓄電を想像していたが今日受けた説明から推察するとそれは間違いで 安い夜間電力料金で蓄電というのが金銭的には正しい様だ。僕がこれほど蓄電に関心を示すのは、僕が人工呼吸器を 着けていて停電が怖いから。太陽光発電システムを設置すれば昼間嫁さんが出かけていても停電の恐怖から開放される。 でも本当に怖いのは真夜中の停電、夜中みんなが寝静まった時に停電してみんながそれにいつまでも気付いてくれないなら、 考えだけで恐ろしいなあ。
親父にはこれまでもお風呂の大幅な改造や僕の部屋の増築など多大な費用の支出を強いてきた。今まで親父が守り築いてきた 家や田んぼ山を守っていけなくて親父の期待を裏切った僕がなおも大きなお金を使わせてきたとは、僕は両親にも申し訳ない 気持ちでいっぱいだ。その上今回太陽光発電システムの費用まで甘える訳にはいかないと思っている。それに太陽光発電は 僕も着けたいと思っていたからせめて半分ぐらいは負担したいものだ。しかし僕が今動かせるお金はほとんどない。 半年ぐらい待って欲しいなあ。

6月5-9日 通院すぐさま入院
今日は通院日訪問看護師さんに自動車の助手席に移乗してもらうと庭先の花に混じってツツジの花がチラホラ、?と首を かしげた。病院に向かう車窓からは水を張った田んぼがチラホラと、それにあちこちの家の庭には紫陽花が咲き始めていて これこそ梅雨のはしりって感じ。それなのに病院に入ったら庭いっぱいのツツジ、改めてまた梅雨に入っているのに何でって 感じた。
病院に着いた時嫁さんは「目まいがするし気分も悪い。」と言い出し頭を押さえていた。そしていつもは自動車を駐車場に 置くとすぐに救急処置室に入ってくるのに今日は僕の主治医の処置が終わっても入ってこなかった。嫁さんは最初は待合室で 休んでいたらしいが今は隣で診察を受けているという。それを受けて僕の主治医が「奥さん具合が悪そうだから2-3日 入院していきませんか?。」と言って否応無しに入院出来る病室を探してくださっていた。最初は事の成り行きに 面食らっていた僕もしょうがないと納得。ところが主治医もすぐに「奥さんも入院される事になりました。二人とも 入院ですね。」と言い直す事に。その後嫁さんの主治医から「(奥様は)目まいだけでなく嘔吐もされてます。月曜まで様子を 見ましょう。」と言いに来てくださった。それからは今日の通院に同行してくれていた訪問看護師さんを呼んでもらって 家にいるお袋に連絡してもらったりと善後策を頼んだ。それからしばらくして病室へ移動した。
この病棟は去年の夏以来、それでも僕独特のベッドメイクや(足でオーバーテーブルの底に貼り付けたスイッチを蹴って ならす)ナースコールの設定など忘れないでいてくれてやってもらっていた、まあこの日の病室の受け持ち看護師がたまたま Nさんだったからかも!?。そして親父やお袋が僕や嫁さんに会いに来たり訪問看護ステーションのみんなが二度三度と来て 僕に確認しながら入院グッズを揃えてくれて、僕らの突然の入院生活が始まった。
ところが翌日の昼過ぎ嫁さんが僕の所に来てこれから退院して帰るという。嫁さんの主治医から月曜までは様子を見るために 入院と聞いていた僕は訳が分からないどうして退院なのという顔をしたのだが、嫁さんは僕のその時の顔を自分のせいで 入院させられて不満顔をしてると受け取ったと後日知った。
土曜日嫁さんが退院して行く時に訪問看護と調整して「火曜の10時に迎えに来る。」と言っていたが、いつもの様に少し遅れて 10時半過ぎに訪問看護師さんたちがしばらくして嫁さんが顔を出したのだが、その時嫁さんの顔には精彩はなかった。まあ 僕が退院する時にはいつもこんな顔をしていた様に僕には見えていたのでその時点では別段気にはならなかったが、退院の 準備が終わって移動する時になっても嫁さんは顔を見せないし連絡も取れない取れないという声が聞こえてきたので気に なり出した。その後「玄関で待っている」と連絡が取れたので急いで玄関に移動した。そこで嫁さんを見ると悪びれている 様子がない、それで僕は帰って気になってきた。それからみんなで家の自動車の助手席に移乗してもらいみんなに見送られ ながら病院を後にした。
家に帰る時車窓から田んぼを見ると多くの田んぼに水が張られ始めていた、田植えももうすぐということか。一方嫁さんに 目を移すと止まる度にあくびの連続、この三日間嫁さんは何をしていたのかと疑問視。家に着くとすぐに 訪問看護師さんたちにベッドに移乗してもらう。人工呼吸器の設置などベッド周りの整理・僕の着替えが終わり 訪問看護師さんたちが帰った後嫁さんは「しばらく横になるね。」と言って僕の部屋から離れて言った。僕の頭の中に再び 嫁さんは三日間本当にゆっくりしていたのかという疑問視する声が浮かんできた。嫁さんはあの性格だから家に帰ったら せくせくと動き回って早く寝る事などあるまい、だからこそ嫁さんや僕の主治医の好意に甘えて月曜まで 病院いるべきだったというのが僕の想いだった。
夜寝る前になって僕と嫁さんの想いがついにぶつかった。嫁さんは僕の疑問視する顔をあろう事か不満顔ととらえていた。 それで「土曜日に退院する時も不機嫌な顔だったけど、私が具合が悪くなって入院したから自分が入院する羽目になったと 思っているのでしょ。」と追及を受けた。それに対し僕は「(嫁さんの)主治医からも月曜まで様子を見ると聞いていたのに どうして土曜に退院したんだ。僕の主治医も(嫁さんの主治医も)二人とも(嫁さんの)介護疲れを考慮して月曜日までは入院と 言ってくれたのにどうして二人の好意を無視して退院したんだ」と反論。それに対し嫁さんは「土曜の朝には目まいも吐き気も 治まった。それに食事も摂れる様になったから看護師に「点滴は外してもいい。」と言われた。後の治療は飲み薬だけ。 それなら病院にいる意味がないか看護師に「家に帰っていい?。」って聞いたら「どちらでも(いい)。」って。だから 退院した。」との答えが返ってきた。その看護師さんはおそらく僕の家の事情を知らなかったから嫁さんに言われて 「どちらでも」と答えたのだろう。それにしても医師から月曜まで様子を見ると言われているのに薬の服用だけに なったからって「退院していい」と普通聞くか?、流石嫁さんは元看護婦。これ以上話し合ってもあとは平行線になるのは 分かっているから「もういい」と切り上げた。それに対し嫁さんは「いつもそうやって逃げる!。」って・・・・・。
今日言い合っていて気付いたのは、嫁さんは自分は病院は行くのも入院するのも本当に嫌いなんだって事。だから子供たちが 具合が悪そうならすぐ病院に連れて行くのに自分は少々具合が悪くてもよほど辛くならない限り病院には行かないのか!。 医者の不養生ってのはよく聞くが、元看護婦も同じなんだなあ!。

6月4日 ソフトバンクホークス、セ・パ交流戦快進撃
プロ野球セ・パ交流戦が始まってからソフトバンクホークスの快進撃が続いている。前半戦12試合が終わった時点の戦績は 10勝1敗1分、あと残りの後半戦を五分の星で行っても交流戦2位の広島カープが9勝(3敗)しなければ交流戦の優勝は 2年連続でいただきだ。そしてその可能性は極めて高い。
この快進撃は5月のゴールデンウイーク明けにオーティズが加入した事から始まった。それまでのホークスは故障者も多く出て 満足な打線が組めずに五割直前の壁に何度も跳ね返されてきた。オーティズがそれを変えてくれた。オーティズが加入した事で 打撃もようやく線になった。田村・村松の復帰で打線の厚みも増した。
けれどここにきて懸念事項も出てきた。ローテーションピッチャーの和田と大隣が戦列を離れた。これでは五割も難しいかも。 二人の代わりに下から上がってきて欲しいがそれは大場と巽?、神内の先発転向も選択肢の一つだが故障の再発が心配か。 二年目の大場はこれから去年の大隣の様な活躍をしてもらわないと困る。それにしてもペナントレースを勝ち抜くためには 和田と大隣の復帰はもちろんのこと、新垣と大エース斉藤の復活が不可欠。和巳はオールスター明けには復帰して欲しいが 今どこでどうしているのか?。

6月2日 天山までドライブ
ひと月ほど前の事だが訪問看護ステーションの所長さんに「6月の初めに天山に行きたい」と訴えた。所長さんは 「検討します。」と言ってはくれたがかなり難しい顔をしたしその後僕の体調も一向に上向く気配すらないのでとうに 諦めていた。ところが昨日の夕方突然電話がかかってきて「明日天山に行きましょう。明日を逃すと都合が付きそうにないし もうすぐ梅雨にも入りそう。」との事。僕は体調に不安を残しながらも・・・・・、嫁さんに強く勧められるままにOKした。
そして今日10時半過ぎに訪問看護師さん2人が来て入念に外出準備を済ませてから11時頃に家を出た。天山へ向かうコースは ナビゲーションに設定してあるとの事、見ると僕の描いていたコースとちょっと違う様だがそれは良い。それより驚いた事は 僕の記憶にない二画面の表示がナビゲーションに出ているではないか。会社を離れる前の4年以上をナビゲーションに かかわっていた僕がこんな面白くて役に立ちそうな画面が乗せてある事を記憶にないなんて、本当に情けない話だ。
天山に向かうコースは自動車の中でみんなとの話し合いで決め桃ン川-大川野-佐里-相知-厳木の順で向かう事にした。 このコースはおそらく30年前免許取立ての頃親父の軽トラックを借りてあちこちをドライブしていた時に天山からの戻り道に 利用したコースだ(どこから天山へ向かったかは覚えていないが多分七山-古湯経由だろう)。周りの景色は随分 変わってしまっていたが大川野と佐里の間の松浦川沿いの崖の岩肌だけは見覚えがあった。それに厳木から天山へ登る道も 大変していた。僕の記憶の中の天山からの道はどうしようもないくらいの山道でそんな中で集落が見えた時には何故にこんな 山中に人が住んでいるのかと大驚きしたものだったのに。おそらく僕が天山に行ったのは厳木ダムも天山ダムもできる前か 厳木ダムが作られる直前だったのかもしれない、大型ダンプがうろうろしていたような気がする。厳木から天山へ向かう 途中の標識に作礼山の文字が見えた。三瀬から七山・作礼山・唐津方面にかけての山道を社会人になってから同期のMと クイズラリーに参加して色々と走り回った。Mが運転手で僕がナビゲーター、もう二十数年前の事だ。あの頃は病気知らずの 元気者で楽しかった。
12時半少し
前天山登山口の駐車場に到着、この駐車場から天山山頂までは5-600mの距離だろう。僕はこの駐車場から 天山の山頂が見える位置および方向に自動車を止めてもらった。山頂付近には思ったほど木々は無く背丈の低い緑の絨毯? (熊笹かな)が生い茂っていた。確かにこの風景ならミヤマキリシマも生えているかもしれない。僕は最近まで ミヤマキリシマは九重と阿蘇にしか自生していないと思っていた。だから天山にも生えていると聞いた時には大いに驚いた。 けれどこの駐車場から見る限りはミヤマキリシマの花が咲いている様には見えなかった。
駐車場には4-5台の自動車が止まっていた。みんな天山山頂へのトレッキングを楽しんでいるのだろう。そこで「天山は 初めて。」と言う訪問看護師さんたちに山頂まで登ってくる様に勧めたが僕の面倒を見なければという責任からか2人とも 固辞した。それでも話し合いの結果嫁さんと所長さんが行く事になった。その後登って行った嫁さんだちと入れ替わる様に 2-3人のお年寄りが降りて来たがみんな満足そうな様子をしていた。
ところがしばらくして所長さんが「(嫁さんの)歩くペースについていけなかった。」と言って戻って来た、一人で僕の世話を するために残っていたFさんに申し訳ないという気持ちがあったのだろう。山頂の方を見上げていると嫁さんが登っていく 姿が見とめられた。元気に登って行く嫁さんの姿を眺めていると羨ましく思えた。
嫁さんを待っている間訪問看護師さんが助手席にいた僕のために窓やドアを開けてくれていたのだが、そこから心地良い風 (このところ病弱?な僕には顔や下半身では心地良く感じても方から胸にかけては肌寒いと感じてしまう)が吹いてきたりして またあちらこちらからは「ほーほけきょ、けきょけきょ」や「かっこう、かっこう」と野鳥の声が聞こえたりして、これぞ 山という感じ小一時間分後嫁さんが戻って来た、登り降りしながらデジカメで様子をビデオに収めてきてくれたという。
ここで訪問看護師さんが「車椅子で下りて(そこいらを)行ってみませんか?。」と声をかけてくれた。最初はこのところの 体調の良くなさ(と自分で感じている)を考えて固辞していたが、思い切って下りてみる事にした。久し振りに日差しを 浴びてみると・・・・・、ジリジリと心地良い。この感じ一年振りだ、やっぱり太陽は気持ち良い、忘れかけていた感覚が よみがえって来た。
記念碑や案内板好きの僕は早速駐車場の案内板の所へ連れて行ってもらった。この案内板によると兼務の戦いで足利氏に京で 敗れた阿蘇某(なにがし)がこの地天川に逃れて来て熊本の菊池氏の後ろ盾を得て再度挙兵したという。けれど孤立無援になり また幕府軍に敗れて「阿蘇山が見える所に葬ってくれ」との遺言と辞世の詩を残し旅立ったとの事。ここにある碑がその時の 詩であり天山山頂には阿蘇某のなきがらが葬られているとの事だった。だけど個人的にはこの話まゆつばと思う。なぜって 阿蘇某がここに逃れてきた理由が見えない、逃れていくなら肥後の国だろうしこの地で後ろ盾を請うなら松浦党だろうから。 その次に天山の周りの案内板を見に連れて行ってもらった。そこには天山スキー場(ハイランドビュッへ)や懐かしの 見返りの滝・小城(鯉の洗いに鯉こく)・古湯温泉などの文字があった。どこもかしこもそれぞれに思い出があった。
天山の駐車場の日の下でしばらく散歩し写真なんかに写った後、天山ダムに向かった。天山ダムは駐車場のすぐ側、自動車で ほんの4-5分の所にあった。ナビゲーションの画面で天山ダムの形状を見るとえらく人工的な形に見えた。駐車場から対面の 壁面を眺めるとコンクリートブロックの壁、普通は山の斜面をそのまま利用するのに、そこにも人工的な臭いを感じた。 それに天山ダムの大きさ・形状から考えてもこのダムが自炊目的で造られたとは到底思えない。このダムがどれほどの高さが あるのかは分からないがおそらく発電目的で造られたのだろう。そういえば厳木発電所から天山に向かう途中の道の上方に 太さが1mはあろうかという丸い管が渡っていたがもしかしてあれはこの天山ダムから厳木発電所に水を通すための 地下配管かもしれない、そんなことを考えながらしばらくこの天山ダムを見ていた。
次に天山スキー場へと向かった。天山スキー場へは今までに2回ほど来た事がある。1度目は天山スキー場ができて まもなくの頃、会社の先輩のNさんと天山スキー場とはどんなものか・どういう滑りなら出来る所かを確かめに来た。 その時天山スキー場は第1リフトしか動いてなくて(もしかしたら上の上級者用ゲレンデはまだ調整中だったのかもしれない) 雪は人口降雪機で作ったザラメ状で下の方はベチャベチャ、それなのに人は割りと多くてゴチャゴチャしてる。こんな ゲレンデでは満足する滑りは出来ないと思って数回滑っただけで帰った。
2回目は十数年前の夏に家族で来た。ビュッヘに入ると2-3組の家族が綺麗に澄んだプールで楽しそうに泳いでいるのが 見えた。この時は水着なんて持ってきていなかったから泳げなかったがこんな所で家族で静かに過ごす夏も良いな、 また来ようと思った。
天山ハイランドビュッヘに着く少し手前にラベンダー園ができていて駐車場に数台の自動車が止まっていた。車の中から 眺めると紫色したラベンダーが十数列並んでいた。僕はこんな風に列に分けないで一面をラベンダーで埋め尽くしその間に 数本通路を作った方が綺麗だろうなと個人的には思うのだがそう出来ない事情があるのだろう。車の中で「これなら深川の ラベンダー園の方が良いね。」と嫁さんと訪問看護師さんが話している声が聞こえてきた。確かに深川陶磁器の ラベンダー園の方が規模も大きいし勾配のある斜面に植えてあって見栄えも良い。ここも規模を十数倍に拡大して 盛り土でもして緩やかな傾斜を作り見栄えを良くすればもっと人も集められる観光スポットに出来るだろうに、やる気さえ あれば周りにはいっぱい土地はあるのだから。
天山ハイランドビュッへは残念ながら休館中で駐車場にも入れずハイランドビュッヘにも近付けなかった。それでしばらく 雪もないゲレンデとビュッヘを眺めて諦めて帰る事にした。
帰りは行く時通った道とは別の道で帰る事にした。県道に入るT字路で右へ行けば古湯温泉・左には曲がれば厳木へ戻るという この交差点で本当は古湯・川上侠経由で昔遊びに来た時の事などを思い出しながら帰りたいと言いたかったのだが、時間も 3時を過ぎていたのでさすがに言い出せなかった。
帰りは厳木ダムの東側の道を通りダムの堤防?の上の道の真ん中で一休み、ここで嫁さんが「このダムはとても高いのよ。 下を覗いてみて。」と訪問看護師さんに提案、みんなで見に行った。僕は「高いぃ」「すごいぃ」などの感嘆符の付く声を 聞きながらひとりダムに貯えられた碧い水や湖岸の景色を眺めていた。厳木からは嫁さんは大川野に抜ける山越えの道を 選んだ、僕もこの道を行って欲しいと思っていたので以心伝心といったところか。ところがこの道昔通っていた頃は山に 入った途端細くて薄暗くちょっと気味が悪いかと思う様な道で返ってそれが僕にとっては面白かったのだが、今は拡幅工事が 進められていて面白味のない道に変わっていた。まあこの地域にとってはそれで良いのだろう。でもこの道1日に何台の 自動車が通るのかな、昔も今回も山道に入ってから自動車とすれ違った覚えがないのだが。
その後嫁さんは松浦の町中経由で伊万里の市街地に入った。十数年振りに松浦の町中を通ったが情景がかなり変わっていて 高校の同級生の実家がやっていた病院も更地になっていた。市街地の手前で装具を着けている足の指の裏が痛くて 堪らなくなったので自動車を止めてもらって訪問看護師さんに装具を外してもらった、天山登り口の駐車場を出る時 訪問看護師さんが「足の装具を外しておきましょうか?。」と言ってくれたのに「大丈夫!」と返した手前何とか家までは 我慢しようと思っていたのだが。午後4時過ぎ家に着きすぐベッドに移乗してもらい人心地、でも朝不安を感じていた割には (5時間という僕にとっとは長旅でも)疲れも痛みも少なかった。やっぱりほんの15分あまりでも太陽の下で日差しを 浴びさせてもらったお陰かなあ。これからも時々外に出て太陽の光を浴びたいという気になった、そうすれば少しは体力が 回復するのかなあ。
天山までドライブに連れて来てくれた嫁さんそれに訪問看護ステーションの皆さん本当にありがとうございました。本当に 久し振りに山の空気・情景を肌で感じる事ができて、心も身体も少しリフレッシュ出来た様な気がします。


[2009年の先頭に戻る]



5月
5月31日 小学校の運動会
今日は下の息子の通う小学校の運動会、朝息子が隣の部屋で準備している気配がしたので「がんばってこいよ」と声をかけようと 息子を詠んだら僕の部屋を覗いただけで文字盤を使わずに「運動会がんばれってね、分かった。」と声を返して出かけていった。
ところが嫁さんはばたばたと忙しそうにしているが僕の朝の経管栄養が終わっても出かけようとしない。今日田植えをすると 親父から聞いていたのでお袋が田植えの手伝いから戻ってくるのを待っているのだろうと思って恐る恐る「お袋は(まだ)?」と 聞くと、「前の畑でしょ。」と。それなら早く行けよと思うのだが掃除・洗濯・後片付けと一通り終わらせないと出かけきれない 性分なのだ、まあそれが嫁さんの良いところでもあるのだがこんな時ぐらいは何もかも放っぽり出して行けば良いと思う。 11時を過ぎた頃嫁さんの出かける気配がようやくした。僕は息子が誰も来ないと寂しがってはいないか・弁当が来ないと 心配しているのではないかと思うと胃がキリキリ痛んだ。
午後4時過ぎ息子が帰って来たので「どうだった?」と聞くと「ダメ、ビリだった。おいの(走る)組は足の速いのが多いもん。」 との返事。まあ運動会が楽しく思えたのならそれでいいか。それにしてもこの息子は基礎体力はあるから努力しだいで ある程度は速くなるはずなのだが。
それから息子は地区の「(運動会お疲れさん)カレー会へ出かけて行った。僕らが小学生の頃は運動会の後に部落(今は地区と いう言い方に変わった)のカレー会なんてなかった。何だかんだといってもみんなで行った行事の後にそういう楽しい 集まりがあるのは羨ましい。

5月29日 『疑わしきは罰せず』は知っていたけれど
僕は数年前から佐賀県選出の衆議院議員原口一博氏のメールマガジンの配信を受け取るように設定しているのだが、2009年47号 (2009年5月30日)のメールマガジン『鳩山新代表〜党首討論を振り返って』の中でこんな事が記述されていた。
党首討論での麻生首相の発言について、『首相が「罪を犯す意思がない行為でも逮捕される」と公言する国』と題する、 名城大学コンプライアンスセンターの郷原センター長のコメントが秀逸です。
ためしに指定されているURLを覗いてみると、
刑法38条1項に「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。」と規定され、犯意が存在することが刑事処罰の 大原則であることは、刑法の基本中の基本である。検察庁を含む行政組織全体のトップである麻生首相が、その基本原則に 反する発言をしたのだ。
との記述があった。『疑わしきは罰せず』という事は知っていたが刑法の中にこのような条文があったとは驚きだった。
どうりで政治資金収支報告書で不備を指摘された政治家たちが「訂正しました(からいいでしょ)。」で済ませるはずだ。僕は 長年この問題で「訂正した」だけでなぜ済むのかと思っていたがこんな法的根拠があったとは!。
でも党首討論で展開された「犯意がなくても客観的に誤っていたら逮捕される」という麻生総理の発言に基づくと 政治資金収支報告書を誤っていたから訂正した政治家たちはどうして逮捕されないのか!。同様に西松建設がらみでダミーの 政治団体からパーティ券を買って貰っていた二階氏や献金を受けていた尾身氏や森氏ら複数の自民党国会議員の 会計責任者はどうして逮捕されないのか!。検察がダミーだったと認定したのなら麻生総理のこの発言通りなら本人の認識 如何にかかわらず逮捕するだろうに、矛盾を感じる。麻生総理に説明して欲しいものだ。
また新聞各紙はこの問題を全く取り上げなかったとの事、取り上げた上で僕の感じているこれらの矛盾点も併せて 追求すべきと思うのだが不可解な事もあるものだ。やはり新聞各紙も最後は現政権寄りになるのかなあ。

5月28日 草なぎ剛 芸能活動再開会見
今日午後5時からのニュース番組の中で草なぎ剛の芸能活動再開の会見を見た。会見の中の草なぎは芸能活動を再開出来る事が 本当に嬉しそうだった。また草なぎは今回自分がしでかした事を深く反省している様に僕の目に映ったし草なぎの人柄が 出ていて良い会見だったと僕は思った。
そもそも今回の出来事は警視庁(のほんの一部)が見せしめのためあるいは目立つための行動ではなかったのかと僕は 疑っている。逮捕までは納得出来る、けれども逮捕した人物がこれほどの有名人でなかったとしたらもしも一般人だったら 警察は果たして同じ様な行動を取っただろうか!。おそらく一夜留置場に泊めて厳重注意の上で返したのではないか、検察に 送検の判断を仰ぐまではしなかったのではなかろうかと僕は思う。草なぎに常習性があったのなら話は別だが。
ともかく草なぎ剛には今回の事件の反省をバネにしてより高みを目指して欲しい。
余談だが僕がSMAPを知ったのは20年ほど前の事、勤めていた会社との関係でデビュー前のSMAPのイベントにさくらとして 参加した。会場はダイエー香椎店の特設広場、SMAPはデビュー前にもかかわらず首都圏では若い娘にかなり人気が あったらしいがその人気は福岡まではまだ波及していなかった。会場の人はほんとにまばら、そんな中でもSMAPの面々は 懸命に歌って踊っていた。そんな一生懸命でひたむきな姿には感心させられた。当時のSMAPのメンバーはまだ16-4のガキで その歌もまだ聞くに堪えない様なものだったと記憶している。あれから20年余り、SMAPも国民に愛されているグループに なった。昔ちょっとだけだが係わり合いのあった者としては今の様な活躍をしてくれている事はやはり嬉しいものだ。

5月27日 党首討論
今日の午後3時過ぎ国会で久々の党首討論が開かれた。喧嘩腰の麻生総理に対して『友愛』という何ともこそばゆい様な言葉を 展開する民主党の鳩山代表の討論を国民はどう見たのだろうか!?。
政府自民党の立てた今回の補正予算は野党や一部マスコミが主張している様に最初にGDPの2%=14兆円という金額 ありきだったのは間違いないだろう。世界各国が協調してこの世界不況という難局に対応しようと決めたのなら最初から 金額ありきの予算になってもかまわないと思う。しかし国の借金になる国債を発行してまで今すべき予算の内容に なっているかというとどうもそうではないらしい。今回の討論で鳩山代表が指摘した内容でも無駄遣いではないかといえる 一端が見えてきた。こんな討論ならもっと頻繁に党首討論を行った方が良いのではないか。それにしても討論のテーマが 広い割に討論のは時間が短過ぎる。45分という時間を限るのなら党首討論におけるテーマを一つに絞って実施する方がより 有用な討論が出来て良いと思う。その上で月に2回以上の党首討論を行えば議論も内容も深まるだろう。
それにしても霞ヶ関の無駄遣い体質を改めさせるには一度民主党に政権を任せてみるしかない。民主中心の政権が 出来たとしても世の中が良くなるという保証はどこにもないが、少なくとも予算の配分のウエイト付けは変わるだろうし 霞ヶ関の無駄使いは目に見えて改善されるだろう。8月下旬(おそらく)の衆議院選挙では日本の政治を変えるためにも 民主党に何とか衆議院第一党になって欲しいものだ。

5月26日 何もする気が・・・・・
もう5月も終わろうとしているのに(まあベッドの上から離れる事すら出来ない今の僕には何月であろうと関係はないのだが) 何もする気が起きない、このところ体調が優れなくて気分が一向に高揚しないいわゆる憂鬱な気分の中で一日一日を 過ごしているからだろうが。こんな落ち込んだ気分の時は言葉も浮かんでこないしかりに浮かんできたとしても 暗い言葉ばかり。
こんな時はパソコンの中に折角取り込んでいる将棋や囲碁でもやれば良いのだが僕は大局を見なければいけないゲームは 好きくないときてる。僕に出来るのは五並べや挟み将棋がせいぜいだった。でもまあこの際だからやってみるか。

5月○○日 上の息子の誕生日
今日は上の息子の13回目のbirthday、朝「行ってきます。」と挨拶に来た息子に文字盤で「誕生日おめでとう」と伝えると素直に 「ありがとう。」と言葉を返して出かけていった。最近の体調の悪さじゃあ来年は同じ様に声をかけられるか!?。 「誕生日のプレゼント何がいい?」とも聞きたかったが今の僕自身の経済状況?ではとてもととも・・・・・。プレゼントはいつも通り 大蔵省(嫁さん)に任せる事にしよう。

5月22日 通院日
今日は通院日のはずなのだが昨日から妙にどっちだったかなという気がしていてあまりにも自信がなかった。病院には 長年通っているがこんな事は初めて、とうとう僕は頭が退化し始めた様だ。
外に出ると庭に色とりどりの花が見え病院に向かう途中の田んぼには黄色や山吹色に輝く麦の穂が見えた。世の中は確実に 初夏が近付いている。だのに僕は今も寒くて堪らない・・・・・。
病院に着いて診察が始まると主治医からまず「ルームマーチDXは買うのですか?。」の質問が、実は2-3日前ホームページで 主治医に「今通販で紹介されているルームマーチDXをどう思いますか?。」と質問したのだ。その時の回答ではあまり賛同は してはいないと感じたが今日の様子なら否定もしてはいない様だ。僕自身は購入して試してみたいのだが残念ながら我が家の 大蔵省からは「安物買いの銭失い」になるのではと決済は下りていない。
病院からの帰りに「(明後日行われる車椅子マラソンの)コースを見たい」と頼んだ。我が町で行われる セラミックロード車椅子マラソン大会のコースが今年から変わったと聞いて通っておきたくなったのだ。今年は卸団地の方も 通るそうだがコースには旗が立てられているとの事だから行ってみればすぐ分かると思っていたが立てられた旗がまばらで よく分からなかった。以前の競技用車椅子のコースは折り返しコースで10kmと競技用としては少し短かったが今年卸団地の 方まで行くとしたら競技用コースとしてそれなりに長さとなる。しかも高低差7m?(もしかしたら10m以上?)の急勾配付に 変わったから全国で行われる車椅子マラソン大会の中でも中でも難コースの一つとして数えられる様になるだろう。嫁さんと 訪問看護師さんは片道コースと話していたがそんな事はあるまい、だってもし片道だとしたら競技を終えた選手と 競技用車椅子をどうやって出発地点まで運んであげるというのか!。出来る事ならば僕も当日現地へ赴き選手のみんなの パワーを分けて欲しいのだが。

5月19日 新型インフルエンザ拡大の一途
先週末に渡航暦のない人への新型インフルエンザ感染確定の報道がなされたばかりなのに今朝はもう160人超と、 新型インフルエンザは拡大の一途を辿っている。今はまだ兵庫・大阪の一部の地区だが鉄道網などの交通網を通して 関西一円果ては全国へと広がるだろう。
僕も今から13-4年前の事だが仕事で三年間関西に通いJRや各私鉄を利用していたから分かるのだが、駅や鉄道網での あの込み具合から見ても今感染を確認された人たちが朝夕のラッシュアワーの時間帯に鉄道網という閉鎖された空間を 利用していたとしたら他の乗客にも新型インフルエンザが広がっていると考える方が自然だろう。そうなると神戸からは東は 大阪市内から京都・滋賀・奈良へと広がっていくだろうし西は姫路へ広がるだろう。茨城・枚方からも大阪市内や京都へ 広がるだろう。
今回神戸発祥のルートは解明されていない。もしかしたら4月下旬に空港で検疫が実施される以前に入ってきていたか 空港での検疫を潜り抜けた人と接触していたか、いずれにしても今政府が策定している方法では毒性の強い 鳥インフルエンザが他の国で起こった場合一定の効果しか挙げられない事が判明した。政府は今回の新型インフルエンザ 封じ込め対策を急ぐとともに今回の反省を踏まえて鳥インフルエンザ対策を策定しなおすべきであろう。
さて難病を抱える我々は社会機能が麻痺して訪問看護・介護が受けられなった場合どうすればいいのか?。病院に 非難するにしてもかえって危ないだろうし病院の方もインフルエンザ患者を大量に抱える可能性があいるとしたら 受け入れるどころじゃないだろう。

5月18日 中学校の体育祭
昨日上の息子の通う中学校の体育祭が行われるはずだったのだが天気予報通り朝からの嵐で順延、息子は弁当を持って 学校に授業を受けに行った。代休があるとはいえ日曜に授業とは息子たちが何だかかわいそう。
今日は朝から晴天絶好の体育祭日和、朝出かけていく息子に「がんばれ」と声をかけると「がんばる!。初めてでちょっと 緊張するけど。」とガッツポーズ。そこまで緊張する必要はないのだが何事にも懸命に成れる息子が羨ましいやら 頼もしいやら、ちょいと気真面目に考え過ぎる帰来もあるが・・・・・。この血筋は嫁さんから受け継いだのだろう。
観戦から戻ってきた嫁さんに「どうだった?」と体育祭の感想を聞くと「今年の騎馬戦は迫力があった。」と言い「ビデオに 撮ってきたから後で見たら。」と付け加えた。その後学校から戻ってきた息子にも「どうだった?」と尋ねるとゴモゴモとよく 聞き取れない、地区成績はもう一つだった様だ。「個人は?」と聞くと「(選抜の200mは)5位、きつかった。」と、今は小学校の 高学年でも100mしか走らせないからペース配分が分からないのだろう。
それにしても僕は自分の中学時代の体育祭の事はちっとも覚えていない、高校時代はもう冷めていたがあの頃の僕なら 息子と同じ様に懸命にやったはずなのだが。

5月16日 民主党党首鳩山由紀夫氏に決まる
今日の午後2時過ぎ民主党の党首に鳩山由紀夫氏が決まったとのテロップが流れた。国会議員だけの投票で29票という 大差をつけて選ばれた訳だがこれをどう見るべきか。
テレビ局の町の人へのアンケート調査では岡田氏が2倍ほどの人気・民主党の衆議院議員では岡田氏有利・参議院議員では 鳩山氏有利だがまだ半分は態度を決めかねているとの事前の報道だったので、僕はある程度拮抗すると思っていたのだが。 この結果を受けて民主党が一枚岩になれるかでこれからの民主党の真価が問われる事になる。もし民主党議員の中に マスコミを通じて不満を漏らす様な議員が現れたら鳩山氏の手腕を疑問視する声が現れまた鳩山カラーを打ち出せなかったら マスコミは小沢一郎の傀儡と報じるだろう。とにかくマスコミは小沢一郎のダーティなイメージと 結び付けたいのだから。
政治の世界はこれからますます衆議院選挙モードに突入する。税金の無駄遣いを許してでも今まで同様の安定を求めるのか 不安は大きくとも変革の可能性を信じて政権交代に書けるのか我々も国民として試されている。

5月15日 ホタル
夜8時過ぎ嫁さんが突然僕の部屋へ入って来て唐突に灯りを消した。僕は向こうでまた何かあったのかとドキッとした。
嫁さんは「ホタル。」と言って自分の胸から手を離した。見ると嫁さんのエプロンの胸のところにホタルが止まっていて淡い きみどりの灯りを照らしていた。それから下の息子も呼んでしばしホタル観賞。嫁さんによると「(家の横に通っている 生活用水用の)小溝にU字溝を敷き詰めていたから今年はホタルはもう(家の周りでは)飛ばないと思っていた。」と。僕が 子供の頃は家の周りがまだ田んぼに囲まれていた事もあって梅雨の時期になると家の中までホタルが飛び込んできていた。 ところが二十数年前の農地改良で情景が一変した。小川や溝がU字溝やコンクリートで固められて小川の生き物が 棲めないところになった。あの頃の時勢とはいえ効率ばかりを追及していた行政の行いは今考えても悲しい事だと思えてくる。 住民の努力でホタルは十年ぐらいして家の近くにも戻ってきた様だがメダカなどの小川の小魚は棲めるところがなくなって いなくなった。
息子も言っていたが今年はホタルが出るのが早い、というより年々早くなってきている様だ。僕が子供の頃は田植えが 終わった後水を張ってある田んぼの苗の間をホタルが舞っていた気がする、これも地球温暖化の影響か!。
僕が自然の中で飛んでいるホタルを最後に見たのは気管切開する前だからもう7-8年も前になる。子供たちと一緒に嫁さんの 運転する自動車に乗って嫁さんの実家から少し離れた山の中の小川にホタルを見に行った。そこにはたくさんのホタルが 灯りをともしながらいたるところに飛んでいた。出来る事ならば自然の中で乱舞するホタルたちを もう一度見たいものだ。

5月13日 相変わらず寒い
世の中は初夏に近付いてきて日に日に暑くなっいるっていうのに僕は相変わらず「寒い、寒い」を連発している。僕は今でも いつも毛布と布団またはバスタオルをかけて寝ているのだが、背中や腕には汗をかいていても肩や首・肺から冷えてきて 身体がとっても寒いと感じてくる。現にちょっとでも油断しているとすぐに鼻詰まりになりくしゃみまで出てきてしまう。 いったい僕の身体はどうなってしまったのか、これからどうなってゆくのか、どういう対策をすればいいのか、自分では 一向に分からない。
いろいろと試行錯誤してはいるが結果が伴ってこない。まったく情けない身体になったと嘆くしかない。こんな事では僕の 寿命も先が見えている。ま、それも運命!。

5月○○日 嫁さんの誕生日
今日は嫁さんの誕生日、けれど僕は何もして上げられない。僕に出来る事といえば感謝の気持ちを言葉として送ることだけ、 かなり照れくさいけれど。それでネットを使ってグリーティングカードを送る事にした。嫁さんには見たらすぐに 削除して欲しい。
夕方学校から帰って来て「ただいま。」と僕の部屋を覗いた上の息子に「今日はお母さんの誕生日だけど何かして あげるのか?」と尋ねると、「みんなでエプロンを送るよ。」と。そして夜部屋に入って来た嫁さんのエプロンがチェック模様に 変わっていた。嫁さんは何も言わなかったがどことなく嬉しそうな感じがした。

5月11日 小沢一郎、民主党党首を辞任
民主党の小沢一郎氏が党首を辞任した、いや辞めさせられた。この数ヶ月の西松事件の一連の報道振りを見ていると予想された 結末と言えるだろう。だが継続的に政権交代を実現出来るリーダーが今の民主党の中にいるのかを民主党議員や有権者・ NHK以外のマスメディアにはよーく考えて欲しいものだ。
確かに次次期参議院選挙までに一度は民主党を中心とした連合政権が樹立される可能性は大いにある。けれど4年という 短い期間で税金の無駄遣いの排除という難題において目に見える形で一定の成果が出せなかったら、自民党の揺さぶりと 切り崩しで4年後には政権が自民連合になりまた元の木阿弥に戻ってしまうだろう。4年という短期間で特別会計の一般会計への 振り替え・公務員の削減や天下りや談合をなくして徹底的に無駄を排除して政治の元でメリハリのあるしかも将来へのつけを 減らしていく国家予算配分を行えるそのために官僚と渡り合って使いこなせるだけの人材政治家が今の民主党では少な過ぎる。 それを補える政治家は小沢一郎氏だけだと僕は思っている。小沢一郎氏なら他党の実力のある議員や財界の人材を 取り込んで官僚を使いこなせる強力な布陣の政府・内閣を作る事が出来るだろう。
それにしても民主党ではいざこれからって時に事が起きそれを好機とばかりに反執行部がいつもマスコミを使って蠢き出す。 その行為がこれから政権交代を真剣に狙っている政党に所属する政治家のする事か、こんな時こそ全員で挙党一致を 強調すべきだと僕は思う。自分の党内のゴタゴタでさえ鎮める事が出来ない政党に日本の舵取りを本当に任せていいのかとの 不安を国民の間に広めるだけだとは思わないのか、党の有力者たるものがそのあたりの事にも思い当たらないのか!。 情けない!。そこのところが自民党と大きく異なるところだ、自民党の場合は党内に不穏な発言が出現してもほとんどの場合 国民に不安が広がる前に揉み消してしまう、そこが自民党の強さだ。
小沢一郎氏も弱腰だ。党の代表として自分が党内を掌握しきれない事を悟った時点で辞任・離党し民主党と統一会派を 組むべきだと僕は思う。そのくらいの覚悟がないと今の民主党の面々には伝わらない。

5月10日 孵化
下の息子が飼っている金魚やヒブナが水草にたくさん卵を産み付けているとの事だったが隣の部屋の方から息子と嫁さんが 話している話を聞いているとその卵が孵化したらしい。そこで下の息子を呼びつけて「孵化したのか?」と尋ねると 「10匹ぐらい生まれた。」との事。どうやら5年生になる下の息子は「孵化」の意味が分かる様だ。
卵と金魚の水槽は分けているとの事だったので孵化した稚魚を見たくて嫁さんや娘経由で「見せて」と伝えてもらったのだが 息子は一向に見せに来てはくれない。夜になって嫁さんにもう一度「(下の息子を)呼んで」と頼むと「何の用?。」と。どうやら 用事がないと僕は子供たちを呼んではいけないのか?。疑問を感じて「何で?」と聞くと「子供たちがいつも呼ばれている 理由を聞くから。」と、なるほど。そこで「稚魚の水槽を見たいから」と告げると嫁さんが稚魚の入った水槽を 持ってきてくれた。見るとよくは分からないが細くて小さい紐?金魚の糞?見たいなものが何匹も泳いでいた。
嫁さんは稚魚が増えすぎる事を案じている様だ。息子は友達に上げたり学校に持っていくと言っている。それでも 余る様だったら川に放すか田植えが終わったら家の田んぼに放せばいい。だって僕が小さい頃は溝にヒブナがいたし 水田にも金魚やヒブナが放されていた。

5月8日 通院日
今日は2週間に1度の通院日、昨日訪問看護師さんに4日ぶりに車椅子に移乗させてもらった時に左ひざに力が入らなくて 腰砕け状態になったから(介助をしてもらっても)もう立てなくなったかと不安を感じていたが無事(ほんの少しの間だが) 立ち上がってからベッドから車椅子・車椅子から自動車の助手席へと移乗出来た、良かった!。もし立てなくなっていたら また自分のこの自由が利かない身体を惨めに思いストレスが増大するところだった。
病院に向かう途中の車窓から見ると街路樹のツツジはもう終わっていた、2週間前はまだチラホラだったのに。その代わり 山々の新緑は今が盛り、あちこちが鮮やかな黄緑色に彩られていて僕の目を楽しませてくれた。帰りに有田ダムを見て 帰ったがダムの水の澄みきった翠と新緑に包まれた山々が相まって僕の心根を少しの間和ませてくれた。
新年度になって僕の担当者が代わった病院の外来の対応も今日はスムーズ、これならストレスを感じる事もない。 またひとつクリア。

5月7日 胃が痛い!?
最近腹が減ると胃が痛くなってくる。ストレス性の胃潰瘍かもしれない。僕は出来るだけ僕の周りで起きている出来事に 関わらない・関心を示さない様にしていたのに。ま、それ以前に僕には情報が入ってこないしそれに嫁さんは僕の無関心を 装っている態度によく小言を言っているが。
出来るだけ無関心に見せている僕にもそれなりにストレスと感じる事がもちろんたくさんあるがそれは僕の心の中に 留めておくべきだろう。まあゴールデンウィークも終わって訪問看護師さんも来てくれる様になったからまあ僕のストレスも ある程度軽減されていくだろう。

5月4日 Internet Explorer 8へのバージョンアップの結末
僕はパソコンは出来るだけアップデートするように心がけている、もちろんWindows Updateも自動設定にしている。
昨日Windows Updateを試みてみたらInternet Explorer 8へのバージョンアップが出てきたので早速インストールを開始した。 そしてすくに再起動してInternet Explorerを開いてみたのだが僕ぐらいのキャリアじゃその違いはまったく分からなかった。 ところがすぐにその違いを思い知らされた。自分のホームページを更新するためにソースを開いてみたらソースの 表示形式がメモからHTMLに変わっていた。ソースがHTML形式なら僕の知識では僕はソースを変更できない。そうなると僕は ホームページも更新できない。何せ僕はメモ形式のソースを作成・変更していくしかホームページを作る方法は 知らないのだから。ホームページや開いたソースのステイタスバーをいろいろ見てみたけど更新する方法を見つける事は できなかった。こうなるとホームページを更新するにはバージョンをもう一度Internet Explorer 7に戻すしかない。 でもどうやって戻すのか・・・・・。
そこで再度Internet Explorer 7をインストールするしかないと思いMicrosoftのサイトで隅々までInternet Explorer 7の アップデイトプログラムを探したのだけど見つからなかった。そこで試しにGoogle検索してみたらあった 『Internet Explorer 7ダウンロード』の項目が。それで早速サイトを開きInternet Explorer 7のプログラムを実行して みたのだがエラー。それはホームページを開いているからだと思いInternet Explorer 7のプログラムを一度保存してから 再度実行してみたがそれでもまたエラー。むむっ、なぜ。それで一歩間違えばホームページが開けないという危険な賭けに なるなと思いながらもInternet Explorerのプログラムを削除してもう一度実行した。それでもまたもやエラー。もう手も 足も出ないと思いながら操作ミスでInternet Explorerを起動したら何とプログラムを削除したはずのホームページが開いた。 訳は分からないがこれで一段落。

5月3日 僕の誕生日
今日は僕の51回目のbirthday、日本中の人が祝日として祝ってくれていると言いたいが僕が生まれる十数年前から 憲法記念日としてお休みって事は周知だ。
この年ともなると誕生日を祝おうとも祝ってもらおうとも思わないが娘から「お父さん、誕生日おめでとう。」と声を かけてもらうとやはり顔がほころんでしまう、「今年で50?・51?になったんだっけ?。」はいただけないが。まあ病気になってからは 織田信長が好んで用いた事で知られている謡(うたい)「人間50年・・・・・」(「幸若舞」、室町時代から流行しはじめた伝統芸能で 演じられる作品「敦盛」の一節との事)を思い出して50年生きたのだからもう許して欲しいななどとも思ってしまう。 こう考えるのはいけないのだろうか?。
今日は憲法記念日、今の憲法が現代の日本という国に十分にマッチしているとは決して思わないが憲法改正をするにしても 日本国憲法の理念象徴天皇制主権在民・戦争放棄・基本的人権の尊重の三つの原則だけは何としても不変に近い形で 堅持して欲しいものである。憲法改正を唱える政治家はどこをどんな風に改正しその結果日本の社会がどう変わるかを 具体的かつ我々が理解出来る言葉で説明すべきであろう。

5月1日 結婚記念日
今日はおそらく僕らの16回目の結婚記念日?、僕は16年前結婚式の準備は嫁さんにまかせっきりで前日の正午過ぎまで 仕事をしていた。僕が身体の異変に首をかしげ始めたのはそれから2年後、その後身体のパーツがだんだん動かしづらくなり 3年後には嫁さんの手助けなしでは日常生活をおくるのも辛くなっていた。結局まともな結婚生活は5年弱、以後嫁さんには 迷惑のかけっぱなしで申し訳なく心苦しく思っている。
それなのにこっ恥ずかしくて感謝の言葉を口にした事もないし記念の日を祝ってあげた事も一度としてない。今となっては 手段も経済的余力もない。だからこの場を借りて『ありがとう』。


[2009年の先頭に戻る]



4月
4月30日 新型インフルエンザ
この数日は新型インフルエンザがトップニュース、世界中に広がりを見せているからいくら水際対策を採っているといってても すぐに新型インフルエンザは日本にも入ってくるだろう。だいたい水際の検疫検査でウイルスの進入阻止が出来るのか、 潜伏期間の人は検疫のウイルス検査で陽性反応が出るのか?。
なんて思っていたらついに「新型インフルエンザを疑われる人が(日本で)発生」の報道が今日流れた。とうとう来たかと思ったが 僕には防ぐ術はない。まあ僕が新型インフルエンザにかかるとしたらこれが日本中に蔓延して僕に接する誰かが僕の元に 持ち込むまたは通院時に感染するぐらいだろうからまだまだ先の事しかもその可能性は極めて低いのだから気にする事も ないのだが、自分自身で防ぐ術がないのが不安を煽る。
この新型インフルエンザの広がり次第で経済も政治も動きが大きく変りそうだからじっくり見ていこう。

4月29日 ゴールデンウィーク始まる
「働けど働けど猶我が生活(くらし)楽にならざり、じっと手を見る」これは誰の和歌だったか?(後でホームページで検索したら 石川啄木作との事)、何となく今の世相を表わしている様な気がしてならない。でも今は「働きたくとも働きたくとも 仕事あたわず、じっと手を見る」と言うべきか!?。
いよいよゴールデンウィークが始まった。中には心ならずも16連休になる人もいるという。僕にとっても好まざる連休が 始まった、訪問看護師さんも誰も来ないそして暇で堪らない日々をどうやって過ごすべきか悩んでしまいそう。ま、 いつもの様にパソコン三昧しか僕には暇つぶしの手段はないけど。Google Earthで世界旅行でも楽しむとするか。
でも今回のゴールデンウィークは入浴車が来てくれる日が2回も入っているからいつものゴールデンウィークに比べて随分 ましだけど。連休が続くとリハビリも車椅子に座る事もなくてしばらくは動かす事も立つ事もしなくなってしまうから身体が もっと固まってしまいそうで怖いなあ。

4月27日 体調不良!?
このところ日日や朝昼晩の気温の変化が大きくて身体が上手くついていかない。まったく情けない身体だ。自分でも 恨めしくなる。
肩を掛け物から少しでも出していると身体が肩から冷えてきてすぐにくしゃみや鼻水が出てきてしまう。今日も車椅子から ベッドに戻ると立て続けにくしゃみが出たのでリハビリでの立たせてもらう訓練も止めた。2-3日前も同じような症状が 出たので風邪薬と熱さましを服用して寝たのだが、どうやら完治出来ていなかったらしい。僕の身体の自然治癒能力は もうなくなってしまったのか!?。情けない。
もしかしたら戸期待して少し前には養命酒を今は黒酢を試してみているけど僕の自然治癒能力が改善してきている気配は 一向に見られない。相変わらず肩から冷えてすぐ風邪気味なる。僕の治癒能力を高める方法はないのかなあ。

4月
4月24日 草なぎ剛の出来事
この数日SMAPの草なぎ剛の公衆わいせつ罪(都心の公園で素っ裸になって大声を上げた行為)の報道が連日マスコミを 賑わあせている。
それにしてもこの事件・出来事に対する動きは警察もマスコミもあまりに大袈裟過ぎる様な気がしてならない。もしこれが 国民的に人気のあるSMAPの草なぎ剛でなかったら警察も逮捕なんかしただろうか?。普通は留置場に一晩留め置き厳重注意 程度で済ませたのではなかろうか、警察官に乱暴して(怪我でもさせて)公務執行妨害までも犯していたなら別だが報道では 草なぎ剛は大声で「裸になって何が悪いか。」と叫びながら暴れだけ?だという。
今回の草なぎ剛の事件は社会人として恥ずべき行為なのは間違いないが、今日のタカジンの『そこまで言って委員会』で 誰かが言っていた様に今回の逮捕劇の裏には警察・検察に恣意的なものを感じてしまう!?。一般人を今回と同種類の様な 程度の事で逮捕していたら留置場が一杯になってしまうだろう。

4月24日 通院日
退院してから2週間が過ぎたが今回は早かったのか長かったのかよく分からない、いろいろと出来事や行事が多かったし 考える事・物思いにふける事も多かったからかな!?。
外はどんより曇り空、お出かけ日和とはとてもいえない天気、まあ雨よりましか。そろそろ春真っ盛り、花と新緑の季節の 到来。でも庭や街路樹のツツジが咲き揃うにはちと早いか(街路樹のツツジの花壇を見るとぺんぺん草などの雑草が伸び放題で かわいそう、僕が今元気だったら子供たちをつれて抜いて歩くのにと思ったりして・・・・・。町も折角街路樹にツツジを 植えているのだかシルバーさんを活用して綺麗にすればいいのに、町はそんな事には予算は付けられないと言うのかなあ)。 山に目をやると新緑もくすんだ黄緑色に見えたのは曇った天気のせいかそれともよどんだ心がそう見せたのか。病院に着くと 池で亀の家族がのんびりと日向ぼっこ、春の日差しを楽しんでいた。
今回外来では人が大きく代わったせいか対応が慣れていないって感じ、僕は診察のために救急処置室に入ったらまず最初に 吸引をして欲しいのに。まあ外来の看護師さんたちにしても僕にしても慣れるまではしょうがないか。
病院からの帰りに気晴らしになればと思って「国見に行きたい」と告げた。ところが嫁さんも訪問看護師さんも国見への国見への 道を知らなくて「どこから行けばいいの?。」と聞く、嫁さんは国見トンネルの佐賀県側の入り口にある湖畔公園までは何度も 行った事があるのに。仕方がないので僕がナビゲーターを勤め分かれ道が近付いたら歯を鳴らして合図して目で進むべき方向を 指し示し山道を国見トンネル目指して進んだ。ところが途中からガソリンのエンプティランプが点灯したので嫁さんも 訪問看護師さんも心配し始め早く帰ろうよという雰囲気が自動車の中に漂い始めて春の新緑をとても味あう気分ではなくなった、 エンプティランプがついても50kmは走れる構造に自動車のガソリンタンクはなっているのだから全然心配する事はないのに。 なんと言っても僕はエンプティらんぷが点灯してどのくらい走れるかを実験してて引っ張り過ぎてガス欠になった男なのだから。 それで国見トンネルの手前にあるアジサイ村(農家による野菜直売所)まで行ってすぐ引き返した。
これでは気晴らしにはあまりならなかったが、でもまあアジサイ村に新しくおやき屋さんができている事が分かったのは 収穫だった。それにしてもいくら暴走族対策といってもアジサイ村の入り口をガードレールで狭くしているのは やはりいただけない、自然にマッチしていなくて山の景観を壊してしまっている。それはせれとしてまた今度 アジサイロードの名の如く紫陽花の咲いている時期につれてきてもらう事にしよう。

4月23日 散髪
このひと月髪が伸びてきて目に入りそうになり目の横に当たってだんだん痒くなってきたので床屋さんに連絡を 取ってくれるよう訪問看護師さんに頼んだ。そして昨日が散髪の日、いつも床屋リリアンさんが午後の入浴車の前に という事で11時半過ぎに来てくれた。
担当はいつもKさんと何度も来た事のある介添え人さん(この方は前にも書いた事があるが、以前勤めていた会社で一時期同じ 事業場で働いていた従業員(娘)と顔の造り姿かたちがよく似ている)、そのKさんが「短く切るのは嫌でしたね。」と聞くから 「そう」と目で合図した。Kさんには8年前から何度も髪を切ってもらっているから安心して任していられる、 介助してくれている方が昔の知り合いに似ている事も僕の安心感を余計に大きくしていた。30分ほど散髪が終わり、 リリアンさんに今度またお願いするのは夏の暑い盛りになるだろう、それまでしばしBye-Byeなんてね。僕が会える人はもう 決まっているから久々に会ったリリアンさんは新鮮に感じてしまった。
昼一番入浴車が来てお風呂に入れてもらってさっぱりしたのだが、夜になって何となく寒気がしてきた。すると今日になって 訪問看護師さんが「今回は後ろを短く切りましたね。」と。僕は散髪した後も鏡など見る事はないからどのくらい 短くなっていたのかはちっとも分からないがどうりで昨晩は寒気を感じたはずだ。でもKさんは「短くするのは嫌か?」と 確認していたのになぜ?。嫁さんとKさんとの間に事前に密約があったのかそれとも後ろは短くするのが今風なのか?。 ともかくしばらくは掛け物に気を付けなければ。

4月20・21日 家庭訪問
昨日今日と息子たちの家庭訪問があった。僕は今年からもう家庭訪問に来た担任の先生に会わないつもりでいた、会っても 話せる事もなくただ嫁さんと担任との間で交わされる会話を傍で聞いているだけ、そんなの嫌だ何もしない出来ないその事を 苦痛に感じるくらいならいっそのこと始めから会わない方が良いと。嫁さんにそう告げると嫁さんは烈火の如く怒り出した、 「子供たちがどういう環境で育っているかありのままを見てもらう事が大事なのよ、それとも見られたらそんなに 恥ずかしい事?。」と。そうやって僕は言い含められた。けれども僕は何も反論出来なかった、なぜなら嫁さんの 言っている事が正論だから。
昨日は下の息子の家庭訪問、見ると気が弱そうで初々しい先生。けれども薩摩隼人で昼休みには子供たちと積極的に 触れ合っていると。それに一度大学を卒業したもののどうしても教師になりたくて教育学部を受けなおし教師になったという 変り種でおそらく熱い心を持った先生。僕は大いに気に入った。こんな昔風の先生に巡り会えて息子は幸せだと思う。
高校段階までに将来を決めるのは難しいと僕は思う。リスクを負う覚悟があれば別だが入った学部で将来の方向性がほぼ 決まってしまう。けれども実際に入った学部が自分に合っているとは限らないし合っているかどうが分かるのは専門課程の 講義をいくらかでも受講してからすなわち早くとも3回生になってからだ。けれどその時点で方向転換しようとすれば新しく 進もうとする学部では単位不足になるから少なくともあと1年は長く大学にいなければならなくなる。親の脛をかじっている 身でそんな事が出来るかどうか?。僕も3回生の下期に学部を変えようと考え悩んで結局出来なかったからよく分かる。 それなのに下の息子の先生は塾の講師のアルバイトや家庭教師を通して教える喜びを知り大学を出た後再度教育学部に 入りなおし夢となった教師になったという。こういう経験と情熱を持った教師に教えてもらえる息子は幸せだと思う。
今日は上の息子の家庭訪問、担任は確か2年前に娘の担任だった先生だが顔以外は覚えていない、なんせ一度しか会った事が ないのだから。その担任の先生と嫁さんとの会話の中の話によるとは自分も幼い時から軽い身体的な障害を抱えているそうで 障害者に対するボランティア活動にも取り組んでいるとの事。そして出来れば子供たちも活動に参加させたいとの事。先生の その意識・取り組みは中学生になったばかりの子供たちの情操形成にきっと良い影響を与えるだろう。先生によると「今年の 一年生は比較的整然としているしクラスでも(ボランティア?)意識は高い。」との事だった。
僕は自分がこうして障害を持つ身になるまで障害者行政には無関心で障害者に対するボランティア活動には一度も 参加した事はなかった。かといって障害者を偏見の目で見たつもりもなく障害者健常者分け隔てなく接してきたつもりだ。 また困っている人を見かけたらそれなりの対応をしてきたつもりだ。けれど今さらながら人としてもっと積極的に障害者に 関わっておけば良かったと思う次第だ。今の日本は障害者などの生活弱者に冷たすぎる。こういう言い方をしては いけないのだろうが受刑者に何百億の税金をかけているくらいなら生活弱者の生活の向上に税金を使った方が良いと 思うのだが。何故なら僕らは自分の意思で病気になり障害を持つ身になった訳ではないのに対して受刑者は自分の意思で 犯罪を犯し刑務所に入ったのだから!?。

4月20日 吸引契約したヘルパーでもアンビューバッグは使えない!?
福岡に住んでいるメル友のAさんのホームページを見ていたら「たとえ吸引の契約が出来ているヘルパーさんと二人っきりの 時にもし人口呼吸器が動かなくなったとしても、医療行為であるアンビューバッグを使って被介護者すなわち我々の命を 助ける行為をする事は法律的には出来ない」って事が書かかれていた。
僕の周りにはヘルパーに痰の吸引を許可しようという介護事業所は存在しないし吸引の契約を結んでもいいという ヘルパーさんも現れてこないから気付きもしなかったが由々しき問題である。人工呼吸器の管理下の元でしか生きていけない 我々の命を救うためという観点から見ると痰の吸引と同様に呼吸器が故障した時にヘルパーに出来る最少限でなおかつ 最大限の(医療)行為なのに、いったい政治家や政府・厚生労働省はこの事についてどう考えているのだろうか?。 ヘルパーさんと二人っきりの時に人工呼吸器が故障した場合は119番しなさい、救急隊員が間に合わない時は苦しみながら 死を迎えなさい・ヘルパーさんは見殺しにしなさいと言うのか。あるいは人工呼吸器は絶対に故障しないまたヘルパーと 二人っきりの時に呼吸器が故障するなんて事はきわめてレアケースで「そんな事は神のみが知る」と思っているのだろうか?。 吸引の契約を結べたヘルパーでもアンビューバッグを使ってはいけないという法律をどう思っているのか・ヘルパーさんと 二人っきりの時呼吸器が動かなくなったらどうすればいいのか、国会議員に一度聞いてみたいものだ。
僕の場合かすかにまだ自発呼吸は残っているといっても救急車が着くまでの間呼吸がもつとはとても思えない。またAさんの ホームページにもあった様に来てくれた救急隊員の誰もがカニューレにつなぐアンビューバッグの使い方を知っているとは 限らない。だって救急隊員の知っているアンビューバッグはおそらくマスクタイプのアンビューバッグだろうから。 そんな事より僕の住んでいる地区の場合は吸引契約を結んでくれるヘルパーを周りを巻き込みながらどうやって 育てていくかだ。

4月18日 左手のむくみ
数年前に3ヶ月入院した時から左手がむくみ始めこの1年は会う人会う人が僕の左手を見て「むくんでいるね。」と言っていた。 自分でもむくんでいる事を知ってはいたが久々に我が目で我が左手をじっくりと見て驚いた。僕の左手はまるでドラエモンの 手から指が5本生え出ている様でとても醜く見えた。
そこで左手の下に毛布を丸めて置いてもらい左手をグーンと高くして寝た。今までも左手の下にバスタオルを畳んで 置いていた事が合ったが左手のむくみにはちっとも効果がなかった。それで今回は毛布を使い左手をグーンと 高くしてみたのだ。
朝さすがに左手が痛くなっていたので嫁さんに「毛布を外して」と頼むと「むくみが少し小さくなっている。」と嫁さんが驚きの 声を放った。「見せて」と頼むと僕の左手を持ち上げて「ほらね。」と、見ると僕の左手はむくんではいるものの人間の手に 戻っていた。これまで何回も左手を高くして寝ていたが効果が見えなかったのは上げる高さが足りなかったという事か。 左手は相変わらずピクリともしないが見かけ上人間の手に戻れただけでも嬉しいものだなあ。

4月17日 息子の遠足
今日は中学1年生になった上の息子の中学(僕の母校)の歓迎遠足の日、昨日息子は「明日はどうせ雨だからお菓子も 買ってないよ。」って言っていたし朝方早く目が覚めた時外は雨が降っている様な気配がしていたから今日の息子たちの遠足は やっぱり中止かなと思っていたが、明るくなってきた時にはもう晴れていて息子は嬉しそうに出かけて行った。 晴れて良かった。
中学の歓迎遠足は腰岳、娘の3年間もそうだったから我が中学の歓迎遠足は伝統的に腰岳なのかもしれないが、僕は自分の 中学時代遠足があった事さえ覚えていない。嫁さんによると腰岳には高校の歓迎遠足でも着たらしいのだがそれも 覚えていない。ただ一度だけ遠足で腰岳の中腹にある修道院前の広場に来て遊んだ記憶はあるのだが それがいつだったか・・・・・。なんにしても子供たちが遠足などの学校行事を大いに楽しんでくれればいいな。

4月16日 クラブ活動
今年中学(僕の母校)に入った上の息子が入部するクラブ活動を決めてきた。お袋から「(息子が)「面白そうなクラブが無いから 下校クラブに使用かな。」「剣道は痛いから嫌だ。」などと(中学に入った時の)お前と同じ様な事を言っている。このままお前と 同じ様にクラブに入らないのでは。」と聞いていたから、先日息子と「お父さんはクラブ活動をしなかったから何も言えないけど 今の中学校はお父さんの頃と違ってクラブ活動中心に回っているからクラブに入った方が良い。」と話したところだった。 それに対して息子からは「球技は好きじゃないし陸上部があったら入りたかったけど無い。今でもクラブがたくさんあるから これ以上新しいクラブは作らないという話があった。それに陸上は指導出来る先生がいないらしいよ。でも卓球かテニスに 入るつもりだから大丈夫。」との返事が返ってきた。
昔からそうだが我が母校の中学に球技以外のスポーツ系のクラブ活動が剣道しかないのはよくよく考えてみると確かに おかしな話だ。球技が好きではなく武道も嫌いな生徒は確かにいるはずだ。そんな生徒がスポーツ系のクラブに入りたいと したら一体どうしたらいいのか?。中学校にはそんな生徒の事ももっと真剣に考えて欲しいものだ。
中学での娘の3年間を見てみると、今の中学校はどちらかというとクラブ活動に少し傾き気味だと僕には見えた。それは
@中間・期末試験前のクラブ活動休止期間が短い(昔は1週間ほどあった)
A通知表の真ん中あたりの目立つところにクラブ活動が書かれている(ほとんど人は気付かないだろうが)
B体育祭でのクラブ紹介が長時間(クラブに入っていない生徒はその間テントで何をするの?-クラブ対抗リレー等が 適当だと僕は思うが)
C練習試合も含め毎月試合が組まれている
事などからもそう見える。クラブチームではなく公立中学のクラブ活動なのだからそんなに勝ちにこだわらなくてもと 思うのだが。

4月15日 入浴車の井戸端会議
今日は午後から入浴車が来る日、入院していたから入浴車を利用するのは三週間振りの事、今日のお嬢様方はどんな話を 披露してくれるのか楽しみだ。なにせ世間の風にこんなに触れられるのは入浴車の時だけだもの。
今日のお嬢様方の僕を囲んでの井戸端会議の話題はテレビの話、昨日見たバラエティ番組がまず話題に上った。でも残念ながら 賛同者なし、次に上ったのが連続ドラマ、これはいろいろと話が展開していった。どうやらお嬢様方はバラエティと 連続ドラマが好きらしい。僕は一話簡潔物とスポーツ中継それに報道物しか見ないから内容は良く分からないがお嬢様方の 漫才の様な掛け合いを見聞きしているだけで面白い。

4月14日 今時の普通高は・・・・・
この春娘は中学を卒業し高校に入った。福岡からこちらに越してきたのは娘がまだ小学1年の夏だったからもう9年 早いものだ。娘の入った高校は僕や嫁さんの母校、今日から娘は特課(特別授業?)があるとかで6時半過ぎには家を出た。 夕方帰ってきた娘に「特課でどんな事をしたのか?」と尋ねると「普通の授業。」と、僕は一瞬疑問に感じたが僕らの時は 土曜日が休みではなかったし大学入試センター試験もなくて今よりひと月半は入試が遅かった(当時の国立大学の入試は 一期校が3月初旬・二期校は3月下旬)ので今の高校(普通高)に比べて授業時間が取れたという事かと思った次第だ。それにしても どうせ授業の補填なら7時間目を設けるとか隔週土曜日を授業に充てるとかすればいいと思うのだがクラブ活動との兼ね合いで それは出来ない相談か(と思っていたら娘は土曜日も特課があると言って出かけて行った)。何となく少しかわいそうな気が するが、それを承知で普通校を選択した訳だから後は本人ががんばるしかない。
僕がこの普通校に入った時には進学などまったく頭にはなく消去法でこの高校を選んだたけで中学の延長の様な感覚で 捕らえていた。だから1年の最初の面接で担任が「どこの大学に行きたいか?。」と聞いてきた時にはびっくりした。それに 高校の方もそれほど進学・進学だけと向かっている様には僕には見えなかった。小学校・中学校と遅刻などした事のなかった 僕が高校では遅刻しても気にならない様になり雪が降った日以外は早く出かけようとも思わなかった。それに僕は夏休みの 特課もあまり熱心でなく特に女生徒だけが就学旅行に出かけた後の特課は何となく馬鹿らしくてサボって泳ぎに行ったり 遊びに行ったりしていた。当時はそれで通じる様な高校だった、でも今の高校普通校はそんな事は通用しない様だ。 時代の流れとともに高校の役目・考え方も変った様だ、まあ当然だろうが。

4月10日 三社参り
退院の日「帰りに(時期外だが)三社参りをしたい」と迎えに来てくれた嫁さんや訪問看護師さんに頼んだ。「何処に 行きたい?。」と聞いてきたので旧我が町の曲川・大樹・山田の三つの神社を指定した。
まず曲川神社。ここは小学生の頃にお別れ遠足出来ていた所、当時は神社につながるただの原っぱだったのだが今は 桜や八重桜の咲くきれいな『桜ヶ丘公園』として立派に整備されている。今日は八重桜が五分咲きか?、明日桜祭りがある 模様。今日もデイケアの自動車が遊びに来ていた。そういえば8年前の桜祭りの日に一家総出で遊びに着たし夏には何度か 子供たちと遊びに来たなあ。あの頃は僕もまだ?元気だった。今は・・・・・・。嫁さんが境内でおみくじを買った様だが運勢は どうだのか?、教えてはくれなかった。
次に向かったのは山田神社(僕は成人するまではずっとここを山谷神社と呼ぶと思っていた)、ここは唐船城公園の反対側、 「今は八重桜としゃくなげが咲いていてきれいだ。」と訪問看護師さんが教えてくれた(僕の記憶の中には山田神社がきれいと いうイメージはなくて薄暗い所というイメージなのだが)。僕の子供の頃は唐船城を城山と呼んでいた。春には毎年この城山で 『めぐい(巡い?)さん』が行われていたのでいとこや近所の下級生とお米とビニール袋を持って城山のあちこちにたくさんある お地蔵さんを巡ってお参りしお米(のお布施?)と引き換えにお菓子をもらって歩き回ったものである。この城山で僕が確か 中学1年の時山火事が起こり南側が完全に焼失した(山田神社は北側にあるので焼失をまぬがれ無事だった。その後 城山南側の公園化が進められ現在の唐船城公園となった。今にして思うのだが当時の町は城山の公園化を進める時に何故に もっと桜や紅葉する木々を植えなかったのか?。そうしておけば今頃は春秋の町の一大スポットのひとつとなって いただろうに。野球場が出来たのはありがたかったが城山のてっぺんまで登る道があっさりとなり過ぎて面白味のない山に なったと子供心に思ったものだった。
三十数年振りに山田神社に来て僕はその変り様に唖然とした。僕の記憶の中のこの神社は石垣も崩れ果て薄暗くて少し 気味が悪いただの神社だったのに、今は城跡と分かる様に石垣も立派に積みなおされて城跡を守るに相応しい神社の境内に 変貌していた。それに今日は八重桜やしゃくなげが花盛り、いつの間にこんな木々が植えられてきれいな所になったのか!、 僕の子供の頃は桜(ソメイヨシノ?)をちらほら見かけるだけだったと思うのだが。
ここには昔今から五百数十年前に松浦党の支城・唐船城(松浦党の最西端の城?)があった所だ。松浦党は源氏の流れの武士で 鎌倉・室町時代に松浦半島・唐津を中心に勢力を誇った武士団で室町時代の末期竜造寺隆信の台頭で滅んだと記憶している。 教科書では元寇の時に活躍したと記されていたはずだ。江戸時代の平戸藩は松浦党の生き残りだったと思う。
今日は山田神社や境内がすっかり城跡らしくしかも綺麗に変貌しているのが分かっただけで満足だ。
最後に大樹神社へと向かった。子供の頃大樹神社で夏にはセミ取りを秋にはしいの実(樫の実)を拾ってきて家で鍋で炒って 食べたものだ。ここ大樹神社は初めから石段なので駐車場から見上げただけだ、それでも近くに来れただけで嬉しかった。
今日は時期外れの三社参りだったが十分満足した。

3月27日-4月10日 入院そして退院
今日は3月27日、今日からまたしばらく川棚の病院にレスパイト入院だ。今回入る病棟はリハビリを優先して初めての 病棟だったので不安もかなりあったが、その不安を見越し和らげるための配慮か以前入院していた時それぞれの病棟で 顔見知りになっていたN看護師長とN看護師が病院の玄関まで迎えに来てくれた。その上N看護師は病室に着くと僕専用の右足で 蹴って押すナースコールをオーバーテーブルの下にしっかりと貼り付け僕がコールした時にコールが反応した事がちゃんと 分かる様にとLEDランプのついたナースコールも僕の視線の入る範囲にしっかりとセットしてくれた。これこそ昔取った杵柄 (あくまで僕に対してだけだが)面目躍如という所だろう。そこまでしてもらえば後は横シーツを追加してもらうだけ、 何故ってマットレスが柔らか過ぎるとお尻が沈み込んでしまってコールが蹴れないしパソコンも出来ないから。
その上看護師長さんから「他に不都合はなさそう?。」と聞いていただけたので「看護師さんたちが文字盤が使えるかが不安!」と 告げると「使い方を指導しておきましょう。」と、そのお陰か1人2人を除いてほとんどの看護師さんが文字盤を 使いこなしてくれたのでコミュニケーションに困る事は思いのほかなかった事は幸いだった、まあそれだけこの病棟の 看護師さんたちが努力してくれていたという事だろう。
入浴はこの病棟は週2回だが僕は1回、それだけ人工呼吸器を着けている者を入浴させるのは大変出し人手もかかるという事だ。 僕の入浴はトローリー?(ストレッチャーに身体半分ぐらいお湯がたまる構造の器具)、看護師長自らと連携室のMさんまで応援に 来て4人で入浴させてくれた。最初身体半分しかお湯に浸かれないと聞いた時には寒くて風邪を引くかもと恐れていたが そんな事はなく思った以上に身体も温もって快適だった。
今回もノートパソコン(9年前に買った物)を病室まで持って来てもらったが使用せず。足の間にトラックボールマウスを どういう風にセットするかを個々の看護師さんに説明するのが面倒でしかもセッティングにマウスの微妙な動かし方が必要で 難しいのがパソコンをやらなかった大きな理由のひとつだが、それ以上に何ともやる気が起きなかったというべきだろう。
パソコンをしないと一日が長く暇で暇でしょうがなかった。一日何をして過ごすか苦悩?の日々が続いた。時には歌を歌って 時には昔の事を思い出しこんな身体になった事への恨み節を思い描きながらの病院生活の日々を2週間送る事となった。 しかし歌おうにもなかなか覚えているものではなし、こんな事なら曲をいっぱいSDカードに入れて来てパソコンで聞けば 良かった思った次第だ。4月3日には嫁さんと息子たちが宝満山に登ったとの事、その日の前後には僕が元気だったら 宝満山のどの道をどういう風に登ろうと具体的に空想していた(僕は宝満山には50回以上登っているから裏道まで周知、 まあこの12年間にかなり変わってしまっているだろうが)。いつまでも未練たらしい話だがこればかりは自分でも どうしようもない。暇なほどこの恨み節はずっと続くのである。
今回の病棟でもほぼ毎日車椅子に30分-1時間座らせてもらった。看護師さん3-4人で座らせてもらったのだがみんな かなり苦労していた。でも車椅子に座る事は呼吸器を着け自宅療養を始めてからもほぼ毎日続けている事なのでこの病棟でも 続けたいと思っていたのだが、そのあたりは看護師長さんも分かってくれていて以前お世話になった病棟から資料を 取り寄せてくれていて看護師さんみんなで対処してくださった。本当にありがたかった。
この病棟には2週間いたがこの短い期間に10人以上の看護師さんの名前を新しく覚えた。この病棟での顔見知りの 看護師さんは最初3人だけだった(と思っていたが半年前に以前お世話になった病棟からFさんが移ってきていた様だし (お陰で最初の2-3日かなり助かった)この4月Iさんも移動してきて5人になった)がこの2週間で新たに10人以上も覚えたとは 珍しい事だ。それだけ印象強い看護師さんが多かったのか接している時間が長かったいう事だろう。
4月10日2週間の入院生活が終わって退院、寝るだけの生活も終わり。家に帰ったらまたパソコンで暇つぶし?が出来るし パソコンをしている間はあれこれ考えなくてすむ。病院の作業療法士のU先生も言ってくださった様に次の入院までには 誰にでもセッティング出来る様な形のスイッチを何とかして準備したいものである。そうすれば次に入院した時には1日に 5-6時間は暇つぶし?が出来るなあ。


[2009年の先頭に戻る]



3月
3月24日 WBC日本連覇
WBC決勝、日本は宿敵そして最大の難敵韓国を破って優勝・二連覇を果たした。
この試合、ハラハラドキドキの素晴らしいそして見応えのある試合だった。
この試合、結果的にはイチローに始まりイチローに終わったが最大の功労者は8回二死まで韓国の執念打線を2点に抑えた岩隈 そして積極果敢ある場面では緻密な1点を取りに行く野球を展開し選手たちに何が何でも勝とうという闘志を伝えた 原監督だろう。
今日の試合はともかくとしてこれまでの試合を振り返ってみると、侍JAPAN全員の頑張りがあったからこそ連覇という偉業が 達成出来たのだと思う。
侍Japan優勝おめでとう、そして感動をありがとう。
嗚呼WBCが終わって何となく気が抜けてしまった、週末にはサッカーワールドカップ南アフリカ大会出場を左右する大事な 試合があるというのに。ま、応援は病院のベッドの中だけど。

3月23日 WBC準決勝アメリカ戦
今日はWBC準決勝アメリカ戦、野球の母国アメリカに勝つ事は日本野球界の悲願それに機能のもう一つの準決勝で優勝候補 筆頭のベネズエラを破り決勝で待つ韓国と雌雄を決するためにもまたWBCの連覇を達成するためにも負けられない試合。
日本の先発はエース松坂、だが先日のキューバ戦と違いボールが先行甘くなった玉を先頭バッターにホームランを 打たれてしまう。その後もセンター前にフラフラっと上がった打球を福留と中島がお見合いしてしまうなどピンチは続いたが そこはさすがエース松坂、1回表アメリカの攻撃をホームランの1点に抑えた。今日は攻撃陣ががんばった。2回裏4番稲葉の フォアボール5番小笠原のヒットを足掛かりに7番城島のライトへの犠牲フライですぐさま同点、4回の表1点を取られた その裏またもや稲葉・小笠原の連続ヒットの後福留の同点タイムリー・城島の逆転犠牲フライ・岩村のタイムリー三塁打・ 川崎のタイムリー・中島のタイムリーで一挙に5点を上げた。結局松坂は5回ツーアウトまでを2点に抑えランナーを1・2塁に残し 玉数制限で杉内に後を託した。杉内はこの会のピンチと6回を見事に抑え7回は田中が無得点に抑えた。だが8回からリリーフした 馬原が2点を取られさらにワンアウト1・2塁のピンチに。そこで馬原もようやく開き直ったのかフォークボールが低めに 決まり出し三振とピッチャーゴロに抑えた。そしてこの回の裏ツーアウト3塁で川崎のショートゴロを米国のショートが一塁へ 悪送球しまず1点、続くイチローの時に川崎が盗塁しイチローのヒットでもう1点、さらに中島のヒットでイチローが一挙に ホームへ帰り3点目をあげ9-4で最終回を迎えた。
最終回原監督がマウンドを託したのは日本の守護神藤川ではなくてダルビッシュ、藤川のストレートに今ひとつスピード・伸びが 乗ってきていないのは確かだがどちらかというと温情派采配をしているなと思っていた原監督がここに来て勝負に徹するとは 驚いた。そのダルビッシュボールが先行して一人のランナーを許したものの力のこもったピッチングで0点に押さえた。 さあこれで明日は五度目の韓国戦、何が何でも頑張ってもらわねば・・・・・!。
ところで嫁さんは明日花見に連れて行ってあげようと前々から計画してて訪問看護ステーションとも調整していた様だ。 嫁さんは「花見に行かない、今が良い時期だし(入院するから)明日しか行けないし。」と、横から娘も「決勝だものね。でも 録画しておけば。」と言ったが僕はがんとして首を縦に振る気にはならなかった。仕事ならまだしも寝ているだけの僕が録画で 見るなんてとんでもない。これぐらいの役得がなければ病気なんてやってられないと思うのだ。それに今の僕ならわざわざ 出かけなくとも病院の桜で十分だ。

3月20日 韓国との第2ラウンド順位決定戦
韓国との順位決定戦、この試合韓国はもうひとつどうしても勝たねばならないという執念・気迫が珍しい事にあまり 見られなかった。その事が韓国守備陣の試合前半のエラーの数にも出ていた。それに対して日本はぜひとも勝ってWBCの 戦績を二勝二敗の五分に戻したい試合。この差が試合の前半によく現れていた。
1回の裏韓国は日本の先発内海を攻め1点を取ったが2回の表5番内川が特大のホームランを放つと緊張感が切れたのか 6番福留のヒットの後7番岩村のセンター前ヒットを韓国のセンターがハンブル、結果9番片岡の1塁後方のポテンヒットで 1点を取った。今までの韓国ならこんなエラーをする事はあり得なかったしまたタイムリーとしてこんな打球がそんな所に 飛ぶ事もなかった。
韓国の本気モードが見え出したのは7回の裏リリーフした田中からホームランを放ち2-2の同点になった時から。韓国に 傾きかけた流れを元に戻したのは3番青木の1塁前へのドラッグバンド、この青木の奇襲のヒットに続き代打稲葉がライト右への 二塁打、内川に代わり代打小笠原が崩れた体制からもしぶとくライト前に落とし2点を奪いまた8番阿部もタイムリーを放ち この回3点、9回にも二塁打のイチローを2番の中島がバンドで送り青木のタイムリーでダメ押しの1点を上げ 6-2で勝利した。
9回の様な日本らしい攻撃が次のアメリカ戦でも出来れば勝利して決勝で五度韓国と戦う事も十分にあり得るだろう。

3月19日 キューバと再戦
WBC準決勝へ進むためには後がなくなった日本の相手はまたもや世界の強豪キューバ、この試合は霧の立ち込める ペコパパークで始まった。日本の先発は去年の沢村賞投手岩隈、その岩隈は追い込まれ緊張がピークに達するこの試合の中で その実力を如何なく発揮した。16日のキューバ戦で好投した松坂にキューバ打線の責め方を伝授してもらったそうだが 上下左右にボールを見事にコントロールしてキューバ打線を手玉に取り内野ゴロの山を築いた。岩隈は6回まで投げたが 6×3=18個の内15個が内野ゴロだったそうである。この霧の中で岩隈の投球が守備陣を助け安心感を与えたのは間違いない。 岩隈をリリーフした杉内もすばらしい投球をした。1-2本鋭い当たりを打たれたが野手の正面をついて残りの3回を完璧に 抑えた。それだけ杉内の玉も切れていたという事だろう。この二人に共通していたのは常にストライクを先行させていた事と 回の先頭バッターを出さなかった事だ。それだけ二人のこの日のピッチングは素晴らしかったという事だろう。
打撃陣もまあがんばった。3回まではキューバ投手に抑えられていたが4回一死後3番青木のヒットと4番稲葉の二塁打で1アウト 2・3塁、村田はセンターへの浅いフライに倒れたが続く6番小笠原がセンター左後方に大きなフライを運んでそれをキューバの センターが霧で見ずらかったために一度はグラブに入れたものの落球、ラッキーな形で貴重な先取点を奪った。その後も 6・7・9回に1点ずつを追加し5-0で勝利した。この日のイチローは第3打席までは精彩を欠いたもの第4打席にファーストの頭を 越すタイムリーヒット第5打席は駄目押しの得点を呼び込む三塁打を放ち復調の兆しを見せた。
これで日本がWBCの準決勝に進む事が決まりちょっと安心!。それにしても世界の強豪キューバを2試合連続して 完封するとは日本の投手力はたいしたものだ。これで足を絡めた緻密な日本の野球が出来ればWBC連覇も夢じゃない。

3月18日 WBC準決勝進出をかけた韓国戦
今日はWBC準決勝進出をかけた韓国戦、その行方を考えると昨日の夜はなかなか眠れなかった。最少得点による接戦を 見据えて足を絡める打線を組んで1点を取りに行く(例えば2番DH片岡・6番福留・7番城島・8番岩村・9番ショート川崎)のか 今まで通りのどこからでも得点を取れる切れ目のない打線でいくのか、原監督はどちらを選ぶのか、それを考え始めると 期待と不安で眠れなくなった。韓国チームは追い込まれても負けをバネにして力を発揮できる、けれども日本チームは どうだか分からない。だからこそこの試合に勝って準決勝進出を決めておかねばならないのだ。鍵を握るのはイチローの 第一打席とダルビッシュのピッチングだろう。
正午過ぎいよいよ試合が始まった。1回の表日本の攻撃最初のバッターはイチロー、セカンドベースよりの打ち損ねのゴロ、 でも僕はイチローの足なら内野安打になると思った。が、らくらくアウト。後で思ったのだが韓国の二塁手が始めから イチローに備えて少しセカンドベース寄りに守備位置を変えていたのではないかと。続く片岡はいい当たりのファースト左への ゴロ、これも韓国の一塁手の好守に阻まれた。もしイチローが一塁にいたら完全なヒットだった。3番青木はフォアボールで 出たが4番村田の時に何もせぬまま打たせてサードゴロ、この回無得点、アウトになっても良いから青木を走らせて点を 取るのだぞという意欲・執念・姿勢を見せて欲しかった。
日本の先発はダルビッシュ、ボールが先行しスリーボールからのストレートをレフト前に狙い打たれバッテリー無警戒のままで セカンドへの盗塁まで許した。続くバッターがヒットで出て1-3塁、そして3番バッターがセカンドゴロ、ここで今回のWBCでは ショートを守っている片岡(普段はセカンド)が岩村からの送球をポロリ。その後の4番打者をまたもやフォアボールで出して ノーアウト満塁。そして2点を取られた、というよりダルビッシュがよくもまあ立ち直って2点に抑えたと言うべきか。その後 まだ不安定な投球ながら2-5回を無得点にさらにリリーフしたピッチャーも6回7回を0点に抑えたが、8回に登板した 韓国キラーになると目されていた渡辺の調子が上がらずに2アウトは取ったもののフォアボールを二つ出しピンチに、 リリーフした岩田も二つのフォアボールで押し出しの4点目を韓国に献上し結局この試合も4-1で完敗した。
日本の1点は5回に1アウト1塁3塁でイチローのセカンドゴロの間にあげたものだが、この回福留・城島の連続ヒット ノーアウト1・2塁でどうして岩村に送らせなかったのか作戦面で疑問を感じた。相手は韓国なのだから一気に同点・逆転を 狙うよりも2点を取る確率のより高い作戦を選ぶべきではなかったかと。どうも原監督は選手とりわけ大リーガーに 遠慮している様に思える。この試合の収穫は初回に3点は取られたものの後はきっちりと締めたダルビッシュの投球と 8回2アウト満塁で登板した若武者田中のものに動じない気迫の溢れたピッチングだけだった。日本と韓国の差はこの気迫の差・ 日韓戦にはどうしても勝ちたいという執念の差にあると僕は思う。
明日はもう後がないキューバ戦。キューバにもう一度勝てるかどうか不安だが駆ってもらわないと困る。キーマンは岩隈、 岩隈がどんなピッチングをしてくれるかが全てだ!!。

3月17日 無線LANの設定
無線LANの設定が2-3日前に上の息子や娘に手伝ってもらってようやく設定出来、昨日全てのデータの新しいノートパソコンへの 移設とかインポートとかが終わって前のパソコンと同じ使い方が出来る様になった。ノートパソコンが届いてから10日あまり 使える様になるまでずいぶん長い道のりだった。
けちの付き始めは3-4年前にパソコンのサポート?業者にルーターおよび無線LANを設定してもらった時の管理者パスワードを なくしてしまっていた事、192.168.1.1でルーターの設定ブラウザに入ろうとするとユーザー名とパスワードを聞いてきたので その時点で右往左往、それから思いつくユーザー名とパスワードをいろいろ試してみたけど駄目だった。その上 ユーザー名にuserと入れれば良い事に気付くまで一昼夜かかってしまった、小さい字でちゃんと書いてあったのに 思い込みって本当に怖いものだ。もしかしてユーザー名にuserと入れていればいろいろ試してみたパスワードの中に 正しいものがあったかもしれない。そしてパスワードを何度も入力してしまったからインターネットが使えなくなって (PPP認識せず)嫁さんが不満顔。結局ルーターを初期化して一からインターネット接続設定と無線LAN設定をそれぞれの パソコンでやり直さなければならない事になった。ここでも僕は思い違いをしていた、インターネット接続設定をそれぞれの パソコンでしなければならないと思い込んでいた。だからどうしようもなくて受験前の娘に来てもらってルーターの 初期化から管理者パスワードの設定・デスクトップパソコンにおけるインターネット接続設定までしてもらった。本当は 初期化とLANケーブルの接続さえしてもらったら後は自分だけで出来たのだがそれに気付いた時には後の祭りだった。 それから今まで僕が無線で使っていたパソコンをLANケーブルをつないでようやくルーターにおける無線設定に取り掛かり、 設定を終えて次にパソコンのワイヤレス設定をしたらこのパソコンではすぐにつながった。しかし今度買ったノートパソコンに またLANケーブルをつなぎ換えてもらって再度無線設定をしようとしたらさっきと同じ内容が出てきた。この時点で このルーターでは一つしか無線設定が出来ない事に気付くべきだった。それなのにパソコンで設定も変えなければいけないと 思っていたから暗号文字を変えてしまった。すると元々のパソコンの無線もつながらくなったし、ノートはパソコン側の 暗号設定も終わったのでルーターのマニュアル通りに最後の設定をしらノートもつながらなくなった。結局少々危険を承知で 最後に設定した事を元に戻して両方のパソコンの無線の暗号を同じものにしたら両方のパソコンの無線がようやく つながる様になった。それにしてもNTTのルーターの同じ機種の親子ならマニュアル通りにしても無線は通じるのに機種が 違うと通じなくなるとは何たる事か。
でも今回の事で無線LANについていろいろ勉強させてもらったよ。

3月16日 WBC第二ラウンドキューバ戦
WBC第2ラウンドの初戦キューバ戦、マウンドを託されたのは日本のエース松坂。今日の松坂のピッチングは素晴らしかった。 力のあるボールが要所要所で素晴らしいコースに決まっていてキューバ打線を6回86球無得点で抑えた。後を継いだ岩隈が 7回を馬原は8回を藤川も9回を一人ずつランナーを出しながらも無難に抑えた。投手陣は完璧で理想的な完封リレーだった。
打撃人はキューバのミスにも助けられて6点を奪う事が出来た。3回表の3点は城島のライト右後方のフライが目に 入った事による二塁打から始まって相手投手の暴投でもらった1点だった(後の2点はタイムリー)。後はキューバの焦り・ 投手力の弱さもあって奪えた得点だろう、まあその前に各バッターのボールの見極め・ファールに出来る技術が あるからだこそだが。キューバなどの様に長打力や足はあっても攻撃の大雑把なチーム・ミスを誘発出来るチームなら ピッチャーがある程度の得点で抑えしてくれれば日本の攻撃で十分対抗出来るだろうが、韓国の様なミスのほとんどない足を 絡ませた緻密な攻撃をするチームが相手なら十分な作戦を立てなければ対抗出来ないだろう。韓国はアメリカの野球と日本の 野球を併せ持つチームなのだから。でも日本の野球の強みさえ十分に発揮出来さえすれば日本は負けるはずはない。

3月11日 一連の民主党小沢党首問題
僕はここ15年来(宮沢総理の不信任案に賛成票を投じ自民党を出た時以来)の政治家小沢一郎贔屓(びいき)だから (政権交代可能な二大政党を作れるのは小沢一郎しかいないと思っている)うがった見たかもしれないが、検察の動きは あまりにも偏っていると思っている。金額に差はあっても政治資金規正法から見れば西松建設が隠れ蓑にしていた資金団体から 献金をしてもらっていたあるいはパーティ券を買ってもらっていた政治家にとっては献金やパーティ券の入手手法に大差が ある訳ではなく、利益供与の点からみれば二階氏や尾身氏の方がよほど疑われる。西松建設は石川県における 森元総理のように東北地方における小沢一郎氏の無言の影響力を期待したのではないか。何せ東北地方では西松グループで 小沢一郎にこれだけの金銭的支援をしていると口にするだけで相手に相当のプレッシャーを与える事が出来ると思うから。
それなのに今日現在検察の捜査が及んでいるのは小沢氏周辺だけ。この現状を眺めれば小沢一郎氏や民主党幹部が 国策操作と言いたがったのも頷ける。まあ国策操作と言わないまでもこれだけ自民党議員に捜査の手を伸ばさないで 偏っている様な状態を見ると、検察が現政権や与党の顔色を伺っていて民主党政権の樹立を嫌っている様に 見えなくもない。
なんにしてもこれだけ抜け道の多い政治資金法は政治家自ら改正して抜け道のない法律にしないと政治家のお金に まつわる信頼は到底回復しないだろう。

3月7・9日 WBC対韓国戦
7日のWBC対韓国線はどうなるか心配で前日から胸がドキドキ、けれど想像だに出来ない展開になった。日本が14-2で 7回コールド勝ちを収めたのだ。きっと韓国チームの中に北京オリンピックの対日本栓2試合で完勝した事もあって 傲慢と油断があったのだろう。
この試合はこの日から1番に座ったイチローのヒットから始まった。中島・青木もヒットで続いて1点をもぎ取り結局初回3点を 取った。日本の先発は松坂、立ち上がり制球が定まらず2点を奪われた。この時点ではこの試合打ち合いになるかなと 思っていた。ところが松坂は2回からは制球が良くなり4回までを初回の2点に抑え続いてリリーフした杉内・渡辺・岩田も 韓国打線を7回までを無失点で抑えた。一方打線は村田の2試合連続ホームランや城島のホームランなどで7回までに 14点を上げ韓国に完勝した。
打線の調子がこのまま上向けば良いがと思っていたがそうは問屋が卸さなかった。韓国チームが見事に覇気を 立て直してきた。9日のアジアNo1決定戦は白熱した投手戦となった。先発岩隈は4回に1点を取られてしまったが見事な 制球力で韓国打線を抑えた。リリーフも8回にダルビッシュ・9回には藤川までつぎ込んで韓国打線を抑え込んだ。だが日本の 打線も韓国投手陣の気合の入った投球に無得点に押え込まれた。もしこれで日本が勝っていたらこれこそ日韓戦と 無邪気に言って喜べただろう。
今の日本のラインナップは相手を打ち負かす事を目標に打線が組まれている。だから投手戦になるとなかなか打線が 機能しない場合がある。日本チームの第一ラウンドの防御率は1点そこそこだから投手力にはほぼ心配はない。だからこそ 試合が党首選になると予想される場合チャンスを作れてその少ないチャンスをどうやってものに出来るかそんな ラインナップを如何にして組むかが勝利への近道となる。足のある片岡や川崎をうまく使ってほしいものだ。

3月5日 World Baseball Classic開幕
いよいよWBC東京ラウンドが開幕、今回から1次予選・2次予選における上位リーグへの進出要件がよく覚えていないが 変った模様。前回の1次・2次予選はリーグ戦上位2チームが進出という少し乱暴なものだった、せめてホーム&アウエー 方式にすべきだがそれは時間がかかり過ぎる。そこで今回は変則トーナメント方式でより強い2チームが上位に 進出する。
初戦中国戦の先発はダルビッシュ、何球かボールが滑ってしまってあらぬところにいく玉もあったが落ち着いた投球で 中国打線を抑えた。初回ノーアウト一塁でキャッチャーの城島が盗塁したランナーを刺したのが大きかった。あれで ダルビッシュも落ち着けたのかもしれない。結局ダルビッシュは4回を45球無失点で抑え上々の出来だった。その後出てきた リリーフピッチャー涌井・山口・田中・馬原も落ち着いた投球を展開、無失点で日本の守護神藤川につなぎ中国を完封した。 投手陣に関しては上々の出来だった。
打撃陣は5番村田のツーランホームラン・敵失などで4点は取ったけれどもチャンスで打てなかった。中国の投手陣の出来は 確かに良かった様だが5安打とはそれにしても打てなさ過ぎた。打撃は水物とは言うが打撃陣がこんな調子ではこれからの WBCの展開が思いやられる。

3月2日 サンショウウオ
親父が山からサンショウウオを捕まえてきた。どうやらサンショウウオが息子たちとふれあいを持つ手段になると 考えたらしい。果たして下の息子がサンショウウオに関心を示して飼うと言い出した。僕は生き物を飼う事は情操形勢に とっても良いと考えてる方だし僕自身子供の頃生き物を捕まえてきて飼っていたから別に反対はしなかった。 ただサンショウウオは清流に棲む生き物、そんな生き物を家庭用の水槽で飼えるのかが気がかりだった。息子は サンショウウオの育った環境に近づけようと親父と一緒にサンショウウオを捕まえた所に行きそこの泥を水槽に 敷き詰めたとの事。合理的な考えだとは思うが果たしてそれが正しいのかどうか僕には分からなかった。案の定夜中に なってサンショウウオが動かないと落ち込んでいた。
僕に出来る事はインターネットでサンショウウオの飼い方を調べてやるだけ、そう思って検索してみても大掛かりな 環境設備を備えての飼い方は出ていても家庭の水槽での飼い方はなかなか見つからなかった。それらしい物をようやく 見つけて息子に渡しては見たがそれには家庭用の水槽をサンショウウオ用にどう具体的に作ったらいいのかは 載っていなかった。ただひとつ分かった事はサンショウウオは15℃以上の水温では生きていけないという事だけだった。 夜はサンショウウオを生かし続けるには水槽をどう作ればいいのか簡単な仕掛けで清流もどきの流水を水槽の中に作るには どうすればいいか考えながら寝たが、僕の貧弱な発想の頭では思いつかなかった。
誰かサンショウウオの飼い方を知っている人がいたら教えてほしいなぁ!。

3月1日 風邪?
今朝目覚めたら左肩あたりに寒気がする。お袋に薄い布団を毛布2枚の上に追加してもらってパソコンを始めたが2度3度と 続けてくしゃみが出た。そして8時過ぎには寒気がしてきた。どうやら風邪を引いてしまったらしい。ここ2-3日寝汗を かいていたから昨晩は厚手の布団をかけず寝てしまったのが敗因だ。この身体油断大敵、この身体は寒いと感じた時に 対応しても遅い様だ。


[2009年の先頭に戻る]



2月
2月28日 WBC強化試合・西武戦
WBC開幕を目前にして今日・明日と日本代表チームの最後の仕上げの場強化試合、これが日本代表の今後の活躍の是非を 占うひとつの試金石となるだろう。ちなみに2-3日前に行われたオーストラリア戦は相手がひど過ぎた、あれはオーストラリア 代表と呼べる代物ではなかった。
今日の西武戦の先発は岩隈、一発を打たれ2点を献上したがまあまあの出来。二番手はダルビィッシュ、コントロールも 定まらず抜け玉も多かったが調子が悪い時も悪いなりにまとめてスクイズの1点で抑えたのはさすがというべきか?。 だがそこからがまずかった、懸念があるかもと思っていた中継ぎ投手が機能しなかった。誰がどういう点の取られ方を したかはテレビ中継が途中で終わってしまったから分からないがその後4点取られた。WBCは第一ラウンド70球・第二ラウンド 85球と玉数制限があるから先発はよくて5回か6回まで、抑えの藤川・馬原につなぐには中継が最低3人はいる。中継ぎ投手の 出来如何が決勝リーグ進出を左右すると言っても過言ではないのかもしれない。キーマンは田中と涌井と僕は思う、 この二人がフル回転すると思うのだ。みんながんばって欲しい!。
打撃陣も打てなかった、2点しか取れなかった。だけど打線は水物だから僕はほとんど心配していない。北京オリンピックの 二の舞は僕はないと思っている。

2月25日 入浴日
今日はお風呂の日。最近同じ温度で湯船にお湯を張ってもらって同じ様に浸かってもバリバリに汗をかく日とちっとも汗を かかない日があるのは何故だろう。僕はバリバリに汗をかくまで湯船に浸かっていないと後で身体が冷えてきて必ず 鼻詰まりになるしくしゃみが連発して出る。筋肉も脂肪もなく骨と皮だけの身体だから熱を保持する機能がかなり薄れて しまっているのだろう。だから僕は湯船で汗が出るまでじっと我慢の子になるのだ。
僕にとって週に1度のお風呂は楽しみの一つ。だって入浴車のお嬢様方の僕を囲んでの井戸端会議から巷の話に 触れる事が出来る唯一の機会だもの。また別の日にある看護師さんが「先日ある方の所に訪問したら「今日は寒いから お風呂には入らない。」と言われた。」と。一人では脱衣も入浴も出来ない者が寒い時にはお風呂に入りたくないと言い出す 気持ちは僕にもよく分かる。でも僕の場合お嬢様方のおしゃべりを聞く事がお風呂で寒い思いをするよりずっと楽しいから お風呂を拒否する事はよっぽどの事がない限りないだろう。

2月23日 WBC野球代表決定?
WBC日本代表の最終メンバーが今日発表された。ソフトバンクホークスからは杉内・川崎・馬原の3選手が選ばれ松中・和田が 外れた。今回のWBCホークス選手の活躍の場はどうやら少なそうだ。ついでにどうして松中・和田が外れたのか 考えてみた。
WBC日本代表におけるに先発陣は松坂・ダルビィッシュ・岩隈の不動の3本柱それに杉内の4人、試合日程から見てそれ以上は 必要ない。もし第5の先発が必要だったら和田か涌井だったろうが。抑えは藤川・馬原の2人。後の投手7人は中継ぎ。 だけどWBCには玉数制限があるから中継ぎ投手は連投または中一日で登板出来る事が必要条件となる。和田は昨年末に肩か ひじにメスを入れているから連投は難しいとWBC JAPANの原監督は判断して外したのだろう。
松中は今回のWBC日本打線の不動の4番候補・日本打線の顔になるべき選手として1次候補選手に選出したはずだ。けれど 今回の代表合宿までの間に原監督以下首脳陣の野球の目指す方向が日本の顔・不動の4番不要の方向に変わったのだろう。 原監督の目指す野球は繋ぐ野球どこからでも点の取れる打線、だから繋げる確率の高い4番目の打者のいる打線を作る 方向になったのだろう。北京オリンピックでは打線が振るわなかった、その一番の要因は打者を安心させる顔が いなかった事だ。打線にリーダーがいなかった事それに打線の気迫の差がオリンピックで金を取った韓国との差だった。 でも今回の代表にはイチローというリーダーがいる、それに城島・福留・岩村がいるから打線の厚みが北京オリンピックの 時とはぜんぜん違う。それが守備位置がなくDH専門の松中を外した理由だろう。
今回の日本代表の心配な点を上げるとすれば5番村田のWBC全試合を通しての出来だろう。村田の打撃の出来次第で守備位置 それに伴い打線を大きく変えなければならなくなるだろうから。

2月21日 無線LANの設定手順
新しいノートパソコンの注文も指定銀行への振込み手続きも終えた、後は商品がつくのを待つだけ。ただ今回無線LAN内蔵の ノートパソコンを買ったから無線LANの設定が出来るかが真に気懸かり。そこでこの1週間色んな所へ僕自身で可能な唯一の 手段・メールで無線LANの設定の仕方を教えてくださいと問い合わせてみた。
まずメーカーのホームページのメールでお問い合わせコーナーから送信、けれども返ってきた回答は電話で 問い合わせくださいと購入後の技術的質問をメールで受け付けるコーナーの案内だけ。インターネット接続が 出来ないというのにどうしてメールで質問が出来るのか、質問の内容をきちんと見て回答したのかと言いたかった。 僕は重度障害者で電話も出来ない旨を書いて返信したところ、別の担当者からQ&AのURLが送られてきた。 その四角四面の対応に幾分頭に来たので「貴社のサービスサポートではQ&Aで自分で探して解決せよと言うのか・貴社は 重度障害者には冷たい会社ですね。」と再度返信した。すると昨日の午前中に元々の担当者から電話がかかってきて「問題は 解決しましたか?。」と。解決しているのならそんなメールなんか送るものかと思いながら嫁さんからの伝言を 聞いていた。
次に僕の使っているADSLルーターの販売元NTT-MEのホームページのメールでの問い合わせコーナーから無線LANの設定の 仕方を教えて欲しいと問い合わせをすると、この製品はNTT西日本の担当だからそちらへ連絡くださいとつれないひと言。 仕方がないのでNTT西日本のホームページのメールでの問い合わせコーナーから再度無線LANの設定の仕方を教えて欲しいと 問い合わせをすると、ここは広報部署だから技術的な質問は電話にて問い合わせくださいと。僕が身体が不自由な 重度障害者で電話での問い合わせは出来ない事は書いていたのに。
やはりメーカーやNTTは重度障害者がパソコンをする事など全く想定していないから我々障害者に対するサポート体制など 全く整えていない事・また対応する気もない事を改めて悟った。そこで会社時代の同期のOに無線LANの設定の手順を教えて 欲しいとメールで助け舟を求めた。それから数回のメールのやり取りでOは無線LANの一般的な設定の手順を教えてくれたし 僕が注文しているノートパソコンの取扱説明書まで見つけて添付してくれた。こういう詳しい内容をどこで入手するのかと Oに尋ねるとgoogleで見つけたと。僕もmsnでルーターのマニュアルを見つけたのだがそれは無線LANの設定は代理店に 問い合わせをと中途半端なものだった。そこでgoogleでルーターの品番で検索してみると見事にルーターのマニュアルに たどり着いた。Oに色々と指示してもらった手順およびノートパソコンの取扱説明書それにダウンロードしたルーターの マニュアルを得たので、上の息子の手伝いさえあれば僕でも無線LANの設定が出来る様な気分になってきた。
今回の事で悟った事、
@メーカーのサポートもNTTのサポートも重度障害者には優しくない
A検索結果は検索エンジンで大きく異なる
B最後に頼りになるのは友人と家族・・・・・O、ありがとう
ちなみにパソコンのメーカーにもNTTにもマニュアルのURLを送って欲しいと返信メールでお願いしたのだが 対応してくれたのはパソコンメーカーだけだった。

2月20日 通院日
今日は通院の日だというのに早朝から痰の出がよくなくてあまり動きたくない気分、経管栄養が終わった時に嫁さんに 「痰が出ない」と伝えると「どうして欲しいの?、言って!。」と。そう言われると僕もどう言ったら良いのか判断が つかなくて・・・・・。11時過ぎ訪問看護師さんたちが来て同じ様に言って胸をタッピング・吸引してもらうとようやく痰が少し 取れて肺にすっきり感が戻ってきた。
外に出て自動車に移乗してもらうと今日も寒い。でも車窓からの風景は少しずつ少しずつ春の情景が増えている、車窓から あちこちの家や小山に見えてくる白い水仙や白梅・紅梅それに峠を越え西九州道の高架橋の先のとある田んぼ一面に 咲く黄色い菜の花が「もうすぐ春が来るよ」と告げていた。
病院で「帰りに海が見たい」と言うと連れて行ってくれた。まずは東彼杵の方へ、海沿いの道をヨット(ボート?)ハーバーへ 入ると防波堤に囲まれたところは穏やかな・外海では白く輝いて立っている波が見えた。海やボートを見るのは久々、 何年振りだろうか?、懐かしさが込み上げてきた。ハーバーにはたくさんのプレジャー?ボートと大小2艘のクルーザーが 停泊してあった。ボートやヨットを見ると昔ディンギーで遊んでいた頃の事を思い出す、若かりし頃はよく海へ遊びに 行ったものだった。次に向かったのは来た道をまた戻って大崎半島のくじゃく園、僕は大崎半島はもっと小さいと 思っていたのだが思いのほか広かった。大崎半島入口を左折し町並みをを抜けると山道、その曲がりくねった山道を 道なりにどんどん進んで行くと変形Y字路。ここを左に曲がると海に出てそこはキャンプ場になっているとか、こんな所にも キャンプ場があったのかとの想いと元気だったらここでも家族でキャンプも出来たろうにという想いが一瞬交差した。 さらに山肌に極々近年生まれたと思われる小さな松の苗木?を眺めながら先へと進んで行くとようやくくじゃく園に着いた。 ここくじゃく園にはゴーカートとかもあるとかで結構広くて家族で遊べそうだが今日は冬の平日とあって?寂しかった。 そして一番奥の駐車場に入るとそこから数羽の白いクジャクといつもの鮮やかな色をした孔雀が2羽見えた。孔雀を 見たのはいつ以来だろう、本当にALSに間違いないか確認するため東京の病院に行ったついでに上野動物園に 立ち寄ったからそれ以来一昔振りかもしれない。ただ孔雀は派手で記憶に強く残っているからよく分からない。 このくじゃく園の先にも道が続いていてそこを行けば海が見えるのだろうが残念ながらその道は私道で立ち入り禁止に なっていて半島の先端までは行けなかった。
くじゃく園を後にして今度は国民宿舎くじゃく荘へと向かった。くじゃく荘の入口にある海岸は内海で海水浴場になっていて 穏やかな海だった。くじゃく荘には入口に足湯があってそれを見て看護師さんが「バケツを持ってくればよかったね、 足を浸けられたのにね。」と言ってくれた。温泉にはそういう楽しみ方もあるのかと思った次第だ。このくじゃく荘の 駐車場からも海を見たがそこも穏やかだった。
くじゃく荘の帰りはまず海沿いを行きそれから山の方に入り峠を越えて波佐見経由で帰った。ただ病院で足の装具を着けて 2時間足の裏が痛くしかもジンジンして我慢出来なくて泣き出しそうになり、家まで後10分もない所でついに自動車を 止めてもらい足の装具を外してもらって家に帰った。
今日久しぶりの海・久しぶりのドライブに連れて行ってもらって少しリフレッシュ出来た。 みんなありがとうございます。

2月15日 麻生内閣支持率急落と中川問題
今日ある番組で麻生内閣の内閣支持率の緊急調査の結果を報告していた。それによると麻生内閣の支持率が10%を 下回ったと。内閣支持率は報道機関で大きく異なるし各報道機関が取るサンプル数も少ないからあてになるものとは 言い難いが、国民の意識と方向性は十分に読み取れる。
麻生内閣の支持率が急落するのも当然の事、だって麻生総理は「今回の世界不況に当たっては政局よりもまずは経済対策、 そして経済対策はスピード。」と言いながら第2次補正予算は給付金の関係で野党の反対で廃案になってはいけないと今年の 通常国会に持ち越し。天下りに代表される公務員改革や無駄遣いの温床との噂もある特殊法人改革も一向に進める様子が 見られない。それなのに後世に憂いになってはいけない財政の健全化を図るためと消費税増税を訴える。2次補正を給付金や 高速料金値下げなどの個人向け経済対策と公共経済対策を分離して一括採決さえしなければ少なくとも公共経済対策は 昨年末までには成立しただろう。もし麻生総理が公共経済対策だけでも早期に成立させ税金の無駄遣いを積極的に なくそうという姿勢を見せ続けていれば、たとえ増税を訴えても国民は麻生内閣を支持しただろう。でも麻生内閣は大方の 国民が望んでいる政策をちっとも実施しようしないのだから支持率が下がり続けるのも当然だろう。
麻生内閣の内閣支持率の急落に追い討ちをかける出来事が週末にイタリアで起きた。中川財務大臣のG7財務相蔵相会議の 後の記者会見でのべろべろの映像が全世界に配信され日本国の財務大臣の権威が一挙に失墜した。中川氏が べろべろになった真の理由は明確には成らないししないだろうがこれで麻生内閣の支持率はまた下がるだろう。
これだけ国民に信頼されていない内閣・与党ならば潔く下野するか国民の信を問うために解散総選挙を実施すべきと 思うのだが、麻生総理の欲望と自民党の事情を考えると総選挙はきわめて衆議院の任期満了に近いと僕は思っているが。

2月13日 春一番
朝目が覚めたら家の外からビュービューとものすごい風の音がしていたかと思ったら朝にはいつもの掛け物では暑くて たまらなくなってきた。天気予報では今朝から強烈な『春一番』が吹きまくっているとか、ここしばらくは掛け物でまた 悩むと思うとまた憂鬱になる。相も変わらず情けない我が身体だ・・・・・。
僕の春一番の思い出といえば、随分前の恐羅漢山スキー場での事。建国記念日が絡んで連休になった時に広島県の 恐羅漢山に二泊三日でスキーに行った時の事、着いた日はほぼ言うことなしの雪質だったのだが中日の昼ごろから 強い風が吹き出してリフトで2-3度頂上を往復する間にゲレンデに少しずつ地肌が現れ始め翌日には滑れない場所が あちこちに出てくる有様。春一番でこんな風になるほど暖かいのかと驚いた。建国記念日が連休で広島の山に雪が あると聞いたら必ずスキーに行っていたがこんな事はこの時一度きりだったのでよく覚えている。

2月11日 サッカーW杯・アジア地区最終予選・オーストラリア戦
今日は日本のサッカーにとっての大一番でワールドカップ南アフリカ大会出場をかけたアジア地区最終予選の前半の 最大の山場オーストラリア戦、この試合に勝てば南アフリカがググッと近付き残り4試合中1勝1分けで出場が確定・ 負ければ南アフリカが少し遠のき2勝1分けしなければならない状況になる(オーストラリアが日本以外に負けない事が 前提)。ところが前半30分以降は日本がよく攻め込みながらもまたもや決定力不足を露呈し0-0のドロー。これでホームの バーレーン・カタール戦はどうしても勝たなければならない試合になった。
ところが今回のアジア地区最終予選日本のホームでの戦績が全く芳しくない。ホームでのこの2試合何とか引き分けは したが結局勝てていなし、次のホームでの対戦相手バーレーンは日本が苦手にしている相手だから不安が残る。 確かに日本のサッカーは強くなっているが強豪国との差はまだ大きい。ワールドカップベスト4を目指すと口にするのは まだ早過ぎると思うがともかくもっとがんばって欲しいものだ。

2月8日 オペナビが・マウスが動かない!?
オペレートナビが動かない、昨日まで動いていたのに・・・・・!。夕方遊びから帰って来た上の息子に頼んで検証作業を開始。 僕のオペナビのスイッチ構造は複雑、スイッチ・モノラル♀-♂延長コード・1IN-2OUT切り替え機器(N大学工学部 I研究室制作、長押しで呼出)・モノラル♂ー♂延長コード・オペレートナビ用スイッチボックスの構成。スイッチと モノラル♀-♂延長コードはおそらく大丈夫、切り替え機器からちゃんと2種類のピー音が聞こえるから。それでまず オペレートナビ用スイッチボックスから調べる事にした。スイッチを直接2に繋いで(1・2・3はスイッチ対応に設定済み) スイッチを入れると、パソコンは動かなかった。でもスイッチボックスに付いているボタン(1-5)を押すとパソコンは 反応した。そこでオペレートナビ用スイッチボックスの動作検証プログラムを起動して確認しようと思ったがソフトは 立ち上がらなかった。それでプログラムを一度削除してインスールし直した。するとオペレートナビ用スイッチボックスの 動作検証プログラムを起動出来スイッチボックスが正常に動作できている事が確認出来た。次に僕は切り替え機器に 疑いの目を向けI先生から予備として預かっていた機器に交換してみた。するとオペレートナビは正常に 動作するようになった。どうやら切り替え機器が誤動作を起こす様になってしまったようだ。ただ不思議な事は最初に直接 スイッチをオペレートナビ用スイッチボックスに繋いだ時になぜパソコンが動かなかったのか、それが分からない。
今朝お袋にパソコンをセットしてもらったら今度はマウスポインターが勝手に動き回って全く操作出来なかった。確かに 昨夕ハーティラダーを使っている時にポインターが不穏な動きをしているなと思っていたが昼間では正常に動いていたので まさかこんな風になるとは思ってもいなかった。まずはお袋に電源を入れ直してもらったがダメ、次にこのパソコンに二つ つけているマウスをそれぞれ外してもらうと僕が足で操作しているトラックボールマウスの方が不可思議な動きを しているのが分かった。僕の使っているトラックボールマウスはPS/2接続、だからUSB-PS/2接続切り替え器が必要だ。 はたしてトラックボールマウスが悪いのかはたまた切り替え器が悪いのか確認したかったがそれはお袋では無理なので 朝のパソコンは諦めた。
夕方またもや上の息子を呼んで確認してもらう。もうひとつのパソコンにトラックボールマウスを繋いで見てもらうと ポインターが勝手に動き回っていると、これでトラックボールマウスがおかしくなっている事が確定した。そこで トラックボールマウスのボールを外してボールの表面とマウス本体のセンサー部分を拭いてもらったがポインターはまだ 勝手に動いていると。これはもう今息子にやってもらえる最後の手段物理的衝撃を加えるしかないなと意を決し、息子に まずマウスを強く叩いくよう指示した。がどうにもならないと言う。それで今度はやけくそで「落としてみろ」と指示した。 すると「ひざの高さから落としてみるね。」と言ってマウスを落とした。その結果「ちゃんと動くようになったよ。」と。 息子には「マウスの中のセンサー部分にゴミでも溜まっていたのだろう。こういう事もある。」と説明した。僕の使っている トラックボールマウスは随分前に生産中止になっていて色々手を尽くしてみたがどうしても手に入らなかった。 だから大事にしなければならないのだが・・・・・。
お袋がいつも言っている事だが、僕にはこうして手伝ってくれる子供たちがいる事に感謝しなければと。 みんな本当にありがとうね。

2月7日 友遠方より来たる、また嬉しからずや
小学校中学校が一緒で中学2年までずっと同じクラスだったKが(中学2年でまた同じクラスになった時Kは悔し涙を流した という事だが僕はKをそんなにいじめていたのか?、僕はただじゃれ合っていただけだと思っていたのだが、全く女心は 分からん)実家に帰ったついでに僕の所にも遊びに来てくれた、しかも2人の美人の娘さんを連れて。Kの顔を見た時 懐かしさのあまり思わずほろり、『友遠方より来たる、また嬉しからずや』の心境だった。
Kとは小学校の頃色々な事で競い合った。そろばんでは僕はKの足元ぐらいだったが放課後前のホームルームでの 計算競争(全問正解した者から先に帰れる)ではKとYと僕でトップを争っていた。それに僕のコイン集めの趣味は Kに鳳凰の100円玉を見せてもらった事から始まったのである。
短い時間だったがKは色々な事を話してくれた。僕は知らなかったのだがKは一度地元に就職したが意を決して関東に 出て仕事を見つけ持ち前の明るさで家庭を築き根を下ろしたそうだ。何のコネもないのに見知らぬ土地に出て行って 仕事を見つけ明るい家庭を築くとはたいしたもんである。他にもKの話の中で僕の長年の疑問が解けた。Kの話は 少なからず僕に元気を与えてくれた。ありがとうK、会いに来てくれて嬉しかったし楽しかったよ。僕ももっともっと昔話に 花を咲かせたかった、身体が許せば・・・・・。

2月6日 通院日
世間では今年は暖冬だと言ってはいるが僕にとっては今年が今までで一番寒く感じている。おそらく病気の進行に伴い 首や肩回りの肉が薄くなったためだと思うが、ひどく寒さを感じる様になったために今までは楽しみだったリハビリや 通院を嫌だと思う日が多くなってきた。
今日はその通院日、外に出ると厚手の上着を着てきたのに寒い。車窓から見る風景も山は暗い碧・群青だし街路樹も 裸で寒々。ただ峠を越えてしばらく行ったところに咲いてた黄色い菜の花が4-5本、「もうすぐ春、暖かくなるから 頑張って」と言って励まされている様に感じた。

2月3日 豆まき
今日は節分豆まきの日、うちでも豆まきを実施。ここ数年鬼の役目は下の息子がやってくれている、それも自分で鬼の お面を作って。その息子が作っている鬼のお面年々出来が良くなってきている、今年のお面には色は3色しか 使っていないのに表情が良く出ているし。4年生になって絵で2回も入選しているしもしかしたら下の息子には絵心が あるのかもしれない。誰に似たって、僕には美術の才能はこれっぽっちも無いからやっぱり嫁さんだろう。
うちの豆まきはどんな?、家では豆まきはあまり盛んにやる事はなくなった様だ。娘と下の息子が僕の部屋で 遊んでいる時に「今から豆まきをやるよ。」と声がかかり、その後すぐに下の息子が鬼のお面をかぶり娘が豆を 持ってきて「鬼は外。」と声を上げた。その時まいた豆は4-5粒、おそらく僕の部屋がまいた豆で汚れる事を気にして 遠慮したのだろう。それから2人は出て行ったけど隣の部屋の方からは「鬼は外」「福は内」の掛け声は僕の耳には 入っては来なかった。今年は質素に豆まきをしたのかなあ。もし僕がこんな身体ではなかったら外まで豆まきを していただろうに・・・・・なあ。


[2009年の先頭に戻る]



1月
1月31日 やはり指はもう動かない!?
退院して3週間明日から2月、右手の薬指はやはり動かせない。まだ変わらずに自分では動かしている感覚はあるのに・・・・・、 もうこの指は死ぬまで二度と動かない!?のかなあ、悔しいし寂しいなあ!。
ホームページの更新どうしようかなあ?、今回も右足の親指と人差し指の間にピルケースのスイッチを挟んでするしか ないのかなあ。でも足の指の間に挟んだピルケースのスイッチではタイミングが取れなくて誤入力が多くて苦労するし 呼出コールがピーピー鳴ってみんなに迷惑かけるしな。しかし更新するには今はこれしかないしな。
先日テレビを見てるとガンで余命○年と宣告されているにもかかわらず免疫療法?を治療に加える事でガン細胞が 小さく出来た方が他のガン患者の方を訪問して励まし免疫療法?を勧める事により余命を宣告された方々が明るさと 元気を取り戻していくという番組があった。その方が言うには「ガンとの本当の闘いは病院や医師が見放してから始まる。 でも半年長く生きていればガンは新しい治療法が見つかる可能性がある。それくらいガンを取り巻く医学の技術は 進歩しているから希望を捨てないで一緒に明るく頑張って生きていきましょう。」と。僕はその方の心の強さに感心したと 同時に、不謹慎な言い方だがガン患者の方を(たとえ余命を宣告されていようとも)うらやましく思った。だってガンの 治療法を研究している人たちは世界中にごまんといるから期限を区切っての治療法確立の可能性を口に出来る訳だし それに死の直前まで程度の差はあれ動けるし言葉も発する事が出来るから。それに対して僕らは・・・・・。

1月30日 新しいパソコンが欲しい
HeatyLadderで名前をつけて保存が出来なくなった。最新バージョンに上げたから?からかと思って古いバージョンに 戻してみたが同じ事、どうやら他に原因がある様だ。あちこち調べてみるとKANAロックがかかっているしCAPSロックも かかっている、ついでにいつの間にか[かな入力]に変わっていた。以前ポインターが何もしたつもりがないのに とんでもない所に飛んでいった後によく起きていたがまた復活してしまった様だ。ただ以前は再起動すれば元の状態に 戻っていたのだが今回は・・・・・。
それに最近起動してしばらく操作していると自然にまた再起動する様になった。以前よくこんな風になっていたのだが スタートアップから不要と思われるプログラムのショートカットを削除したら起きなくなっていたのに、また起動時の メモリー不足が時々起こるようになった様だ。このパソコンを買ってからまもなくしてメモリーを512M増設したのだがやはり ケチらずに1Gにすべきだった。
そんなこんなでデュアルコアで大きなメモリー搭載の新しいノートパソコンが欲しくなった。その事を嫁さんに告げると 「どの位?。」「パソコンは必要経費と考えているからいいんじゃない。」「今のパソコンは子供たちの勉強用として 使う事にすれば。」と。安心したけどこんな僕のためにお金を使っていいのかという想いもある。ただ新しいパソコンを 買うと色々な設定を誰がするのかが大問題。無線LANとインターネットの設定の手順さえ分かれば僕でもみんなに 手伝ってもらえれば何とか設定できると思うのだが・・・・。

1月24日 雪
昨日今日と家の周りは一面雪化粧、身体から肉が削げ落ちてやせ細りほぼ皮と骨だけになった変温動物的な僕の 身体にはこの寒さはこたえるが心の中は何だかうきうきしている。子供の頃から僕は雪が大好きなのだ。いつもなら 遅刻ぎりぎりに起きて学校に行っていた僕が雪の降る日にはその深々とした独特の雰囲気で朝早く目覚め 誰もいない校庭のグラウンドに足跡を記す、それが雪が降った日の翌朝の僕の行動だった。
こんな僕の血を強く受け継いでいるのか下の息子が誰よりも早く降りて来て外に出た。起きてきたお袋に「(息子は) 外で何をしているのか?」と尋ねると「雪だるまを作っている。」と。それから1時間ぐらいして息子が作った雪だるまを 見せに来てくれた。その雪だるまは30pと小振りだったが墨で飾った目鼻立ちもしっかりしていて中々の出来だった。
ところが今朝は昨日よりもっと積もっている(10p位か?)のに下の息子も誰も起きてこない。子供の頃の僕ならもっと 薄暗い内に起きて大きな雪だるまを作っていただろうに。そのあたりが僕と下の息子との雪好きに対する想いいれの 違いだろう。もし僕が元気だったら無理やりにでも山まで息子たちを連れて行って1m以上もの大きな雪だるまを作りに 行ったしソリやスキーの真似事でもして楽しんだだろうに、残念だ!!。

1月10日 やっぱり右手薬指は・・・・・
昨日右手薬指様のスイッチをパソコンに繋いでやってみたがやっぱり右手薬指は動かなかった。恐れていた事が現実に 起きてしまった。右手の薬指でスイッチを操作するのはもう難しい様だ。右手の薬指は自分では動かしている また動いている感覚はまだあるのだが外から見ていたら残念ながら動いていない様だ。いつかはこの日が来る事は 十分に承知しているつもりだったのだがいざやってくるとやはりショックは大きくて隠せなかった。
けれど嫁さんが右手を悲鳴を上げたいほど強くもみほぐしマッサージしてくれたら手の血行が良くなって手が暖かくなり また一時的にむくみが引いて薬指も目にも見える程にほんの少しだが動いた、ただ翌朝には元に戻ってしまっていたが。 どうやらむくみも指の動きに関係があるのかもしれない。右手・右腕のむくみはどうやったら無くなるのだろうか?。 また上の息子に手をマッサージしてもらっている時に「この(右手の薬)指だけは(いつまでも)動くんでしょ!。」と、 そう信じているこの息子のためにももう一度薬指が元の様に動かせる様になるため今出来る努力をし がんばらねばと思う。
だけど今右手の薬指でスイッチが押せないと呼出コールやオペレート・ナビが使えない。呼出コールは何とか足を横に 持ち上げ何とか押すとしても(かなり不安だが)オペナビが使えないとホームページの更新やメール対応・その他諸々が 出来なくなる。僕は文章作成とホームページの閲覧(少し表示出来ないものがある)はハーティラダーでやっているが 他はオペナビだから。確かに足でのマウス操作を諦めてスイッチを押すようにすればハーティラダー(Window操作)でも オペナビでも出来るのだが僕はまだマウス操作とスイッチ操作を併用したいのだ。オペナビ用のスイッチ操作の方法を 何か考えなければならないなあ・・・・・・・・・・。

1月9日 退院
今日午前中に退院、やはり入院中は暇過ぎて困った。
正月の三が日はテレビで駅伝(全国実業団駅伝・箱根駅伝)を見て過ごせたがそれ以外は毎日1時間ほど車椅子に 座らせてもらって後はベッドの上で寝るだけ、暇だった。特に夜9時の消灯後そのまますぐに寝ると未明の2時・3時に 目が覚めてどうしようもないからせめて11時までは起きていて(というより家での習慣で11時までは寝れないだけ) それから睡眠誘発剤の力を借りて寝る、そんな毎日の繰り返し、やはり暇過ぎて・・・・・、そろそろ限界に達していた。
そして昨日今日たくさんのスタッフの方に「また待ってます!。」と温かい言葉をかけられて、僕の受け持ちの看護師や 看護師長さん・この日の部屋担当の看護師さんに見送られて家路についた。
家に着きその内に子供たちが学校から次々に帰って来て僕の部屋に顔を出し「お帰りなさい。」と声をかけてゆく、 それでようやく家に帰ってきたとの心持になってきたし嬉しさが込み上げて?きた。


[2009年の先頭に戻る]