12月 12月28日 レスパイト入院そして冬眠 26日から年末年始にかけてレスパイト入院に入った。年末年始に入院するのは今年で連続3回目、諸々と思うところが あって年末年始に入院する事にした。 入院する日の前日嫁さんが入院する病棟を確認したところ、いつも入院している病棟が突然都合が悪くなったとかで 今年2度入院した病棟に入院する事になったとの話があった様だった。この病棟、スタッフが明るく元気があってこちらも 元気をもらえて良いのだが僕にはひとつ合わない事があった。それは消灯が早くて夜9時には電気が消える事、夜7時とか 8時から見たいテレビの番組が始まる僕は「正月の夜は何をして過ごせばいいのか?」と訴えた。そこで嫁さんが連絡を 取ってくれて消灯後もテレビを見ても良いとの許可を取り付けてくれた。 ところが入院した日病棟に着いてテレビを点けてみると民放が1チャンネルしか映らなかったしスタッフがチャンネル 調整をしてくれようとしてもテレビにチャンネルロックが掛かっていて出来なかった。その上翌日嫁さんが友人のYと 一緒に来た時にはYが「箱根駅伝を見てね。」などと勝手な事を言った。僕が「民放が1チャンネルしか映らないから 無理」と返すとその事がどこでスタッフに広まったのか「箱根駅伝が見れるようにしよう!。」と言ってくれて、どこからか チャンネル設定の出来るテレビを見つけてきてくれて民放があと2局見れる様に(民放合計3局)設定してくれた (後で考えて分かったのだが、病院のテレビもほとんどが地デジ対応のテレビに切り替わっていてその地デジ対応テレビに チャンネル設定ロックがかけられていた様だった)。他の民放も見れる様になった後数人のスタッフから「箱根駅伝が 見れる様になって良かったですね。」とニコニコしながら言われてしまった。 いくら看護師長の許可が取り付けてあるからといって消灯後自分だけおいそれとテレビを見続ける勇気?があるかというと それほど面の皮が厚い訳もなく『郷に入れば郷に従え』と結局消灯後テレビを見るのは諦めた。またパソコンも 消灯後出来る訳でなくまたそれ以外の時間ではあまり出来そうもなくしかもパソコンをする都度にそれぞれのスタッフに マウスを足の間にどういう風に置いてくれとか一々説明するのも面倒臭いから今回の入院中にパソコンをするのを 止めにした。 結果今回の入院中は暇を持て余す事となりもう冬眠?するしかないと思った次第だ。 ただ2週間以上も冬眠するとなると僕の身体特にパソコン操作と呼出用コールを鳴らす足や右手薬指の動きが どうなるか?、まあもし動かなくなってもそれが僕の定めだと思って諦めるしかないという事だろう。 もうじたばたするのにも疲れた・・・・・。 12月24日 散髪 今日入浴車が来る前に万を帰して散髪に来てもらったが、風邪を引いてしまうかどうか結果はいかに?。 散髪に来てもらったのはいつもの床屋のリリアンさん、リリアンさんに散髪をお願いする様になったのは僕が 老人健康福祉施設にデイケアに通う様になってからだからもう8年にもなる。訪問理容担当?のKさんは僕の状態をよく 分かってくれているからベッドに寝ているままでも十分に綺麗にしてくれる、まあ僕が鏡を見る事はほとんど無いのだが。 ただ今日は短く切らないようにお願いした。またこの日は介添えの方が初めての人だった。いつもの介添えさんは僕が 以前勤めていた会社で20年ほど前所属していた事業部の人によく似た方だったので散髪は思い出しの場でもあったのだが (最初見た時はその人の妹さんでもいるのかと思ったほどビックリしたし懐かしかった)。 散髪の後入浴車が来てチクチクとする身体を洗い流してもらってようやくさっぱりした(というより入浴車が来る日に散髪を 頼んでもらっているのだが)。ただ頭の方は少々スースーしてはいるが、まあ風邪は引かなくてすみそう。 良かった良かった!!。 12月21日 駅伝鑑賞 12月ー1月はテレビで駅伝を楽しむ日が続く。先週の日曜日は実業団女子駅伝、今日は全国高校駅伝(午前女子・午後男子)、 元旦は実業団駅伝で2-3日は箱根駅伝、それに1月中旬の都道府県対抗駅伝(女子翌週男子)と続く。正月や日曜日の 暇つぶしには絶好の番組だ。それにこれらの駅伝を僕は15年以上見続けているから高校駅伝で活躍した選手のその後を 見る事が出来る。 今回の高校駅伝から花の1区(最長区間)での留学生の起用が禁止された。留学生のいない高校との不平等感を 小さくするための措置だろうが果たしてそれだけなのだろうか。本当に学ぶために来ている留学生・売名のためだけに 留学生を受け入れている高校でなければこの措置を適用する必要はないと思うのだが。でもまあこれで男子も女子も レースが面白くなったのも確かだ。それにしてもここ数年陸上長距離界に有力選手を何人も輩出している 佐久聖長高校が初優勝とは驚きだった。 12月19日 夢 最近よく夢を見る、それも一晩に何回も。それだけ僕の眠りが浅いのだろうか?、確かにこの頃身体がきついと感じる事が 多いし昼間よく眠くなる。何とか夜ぐっすり寝て昼間は疲れが出ない様にしたいのだがやはり睡眠剤を使わないと 無理か?。でもまあ年末入院する事で生活のリズムも変わるだろう、病院では睡眠剤も使うしね。 最近の夢の中で僕は病気なのに仕事をしてる、不思議な事に動き回っている。登場人物は多岐、小中学校時代の 同級生から社会人になってからの同僚や取引先の人たちなど色々な人が入り混じって出てくる。未だに仕事に未練が 残っているのか、割り切ったつもりだったのに。どうせなら宮之浦岳や九重山などに登っている夢や無人島で 自給自足をして楽しく暮らしている夢を見せてくれても良いのになあ。 12月18日 掛け布団がモコモコ このところの僕は随分寒がりに成ってしまってたくさんの掛け物を掛けてもらって寝る、それでもまだ背中がゾクゾク しているのだが。その様子を見て嫁さんがよく「モコモコじゃない!。」と笑いながら言っているがそういう嫁さんだって 随分着込んでいてモコモコに成っている。 今日羽毛布団の訪問販売が来た時にお袋と嫁さんが掛け物であまりにもモコモコしているとして「羽毛布団を 買ってあげる。」と言い出した。まあありがたい話である。でも訪問販売の人が持ってきていた羽毛布団を実際に 見せてもらうと、足でコールを鳴らしマウスを操作しているので足に掛け物を掛けられない僕にはあまりにも大き過ぎた。 そこで「半分の大きさの羽毛布団はない?」と尋ねるとオーダーメードでなら作れると。どうしたものかなあ。 12月17日 髪の毛 最近髪の毛が目に入って痛かったり頬に当たって痒かったり、手を動かせる人なら取るに足らない事なのだろうが 僕らはあらゆる手段で意図を伝えてやってもらわなければならない。まあ邪魔になるほど髪の毛が伸びてきたという事だろう。 多分半年以上前に散髪してもらったからもうそろそろ髪を切りたいところだが髪の毛を切ったらベッドに寝ていても 頭から冷えてきて風邪を引きそうで言い出せない。今日の入浴車の時も「お正月の前に髪を切る予定は ありませんか?。」と尋ねられても・・・・・、何て答えて良いのか分からなかった。 風邪さえ引かなければ髪も切れるのに・・・・・。 12月15日 親父退院す 午後親父が退院してきた。帰って来てすぐに僕の部屋に顔を出し「今帰った。」とただひと言、僕も黙って?ただ目配せ。 色々と言いたい事もあるのだろうがただそれだけで顔を見せただけで出て行った。でもまあ見かけと違いシャイな 親父にしては上出来だろう。僕も親父には言いたい事言わなくてはならない事が一杯あるのだが、親父は文字盤は 使わないし使えないから親父との間には本音をぶつけ合うコミュニケーションは難しい。 そこで親父に手紙を書いてお袋経由で渡してもらう事にしようと思った。本当は現時点では不治と言われている病気に なってしまった事で余計な心配をかけている事や分家してから今までずっと守り大きくしてきた家や田んぼ・山を僕が 守れなくなった事を謝るのがまず先にすべき事なのだろうが、今回書くつもりの手紙ではそれは抜きにして親父の健康に 関係する事を書こうと思う。 何にしても子供たちが高校を卒業するまでは元気でいて欲しいものだ。 12月14日 手のスイッチが壊れた! パソコンと呼出コール用の右手薬指用スイッチを上の息子に手直ししてもらいながら誤魔化し誤魔化し使っていたのだが とうとうスイッチが反応しなくなった、ついに壊れてしまったのだ。スイッチとコードの接点かコードのどこかが 断線したものと思われる。 そこでいつも入院している病院の作業療法士のU先生(右手薬指用スイッチの製作者)から予備でいただいていた フィルムスイッチに嫁さんに交換してもらったのだがあまりうまく反応してくれないのだ。おそらく今回のフィルム スイッチのフィルムそのものの材質が前のフィルムスイッチより若干硬くて僕の右手薬指の力では接地させるのがかなり 難しくなった様だ。 嫁さんは「力が弱くなって押せなくなったのでは?。」と僕にとっては無慈悲で辛い事を簡単に言っている、そうではないとは 残念ながら言えないのだが新しいスイッチに交換するまでは僕のこの右手薬指一本の力でも実際に使えたのだから。 今はタオルを随分厚したり手の位置を少しずつ変えてもらったりして使ってはいるがセッティングが難しくしかも時間も かなりかかるのでみんなに嫌がられる様になってしまった。 年末26日からいつもの病院に入院するのでU先生に見ていただこうと思っている。 それにしても娘や息子に修理してもらおうとしても手に負えないと思ったらすぐに「これ以上分からない、もう専門家に 任せようよ。」と諦めの言葉を口にする。出来そうもない様なら簡単に諦める、残念だし寂しさを覚えてしまう。でもまあ このスイッチの仕組みを知らないのだから無理もないか!。 12月12日 通院日 今日は2週間に1度の通院日、天気晴朗なれど空気冷たし、久々に外に出ると空気がひんやり寒い寒い真冬の訪れ。 だんだん弱ってきている僕の身体には厳しい冬になりそう。 診察の後主治医から「レスパイト(入院)はいつにしますか?。」との質問があり「年末年始」と伝えてもらう。来年の1月1日は 木曜日で年末年始に嫁さんの手をひどく煩わせる事は一度だけだから久しぶりにか正月を家で過ごすのも悪くないかなと 思ったのだが、訪問看護も訪問リハビリも来ないから暇で堪らないだろうし家族も何処にも出かけられないだろうから 止めにした。 病院からの帰りにちょっと寄り道、竜門に寄ってもらう。竜門の紅葉はさすがにもう終わっていたがそれでも山の 所々ではまだ赤く染まっている部分も残っていたし道の脇には小さいけれど真っ赤なハゼの木があちこちに見受けられた。 それに竜門峡の駐車場の手前には一本だけだが今が紅葉の盛りの大きな楓が僕らが見に来るのを待っていてくれた。 12月のこんな時期に紅葉を見られるなんてラッキーというべきだろう。 竜門で紅葉をちょっと楽しんだ後は2時過ぎから小学校のマラソンがあっている(1・2年生800m?、3・4年生1000m、 5・6年生1200m)という事でコースの一部になっている道で息子たちを待ち伏せ?見学する事に。やがて4年生の番、うちの 近所の子が先頭で通過したとの事、まああの子のお父さんは昔から足がはやったしあの子の叔母さんや叔父さんも 速かったからその血を受け継いでいさえいれば先頭で来ても何ら不思議はない。一方うちの息子はどこにいたのか? 目を凝らして見ていたつもりなのだが・・・・・、子供たちが皆同じ体操服を着ていた事もあって分からなかった。しばらく 待つと次に5年生が来て最後に6年生が来たのだが今度も上の息子を見つける事が出来なかった。我が子を見つける事が 出来ないなんて全く情けない話だ、せめてメガネを度の強い方に代えていけば良かったと思うのだが・・・・・。 息子たちが帰って来てから「どうだった?」と尋ねると上の息子は「28番(真ん中)だった。でも精一杯走った。僕は マラソンより短距離走が好きだな。」と、下の息子は「(順位なんか)知らん。」のひと言。でもまあ長距離走では苦手で 諦めが早くて完走しか目指していなかった僕の血を子供たちが引いているのならマラソンが遅いとしても無理からぬ 事だろう。こんな時こそ嫁さんの血を強く受け継いでくれていれば良いのだが・・・・・。 12月8日 麻生内閣支持率危機的水域に 朝麻生内閣の支持率が急落して危機的水域に入ったとほとんどのテレビ局が伝えていた。でもまあそれはそうだろう、 麻生総理は有言不実行だし公に発言した事がころころ変わる。それに麻生内閣が成立してから今臨時国会中に 経済対策において何を成したというのか。 確かに1次補正予算は成立させたがあれはリーマンショック以前の世界経済の状況に対策を打ったいうなれば福田内閣の 置きみあげ、リーマンショックで世界経済も日本経済も更にぐーんと悪化しているのに「政局よりも経済対策、 経済対策はスピードが重要」と言いながらも「年末までは1次補正予算で十分」とトンチンカンな説明で2次補正予算の 提出を来年の通常国会の冒頭に先送りするなど党利党略と党の保身に走っていると見られても無理の事と思う。 こんな事をしているから麻生内閣の支持率が急落し不支持率が支持率を上回ったのも仕方のない事だと思うのだが。 12月6日 学校給食にご飯が 福岡国際マラソンを見た後にタカジンの『そこまで言って委員会』にチャンネルを変えてもらったのだが、その時丁度 農業政策がテーマに上がっていた。僕は日本の農業政策はまず食料自給率を上げる事・そのためには日本人の米離れを なくし日本人の米の消費量を倍増させる事だと思っている。また米離れを促し加速させたのはアメリカの言いなりになって 学校給食にパンを導入継続ししかもそのパンが次第に美味しくなった事にあると思っている。もしパンの味が僕らが 子供の時の様に取るに足らぬ味のままだったらここまで日本人の家庭の食卓にパンがはびこり米離れが進む事は なかっただろう。日本人の米離れをなくし日本における米の消費量を倍増させるには学校給食にご飯を導入し 子供たちにご飯の美味しさを認識してもらいそのまま大人になってもらうしかないと思っている。 そこで傍にいた娘に「給食でご飯は月に何回出るか?」と尋ねたところ娘は「ほとんどがご飯だよ、パンは月に 1回ぐらいかな。」と。「小学校は?」と聞くと「たぶん小学校も同じだよ。」と。「いつから変わったのか?」と続けて尋ねると 「10月1日から、でもそれまででもパンは週に2回だったよ。」と答えてくれた。我が町の学校給食が既にかなり前から 米食中心に変わっていたとは僕の認識不足だったし驚きだった。我が町の教育委員会が革新的だとはとても思えない、 むしろ保守的な方だと思う。そんな我が町の学校給食が米食に変わっているという事は佐賀県内のほとんどの 学校給食が米食に変わっているのだろう。いくら佐賀県が米どころだといっても保守王国の佐賀県は政府の方針を 遵守しているだろうからほとんどの都道府県の学校給食がもう既に米食に変わっているのかもしれない。それなのに何故 米の消費量が増えていかないのか・・・・・。 ひとつ思いついた事がある、それは日本人が物臭になったからではないかと。パンはお店で買えばすぐ食卓に 並べる事が出来る。それに対してご飯は米を洗う・炊飯・茶碗につぐそれに後片付けとパンに比べれば大いに手間が 掛かる。もしその手間を嫌って日本の若者ご飯を敬遠しているとしたらもうどうしようもないのかもしれない、米粉で パンを作る以外には・・・・・。 12月5日 風邪ひきさんが一杯 今週の初めには下の息子が風邪を引いて学校を休んでいたと思っていたら今日は上の息子にしては珍しく朝の挨拶に 来ない。マスク姿の嫁さんに「(上の息子は)どうした?」と尋ねたら「風邪引いて部屋で寝てる。」と。今の我が家はお袋も 娘もマスクを掛けているし風邪ひきさんだらけ、その上上の息子も嫁さんもお袋も大なり小なりの喘息持ち、 どうなることか?。もし僕が元気だったらこんな時こそ昔取った杵柄で料理に洗濯と応援出来るのに、後片付けは 下手だけど。今はただベッドの上で見守るだけ・・・・・。 それにしても今日日の子供たちは何故こんなにも弱くなったのか?。僕らが子供の頃は無遅刻・無欠席の健康優良児が 一杯いて冬でもお下がりや一帳羅の服を着て素足で廊下を走り回っていたし休み時間になるとほとんどの児童が外に出て 馬乗りや鬼ごっこ・缶蹴りをして遊んでいたものだったが今の子供たちはどうなのだろうか。綺麗な服は着ているが 病気に対する抵抗力はかなり弱っているのではないか。子供たちはいつからこんなに弱くなったのか?・誰のせいなのか?。 僕ら大人がいつ育て方を間違ったのか?。 現代社会は昔からの大切なものをいくつ失ってしまったのだろうか!。 12月3日 宝満山 夜嫁さんが何を思ったか突然「息子たちは宝満山に登れると思う?。」と突拍子のない事を聞いてきた。宝満山は昔は 修験僧が修練に入った山で福岡市近郊の山々では最も険しいと言われている様なのだが、僕はおそらく50回以上 登っているしそれに11年前に3歳になった娘を連れて行き自分の足で登らせた事があったから「大丈夫」と答えた。 嫁さんは子供たちと一緒に一度宝満山に登ってみたいとの事だが子供たちは大丈夫だろうが嫁さんの方が果たして 体力がもつのか・・・・・?。 夜眠る時に部屋の電気を消してもらってから竃戸神社の駐車場から宝満山山頂までの登山道を歩いてみた、もちろん頭の 中で。宝満山は22の終わりに福岡に住んでから何度も何度も登ったから道の周りの風景をよく覚えている。もし宝満山 登山道周辺風景クイズでもあったらほとんどの問題に答えられると思っているのだが、まあ10年以上前の風景なのだが。 例えば登山道の会談に大きな木が横たわっているのは何合目あたりとか・・・・・。 僕はこの頃思うのだが、登山道を人の目線で眺めながら登って行き山頂からの風景を眺めているDVDがあっても 良いのにと。そんなDVDを見れば僕の様に動けない者でも山に登った様な気になるのではないかと思うし小川の せせらぎや木々の間をそよぐそよ風を録音したCDが販売されているくらいだから山登りのDVDが売られる様に なっても良いと思うのだが。 |
11月 11月30日 ちょっと嬉しき事 最近下の息子も学校に行く時によく僕の部屋に顔を出し「行ってきます。」と挨拶をして行く様になった。そのぶっきら棒な 声を今までは部屋越しに聞いていただけなのでちょっと嬉しい。どうやら嫁さんが「(お姉ちゃんやお兄ちゃんと同じ様に) お父さんにも顔を見せてから行きなさい。」と言ってくれたからようなのだが嫁さんのその心遣いも嬉しかった。 下の息子は最近文字盤の使い方も上手くなってきた。用件が終わったらすぐに「もうよか?。」と言って行こうとするのは 相変わらずなのだが、会話が出来る・僕の意図する事が分かってもらえるのはやはり嬉しいものだ。久方振りに 小さな幸せ見つけたという心境を味わった。 11月28日 党首討論 今日の午後3時から党首討論の放送があった。民主党の小沢党首が麻生総理にぶつけたテーマは第2次補正予算の 今国会会期内提出の是非と衆議院の早期解散実施の有無、この党首討論の中で麻生総理の意識認識が国民の感覚とは はるかに懸け離れている事を国民の大多数が感じ取っただろう。 党首討論の中で小沢党首が2次補正を早急に提出しないで中小企業が年末を乗り越えられると考えているのかと 問い詰めた時麻生総理は数字的根拠を示しながら1次補正で中小企業対策は十分と答えた。たとえ現在の数字が どうであろうと世界同時不況・世界同時経済減速が進んでいて何が起きても不思議ではない世の中においては あらかじめ十分なセイフティネットを張っておく事が政府・政治家の務めではないか。こんな百年に一度(麻生 総理自らが 言っている)の危機的事態にあんな認識しか示せなかったとは経済の麻生は名ばかり、経済の破滅的危機よりも党利党略を 優先するとは自民党に今の日本をリードする資格はない。 メディアは麻生総理の「医者は一般常識に欠ける人が多い」とか「健康を維持している自分には保健からマージンをもらっても 良いのでは」発言を失言と報道しているがあれは失言でも何でもない。あれは麻生氏の心の内にある本音が言葉として 現れただけの事、上流家庭のお坊ちゃまとして育てられた麻生太郎氏には一般社会の常識や下々の家庭の生活など 到底分からないだろう。日本の東アジアに対する戦争責任にしても閣僚になってからは村山富市元内閣で閣議決定した 内容を踏襲しているが以前は田母神論文と同じ様な事を唱えていた気がするのだが。 僕は日本が東アジアに武力によって進出した事実がある以上明治以降の武力による海外進出の戦争責任は日本が 感じるべきだと思う。戦争責任を認めない人の中には当時の欧米列国の植民地政策を揚げ日本は欧米列国に 習っただけだと主張するが、植民地政策自体がどんな理由を付けても侵略戦争なのだし何だかんだと唱えても侵略した 事実は変わらないのだから歴史上の事実は事実として謙虚に受け止め正しく認識すべきであろう。また侵攻した国において 日本軍の略奪・暴行・虐殺はなかったと反論する人もいるが、古今東西世界においても日本においても大なり小なり 侵攻した兵士が行っていた事は多くの歴史が物語っているのだから両国で反駁するのではなく協力して事実を 追求していくべきだろう。それに日本軍が進出した事で社会インフラが整ったし進出を現地の人が歓迎していたと 主張する人もいる。それは事実だろう。でもそれは軍部や現地政府と結ぶ付いた極一部の富裕層の人間だけ、現地の 大多数の人たちが侵略されたと感じていたらその軍事的侵攻はやはり侵略戦争だったと呼ぶべきだろう。だからといって 現代の日本国民や現役自衛官が自虐的になる必要はないし自虐的に捉える必要もないと思う。過去の日本軍の 東アジアへの侵攻した事実を侵略だったと正しく認識反省しその認識と反省の上で、国交を締結した国には互いに 対等の立場で外交を展開すれば良いと思う。 話を党首討論に戻すと、民主党の小沢党首は今国会会期中に追加の経済対策を実施しないのなら(2次補正予算提出なし) 衆議院の早期解散を実施せよ、衆議院の早期解散は自民党総裁戦時の麻生候補の思いだったはずだし2次補正予算の 内容を発表した時に麻生総理が唱えた「政局よりも経済対策」を槍玉?に上げこの緊急の時期に経済対策が1次補正で十分と 言うのなら衆議院を解散して国民の信を問えと詰め寄った。全く道理の通った話しだ。だが麻生総理は解散は総理大臣の 専権事項と一蹴、意にも介さない。でもまあ負けると分かっている選挙を打って出る気概が今の自民党執行部の誰に あると言うのか、また麻生総理も総理大臣の椅子がよほどご満悦の様で負けそうとメディアで報道されている選挙は どんなに世論が騒いでも自民党に大風が吹かない限りは任期満了までする気は遂に無くなった様だ。こうなると 民主党も戦略を変更して追求・反対ばかりする野党から脱皮して民主党にどれだけ政権能力があるかを国民に猛然と アピールしなければならない。そのためにはまずこの未曾有の経済危機の打開を目指した法案を直ちに提出し国会を 民主党も運営しているという姿勢を見せる事。例えば金融健全化法案にしても与党が修正協議に応じないのなら 民主党としての金融健全化法案を参議院に提出して今国会での成立を図る、中小企業の資金繰り対策にしても 派遣労働者の期間途中での解雇など労働者対策にしても同様の事が言える。政府が必要な2次補正予算案を今国会 会期中に提出しないのなら何故民主党が法案を出して成立を図ろうとしないのか、政権担当能力がある事をアピールする 絶好の機会なのにどうして動かないのか理解に苦しむ。 党首討論はいつもの様にぬかに釘状態に終始した。こんな事を繰り返していても意味があるのかという人が いるかもしれないが、国会の第一党と第二党との考え方の違いを党首の口から聞く機会はそうはない。だいいち党首討論の 時間が短すぎる。もっと長くすればすれ違いばかりの返答をしているのを国民に見られているのが恥ずかしくなり さすがに実のある議論を展開する様になるのではないか!。最低でも3時間は欲しいなあ。 211月26日 身体がまた弱ったなあ! 最近油断をしてなくてもすぐに鼻詰まりするし続けてくしゃみが出てしまう、我が身体ながら全くもって情けない話だ。 今日の入浴車でもバブを入れてじっくりと温まって思っていたより素早く着せてもらったのだが、夕方になるとまた 鼻詰まりに。これは以前より僕の体の免疫力そのものが弱っていると言う他はもう言いようがない。それに最近はいつも 眠たいし夢も良く見るようになったし何もやる気がしないし・・・・・。せめてホームページだけはと思って続けてはいるが 更新する間隔も延び延びになっているし。どうやら脳や精神もかなり退化してきている様だ。 こんな事では僕のホームページに『いつか直る日が必ず来ると信じて、生きる』なんてタイトルを付けている事自体 ちゃんちゃらおかしいし恥ずかしい。今はもう自信もすっかりなくなった。 11月25日 親父の入院 昨晩親父がフラッと僕の部屋に来て寂しそうな何ともいえない顔をして「明日からしばらく入院する。」と、そして今日 入院したようだ。親父が今日入院する事はお袋から先日告げられていたし食事をほとんど摂らず酒で栄養を補給している くらいならと僕も親父の入院を支持した。親父が僕の部屋を訪れる事は同じ屋根の下に暮らしていてもほとんどない、 何かの行事があった時に酒の力を借りてたまに話しに来たり僕のコールに家人が誰も反応しない時に顔を出す程度だ。 それに親父は家の中で唯一文字盤が使えない人だから僕との会話は成立しない。いずれも親父のシャイな性格がなせる業だし 親父の背中を見て育った僕としてはそれで良いと思っている。朝顔を出してくれた娘に「おじいちゃんに元気になって 帰って来てと挨拶してきて欲しい。」と僕の気持ちを託した。 お袋によると今回の親父の入院は親父が自分の手で一歩一歩大きくしていった家や田んぼ・山の将来の不安を感じるあまり 酒を飲み飲みいつも考え込んでいた事に起因しているとの事、まあそれでも今の親父の飲む酒の量は昔の 5分の1以下だろうが。僕がこんな状態だから親父が今まで可愛がって?きた家や田んぼの行く末を心配する気持ちは よく分かるが詮無い事、今は成り行きを見守るしかない。僕が家を自覚したのは大学3年の9月になってからの事、その時 初めていずれは親父の育ててきた家や田んぼを僕も守っていかなければならないと思った。それまでの僕は否応なし・ 有無を言わさずに田んぼの手伝いに借り出されていたから早く家を離れて自立した生活をしたいといつも思っていた。 離れた大学に行ったのはそういう想いもあったからだ。今は息子たちに田んぼは難しいだろうが(なにせ息子たちは 田んぼ仕事はした事がほぼないから)家を守る・守らなければならないとの想いが生まれてくる日をただ期待し信じて 待つしかないのだ。親父にもその日が来るまで田んぼを守ってもらうまたはこんな動けない僕でも田んぼとしての機能を 維持・管理する方法(例えば田んぼを誰かに任せて作ってもらうとか誰かに預ける事を考えるならばその契約の場に 僕を同席させるなど)を僕に伝授してもらうしかないのだ。それに少しでも息子たちを田んぼに連れ出して農作物を 作るという事がどういう事なのかを息子たちに少しでも体験させ伝授しておくしかないのだ、僕は動けないのだから 親父に息子たちの見本になってもらうしかないのだ。 将来食糧危機は必ず日本を世界を襲ってくる。その前に近い将来日本で農業が見直される、農業漁業を 見直さざるを得ない時期がやってくる。その時には農業も漁業もなくてはならない花形に近い存在になる。政府も いずれは農業政策を必ず見直してくる、日本を国として自給自足が出来る国にするためには見直さざる得ない。 いずれは農業をしていて良かったと思う世の中が来ると思っているのだ。 僕の期待している農業政策は、 @まずは日本国民の米離れを防ぐために学校給食を全て米食に変える、必要ならば補助金を支給する A減反政策の廃止B大規模農家に国際競争力をつけるための支援継続 C兼業農家が農業で少しでも益が出る様な農業支援策の実施、小規模兼業農家が利益が出ない一番の理由は 個々の農家がトラクター・田植え機・コンバイン等の農機具を揃える事・揃えたがる事にあると思う。農機具にまつわる 経費を最も削減する手段はある程度人数が集まっての共同購入かレンタルだと思う。そしてそれらの管理が出来る 可能性のある身近な組織として農協がある。農協の支援部門は農機具の販売マージンで利益を上げるのではなく 農機具のレンタルや人的応援による経費で利益を上げる様に舵を切りなおす時期に来ていると思う。政府は農協が 多くの農機具を購入する場合の借り入れ資金の利息の補助と災害等で農機具をどうしても借りれなくて損失が生じた 場合損失を補償出来るような基金の創設支援をして欲しい D循環型農業の展開 不思議に思うのだが米や麦をコンバインで脱穀した時に田んぼに無造作にゴミとして捨てられる 稲藁や麦藁を肉牛や酪農牛の餌にしないのかと。昔家で牛を飼っていた時は草と藁を切り刻んで飼料を混ぜて餌として 与えるのが学校から帰って来ての僕の仕事だった。コンバインの煙突状の排気口から出される物を袋詰め出来る様にして 運べば難しい事ではない。代わりに牛舎からは糞を田んぼに配ってもらう。 E販売ルートの短縮 先般の事故米の報道で始めて知ったのだが米の販売流通ルートは複雑怪奇だ。あれは何も 事故・工業米に限った事ではなくおそらく食用米も同じだろう。我が国では米の価格を吊り上げる仕組みが出来上がって いるのだろう。米の販売価格を適正に下げるためにももっと簡素で分かりやすい販売ルートにすべきだろう。 F株式会社の農業参入を認可 外国産の安い農産物も実際に入っている事だしある割合以上の地元採用を条件に 株式会社の農業参入をそろそろ認める時期に来ているのではないか 以上 11月24日 振り替え休日 今日は昨日の勤労感謝の日の振り替え休日で訪問看護も訪問リハビリもお休み、こんな日はヘルパーさんが来てくれて 清拭をしてもらえるのだが吸引が出来ないし文字盤も上手くはないから僕に慣れているヘルパーさんが来ても気持ちの 対応にチト苦労する時もままあるが今の介護保険制度ではどうしようもない。 祝日の僕は暇を持て余す。今日は国際千葉駅伝があったからどうにか良かったが何もない祝日は一日中パソコンを して過ごすしかない。以前はそれでも良かったが今はひざや足首が痛くなるので長時間のパソコンは出来なくなった。 だから今はテレビを見て暇をつぶすしかないのだ。時間を持て余していると少し寂しさを感じるな・・・・・。 11月22日 身体が寒い訳 どうしてこんなに身体が寒いんだろうか?、その理由を自分なりに考えてみた。 身体が寒いといっても全身が寒いという訳ではない、人工呼吸器の力を借りて呼吸する度に肺そして肺の周りが冷えて くるのである。この感覚は昔味わった事がある、もうふた昔も前の事だがスキーをしていた時にスキー場の山頂で激寒の中 周りの景色を見下ろしながら深呼吸をした時肺の中に冷たい空気が入ってきて全身が身震いした事があった。あの時 肺がこんなに冷たさを感じるものなのかと驚いたのでよく覚えている。呼吸する度に肺の感じる感覚があの時感じた 空気の冷たさ・全身が身震いする様な感覚によく似ているのである。 僕の肺には人工呼吸器から空気が長さ75cmの蛇管・加湿器それに同じ2本の蛇管を通して送られてくる。加湿器では 空気が加湿・加温される。ほとんどの人が肺に送られてくる空気は加湿器を通ってくるから暖かいと思っているようだが 必ずしも肺がいつも暖かいと感じているとは言えない。肺の中の肺胞はおそらく37℃近くあるだろうが外気がかなり 冷たい場合呼吸器に取り込まれる空気もかなり冷たいから加湿器でいくら暖めても暖めきれるものではない、まあ そのために調整用のボリュームが付いているのだろうが。それに暖かいのは加湿器の中と2本の蛇管の中の空気だけ、 その容量は蛇管の直径が3p未満だからせいぜい1600ml(蛇管2本分の容量はπ×半径×半径×長さだから π×1.5×1.5×75×2≒1050ml)、僕の呼吸回数は1分間に15-16回・1回換気量は450-500mlだから4回呼吸すれば 暖かい空気はなくなってしまう。まあ4回呼吸する間にまた温まってくれれば良いのだが加湿器にはそこまでの力はない。 どんなに外気が冷たくても健康な人が呼吸しても肺が吸い込んだ空気を冷たいと感じる事はほとんどない、人間の身体は 全くよく出来ているものだ。 身体が寒くならない様にいろんな事を試した。掛け物を身体が重いというくらいまで何重にも増やしてみたし普段から肩に バスタオルを掛けたりしているしまた蛇管の中の暖められた空気が外気で冷えない様に嫁さんが断熱材で蛇管を 巻いてくれたがほとんど効果はなかった。ただマフラーの様に首にしっかりとタオルを巻いてもらうと肺は依然として 寒さを感じていたが身体は不思議な事にあまり寒さを感じなかった。今はこれらの合わせ技で寒さに耐えているところだ。 11月21日 今年最後の紅葉観賞 今日の通院日、診察が終わったら紅葉を見に行く事になった。天気は家を出る時は曇っていたが病院を出る時には 残念な事に雨が落ちていた。それでも紅葉を見に行く事に、これが今年最後の紅葉観賞になるだろう。病院の池の亀が 一匹この雨の中甲羅干し?しながら見送ってくれていた。 今日の紅葉観賞のコースは我が町の紅葉の名所、まずは国の天然記念物に指定されている大公孫樹、入口の ドンバイ塀を入ると黄色い落ち葉と大きな幹が見えた。奥の駐車場に自動車に止めてもらっても助手席に座っている 僕からは直径3mほどはあろうかという太い根元とまだ青い銀杏の葉っぱしか見えなかった。見上げれば大公孫樹の 黄葉も見えるのだろうがそれが出来ない僕は嫁さんの撮ってくれている写真でこの大公孫樹の大黄葉を楽しむ事が 出来るだけだ、寂しいけれど。ただ今年の銀杏の黄葉はちょっとおかしい、街路樹の銀杏もここの大公孫樹もまだ緑の 葉っぱがたくさんあるのだ。こんなに寒くなっているのに銀杏の木はどうしまったのだろう。 次に向かったのは相撲場(有田町歴史民俗資料館・有田焼参考館)、ここは楓の紅葉がとても綺麗なのだ。途中相撲場の すぐ手前にある駐車場(広場?)の背面の小山が見えたがここも緑の木々の中に赤く染まった木が浮き出ていて 絵にしたくなる様な風景だった。相撲場はその取り付け道路にも相撲場を囲む円形の小道(自動車一台が通れる)の 両側にもたくさんの楓が植えてあり隠れた紅葉のスポットになっている。今日もあいにくの雨にもかかわらずカメラ片手の 観光客が数組来ていたし佐世保長崎ナンバーの自動車も止まっていた。相撲場の木々はほとんどが赤く彩られていて しかも木々の中には黄・赤・真っ赤のグラデーションに染まっている楓の木もあって今年最後の紅葉観賞には まあ満足のいく情景だった。 相撲場を出た所で嫁さんが「竜門にも行く?。」と聞いてくれたのだが、首の装具が鎖骨あたりにくい込んで 痛くなってきていたので「No」の合図を送った。痛くさえなかったら竜門はおろか国見山にも行ってみたかったのだが・・・・・。 今日で紅葉を見る機会もおそらく最後だろう、寂しいけれどしょうがない。これからますます寒くなる、それに伴い 憂鬱な日々も増すことだろうなあ・・・・・。 11月19日 寒くなった 僕の部屋に入ってくる人の第一声はみんな「今日は寒い。」、けどエアコンの入った部屋に一日中いる僕には気候の 変化はほとんど分からない。確かに部屋の障子を開けっ放しにされていると足が寒いと感じるし寝る時にいっぱい 掛けてもらわないと寒くて眠れない様になった。それに昨日の天気予報では明日は今年一番の寒気が下りて来て福岡の 山沿いでは雪がちらつくかもとも言っていた。 今日の入浴車では2週間前の経験からバブ(花王?)を入れた、前回バブを入れた時湯船から上がっても身体がポカポカ してたから。けれど今日はそうは行かなかった、湯船から上がったらすぐに身体が冷えてきた。看護師さんが身体に ちゃんとバスタオルを掛けてくれたけど肩から冷えてきて寒くなった。前回バブを入れた時との使用環境の違いは 気温だけ、今日の寒さにはさすがのバブも勝てなかったという事か。 この影響が出たのかどうかは分からないが夕方からひざと足首の関節が痛くなり(始めはリハビリで立ったからと思ったが) その内にこめかみも痛くなったので風邪の前兆かもしれないと思ったので予防のために薬を飲んで寝る事にした。 果たして・・・・・。 11月16日 大山祭 今日小学校で大山祭がある事は昨夜嫁さんから聞いた。僕が小学生の頃は大山祭なんてものはなかったから そこでどんな事が行われているのか想像もつかない。2-3年前は餅つきにと親父が僕の代わりに借り出されてもいたが 今はそれもなくなった。発表会の様なものだろうか?。 息子たちが学校から帰って来たら「どんなだった?」「どんな事をした?」と尋ねてみようと思っていたが残念ながら 帰って来ても顔も見せなかった。寂しい〜!。 まあ嫁さんが「ビデオで撮ってきた。」と言っていたからそれを見る事にしよう。 果たして息子たちはどんな事をしているやら。 11月14日 インフルエンザの予防接種受ける 今日T先生の二週間に一度の往診の時にインフルエンザの予防接種を受けた。T先生は「インフルエンザの注射は 痛くてすみませんね。」と言いながら打っていただいたのだが痛いのは先生の所為ではないのだからどういう顔をすれば 良いのか反応に困った。それにしてもやはり痛かった。 人工呼吸器を着けている僕らにとって怖いのは感染症や肺炎などの合併症、インフルエンザなんかにでも掛かったら身体に 抵抗力のない僕らは悪化して肺炎にでもなったらおそらく The end だろう。最低限でも下の息子が高校を卒業するまでは 何とか今に近い状態を維持していなければならない。だから僕はいつもこの時期にインフルエンザの予防接種を受けている。 亜後8年この身体ではどうにも頑張りようもないが何とかしていなければならないな。 11月10日 宮崎の叔父と叔母来たる お昼過ぎ宮崎に住んでいる叔父と叔母が着いた。叔父たちが今日来る事は今朝叔父から送られてきたメールを 読んでいたから知っていたがいつもの様にお袋には電話連絡が入っているものと早合点して誰にも知らせずにいたのだが どうやらそうではなかったらしい、「急に来た。」と驚いていた。 宮崎の叔父と叔母に会うのはいつ以来だろう、半年前に会ったような気もするが。いつもの様に明るい笑顔と独特の 訛(宮崎弁?)で接してくれた。あの訛を聞くと仕事で宮崎を回っていた頃の事を思い出して懐かしくなる。 九州にもそれぞれの県や地域でそれぞれの方言と訛がある。僕の町の方言や訛は同じ県内の佐賀地区や 唐津地区よりも隣県の佐世保に極めて近い。大学時代までの僕はものすごく方言がきつかった、大学に入った当初は 周りが誰も僕の言う事を理解出来なかった程だ。それでも僕は方言を直さなかったし直すつもりもなかった。その内にOが 僕の言う事が分かる様になりみんなに通訳をしてくれていた。そして僕の周りのみんながやがて僕の言う事を 理解してくれる様になった。宮崎県も支所や営業のあった延岡・宮崎・都城ではイントネーションがそれぞれ違う。それでも 都城の訛と似たようなものを僕の町の近隣で聞く事もある。こんなに離れているのに不思議なものだ。 11月10日 2年前の紅葉を思い出しながら 2年前に病院の看護師さんに同乗してもらって九重まで紅葉を見にドライブに行った事・その時の思い出の記録が 中途半端な状態(未だに九重へ向かう大分自動車道にいる)である事は先日記した。そして昨日からその思い出の記録の 続きに取り掛かり始めた。 だが2年前の事だけではなく色々な事が思い出されてそれらのエピソードまでついでに書いてしまうのでなかなか進まない。 二日経っても未だに高速道路から抜け出していないという次第だ。この調子ではいつ完成する事か!。いっその事 連載物の様に出来た分だけアップして後は(つづく)としようか。そうするにしてもある程度は書き上げなくては、せめて 九重高原で紅葉を見た事までは書いてアップして後は(つづく)としよう。そこまで書けばもう半分は書いたかな・・・・・。 11月7日 通院日 今日は通院日、訪問看護師さんたちに自動車に移譲してもらったら畑の奥でモンシロチョウが飛んでいるのが見えた。 11月のこんな次期にどうしてと思ったほどだ。ところが病院の玄関に着いた時に何気なく外を眺めていると今度は 植木の間をモンキチョウが飛んでいた。僕が子供の頃はモンシロチョウもモンキチョウも春から夏にかけてしか 見なかったのに、やはり地球温暖化の影響かな。 診察が思いの外早く終わったので紅葉を見つけに行く事にして波佐見から武雄方面へとぐるっと遠回りして帰ってもらう 事になった。病院に向かう時に見た我が町内の街路樹の銀杏は部分的に黄色くなっているところがあるくらいで黄葉と 呼ぶにはまだ早かったが途中で見た神社の鎮守の森の銀杏も青々としていた(僕は昔神社で遊んでいたせいか神社が好きだし 目もよく行くのだ)。だが波佐見の町を通り抜け山の間の道に入ると山の一部分だけは所々赤く紅葉しているのが見えた、 まあ真っ赤と言えるほどではなかったが。武雄では御船山の裏の道を通ったがここも赤いものはちらりほらり、 紅葉にはまだ早かった。 その後我が町に戻り紅葉の名所をいくつか散策した。まずは相撲場、この相撲場の周囲にはたくさんの楓があってその紅葉が 最盛期には相撲場の周り一帯が真っ赤になって実に見事なのだが一回りしてみたがまだ赤い葉っぱと緑の葉っぱが 入り混じった状態だった。次の名所は有田ダムの湖畔、ダムに続く道を登っていくと入り口の駐車場あたりの木々はまだ 紅葉してなかったがダム管理ビル脇の1本の小さな楓が真っ赤に紅葉していた。そこでダムの周りの道をゆっくりと通って 見回してみると・・・・・、残念ながら紅葉の光景はあの1本の楓を除けばほぼ見えなかった。やはりまだ紅葉を観賞するには 早かったか!。 また今度見に連れて行ってもらおうっと!。 11月5日 次期アメリカ大統領・オバマ氏に決定 今日のテレビは朝からどのチャンネルに合わせても次期アメリカ大統領選挙一色、それだけ我々の生活に直接影響を 与えそうな重大な事なんだろうが日本の総理大臣指名選挙ではメディアはあれ程までに大きくは取り上げようとはしない 事にどこか矛盾を感じてしまうのは僕だけなのだろうか。それに4年前8年前のアメリカ大統領選挙でメディアはこれ程の 大騒ぎをしたのか。やはり今回の大統領選挙はアメリカ発金融不安・経済景気不安そしてそれらの不安に伴い世界が CHANGEを求める中で行われたという事が最大の違いなのだろう。それにしても大統領を自国民が直接選べるなんて 羨ましい話だ。議院内閣制と大統領制と制度に違いはあるが国のリーダーが自国民の直接選ばれたならばリーダーは 自国民の支持と選び選ばれた責任を背景として思い切った政策を展開出来るだろうしどこかの国の様に途中で政権を 投げ出すという様な一国のリーダーとしてあるまじき事はしないだろう。日本も出来るだけ早く首相公選制になれば 良いのに。 お昼過ぎお風呂に入っている時にテレビで「オバマ氏次期アメリカ大統領に決定」のテロップが流れた様だがメガネを 掛けていなかった僕には何も見えなかった。そしてそれからのニュースはオバマ次期大統領の誕生で世界はそして 対日政策はどう変わっていくかという事に話の流れが移った。僕は経済は学んだ事がないのでマクロもミクロもその辺の事は よく分からないがオバマという男の出現で今後世界が大きく変わって行くのだろう。僕はテレビで見ているだけだが それでも楽しみだ。嗚呼、日本でも早くCHANGEが欲しいものだ!。 11月3日 文化の日 今日は文化の日、今回も上の息子に「文化の日はどういう日なのか?、何故今日は祝日なのか?」と尋ねてみた。息子は 面倒臭そうに「そんなの考えた事もない。分からない。」との答えが返ってきた。そこでインターネット検索を使って 調べさせると「文化の日は日本国憲法が公布された日。」と画面に出た文字を読み上げた。そこで「憲法記念日はどんな 日か?」と続けて聞くと「日本国憲法が施行された日でしょ、お父さん。」と傍にいた娘がフォローしてくれた。それでもまだ 息子が首をかしげていたので施行の意味と憲法は公布から六ヶ月目に施行される事を説明した。息子は「12月・1月・・・5月」と 指折り数えて「それで5月3日か。」と納得していた。なんとなく幸せを感じれた昼下がりだった。 病院の看護師のOさん・Tさんに応援してもらって九重・大観峰とドライブに連れて行ってもらってから早いもので もう2年が経つ。2年前の文化の日の事だった。あの時の九重連山の黄葉とやまなみハイウェイの両側の高原一帯に 遠くの方まで一面に広がっていた白いススキの原っぱが今も目に焼き付いている。あの時の楽しかったドライブの事を 思い出のページとしてホームページにアップしようと思って書き始めはしたのだが・・・・・、今もまだ九重に向かう高速道路の 途中にいる。 最近嫁さんが「九重に行きたくない?。」と聞くが僕は首を縦に振らない。何故って2年前九重に行った後嫁さんの首の持病?が 悪化して手術する羽目になりそれ以降僕も嫁さんも生活パターンは一変した。あの時「九重に行きたい」って言い出したのは 僕だった。もうあんな想いは二度としたくはないから・・・・・。 |
10月 10月31日 麻生総理、緊急経済対策発表 麻生総理が昨夕追加の緊急経済対策を発表した。だが株価は反応しなかった、株の世界ではすでに織り込み済みだったのか それともこんな対策では今の世界規模に及ぶ経済危機から日本を脱出させる事は出来ないと市場は判断したのかは 僕には分からないが。 今回の緊急経済対策でここの国民生活にすぐに直結するものは全世帯への現金(クーポン)の支給と自家用車の高速料金の 大幅値下げと住宅ローン減税の継続・拡充だろうがこれで個人消費がアップして日本経済が上昇するとはとても思えない。 全世帯へ現金を支給しても貯蓄に回らないのは本当に生活に困窮している世帯と裕福と感じている世帯だけだろうし、 商品価格を左右する物流業界には高速料金の値下げの恩恵は極めて小さい。それに住宅ローン減税拡充の恩恵を 享受できるのは一億クラスの家が買えてしかも年収が一千万円以上ある人だけとの事、住宅ローン減税の継続は 評価できると思うがこの拡充策では住宅着工軒数や購買軒数が今以上のペースより増える事はないだろう。ここはやはり 中小企業対策と個人の生活に安心安全を与える対策に追加対策と来年度予算を重点配分すべきだと思うのだが。 はたして麻生総理の打ち出した緊急経済対策で経済が上向くのかそれとも総選挙を経て政権交代する方が経済および 国民生活が活性化するのか分からないところだ。だが僕は一度早めに政権交代してみた方が良いと思うのだが・・・・・。 10月29日 四捨五入 昨日の夜お袋が「(下の息子が)四捨五入の宿題が分からないと言って悩んでいる。教えてあげたいがどう教えたら良いのかが 分からないから来て教えてやって。」と嫁さんに言いに来た。二人の会話を聞いていると下の息子はこの日学校で四捨五入を 習ったばかりなのでまだ理解出来ていなかった様だ。 子供たちが勉強の事にしても何にしても自分から僕に相談を持ちかける事はない、文字盤での会話は長くくどくなるから 面倒臭いからなのか僕に相談する事自体が煩わしいのかは判断がつかないが。まあ僕が子供の頃も姉に教えてもらう事は 会っても親に相談した事は無かったが。いずれにしても何かはしなければと思った。 そこでパソコンの画面にあらかじめ書いておき教える事にした。だが四捨五入を教えるためには『切り上げ』『切り捨て』を 理解しているか、いやその前に位取り(一・十・百・千・万など)や小数点・少数第○位が分かるのか、『以上』『以下』 『未満』という言葉と意味を習っているのか問題は尽きない。ひとまずこれらを含んだ問題を作ってみた。そしてその問題を 上の息子に見せた。ところが『未満』という言葉は算数では聞いた事がないと言う(ついでに『自然数』も)、それに 『小数点以下を切り捨て(切り上げ)』にも少し首を傾げながら答えた(おそらく息子はこういう表現を聞いた事が なかったのだろう)。その後『以下と未満の違いは?』の問いかけを削除し下の息子を呼んでパソコンの画面を見せたのだが 位取りは理解していたが後はちんぷんかんぷん、息子と一緒に画面を見た嫁さんが「まだ小数点も習っていないのに そんなの無理よ。」と簡単にひと言。息子たちから教科書やテストを見せてもらった事がない僕はそんな事も 知らなかった。寂しさや虚しさが僕の心の中を通り抜けていった。 それでも 次の問題に答えなさい 次の問題に答えなさい 123456.789で 123456で @十の位の数字は何か? @十の位の数字は何か? A小数第2位の数字は何か? A万の位の数字は何か? B小数点以下を切り捨てた数字は何か? B百の位を切り捨てた数字は何か? C小数点以下を切り上げるとどうなるか? C十の位を切り上げるとどうなるか? D以下と未満はどう違うのか? →→→ 四捨五入は5より大きければ切り上げ 四捨五入とは5以上なら切り上げ 4より小さければ切り捨てる 4以下なら切り捨てること D一の位を四捨五入するとどうなる? E千の位を四捨五入した数は何か? と作り直した。 これなら分かるかな?。 10月26日 文化祭 今日は娘の通っている中学校(僕の母校でもあるのだが)で文化祭が行われたようだ、日曜なのに娘は制服を着て いつもの時間「行ってきます。」と顔を見せて出て行ったし嫁さんも10時過ぎに「(娘も3年だし)これが最後だから。」と 出かけて行った。 僕が中学生だったのは35年も前の事、当時は文化祭なんてなかったから中学校の文化祭でどういう事をしているのかは 全く想像がつかない。それでも夕方帰って来た娘に「どうだった?」と尋ねた時に満足した様な顔をして「良かったよ!。」と 答えたから楽しい文化祭だったに違いない。 それにしても今日日の中学生はいろいろと忙しいなあ。 10月25日 株価またまた暴落 今日もまた日経平均株価が下落した。日経平均が8000円を割る事はまさかあるまいと僕は思っていたのだが8000円を あっさりと割り込んでバブル後の最安値7067円に迫った。アメリカのサブプライム問題に端を発した世界的な金融不安と 世界規模での経済の減速、金融不安による急激な円高の進行とそれら全てを背景にした昨日のソニーの今年度の利益 58%減の発表が昨日の日経平均株価の大幅な続落の引き金になったとの事。もう事ここに至ってはどこが株価の底だか 専門家にも見えないそうだ。だが3年5年の長いスパンで見ればこの景気後退の局面で倒産・破綻しない優良企業の株が 買い時なのは間違いない、配当利回りも近頃の株価の暴落でぐーんと高くなったし本当に世界恐慌に陥るとか よほどの事さえなければ貯金なんかしているよりよっぽど利回りが良い。何処かに余剰資金が落ちていないかな、こんな時に 宝くじに当たらないかな、全部株に注ぎ込むのだが。 10月24日 通院日 今日は2週間に1度の通院日、体調は久し振りにまあまあといったところ。自動車の助手席に移乗させてもらって家の前の 畑を見ると柿が色付いていた。息子達に干し柿を自分たちの手で作らせたいと毎年思うのだが言ってもしないだろうなあ!。 昔からの食べ物(それも保存食&お菓子の類い)の作り方を身をもって体験しておく事は今の食べ物の有り難味を忘れている 子供たちには大切な事だと思うし、それに冬休みの自由研究のテーマにもなると思っているのだが・・・・・・。僕が動ける 身体なら率先して見本を見せてやらせるのに・・・・・(無念!!)。 車窓からはあちこちにコスモスが見えるし街路樹の銀杏の葉もだんだん黄色く色付いてきている。田んぼの稲穂も 刈り取られてかなり少なくなった。山々の紅葉にはまだ早い様だけどもう秋は本番だ。田んぼを見ている時に嫁さんと 同乗してくれていた看護師さんが話していた、「今年は大豆がたくさん植えてありますね。」と、確かに我が町の田んぼでは 去年よりも大豆の植えてある田んぼが多く見受けられた。でも隣の波佐見町では大豆の田んぼは今年減ったと思う。 うどんや醤油・豆腐の原材料の小麦や大豆のほとんどは輸入に頼っていると聞いているから小麦や大豆の栽培面積が 増える事は喜ばしい事だ。政府は減反政策の一環として小麦や大豆の栽培を推奨している様だが減反や栽培の奨励金が 無くなったら小麦や大豆を作る農家がどれくらい残るのだろう。かといって減反政策には賛同出来ない。小規模農家にとって 農協の援助なくしてはあり得ないからまずは農協改革が急務だろう。ひとつは販路の開拓、流通ルートを短くして 出来るだけ高く売れる独自の販路も作る。もうひとつは農家の生産コストを下げる様なサービスを展開する事、 そのためには農機具の販売よりも貸し出しによる共同使用の推進に舵を切るのも生産コストを下げる手段になると 思うのだが。政府には米を学校給食に重点採用して日本人の米離れに歯止めをかけまた米の流通ルートおよび最低限の 量を確保するとともに、農協が動きやすくなる様に法律を整備した後に株式会社の農業参入を認める。合わせて 環境保護保全の観点から棚田における米・小麦・大豆の生産には環境対策費を補助して欲しいものだ。ところで大豆の 収穫方法って昔ながらの手作業?。 病院からの帰りは竜門経由のコースを取ってもらった。途中でリュックサックを背負った小学生に会った。竜門か有田ダムに 遠足にでも行った帰りなのだろう。そういえば行く時にも隣町でリュックを背負った小学生の一段に会ったがこの頃は 秋の遠足の時期なのだろう。僕は遠足は大好きだった(特にお袋が作ってくれた巻き寿司やお稲荷さんなどのお弁当や 遠足以外では考えられないくらいの量のお菓子を食べられたから)ので小学生の時の遠足はよく覚えているが中学・高校の時の 遠足は記憶の欠片もない。嫁さんによるとうちの高校は腰岳に遠足に行ったとの事だが全く覚えていない。もしかしたら 遠足の日は高校をサボったのかも?、高校になってからはよくサボっていたから。 竜門峡に着くと紅葉にはまだ早かったがここにも幼稚園バスが遠足に来ていて丁度帰るところだった。幼稚園児の足で どこまで遊びに行ったのか、僕の知っている当時とはこの竜門峡も様相が一変しているから想像さえつかない。たくさんの お地蔵さんが祀ってある岩窟あたりまで行ったのか?、黒髪山までは幼稚園の先生は引率はしないだろう。10年ほど前 3才だった娘を連れて黒上山を目指したのだが見返り峠まで来て気が変わって大川内山のキャンプ場に向かったが、 途中で時間が掛かり過ぎる事に気が付いて青螺山の分かれ道で引き返した。この時今通った道が崖で危なげな 道だったので別の道を行く事にしたのだがその道も最後は20m以上の崖(ここは岩の崖ではなかったが)、そこを降りたのだが 娘を危ない目合わせてしまった。 竜門には小学校の歓迎遠足で毎年来ていた、その頃はまだダムも出来てなくて山と川と田んぼに囲まれた 田舎道だったが。一番よく覚えているのは小学一年の歓迎遠足、あの時は帰りに雨が降って6年生のお姉さんと 手を繋いで相合傘で帰った。お姉さんの手が暖かかったし頼もしかった。今も懐かしい思い出だ。今一度自分の足で 竜門→黒髪山→牧山→青螺山→大川内山キャンプ場まで踏破してみたいなあ。 10月21日 Webカメラをバージョンアップしたら・・・ 昨日ふとWebカメラのソフトをバージョンアップしたらどうなるかな・もしかしたら機能が上がるのかなあと思いついて ロジクールのホームページから四苦八苦してバージョンアップソフトを見つけ出し(なんせカメラの品番は覚えてないし 頼りは形だけ)ダウンロードしたら、デザインが随分変わっていた。ちょっと使ってみたらシステムの作りもかなり 違っていた。マウスが自在に使えれば機能も使い勝手もうーんっとアップしている様なのだがマウスが使えない 人間の事などほとんど考慮に入っていない造りだった、まあ仕方のない事だろうが。 でもWebカメラのデザインが随分と変わっていたから以前Webカメラ用に作っていたオペナビのオンスクリーンキーボードも 当然また一から作り直さなければいけない。当時もかなり苦労して作ったのだがまた同じ様に苦労して作らなければ ならないと思うと少し気が重くなってくる。特にジャンプ位置の設定に苦労しそう、誰か長さを測ってくれないかなあ。 10月19日 体調の維持に自信がなくなった このところ何かにつけすぐ風邪の三要素「くしゃみ・鼻水・鼻詰まり」が出てしまう。 今日も最初は重ね着をしていたのだがだんだん身体に暑さを感じてきたので1枚ずつ取ってもらい昼前にはバスタオルの 肩掛けと子供用の小さな布団(まさか子供のお下がり?)になった。しかしそれでも暑かったので(娘によると「今日は気温が 上がってきた。」と)掛け布団→ハーフサイズのタオルケットと変えていきついには薄手のバスタオルを二重にして上半身に 掛けただけ。だがその油断が大事に、夕方から身体がだるくなり風邪の三要素のオンパレードに。そしてついには薬まで 服用する事になってしまった。こんな事でこの冬を乗り切れるのだろうか・・・・・、受容強壮のためにと思って ひと月ほど前から養命酒を飲み始めたが効果は現れないし。もう自信がなくなった・・・・・なぁ。 10月15日 お昼のひと時、入浴車 今日のお昼は入浴車の時間、先週の入浴車のお嬢様方の井戸端会議の話題は女の道の話、だから僕には全く分からないから ただ黙って聞いてて時々何とはなしにほっぺが上がるのを押さえ込むだけ。何とも言いようのない話題だった。でも今日の お嬢様方の井戸端会議の話題は健康検診の胃カメラの事、これなら僕も何度も経験して痛い目にあっているから よーく分かる。 話題の中心は口から入れる胃カメラと鼻から入れる胃カメラとどっちが痛いかという事。僕も鼻の方は体験した事は ないけれど、以前鼻からよく吸引してもらっていたから雰囲気は何となく分かる。鼻からの吸引は慣れてきたらの話だけれど 痛いというよりどちらというと気持ち悪いとか怖いに近い感覚だった。鼻からの胃カメラはテレビで見ただけだが大きさは 普通の胃カメラの半分以下だからのどや食道を通る時の痛みもかなり軽くなるだろう。それに左右の鼻でもカテーテルが 通り易い方と通り難い方があった。それさえ見つければ鼻からの胃カメラがずいぶん楽だろう。いずれにしてもお嬢様の 一人が近々体験するとの事、いずれ報告があるだろう。 10月14日 HPの更新が出来てない ここ2週間ホームページの更新をしなかった、いや出来なかったというのが正しいのだろう。それは何故?。 それはある日の出来事をあまりにも長く書き過ぎるから。嫁さんからもよく「そんなに書く事があるわねぇ。」と 感心?されたり「あまり詳しく書く事はないじゃないの!。」って(アドバイス?)言われたりしているのだけれど、 一度手を付けると次から次へと頭の中に言葉が浮かんで来て途中では切れなくなってしまう。もっと短く簡潔に書けば 良いって事は分かっているしそうしたいのだが、それが出来ない・・・・・。だいたい先々週の二日分を一週間以上かかって 書いている様じゃ話にもならない。 短く簡潔に書くにはそれなりの才能がいる。その才能は僕にはない・・・・・。 10月5日 コミケンフォーラムに参加 今日は長崎県東彼杵町で第6回目となるながさきコミケンフォーラムが開催される日、最初は最近の常であるあまり 外出する気が起きなかったし体調が未だにもうひとつだったりでコミケンフォーラムへの参加を固辞していたのだが、 フォーラムのみんなが待っているというし通院している病院からの人的応援も会場の設置も僕の参加を前提に 計画されているとの事。それにフォーラムでの嫁さんの発表の順番も僕の到着に合わせて変更し自動車で移動中の 吸引などの応援のために行きは以前病棟で僕の受け持ちをしてくれていたOさんが帰りは病院の地域連携室のMさんが 同乗してくださるという(至れり尽くせりの)対応をするとの強力な説得を教授し参加する事になった。 朝起きていつもはパソコンに向かうのだが今日はじっと経管栄養を待った。6時半過ぎ経管栄養開始、 経管栄養が終わってしばらくゆっくりと目を閉じて休んでいると9時を過ぎた頃訪問後ステーションの所長さんが休みにも かかわらず外出準備の応援に来てくれた。そして着替えや吸引セットの用意も済んだ頃東彼杵の会場まで同乗してくれる Oさんが顔を見せた。それから所長さんと一緒に僕をベッドから車椅子・車椅子から自動車へと移乗させてくれた。 外はあいにくの小雨模様、それでもみんなが気遣ってくれたので僕は濡れずにすんだ。そして所長さんに見送られながら 出発した。所長さん、折角の休みに出てきていただいて申し訳ございませんでした。ありがとうございました。 東彼杵の会場へ向かう自動車の中ではOさんと嫁さんとの間で繰り広げられるにぎやかな会話を楽しんだ。新しく移った 病棟では明るいOさんも仕事上の責任感や様々な事で色々と悩んだり苦しんだりしている様だ。僕には何も出来ない、ただ 「気張らずにがんばって」と心の中で声援を送るだけ・・・・・。でもOさんの明るい声を久々に聞けて嬉しかった。 約40分で東彼杵の会場に到着、十人位の顔見知りの関係者の方々の出迎えを受け応援してもらいながら2階の 講演会場へと急いだ。会場に入ると作業療法士のU先生が『コミュニケーション機器の使用状況』特に患者の取り組み姿勢 (気持ちの揺れ動き)やスイッチとの関係を講演中、それを横目にコミケンの顔見知りのメンバーから目で親しみを込めた 「いらっしゃい」という挨拶を受けながら僕のために用意されていた場所に着いた。目の前の席には病棟の看護師さん3人が 僕のために(おそらく)待機中だった。それにしても旧知のメンバーや顔見知りの人たちに会えるというのはやはり嬉しいものだ。 U先生の講演が終わったら次は嫁さんが講演する番、段上に上がった嫁さんを見るといつもの事ながら物怖じしたところがない、 いつもの事ながらたいしたものである。ところが嫁さんが話し始めてもスライドが出ない。何かトラブルがあった様だ。 一度はスライドデータをSDカードに入れて持ってこようかなとも思ったのだが後の祭りだった。スライドが出ない中でも 嫁さんは躊躇したり臆したりする事もなく発表し続けた。嫁さんの度胸の良さには感心してしまった、全くたいしたもんだ。 嫁さんの発表のテーマは『介護ストレスと対処法』、介護してもらう方としては耳の痛いところもあったが新たな発見も あった。介護者には介護者の介護を受ける方には受ける方のそれぞれの想いがある。 嫁さんの発表が終わると1階の展示会場のそれぞれのブースの責任者から展示内容の紹介がありその後昼食タイムに 入る。僕は車椅子の背もたれを倒し掛け物をかけてもらってみんなが昼食を摂っている間ひと休み、その後1階の 展示会場に連れて行ってもらった。人工呼吸器を着けている僕の移動は大変だ、どうしても大所帯になる。その大所帯で 展示会場に入る。まずHeartyLadderのコーナー、だけど人が多くて近付けない、開発者のYさんに「HeartyLadderも Ver.7になってまた改善されましたね」と告げたかったのに。次に長崎大学工学部のI先生の研究室のブースに 近付いた。その時I先生が僕に気が付いて説明してくださった。まずワンスイッチ操作で携帯電話から発信するシステム、 指で携帯電話の小さなボタンが押せない人のために開発されたシステムだろう。スイッチを押す度に形態の 短縮ダイヤルに登録していた相手が選択され自動発信されるとの事。ベッドセットを併用すれば更に便利だろう。 メールも短縮登録した相手に送信出来るとの事だからしゃべれない僕もこのシステムならヘルプメールに利用出来そうだ。 次は目の左右の動きでHeartyLadderに入力するシステム、ゼミの学生さんが実演しているのを見ながら説明して 下さったのだが、僕がよほど物欲しそうな顔をしていたのだろう「やってみる?。」と。それで顔に電極をつけてもらって やってみると・・・、思っていた以上に反応が良い。けれどもなかなか上手く入力出来ない。HeartyLadderの点滅速度と僕の 目の動きが合っていないのだ、まあたった今始めたのだからしょうがない事だろうけど。でもHeartyLadderの環境設定を 少し変えて後は慣れさえすればある程度スムーズに入力出来る様になるだろう。実用化ももうすぐだと思う。 そうこうしている内にTime Up、「特別講演が始まりますから会場に戻って下さい。」とのアナウンスが流れた。残念ながら 戻らなければならない、でもこの短時間?でまがりなりにも【こんにちはなかなか便利ですねありがとう】と入力出来た。 初めて使ったにしては上出来かな?。佐世保高専のM先生の研究室のスイッチのブースも見たかったのだが仕方ない。 講演会会場に戻ると佐賀大学理工学部の新井先生の特別講演がもう始まっていた。新井先生の『視線入力』についての 講演を聞くのは去年のALS協会福岡支部支部総会に参加した時に続いて二度目である。昼食休憩時に僕を見つけて 「かなり改良出来たから今日の講演で紹介する。」とおっしゃっていたのだが、顔がぶれても姿勢が少々崩れてもWebカメラが 顔の位置を捉え視線の方向を的確に判別出来る様になったという。僕らは体幹も頭を支える力も弱いし顔や身体が 傾きやすいからこういう機能は本当に必要だし助かる。また光の顔への反射や映り込みも課題のひとつだったそうだが それも解決出来たそうだし読み上げ対応もしたそうである。新井先生の視線入力システムのすごいところはWebカメラなど 安価な製品でシステム構成が出来る事でありシステムソフトの中にフリーソフトを巧みに利用して作られている事だろう。 新井先生は視線入力を様々な場面で利用する事によって障害を持つ者の日常生活が少しでも楽にならないかとの 考えをめぐらし研究しているそうだ。その中のひとつとして今回の講演の中で紹介があったのは電動車椅子を目の動きで 操作する事。ビデオで操作している様子が流れたが前進・後退・左右への回転が視線を動かす事で見事に実行されていた。 新井先生は他にも視線操作で色々な事を実現してくれそうだ。 新井先生の特別講演で第6回ながさきコミケンフォーラムは終了、今日の行事は後は交流会を残すのみ。1階の交流会の 会場に入ると交流会はもう始まっていてみんながいくつかのテーブルに分かれて談笑していた。その中を分け入って 奥の方のグループへ混ぜてもらった。僕の位置した場所からはそれぞれのグループが見えた(どういう基準でグループが 分かれているのかは僕には分からないが)、みんな楽しそうだ。こういう和気あいあいとした交流会もいいものだ。 だが僕は顔を動かして見回す事も出来ないしみんなとおしゃべりも出来ない。そんな僕の雰囲気を感じ取ったのか 理学療法士のK先生が僕に色々と話しかけてくれた。このK先生とのおしゃべりのおかげで僕も交流会に参加している 気分になれた。 午後4時過ぎ交流会も終わりみんなに見送られられながら家路につく。帰りの自動車に同乗してくれるのは病院の 地域連携室のMさん、お世話になります。 午後5時前何事もなく無事家に到着、Mさんと嫁さんに自動車からベッドに移乗してもらうと緊張から解き放されたからか ドーっと疲れが出てきた。でもまあ久し振りに7時間あまり座っていたのだからしょうがない。しかし久し振りにコミケンの メンバーに会えて嬉しかったし楽しかった。この疲れはその喜びと楽しさの代償といえるだろう。皆さん、今日一日本当に お世話になりました、ありがとうございました。 10月3日 ドライブ 今日は通院日、診察も終わり病院から出たところで通院のために同乗してくれていた訪問看護ステーションの所長さんと 嫁さんが「どこかに回って行く?。」と聞いてくれたので「虚空蔵山」と答えた。虚空蔵山は川棚町と嬉野町の県境にある山で 病院から帰る時真正面に見える山頂が奇妙にとがった山だ。虚空蔵山の事はいつも通っていた道の標識を 見て不思議な漢字の名のついた山だなと思っていたし佐賀県内の山歩きのホームページの動画のサイトで紹介も されていたから前々から一度は近くまで行ってみたいなと思っていた。 川棚川を渡ってしばらく走った所にある交差点を右折して虚空蔵山に向かう。路傍や田んぼの畦道にはたくさんの 彼岸花が咲いていた。昔僕らの家の周りで見た懐かしの風景だった。更にどんどん進んで行くと道がだんだん細くなり 周りはすべて棚田になってきた。その細くなっていった道の路傍や棚田の所々に『ダム建設絶対反対』のシュプレヒコールが 掲げてあった。虚空蔵山のどこかに佐世保市の水不足対策用のダムが出来る事は聞いていたがまだ反対運動が 続いているとは知らなかった。まだ立ち退きに合意していない家も数軒あるとの事、熊本の川辺川ダムとは事情がかなり 違うが出来れば環境破壊に繋がらない海水淡水化プラントなどの代替案が出せないものかと思う。 分かれ道になる度に嫁さんは「どっちに行けばいい?。」と僕に聞く。嫁さんたちは僕が虚空蔵山に続くこの道を 通った事があると思っているのかもしれない、僕は一度もこの道は通った事はなくただカーナビの画面で広いと思われる方の 道を指示していただけだったのに。ずんずん進んで行くとやがて棚田もなくなって回りは山になり道はどんどん細くしかも 急勾配になりこの道がカーナビに表示されなくなった。少し不安に感じたがまっすぐに進むよう指示をした。 しばらくすると立派な道が見えてきた、林道だった。林道には自動車が1台止まっていた。虚空蔵山への登山客だろう。 自動車の先には案内板があった。近づけてもらうと虚空蔵山の案内板だった。看護師さんに見てもらうとここから900mで 虚空蔵山の山頂に着くという、ハイキングには手ごろな距離である。この林道の先の方にも登山道があるようだから 山頂まで行ってグルーっと一周するのも面白そうである。出来る事なら家族で虚空蔵山を踏破?したいのだが!!。 帰りは来た道を戻らずに林道を波佐見の方へ下りる事にした。波佐見方面へ向かいながら車窓から見るとこの林道沿いには 立派な杉の木が何本も育っていた。これらの杉の木が切り出されてこの林道で運び出される事があるのかなあとふと思った。 嬉野方面への分かれ道(林道)を横目で見ながら先に進んで行くと次第に下り坂になり稲田続いて民家次に集落が 見えてきた。この集落では現在案山子競作のイベントが開かれている様だ。たくさんの案山子が所狭しと道のガードレール いっぱい飾ってあった。それらの案山子も横目にどんどん下っていくとやがて波佐見の街中に出た。後は周知の道で 帰れば20分もしないうちに家に帰り着く。少し安心・・・・・かな。 訪問看護師さんそれに嫁さん、紅葉にはまだまだ早かったけれど彼岸花の群生にススキの花?、早秋の景色を満喫して リフレッシュできました。ありがとう!。 |
9月 9月30日 未だに体調がもうひとつ 退院してひと月にもなろうとしているのに未だに室温に体調を順応させる事が出来なくて体調がもうひとつの状態が 続いている。肩を出していると身体が肩から冷えてすぐくしゃみが出て鼻づまり・鼻水になるのだ。いつからこんなヤワな 身体になったのか、一年前はここまでではなかったのに。人工呼吸器をバイパップから今のに替えたからか、栄養の 取り方の問題なのか、それとも偶然?。いずれにしても情けない身体になったものだなあ!!。 9月29日 麻生総理、所信表明演説 午後2時からの麻生総理の所信表明演説を楽しみにしていたが、あれは麻生総理率いる新内閣の所信を表明したと いえるのだろうか?。そもそも総理大臣が国会の冒頭で行う所信表明演説は総理大臣が日本というこの国を将来 どういう方向に導くかそのために今度の国会開催中に何をしたいのか日本の将来に向けての方向性を表明するのが 通例だと思っていたのだが、麻生総理の場合来る総選挙を意識するあまり民主党との対立姿勢ばかりが前面に出て 近々の政策を表明しただけ。日本の将来など選挙の後という事か、総理大臣の所信表明がそんな事で あっていいのか!。 近々に行われる衆議院選挙で野党が過半数を取る事も与党が三分の二を維持する事もないだろう。そこで注目されるのが 選挙後の小沢一郎および公明党の動向と政界再編だが公明党もそこまで無分別ではないだろうし自民党も民主党も 一速端に割れる事もないだろう。その時麻生総理が近々の民意は我にありという事でわずかな路線変更で突っ走るか 協調路線の所信表明に変わるのか見ものである。 9月27日 運動会 昨晩から急に寒くなった様で夜中にお腹が冷え冷えして目が覚めた。急いでお袋を呼び掛け物を追加してもらったのだが 一度冷えた身体はなかなか元には戻らず朝起きたら鼻詰まり、体温調整機能がかなり低下してしまっている様だ。 それにしても「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものだ。 今日は日曜日の雨で順延になった息子たちの通う小学校の運動会、どうやら外は快晴の様で良かった。それにしては みんながなかなか起きてくる気配がない、まさか忘れている??。息子たちはいつもの様に7時15分過ぎに出かけて行った。 僕はお兄ちゃんに「がんばれ!」と声を掛けた、そうしたら「うん、がんばるよ。」とやる気満々、運動会はこうでなくちゃあ。 下の息子には昨日の内に「がんばれ!」と言っておいたのだが「一緒に走るのが陸上部(小学校にそんなのある?)だから よくて4着、レク走はがんばる。」と寂しい返事だったのだ。嫁さんは運動会のお弁当で作りで忙しそうだったが、 経管栄養を入れながら僕が一眠りしている間にいなくなり(父兄が6年生と参加する競技があるからしょうがない)娘とお袋も 訪問看護師さん・ヘルパーさんと入れ替わりで出かけて行った。みんな揃って運動会に出かけて行ったかと思うと、 どうしようもない事とは分かっちゃいるがすごく寂しい。 午後4時過ぎもう運動会も終わった時刻、そろそろ息子たちと嫁さんが帰って来る。帰って来たら「どうだった?」って 聞こうと待ち構えていたが・・・・・、息子たちは一向に顔を出さない・出そうともしない。 秋風がいち早く僕の心を通り抜けた。 少し前の事だが運動会の練習から疲れた様な顔をして帰って来た上の息子に「大山ソーランではどこのパートを やるんだ?」と尋ねたところ、「(運動会に)来て見てくれれば分かる。」といった風な事を言ったからどうしても 行きたかったのだが・・・・・。 9月23日 Yahoo動画で『三国志』鑑賞 今日は秋分の日、娘と上の息子に日本に何故四季があるのかそれに秋分の日の太陽と地球の位置の関係を説明してもらおう (出来れば図に描いて)と思ったが、結局その機会は残念ながら見出せなかった。 今日は祝日なので訪問看護は休み、だからお昼過ぎからゆっくりとYahoo動画で『三国志』を見る事にした。実は一昨日 Yahoo動画のアニメ一覧を久し振りに調べていて三国志を見つけてお気に入りに入れておいたのである。 小説の『三国志』を読んだはおそらく大学生の時、かなり長い小説だったが夢中になって読んだ事を覚えている。 社会人になって漫画家の横山光輝氏が小説に基づいたコミック本を出している事を知ったが、巻数があまりにも 多過ぎるので立ち読みも出来なかった(代わりに『水滸伝』を読んだがこれも面白かった)。更に1年程前電子書籍を 見ていて色んなコミック本が出ていてダウンロード出来る事を知った(もちろん横山光輝氏のシリーズも入っていた)が 支払いがカード決済だけだったのでダウンロードを断念した、何故って今の僕はカードは持っていないから。 Yahoo動画の三国志は3部構成で各部約2時間半の超大作、出だしの劉備玄徳の登場シーンなど小説と違う部分も あったが結構楽しめる作品になっていた。まあまあ有意義な一日だった。 9月21日 運動会が雨で延期 今日は息子たちの小学校の運動会という事でみんな朝早く起きて準備をしているというのに外はあいにくの雨、そこへ 運動会決行の電話を親父が受けた。僕は親父の聞き間違いかと思ったがどうやらそうではないらしい。そこでコールを押して テレビを点けてもらい地域の天気予報のチャンネルで見ると予報では夕方まで雨、その上雷注意報まで 出ているではないか。それなのに学校は何故決行の判断を下したのか、まさか一部の父兄に配慮した訳ではあるまいに。 息子は「雨の中ではやりたくない。」と言いながら雨の中を出かけていった。 ところが息子たちが出て5分と経たない内にもう一度電話がかかってきて今日は中止と。何と間の悪い事か、それに 僕の家は小学校から1kmと離れていないから息子たちは今出かけたばかりだけどもうたくさんの児童と父兄が小学校に 向かっているはずだ。結局中止の判断が遅過ぎたと言わざるを得ない。 ところが10時前息子たちが帰って来てしばらくすると雨が上がりお昼前には晴れ間も覗き出し運動会を思い切って やれば良かったと思わず思える様な微妙な状況になってきた。天気予報が見事に外れたのである。でも僕は雨が夕方まで 降り続くという予報でしかも雷注意報まで出てる状況の中では学校側は正しい判断をしたと思う。第一雨の中で競技・演技を した児童たち(6年生の僕の息子を始めとして)の記憶の中で今日の運動会が良い思い出として残らない可能性がある。 (6年生の時午後過ぎから雨に降られた娘は「あの時はひどい目にあった。」とこぼしていた。)後は順延された日に雨が 降らない事を望むのみだ。 9月19日 通院日 今日は通院日なのに朝から僕の体調はもうひとつ、いつもの様に背中や腕に汗をかくのに両肩は寒い。いったい僕は どうしたら良いのか?、もう分からなくなった。 11時訪問看護師さんたちが来ていつもの様に外出準備をしてくれていた、それでも僕の気分はまだもうひとつ。11時45分 出発、車窓からは秋の訪れを告げる花彼岸花(まんじゅしゃげ)が所々に見えるのだが僕の心は一向に晴れなかった。 12時半前に病院に到着し救命処置室に移動いつもの顔見知りの看護師さんがバイタルを取った後主治医を待つ。 だが主治医は今日は外来患者が多くてしばらくは来れないとの事だった。 そこで病院までの移動で身体が一層しんどくなった様に感じた僕は嫁さんの助言もあってその間を利用して 検査をしてもらう事にした。看護師さん経由で主治医に連絡を取った結果、レントゲンと血液検査を受ける事になった。 検査の結果は主治医が処置室に入って来て程なく出た。カニューレ交換などの処置が終わった後主治医の教えてくれた 検査結果によると若干の脱水症状はあるものの肺のレントゲンも血液検査にも異常は見られないとの事。それなら何故 肩だけが寒かったり身体がしんどく感じるのか、それらは全て脱水症状に関連があるというのか。そんな僕の気持ちを 感じ取ったのか主治医が部屋から出て行く前に僕の傍に来て「今ならベッドも空いているから入院しますか?。」と 冗談交じりに告げた。その言葉に一瞬間が出来たが僕は瞳を左右に動かしNOと合図した。その一瞬の間を取った事が 僕の身体の変調を物語っていた。 看護師さんたちに見送られながら家路につく。帰りの自動車の車窓から見る彼岸花が少しだけ違って見えた、精神的に 少し楽になったのかなあ。そういえば僕の家の周りでは彼岸花をほとんど見る事が出来なくなった。僕が子供の頃は たくさんの彼岸花をその辺に転がっていた棒を拾ってバッサバサとなで切って遊んだものだった。今の子供たちは 彼岸花を切って遊ぶ楽しさなんて知らないのだろうなあ!、彼岸花にはかわいそうだけど。 9月17日 入浴車 先週は発熱していたから今日は2週間振りのお風呂。さてお嬢様方はどんなおしゃべりで楽しませてくれる事やら。 今日の入浴車のお嬢様方の井戸端会議の話題は化粧品のファンデーションの話、どんなファンデーションを 使っているか・パウダーが良いのかチューブ状が良いのか・一度買ったらどのくらいもてるかなど話題は尽きない。 でも女性って大変だなって改めて思った次第です。 党のお風呂はどうだったかっていうとやっぱり入浴車はゆったり出来て気持ちいい。湯船にも気兼ねなくゆっくり 入れる(ベッドメイキングをしているのが見えるから時間が計れる)し頭の痒みも大分止まった。先週の土曜日も 洗髪はしてもらったのだが1週間あいた事もあってかなり頭は痒かったのだ。僕の洗髪に慣れていない人は どうしてもやさしくやさしく洗うからなかなか痒みがとれない。でも今日はIさんだったので大丈夫だった。いつも 楽しいお風呂ありがとうございます。 9月15日 敬老の日 今日は敬老の日、本当は町の特別養護老人ホームにいる104歳になる(多分)ばあちゃんに会いに行きたいところなのだが ひと月前に会いに行ったばかりなので言い出す訳にも行かずただ我慢・・・・・。そしてお袋から「元気だった!。」と聞いて 一安心。 政府・国会がいくつかの祝日を月曜日にスライドさせて連休を多くするという事だけでおかしな法律を作ったために 15日の敬老の日は久々、祝日をその日と決めたのにはそれなりの歴史的背景(たとえ浅い歴史にしても)が あったはずなのだがスライドさせたらただ休みというだけでその意味もかなり薄れる。そんな意味もない祝日なら 止めるべきではないか。 月曜日が祝祭日になる事はかなり多い。でも月曜日が祝日になると僕は結構苦労する。日曜祝日は訪問看護が 休みになるから、その上月曜は便処理の日だから。通常は便処理は訪問看護師さんがしてくれるのだが月曜が休みになると 嫁さんに頼む事になる。その後の処理や清拭はヘルパーさんがやってくれるのだが吸引契約を結べていない ヘルパーさんだから身体を動かしたりして痰が出てくるたびに嫁さんやお袋を呼ばなければならない。それでは 家族は出かける事が出来ない。もしヘルパーさんが吸引を出来る様になってくれれば祝日以外の日でも 来てもらえるのだが。 9月14日 嫁さんの資料作りの応援 昨日今日と嫁さんが今度のコミケンで発表するスライド作りの手伝いで僕のパソコンの時間のほとんどを占めた。 嫁さんはパワーポイントの使い方をあまり知らないので嫁さんには発表スライドに使う文字部分をあらかじめメモ帳で 入力させそれを僕がパワーポイントに作り直す。僕たち夫婦の見事な連係プレー、とある意味言えるのだが パワーポイントでは右手薬指用のスイッチしかほぼ使えない僕にとっては結構な大仕事になるのだ。右手薬指用の スイッチだけ使っていると右手の薬指がだんだん動きにくくなってくるし無理に動かそうとすると全身に力が入って筋肉が 緊張して疲れてくる。今日も一日中スライド作りで右手薬指用のスイッチを使っていたので全身が疲れ果ててしまった。 これは嫁さんによっぽどのものをおねだりしないと割が合わない。さて、何をおねだりしようかな!。 9月10日 体調がもうひとつ 退院してからの2日間は病院が僕には寒かったこともあってエアコンが28度冷房設定でも部屋の中が暑くて 堪らなかったのだが、3日目の月曜日にはもう鼻詰まりで訪問看護師さんに車椅子に座らせてもらった時には鼻水が ポタポタと落ちた。この日は早めの薬で持ち直したのだが夕べエアコンを点けたまま寝て肩から冷えた様で今朝起きたら くしゃみを連発。だんだん身体がしんどくなってきて月曜に引き続きリハビリで立たせてもらうのを止めた。これは 僕にとって前代未聞の事でリハビリの先生も驚いた顔していた。その後も身体は辛く肺までしんどく感じる様に なってきたので薬を使おうと思って嫁さんを呼んだ。ところが熱さましの薬がもう切れてないという。その上体温を 計ってもらったら37.9℃。これはいけないと掛かり付け医のT先生に来て診ていただく事になった。血液検査の結果数値は 上がり気味ながら異常値ではないとの事。処方していただいた薬を服用して一眠りしたら夕方には冗談が言えるところまで 熱は下がった。それにしてもレスパイトで入院していた2週間は身体に何ら違和感はなかったのに家に帰ったら環境に 順応出来なくてとたんに体調を崩すなんて、なんて情けない身体なんだ!。 9月5日 退院 今日は退院の日、2週間過ごしたこの部屋や他の患者の皆さん(少し入れ替わりがあったが)ともさよなら。 今回のレスパイト入院の感想をひと言で言えば、病院は寒かった。病室の室温は部屋で最も重症の患者さんに 合わせるべきだと僕は思っているからその患者さんの体調にあった室温で僕が掛け物で調整する事はちっとも やぶさかではないが、8月中の病室での僕はほとんど冬模様だった。忙しく動き回っている看護師さんに室温を的確に 調整するのは体感温度の上で結構難しそうだ。 気になる事があった。今回から僕の受け持ち看護師がYさんからMさんに代わった。その事自体は気にする事ではないが そのYさんが入院中ずっと顔色ももうひとつ(元々が白色美才なのだが)で元気がない様に見えた。時々会いに来て 笑顔で話しかけてくれたのだがその笑顔にもなんとなく力がない様に思えた。かといって僕が話を聞いても何か してあげる事は出来ないし仕事上の悩みでもあるのなら嫁さんなら相談に乗って上げられるかもしれない、Yさんは 今後もっともっと大きくなれる看護師だと僕は思っているのだが。でもYさんが僕の受け持ちから代わった今は嫁さんが 相談にのってあげるのは難しいか。 午前中にお風呂に入れてもらいゆっくりしているともう2時過ぎ、そろそろ迎えの来る時間だなあと思っていると 突然懐かしい訪問看護師さんたちの姿が見えた、そして嫁さんも。それから家のパジャマに着替えさせてもらい パソコンやタオル類などを整理・薬を受け取り2名の看護師さんに守られてベッドごと玄関へ移動、レスパイトの入院も 5年以上・何十回と度重なるとお互い慣れっこになって病棟での見送りもなくなるななどと思いながら。まあYさんや数名の 看護師さんからは「次は冬ですね。午後の退院(の見送り)には来れないけどお元気で。」とあらかじめ挨拶を もらっていたけれど。 病院の玄関で二人の看護師さんに見送られ家路についた。途中田んぼを見ると稲穂に実がついていた。まだ暑いけど もう秋なんだ。空を見上げるとそういえば秋空に変わっていた。 |
8月 8月22日 レスパイト入院 今日から入院。入院の前に済ませておく事といえばパソコンデータのバックアップ。だけど今回は前のエアコンの 故障による緊急避難の入院からあまり日が経っていないから作ったファイルはわずか、その2-3個のファイルを パックアップ用のメモリーにコピーしてホームページ用データをアップして朝の作業を終了。メールの整理・ パックアップは今回はしなくても良いだろう。この油断が大事を招くかも・・・・・。 今日は朝から激しい雨模様。今日の僕の関心事はオリンピック野球の準決勝・日韓戦、嫁さんの点けてくれたテレビで それを眠気眼で見てた。11時半過ぎ訪問看護師さんたちが到着、「雨ですね。」と。続けて僕が雨男ですねと言った、 でも僕の通院・外出の時は9割方晴れだけどと心の中で反問。後は看護師さんたちが外出の準備をしてくれているのを 耳はテレビのまま受けていた。雨の日の僕の自動車への移乗はみんなが大変。今日はお袋が僕が濡れない様に 傘を差し掛けてくれていた。でも我が身を犠牲にしてくれている看護師さんたちは大丈夫?。程なく嫁さんが乗り込んで 出発、見送りはお袋と息子たちだが下の息子は雨の中の見送りで少し不機嫌、それとも僕が家からいなくなるのが 少し寂しいのかも?・・・・・。(独りよがりか?) 家を出るとすぐに嫁さんがラジオをオリンピック野球の日韓戦にチューニングしてくれた。出かける時から僕には 気になっていた事があった。それは自動車に移乗してもらってすぐ痰を吸引してもらおうとしたところ吸引機の圧が 上がらなくて痰を吸引出来なかった、部屋ではさっきまで問題なく動いていたのに自動車の中まで来て今更引けなくなんて 。それで僕は病院へ向かう自動車の中で僕の身体が出来るだけ目を覚まさない様に耳をラジオの日韓戦に傾けて 眠った様にしていた。ところが病院まであと数キロの所でとうとう痰が大量に出てきてしまった。吸引してもらおうとしたが やはり吸引機の圧は上がらなかった。こうなれば一刻も早く病院に着くしかない。前を走っていた訪問看護ステーションの 所長さんに連絡して病院に着いたら直ちに吸引出来るよう頼んだ。数分後病院に着いた時の僕の目はもう白黒(大袈裟か!)、 すぐにストレッチャーに乗せられて救命処置室に移動して外来の看護師さんに吸引してもらってようやく人心地。 主治医からは胸のレントゲンを撮ってから病棟に入るように指示があったらしいが僕の今の状況を見て看護師さんが 「先に病棟に行ってポータブル(のレントゲン)で行ってもらいましょうか?。」と言ってくれて主治医に連絡を取って そう手配してくれたので病棟から来た看護師さんたちと一緒に病棟へと向かった。病棟はいつものところでも病室は 初めての所だった、えーっここって特別な患者さんが入る部屋じゃなかったっけ。病室に入ると顔見知りの看護師さん 4-5人が待っていてくれて一斉に僕の入院準備をしてくれた、もちろん足で押す僕用のナースコール特別スイッチの オーバーテーブルへの設置も。 ここまで終わると僕の関心事はオリンピック野球の日韓戦の経過。しかしテレビを点けてと頼もうにも嫁さんはまだ 看護師さんと僕の入院に関して打ち合わせ中、今口を出す訳には行かないのでただただ辛抱して待つのみ。しばらくして ようやくテレビを点けてもらうと8回の裏の韓国の攻撃中でなんと2-6で負けているではないか、自動車の中で 聞いていた時までは勝っていたのに。それに今岩瀬から成瀬にピッチャーが代わったという。しかも映し出されたベンチを 見ると藤川が肩をアイシングしていた。何故!、何ゆえに星野監督は日本の勝利の方程式を崩したのか!。 7回に藤川が投げ同点にされ8回に岩瀬がホームランを打たれて逆転されたということだった。それにしても何故藤川- 岩瀬の順だったのだろう。9回の日本の攻撃も淡白なものでゲームセット。これで金メダルはなくなった。日本の オリンピックでの敗因はとにかく打てなかった事だろう。僕はテレビを消してもらった。 しばらくして嫁さんは帰って行った。僕はいつもの様に天井の模様を見つめる。 またしばらくの間ここで過ごす事になる。 8月19日 県立宇宙科学館へ行く 朝訪問看護ステーションの所長さんから「今日宇宙科学館に行きましょう!。」と電話がかかってきて丁度僕の所に 訪ねて来てくれていた幼馴染のHも一緒に行く事になった。今宇宙科学館ではガンダムの原画展が開催されていて この夏休み中に僕をそこへ連れて行ってあげようという話は嫁さんと所長さんの間では前々から出ていたのだが、 金曜から入院する僕を夏休み中に連れて行く機会は今日しかなかったのである。 11時過ぎに訪問看護師さんたちが来て僕の外出準備をしてくれてそれから自動車に移乗、まもなく息子たちそれにHも 乗り込んで出発した。12時半過ぎに宇宙科学館に到着し車椅子に移乗させてもらったのだが外は蒸し蒸しして暑い、 訪問看護師さんたちに急いで宇宙科学館の建物の中に連れて行ってもらった。 まずガンダムの原画の展示会場に入るとそこには安彦良和氏の代表作の原画が展示されていた。けれども前半の原画は 僕がほとんど見た事のない作品で素晴らしいしかも美しい原画なのだが僕には愛着が湧かなかった。けれども会場の 中央に展示してあった勇者ライディーンやガンダムのフィギュア・後半のガンダムの原画を見た時はアニメの中の色んな シーンが思い出されて楽しかった。展示会場の出口付近で勇者ライディーンの原画を見たがこの原画が今回の 原画展で僕が一番気に入った作品だった。 次に向かったのは2階の科学体験ゾーン、そこには色々な仕掛けを施した装置が一杯置いてあってたくさんの子供たち それに息子たちも楽しそうに遊んでいた。残念ながら僕が体験出来たのはマジックミラーだけだったが・・・・・。 それから向かったのは1階に降りて雑木林と川に棲む生き物を紹介するゾーン、残念な事に雑木林の生き物のコーナーの 土台が車椅子の僕には高過ぎて雑木しか見えなくて楽しむ事は出来なかったが川を模した水槽の中には色々な 魚がいて泳いでいる姿を見ていると楽しかった。小川の水槽にはめだかに田ぶな・ドジョウがスイスイと泳いでいたし 河口付近の川の水槽には淡水魚の大きなフナや鯉がまた海水魚の鯛?やハゼ(カサゴ?アラカブ?)それにがいた。 大きな水槽の中を泳いでいる魚たちの姿を見ていると心が落ち着いた。この雑木林と川に棲む生き物のゾーンが ここ宇宙科学館で僕が最も好きな場所だった。 午後3時もう帰る時間、宇宙科学館のエントランスにみんな集合し記念撮影をしてから家に帰った。今日一日 訪問看護師さんたち・Hそれに嫁さんに息子たちみんなお世話になりました、そしてありがとうね。 8月19日 友遠方より来たる 朝幼馴染のHから「これから来てもいいか?。」と電話がかかってきたので「OK」のサインを出した。それからまもなくして Hが小中学校時代の同級生のMを伴って現れた。どうやら昨日の十八夜で出会ってMはHの家に泊まっていたようだ。 そこで僕がこんな病気で寝たきりなっているとの話題が出て見舞いがてら会いに行こうとなったようだ。この前も そうだがHはよく同級生を連れてきてくれる。僕が寂しくないように内向きにならないようにとのHの配慮だろう。 Mと会うのは何十年振りだろうか、大分前の同窓会で会って以来だ。Mが福岡市内で板前をやっている事はその時の同窓会で 聞いて知っていたが同じ福岡に住んでいたのに交通経路・生活圏が違ったので一度も会いには行かなかった、西の海へ 遊びに行っていた時にはMの店のすぐ側の道を僕の自動車で通っていたかもしれないのにだ。50にもなるとお互いどこかに 悪いところが出るものだ。Hは股関節に故障を抱えているしMは左手が痛くて今リハビリに通っているという。だから二人とも リハビリの大切さを知っているようだ。僕は「包丁は握れるのか?。」と聞きたかったがHもMも文字盤を使う事は 出来ないので聞けなかった。しばらくしてMは仕事があるという事で帰って行った、「一度会ったから来やすくなった。」 「また来るから。」と言いながら。 その後もHは大粒の汗を噴き出しながら懸命に足のリハビリをしてくれた、また色々と話をして僕を励ましてくれた。 HそれにM本当にありがとう。『友遠方より来たる、また嬉しからずや』。この詩を改めて噛みしめた。来てくれた事、 とても嬉しかった。 8月18日 十八夜 今日は我が地区の祇園(祭り)十八夜だ。僕が子供の頃はお客さんはたくさん来るしご馳走は食べられるし特別にお小遣いが もらえてお寺の境内に出ている屋台の夜店で綿あめやかき氷・風船やヨーヨーやおもちゃなども買えるし打ち上げ花火や 仕掛け花火のジャーモンも見れるしで、この日が来るのを心待ちにしていたものだった。でも僕の子供たちを見ていると 今は十八夜だからといってそう待ち遠しい日でもそれほど楽しみな日でもないらしい、きっと来るお客さんは少なくなったし 美味しいものも食べなれているし(子供たちはそれを普通に食べられるものだと感じていてご馳走だとは 思ってもいない様だが)一番下の子以外は祭りの喧騒・人ごみや花火はそう好きではないらしい。祭り好きの僕としては 寂しい限りだ。 上の息子は今年から浮流の笛に参加しなければいけないと言っていたが浮流の始まった時刻7時を過ぎても向こうの 部屋から息子の声が聞こえてきた。そこで息子を呼んで「浮流には行かないのか?」と聞くと「友達が誰も行かないから。」と、 僕らの頃は浮流に参加するのは高校生になってからだったから無理強いは出来ない。今は我らの地区も高齢化が進み 浮流の参加者も年齢の幅を広げないと浮流そのものが成り立たなくなったために小中学生にも参加を呼びかけるように なった様だ。でも浮流という地区の伝統を子供たちに伝えるためにもまた地区の大人と子供のふれあいを深めるためにも 良い事だと思う。息子たちが浮流の稽古に参加して笛が少しずつ吹けるようになってきたと聞いていたので 僕としては十八夜の浮流に参加して笛を吹いて欲しかったので実に残念だ。 今回の十八夜で嫁さんはお寺の境内で仕掛け花火のジャーモンを見せてあげようと思っていた様だ。その事を聞いた時 嫁さんの気持ちは嬉しかったが僕は即座に「それは無理」と答えた。どうやら嫁さんはお寺の境内に浮流が入ってきた 時の混雑ぶりを分かっていない様なのだ、年に一度の満員電車状態になるのに。嫁さんは浮流の関係者や棟梁に 頼んだら何とかなると思っている様だが、そんな中を車椅子でしかも呼吸器を着けたこの僕が浮流が境内に入ってきた最中 そこに留まっていられるはずがないのだ。嫁さんは浮流もジャーモンもずっと以前僕と一緒に見た様だが境内の 混雑ぶりは忘れていた様なので「今年はお寺の境内で浮流やジャーモンを見てきたらいい」と伝えておいた。 午後7時浮流スタートの合図の花火の爆音が轟いた。その時僕はテレビを見ながらパソコンをしたがむなしさが僕の心の 通り抜けた。それからほぼ2時間後十八夜の終わりを告げる連発の花火の音が響いてきた。この時この場にいる事で むなしさが大きくなっていった。まもなく嫁さんが帰ってきてデジカメで取った浮流やジャーモンの画像をパソコンで 見せてくれたがむなしさは消えなかった。 子供たちも十八夜を楽しんでいる様子もないし家にいてもむなしいだけだし来年の十八夜はどうしようかなあ。 8月17日 北京オリンピック野球 韓国戦惨敗 北京オリンピックの野球で金メダルを狙う星野Japanは決勝トーナメント進出を占う大事な大一番の韓国戦で惨敗、 これで2勝2敗もう後がなくなり早くも崖っぷちに立たされ後のカナダ・中国・アメリカ戦では負けられない状況に 追い詰められた。 今日の韓国戦敗因はいくつもある。まず投手交代の時期が遅れた事。確かに和田の6回まではナイスピッチングだったから 難しい判断だっただろう。しかし今年の和田は公式戦で味方が点を取ってくれた次のイニングでよくホームランを打たれて 点を取られている。その事を考えると7回の先頭バッターをフォアボールで出した時点でピッチャーを交代させるべきだった、 7回からならば磐石の勝利の方程式があるのだから。 第二の要因はこのオリンピックの直前にオリンピック用のルールとして延長11回に入ったらノーアウト1-2塁から スタートするタイブレーク制が採用された事。このルールのために2-2の同点になった後延長11回の事を考えると ノーアウト1・2塁でも無得点に抑える可能性が日本代表投手陣の中で最も高い藤川を温存せざるを得なくなり そのためにまたもや投手交代が遅れ失点する事になった。 第三の要因は9回の表韓国の攻撃で送りバンドの小フライが取れないとか2塁への悪送球とかの信じられないエラーが 出て失点を重ねる事になった事。 最後の要因は9回の裏最後の攻撃で村田のタイムリーで1点を返し5-3になった後なおもノーアウト2・3塁の同点にする 絶好のチャンスで後続の打線がまたもや打てなかった事。もし阿部がライトに犠牲フライを打ってタッチアップで 1点を返し2塁ランナーに代走に出た西岡が3塁に行っていたらこの試合はどうなっていたか?。 それにしても日本代表はチャンスに相変わらず打てない。この調子ではこの先どうなることか、とても金メダルなど望めないのでは・・・・・。 8月15日 ばあちゃんに会いに行く 通院の帰り特別養護老人ホームに入所している僕のばあちゃんに会いに行った。エアコンの故障で病院に1週間 緊急避難した後嫁さんに「ばあちゃんの誕生日(8月16日)に会いに行きたい」と頼んだところ、訪問看護ステーションの 所長さんと話し合ってくれて次の通院の帰りに立ち寄ってくれる事になった。ただ通院のため自動車に移乗させてもらった時も 車椅子を自動車に積み込む事もしている様子はなかったし自動車の中でもばあちゃんの所に立ち寄るというような話も 出なかったし立ち寄る様な雰囲気も全くなかったので嫁さんも所長さんも忘れてしまっていると諦めていた。 特老に着いて玄関でしばらく待っているとばあちゃんが車椅子で現れた。互いに涙の対面、でも正月過ぎに ばあちゃんがもう危ないと聞いて会いに来た事を考えると嘘の様な話である。ばあちゃんは助手席を降ろしてもらった (ウェルキャブ車だから可能)僕の傍に並んで浮腫んでいる僕の左手と腕を心配そうに何度も何度も(残念ながら弱々しい 力で)なでなでしてくれた。正月に患った肺炎のせいでもう声はほとんど出ないそうだがご飯は毎食茶碗一杯食べるという。 本来ならば僕が時々ばあちゃんを迎えに来てばあちゃんの行きたい所をドライブしたり盆や正月・十八夜には家に 連れて帰ってみんなで楽しいひと時を過ごさせてあげなければならなかったのに。本当に僕は50にもなるというのに 祖母不幸な孫である、子供の頃色々教えてもらったしあんなに世話をかけたのに・・・・・。 15分ほどの面会の後後ろ髪を引かれながらも特老を後にした、暑い玄関にいつまでもばあちゃんをいらせられないし 訪問看護師さんたちの時間もあるから。ばあちゃんは手を振って見送ってくれている様だった。ばあちゃん、また遊びに 来るからそれまで元気でいてくれよ、お願いだから。僕はまだまだ元気なばあちゃんに会いに行きたいのだから。 ところでばあちゃんは今年でいくつになるんだろう、数年前に白寿のお祝いをしたのだが・・・・・。 8月14日 北京オリンピック観戦2 このところの僕のテレビは北京オリンピック中心、みんなにチャンネルを変えてもらってはほとんどの時間見ている。 でもなかなかスッキリしない、ただでさえ暑苦しいしパソコンも上手く操作出来ない事があるしその他諸々の状況で イライラが募っているのに。 JUDOはやはり厳しかった。特にMEN JUDOは総崩れに近かった。二日目に登場した内柴選手は攻めに徹し一本を取る 柔道にこだわって見事に金メダルを獲得したが負けない柔道を展開しようとした他の日本選手はことごとく敗れ去った。これは アテネ五輪の100s級で井上選手が完璧に投げて背中を付かせたのにその直後の流れの中で投げ返されて相手に一本が 与えられたそのJUDOのルールの影響が大きかったのだろう。でもそれならば一本が宣言される前になぜ気を抜くのか 日本の柔道を一本が宣言されるまでしつこく攻め続ける柔道に変えようとしないのかと思う。まあ素人が言うのは 簡単なのだが。でもそうする事により日本の柔道の本質は変えなくてもJUDOがある程度近くなってくると思うのだが。 WOMEN JUDOは比較的よく頑張っているのではないか、谷選手の銅メダルは誤算だったかもしれないが谷選手は どういう攻め方をどの程度したら指導を取られるのか基準を示したし銅メダルを確保した最後の試合では攻めの姿勢を見せて 一本で勝った。谷本選手も上野選手も持ち前の一本を取る柔道で攻め勝って金メダルを取り二連覇を達成した。中村選手も 準決勝で負けはしたがどの試合でも攻める柔道を貫き銅メダルを取った。これら3選手の試合はスッキリさせてもらった。 競泳は北島選手以外はなかなかメダルには届かないが頑張っているというべきだろう。北島選手には流石という外ない、 200m平泳ぎも安心して見ていられた。これでオリンピック平泳ぎ二種目二連覇の偉業達成だった。他の選手もよく 頑張っている、多くのレースで日本新や自己新を出している。流石に選考戦で準決勝戦進出という厳しい選考基準を 課しただけの事はある。ただ世界のトップとはもう少しの差があるだけだ。出来過ぎのアテネ五輪ほどとはいわないが あと少し頑張って欲しい。 野球もうひとつもたもたしている。初戦のキューバ戦、キューバはやはり強かったがチャンスにあと一本が出ていれば もう少し流れも変わったはずだ。台湾戦も最終回にようやく連打が出て勝つには勝ったがそれまではキューバ戦同様 チャンスに打てない場面が見られた。まるでここ数年のホークスを見ている様でフラストレーションが溜まる試合だった。 この二試合の収穫は岩瀬・藤川・上原の勝利の方程式が上手く機能した事特に上原が無事にそして完璧に押さえた事と 田中が三三振デビューを飾り使える目途が立った事。何とか打線を修正出来て二日後の韓国戦を良い形で迎え 勝利を飾ってくれれば良いのだが。 8月13日 痒み 身体の痒みもようやく少しずつ治まってきた。先週の入浴車の時は湯船に浸かったらバスタオルに密着していた背中や 腿の後ろがチクチクムズムズと痒くてゆっくりと湯船に浸かってはいられない程でそこそこに使ってベッドに戻してもらったが、 今日の入浴車はお湯を楽しむ事が出来た。先週末の往診の折かかりつけの先生(僕はホームドクターのつもり)と 嫁さんが話し合ってムヒとかぶれ止めの薬を併用するようになったのだがどうやらその効果が出てきたようだ。 ただ痒い箇所が移動していっており今は背中から腰にかけてと腿の後ろ・二の腕の後ろが痒い。どうやらマットレスと 密着していて汗をかく箇所に痒みが出る様だ。また背中の痒みがぶり返さなければいいのだが。 8月11日 北京オリンピック観戦 いよいよ北京オリンピックが開幕した。前半戦の注目競技は柔道ではなくJUDO・水泳・野球にソフトボール。JUDOは 世界ルールの中で一本勝ちを基本とする日本柔道がどのくらい金を積み上げる事が出来るか、水泳は北島の平泳ぎ 二種目二連覇達成と出来すぎだったアテネ大会に比べていくつメダルに手が届くのか・世界との差はどのくらいあるのか、 野球とソフトボールはオリンピック最後の大会で悲願の金メダルを手にする事が出来るのかが注目点だ。 JUDOの壁は厚そうだ、あの試合巧者の谷選手でさえ三連覇出来なかったのだから。確かに谷選手は今回のオリンピックでは もうひとつ積極性が見られなかった、一本を取る事を目指す日本の柔道ではなかった。この北京での試合運びの変更は 彼女の年齢によるパワーやスピードの衰えから来たのだろう。でも彼女には上手さで一本を取る力があったはずだ、 最後の銅メダルを確保した試合の様に積極的に自分から前に出て組んで戦う試合を見せて欲しかった。そうすれば 準決勝戦の様に不用意な反則は取られなかったはずだ、まああの時反則を谷だけに与えたのは少し平等性に 欠けた様な気もしたが副審も反則を取り消さなかったのだからしょうがない。谷選手のすばらしいところすごいところは 試合中も試合後も審判には不平不振の態を少しも表わす事はなかった事(審判を先生と呼んでいるのもすごい)と 感謝の心を常に持っているところだ。それにしても今回のオリンピックのJUDO反則を取るのが早い、それに審判によって 反則の取り方が違う様に見える。こんな状況の中でJUDOはいくつメダルが取れるのだろうか?。 やはり北島選手はすごいし強かった。今日の午前中行われた100m平泳ぎの決勝、北島は50mのターンまでを驚異的に 少ないストロークで折り返した。この時点で3位、ここから北島の追い上げが始まった。ターンの後浮かび上がった時には トップに肉薄、75m時点では頭ひとつ抜け出した。そしてそのままゴール、58秒91の世界新でセンタポールに日の丸を 掲げた。平井コーチの指示通りのレースだったという。オリンピックの平泳ぎ史上初の二連覇達成だった。北島選手の 喜びの大きさとアテネオリンピック以後4年間の苦悩を試合後インタビューでの涙と「何も言えない。」「すみません。」という 言葉がよく物語っていた。果たして北島選手の平泳ぎ二冠・二連覇達成と競泳で北島に続く選手が出るのか、 楽しみだ。 8月6日・9日 原爆が投下された日 8月6日は広島に9日は長崎に原爆が投下された日、平和ボケしこの平和を当たり前の事と捉えている戦後生まれの我々だが 戦争の悲惨さ原爆の恐ろしさを正しく認識し後世の世界中の子供たちに戦争の悲惨さ原爆の恐ろしさを 伝えていかなければならない。そのためには何が出来るのか?。 僕は大学時代を広島で過ごした。被爆二世の友人もいたし原爆ドームの横は何度も通った。長崎の地も何度訪れた事か!。 でも原爆ドームを原子爆弾の恐ろしさと結び付けて見ていたか・原爆資料館を見た事があるのか・広島や長崎を 原爆が投下されたとして感じていたのか!。僕が戦争の悲惨さを初めて感じたのは阪神・淡路大震災の1週間後に 長田の町を通った時、震災によって焼け野原になった町跡を見て戦争の被爆後の町もこの様な姿だろうかと想いを 馳せたものだった。本当は場違いな話なのだが・・・・・。 最近小中学校では夏休みの登校日を8月6日〜9日前後に設定して平和集会も同時に開催していると聞いている。 この事はとっても素晴らしい事だと思うが今の教師は全員戦後生まれで戦争の悲惨さ・惨めさの本質は実際には 知らないはずだ。だからどれだけの事を子供たちに伝える事が出来ているのか、下手をすると知らず知らずの内に政府・ 文部科学省の言いなりになっているかもしれない。自民党政権は代々昭和の戦争を侵略戦争とは思ってはいない 代議士を多く抱えている様に思えるしその自民党を抱え込んでいる政府文部科学省はいわんをだ。その事は社会科の 近代史・現代史の教科書検定への介入に色濃く現れている。僕は教科書の特に現代史には思想やイデオロギーなどは 全てなくして事実を全て包み隠さず記載して欲しいのだが。判断するのは子供たち、そういう風にすべきだと思うのだ。 日本をあの時期で終戦に導いたのは2発の原爆、それは間違いなく事実だろう。それがなければ更に多くの人命が 失われていたはずだしその後の素早い復興もなかっただろう。それでも我々はアメリカが原爆を使用した事を決して 肯定してはならない。我々は常に平和を希求しなければならないのだが、どうすれば・何をすればいいのだろうか?。 8月7日 背中が痒くて眠れない!! 退院して1週間、背中の痒みは増すばかり。この数日間は眠れないほどだ。退院した次の日訪問看護師さんに 見てもらったら背中がカサカサしているとの事、ひとまずオイラックスを塗ってもらったが背中の痒みは引かなかった。 ところが翌日ヘルパーさんの持っていた虫刺され・痒み止めのムヒを塗ってもらったら一時的に痒みが治まった。 しかしその翌々日もう一度看護師さんに背中を見てもらったら「背中の赤みが少し増した。」と言う。そのせいではあるまいが その日の夜から背中が痒くて眠れなくなった。もしかしたらムヒの中の何かの成分が僕の痒みには合わないのかもしれない。 かといって背中が痒くて眠れないのはもっと辛いしムヒと背中の痒み・赤みが少しぐらい時間がかかっても完治するのと どっちがいいかと言われたらムヒを選ばざるを得ない。ああ、どっかに即効性のある良薬はないかなあ。 ところでこの背中の痒みの原因はなんだろう。変わった事といえば入院してのベッドと環境だけなのだが、環境の違いから 来た痒みが徐々に大きくなって退院した今も続いている精神的弱さに起因した痒みだとは思いたくないし残るはベッド。 そういえばベッドの作り方が今までと少し違ってマットレスに直接シーツがかけられていたがそんな事でアレルギー性の 痒みが出るとはとても思えないし残るはベッドの違いから来たあせも。でもあせもなら看護師さんたちが見れば 分かるはずだし・・・・・。 8月3日 上の息子は・・・・・ 息子たちはもう何年も前から週に一度スイミングスクールに通っている。スイミングを続けさせているのは上の息子が 喘息持ちだからだが、スイミングスクールに通い続けたおかげで小学校に入学してからは喘息で入院するほど ひどくなる事はなくなった。下の息子は時々「もうやめていい?。」なんて言ってはいるが息子たちはスイミングが結構 気にいっている様である。 息子たちがどのくらいでどう泳いでいるのか?、下の息子はまともには話してくれないので推察のしようがないが、 お兄ちゃんは先日出場した記録会の記録を見るとかなり早い。僕も小学6年の時市郡の水泳大会の選手候補に 選ばれて夏休みほぼ毎日2時間ずつ練習をやらされてクロールは結構早く泳げるようになったのだが、お兄ちゃんの クロールの25mのタイムは僕なんかよりはるかに早い。競技選手を目標においている子を除けばおそらく市郡では トップクラスだろう。その上平泳ぎ・背泳ぎ・バタフライもそこそこ出来るらしい。泳ぎ好きだった僕の息子ながら たいしたものだ。個人的にはメドレーも面白いと思うが体力的にもつかどうか?、競技選手になるのは無理だろう。 そのお兄ちゃんは地区の子供会の海水浴に行かなかった、下の息子と嫁さんは行ったのにだ。理由を尋ねたところ 「同級生が誰も行かないから行っても遊び相手がいない。」と、海が好きで夏には一人でも海に行っていた僕の息子としては 寂しい限りだ。 今日の夜僕の部屋でパソコンで遊んでいたお兄ちゃんを傍に呼んで「おじいちゃんにうなぎを取りに連れて行って もらったら?」と言うと、「○屋に頼んだら食べられる。」とのつれない返事が返ってきた。側にいた嫁さんが「そういう 意味じゃない。」とフォローしてくれたが「この辺りの川にはうなぎはもういないらしいよ。」とも。1年ほど前役場の方が 訪ねて来た時に「この辺りの川の生き物も昔の様に戻ってきている。」と言っていたがうなぎは無理か!。僕が小さな頃は フナ・鯉・ハヤはもちろんのことうなぎ・紅バヤ・ジョウトク・スッポンや憎たらしい草魚までいたのに。「遠くの川まで行けばいる」と 付け加えると「おじいちゃんと二人で軽トラで行っても話が続かないし・・・・・。」などと色々と反対意見ばかり。要するに 魚取りなど嫌いなんだなと落胆の意味で「そうね」と返した。ところが息子は僕が息子の意見を肯定した意味の「そうね」と 受け取った様でニコニコ顔、文字盤での会話の難しさを感じた一幕だった。 |
6月 6月29日 スイミングスクールの記録会 朝上の息子は県下のスイミングスクール合同の記録会があるとかで出かけて行った。息子は当初スイミングスクールの 先生や嫁さんがどんなに勧めても記録会への参加を承諾しなかったのだが友達も参加するという事で行くようにしたと 聞いている。僕は記録会に参加するかどうかは本人次第とあまり熱心に勧める事はなかったが、基本的には記録会等に 参加したりして人前に積極的に出る事は息子の将来に必ずプラスとなるだろう。息子たちの通うスイミングスクールから 記録会に何人ぐらい参加しているのかは知らないが、推薦してもらえるくらいだからそれなりに速く泳げるのだろうし 綺麗なフォームで泳ぐのだろう。一度でいいから子供たちの泳いでいる姿を見てみたいものだ。息子には「ベストを 尽くせ(ば良い)」と言って送り出した、25Mのクロールに出るという事だった。 夕方疲れた様な顔をして帰って来た息子に「どうだった?」と聞くと、「クロールは(グループで)1番だった。平泳ぎは4番、 リレーのバタフライでは順位は変わらなかった。」と。3種目も代表のメンバーとして泳ぐなんてたいしたものだ。僕は 6年生の時例年秋に行われていた市郡の水泳大会の選手候補に選ばれて夏休みには毎日水泳の練習に励んだが、 まともに泳げるようになったのはクロールだけ、平泳ぎは蹴り足が出来なくてほとんど進まなかったしバタフライは 手足・腰を動かすタイミングとバランスが悪くてプールの中央まで来ると沈んでしまっていた。上の息子は喘息の予防に なればと押さない時から週に一度スイミングに通わせてはいたのだが全種目泳げるようになるとは本当にたいしたもんだ。 先日進級テストでクロールの50Mのタイムを初めて計ったと聞いたから「どのくらいで泳いだ?」と尋ねたら 「よく分からないけど48秒ぐらいかな。」と。6年の夏休みに特訓したので50Mクロールではまだ僕の方が速かったけれど 夏休み明けには追い越されているだろう。それにしても子供たちと一緒に泳いでみたかったなあ。 6月27日 保健師さんの訪問 今日の午後地区の難病担当の保健師の交代があったとかで新しい保健師さんが訪ねて来た。前の保健師さんと僕とは 何故か馬が合わなくてこの地区の保健福祉事務所とも疎遠になっていたが、担当が交代されたという事が心の距離の 接近に繋がるだろうか?。 新しい保健師さんとは以前隣の地区の保健所(当時)の依頼で隣町で講演した時に一度お会いした事があるという、当時は 難病の担当ではなかったそうで名刺をいただいただけだった様だが。更に話を伺っていると高校3年の時のクラスメイトと、 そう言われてからよく見れば確かに面影があった。だがこのひと言で疎遠になっていた保健福祉事務所が再び身近に 思える様になった。これからはまた連絡を取り合っていけたらと思う。 佐賀県民の県民性だと思うが公の場で意見を述べようとしない、たとえそれが多数の益に結びつく可能性のある事でも 我慢して口に出さずにいる事を良しとしてしまいがちだ。それに人を使うのが下手だ。でもそれでは現場の実情を知らない もしくは見ようとしない大きな組織を動かす事は出来ないし改善を求める事も出来はしない。力のない弱い立場の者 我々障害を持つ者が組織を動かすには『トラの威を借る狐』にならねばいけない。でも最近の僕はその元気もなくなって ここでクダを巻いているだけなのだが。 6月27日 サクランボ届く 今日の昼過ぎに今年もまたサクランボが届いた、会社に勤めていた頃の後輩Mが送ってくれたものだ。雨が続く梅雨の この時期は体調ももうひとつで毎年なんとなく気分的に落ち込んでいるのだがサクランボを見て以前一緒に働いていた みんなの事を思い出して少しずつ気分が回復してきた。 M君本当にありがとう。御陰でまた元気と勇気が湧いてきたよ!。 6月22日 プロ野球セ・パ交流戦、ホークス優勝 プロ野球交流戦で福岡ソフトバンクホークスが15勝9敗で優勝した。交流戦の優勝自体はそれ程たいした事ではないが 過去3年間の交流戦優勝のジンクスが良い、交流戦の優勝チームがリーグ戦にも優勝しているというジンクスが。 それに交流戦の結果4つの貯金も出来た。この調子でリーグ戦もがんばって優勝して欲しいものだ。 交流戦優勝の原動力は交流戦のホーム・ビジター2試合制による飛び飛びの日程と杉内・和田・大隣・ガトームソンの 先発投手陣の頑張りだ(若手の中継陣もそれなりに頑張ってはいるが)。もし押えの馬原がいて昨年の様に働いてくれたら 交流戦はもっと有利に戦えただろうしあと10は貯金が増えていただろう。打撃陣は相変わらずチャンスに打てなかったし 送りバンドをすんなりと決められない場面がかなりあった。 リーグ戦は先発投手が駒不足、問題は新垣の調子がどこまで戻ってきているか。それにもう一枚駒がいる、大場は どうなんだろう。押えの馬原はいつごろから投げられるのか、それまで若手中継陣は頑張って切れるだろうか。そろそろ 打撃陣がピッチャーをカバーして欲しい。送りバンドはすんなりと決めて欲しいしチャンスには主力打者といえども センター返しに努めて欲しい、王監督最後の年になるかもしれないのだから。心配事は尽きないなぁ!。 6月20日 通院日 朝方激しい音をたてて降っていた雨もどうやら下火になった様だ。僕の部屋のベッドの位置関係で外は見えないので雨が 降っているかどうかや雨の激しさは雨音や雨が僕の部屋の屋根を敲く音で判断しているのだ。それにしても今年の梅雨の 雨の降り方はかなり異常だ、例年ならば激しい雨は7月の半ば以降梅雨の終盤に降ると相場で決まっているのに 今年は梅雨の序盤から降っている。今年は既に数個の台風が日本列島に接近したしこれらは全て地球温暖化の影響だろう。 僕も出来ればエコに努めたいのだがいったい何が出来るというのか。僕の部屋は他の部屋とは分岐して1500w/h(15A)の 電気を引いている。人工呼吸器を使っているしせめてこの部屋の電気ぐらいは太陽光発電で賄いたいのだが どのくらいの広さの太陽光パネルと費用が必要なのだろうか?、見積もりを取ってみようかな。 今日は2週に1度の通院日、11時過ぎに訪問看護師さんが来て「今は雨は降っていない。」と言って急ぎ模様で出かける 準備を始めた。ところがいざ自動車に乗り込もうとした時に雨音が聞こえ始めたが幸いな事に自動車にのる瞬間は 雨も止んで濡れずに済んだ。病院に行く途中の車窓からはたまに紫陽花も見えるが今年の紫陽花はあまり綺麗には 見えない、気分的なものだろうか。隣町に入りしばらく行くと突然片側通行になった。見ると岩手・宮城内陸地震の被災地に あった様な巨大な土嚢が道に据えてあった、夜半からの激しい雨で少し高台になっている家の土台が小さな土砂崩れを 起こしたらしい。この道でもう7年以上通っているがこんな事は初めてだ、それほど今回の雨は短時間に激しくたくさん 降ったという事か。そういえば佐賀市内で水がひざぐらいまで冠水したとか我が町でも土砂崩れが起き土砂が民家に 迫ったとのニュースも流れていた。病院からの帰りに川を見ると上下に開閉する簡易型の堰の上からも大きく水が 溢れていたし普段は河原に生い茂っている雑木も満潮時のマングローブになっていた。こんな光景を見るのは実に 久方振りの事だった。 北部九州に大雨をもたらした雨雲は北東に移動し昼過ぎには岩手宮城内陸地震の被災地にかかったが幸いな事に 小雨程度で済んだようだ。だが東北地方も梅雨に入った。土砂ダムもテレビで見ていても日に日に水位を増している。 政府の迅速な対応が待たれる。合わせて被災者に対する誠意ある対応を目に見える形で期待したい。 6月18日 入浴車も変調? 今日は午後から入浴車の日、いつものメンバーがいつもの様に定刻通りやって来た。今日はどんな井戸端会議が 聞けるかな?、楽しみだ。 ところがお湯を張り浴槽に移って今にも井戸端会議が始まろうとした時に「お湯が出ない。」と。それからは上や下やの 大騒ぎ?。当の僕は入浴車も機械だからこんな事もたまにはあるさと申し訳ないが成り行きと人の動きを見ながら 楽しんでいる風?だったが、看護師さんは「申し訳ない」と何度も頭を下げるしヘルパーさんは幾度となく入浴車と僕の部屋の 浴槽との間を往復するしでこっちが恐縮してしまった。結局家のお風呂からバケツにお湯を汲んできて対処する事に なったがベッドに戻った途端お湯が出始めた。一体なんだったのだろう、 入浴車そのものもストライキを起こしたか?。 入浴車から音はしていたというから何らかの要因で入浴車のポンプが誤動作を起こした?。そういえば昔のポンプは 呼び水が必要だったが今のは・・・・・。 6月17日 パソコンのストライキ 僕のパソコン(VAIO)には色々なものがくっついている。まずは電源コード、次に4つのUSB(内1つは買った時からよく 誤動作を起こす(繋がったり切れたりする)から使っていない)には家族操作用のマウス(付属のマウスはポインタの揺れが 大き過ぎるから以前買っていた物を使用)・PS/2切り替え器経由で足用のトラックボールマウス・USB分配器(接続部は 5つ)が繋がっている。更にそのUSB分配器にはオペレートナビのスイッチBoxと12メディア対応カードリーダーとWebカメラが ついていて右手薬指用スイッチはスイッチ切り替えBox(通常操作でスイッチ・長押しで呼び出しコール)経由で オペレートナビのスイッチBoxに繋がっている。だからパソコンを置いたサイドテーブルの下や周りはあらゆるコード類で 何がどうなっているのかごちゃごちゃで分からなくなっている?様だ。それだからサイドテーブルを動かしてもらう時、 電源コードや(延長している)マウスのコードによく引っかかる。引っかかると時々パソコンの電源が落ちてしまう(たまに テーブルを動かしただけで電源が落ちる事さえある)。VAIOのこの機種で本体をこれ程動かすとは想定外の 事だったかもしれないがメーカーに落ち度があるのは明らかだ。僕が元気ならばメーカーに文句のひとつも 言っているだろうしコード類にしても少しは僕なりの何らかの工夫・整理でも出来ただろうが。 今朝も5時半過ぎからお袋を呼んで「難しいとか面倒くさい。」とか何だかんだ言われながらもパソコンをセットして もらった。ところがパソコンのマウスポインターが全然動こうとしない。会社並みの使われ方に僕のパソコンがとうとう ストライキを起こしてしまったようだ。以前にもあった事だがマウスのコードのどこかの接続口のどこかが接続不良を 起こしていると思われた。でもお袋に接続不良の箇所を見つけてくれというのは到底無理な相談だ。そこで上の息子が 起きてくるまでパソコンをするのを諦める事にした。しばらくして隣の部屋から物音が聞こえてきた。そこでコールを 押すとお袋が来てしまった。「お兄ちゃんは?」と聞くと「まだ寝てる!。」と。仕方がない、また待つ事にした。そこで 何気なく画面右下のツールバーを見るとウイルスバスターのアイコンの色が白のままだし動いてもいない。もしやと思い 横の時計を見ると05:41のまま、どうやら本当に僕のパソコンはストライキを起こしていた様だ。そこで息子が「おはよう、 どうすれば良いの?。」と来た時に電源を入れなおしてもらって僕のパソコンもようやく動き出した。今回はたいした事は なかったが、お兄ちゃんは僕にとって頼り甲斐のある息子になってしまった。 6月15日 情けない身体 昨晩寝る時に暑苦しさを感じたので嫁さんにエアコンを28℃に設定(嫁さん曰く「夜は気温も上がらないからエアコンを 28℃にしていてもけしているのと同じじゃないの?。」と。でもそれは違う、人工呼吸器が絶えず動いているから締め切った 部屋の室温は結構上がるのだ。)してもらって寝たら・・・・・、朝起きてパソコンをしていると寒気がしてきてついには 鼻詰まりに。先日ナフコで買ってきた温湿度計を見ると25℃位はあるのに、情けない身体になったものだなあ。 6月11日 お風呂の会話 今日は水曜午後から入浴車の日、今日のお風呂での井戸端会議の話題は日本競泳陣が北京オリンピックで使用する水着が 自由化されたこと、すなわち北京オリンピックで日本の選手がスピード社のレーザーレーサーを着て泳げるかどうか?・ ミズノと契約している北島康介がレーザーレーサーで泳げるのかという事が話題に上った。みんな(4人)で話した末に 僕に「泳げる様になったのよね。」と確認を求めるので、僕は目で「そうです」と返事の合図を返した。 テレビのニュースによるとイギリスのスピード社はオリンピックで勝つためだけにレーザーレーサーという水着を 作ったと言う。その速さはこの半年間の世界の競泳の大会で世界新記録が連続して出ていた事先週の日本選手権で出た 日本新記録で17の内16の記録がレーザーレーサーを着用した選手によって出たという事実がよく物語っているし北島選手の 世界記録200m平泳ぎで従来の記録を1秒余りも縮めたという事実がだめを押した。オリンピックは共通の条件の下で 行われなければならない、そうでなければ参加する選手にとって不平等だし余りにもかわいそう過ぎる。その意味で 日本水泳連盟および日本の(水着)メーカーは賢明な判断をした。 でもこれで良いのかと思う。勝つ事だけにこだわった水着一人では着れない着るのに30分はかかる健康によろしくないと 分かっている水着。クーベルタンの精神に反していると思うのだが。 6月10日 寝たきり保険の調査 僕が寝たきり介護保険の契約をしたのは20年程前の事で世間ではまだ介護保険という言葉が一般にはほとんど 知られていない頃の事だった。ある日まだ元気そのもので保険嫌いで通っていた僕(当時の保険契約件数は0で自動車の 保険以外は会社の団体保険すら加入していなかった)のところに、4月に僕の職場から保険サービス部門に異動した Tsuneさんが訪ねて来て「会社の団体加入扱いの寝たきり介護保険に入ってくれないか。」と頭を下げるのだ。最初「僕は 保険は嫌いだから。」と断ったが、お世話になった先輩の押しと「積み立て年金扱いだから将来戻って来るお金だから。」と いう言葉に負けて一番安い保険料の契約書にサインした。付き合いで契約した寝たきり介護保険だけど今ではこれが家の 家計の重要な収入源にもなっている。こんな時には人間関係の大事さと人と人との付き合いの大切さを改めて思う。 Tsuneさん本当にありがとうございました。 今日の午後この寝たきり介護保険の保険調査員の方が寝たきり介護度の調査に来た。寝たきり介護保険の調査が 入るのは6年前の認定の時以来たぶん2度目?か。事前に僕の主治医と離し僕の状態を確認してきたとかでほとんど 質問もなく、ベッドに横になっている僕を見て「いつもこういう風に横になっておられるのですか?。」と嫁さんに尋ねた。 そして「保険はこのまま継続になりますので安心して下さい。頑張れという言葉を使うべきではないのは 分かっているのですが他に言葉が見つからなくて・・・・・、がんばってください。」と僕に声をかけて帰って行った。 その配慮に思わず涙が出た。 6月9日 浮流の稽古 上の息子が小学校から帰って来ると僕はよくパソコン用のスイッチやマウスの位置合わせをしてもらう。上の息子は お袋と並んでマウスやスイッチの位置合わせが上手いのだ。僕の入力装置の位置合わせは微調整が必要だから 結構難しいのだ。 今日もまた上の息子が帰って来た時僕は「パソコンをしたい」と頼んだ。そしてパソコンが使えるようになるとついでに 「晩ご飯を食べた後手伝って」と頼んだ。すると「今日は宿題がいっぱいあるから、それに8時からは浮流の稽古も あるから」と断られてしまった。 僕も高校生の夏休みには十日ほど十八夜(夏祭り)の浮流の稽古に参加させられていた。大学へ行き故郷を離れて 初めて思ったのだが、僕もこの時横笛の練習を真剣にしておけばよかったと。横笛は浮流のベースをなす、大太鼓を たたくにしても鐘をたたくにしても地囃子をするにしても横笛の音がベースとなる。第一横笛が始まらなければ十八夜は 浮流は始まらないのだから。息子たちは今横笛を練習している様だ。息子たちが戻って来た時下の息子がパイプで 作った横笛を持っていたので「吹いて見せて」と頼むと音も出たし一章節だけだけど見事にメロディーも奏でた。 始めたその日からメロディーが吹けるとは才能があるかも。 何にしても地元に残る文化を継承するのは良い事だ、たとえ将来故郷を離れるとしても。僕が関心を示さなくて 大人になって失敗したと思っている事だから。この地区を故郷に持つ者にとって十八夜は一生忘れられない 祭りになるのだから。 6月6日 修学旅行 夕方上の息子が長崎への1泊2日の修学旅行から帰ってきた。早速「どうだった?」と尋ねると「疲れた!。」のひと言。 ビジネスホテルのツインの部屋に泊まったらしいのだがホテルの部屋の前の道路で夜中中工事をしていて一睡も 出来なかったとの事。それでこれ以上聞くのは止めにして「しばらく寝ろ」と開放した。昨日の朝は「楽しんでくるよ、雨が 降りそうだけど。」と元気に挨拶をして出かけて行ったのだが。それにしてもビジネスホテルへの宿泊といい事前の 平和(自主)学習といい修学旅行も様変わりしたものだ。昔の修学旅行の宿泊といえば旅館の大部屋と大浴場、大部屋での まくら投げと夜遅くまでのダベリングが定番だったのだが。 下の息子の修学旅行は先週だった。4年生は佐賀市内の佐賀城址や佐賀県警などに行くと息子から聞いていたが、 帰って来た時に「どうだった?」と聞くと「面白かった!。」と元気な声が返ってきた。修学旅行はこうでなくてはいけない。 いくら教育の一環だといっても修学旅行はやはり楽しく面白くなくてはいけない、思い出作りの一環でもあるのだから。 学校側もその辺の出来るだけの配慮をして欲しいものだ。 6月6日 通院日 2週間に1度の通院日、路傍には紫陽花が見られるようになったし田んぼの半分ぐらいにはもう水も張ってあって田植えの 準備もしてあった。来週には梅雨入りすると天気予報で言っていたが在世では着々とその準備が進んでいる様だ。 そういえば最近は雨が降る少し前の雨蛙の合唱もはっきりと聞こえる様になっていたなあ。 病院に着くとストレッチャーに移乗して僕がいつも診察処置をしてもらう救急室に入る。その時たまたま救急室に いたのだろうが初めて拝顔?した医師が看護師さんたちと一緒に移乗してくれた。気管切開した後在宅になって5年、 通院時にこういう事は初めてだったので少し面食らってしまった。その後はいつも通り看護師さんが吸引とバイタルを 済ませ主治医を呼んで診察とカニューレ交換・胃ろう部の洗浄と人工呼吸器のチェック。その時主治医に「呼吸器から 送り込まれる(空気の)圧を少し上げて欲しい」とお願いした、最近時々身体がきついと感じる事があったから。すると 「1上げましたがどうですか?。」と尋ねるのでOKの合図を送った、その時は少し違うなと感じる程度だったが家に着き ベッドに横になるとずいぶん違う身体が楽になってると感じる様になった。たった1変えただけで大きく違うものだ。 帰りにラベンダーを見にチャイナ オン ザ パーク(深川製磁)に立ち寄った。ここのラベンダーを見るのは約6年振り 2度目である。陶器屋さんらしい門を入り奥に進むと左手に工場右手にレストランそして正面の山肌に青紫色した ラベンダー園が見えてきた。嫁さんが言うには「2代目社長が北海道の旭川出身のお嫁さんが寂しくない様にこの場所に ラベンダーを植えたのがここまで広くなった。」と。今では園の隣にある資料館よりもラベンダー園が有名かも。金曜の 午後の今日も観光客が来ていてカメラを構えている方もいた。 ラベンダーと言えば大方の人が北海道富良野を思い出すかもしれないが僕は子供の頃見たNHKのテレビドラマ 『時をかける少女』をまず思い出す。中学校の理科室でラベンダーの匂いのするフラスコを偶然嗅いだ少女が自分の 意志とは関係なく時間移動するようになり未来から来た同級生の事件に巻き込まれてしまうという近未来の 学園物だった。後年原田知世の主演でリバイバル放送(内容は少し違う?)され映画もされ人気を博したが、僕はやっぱり オリジナルが面白かったと思う。昔を懐かしみもう一度見てみたいものだが。 6月4日 ミヤマキリシマ 今日の入浴車の話題はミヤマキリシマ。看護師さんの一人が先日天山(佐賀県の佐賀市と多久市と唐津市の境の山、 平成の大合併後)に登った時ミヤマキリシマを見たとの事。僕は九重・霧島・雲仙・阿蘇の仙酔峡にミヤマキリシマが 生息している事は知っていたが、こんなに身近な山にミヤマキリシマがあるとは思わなかった。 多分6月1週目の日曜日は九重連山の山開き。今年もたくさんの山歩き好きが1日の日曜日九重連山に集った事だろう。 僕は何度もやまなみハイウェーを通り2度ほど牧ノ戸峠から九重山頂へと登ったがそれはミヤマキリシマの時期では なかった。ミヤマキリシマの咲き誇る頃九重に行ったのは2度だけ、1度目は新婚時代朝突然思い立ち嫁さんと二人で ぶらりと九重を訪れ長者原を散策し小川の流れに沿って森林浴、尾根に出たところでお昼にしたのだが正面に控える 大船山の一面に咲き誇るミヤマキリシマで山肌が薄いピンクに彩られとても見事な眺めだった。この時初めて ミヤマキリシマを目にしたのだがその彩りに感激した事を今でも覚えている。 2度目は上の息子が1歳になった時、この頃の僕は山道を歩くのがかなり不自由になり始めていた。会社を辞めた先輩が 阿蘇の乙姫でペンションを営んでいたので家族でその『ペンションペンギン』へ遊びに行きその日の夜は遅くまで先輩と 二人で酒を酌み交わし翌日九重へと向かった。牧ノ戸峠の売店で杖を買い僕は4歳の娘の手を引き嫁さんはショイコで 息子を背負い登山道へと入った。一山越えて広くなった道の中ほどで休憩し登山道の脇の山肌に適当に場所を見繕い 先輩に作ってもらった弁当にみんなで食らいつく。周りにはミヤマキリシマがところどころに咲いていた。子供たちも まだ小さかったのと時間が時間だったのでこの先に進むのを断念ししばらくここで休憩して牧ノ戸峠へと引き返した。 この時はまた九重山に登る事もあるだろうと思い・・・・・。牧ノ戸峠に戻って来た時見知らぬおじさんに 『九重山開き』の小さなテナントを娘にくれた。それでこの日が九重の山開きの日である事を知った。またいつの日か 九重に登りまたミヤマキリシマを見たいものだ。 6月1日 田植え 今朝お袋から「今日は西岳の田植えだ。」と聞いた。僕らが子供の頃は田植え・稲刈り・田ん草取りと『働かざる者 食うべからず』と否応無しに田んぼまで引っ張っていかれたものだが「孫がついて来ない。」と嘆いていた。僕が動けるならば 無理矢理にでも息子たちを田んぼまで引っ張っていくのだが、孫に嫌われたくないからか嫁さんに気兼ねしているのか 強制執行はしようとしない。僕も嫁さんももっと田んぼに引っ張り回して手伝いをさせて良いと思っているのだが、 両親は昔の自分たちの行いを忘れてしまったらしい。まあこれが子と孫への接し方考え方の違いかもしれない。 そういえば僕もばあちゃんに叱られた記憶はほとんどない、というよりばあちゃんの言う事には素直に 応じていたと思う。 食糧危機が叫ばれる今日、日本の自給率は39%にまで低下したとの事。でもこれはほとんどが国の長期展望のなさが 招いた失政の結果だ。米の消費量が半減した事だって米国の言われるままに学校給食にパンを採用し続けた事が大きな 要因になっていると思うのだ。米離れが予測された時点でたとえ補助金を出してでも学校給食を米食に一大転換する べきだったのだ。食の欧米化が進む中でもご飯にあった西洋料理を開発するよう料理界に強くお願いを (圧力をかける?)すべきだったし米を利用した加工品の開発をもっと推し進めるべきだったのだ。国の農政の失敗もまた (と僕は思うが)自給率の低下に大きな影響を与えたと僕は思う。僕が子供の頃は家の周りでも二毛作が盛んに 行われており今時分の田んぼはどこも黄金色に輝いていたが今のわが町では見た事がない。また昔は我が家でも 牛を飼っていてわらと草を5cm幅に切って飼料を混ぜて餌として与えたものだった。でも今はコンバインで刈り取って しまうから餌となりうるわらも出ない。しかも味噌も家で作っていた。その全てが良いとは言わないが国の 農政あり方次第では食料の自給率がこれほど低くなる事はなかったはずだし、わらを家畜の餌として使い糞を田畑の 肥料として利用する循環型農業を国が推し進めるとの方針をあらかじめ出していればわらと稲や麦の穂とを別々に 刈り取る機械も生まれていたはずだ。なんにしても飽食と農政のまずさに起因した日本の食料自給率をどんな事があっても 3-40年前並に回復させないと日本は生き残れないだろう。政府には早く農業および農政の改善策を打ち出して欲しいし 子供たちにも農業の大切さやすばらしさを理解して欲しいものだ。 |
5月 5月31日 お出かけ 今日はナフコに遊びに行った、ナフコに行くのはおそらく7年振り。お店の中をさるく(見て回る)のはやはり楽しいものだ。 福岡に住んでいた頃は二週に一度はスーパーやいろいろな業種の量販店をさるいていた、お店の中の商品群を 見ているとワクワクしたし楽しかった。いつも行きたいと思っていたのだが、今回訪問看護ステーションの所長さんが 先日「どこか行きたい所は?。」と聞いてくれたので「百円ショップかナフコに行ってみたい」と伝えた。嫁さんも了解して くれたのでその結果今回の運びとなった。 午後1時過ぎ看護師さんたちが来て準備を始める。人工呼吸器を交換してから外出するのは病院以外初めて、呼吸器の 内蔵充電池が実際にはどのくらいの時間もてるかなど心配事もある。どうなることやら。午後1時半に出発し程なく ナフコ到着、駐車場に入り障害者用スペースに自動車を止めると早速ガーデニングや観葉植物のコーナーが 目に飛び込んできた。土曜の昼下がりで多すぎる事も少なすぎる事もなく程よい人の流れがありなかなか良い雰囲気だ。 付き添いの看護師さんたちに車椅子に移乗させてもらうと太陽の日差しがじりじりと痛い。こうして日差しを肌で直に 感じるのはいつ以来だろうか?。看護師さんたちに車椅子を押してもらって店内に入ると少し冷房が効いていて僕には 丁度良い涼しさだった(一般人には少し暑いだろうが)。 店内を台所雑貨・ペット用品・日曜大工部材工具・電化機器・インテリア・文具・キャンプ用品・カー用品・雑貨と1階の ほとんどのコーナーを見て回り、最後にガーデニングコーナーを見て自動車に戻るともう3時過ぎ、1時間余りも店内を うろついていた事になる。楽しい事をしていると時間の過ぎるのも早いものであっという間のナフコ散策だった。 帰りは国見山中腹のルートをリクエスト。その前に嫁さんが有田川東岸と我が学び舎の高校および通学コースを見せに 連れて行ってくれた。この高校に来るのは何年振りだろう、30年振りかもしれないがところどころに面影がそのまま 残っていた。昔は正門から校舎を見上げると校舎の壁面に校章だけ見えたものだが今は校章と文字(校訓?)も一緒に 描かれていたし、これまた昔校舎の別棟は木造だったのだが今は鉄筋になっていて車椅子用にバリアフリー化も なされていた。少しずつ変わっていったのか。それでも(メイン)グラウンドを見下ろす風景は昔のまま、グラウンド・ 体育館・武道場・プール、ちっとも変わっていない、懐かしい!!。 学び舎を後にして国見トンネルへと向かう。実はナフコへ行く途中標識を見たのだが国見有料道路の有料の文字が 塗りつぶされ消されていた。30数年かかってようやく無料化が実現した様だ。その事も自分の目で確認したくて 「国見経由で帰りたい」と言ったのだ。国見トンネルについて見回すと料金ゲートもなくなってあたりは閑散としていた。 ここにはあじさい村(有人農産物販売所)とミニ公園があるのだが見るも無残な光景だ。暴走行為の防止と暴走族が 集まりにくくするためだろうが道と駐車場を区切るために設置されたガードレールが無機質な光景に拍車をかけていた。 ガードレールを植え込みに替えて出入り口を2ヶ所にすればかなり違って見えると思うのだが、残される場所や残された 者の事をちっとも考えていないとは県の道路公社も無配慮な事をするものだ。 久し振りに長い時間座位の姿勢をとっていたせいか国見トンネルからくだる頃からお尻が痛くなっていた。それなのに 家が近くなった時嫁さんと所長さんが今盛りのラベンダーを見に行こうかと相談し始めた。そして僕に「どうする?。」と 聞くのでNoと合図を送った、嫁さんはラベンダーをかなり見たい様だったがお尻が痛くてどうしようもなくなっていたから。 家に戻りベッドに横になり足や腰お尻を看護師さんたちにマッサージしてもらうとお尻の痛みもようやく治まり人心地 着いた。今日でお別れのN看護師にも最後の最後まであれこれ頼んで僕流のお別れをした。N看護師とは3年ほどの 付き合いだった、本当にお世話になりました・ありがとうございました。 それにしても久し振りの外出、、、身体がきついし・・・疲れた・・・・・。 5月29日 腹部の痛みの原因 腹部(盲腸の反対側)の鈍い痛みはまだ続いていたので主治医の便秘かも?という指摘を受けて昨日の夜下剤を服用し 今日の排泄の日に備える事にした。はたして結果は如何に・・・・・。 看護師さんに手伝ってもらって排泄を済ませると腹部の痛みは嘘の様に治まった。やはり原因は便秘だった様だ。 でも僕は気管切開して以来5年半ずっと便秘で今の様な生活パターンを続けていたのに今更何故?。やっぱり僕の 身体の中で何らかの変化が起こっている様だ、右手薬指の動きもかなり鈍くなってるしね。 どこからか下剤の服用も生活パターンの中に入れたらという声が聞こえてきそうだがそれはまずいのだ、不定期な便意を 生じさせる。不定期な便意は家人の手を余計に煩わせるから。 5月29日 人の移り変わり 時の流れとともに看護・介護してくれる方が少しずつ変わっていく。それは継続のためには仕方のない避けられない事だと 頭の中では分かってはいるが慣れるまで慣れてもらえるまでは心身ともに結構しんどいものだ、お互い?に。 6月から僕がお世話になっている訪問看護ステーションの人員が減る・ハローワークに募集はかけてはいるがなかなか 応募の連絡は入らないと数日前に伝えられた。これが(訪問)看護・介護の現場の現状ということだろうしここにも 長期ビジョンを持たずに小手先の政策・自分たちの保身を念頭に政策を展開している政府や官僚政治の無策の表れだろう。 社会の為になろうともきつくて人間関係を伴うしかも給料は高くない、そんな仕事はしたくないとの新日本人?の気質?が 表れている。 人員減少に伴い土曜日の車椅子への移乗介助の応援にヘルパーさんが入る、その事自体には何ら問題はない。 今日からその予行練習。今日は問題なかったが来てくれるヘルパーさんがいろいろ変わる様だ。土曜はいつもの 看護師さんも一人は一緒に付いていてくれるから支障はないと思うがヘルパーさんにも文字盤の使い方は覚えて欲しい。 コミュニケーションが取れない事は何よりつらい。 入浴車のメンバーも刷新されつつある。僕の頭は慣れた人に洗ってもらわないとすぐに痒くなるという厄介な代物だ。 慣れてない方はどうしても洗い方にやさしさor遠慮(怖いから?)が出て撫でる様に洗ってしまう、僕としては3-4日振りの 洗髪なのだからごしごしともっと強く洗って欲しいのに。そうしないと僕はすぐにフケが出てくる体質だから頭が 痒くなってしまうのに。気管切開部からの吸引にしても同じ事、もっとよく音を聞きながらカテーテルをもっとゆっくり 上下させれば痰がどこにあるかは音の違い・変わり方ですぐ分かるのに慣れていない方はやたらと早く動かすし奥の 方ばかり吸引したがる傾向がある。でも僕はどちらというとカニューレ付近に痰が溜まる事が多いのだ。その辺を 早くつかんで欲しいものだ。 いずれにしても慣れるしか慣れてもらうしかないのだ。 5月26日 盲腸と反対側に鈍い痛みが 2-3日前からパソコンをしている時に下腹の盲腸とは反対側の部分に鈍い痛みが生じる様になった。そこでほぼ毎日 インターネット上で主治医と連絡を取っているALS介護支援システムでこの痛みについて相談してみたところ、熱が 出ていなければ問題はない・便秘ではないかとの事。でも僕はベッドの上での生活になって6年間ずっと便秘で、今更 腹部に痛みが出てくる事があるのかと思う。 そして今日の訪問看護での排便処理の時看護師さんに腹部をマッサージしてもらったら先日から鈍い痛みのあった 部分だけが押した時にひどく痛んだ。看護師さんにその事を訴えたら看護師さんもお腹にガスが溜まっているか便秘だと 考えたようで「しばらく様子をみてみましょう。」と。どうなることやら。 5月 日 お兄ちゃんの誕生日 昨日は上の息子誕生日だったのだが嫁さんは夕方から用事があり下の息子は嘔吐下痢症の後風邪を引いて声を 出すのが難しく体調を崩していて当日は祝ってやる事が出来なかった。僕がまだ元気だったらせめて真似事ぐらいは 出来ただろうが。そこで息子を呼んで「何か欲しい物はないか?」と聞いたのだが「別に・・・ない。」との返事。こんな僕に 気を使っているのだろう。せめてハッピーバースディの歌ぐらいはと思ってよる子供たちを集めて歌ってもらおうと したのだが、下の息子は具合が悪くて寝ていると言うし娘はのどの調子が悪いと。それでも息子からは「お父さん ありがとう。」と言われて、嬉しいやら申し訳ないやら。 今日の夜1日遅れのバースディ、ケーキを囲んで子供たちと記念撮影。プレゼントは嫁さんと友人のYがそれぞれ本を 用意してくれていてとても喜んでいた。本が嬉しいところが嫁さん似か。その後向こうの部屋でみんなはケーキを 食らっている、その輪の中に僕はいない。少し寂しいが仕方ない。それにしても一日遅れの誕生日でもこんな風に素直に 喜んでくれるなんてよく出来た息子だ。 5月23日 通院日の車窓から 前回のレスパイト入院・退院後初めての通院日。あれからまだ2週間しか経っていないのに今回はとても長かった様な それに外に出るのも随分久しい様な気がしている、何故だろう?。 庭に出て自動車の助手席から眺めると、僕には薄ピンクのバラと紋白蝶しか見えなかったが色々な花が咲いている様だ。 家を出て車窓から眺めると街路樹の銀杏の黄緑や山の新緑の鮮やかさが目に飛び込んで来て木々の息吹を感じた。 でも山のところどころにあるこげ茶色は何だ?、枯れている風ではないしスギ花粉にしては遅過ぎるし。隣町の広い田んぼの ところどころにある麦も黄色く色付いていた。僕の子供の頃は家の周りのあちこちの田んぼで麦も作っていた。今時分は 麦の中からクロンボを見つけて取って人の顔に塗る鬼ごっこをして遊んだもんだしもう少し後では麦わらで虫かごを 編んでもらって蛍を入れて情緒を楽しんだものだが、今はそんな風景はなくなってしまってしまった。そんなところにも 食料率低下の一因があるのだろう。 5月21日 介護保険更新調査 今日の午後3時頃介護保険の更新のために役場から面接官が訪ねて来た。僕はお風呂上りという事もあってこの時 眠たくてかなりボーっとしていたのだが、それにしても面と向かって開口一番「ご主人はいつもこういう顔をして おられるのですか?。」と。僕がどんな状態であれたとえ意識が無かったとしても面と向かっては無神経とも取れる話だ。 嫁さんも始めは言っている事の意味が分からなかった様だが「入浴車が終わったばかりで・・・・・。」と説明していた。 その後も僕にとってはもうひとつどうかなと首をかしげる様な面接が続いた。そしてこの面接官はALSという病気を 知らないんだなと気が付いた。ALSで人工呼吸器を着けるところまで症状が進んでいるのを一目見ればある程度の質問は 不要なはずだもの。その事に嫁さんも気付いた様で「保健師さんではないのですか?。」と尋ねた。それに対し我が町では 介護保険の更新時に限り更新の面接調査を委託される資格を持つ人が数人いるそうでその中の一人との事だった。 それでと納得したが僕はレアケース(40歳以上でかつ定められた特定疾患という事で介護保険で介護を受けている) なのだから定められている特定疾患の内容ぐらいは熟知しておいて欲しいと思うのだが。また日頃は町の保健師と 顔を合わせる機会もないのだからこういう機会を利用して訪問すべきだと思うのだが。障害者自立支援法も一部変更が あったと聞いているが未だに説明も無い。 面接が終わった時に「町長にヘルパー吸引に関してどう思うか?」と伝えて欲しいと伝言したが、ある一定条件下で ヘルパーによる吸引が厚生労働省に認められているという事もご存知なくて話がちんぷんかんぷん。 上手く伝わる事やら。 5月21日 パソコンもおかしい 退院してきて(5月9日)からパソコンの動きがおかしい。突然再起動して一瞬英語の画面が出て起動し始める事があるし 起動した後『深刻なシステムエラーから回復しました』表示が出る事もあった。Microsoft Updateの更新をして (Windows SP2 → SP3)一度は収まったかに見えたのだが今日再発した。しかも今日は再起動した後も画面は真っ黒のまま (WindowsXP表示あり、ネットワークカード点滅、ハードディスクに連動しているランプは点滅せず)、数分待ったが 状態は変わらず。仕方がないので電源スイッチを長押してもらって強制終了し再度スイッチを入れ直したが同じ事。 最後の手段としてコンセントを入れ直してもらってようやく動くようになった。 でもこれって僕のVAIO固有の現象、それともVAIO全体。DELLパソコンはどうもない様だしな。 5月19日 体調がまたすぐれない 午後3時半過ぎから1時間車椅子に座った後ベッドに戻り訪問リハビリの先生に身体を動かしてもらいしばらくして 腰と右ひじの関節が痛みだし身体がまただるくなってきた。今の僕にとってこれは熱が出る前兆、そう思って事前に 解熱剤を服用し早めに眠る事にした。 車椅子に座った時に少し汗ばんだ気がしたのだがそれをそのままにしておいた結果だろう。我ながらなんと情けない 身体だ、ほんの少し汗ばんだ身体を放っておいただけでおそらく身体の熱エネルギーを放出して身体が冷え切って しまったのだろう。 またひと手間かけてしまう様で申し訳ないが、今後車椅子に座った後は訪問看護師さんにシャツを替えてくれるよう お願いする事にしよう。 5月18日 中学校の体育祭 今日は娘の通う僕の母校でもある中学校の体育祭、天気は幸い五月晴れの好天に恵まれた。僕らの子供の頃は 運動会といえば秋、体育の前後と相場が決まっていたので5月の体育祭はまだまだピンと来ないが全国的に見ても 結構ある様だ。教育情勢の変化と学校で行われる行事の多さが引き起こした社会的現象の変化なのかもしれない。 僕らの頃とは学校や教育の情勢の違いが多過ぎて僕らの経験則が役に立たない世の中になった様だ。 先日娘が話してくれた事によると体育祭では国旗の旗手(4人or6人?)を務めるとの事。娘たちも本部前では国旗を上に 掲げるのだろうか?、その勇姿を直接見る事は出来ないが後日有線での放映を楽しみに待つ事にしよう。 娘には当初怪我をした男子の代わりに校旗の旗手を務めないかという話もあったらしい、けれども校旗の旗手は 女子では体力的に難しいと流れたとの事。確かにそれはそうだろう、僕も小学6年の運動会の時校旗の旗手をして 200m程運んだがアクシデントもあって重くて辛かった。あんな思いは2度としたくないと思ったほどだった。校旗は 分厚くて丈夫な布にとてつもなく分厚い校章の刺繍が施してあってその上回りには太いふさまで付いていて想像以上に ずっと重いのだ。あれは女子ではじっと保持しているのさえ本当に難しいだろうし無難な判断だろう。ただ校旗や国旗の 旗手として選んでもらえるという事は娘が学校や友達からの信頼を得ているという事、嬉しい事だ。 夕方帰って来て僕の部屋に顔を覗かせた娘に「どうだった?」と尋ねると笑顔だったが疲れた様子で「負けた。」のひと言、 入場行進から開会式の事・競技の事・応援合戦の事・閉会式の事など体育祭の様子を娘からもっと色々聞きたかったが そのひと言で行ってしまった。疲れていたのだろう、仕方がない。結局娘が中学に入学してから3年間1度も体育祭に 顔を出す事は出来なかった、おそらく娘の学校行事には1度も参加しないで終わるのだろう。ごめんね!!。お父さんが こんなだからお母さんもなかなか時間通りに出かけられないしみんなも最初から見る事が出来ない。ごめん。 5月16日 背中がかゆい 退院してから1週間が経ったが体調はまだもうひとつ、それに背中がかゆくてたまらない。あせもでもできているのかと 思って見てもらったが少し赤くなってかさかさと乾燥しているだけとの事。それにしても『痒い』という字は病に辛いと 書くとはよく出来ている。特に僕らは痒いところに手が届かない・届いてもかく事は出来ない。辛い、辛いものだ。 今日往診していただいた先生に痒み止めの薬を出してもらった。これで痒みがすこして゛も落ち着けば良いのだが。 5月12日 体調がもうひとつ 退院して家に帰って来たのに体調がなんかもうひとつでいやな感じがしていた。やはりあの入浴で湯冷めしたのか、 ほんの少しお湯の温度が低かったり十分に温まらなかったりお湯から上がって薄着のままでいたりするとまたじわーっとしか 汗をかいてはいないのに着替えをしないでいると上半身(首から下)が肺から?冷えてきてくしゃみまで出てしまう。 ALSになる前は少々無茶をしてもなんとも無く病気に対して強靭な体力を誇っていたのにまた1年半ほど前までは これ程ではなかったのになんとも情けない身体になったものだ。 そして早め早めに薬も使っていたのについに今日発熱。解熱剤を入れて熱は下がった様だけどまだまだ何かおかしい。 不安・・・・・。 5月10日 娘試合に行く 今朝僕が怖い夢でまだまどろんでいた時に僕の部屋の障子が開いて娘がひょいと顔を出し「試合に行ってきます。」と挨拶して 出かけて行った。僕は急いで目配せ(ウインクというには恥ずかし過ぎる)を返したのだが気付いてくれたかどうか?。 時刻はカーテンの隙間から朝の薄ら明かりがのぞくかどうかの5時半過ぎ、こんな朝早くに家を出なければならない様な 試合を組むなんて中学校のクラブ活動の一環としてはいかがなものかと娘が試合だと言っていつもの学校に行く 時間より早い7時前に出かける度にいつも思う。少女が巻き込まれる事件が多発している昨今、知事や県の教育長に 問うてみたいところだ。 娘が中学に入った2年前、僕らの中学時代のクラブ活動の活動のあり方のあまりの違い(試験前のクラブ活動の 休止時間の短さや練習試合を含めて試合の組み方の頻繁さ・その時間のあり方など余りにも勝つ事を強く求めている 様に見える点)や中学校のクラブ活動なのに親掛かりになっている事に疑問を感じて、校長先生に中学校の文武両立に ついての考え方を尋ねようとまた中学校のクラブ活動は中学の教育の一環ではないのかとの疑問に答えていただこうと 一度は手紙を書いたが結局諸般の事情により出さずじまいだった。あの頃の疑問は今でも渦巻いている。 5月3日 大台を迎えた誕生日 今日は僕の磯路の誕生日、もう1年が過ぎた、早いものだ。50にもなると別におめでとうと祝って欲しい訳でもないが何も 言われないというのも少し寂しいものだ。でも病院にしかも普段はレスパイトしている病棟でもない訳だから しかたのない事かもしれないけれどやはり何も言われないというのも・・・・・。 まあ自分ひとりで昔の元気な頃の自分を思い出しながら思い出に浸る誕生日も悪くはないか、と自分で 慰める事にしよう。 5月2−9日 レスパイト入院 今日から1週間入院する、朝子供達から「行ってきます、行ってらっしゃい。」との挨拶を受けたし玄関の水槽の中の 金魚たちも元気に泳ぎ回って僕の事を見送ってくれていた。自動車の窓からは庭にはバラやツツジなど色々な花が 咲き始め色付き始めていて紋白蝶も渡り歩いていた?し街路樹として植えてあるツツジもたくさん付いていて このところ沈みっぱなしだった僕の心根に季節の暖かな日差しを少しばかり差し込んでくれた。それにしても街路樹の ツツジの間にいっぱいはえ出ているぺんぺん草が相変わらず見苦しい。元気な頃ならこの様なところには目が 行っていなかったのだろう。もし元気だったらぺんぺん草を抜いて歩きたいのだが・・・・・。 病院に着くと外来でひとまず主治医に今日の診察と処置(カニューレの交換と胃ろう部の洗浄−僕は胃ろう部をいつも 洗浄してもらっているのでみんなが僕の胃ろう部を見て「きれいにしてます。」と多分言っているのだろう)をしてもらった。 その間に今回お世話になる病棟の看護師長さんが外来まできてくれていたので外来の看護師長さんと二人の 看護師長さんにストレッチャーを押してもらい病棟に向かった。なんとVIPな待遇だろう。(まあ後でよくよく考えるとただ単に 僕に回す看護師がいなかっただけかもしれないが・・・・・) 今回はいつも入院している病棟と異なり障害者自立支援法が施行される直前の2年前に入った事のある病棟に 久し振りに入った。当初は2年前にいた経験から顔見知りがたくさん残っていると思っていて安心しきっていたが、 障害者自立支援法の施行に伴いこの滞在型療養病棟?では体制変更があった様で一目見た感じではかなり変わっていて だんだんどうなる事やらとの気持ちが出始めてきた。ただ病棟で出迎えてくれたのがついひと月前人工呼吸器の変更のため 入院した病棟でお別れの挨拶をしたばかりのS看護師さんと一年前ここに移動していたK看護師さんだったので 心強く感じた。事実ベッドも僕のいつもの仕様に合わせて準備してもらっていた様だし足で鳴らすなナースコールも 取り寄せてくれていた。更に僕が一日に一度車椅子に座る時の手順・注意書きもSさんが詳細に書いてくれたし ナースコールのサイドテーブルへの取り付けもてきぱきとやってくれて他の看護師さんや介助人さんに僕がどうやって このナースコルを使うのかまたその時々に注意する点もきちんと説明してくれたので本当に助かった。また3年ほど前 いつもの病棟からこの病棟に移動したM看護師さんの姿もちらりと見えたので3人いればと少し心強い 気持ちになってきた。 僕が今回の入院で最も戸惑ったのは生活サイクルが大きく違う事だった。この病棟では朝6時前にみんなが完全に起床して 活動を始める(僕も朝はとっくに目は覚めているからこの事は別に支障なし)、すぐに経管栄養を開始。午前11時半過ぎ 昼食準備の動き、まもなく昼の経管栄養を開始。午後3時過ぎから1時間車椅子へ移乗(僕のたっての希望)。 午後5時半過ぎ夕食準備の動き、まもなく夜の経管栄養を開始。午後8時半就寝準備の動き、午後9時半完全消灯。 『郷に入れば郷に従え』だから僕も当然on schedule、でも家での就寝は11-12時なので眠れるはずもなく睡眠誘発剤の 力を借りて眠る。入院中に見たいテレビ番組はほとんどが午後9時から11時の間だからテレビもほぼout。パソコンは 午前9時半から11時半の間にはしようと思えば出来たのだが、ベッドのマットレスが少し硬くて難しそうだったのと 僕がパソコンを操作する時の足とマウスの位置関係を知っているのはSさんだけなので今から他の看護師さんや介助人さんに 覚えてもらうのは面倒だしほんの1週間の事なので諦める事にした。だから今回の入院中僕はほとんど寝て過ごした。 もうひとつ困ったのはパソコンも何もしていないのに二日目から右ひざがだるくなった事だ。始めは何故だか 分からなかったのだが今までの入院との違いはベッドのマットレスの硬さだけだったので、4日目の中日に K副看護師長さんに文字盤で「多分マットレスが少し硬い(からだと思うのですが右ひざがだるいので交換して)」と お願いした。すると最後まで言わない内にKさんが僕の意図を悟ってくれてその日の内に交換してくれた。おかげで それ以降右ひざのだるさは無くなった。 退院の日僕の部屋の担当はSさん、会うのは入院した日以来?、でも退院の準備に慣れている看護師さんで良かった。 昼前にお風呂に入れてもらう。入院してから3度目の入浴、でも今日は湯船に入る時間が無かったのでベッドに 戻ってから少し肌寒さを感じた。午後2時過ぎようやく?お迎えの出現、Sさんに見送られながら家路に着いた。田んぼの 麦も結構大きくなっていた。 家に着きベッドに移乗してもらう、脚の装具を着け自動車の助手席から車椅子・車椅子からベッドへと立って移動出来る (もちろん看護師さん二人の介添え付き)か少し心配していたが大丈夫だった。子どもたちが学校から帰って来て僕の 部屋を覗いて「お帰りなさい。」と両親も「帰ってきたか。」と声を掛けてくれた。これも小さな至福?と言うべきかな。 4時半過ぎ訪問リハビリの先生が来て手足を動かしてから立たせてもらう、これも無事終了。その後しばらくテレビを 見ながら休憩し夜の経管栄養を流してから11時過ぎ就寝。 こうしてあわただしい一日がようやく終了、疲れた。 5月1日 入院前日 入院の前日の僕は忙しい、これを良い機会にとパソコンの中のデータの整理とデータのバックアップを取る様に しているからだ。まずメールデータの整理とエクスポート、次にオペレートナビのバックアップファイルの作成、最後に これらと最近作ったファイルのバックアップを取る。あわせてホームページは入院前の最後の更新をしなければならないし 明日から不在のメールを送っておきたい所もあるしでてんてこ舞いだ。前回の3週間前の入院の時は急遽だったから 中途半端なバックアップをしまったので今回は今年に入って4か月分まともなバックアップをしたかった。元気な頃なら たいした事はない量でも今の僕には大変なのだ。 今回の入院はいつもとは違う病棟との事。ちょっと不安はあるが顔見知りは大勢いるしそれに1週間だし、 まあ何とかなるだろう。 |
4月 4月30日 身体の移りゆく変化 最近身体がまた変化した様だ。 右手薬指の可動域が去年に比べて小さくなってしまっている様でU先生にてもらった指用のスイッチの位置を 合わせてもらうのにずいぶん時間がかかるようになってしまったし、左足の付け根も深く曲げてもらった時に以前は外側が 痛かったのに今は内側の痛みが増してどうにかすると立たせてもらう時に左足に力が入らなくなるぐらいになった。 それに身体の体温調整機能も変化した。寝る時に昨日までは寒くてたまらなくて薄手の布団を2枚・肩にバスタオルを 掛けてもらってその上エアコンまで入れていたのに今日はエアコンなしで汗までかき始めて息苦しくもなってきた。 僕は暑くなり過ぎると息苦しくなるのだ。あわてて布団1枚とバスタオルを外してもらったがどうしたものかと我ながら 戸惑ってしまった。 昨日は確かに経管栄養を入れた直後で身体の代謝による熱エネルギーも出始めた頃だっただろうし嫁さんの軽装から 見ても急に暑くなったのだろうが。それにしても・・・・・情けない身体になったなあ!!。 4月28日 義姪っ子 義弟夫婦に女の子が生まれてもう一年早いものだ、義弟夫婦の愛情を一身に受けてMちゃんはすくすくと成長していると 聞いていた。ありがたい事だ。そのMちゃんの一年目の誕生の儀式・お祝いが義弟の(嫁さんの)実家で行われた。 お祭り好きの僕が元気だったらすぐさまその場に飛んで行き一緒にお祝いしただろうが今は出来ない。そこで息子達を 呼んで「お父さんの分までお祝いを伝えて」とのメッセージを託した。 そして今日の訪問看護の時間義弟夫婦が訪ねて来てくれた、もちろんMちゃんも一緒に。だがMちゃんは僕の顔を 見た途端愚図りだした、きっと表情の無い能面のごとき僕の顔が怖かったのだろう。赤ちゃんひとりあやす事の出来ない 顔を持つ様になってしまったとはなんとも情けない話だ。 Mちゃんがこれからも元気で健やかに育っていきますように。 4月25日 外出の誘い? 先日来訪問看護ステーションの所長さんと嫁さんとが話し合ってさかんに僕を外に連れて行こうと画策している。 ありがたい話なのだが今の僕は外出したいという気持ちは一向に鎌首を持ち上げてこない。所長さんと嫁さんは 「まず特別養護老人ホームにいるばあちゃんに会いに行ってそれからどこかで花でも見ようよ。」と誘い水をかけるのだが、 折角元の状態に戻りつつあるばあちゃんに今の僕のさえない顔を見せて余計な心配をかける訳にはいかない。 そんな事をするくらいなら部屋でテレビを見ていた方がずっと良いと思う今日この頃なのだ。 嫁さんから「どうして行きたくないのか?。」と問い詰められて「まだ自信が無い」と呼吸器を見ながら答えておいた。確かに それもあるのだが理由は諸々の積み重ねなのだ。 人の心根は良くも悪くも移り行くものだなあ!。最近高校時代無理やり覚えたphilosophyという単語をよく思い出す。 4月23日 訪問理容 人工呼吸器の交換の事件?で3月末から延び延びにしていた床屋さんに今日来てもらった。訪問理容の時間はいつもと同じで 入浴車の前リハビリの後というあわただしい時間、散髪してくれるのはRのKさんと補助をしてくれる方の女性二人。 Kさんとはデイケアに通っていた時からの間柄?でもう8年目だし補助の助成も20年前に所属していた事業場にいた人事の娘に 面影がよく似ているいつもの方だから二人とも親近感がある、それにベッドに横になったままで上手いとこ 散髪してくれるし僕の状態にも慣れているから本当に楽だし安心感があるのだ。 そのKさんが「どのくらいにしますか?。」と聞くと嫁さんは余り短過ぎると頭から身体中を冷やしてしまうという僕の意向を 無視してあっさりと「これから暑くなるから短く。」と告げた、僕が夜な夜なさむいを連発して重ね着してもらっている事を 知らぬ訳でもあるまいに。僕は「さむい」と口走ったが声が届くはずもなく嫁さんの意向に沿って僕の髪にはさみと バリカンが入れられている様だ、頭が少しずつ冷え冷えしてくるのがその事を如実に物語っていた。 嫁さんは散髪を終えた僕の頭を見て予想より少し短かった髪に少しばかり驚いたようだが「さっぱりしたね。」と満足そうに 言った。でも骨と皮だけで身体が気温の変化に呼応した様に大きく左右される変温動物化している僕は筋肉や脂肪などの 肉の防御壁がぼくには無いから風邪を引きそうだ。 4月22日 家庭訪問 今日は午後から子どもたちの家庭訪問の集中日、おそらく中学校と小学校が事前に話し合いをして地区別の 訪問スケジュールを決めていたのだろう。そうでなければ中学校と小学校が同じ日に家庭訪問出来るはずが無い。見事な 連係プレーというところだがこれも少子化のなせる業だろう、なにせ児童・生徒の数は僕らの頃のほぼ半分なのだから。 妻は家庭訪問では担任の先生を必ず僕の部屋に招き入れる。先生には家庭の事情・状況をつぶさに知らせておきたい という事と僕に病気で動けなくても父親なのだという事を改めて自覚して欲しいという妻なりの配慮なのだろう。 まずお兄ちゃんの先生、家庭訪問としては奇抜なアイデアを使う。あらかじめクラスのみんなにそれぞれ(の児童)の事を どう見ているかをカードに書かせたものを紹介、次に親が子どもの事をどのくらい理解しているかを子どもに作らせた ○×クイズで出題、最後に親子の記念撮影、どれもクラスの状況や家庭の状況を知る事につながるすばらしい手法だと 感心した。それにしても最後の「家族の良いところは?」というクイズの答え「あきらめないところ」というのは僕に プレッシャーと声援を与えるには十分なものだった。 次は次男の先生、二年生の時も担任だった?様で次男の行動も大分落ち着いてきたし書いた字もかなりしっかり してきたとの事。そういえばこの前漢字の書き取りノートを見せてもらった時に見た字も大分きれいで見やすい字に なっていた、前はミミズが這った様な字をしていたのに。少しずつだが確実に成長していっている様だ、最近文字盤の 使い方も上手くなってきたし。飴とムチを使ってくれるようお願いした。 最後はお姉ちゃんの先生、中学三年になった事を認識させる家庭訪問だった。「今までに進路の話をした事が ありますか?。」と尋ねられるし、これから毎月(実力・中間・期末などの)テストがあるというし、僕らの中学時代と違って いろいろ忙しい事だ。結局ゆとり教育で1・2年の間にゆとりを持たせ過ぎたツケが回ってきたという事だろう。僕も娘や 子どもたちの手助けを何かしたいのだがなにもしてあげられない、何かアドバイスでもしてあげたいが文字盤では 短い言葉しか使わないから僕の意図している内容はなかなか伝わらないし上手く伝えるのもなかなか難しい。 どうしたらいいのかな??。 4月19日 大潮 天気予報を見ていたら今日の夕方が大潮だと言っていた。 子どもの頃大潮の日になると親父にバイクに乗せられてよく海に連れて行かれたものだ。海に行って浜辺でアサリを掘って 取ったりホウジョウを拾ったり岩場で海ニナなどの巻貝を取ったものだった。僕の海好き巻貝好きはこの頃形成された ものだったし、岩にウチガキが付いていると尖った石を拾って来て牡蠣の回りの殻を石で砕いて中身を取り出して海水で 洗って食べる、こういう美味い食い方もこの頃親父が教えてくれた。親父は僕にとっての海の遊びの先生だった。 大潮と聞いて子どもの頃の事を思い出し、出来れば親父に息子たちを連れて海へ行き僕に教えてくれた様な事を 息子たちにも教えてくれないかなと思った。そこで上の息子を呼んで「今日は大潮だよ」と誘い水をかけたが「今日が 満月なら面白いに。」と海とは関係ない予想外の返事、更に「お昼から何をする?」と尋ねると「靴を(お母さんと)買いに 行く。」と。それで海は諦めた。 4月17日 呼吸器交換による身体の変化 人工呼吸器LTV-950に交換してから二十日経った。今日まで何のトラブルも無く動いている、まあそうでないと困るのだが。 ただみんな回路の構造上の水漏れ・水抜きやウォータートラップの位置決めに苦労している様だ。 今のLTV-950の設定とこれまで使っていたバイパップとに大きな違いを感じるのはバイパップの回路に開けてある 穴によるものだと思われる。これは僕の想像だが、バイパップから送り込まれた空気はカニューレや気管の真ん中を通って 肺へ入り気管やカニューレや回路の壁面に沿って穴から出て行くのではないか。一方今着けている呼吸器は空気が 送り込まれる時はカニューレや気管の全面を押していて、空気の圧力がかかっていない時は肺が戻る力戻す力で弁を押して CO2を含む空気を押し出しているのではないかと。そのため@送られてくる空気の動きが重く感じるA痰が 押し込まれるから出が悪いし完全に取れにくいB穴から痰が詰まった時のゴロゴロ音が出ないから周りの人が気付かない などを感じる。一方良い事は、肺呼吸から腹式呼吸に近くなった様で少しだけ腹筋が強くなった様な気がしている。 また痰の出が悪いので最近はアンビューバッグで押してもらってから吸引してもらっている。 4月16日 リハビリと入浴車 今日の訪問リハビリで久し振りに首と足に装具を着けて立つ練習をした。立つ練習は3週間前の訪問リハビリ以来の事、 呼吸器を外してからの練習なのでその間僕の自発呼吸が保ってくれるのか立つだけの筋肉が身体に残っているのかが 不安だった理学療法士の先生が引き上げてくれたので思っていたよりスムーズに立つ事が出来た。先生が嫁さんに 報告している事によると「入院前と状態は変わりない。」と、そんな事は無いのだが。現に立つ時ひざに力が入りにくく なっていた、ただ何故だか分からないが体幹は少しだけだが強くなっている様でそれで相殺されたのだろう。 午後から入浴車に来てもらってお風呂、こちらも人工呼吸器の扱いや今回から回路の延長をしないので呼吸器や回路の 位置取りがどうかなと思っていたがなんとか大丈夫だった。これでまた二つ懸念事項が取り除かれた。 4月14日 退院の日 退院の日は僕は朝から結構忙しい。朝6時頃から経管栄養を落とし排泄を済ませてからお風呂の順番を待つ。お風呂に 入れてもらってお昼までまだ少し時間があったので入院中に作ったノートパソコンの中のデータの最後の整理をした。 お昼の経管栄養が終わろうとする頃もうお迎えが来たがお腹が一杯でまだ動きたくないと待ってもらう。 午後3時前病棟の看護師さんたちに見送られながら家路に着く。久し振りの外は桜も葉桜が半分、れんげ草はもう終わり頃、 ただ通り道のかたわらの所々の田んぼに咲く菜の花の黄色だけが色鮮やかだった。家では4年生なった一番下の息子と お袋が出迎えてくれた。それから訪問看護師さんに助手席から車椅子へ車椅子から僕の部屋のベッドに移乗させてもらう。 今回の入院では僕は主治医にリハビリの希望を申し立ててはいなかったので足に装具を着けて立つのも立ってから 移乗するのもほぼ3週間振り、ひざに力が入りにくくなっていて難しくはなっていたが看護師さんに腰を 引き上げてもらう事で何とか出来た。 部屋のベッドの上に落ち着くと人工呼吸器のメーカーの方と訪問看護師さんが呼吸器と回路の位置決めを行った。 そうしているうちに訪問リハビリの先生が来て手足を動かしてくれたがずっと動かしていなかったから手足と四股の関節が やはり少し硬くなっていたし動きも少し悪かった。それに足の指も鳥の様に変形し右の親指と中指がちょっと痛い。 それから午後6時を前後してお兄ちゃんとお姉ちゃんが帰って来て「ただいまそしてお帰りなさい。」と僕の部屋に 挨拶に来てくれた。しかしその後は部屋で僕は一人っきり。 夜は夜で変な夢を見た。夜中コールに足が届かない、コールを押しても誰も来ない、ようやくお袋が来てくれたが吸引の 仕方を忘れている、などなど。たぶんこの呼吸器を着けて家で過ごす初めての夜だったからその不安からこんな変な 夢を見た?のだろう。 4月9日 退院の日決まる いろいろと紆余曲折はあったが退院する日というより家に帰る日がついに決った、いや決ってしまった。人工呼吸器の 調整も先週の金曜日に主治医にしてもらった分でほとんど終わった様だ。今の状態が僕にとっておそらく more better 、 これ以上はどこをどう調整して欲しいと言えば良いのか僕自身分からない。まだまだ違和感はあるが身体も大分 慣れてきた様だし後は頭と身体で状況と状態を理解・分析しどういう時にどうなるのか覚えていくしかない。病棟の 看護師長さんや夜勤当直で病棟巡回に来た看護師長さんが僕の病室をたまに覗いて「新しい呼吸器には慣れましたか?。」と 聞いてくる。そんな時僕が曖昧な目配せを返すので「そうですか。」と言いながら離れて行く。 果たしてみんながどう判断したのか・・・・・。 こんな時病院の補強・補修工事が明日から始まりそれにともない入院患者の病棟間移動が行なわれるという。僕のいる 病棟はどちらかというと重病患者の多い病棟だから保護観察中の僕も当然いどうの対象という事になった。そこで新たな 病棟に移って呼吸器の慣れ・検証作業を行う事は家で行うのと同じ事だと覚悟し主治医と嫁さんとの話し合いの場で 「家に帰る」と申し出た、本当はもう少しこの病棟に残り家を離れたままで痛かったのだが。その結果金曜日に退院と 決まったのだが僕を取り巻く環境の事情が合わなかったので翌週の月曜日に変更になった。全く今回の入院は最後まで 紆余曲折の塊だったなあ。 ただ5月の連休にはまたこの病院に1週間だがレスパイト入院出来る様になったのは良かった、祝日には訪問看護も 訪問リハビリも来ないから僕がいると家族全員の行動に絶えず制限をかけてしまう。それは僕として申し訳なく心苦しく 苦痛を感じる日々だ。それに僕自身も一人っきりで部屋で過ごす時間を持て余してしまう、病院では用さえあれば 何の気兼ねもしないでコールを押して看護師さんを呼べるから。 ああ、吸引をしてくれるヘルパーさんを派遣する介護事業所が近くにあればこんな心配や気遣いは無用なのだが。 4月7日 病室からの桜も風に舞う 僕の入った病室は1年前と同じ、そしてこの病室の窓からは中庭の桜が見える。入った時はまだ桜の花はポツリポツリ、 その上僕のベッドから見える方の桜の木の枝ぶりはけっこう貧弱。それでも来る看護師さん来る看護師さんが口々に 「良い部屋に来たね。」と僕に告げて行った。 入院してから今日で10日経ち中庭の桜も今が満開、枝ぶりは関係なかった。時おり桜の花の小さな花びらがいちまい風に 乗ってふわふわと流されていく。桜は散り初めがどこか情緒があって一番良い。小鳥たちもちっちゃいの・中ぐらいの・ 20cmぐらいのと花の匂いに誘われていろいろ飛んで来て小枝にとまりながら桜の花を突っついている。なかなか絵になる 光景だ。僕に絵心があって手が動くならすぐにでもデッサンするのに。 ああ、大きな桜の木の根元に寝っ転がってゆったりと大きな空を眺めていたいなあ!。 4月5日 叱責or叱咤激励 僕が在宅療養していて嫁さんや子どもたちのために一体何が僕に出来ると君は言うのか、僕が家にいるとみんなの行動に 制限を付けるだけではないか。子どもたちが自分から僕の部屋に来るのは出かける時・学校から帰ってきた時の挨拶と パソコンをしたい時だけ、周りの人は挨拶に来るだけ良いと言うがその時以外は顔を合わせる事すら出来ないのだから 事情が違う。子どもたちから話をしに来る事はほぼ無い、まして相談事なんて。これで家にいる必要が本当にあるのか?。 僕の存在自体が無くなったら子どもたちも困るだろうが、子どもたちが自分ひとりでもバスや列車を乗り継いで 来る事が出来る場所にいれさえいばどうしても話したい事が生じた時には相談に来るだろう。僕はそれが一番無難で 良い方法だと思うのだが。僕が間違っているのだろうか?。 ところで君の罵倒というか叱責は僕に対する叱咤激励と僕は受け取るべきなのだろうなぁ。 4月4日 来客 午後佐賀嬉野バリアフリーツアーセンターの方が病室に訪ねて来た。嬉野温泉を重度の障害を持つ我々でも楽しめる温泉を 作りたいと思っており、既に幾つかの温泉旅館から協力の申し入れをいただいており計画段階に入っている 旅館もあるという。 嬉野に伊勢志摩に次いで日本で二番目のバリアフリーツアーセンターが開設された事は入院した日主治医から教えて もらった。佐賀嬉野バリアフリーツアーセンターで色々な提案や意見を募集しているので投稿してみてはどうかと 薦められた、あわせて我々のような人工呼吸器を着けている者も温泉を楽しめる様だと教えてもらった。ただこの時の僕は ツアーという言葉を聞き逃して普通のバリアフリーセンターと勘違いしていた。身の回りのバリアフリーの事なら僕にも 提案出来るかなとも思ったのだが、温泉を楽しむためのバリアフリーは未体験ゾーンだし思考が内に向いている今の僕では 提案などとてもとても・・・・・。だから嫁さんが「温泉に行く?。」と聞いても即座に「いいや」と首を振った。 それでも嫁さんは佐賀嬉野バリアフリーツアーセンターに連絡を入れてみた様で、先日来た時に佐賀嬉野バリアフリー ツアーセンターの概略?を説明し「センターの方が会いたいと言っているが会ってみない?。」と聞いてきた。「僕は今は そんな気にはなれない」と応えた。ところが一昨日の水曜日の夕方今度は主治医から「金曜日に佐賀嬉野バリアフリー ツアーセンターの方がいらっしゃるからあってみましょうね。」と話しがあった。僕は「金曜日はお風呂の日だし (難しそう)」と伝えたのだが、「お風呂は何とでもなるから。」と・・・・・。いったい主治医も嫁さんもこんな内向き 指向の僕に何をどこまで期待しているのか!、期待が大きければ大きいほど今の僕はプレッシャーを感じて かえって内向きになりそうなのだが。 僕の所には佐賀嬉野バリアフリーツアーセンターの奥さんが来て、センターの目標とするところ・概要や進捗の度合いを 丁寧に説明して下さった(センター長は別の病棟に入院しているM先生のところへ)。車椅子やストレッチャー(もどき?)・ リフトなどを利用して重度の障害を持った方でも楽しめる温泉に嬉野をしたい、必要に応じてボランティアも集める (目処あり?)という事だった。僕が「人工呼吸器は湿気に弱いから」と疑問を投げかけると、その事は十分承知していて 「私は看護師資格を持っているからアンビューバッグを押しながら一緒に入る。」との事。ボランティアの人達も いるだろうから一種のハーレムの様な状態になりそうだが、アンビューバッグを押してもらいながら温泉に入る事で 温泉の楽しさがいったいどこまで味わえるのか。 入浴と温泉は目的がそもそも違う。入浴は清潔を保つためそれに身体をケアするため、僕は病棟での入浴の時は アンビューバッグを時々押してもらいながら入るがやはり不快感はある。でもその不快感が清潔を保つ事また身体を 洗ってもらった後の爽やかな感じに勝つ事はない。 一方温泉の目的は楽しみにある。僕は温泉が好きで元気な頃はよく温泉にも行ったものである。温泉の楽しみは、 @温泉までのみんなでわいわいがやがやの行程・車窓からの景色Aみんなでわいわいがやがや入る広い温泉B旅館の珍しく 美味しい食事C食事の後または朝早く一人静かにいただくに度目のお湯、などにあると僕は思っている。 アンビューバッグを押してもらいながらいただく温泉でこれに代わる他の楽しみが生まれてくるのだろうか。 確かにM先生や僕が温泉を楽しむ事が出来るようになれば重度の障害を持つほとんどの方が嬉野温泉を楽しむ事が 出来るようになるだろう。けれども一足短にそこまで目指す必要があるのだろうか。重度障害者を大きなグループに 分けてだんだんに進め広げていってもいいのではと思うのだが。 僕は個人的には、旅館に着いたらまず浴衣に着替えさせてもらって人工呼吸器を着けてただっ広い空と風景をゆっくりと 眺めながらゆったりとした雰囲気の中で本物の足湯を味わう(バケツに温泉のお湯は×)、今はそれで良いのだが。しかし この様なシチュエーションを備えた旅館も今現在あるだろうか???。 4月4日 ホームページを開設して3年目 今日で僕が自分のホームページをアップしてから3年目に入る。今病院にいるから(述べ人数で)どれくらいの方が ご覧いただいたか分からないが、僕の当初の目的は達成出来ているのだろうか?。 僕はALSという難しい病気に選ばれてほぼ8年前に職場を離れた。病気で身体の自由が利かなくなって改めて 気付いたのだが、会社で有意義に19年という充実した素晴らしい時間を過ごせたのも会社のそして先輩方の同僚や後輩 みんなの手取り足取りの応援と心温まる支えがあったからだ。そんなみんなに僕は何にも出来はしない、僕なりの方法で 今もALSという難病に何とか立ち向かい生き続けていますとのメッセージを発信し続ける事がお世話になったみんなへの せめてもの務めだと考えた。そして独学で未熟な技法ながらなんとかホームページを立ち上げた。 独学だから面白みもデザイン性もない、それに構成も内容も自分勝手。嫁さんからは家族の内輪の事まで書くなといつも 叱られ続けている。更新頻度も出来れば週に1度はと心の内に秘めていたのにそれも出来ず・・・・・。ホームページの 表題も『いつの日か治る日の来る事を信じて、待つ』という気概を込めた言葉を掲げてはいるが、最近はその気持も かなり揺れてきてなんだか自信もなくなってきた。今心の中は紆余曲折、混沌や葛藤など 様々な想いが渦を巻いている。 でもホームページだけは何としても続けていこう。 |
3月 3月31日 人工呼吸器ついに交換す!! 今日の午前中お風呂に入れてもらった後で、ついに人工呼吸器を5年5カ月お世話になりそして愛用したバイパップから LTV-950に交換した。 実は僕は4年ほど前にLTV-950を経験している。その時僕は呼吸をLTV-950に合わせる事が出来なかった。当時は今より当然 自発呼吸が強かったからLTV-950から送られてくる空気とけんかしたが、今の自発呼吸はそこまではないし身体や肺に 機器から送られてくる空気に合わせるテクニックもついた。だいいちバイパップという逃げ道はもうない。 主治医の先生がまずLTV-950をバイパップに近い従圧モードに設定(5秒間自発呼吸がないと機器が判断した場合従量の 空気を送り込むセーブ機能付)、いよいよ装着開始。その後主治医とメーカーの担当の方が僕の反応と意見を聞きながら 調整してくれて4-5日状況を見る事に。でもどんなに調整してもらっても言葉には出来ない何かがバイパップと違う。 とは言ってももう後はないのだから身体にLTV-950を覚え込ませるしかないのだ。 3月29日 僕らの心中は微妙で繊細・崩れやすいもの 我々藤の難病に苦しむ者は心の中に何らかのこだわりや心の糧を持っている、周りの健康な人たちから見ればそれは本当に 些細なとるに足らない事に写る物かもしれないが。そしてそのこだわりあるいは心の糧が外れて失われてしまった時、 生き続ける気概をなくし目標や目的も見失い、無気力・無関心になり周りとの接触を嫌い自分ひとりの独自の世界の中に 入り込もうとするのかもしれない。たとえそれが奈落という世界の入口なのかもしれないがそれもいいと 思えてくるものなのかもしれない。 丁度僕は今そこにいるのか、何もしたくない・何もしない、たとえ身体を動かす事さえも。ただベッドに横になり目を 閉じているだけ、また目に入る物出来事を見るとはなしに漫然と見てるだけ。 ああ、高原の草っ原に寝転んで青空を満天の星空をただゆっくりと眺めていたいなぁ!。 僕の部屋の中の僕の目の届くところで小さなガラスの入れ物でめだかを数匹とシジミを飼いたいなぁ!。 3月28日 子供たちが愛知県から戻ってくる、その間に入院 今日子供たちは愛知の伯母・従兄たちのところへの四泊五日の子供たちだけの旅行から帰ってくる。その間に僕は よんどころない入院要請(僕が今までの5年5ヶ月間使い続けてきた呼吸器バイパップが4月から気管切開した患者への 使用は薬事法違反に当たるという突然のお上・厚生労働省からの通達に基づいて今月中に入院して他の新しい人工呼吸器に 交換しなければならなくなったというもの)に応じる形で子供たちの到着を待たずに急遽入院する事にした。 けれど子供たちが家に着き僕の部屋に「ただいま」の挨拶に来て僕がいないのが分かっても、「いつもの様に 入院したよ。」と聞けば別に驚きも困惑もしないだろう。僕は子供たちにとってはおそらく空気みたいな存在だろうから、 いないと困るがいつもは目に見えなくてもいいという様な。でもそれは仕方のない事だと思う。だって僕は子供たちに 対して父親らしい事は何一つしていないのだから、手をつないでのお散歩も遊び相手になる事も、話し相手や相談相手に なる事も何一つ出来なかったし出来ないのだから。まあ子供たちが「お父さん」と笑顔で呼びかけてくれる事だけでも喜びと 思わなければ・・・・・ね。 でもお袋や嫁さんにとって今回の急遽の入院はだだっこできかんぼうの子?からほんのひと時でも離れられその煩わしさから 開放され久々にゆったり出来る絶妙の機会になっているだろう。それはそれで歓迎すべき事なので あろうが・・・・・。 子どもたちは名古屋駅で伯母や従兄弟に見送られて新幹線に乗り、博多駅で在来線の佐世保線特急列車に乗り換えて JR有田駅に着いた事だろう。そして駅には嫁さんが自動車で出迎えていたはずだ。僕としては最寄の駅まで列車を 乗り継いで家まで歩いてたどり着いた方が全て自分たちの力だけで完遂出来たという達成感が増すと 思うのだが・・・・・。 10年後九州新幹線長崎ルートが完成したら名古屋から路線はどうなるか、博多駅で長崎新幹線に乗り継いで武雄温泉駅で 佐世保線の普通列車に乗り換えて有田駅に到着する事になるだろう。でも長崎新幹線を利用しても武雄温泉駅着は 7-8分しか早くはならない(乗り継ぎ・乗り換え・待ち時間を無視)。結局長崎新幹線を利用すると名古屋-有田間は 今より時間も増すし料金も高くなる。 元々の計画からして長崎新幹線が完成しても博多ー長崎間でも今のL特急よりもに十数分しか時間の短縮にはならない (長崎本線の肥前山口-長崎間は単線だから複線化すれば10分近く短縮出来る??、もちろん複線化にも巨額の建設費用 (≦長崎新幹線建設)が発生するが)。それなのになぜ建設するのか。それは佐賀長崎両県民の代表たる両県庁 (知事・県議会議員・一部?職員)や選出国会議員それに両県の建設土木業界の悲願だからだ。 ひと月ほど前長崎新幹線が開通した時経済効果が非常にあると思われる長崎県民の中にも新幹線建設に反対を訴える 人たちがいるとテレビで報道していた。佐賀県では鹿島・白石に住む人たちが中心となって建設反対を訴えていたが、 長崎新幹線開通後の肥前鹿島-諫早間のJR九州からの分離独立が政治決着で中止になりJR九州での存続が決ってから反対の 声は小さくなった様だ。分離独立が無くなって路線の長期的な存続は確定したがまだ大きな問題は残ったままだ。それは 長崎新幹線が開通して肥前鹿島(肥前山口?)-諫早間で赤字が出た場合、佐賀・長崎両県で(県税で)補填するという。 これでいいのか、両県民はもっと怒るべきではないか。長崎新幹線開通の経済効果で税金が増大する予定の長崎県は その増加分で補填出来るからいい。でもそこまでの経済効果が見込めない佐賀県はおそらく教育や医療や福祉の予算が 削られて赤字補填に使われる・・・・・?。もしこれが本当になるなら・・・・・、県民としては困った!。 長崎新幹線の開通は西九州ブロック全体の発展や地方再生の流れに乗り遅れない様にすると鑑みた場合必要な事だろう。 それならば長崎新幹線開通までのこれからの10年で肥前鹿島-諫早間を路線限定の普通列車しか走らなくなった時に どうすれば客を呼び込めるか、その方策を全国規模での英知を集めるために募集してこの10年をかけて実施し全国に向けて PRしていくべきだと思うのだ。 1年程前この問題に絡み県庁に提案メールを送ったのだが、僕はこの路線を有明の海と太良の山(と地域住民)とにマッチした 『自然とのふれあい路線ー有明の海と空』として育て行けばいいと思う。そのためには、 @地元漁協・農協や住民と協力して月に1-2回朝市を開催(目指せ、呼子朝市) A各駅感それぞれに月毎の花や木を大量に植え込み列車の中から自然の花の生垣群を味わえるようにする 生垣群→水仙・梅・菜の花・桜・つつじ・紫陽花・彼岸花・コスモス・銀杏や楓(落葉は大丈夫?)・山茶花・椿 Bトロッコ列車や窓のとても大きい列車(寝台車を改造)を季節に応じて走らせる、 出来ればSL(周りの反対があれば蒸気機関車を後ろからディーゼル機関車で押すSLもどきでも可)。 Cがタリンピックの他にもうひとつ目玉になりそうなあるいは地元にそくした市民参加型イベントを開催 いかが?。 3月26日 4月からバイパップは薬事法違反で使用禁止に 夕方主治医の先生から「大変な事になった!。」と突然電話がかかってきた、何でも「バイパップを使っていると4月から 薬事法違反になる。」と言うのである。僕は驚愕するとともにお上厚生労働省はそこまでするのかという怒りにも近い 想いがこみ上げてきた。 僕がバイパップを使い始めたのは2002年10月半ばに気管切開をして半月が過ぎた頃からだからもう5年5ヶ月になる。 始めは苦労したが呼吸の基本は吸う事だと気付いてから吸う事だけに集中し次第に楽になった、そしていつ頃からかは 定かではないがバイパップを着けていても意識せずに呼吸出来る様になっていた。それほどバイパッフによる呼吸は 健康な人がしている普通の呼吸に近いのである。前回の通院の時に主治医が「よく肺が動いていますね。」と感心した様に 言ったが、それはバイパップを着けている事で身体が常に肺を動かそうとしていたからだろうと僕は思うのだ。確かに バイパップは従量式の人工呼吸器に移行するまでのつなぎだろう。けれどもバイパップにはバイパップとしての良さが あるし僕の今日までの5年5ヶ月以外にもたくさんの患者さんたちの実績があるだろう。それらの事を無視し ないがしろにしてお上はバイパップの気管切開患者の使用を薬事法違反だというのか!。 僕がバイパップが使えなくなると最初に主治医から聞かされたのは半年前の事、その後通院するとよく「次に入院する 時には新しい人工呼吸器に交換しましょうね。」と言っていたものだ。年末年始に入院した時に「国立病院機構では バイパップは使えなくなった。」という噂が耳に入ってきたし主治医からも「今度こそ人工呼吸器を変えましょうね。」と 言われたが、「まだバイパップを使っていたい」と懇願してバイパップで家に帰った。それが今回お上が薬事法まで 叩きつけてくるとは手も足も出ないし出せない。でもいったい何故・・・・・僕らがバイパップを使う道を拒むのか?。 半年前主治医からあるところでバイパップ内部の基板が割れて機器が止まり大事になったと聞かされたが、それならば 原因を充分に調査し突き止めて完璧な対策を打った基板を組み込めば良いだけの事だ。主治医の先生の電話の内容を 嫁さんから聞いた後嫁さんが呟いた、「もしバイパップを落とさなかったらこんな事にはなっていなかったのにね。」と。 もしこの話が本当ならば使用者の問題なのでおかしな話だ、精密機器を落とせば普通はこわれるもの、それは従量式の 人工呼吸器だって同じ事だろう。どちらにしても納得のいく話ではない。 しかしバイパップがもう使えないと聞いてから生きていく気力が極端に小さくなっていった。 3月24日 子どもたち愛知県へ 今日は終業式で子どもたちはみんな12時前に家に帰って来た。これから1時過ぎの特急列車で姉や姪・甥の住んでいる 愛知県へ子どもたちだけで行くのだ、一昨昨日甥っ子夫婦に赤ちゃんが誕生したのでそのお祝いを僕たちの代わりに告げる 代役を兼ねて遊びに行くのだ。 出発前の慌ただしい時間にそれでも子どもたちそれぞれから通知表?を見せてもらう。僕らの時代の通知表は五段階の 相対評価だったので成績表の各教科の数字で単純に学年における成績の上下を見る事が出来たけれども、今は 絶対評価でその上細分化されているのでどこをどう見ていいのか相変わらずよく分からなかった。それでいつも僕は がんばろうに○が付いていないかどうかと前の学期と比べてどう変わったか、それに担任の先生の コメントを見て子どもたちを 褒めてあげたり励ましたりする様にしているつもりだ。それにしても絶対評価における「よくできる」と「できる」の垣根 (小学校)・「5」と「4」の違い(中学)はどのくらいと見るのが適切なのだろうか、分からないなあ!。 12時半過ぎ子どもたちは僕のところに次々に「行ってきます。」と嬉しそうに挨拶にきて自動車に乗り込んでいった。 僕に出来る事は子どもたちを明るく見送ってやる事と何かあった時に連絡が取れる様にテレホンカードを渡してやる くらいの事だけだ。そう思って出発前にお姉ちゃんとお兄ちゃんをそれぞれ呼んで脇机の引出の中に入れていたはずの テレホンカードを探させたのだが引出の中にはどこにも見当たらなかった様だ。僕が会社に勤めていた時代に長いこと かかって仲間や友人からもらったり自分で集めていた思い出深い大切なテレホンカードを、まだ手が何とか動かせる 7年前にきちんと整理して脇机の引出の中に入れておいたのに。どうやらこの数年の間に嫁さんが机全体を整理し直して くれた様だ。だがその結果机の中に何があるのか僕の以前の記憶は全く当てにはならない事になった。 子どもたちが乗り継ぎを間違えないように嫁さんは博多駅で子どもたちが新幹線に乗るまで付いているとの事。僕としては 博多駅は僕も会社勤めの頃出張で頻繁に利用していたが、ここでの分岐は新幹線しかないし何線に乗ると注意してさえ いればそんなに複雑で難しい駅ではない。また名古屋駅の新幹線の到着ホームには姉も待っていると聞いているし お姉ちゃんに任せても大丈夫だと思っているのだが。 そして7時前おねえちゃんから元気そうな声で「みんな大丈夫!。」と連絡が入った。名古屋駅にはばばになったおばちゃんの ほかにいとこたちも出迎えてくれていた様だ。この数日間が子どもたちにとって楽しい旅になりますように。 最後になってしまったが甥っ子のT君夫妻、坊や誕生おめでとう。 3月20日 プロ野球パシフィックリーグ開幕 今日プロ野球の派・リーグが開幕した。テレビを見る事とパソコンをする事ぐらいしか楽しみのない僕にとってようやく 待ちに待った春告げ鳥の到来だ。 今年のパ・リーグは楽天も投手陣が揃ってきたしオリックスも外国人の協力クリンアップを揃えて6球団混戦模様で、 シーズンを通して故障者とミスが少なくした球団が最もリーグ優勝に近付くだろう。 僕も応援しているソフトバンク・ホークスは和田・馬原・斉藤・大村・小久保の主力選手が故障から復帰すれば先発も贅沢にも 6-7本揃って磐石になるし押さえも馬原投手で実績がある、中継ぎも去年より安定感も増している。順調に行けば日本一の 投手陣だろう。攻撃陣も若手が育ってきてかなり厚みを増している、後は松中選手次第だろう。それに去年もそうだが 送りバンドの失敗と得点圏での凡打が多すぎる。今日の楽天とのオープニングゲームの攻撃でも確かに楽天の先発 岩熊投手の調子も良かった事もあるがやはり去年までと同じチャンスに打てないという傾向が出てた。ともかくこの傾向が 半減する事が出来れば今年は日本一になれるだろう。 3月19日 日銀総裁空席 福田総理無能論 日本銀行の総裁が今日から空席になった。日本の政治および政治家の体たらくを象徴する出来事だ。ねじれ国会の中 野党が多数を占める参議院では大蔵省・財務省の事務次官経験者は総裁としての承認が取れない事は分かりきって いるのに福田内閣はどうして財務省等の事務次官経験者を総裁候補者として国会に提出したのか。またサブプライム 問題に端を発したドル安・株の低落・景気の不透明感が渦巻き始めた経済情勢と日本の政治の世界的な信頼失墜の 中で民主党もどうしてかたくなに反対出来るのか。政局にはしないと言っていたが日銀総裁の国会承認を与党も民主党も 結局は政争の具として利用しているではないか!。 民主党の小沢党首は選挙のために奉られているだけで指導力を発揮できる環境にはない。政権交代を目指している 政党と党首がこんな事でいいのか。大連立には賛同出来ない(政策協議は大いにやるべき)が党首や執行部が検討した 上で決定した事柄に反対するような国会議員のいるベクトルの合っていない政党の党首なら小沢さんは党首を辞めた方が いいと思う。僕らは次の選挙に勝つ事だけを念頭において活動している議員を求めている訳ではない、我々の目線に 立った上で改革を推し進めてくれる議員を求めているのだ。 福田康夫氏が総理大臣になってからのこの半年間を振り返ってみると、口先だけで心も実現性・具体性の欠ける言動が 多く見られたし何事においても自民党内で指導力を発揮している様にはほとんど見受けられなかった。 1年半前の安倍自民党総裁が誕生した時の自民党総裁選で僕は調和重視の福田康夫現総理に期待していたのだが それは大きな誤りだった事に気が付いた。やはりなりたくて政治家になった人でなければまた野心や大望を持った人で なければ総理大臣は無理なのだ、総理の席に付くべきではないのだ。故福田赳夫元総理が息子康夫現総理に対して 「お前は政治家には向いていない。」と言ったというが今更ながら的を得た言葉だった様だ。 3月19日 金魚の卵 一昨日の夜寝る前になって下の息子が元気がなくなってしまい何故かめそめそしていた。理由を聞いてみると金魚が みんな水面近くであくあくして苦しそうにしていると言った、何でもこのところ水槽の水を替えるのをサボっていたとの事。 金魚の水槽の水を替えるのは下の息子の仕事だった、それが金魚を飼い始めた時の下の息子との約束だった。 それから息子は急いで金魚たちを水を張ったバケツ(どこから水を汲んできたのかは?、家の井戸水?)に移して夜中中 エアーポンプで空気をブクブクと送ってあげていた様だった。その処置が良かったのか翌朝には金魚たちは元気を 取り戻したと嫁さんから聞いた、本当は下の息子から直接聞いて息子の嬉しそうにしている顔を見たかったのだが。 この日の訪問看護の時に看護師さんから「藻に金魚の卵が付いていますよ、ランチョウとヒブナの子供だったら どうなるのでしょうかね。」と教えてくれた。僕もその事を教えてあげたくて下の息子が帰って来るのを首を長くして 待っていた。午後4時前息子が帰って来たので早速息子を僕の部屋に呼んで「金魚は?」と文字盤で尋ねると、万遍の 笑顔で「元気になっている。それに藻に卵を30個も産み付けていたよ。」と嬉しそうに教えてくれた。そして「これからは 毎週水槽の水を替えるよ。卵を金魚が食べちゃうといけないから別々にしておかなくちゃあね。」と付け加えた。僕は 日々卵の様子をカメラで撮って観察日記を書かせるのもいいなあと考えていたが、それを伝える前に息子は 部屋を出て行った。 ところが今日の昼間お袋が部屋に来た時に「金魚はどうしている?。」と尋ねたところ、「金魚は元気に泳いでいる。 卵はじいさんに処分してもらった、これ以上金魚が増えたらどうするのか!・誰が世話するのか!。」という答えが 返ってきた。僕は唖然としたし下の息子がどんなに悲しい顔をするだろうか、金魚が卵から孵化し上手く育ってある程度 大きくなった時どうしても世話するのが難しそうだなと思ったらその時に川に放してあげればいいだけの事ではないかと 思うのだが。息子が帰って来た時「金魚は?」と聞くと、「元気。卵は腐ったから捨てた。」とあっけらかんな顔をして 答えてくれた。その顔を見て僕はほっと胸をなでおろした。 3月17日 Google Earth 昨晩のテレビ朝日系の番組『不思議な宇宙船 地球号』の中でGoogle Earthを使って森林をダム建設から守ったエコ活動を 紹介していた。Google Earthは地球上のあらゆる地域の航空写真がパソコンで見る事が出来るソフトで、無料で ダウンロード出来るとテレビで言っていたので今朝早速GoogleでGoogle Earthで検索ダウンロード・インストールして 使ってみた。まだよく使い方が分からないがなかなか面白そうだ。 ただGoogle Earthはマウスだけで操作する事を前提に作られている様なのでオペレートナビでは少し難しそうだ。特に ズームインズーム・アウトの仕方をよくよく考えて出来るだけ早くオペレートナビ用のオンスクリーンキーボードを 作る事にしよう。でもこれでパソコン上でだけでも旅行や山登りが出来そうだ。 3月14日 通院日 今日は2週間毎の通院日。看護師さんたちの「外はまだ寒い。」のアドバイスを受けて厚手の上着と靴下をパジャマの 上に着せてもらって外に出る。最近首の装具が少し合わなくなってきているのかあごが装具の前の部分に上手く 乗らなくなって困る様になっていた。今日も少し違和感を覚えながらも車椅子そして助手席へと移乗させてもらった。 そのせいかどうかは分からないが今日はめがねが何度も鼻の頭にずり落ちてきた。その度に歯ぎしりをして自動車に 同乗してくれている看護師さんに合図してめがねを上げてもらったのだが、そんな状況では外の景色をゆっくり眺めている 余裕もなくいつの間にか病院に着いてしまった。 自動車の中はあまり暖房は利かせていなかったのだが、暑くて少し息苦しい様な気がしてきたので着くとすぐに上着と 靴下を脱がせてもらった。気管切開してからというもの僕は暑さにすっかり弱くなってしまったのだ、情けない話だ。 看護師さんたちに出迎えてもらってストレッチャーに乗って僕の診察室となっている救命室に入る。そして吸引を してもらいバイタルを済ませる。主治医の先生が来るまでに嫁さんと看護師さんたちが雑談?、それとはなしに 聞いていると・・・・・、(呼吸器の)加湿器用の蒸留水や吸引用の精製水をどこから提供したら自己負担が少なくてすむか、 診療報酬の絡みもあって一概には言えない事の様だ。それから話は病棟に移動した(長年僕の担当看護師だった)Oさんの 事へと移った。これまでとは異なる環境と職種?もあり苦労も多い様だが持ち前の明るさとバイタリティで がんばっているとの事、これからますます大きくなるためのいい肥やし?というべきかな?。 主治医の先生が来るとまず胸の診察、そこで先生が「よく胸が動いていますね。」と言う。それに対し嫁さんが 「バイパップを使っているからでしょうか?。」と返す。僕が気管切開してから今年で6年目となる。ALSを発症して 気管切開し人工呼吸器を着けた患者がどのくらいの期間で肺の動きがどの程度ずつ弱っていくものなのかは僕には よく分からないが、なんとなく僕が褒められている様で嬉しかったし元気が出てきた。診察が終わるとカニューレの交換と 胃ろうの洗浄をしてもらい先生は「また2週間後。」と言いながら部屋から出て行った。そして僕たちも看護師さんたちと 病院の前にある池の中に住んでいる日向ぼっこしている亀たちに見送られながら病院を後にした。帰り道はメガネは 落ちる事はなかったが、この時期には水仙も梅ももう散りかけているし菜の花はこの沿線にはほとんど咲いてはいないし 桜にはまだ早過ぎるし車窓からの景色を楽しむには寂しいものだ。 家に着くと看護師さんから「しばらく庭でも見てみます?。」と促されたので目で「そうします」と合図した。それから 5-10分の間自発呼吸だけで庭を眺めたのだが大気に触れながら外を眺めるのは久々だった事もあるが気持ち良かった。 白くて小さな蝶々(もんしろちょう?)が1羽飛んでいた。まだ少し肌寒いがもう春だなと思った。 3月13日 盆栽 最近楽天市場でよく季節の盆栽のコーナーや果樹の苗木のコーナーを見ている。梅や桜や楓などが季節の鉢植えの盆栽が 季節のかわいい盆栽として数多く紹介されているし、先日はミヤマキリシマの盆栽まで出ていて大いに購買意欲を そそられた。「でもミヤマキリシマって確か天然記念物じゃなかったっけ?。いいのかな、でも欲しいな」って思いが 頭の中をよぎった。僕もそれらの盆栽を育ててみたい、出来ればこの部屋の中で愛でながら。でもそんなスペースはないし 衛生上の観点からも嫁さんの同意を取り付けるのは難しいかな、観葉植物でもいいのだが。 果樹の苗木も金柑やさくらんぼや小栗などいろんなのに興味をそそられる。 子供の頃、春休みには市場へ出すためのツワブキやワラビを採りにほぼ毎日山に行っていた。途中でよくみかんや 金柑・夏みかんをもいで食べた。もちろん大声で「もらってもいいですか?。」とひと言かけてからだ、ただそこに誰も いない事が分かってての上だが。田植え時本家の西岳の田んぼに(手伝いに)行くと必ず傍になっているビワを取って来て 湧き水で冷やして食べた、美味しかった。秋山へ遊びに行った時には道端に生えている小さな野育ちの栗を取ってイガと 渋皮をその場で剥いて食べた、すきっ腹には丁度いい食い物だった。福岡に住んでいる時駐車場の傍にサクランボが 植えてあった、花や実が付いているのを見る度に羨ましかったし一度だけ側の道を子供たちと歩いている時におばちゃんに サクランボを一枝もらったが取り立ては本当に美味しかった。 僕もビワや金柑を育ててみたくて息子にホームページを見せながら「お父さんがこれを買ったら育てるか?。」と 相談してみたが「あまり興味がない。」とつれないひと言、寂しいなあ。 3月13日 迷惑メール 僕はウイルス対応ソフトとして『ウイルスバスター2007』を使っている。ウイルスバスターは2007になってから迷惑メール 対応も機能に加わった、迷惑メールかどうかを判定して該当するメールを迷惑メールフォルダに自動的に 分離してくれるのだ。ところが以前メールで送ったと連絡のあった写真がどうしても見当たらないから迷惑メール フォルダを確認したら入っていた事があったので2週間ぐらいに1度迷惑メールフォルダを見る事にした。 最近メールがまありにも頻繁に来ている割には受信フォルダにほとんどメールが届いていなかったので2日前に久し振りに 迷惑メールフォルダを覗いてみた。そして驚いた、迷惑メールフォルダが請求メールで溢れていた。そういえば 2週間ぐらい前の事、迷惑メールフォルダを確認して削除した時にいつもの様に一括削除しないで不注意にも興味本位で 迷惑メールやその本文中のURLをクリックしてしまった。本文やホームページは都度すぐに閉じていたのだがその中に 請求メールに繋がるページが入っていたのだろう。その夜のニュースステーションの最後のコーナーでワンクリック 詐欺請求のホームページの画面を紹介していた。それがその時見たものと同じ画面だったのでこれはしまったかなと 思ったが後の祭りだった、そして2日前の朝から僕はその迷惑請求メールの善後策に追われる事になった。 僕には当然の事だがネットで相談出来る窓口を探した。まず検索エンジンで消費者相談センターを検索しそこへアクセス、 けれど消費者相談センターのホームページではメールで相談出来そうな窓口は見つける事は出来なかった。そこから警察庁・ 都道府県警察本部と誘導され県警本部の相談・トラブルコーナーのサイバー犯罪等相談窓口の横でようやくネットで出来る 受付フォームを見つけた。そこで請求メールの本文を貼り付け「好奇心から迷惑メールおよび本文中のURLをクリックして しまったところ請求メールが頻繁に送られてくるようになった。どうしたらいいのでしょうか。」と書いて送信した。 県警本部のサイバー犯罪対策係から返事のメールが返ってきたのは夕方、「該当するホームページを確認したが不正請求か どうかは不明、今は連絡や請求に応じたりしないでしばらくの間は静観したら。」とか初期画面に料金表示や利用規約の 表示があったかとの確認事項とか警察庁や県警のネットに関するホームページにある注意を併せてまた書いてあるだけで、 僕に安心感を与えてくれる様な具体的な内容はほとんど記してなかった。そこで迷惑メールをクリックした時の状況や 料金表示や利用規約表示は僕の見た範囲では見当たらなかった事を書いて1時間毎に来ている請求メールを無視しても いいですかともう一度メールで相談した。 その直後迷惑メールフォルダに入っている最新の請求メールを開いてみると「○日までに連絡がなかったら悪質利用者・ 入会者として『通報機関J.I.R』に通報する」との脅しとも取れる一文が追加されていた。そしてその中の通報機関J.I.Rの ところに記してあったURLを試しにクリックしたらもっともらしい立派なホームページが表示された。ただJIRという名称は 今までに一度も聞いた事がなかったしこのURLに変な文字がいっぱいくっ付いていたのでたとえ通報機関J.I.Rという 公的機関が本当に実在するとしてもこのURLがフィッシングのホームページに導くものかもしれないと考えて検索エンジンで 通報機関J.I.Rという言葉を検索してみる事にした。すると該当しそうなページはどこにも出てこなかった。その上 YAHOO知恵袋で通報機関J.I.Rの事と僕に届いていた請求メールの本文と同じ文章が載っていてこんなメールは 無視しましょうと書いてあった。それでホーっと一安心、胸をなでおろした。そして最後の通報機関J.I.R入りの 請求メールと検索に至った状況と結果それに今後この請求メールは無視する事にしますと書いて県警本部の サイバー犯罪対策係へメールで報告した。 後は迷惑メールが僕のメールに届かなくするかだ。一番確実なのはメールアドレスを変更する事だが、みんなに 連絡するのが大変だしそれに関連のあるホームページの手続き変更も面倒だ。そこで以前プロバイダーから来ていた 迷惑メール対策を思い出し、プロバイダーのホームページを開いて迷惑メール対策の手続きを行い迷惑メールが 僕のパソコンに届かない様にした。これで迷惑メールが少なくなればいいのだが。 3月8日 賞状 今日車椅子に移乗させてもらう時隣の部屋のテーブルの上に賞状らしき物が見えたので娘が帰って来た時に見せてもらった。 それは思った通り下の息子の全国美術展で特選をもらった時の賞状だった、ようやく小学校の机の中から持ってきた様だ。 そこで僕なりに息子の事をたたえてやろうと思って賞状の内容をパソコンに入力してオペレートナビで賞状を 読み上げる事にした。 ところが2時間ほどかけてパソコンに入力した後下の息子を呼んでオペレートナビの読み上げ機能を使って、 いざ『賞状 ○小学校第三学年 特選 ○○ ○様 あなたの作品は本会主催文部科学省各都道府県指定都市教育委員会 日本放送協会後援第67回全国美術展においてとくにすぐれていましたのでこれを賞します 平成二十年二月十日 財団法人 教育美術振興会 会長 海部俊樹(代読)』と賞状を読み上げてみたが息子の反応はつれない。それどころか すぐに「もう(向こうに)いってもいい?。」と言う始末、本当に張り合いがない。 その事を嫁さんに告げると、「まだこの賞状のすごさ全国で特選という意味が分からないのよ。賞状(の見かけ)も威厳が ないし。」と言う。確かにこの賞状からはちっとも威厳は感じられない。ただ下の息子の後天的な正確や動きは 僕に似ているから恥ずかしさを隠しているだけかも・・・・・。 3月5日 石の収集 今日はお風呂の日、入浴車のメンバーの中に石の収集を趣味に持つ息子さんを持つ看護師さんがいる。入浴車の時の メンバーによる僕を囲んでの井戸端会議の中でよく出てくる話なのだが、息子さんはよく珍しい(本人にとっては)石を 拾ってくるそうだ。その息子さんが1月?から発売になった世界の原石が同梱されている本を毎号お年玉で買っているそうだ、 他に買いたい物も我慢して。そこまで出来るとは偉いものだ。しかも原石だけ取って後はポイする訳ではなくちゃんと 本も自分で努力して読んでいるとの事、ますます偉い。それだけ頑張っていれば将来何か良い事にきっと 結び付くはずだ。 僕も世界の原石が付いてくる本が発売されるというテレビコマーシャルを見る度に買おうかなと思った、買ってよく小石を 拾って来る下の息子に整理させようかと考えた。でも僕に今原石の付いてくる本が買えるほどの余分なお金はないし たとえどうしてもと買ったとしても我慢性のない下の息子がきちんと整理してくれるかどうかは分からないと思って諦めた。 いつか原石が全部揃ったら見せて欲しいものだ。 3月4日 期末テスト 中学2年になる娘の期末テストを見せてもらった。問題用紙をずっと手に持ってもらって見せてもらう事はかなり 辛そうなので最近問題用紙を見せてもらう時はパソコンの画面に立てかけて見せてもらう事にしている。問題用紙を パソコンで見る事が出来る様データ化してもらえれば娘に苦労掛ける事もないし僕も問題をゆっくり見る事が出来る。 そう思って中学校に問題をデータ化して渡してもらえないかと頼んでみたが、先生もかなり忙しい様でなかなか 実現しない。 その期末テストだがたかが中学2年の問題なのだが恥ずかしながら分からないものがいっぱいあった、特に理科が。 今娘は化学を学んでいる様だが肝心の化学式や元素記号・元素周期表をほとんど覚えていないのだ、高校時代 化学は得意科目のひとつだったのに。他の主要5科目は・・・・・、数学は時間さえくれればほぼ大丈夫、国語と社会は 今回の期末テストの問題は常識問題に近い様だったので8割方は解けるかな?。英語はhearingは僕はどうしようもない。 他は答案用紙は埋める事は出来る、ただほとんど忘れてしまっているので埋めれるだけで正誤は定かではないのだが。 僕がhearingが駄目なのは先天的に我が強い事もあるが、おそらく中学一年の時教えを請うた英語の教師に負うところが 大きいと思われる。あの先生が丁寧に発音しようとしている想いは充分伝わってくるのだが発音は和製英語でひどかった。 もし37-8年前に今の様に実際に外国から来ている方から生の英語が聞ける機会がたくさんあったなら僕の英語に対する 取り組み方・意気込みも大きく変わっていた事だろう。当時はreader/grammar重視でhearingは軽視(無視?)されていた。 今の時代・環境が羨ましい。やはり外国語は聞けて話せて何ぼだ、折角学ぶのならそれが出来なくては意味がないと 今更ながら実感しているのだ。 3月3日 花粉症 今年僕の周りではマスクが花盛り、実に不謹慎な言い方なのだが。僕の周りでは今年嫁さんと訪問看護ステーションの 所長さんが花粉症デビューして訪問看護師さん3人・訪問リハビリの先生それに嫁さんと5人になった。傍でいつも 見ているとくしゃみ・涙目となかなか辛そうだ。それにしても周りの多くの人たちみんなが大きなマスクをしている姿を 見ていると、申し訳ないのだが時々笑いがこみ上げてきてしまう。かく言う僕も最近何だか目がしょぼしょぼしている、 ただ「春眠暁を覚えず」で眠いだけなのかそれともこの僕がまさか花粉症?。 このところ花粉症がひどくて具合も機嫌もとても悪そうにしていた嫁さんが今日ようやく病院に行った。嫁さんが 沈んでいると 家のなかの雰囲気も暗くなるし僕もやるせなく窮屈な気分になるから嫁さんには早めに病院に行って欲しいといつも 思ってはいるのだが、僕は口下手?だしそれに僕の言う事にそのまま頷く嫁さんでもなく・・・・・。どうも嫁さんは病院に 掛かるのは好きではない様だ。今日出してもらった薬で嫁さんの状態が少しでも良くなってくれればいいのだが。 3月1日 メジロ 今日3時半からの車椅子に座る時間に訪問看護師さんたちに縁側に連れて行ってもらって庭の梅や水仙を見た。梅も 水仙もまだ五部咲きぐらいだろうか、去年よりかなり遅い気がする。それだけ今年が寒いのだろう。 訪問看護師さんにアンビューバッグを押してもらいながら梅の木を見ていると梅の後ろにある南天?の木に黄緑色をした 小さくて可愛い小鳥が飛んで来た。メジロだった。メジロはあちこちの小枝を飛び回っていたかと思うと南天の実を つついたりしていた。しばらく静かに見ているとメジロがもう一匹飛んで来て二匹で仲良く遊び始めた。その様子、 なかなか可愛いものである。 今はメジロを捕まえる事は禁止されているが僕らが子供の頃はみかんを餌に鳥もちを使ってメジロを捕ろうとした ものである、残念ながら僕の腕ではメジロはなかなか捕まえる事は出来なかったが。本家の下のKちゃんの池のほとりに ある木には初春になると傍の柿の実をついばみに?たくさんのメジロが来た。そのメジロたちを捕まえようと1本の枝に 餌となるみかんを刺しその周りの枝に口の中でチューインガムの様にくちゃくちゃに噛んで柔らかくした鳥もちを 巻き付けて物陰から鳥もちにメジロがくっ付くまで息を潜めて眺めながらただひたすら待つのだ。それは気の長い 作業なのだがそれでも結構楽しい時間だった。息子たちにもこの楽しい想い自然の中でのふれあいを 味あわせてあげたいものなのだが・・・・・。 |
2月 2月29日 胃ろうチューブをボタン式に交換・お袋病院から帰る 先週暫定で入れていた胃ろうチューブを以前と同じボタン式の胃ろうチューブと交換するため今週もまた病院へと向かう。 外はあいにくの曇り空、少し雨が落ちている。車窓からは時々ところどころに水仙と梅の花が見える、そろそろ見時に なった様だ。今日は車窓から梅の花が目に入るくらいだから先週より気分はずっと良いようだ。 病院に着くと吸引・バイタルの測定を済ませ主治医を呼んでもらってまずカニューレの交換、そして痛みを覚悟していよいよ 胃ろうチューブの交換。最初に先生は胃ろうの回りにキシロカインゼリーを付けチューブを何度か軽く上下させている、 チューブを抜けやすくし痛みが軽くなるようにと胃ろうの穴とチューブにゼリーを馴染ませているそうだ。それから先生は 「いきますよ。」と告げて一気にチューブを引き抜いた?。果たしてその痛みは・・・・・。 痛いのは十分に痛かったのだが僕はもっと激しい痛みを覚悟していたので少し拍子抜け?の感じがしてしまった。 だからからかボタン付きの胃ろうチューブを入れる時はほとんど痛みは感じなかった。終わった後で先生が 「痛かったですか?。」と聞いてきた時思わずうなづいてしまったが、おそらく微妙な表情をしていた事だろう。 主治医の診察・処置が終わってしばらく経った時看護師のOさんが様子を伺いに来た。Oさんと外来で会えるのは今日で 最後となる、今月から他の病棟に移動になるそうだから。Oさんとの付き合いはOさんが新人として僕が入院している 病棟に来てからだからもうかなりになる。今は他の病院に転勤になったリハビリの理学療法士の先生から新人歓迎会の 時のOさんの挨拶のエピソードを聞かせてもらったからよく覚えている。当時からOさんは明るく元気ではきはきと話す 愛くるしい娘さんだった。そして翌年からOさんは僕の受け持ち担当の看護師としてお世話をしてくれるようになった。 Oさんは聞き上手だから僕はOさんとは気軽によく話したものだった。そのOさんと外来でしばしば会えないのは本当に 寂しいけれど、それはOさんがこれからも色んな病棟や部署を回り色々な経験をして様々な知識や技術を身に付けて 大きくなるためだからしょうがない。それにこの病院からいなくなる訳ではなしまたいつかお世話になる事もあるだろうし 最悪メールで連絡も取れる、寂しくなるなどと個人的な感傷を言っている場合ではない、快く祝って送り出して あげなければ。そのOさんとTさんに見送られながら病院を後にした、病院の前の池では今日は亀たちも日向ぼっこを しながら見送ってくれていた。 家に着いたのは2時半前、お袋はまだ家にはいなかった。ひと月前にこけてひざの皿にひびが入り入院していたお袋が 今日退院して帰って来る事になっていた。そのお袋が3時過ぎに帰って来てすぐに僕の部屋に顔を出した。お袋は杖をついて 少し歩きにくそうにはしていたが思ったより元気そうなので安心した。 お袋と嫁さんの話をそれとはなしに聞いていると、嫁さんは介護保険を使ってリハビリを利用したらと勧めていた。確かに 上手く歩ける様になるまでは介護保険で要支援には認定されるとは思うが訪問リハビリのサービスがはたして 利用出来るものなのか?。通所のデイケアでリハビリだけ利用しに行くという事はたとえ送迎があるとしてもお袋は 行かないのではないか。 お袋は「同じ病室の人や役場の人から息子たちと同居しているなら高額医療費(の還付)は受けられないと言われた。 今回は支払いは無かったけれど今後いつ病気するかもしれないし心配。」と言っていた。それに対し嫁さんは「同居と いっても世帯は別にしてありますから関係無いはずですよ。」と答えた。そこで僕が「高額医療費には世帯は (基本的には)関係無いはず。」と付け加えた。最終的にお袋がもう一度役場に確認に行くという事で決着が 着いた様だ。 それにしても最近の政府の打ち出す政策はネーミングの付け方に内容とマッチしていないものが多いし、 内容そのものにも納得がいかないものや弱い者いじめとしか映らないものが多い。昨年の4月に施行された 障害者自立支援法にしても自立とは名ばかりで自立という言葉の持つ意味を違えていると思われるし、今年の4月から 施行されるらしい高齢者医療制度にしても後期と前期に分けるというし年金と健康保険をセットにして年金を払わないと 健康保険を人質?に取るとかいうし全くもってひどい話だ。税金の無駄遣いは多いし一部の公務員はやりたい 放題だし、この国はどこに向かおうというのか?。早く民主党に政権交代が出来る力を付け態勢を作ってもらって 交互に政権を担って欲しい、次の衆議院選挙が待ち遠しいなあ!。 2月28日 指の動きが悪くなった、何故? 2日前の朝から急に右手薬指の動きが悪くなった。上肢で唯一スイッチが操作出来る部位なのに、困った。 1年前の入院中に作業療法士のU先生から右手薬指用のスイッチを作ってもらってしばらく使っていたら、段々右手薬指の 動きが少しずつ良くなってきて右手薬指のストロークも大きくなっていたのに1年後の今になって急にストロークが 1年前よりももっと小さくなるなんて。いったい何故?、どうしてなんだろう?。 右手薬指を見たら薬指の変形が少しひどくなっていた、だから考えられる事はスイッチの使いすぎで薬指が変形が 大きくなり指が少し曲がったままで常時伸ばしていない分だけ硬直が進んでしまい薬指の動きが悪くなっていったのだろう。 どうしたもんかな・・・・・。 2月24日 一番下の息子の絵 今日午後4時からNHK教育の『全国教育美術展』関連の番組で下の息子の絵がもしかしたら映るかもしれないと思って 見ていたが、やはり親馬鹿だった、息子の絵はちらりとも映る事はなかった。 数日前下の息子の絵が全国教育美術展で特選に選ばれたと嫁さんに教えてもらった、我が息子ながら全国で 選ばれるとはたいしたもんだ。そして雑誌に載っている息子の絵を見せてもらった。息子は自由な発想で鳥の絵を 描いているらしいのだが、絵心のない僕にはその絵のどこをどう見ていいのか分からなかった。確かに息子は鳥を 常人には見られない奇抜なデザインとして描いていたし色使いも僕には出す事の出来なかった不思議で微妙な 色合いを使っていた。もしかしたら下の息子にはデフォルメ?の才能があるのかもしれない。出来れば今回全国で 特選に選ばれた事でこれからの人生に大いに自信を持って欲しいし、また可能性に満ちた?その才能をみんなで伸ばして あげたいものだが。ただ当の本人には何の意識も無いようで表彰状は未だに学校の息子の机の中にある様だ。 美術の才能が全く無かった僕も一度だけ4年生の時に鳥(百舌鳥orウグイス?)を描いたゴム版画で市郡で特選を もらった事があった。僕はそれより前にも後にも表彰状はもらった事は無かった、任命書は数多くもらったが。僕はこれまで 図工や美術関連で自分でも納得のいく物が出来た事はこの時のゴム版画と中学校の時に鳩を彫ってブローチ?を 作った時の二回しかない。それほど僕の美術の才能はかけらもありそうも無かった。でも子供の頃はプラモデルを 作るのは好きだったし成人してからはよくジグソーパズルも作って部屋に飾っていた。もしかして隠れた才能の かけらはあるのかも・・・・・。 2007年度全国教育美術展で特選に選ばれた下の息子の絵 2月23日 春一番 今日関東地方で春一番が吹いたとか。僕が実際に肌で春一番を感じた事を覚えているのは一度しかない。 それは多分二十数年前の2月11日の建国記念日が連休になった年に広島県の北西部にある恐羅漢スキー場に 行った時の事、中日の二日目の昼過ぎにリフトで恐羅漢の山頂に登ったすぐ後に突然強烈な突風が吹いた。すると 滑り降りて行く内にそれまで真っ白だったゲレンデのところどころに藪や茶色い土が見え始めた。それで始めてあれが 春一番だったのかと悟ったものだった。 恐羅漢山のスキー場といえばまさにほんの2-3週間前に遭難騒ぎがあったところだ。あのニュースは最初に耳にした時から 興味深く見ていたのだが僕はどうにも納得がいかなかった。遭難騒ぎを起こしたスノーボーダーが言っていた事だが 新雪の中を滑りたかったという気持ちは僕にもよく分かるのだが、旧羅漢山の山頂からなんであんな方向に降りたのか。 いくら新雪の中を滑りたいといっても普通はコースの脇の新雪を滑り降りるものである。北海道などのスキー場で時々 スキーヤーが雪崩に巻き込まれたというニュースが流れるが決まってコースに沿った新雪の中で起きている。僕が 思うには、あのスノーボーダーの人たちは旧羅漢のあの方向に林道がある事を知っている人がいて意図してあの方向に 滑って行ったのではないか、その林道が恐羅漢山スキー場の麓の駐車場に繋がっているものと高を くくっていたのではないかと思うのだが。まさしく判断の甘さを露呈したものであり山を甘く見ていたと言える。 2月22日 胃ろうチューブの交換 今日はニャン・ニャンニャン・猫の日との事、余りにもこじつけ過ぎて業界団体に踊らされている様な気がするが。 壊れた胃ろうチューブをひとまず代替チューブに応急交換するために予定日とは違ったが急遽病院に行く事になった。 来週またボタン式の胃ろうチューブに交換するために病院に行く事になる。僕は胃ろうにはいつも相性があまり 良くはないのだ。といっても胃ろうそのものにはみんなから「(胃ろう部が)綺麗にしていますね。」と言われるくらいに何ら 問題はない。相性が良くないのは交換の時なのだ。胃ろうを創った時もかなり苦しい思いをしたが交換する時はほとんど 毎回何らかのトラブルが起きてしまう。 一番最初にボタン式に代えた時は気管切開した時期と相まって不安やストレスが蓄積していたのか胃潰瘍が 悪化してしまっていて吐血してしまって輸血までして大騒ぎ。二回目の交換は胃ろうチューブが抜けてしまった時、 対処法を知らなくて翌日病院に行った時には胃ろうの穴がわずか12時間位しか経っていないのにかなり縮んで しまっていて新しい胃ろうチューブを入れる時とても痛い思いをした。後で主治医の先生が「胃ろうチューブが抜けた時は 抜けたチューブを消毒してまた差し込んでおくか同じくらいの径のカテーテルを消毒して差し込んでおけば胃ろうの穴も 小さくならなくてすむ。」と対処法を教えてくれた。どうせなら嫁さんが前の日チューブが抜けて病院に電話した時に 電話対応してくれた方がこの事を教えてくれれば良かったのにと思ったが後の祭りだった。 その後も僕と胃ろうチューブの交換はチューブがなかなか抜けなくて内視鏡室処置になったりと交換との相性は一向に 良くならなかった。そしてこの胃ろう交換時のジンクスは今回も続いてしまった。挿入時に痛みが少ないという配慮から 一週間のつなぎとして代用の尿道カテーテルに一度交換したのだが、CTで確認したところ思った以上に胃が 小さくなっていて反対側の胃の壁面にカテーテルの先端がぎりぎり、これでは古傷の胃潰瘍が再発する恐れありと ジャンパー?方式の胃ろうチューブに再度交換する事になった。ジャンパー?方式の胃ろうチューブ挿入は 尿道カテーテルよりずっと痛かったし二度の交換で身体もかなり疲れてしまった。 来週の胃ろうチューブの交換こそはすんなりと終わってくれればいいのだが・・・・・。 2月20日 胃ろうチューブが壊れた! 胃ろうチューブがついに壊れた。3-4年前胃ろうチューブそのものが外れた事がありその対処法を知らなかったために 大事になりその上かなり痛い思いをした事があるが、まさか胃ろうチューブが壊れるとは。確かに1週間ほど前から 煎じ茶?を流し込む時に時折詰まるからちょっと不吉な予感もしていたのだが。 嫁さんが外れた部品を見せてくれたのだが胃ろうチューブを止める本体側?の部品が外れるとは想像もしていなかった。 素材はプラスチックで形もある程度複雑だからおそらく一体成型品ではなくて超音波溶着をした部分だと思うが、 1年も経たない内にそこが外れるとは溶着が充分ではなかったのだろう。嫁さんが経管栄養を流し込むために外れた 部分をはめ込む時はかなり痛い思いもする。かといってその外れた部分をくっ付けるのはたとえ僕の手が自由に 動かせたとしても容易な事ではないだろう。やっぱり早めに交換するしかないなあ。まあ後ひと月ほどで去年 交換してから1年になるから潮時だったのでもあるのだが。 2月19日 YAHOO動画! 今日火曜日は見たいテレビも余りない日なので暇に任せて夕方からYAHOO動画を見た。今日見たのはガンダム シリーズ、僕は会員にはなっていないから見る事が出来るのは無料配信の分、だからほとんどのシリーズが 中途半端なのだがそれでもかなり懐かしい。 僕の好きなガンダムシリーズは初代と一番新しいガンダムSeedシリーズ、どちらもラストでお涙頂戴の展開だ。 僕は初代ガンダムは本まで買って読んだ。僕が見たのはおそらく初代ガンダムの再放送だったと思うが、それでも 面白いと感じたものだ。1年半ほど前までは息子たちがよくゴジラなどのビデオやDVDを借りて来て見ていたので僕も ついでにガンダムシリーズのDVDを借りてきてもらって見ていだのだが、息子たちがビデオに関心を示さないようになった 今はそれも出来ない。寂しいなあ・・・・・。 2月17日 風邪を引いたのかな? 朝10時過ぎ経管栄養が終わった時に嫁さんに体温を測ってもらった、身体が何だかダルっぽく肺が疲れていると 言っている様に感じたし前頭葉が何となく痛かったから。しかし体温計は36.6度で熱はなし、そのときくしゃみが3度4度と 出てしかも鼻詰まりがだんだんひどくなっていき鼻水までも右の頬をつたっていった。もしかして風邪かなと思って 用心のために風邪薬を服用する事にした。金曜日通院のために外出したが、温室暮らしに慣れ切っているために ほんのちょっと外気に触れただけで風邪?。本当に自分の身体ながら情けない!。 2月15日 今年の山は赤い 今日は通院日、訪問看護師さんたちが「外は寒い!。」と言うので厚手のジャンバーを着ていく事にした。僕は靴下とか ジャンバーを身に着けるのはゴワゴワするし装具が合わなくなるので嫌いなのだが今日は着る事にした。 外に出るとさすがに2月寒かった。庭には今は僕の座っている助手席からは何も見えない、どこかに水仙が あるはずなのだが。走り出すと車窓からはところどころに満開とは言えないがたくさんの花びらをつけた白梅や紅梅が 見えた。うちの庭の梅はどうなっているのだろうとふと思う。 診察が終わった後の帰りの車窓からいつも僕は山を見る。でも今日見た山々はここ数年の中では最も赤くというより こげ茶色に見えた。以前は山々の木々が枯れかけているのかと思っていたがよくよく見ると杉の木ばかり、それで こげ茶色の正体は杉花粉だと悟った。今年の花粉は去年よりかなり多いとは聞いていたがこれ程山が赤いとは、これは 花粉症の人は今年は大変だろうなあ。 2月14日 二世タレントの麻薬事件報道を受けて 今日は朝からテレビではヒデとロザンナの息子の麻薬事件を盛んに流していた。けれども三田佳子の息子と ロザンナの息子の麻薬の事件を同等のものとして報道すべきではないと思う、親としての子育ての仕方・責任感の次元が 全然違うと思えるから。 三田佳子夫婦は息子の高橋囚人?をどう見ても甘やかして育てた、しかもその甘やかしは成長してからも延々と続いた。 成人した息子に月に40万円もの小遣いを与えるとは親として常識があるとはとても思えないし、麻薬依存症のある 息子を家族で立ち直らせようとしている親のなすべき事では決してない。申し訳ないがあの親子の様子を見ていると 再々再犯の恐れ大だと思えてしまう。 ロザンナの記者会見を見ているとヒデ亡き後ロザンナがどれほど一生懸命で真剣に子育てをしてきたかがひしひしと 伝わってきた。ロザンナの息子加藤容疑者にロザンナの記者会見の様子を見せたら自分がどれほど真剣で大切に 育てられたかが分かるだろう。ヒデとロザンナの息子なら必ず立ち直るだろうし周りのみんなも立ち直らせようと 努めるだろう。ロザンナの記者会見はそう思わせるのに十分なものだった。 2月14日 バレンタインデー 今日はなぜかバレンタインデー、この日は義理チョコなるものが存在する様になる十数年前までは僕にはほとんど縁の ある日ではなかった。まあ義理チョコが存在する様になってからも縁があったとはそれほど言える訳ではないのだが。 今年は娘が手作り?の小さな義理チョコをくれた。僕は子供の頃から10円のチロルチョコ以外自分で買ってまで 食らうほど好きな訳ではないのだが、娘にもらったチョコはやはり嬉しいものである。 改めて振り返ってみると僕は子供の頃からそんなにもてない存在だったのか?。僕は子供の頃はそれなりに人気は あったと思うが、僕は女の子から見るといわゆる『いい人』の部類に入る存在だったのだろう。僕は今まで男女同等に 心掛けてきたつもりだ、なぜなら僕は女性を女と意識した瞬間声を掛けられなくなるあるいは話が続かなくなるからだ。 だから子供の頃は女の子を大人になってからは女性を女と意識しない様にしていたと思える。それはある種 女恐怖症に近いとも言えるものなのだが、僕が子供の頃に女の子や成長してからは女性と気軽に話しをしている姿を 見ていた僕の周りの多くの人たちは勘違いをしてしまっている様だった。 そのシャイ?な性格はどうやら息子たちにも受け継がれている様で、息子たちも女の子が苦手な様だ。 2月12日 姉ちゃん帰る 夕方5時過ぎになって姉ちゃんが帰っていった。親父から今日姉ちゃんが帰る事は聞いていたので何時に帰るのかなと 思っていたが、出来るだけ長くいて少しでも我が家の応援になれば良いとの想いで最終便を選んでくれたのだろう。 1週間以上我家にいてくれて我家の支援をしてくれた姉とその姉を快く送り出してくれた義兄と義兄一家に対して 感謝の気持ちで一杯だ。本当にありがとうございました。僕はこんなに迷惑をかけ続けているのに姪っ子・甥っ子には 何もしてあげていない、それが申し訳ないし残念だ。 姉ちゃんが帰ってしまったので「そろそろ入院しようか?。」と嫁さんに聞いてみた。「何で?。」と嫁さんが言うので 「毎日眠そうな顔をしているから。」と答えた。そうなのだ、嫁さんは疲れが溜まってきていつも眠そうな顔をしているのだ。 姉は僕の介護にはあまり携わってはくれていなかったのだが買い物や家事の手伝い・子供たちの相手を してくれていた様だった。その姉のいる時でさえ疲れが溜まっていたのだから、いなくなった今は更に疲れは 増してくる事だろう。そう思って言ったのだが、嫁さんは「もう少しがんばってどうしようもなく疲れてきたら病院に お願いする事に しようかな、それに病院に空きベッドがあるかどうかは分からないし。」と答えた。それならば嫁さん自身がもっと自分が 楽になる方法、例えば子供たちにもっともっと手伝ってもらったら良いのにと思うのだが。僕らが子供の頃は家の 手伝い・親の手伝いをするのが当たり前の時代だったから僕も嫌々ながらもいつも手伝わされていたものだったのだが。 2月10日 みんなが来てくれた 僕が特別老人ホーム『くにみ』にばあちゃんに会いに行った時ばあちゃんの様態が本当に悪かったので、僕が知っている 叔父さんやいとこのメールアドレスに「出来ればばあちゃんに会いに来て欲しい!」とメールを打った。そして今日 関西の叔父さんといとこそれに宮崎の叔父さん夫婦といとこ一家がばあちゃんに会いに来てくれた。 あの日僕がばあちゃんに会いに行って嫁さんが「(僕が)会いに来ているよ!」と大声で呼びかけてばあちゃんがほんの ちょっと目を開けたその夕方からばあちゃんは急速に回復し今は様態が急変したあの日の前の状態にまで戻っていると 聞いているので、みんなには要らぬ心配をかけた事・余計な費用をかけさせた事を申し訳なく思うがばあちゃんは みんなに会えてきっと喜んでいる事だろう。 今回息子たちや久しぶりにたくさんの孫やひ孫に会えた事がこれからも生き続けるための新しい喜びやエネルギーを ばあちゃんに与えてくれていれば良いのだが。 みんなお疲れ様でした、そしてありがとう!。 2月9日 目論見が外れた お袋が入院しているこの際に娘に吸引の仕方を覚えてもらおうと思ったが、僕の目論見は見事に外れた。嫁さんの 判断が正しかった様だ。 姉は自分が呼ばれた責任感からか吸引の仕方を嫁さんに教えてもらい不慣れで危なっかしい手つきながらたまに 吸引をしてくれているが、娘にはその気は無い様だ。これでは嫁さんにきつい思いまでさせて僕が家にいる意味が無い、 病院の方は「入院しますか?。」と言ってくれているのに。僕は良い娘だと思っているが吸引してあげようという気に なってくれないのは残念だ。その気が無い娘に無理強いしても無駄な事、諦めよう。嫁さんは毎日「眠い!。」と 呟いているし姉も来週早々には自分の家に帰さなければいけない。もうそろそろ潮時だろう。姉が帰ったら嫁さんに 「入院の手続きをして欲しい。」と頼む事にしようかな。 この前嫁さんがリハビリの先生と話していた事によると、ひざにひびが入った場合完治するには8週間ほどかかるとの事。 すると今回の入院は4週間以上なるだろう。でもまあ今気になっている事はばあちゃんの様態が急変しないかという事だけ、 それ以外は僕が入院する事に何の支障も無い事になる、何かあったら外出届を出して迎えに来てもらえば 良いだけの事だし。 2月4日 ALSを発病するメカニズムが分かった? 朝の経管栄養を落としている時に嫁さんが「ALSの発病の原因に関係する事が今朝の新聞に載っていたよ。理化学研究所が 突き止めたって。」と教えてくれた。そして訪問リハビリの時にも先生が「新聞にALSの原因の事が載っていましたよ、 見ました?」と言うし、友人からもこんなのを見つけたよとメールでホームページのURLが送られてきた。そこで急いで 理化学研究所のホームページにアクセスしてニュースリリースを見たが専門用語が多くて僕は余り理解出来なかった。 理化学研究所のリリースから抜粋すると 【脳内で神経細胞とともに存在するグリア細胞の一つであるアストロサイトに発現している変異SOD1を 取り除くことにより、ALSの進行と運動ニューロンの細胞死を顕著に遅らせることができることを発見しました。また、 アストロサイトは、神経系にある別の種類のグリア細胞であるミクログリアに起因する異常な炎症反応を 制御していることを突き止め、このことがALSの病態進行に重要な役割を果たしていることを解明しました。グリア細胞は、 神経細胞が緻密な脳のネットワークを作る際、これを補佐する脇役と考えられてきましたが、最近の研究では、脳内で 重要な働きをしていることが次々とわかってきています。ALSの進行を遅らせる治療の標的として、運動神経ではなく、 グリア細胞であるアストロサイトとミクログリアが有効であることを世界で初めて示した画期的な知見です。 今回の成果を踏まえ、グリア幹細胞を移植する方法などによる、ALSの治療法の開発に大きく寄与することが 期待されます。】 僕は次の様に解釈した。 この成果によりやがて(出来る事なら近い将来)ALSの治療法が確立され合わせて再生医療が進歩して死滅?してしまった 筋肉組織や運動ニューロンを再生し移植できたら、リハビリの努力さえすればまた動ける様になるのかなと。 そしてまた元に近い形で動けるようになれたら両親の守ってきた田畑や山を僕も守っていきたい、時々昔お世話になった 会社の仲間を呼んで農作業をして楽しみたいものだ。それに屋久島の宮之浦岳を始めとする九州内の山々や富士山にも 登りたいものだ。 2月3日 節分 今日は節分、豆まきの日。夜一番下の子が鬼のお面を着けて僕の部屋に入って来た。鬼のお面は一番下の子が自分で 作った様だがなかなか迫力のある顔をしているしサイズもぴったりしていて良い出来だった。その息子をよく見ると 顔の後ろにも何か着けている、それはお多福のお面だった。このひょうきんなところは僕の血を強く受け継いで いるのかもしれない。 しばらくして向こうの部屋の方から「いつも鬼はオイなんだよ。」と一番下の子が姉ちゃんに訴える声が聞こえたかと 思ったら豆まきが始まった。楽しそうな雰囲気は伝わってくるのだがその様子は見えない。出来れば僕の部屋でも 豆まきをして欲しいのだが部屋の中が散らかるからとみんなが遠慮してしまい、ここ数年豆まきの鬼もお多福も僕の 部屋の中には入ってこない。それもまた祭り好きの僕にとっては結構寂しいものだ。 2月2日 姉ちゃん応援に来る お袋がひざから転んで入院したために姉ちゃんに急きょ来てもらう事になった。姉ちゃんは今年は正月に帰郷したばかり、 義兄さん一家にはとても申し訳なく思う。その姉ちゃんだが週末には向こうで用があった様で親父からも昨晩「ばあちゃんも 落ち着いた様だし明日来なくても良いと連絡しようか?。」と相談されたが「(昨日の今日だし)ばあちゃんの様態がまたいつ 急変するとも限らないから連絡は取らなくて良い。」と娘を通して伝えた、結果からすると余計な世話だったが。 その姉ちゃんが病院のお袋の所と特老のばあちゃんの所に寄ってきて3時過ぎに家に着いた。僕が「どうだった?。」と聞くと 「母ちゃんはもうリハビリを始めたと言っていたしばあちゃんも元気だったよ。」と教えてくれた。これを聞いて僕も安心した、実は 僕は昨夜から朝になるとばあちゃんの様態がまた急変したとの連絡が入るのではないかと内心ひやひやしていたのだ。 今回は姉にも痰の吸引の仕方を覚えてもらうつもりだ。姉と一緒なら娘も痰の吸引の仕方を本当に覚える気になるだろうし 妻も娘に教える気になるだろう。 2月1日 ばあちゃん 今日通院の帰りに特別養護老人ホームにいるばあちゃんに愛にいくと突然嫁さんが言った、どうやらばあちゃんの具合が 悪くなったと特老から連絡が入った様だ。僕のばあちゃんは今103?才、正月に誤嚥性肺炎を起こし入院したと聞いた。 もうそろそろ嚥下が出来なくなってきた様だ。少し体調が回復してきたところで先日ばあちゃんの今後を話し合う 病院主催の親族会議があったとの事、そしてばあちゃんの「慣れている所が良い・みんながすぐに来てくれる所が 良い」という強い希望もあり特老に戻る事になりみんなもそれに賛同した様だ。僕としてはばあちゃんの嚥下の能力の事を 考えればしばらく療養病床のある病院で過ごし嚥下リハビリをして嚥下機能がある程度回復してから戻った方が良いと 思ったが、ばあちゃんの嚥下機能がどこまで戻るか分からないしばあちゃんが楽しいと思う所が一番良いんだと 思う事にした。 僕はばあちゃん子だった、幼い頃気がついたらいつもばあちゃんが傍にいた、ばあちゃんには色々な事を教えてもらった。 田植えの仕方も多分ばあちゃんが教えてくれた、本家でお茶っ葉を作っている時もばあちゃんが中心にいた、よく 幼い時はばあちゃんの後ろにくっついて歩いた、正月にいとこの家まで山の中の林道をばあちゃんに連れられて 6-7時間歩いて行った(いとこのばあちゃんしかいなかったが)、大阪のいとこの家にも夜行に乗って連れて行ってもらった。 僕の丈夫な身体は両親とばあちゃんに作ってもらった。そんなばあちゃんに僕は何もお返しをしていない。それどころか 今も心配を掛け続けている。 病院の帰りに特別養護老人ホームに寄る、そこには病院に付き添ってくれた訪問看護師さんに加え2人の訪問看護師さんが 待っていた。ありがたい事である。そして車椅子に委譲させてもらってからばあちゃんのいる部屋へ向かった。部屋に 入ると・・・・・、部屋は個室しかも人間大の巨大な酸素ボンベまで備え付けてあった。それを見た時ばあちゃんの状態が それ程良くないのかと感じた。部屋には同じ町内に住む叔父さんが来ていた。親父も来ていたがもう帰ったとの事、 もうはまっていたらしいがシャイな親父だからお酒でも飲んでいないと今の状態に耐えられないのかもしれない。 ばあちゃんを見ると酸素を供給しているマスクを着けているし目も閉じたまま、嫁さんが大きな声で僕がきているけど 分かるかと呼びかけてようやく小さく目を開けた。それから嫁さんがばあちゃんの数珠を持ったままの右手に僕の右手を 乗せてくれた。元気な時ならばばあちゃんが僕の手を力強く握ってくれるのに今日はその力も無い様だ。それで僕の手で 唯一動く右手薬指に力を入れてばあちゃんの手を握った?。そこへ本家の伯母ちゃんが昼食から戻って来て僕を見て 僕が来ていると大声でばあちゃんにまた呼びかけた。するとばあちゃんがまた目を開けて僕を見てくれた?。それを見て 伯母ちゃんが「ばあちゃんが目を開けている、朝からつむったままだったのに。」と言った。どうやらばあちゃんの 具合はかなり悪いようだ。もうお迎えが近づいてきているのかもと覚悟しなければならない時期が来ているのかもしれない。 ばあちゃんはもう十分長寿を全うしていると思わなければならないのは重々分かっているのだが、それでも悲しくて涙が こぼれて仕方が無かった。ばあちゃんに会えるのもこれが最後かも・・・・・と思うとまた涙がこぼれてきた。 家に帰ると嫁さんが「子供たちを(学校から)呼び戻す?」と聞くのでお姉ちゃんには連絡してと答えた。夕方6時前に ようやく子供たちがそろったので親父と一緒におばあちゃんに会いに行った。1時間ほどして帰ってきたお姉ちゃんに 「ひいばあちゃんどうだった?」と聞くと「危篤だったと思えない程元気だったよ、意識もしっかりしていたしみんなの 手を握ったり手を上げて万歳までしたよ。」と僕としては意外とも思える嬉しい返事が返ってきた。僕はついつい最後の 灯火でなければ良いのだがと余計な事を考えてしまった。僕としてはばあちゃんがいつまでも元気で長生きしてくれて 長寿日本一になって欲しいのだが・・・・・。 |
1月 1月30日 お袋入院 今朝コールを鳴らしてもいつもと隣から聞こえてくる気配が違う、お袋が起きて来ない。寝ているのかなと思ってしばらく 待っていると隣の方から小さな物音が聞こえてきた。それでもう一度コールを鳴らすとなんと嫁さんが来た。我が家では 夜中と朝の早い時間はお袋が僕の面倒を看る様になっていたので驚いてしまった。その場では嫁さんに痰の吸引と パソコンをセットしてもらったのだが朝の経管栄養を落とす時に「母ちゃんはどうした?。」と聞くと、嫁さんが「昨日の夜 ゴミを出しに行った時に躓いてこけてひざを打って歩けない様だ。もしかするとひざの皿にひびが入っていて 入院する事になるかもしれない。」と説明してくれた。 9時過ぎにお袋が「今から病院に行って来る。」と言って出かけて行った。そして・・・・・、お袋が入院する事になったと 聞かされた。昨晩から一度も顔を見せていない事から察すると僕の部屋の中にすら入って来る事も出来ない程ひどい 怪我なのだろう。だからといって僕に出来る事は何もない、僕に出来る事はただ家人特に嫁さんにかかる迷惑と負担を 少しでも少なくする軽くする事だろう。そこで実際問題として僕に何が出来るのかと考えてみたが、また入院させて もらえる様にお願いする事しか思い付かなかった。ただその前にこの機会に子供たちに吸引の仕方を覚えてもらい それでも駄目だったらお願いする事にしよう。 1月29日 停電 夜9時ごろ突然電気が消え真っ暗になった、停電の様だった。バイパップの人工呼吸器を着けている僕にとって停電が 長引く事が最も恐ろしい現象である。いつもなら慌てて呼び出し用のコールを足で探して押して家人の誰かを 呼び出すところなのだが、今日はたまたま嫁さんが傍にいたので驚いた程度で安心していた。ところが当の嫁さんが久々の 停電で慌ててしまったのか真っ暗な中で呼吸器を外してしまった、どうやら嫁さんは僕の呼吸器はUPSに 繋いでいるので停電しても数分間は動き続ける事を忘れてしまっていた様だ。僕は慌てて歯軋りをして繋いでくれとの 合図を送って何とか真っ暗な中で繋いでもらった。停電は2分ぐらいで回復したが今回の停電は改めて準備と心構えの 大切さを教えてくれた。 UPSをインターネットショッピングで購入してからもうどのくらい経っただろうか?、もう2年以上は経ったか。そろそろ 内部の充電電池がへたってくる頃だ。予備の準備しなければならないな。それに停電しても嫁さん以外に家人が 駆けつけて来る気配が見受けられなかった。停電したら呼吸器がどうなるのか・僕がどうなるのか教えていないのが 要因だがもう覚えてもらう時期に来ている。停電が起こったらすぐに僕のところに駆けつけてどんな事をして欲しいか その手順を絵を添えて書く、そのマニュアル作りを早急に僕がしなければならない。それにコンセントに刺していて 停電したらあかりが灯る懐中電灯も買おうかな!。 1月27日 福士加代子マラソンを走る ワコールの福士加代子がついにマラソンを走った。福士選手がマラソンに挑戦する予定だと聞いたのは12月中旬に 行われた全国実業団女子駅伝を見ている時、その時から期待半分・不安な心半分でこの日を待っていた。福士選手は 日本の女子陸上トラック長距離界の第一人者、現在の女子10000m/5000mの日本記録保持者だ。日本のトラックでは ダントツに強い。けれどもその福士選手でも世界に出れば表彰台には届かない、それが福士選手を今回マラソンに 挑戦させた動機のひとつだろう。マラソンでも持ち前のトラックでのスピードが生かせれば北京オリンピックでのメダル 獲得も夢ではない、そんな想いが彼女をマラソン挑戦に駆り立てたのだろう。 僕が福士選手のファンになってから4-5年になるだろう。福士選手を初めて見たのは全国実業団女子駅伝か都道府県対抗 女子駅伝の時、颯爽と追い抜いて行く走りや走った後のインタビューで見てくれた人に楽しみを与えてくれる嫌味の無い コメントを聞いていっぺんにファンになった。 福士加代子の出場した大阪国際女子マラソンは1q3分30秒のスローペースで始まった。長居陸上競技場を出たところで そのスローペースが彼女に合わなくて1q3分20秒以下のペースで走り始めた。でも彼女にとってそのペースが決して 速過ぎるという訳ではない。それでも差はどんどん開いていった。福士は10qを32分40秒で通過、その時点で 後続の第二グループに400m以上もの差をつけていた。そして20qを通過した時点では後続のグループに600m以上もの 大差になっていた。しかし中間点を過ぎた頃から福士のタイムが伸びなくなり始め、32kmで福士の足が前に伸びなくなった。 そしてついに35km手前で後続のランナーに次々と抜かれ始めた。もう誰の目にも福士の体力が尽きかけているのは 明らかだった。それでも福士は走るのを止めなかった、足がもう動かなくなっているのにゴールを目指した、脱水症状を 起こしフラフラになっているのに何回も倒れてもそれでも福士は諦めるとか止めるとかの気配を微塵も見せないで 一心にゴールを目指した。倒れても倒れてもゴールを目指している福士加代子の姿を見ていて僕は涙がこぼれて 仕方がなかった。 何故福士はそこまでしてゴールを目指したのだろうか?、棄権するという選択肢もあっただろうに。レース後の インタビューで福士選手は「マラソンは面白かった」「ご迷惑を掛けました」と頭を下げていた。福士選手は高校時代 「苦しい時こそ笑え!。」と指導されたという。それを言える指導者もすごいが、それを実践出来る福士選手は もっとすごい。常に走る事を面白いと言える・苦しい時にも笑える、これが福士選手の強さの源なのかもしれない。 1月26日 同窓会 中学の同級生Iから1月3日に行われた同窓会の状況を知らせるはがきが届いた。律儀な奴だ。Iは同窓会の幹事の一人 及び写真係も担当していた様だ、ご苦労様でした。 Iは同窓会の様子をたくさんの写真(ヤフーフォト)にアップして知らせてくれた。手も使えない僕には何よりの方法だ。 その写真を見ると・・・・・、ほとんど分からない。昔の面影が中々見出せないのだ。でもそれも当然の事、何せ中学校を 卒業してからもう35年余り経っているのだから。だけどしばらく見続けていると半分ぐらいは想像がつくようになった、 まあ友人のHが見舞いに来てくれた時に情報を仕入れていた事もあるのだが。恩師の顔・同級生の顔を久し振りに 見る事が出来て懐かしかったし嬉しかった。もし僕が元気だったらあの中にいて大騒ぎをしていただろうに。 僕の中学の同級生は5クラス181名、中学1年の時に「あと1名少なかったら4クラスに成っていた。」と言われたから よく覚えている。今回同窓会に参加したのは44名と聞いたから参加率が24%とまあまあ集まった方だろう。僕は病院に 入院している時暇に任せてよく同級生181名を思い出そうとして遊んでいる、けれど中々みんなは思い出せない。 でも今回年末年始からの約ひと月にわたる入院中にようやく150名の顔と名前を思い出す事が出来た。あと30名余り どうしても思い出せない同級生みんなに対しては申し訳なく思うが、多分思い出せない方々は同じクラスとなった事がなくて 付き合いが浅かったか出身地区(僕の住んでいる町では「部落」と呼んだが)を知らないからなのだろう。 1月24日 寒さが堪える 退院してから1週間が過ぎた。家に戻った当初は、うれしさ半分また家人に迷惑を掛けるのかと申し訳ない気持ち半分の 複雑な気持ちだった。もしかしたらこのままずっと病院にいた方がみんな丸く収まって良いのかと思ったりして、複雑な 想いが入り混じっていた、今はもう立ち直ったが。 それにしても寒い、病院は寒いと思っていたが家はもっと寒かった。寝る時はエアコンを27-8℃に設定して軽めだが 毛布1-2枚・布団2枚掛けてその上肩にもバスタオルを巻いているのだが胸がスースーするし手も寒い、おまけに今朝は 足まで冷たかった。僕は足でコールを押すから掛け物は常時くるぶしの少し上までしか掛けていない。それでも僕の足が 冷たくなるのは今までは熱が上がる時だけだった。去年は年末から3月まで病院にいたから気付かなかった だけかもしれないが寒さがこれ程堪えるとは僕の身体で何かが変わってきているのかもしれない、特に肺機能のうち熱を 取り込む機能や熱エネルギーに替える機能が。 この寒さはいったいいつまで続くのか、ああ春が待ち遠しいなあ!!。 1月20日 駅伝 今日12時30分から都道府県対抗男子駅伝を見た。僕は毎年この駅伝を見るのを楽しみにしている。僕にとっては この駅伝が元日のニューイヤー駅伝(全国実業団駅伝)・2日-3日の箱根駅伝に続いての三大駅伝なのだ。それにしても 都道府県対抗男子駅伝は何故大学入試センター試験の日にあるのか?、これでは進学高校の生徒は参加 出来ないではないか。去年の僕は大学入試センター試験にこの駅伝をぶつける事はまさかあるまいと思い込んで いたので見逃したのだ。 僕の予想は長野と広島の優勝争い、それに兵庫がどのくらい絡んでくるか。都道府県対抗男子駅伝は高校生の出来が 優勝争いに最も大きく作用する、それに加えて強い実業団が地元にあるかどうかだ。長野は高校生の佐久長聖が強い、 実業団はないけれど今年も箱根で活躍した大学生の上野と佐藤がいる、万全で優勝候補の本命だ。広島は世羅高校と 中国電力がある、高校生で何か起こらなければ十分に対抗馬になりうる。兵庫は西脇工業・報徳学園と高校生は いるのだが実業団が山陽特殊製鋼だけではこま不足だ。けれどもテレビは優勝候補として長野・愛知・兵庫・福岡を上げた。 愛知は豊川工業が強いしそれなりの実業団もあるから納得するのだが福岡はトヨタ九州・安川電機と実業団は大丈夫だが 大牟田高校が年末の高校駅伝で振るわなかったのでちょっと疑問符、まあ高校生が実力通り・以上の走りをしたらとの 条件付だろう。でも見るには楽しみな駅伝だ。 テレビの放送が始まってしばらくした頃に嫁さんが来て「佐賀はどう?、去年はアンカーの実業団の人ががんばって 追い上げて良いところまでいったけど。誰だっけ?。」と言った。僕は去年は見ていないから確かな事は分からないが、 それは多分安川電機の磯松だろう。そんな根性のある追い上げが出来るのは磯松選手以外には考えられない。けっして スマートな走りではないが蒸気機関車の様な力強い走りをするランナーだ。その走りのフォームは大牟田高校時代から 変わっていないと思う。 都道府県対抗男子駅伝は長野の予定通りに事が進んでいった。1区の高校生がトップから離されずに付いて行き2区の 中学生で順位を上げて3区の佐藤でトップに立った。そして4区・5区の高校生が区間賞の走りで2位の愛知との差を 広げて6区の中学生が粘って1分以上のリードを保ったまま7区の富士通のベテラン帯刀につなぐ。長野に弱点が あるとしたらここだったが帯刀もみぞれに耐えてよく走りきって優勝を成し遂げた。2位に愛知・3位に兵庫とテレビの 解説者の予想通りだった。長野は来年も優勝候補、なんせこの駅伝で今年活躍した佐久長聖組が3年だし佐藤も まだ大学4年で残るから。 九州勢もがんばった、入賞の8位以内に熊本・大分・佐賀、20位以内に宮崎・福岡・長崎・鹿児島と沖縄以外は全て 入った。これは来年は少しは期待できるかな?、特に福岡・熊本・宮崎が。それに長崎・鹿児島にはいい中学生が いる様だから、彼らがどこの高校に入るかで高校駅伝が楽しみだなあ。 1月11日 車椅子にも久し振りに座る 理学療法士のK先生の指示により今日からほぼ4週間振りに車椅子に座れる事になった。 午後3時過ぎ3人の看護師さんが来て僕の車椅子移乗のための準備に取り掛かった。車椅子の体勢作り・痰の吸引・首の装具の 装着・看護師さん3人で横がかえで僕を車すへ移動・背もたれを起こし僕の体勢を整え呼吸器を着けるそして最後に足の コールの位置あわせ、5ヶ月振りなのに思ったよりスムーズだった。それに僕の車椅子に座った感覚や体調も以前と 変わりなかった。ただしばらくすると痰が上がってきたのでコールを押して看護師さんを呼んで吸引してもらった。 1時間ほどで車椅子からベッドに戻ると痰が次から次に出てきた。目一杯吸引しても30分後にまた吸引。でもこれは良い事、 車椅子に座った事で肺にへばり付いていた痰が剥がれて出てきて肺がすっきりした証拠だから。だからこそ僕は一日に一度 車椅子に座りたいのだ。 1月10日 リハビリがようやく再開 午前11時半過ぎパソコンをしていると突然理学療法士のK先生の姿が見えた。嘔吐・下痢症感染者の指定の解除を受けてから 1週間たたないとリハビリは受けられないと聞いていたのでびっくりした。 リハビリをしてもらうのは実に4週間振り、ようやく再開出来たなという感じで本当に待ち遠しかった。K先生はまず手や腕を 動かしてくれた。ひじや手首それに指はそんなに硬くはない、ただ挙手をさせてもらうとうでは以前ほどは上がらなかった。 肩の動きは以前より少し落ちている様だ。次に脚のリハビリ、股関節・ひざ・足首・足の指ともに前より少し硬くなって しまったようだ。特にひざの上の筋が少し突っ張る。もし友人のHが2日と5日に見舞いに来てくれて手足を動かしてくれて いなかったなら、手足の関節はもっと硬くなっていたかもしれない。 続いて立つ練習、久しぶりに首と脚に装具を着ける。すると入院前と違って首の後ろに違和感があるし脚の装具も着けるのが 最も上手いK先生でもなかなかぴったりと入らない。この4週間で足の変形が更に進んだという事か。装具を着け終えたら ベッドサイドに起こしてもらう。支えてもらっている事もあるが思ったほどぐらつく事はなかったし頭もふらふらしなかった。 そして立たせてもらう、ひざに力を入れたのだが腰が上がらない。K先生が引き上げてくれてようやく立てた。「今日は 立ち上がる練習をしましょう。」とK先生は言って、座る→立つ→立位保持→座るを4回繰り返して今日のリハビリは終わった。 それにしても立っている時にひざががくがくするし腰はふらつくしバイパップをしばらく外していると息苦しくなった様な 気がするし・・・・・、で不安が頭をもたげてきた。 リハビリを終えて帰る時K先生が「車椅子には座っている?。」と聞いたので僕が「いいえ」と目で合図すると、その場で 看護師さんを呼んで「明日から車椅子に座らせて下さい。」と指示してくれた。これでようやく車椅子に座れるなあ。 1月7日 嘔吐・下痢感染者指定解除、バイパップ再使用試験期間開始 強でようやく嘔吐・下痢症感染者の指定が解除になった、感染者のレッテルが剥がれたのだ。いつもと変わりはないのだが、 なんだか心が軽くなった気がした。でもどうしてどんな基準に基づいて解除されたのか?。 看護師さんによれば1週間下痢がなかったからだとの事。素人の僕から見ればずい分曖昧な基準に思えるのだが、嘔吐・ 下痢症の病原菌も身体から出て行き潜伏期間も過ぎるそれが1週間なのだろう。でも僕の基準では最後の下痢からは当に 2週間は過ぎている。これが病院と僕との下痢についての見方・感じ方の違いなのだろう。まあ『郷に入れば郷に従え』と いう事か?。それでもひと言、下痢って何・下痢の定義は?。 最近の僕は便秘、2日前に看護師さんに応援してもらって排泄した。それは5日振りだった。ということは便秘していた期間が 下痢しなかった期間って事?。なんだか納得し難いが、でももう過ぎた事だし・・・・・。 今日から人工呼吸器を従量式のニューポートからプレッシャーサポート方式のバイパップに切り替わる、お試し期間と いう事らしい。 国立病院機構内でのバイパップ使用禁止の噂が聞こえてくる中で主治医がどのような心もちでバイパップの再使用の お試し期間をやってみようと思ってくれたのか、その心根を慮る事は僕には出来ない。が、千載一遇のチャンス。これから しばらくの間主治医と様々な事柄でせめぎ合い?が続くのだろうが、上手くクリア出来ればバイパップで家に帰れる。僕は 人間の肺が主導権を握っているプレシャーサポート方式のバイパップが好きなのだ。 実際にバイパップを着けてみると入院する前より肺が膨らんでいるような気がした。多分入院してからの2週間 ニューポートを着けていたので肺が大きく膨らむのに慣れたのだろう。それは良い事なのだが呼吸器を外していると 以前より短い時間で息苦しくなった様な気もした。自発呼吸が少し弱くなってしまったのか?。 若干の不安視する心が頭をもたげる。 1月5日 友遠方より来たる、また嬉しからずや 小・中・高校の同級生HHが病室へ遊びに来てくれた。Hが病室に訪ねて来てくれるのは1月2日に続いて二度目、とっても 嬉しい事だしありがたい事だ。 Hはき制した際には必ず僕の所に顔を出してくれて世間話・昔話に花を咲かせながら手と脚のリハビリまでしてくれる。 Hは以前事故で股関節を悪くした事があるとかでいつも的を得たリハビリをしてくれる、甘えてばかりで申し訳ないと 思っているのだがいつも甘えてしまう。今回の入院ではリハビリが受けられずほぼ2週間体を動かしていなかったので、 本当にありがたかったし実に気持よかった。そのHもまだ後遺症に苦しめられているという。 Hは当然の事ながら文字盤は使えないから上手くコミュニケーションが取れない。でも今日は僕がパソコンをしている時に 来たので少し会話が出来た。 一昨日僕らの中学校の学年の同窓会があったのでその様子を「どうだった?」と聞くと「懐かしかった!。」と言いながら 参加していたメンバーの一人一人の名前を挙げてくれた。それを聞きながらそれぞれの顔を思い出していた、もちろん みんな中学時代の顔だが。Hは「次回(5年後?)の同窓会には(僕も)参加してはどうか?。」と言うがそれはかなり 難しいだろう。それに僕が同窓会に参加したら飲み食いしながらおしゃべりを楽しんでいるみんなの雰囲気を壊してしまう。 僕が参加出来るとしたら記念撮影を挟んだひと時だろう。 1時間ほど僕の所で過ごした後でHは「「明日(関東の方へ)帰る。また来るね。」と言って帰って行った。こうして毎回訪ねて 来てくれる友がいる僕は本当に幸せ者だ。『友、遠方より来たる。また嬉しからずや。』の心境だ。退院したらすぐにHに 「ありがとう!!。嬉しかったよ。」メールを送ろう。 1月3日 姉・末の甥っ子来る 遠くに住んでいる姉が同窓会があるとかで珍しく正月に帰って来た、それも末の甥っ子を連れて。末の甥っ子は今大学の1年、 部活で野球を続けながら公立の大学の学生になった、たいしたもんだ。 その二人が娘と一緒に見舞いに来た。その甥っ子に僕はどうしても語っておきたい事があった。 それは、「社会人になったら学生時代の夏休みの様な長期の休みは二度と取れないから、2年か3年かの夏休みに長期の 休みでなければ出来ない事をぜひともやりなさい」という事だった。 僕は学生時代の夏休みは生活費を扶養にする意味もあって田舎に帰ってアルバイトや自動車教習所通い・友人たちとの 地区地区の祇園(夏祭り)巡りで過ごした。これはこれで有意義な事だったが社会人になって後から思うと何かが違ったという 気がずっとしていた。 僕は学生の時は学生援護会でアルバイトを探していた。僕のアルバイトはもっぱら肉体労働だった、賃金は高いし あとくされが無いからだった。夏にはその学生援護会のアルバイトコーナーに北海道牧場手伝いとか北海道昆布採り 手伝いとかが記載されていた。僕はいつも気になっていたが踏ん切りが付かなくて選ばなかった、結局僕には一歩を踏み出す 勇気が無かったのだ。 今更ながら思うのだが、あの時北海道に行っていたら北海道の大自然の息吹を感じる事が出来ただろうし北海道の美味しい 食材をたらふく食らう事が出来たかもしれない。ひと月休み無しで目一杯働いてその賃金で中古のサイクリング車を買う。 夏休みの残りの日々はそのサイクリング車に乗って北海道一周または郷里まで土地土地で地元の人たちと触れ合う事が 出来たなら生涯最大の財産と経験を手にしたのかもしれない。今更ながらあの時踏ん切り切れなかった自分が 悔やまれる。 だから甥っ子には学生時代の夏休みを目一杯使わなければ出来ない事、自転車やローカル列車を使った日本一週途中下車 ふれあいの旅とか英語圏の国での長期ホームスティとか(国際)ボランティア活動への参加とか、大学生の夏休みでなければ 出来ない事を体験して欲しいのだ。僕はその事を何もして上げられなかった叔父として強く望んでいる。 1月1日 正月 大晦日の夜僕は病室でテレビを見ていた。番組は『無人島0円生活』、よゐこの濱口と有野が無人島に渡って自給自足の 生活をするというやつだ。濱口が海に潜って魚を突き、有野は流木を集めて生活の場を作る。二人とも玄人肌の活躍だ。 その有野も時には食材採りに出かける。山菜採りに魚釣りに海藻拾いと小粒だがどれも有野らしい。僕はそんな二人の 無人島生活を憧れの目で見ている。 僕がもし元気だったら息子たちと1週間ぐらい暮らしてみたかったもちろんよゐこの様に軽装備という訳にはいかない。 テントに調理用具・ライター・米・小麦粉・水・調味料それに鋸や斧などそれなりの装備は備えていく。でもおかずは 現地調達、魚を釣ったり貝や海藻を採ったり食べられる野草を探したりしたい。もし魚が大量にゲット出来たら干物作りだ。 出来れば小屋やいかだも作りたいし古来からのやり方で火もおこしたいし海水から飲める水も作ってみたい。思いは いくらでも膨らんでいくのだが・・・・・。 番組が終わってしばらくすると0時、新しい年の幕開け。夜勤の看護師さんが「あけましておめでとうございます。」と 新年の挨拶に来た。僕も目で挨拶を返した。遠くで除夜の鐘ならぬ花火の音が響いていた、「ハウステンボスの花火」だと 看護師さんが教えてくれた。 それにしてもここ数年正月が来ても新しい年・正月を迎えたという気がしない。僕にとってはいつもの様に昨日が過ぎ今日が 来たというだけの事だ。いつからこう思う様になったのだろう・・・・・、おそらく食べ物を口にしない様になってから。 外に出歩けなくても季節を実感させてくれるもの、それが食べ物。僕はそれまで年越し蕎麦に大晦を、お雑煮にお正月を 感じ取っていたのだろう。年末年始も僕にとってはいつもと何も変わらない日々、でも家族にとって忙しいし新たな年を 迎える時、そのギャップが僕が年末年始を病院で過ごす要因の一つにもなっている。 それにしても僕も今年50になる。「人間50年、この世の春を比ぶれば・・・・・」の信長の時代ならば人生の終焉に当たり 生きてきた証を振り返る時期だ。もっともこの僕は過去の思い出を振り返ってばかりいるのだが。 最近嫁さんが時折「もう50なのよ!。」とぽつりと呟く。そうなのだ、確かに僕の目に入る人、両親・嫁さん・ 訪問看護師さん・友人らは年々年を重ねているし子供達も日々成長している。が、僕の心の中の時計は止まったまま、 いったいいつ止まったのか?。 それはおそらく僕が鏡を見れなくなった時、2000年の7月に転倒して右上腕を骨折した時あるいはもっと前鏡の前で自分で 髭剃りや歯磨きが出来なくなった時。そうなるともう10年ぐらい前になる。それ以来僕の心の時間は止まった。身体の老いも 感じる事が出来ないでいる。普通の人なら50ともなればやれ五十肩やらやれ運動したらすぐ息切れするとか言いながらで 身体で老いを感じていくものなのに、僕は老いを感じる前に一足単に動けなくなってしまった。僕だけ心と身体の時が 止まってしまっているためか回りとの間に違和感を覚える事もたまにある。 |