2007年



12月
12月28日 パソコンでもしようかな
入院して1週間が過ぎたが相変わらず何かしようというきが起きてこない。やはりリハビリが受けられないのと車椅子に 座れない事、それにこの1週間のごたごたが気分が高揚する事を妨げているのだろう。嫁さんが何度か「パソコン出して おこうか!。」と言ってくれるのだが僕はノーと目で合図した、やらないものを出していてもしようがない。結局この1週間は テレビもどうしても見たいものだけを見て何もせずに天井の模様を見ながらボーっとして過ごしていた。
身体は抗生剤の点滴と従量式の人工呼吸器ニューポートがよく効いているのか入院してから熱も出ず至って良好、 その点滴も水曜日の血液検査をクリアして昨日取れた。だから心と身体のギャップがなお更大きくなってきていた。
今日の僕らの病室の受け持ちは看護師Tさん。Tさんが朝の挨拶に来た時にTさんの顔を見て何故だか急に頼んでみようかなと 思った、「後でパソコンを引出しからだし使えるようにして。」と。
2002年10月に気管切開して以来ここの病棟には毎年3回ほどお世話になっている。毎年少しずつ看護師さんが入れ替わるので 気管切開した当時からいる看護師さんは2-3人になってしまったが、今でも半数以上の看護師さんたちと コミュニケーションはかなり取れる。しかし気兼ねなくある程度込み入った事まで話をしたり頼み事が出来るのは3-4人だ。 Tさんはその中の一人だった。もし他の看護師さんに同じ事を言ったとしてもほとんどが「分からないから(作業療法奉仕の) U先生に連絡を入れておきます。」とでも言うだろう。でも今どうしてもパソコンをしたいという訳ではないのだから U先生にまで出張ってもらう必要はない、嫁さんが次に来た時に頼めば済むのだから。今日たまたまTさんの顔を見てTさんが 僕の病室の受け持ちだったから言ってみようと思ったのだ。
午後3時前担当の患者さんたちのケアが一通り終わったようでTさんが僕の傍に来て「パソコン出す?。」と聞いてきた。僕が 素直にうなずくとTさんはすぐにパソコンを引き出しから取り出して接続してくれた。さらに「今からパソコンやる?。」と 聞いてくれたので目で「ノー」と合図した、が「起動はしておいて」とお願いした。
それから1時間ほどたった頃Tさんが「何か用はない。」と聞きに来てくれたので「パソコンをしたいのでマウスを セットして。」と頼んだ。1週間振りに足で感じるマウスの感覚はやはり難しかった。慣れるまでまたしばらくかかるだろう、 でもようやくパソコンでもしようかなという気になってきたようだ。

12月22−27日 嘔吐・下痢症?
入院した日に主治医から「経管栄養を今回は微粒元素入りの物に変えてみますか?」。と提案があった。僕は一も二もなく 飛びついた。というのは僕は朝夕経管栄養としてエンシュア250ml×2缶/250kcal×2と白湯100mlそれに薬で一度に650ml 近くの水分が胃袋に入る。そうすると僕の胃袋は「もう腹一杯だ」と悲鳴を上げている。昔はビール2リットルとかなりの 量のつまみを食らっても余裕しゃくしゃくの胃袋だったのに、全く情けない話だ。一方微粒元素入りの経管栄養は200ml× 2箱/300?kcal×2で白湯や薬をいれても550mlしかない。100mlも減ってくれれば僕の胃袋も大喜びだ。
ところがその日の夜・翌日の朝と微粒元素入りの経管栄養を流したところ、1時間ほどして便意をもよおしたので看護師さんに ゴム便器を据えてもらった。すると僕には珍しく丁度良い硬さの軟便が出た(僕はこれ以上硬いと自分では出せない)。 そして夕方の経管栄養を終え30分ぐらいしたところでまた便意。この時は最初のチョビットに形があったとは思うが残りは 見事な水溶便だった。この時「微粒元素入りの経管栄養は僕に合っていないのでは、エンシュアに戻した方が 良いのでは。」と思ったのだが、主治医が今日明日と出張で不在だと聞いていたので連絡を取るのは止めにした。
しかし翌朝経管栄養を取るとすぐに便意をもよおしたので看護師さんにゴム便器を当ててもらうとまたもや水溶便、そして 昼の経管栄養の途中でもまたまた水溶便。そこで昼の経管栄養を中止して看護師さんに「今の警官栄養は僕に合わない 様なのでエンシュアに戻したいと先生に連絡して。」とついに頼んだ。主治医からはすぐに了解の返事が入った様だったが、 それと同時に僕は嘔吐・下痢症感染被疑者になった。
警官栄養をエンシュアに代えた後はその夜・翌日と何とか無事だった。でもガスがいつもより頻繁に出ていたのでガスと 一緒に便が出やしないかとひやひやしていた。そして翌日の火曜の昼過ぎ、ガスと一緒に便が今度は出ると強く感じたので 看護師さんにゴム便器を当ててもらった。そして・・・・・ガスと一緒にやはり出た、僕の感覚では便汁がちょっとだけ。 しばらくゴム便器を当てたままにしていたが便意は結局襲ってこなかった。 しかしこの便で僕は嘔吐・下痢感染者になった。
この嘔吐・下痢症感染者決定の過程やその後の僕との諸々も想いの違いもところどころに出て来るようになったので、僕は もう『籠の中の鳴こうとしないカナリヤ』になろうと決めた。
そんな夜僕は滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を元にしたNHKの人形劇『新八犬伝』の事を思い出した。僕がまだ小学生の時 いつも楽しみにして見ていた人形劇だった。大学生の時も本屋で『新八犬伝』のタイトルを見つけた時はすぐに買って 読んだし、去年の正月放送された八犬伝の時代劇スペシャルも見た。
ストリーは、
ある闇夜の日、「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」という文字が浮き出る八つの不思議な玉が大空に飛び散った。それから 十数年後、その文字の浮き出る不思議な玉と「犬」のつく姓を持つ八人の剣士が幾多の苦難を乗り越えて館林城の伏姫の元に 集い、強大な妖力を持つ玉梓(たまずさ)の怨霊と戦って勝利し館林に平和をもたらすというものだ。
この物語に最初から登場する好青年の剣士犬塚信乃、僕はこの青年の持つ心根には到底なれないし近づけそうにもない。

12月21日 入院
レスパイト入院前日の晩にまた具合が悪くなり更に諸々の不安と不満が重なって、ついにお袋を呼んで「今からすぐに 入院したい。」と言った。そこに丁度戻って来た嫁さんに「もうこんな時間(午後10時過ぎ)では病院の方でも受け入れ 体制が取れるかどうか分からないし救急車を呼んでも県外の病院まで運んでくれるかどうかも分からない。ここはひとまず T先生(我が家ではT先生のことをホームドクターと勝手に思っている)に来ていただいて診てもらったらどうか?。」と 説得を受ける。
T先生がついたのは午後11時?頃、そして嫁さんとお袋が僕の状況を説明した。その時お袋が発した「少し吐いた。」の ひと言が入院後どれ程大きな影響を与える事になるとはこの時誰も想像すらしていなかった。それにあの時僕は実際には 嘔吐(吐いて)などしていなかった。
僕は体調があまり良くない時に顔を上に向けたり左を向いたりすると、また枕ののどに対する当たり具合などでよく 嚥下反射を起こす。カニューレ交換の時期が近くなるとなお更だ。そんな時は顔を右に向けるとすぐに収まる。
あの時もそうだった、顔を左上に向けていたので嚥下反射が始まり口の奥に箸でも突っ込んだようにオエーっオエーと なった。すぐにお袋に顔を右に向けてもらい嚥下反射は収まったのだがその時口の中に溜まっていた唾液をお袋が 添えてくれたティッシュペーパーに出した。その様子を見てお袋は「少し吐いた」と表現してしまったのである。だから僕の あれは嘔吐などではなかった。論より証拠、ちょっと前まで胃ろうで流し入れていたエンシュアは食道にさえも上がっては こなかった。
そんな話をした後でT先生は「筋肉注射を打ちますか?。」と僕に聞いた。そこで「効用は?。」と僕が尋ねるとT先生は 「点滴(の抗生薬)程ではありませんが今飲んでいる抗生剤よりはずっと効きますよ、でもかなり痛いけど。」と丁寧に 答えてくれた。僕は筋肉注射を打ってもらった。その抗生薬の筋肉注射が効いてきたのかはたまた帰える際のT先生の 「様態に変化が起こる事があれば遠慮しないで電話ください、いつでも駆けつけれる準備はしておきますから。」という 言葉が安心感を与えてくれたのか、しばらくすると僕は眠りに落ちた。
入院する日の朝気分も少し良くなりパソコンをしてみようかなという気になったので、コールを押してお袋を呼びパソコンを セットしてもらう。入院する前にパソコンで済ませておきたかった事は年賀状の印刷や友達へのメール・関係者への 年賀状時間指定メールやクリスマス・正月のグリーティングカードの作成などまだまだ残っていたが、Aさんへのメールを 最後の仕事?にした。Aさんへのメールはこのところサボっていたので「行ってきます」だけはどうしても 言っておきたかった。そしてこのメールの中についでに僕の最近の状態の変化も記載してBBで主治医にも 送信しておく事にした。こうする事で僕が病院に着いた時に主治医が少しでもスムーズな対処が出来るのかななどと 思ったから(もちろんT先生からも紹介状をいただいていた)。
病院に着くとまず痰の吸引をしてもらってからレントゲン・CTの検査を受けて病棟・病室へ向かう。病室での場所はいつもの 所、日当たりは良いが冬は昼と夜の寒暖の差が激しくてちと厳しい。身の回りの整理を済ませてもらったところへ丁度 主治医が来て、カニューレ交換が終わった後画像を見ながら説明を受けた。肺の画像には右下に白い影があり 「肺炎」という事だった。道理でいつもの熱発と違った訳だ。 でもこれで今後肺炎にやられた時には分かるというものだ。
主治医によると肺炎の治療のために従量方式の人工呼吸器に代え抗生剤の点滴を打つとの事。実際に従量式の 人工呼吸器ニューポートに代えてみると・・・、バイパップ(プレッシャーサポート方式)に慣れている僕の肺には 膨らみ過ぎるし空気が送られてくるのが待ち遠しい。その事を主治医に告げ調整してもらった。それでも動脈血液検査の 結果「血液のペーハー値が少し高い方に振れているから呼吸回数を減らすか換気量を減らす必要があるのですがどちらに しますか?。」と聞くので、僕は即座に「換気量。」と答えた。これ以上待ち遠しいのは堪らない。でもこのまま従量式の 人工呼吸器ニューポートを着けていたら自発呼吸がかなり弱ってしまうだろうなあ!。
しかし肺炎という事は入院も長くなるだろうし完治するまではリハビリも受けられないだろうし車椅子に座る事も 出来ないだろう。今回入院している間に身体がどれくらい硬くなってしまうのか・・・・・、 大いに不安を持っている!!。

12月20日 年賀状
年賀状は日本の伝統である年始の挨拶を厳かに伝えるという事以外に、僕の勤務時代の知り合いでお世話になった 方々に僕が今日も無事でいる事を知らせる大事な便り。でも今年は僕の心の中に色々な心情が渦を巻いていて気持ちが 乗ってこない。いつも忙しそうにしている嫁さんに代わって年賀状ぐらいは僕が、と思ってこれまでやってきたのだが、 今年は嫁さんに任せようかなという気持ちも鎌首を持ち上げてきている。それに職場を離れてもう7年半、「もう潮時 なんじゃない、相手も迷惑しているよ。君と違って時間が止まっている訳じゃあないんだから。」と言う声も心の中で 聞こえてくる。
今年の年賀状のサンプルはもういくつか作っているし、これと今年用の宛名(どうせ今年来た年賀状と住所を 付き合わせてもらった方が良いんだし)を嫁さんにメールで送って嫁さんの判断・僕とは違う感性で出してもらって いいかなとも思う。熱も引かないし身体も結構きつい。解熱剤で熱が下がっている合間に年賀状の印刷は 出来ない事もない。今年ぐらいは嫁さんに任せようかなあ。

12月19日 パソコンデータのバックアップ
明後日からしばらくの間レスパイトで入院する、年末年始は去年に引き続き病院で過ごす事になる。その前の数日間は 僕も結構忙しい。と言っても僕に入院の準備がある訳ではない。年末年始の間に僕がパソコンでやるべき事を思い付く限り 済ませてからパソコン内のデータのバックアップを取るためだ。1年程前から入院する都度に用心?のために データのバックアップをする事にしたのだ。
でもこの作業、データの整理・インポート等あって結構時間がかかる。かといって早めに始めたら積み残しが出るから そうもいかない。時間の見極めが結構難しいのだ。
でも月曜日から出た熱がすっきり下がりそうにない今回は動ける内にやるしかない。出来れば入院する前日の明の夜遅く 日全てを済ませてからバックアップを取りたかったのだが、今回は積み残しが出ても仕方がない。がんばろう!。

12月17日 久しぶりの発熱
今朝6時前からパソコンに向かう。その時はあまり何も感じなかったのだが、一区切り付いたところでパソコンを止め 朝の経管栄養を落としながらいつも通り寝てしまい目が覚めたら身体が重くてだるく間接も少し痛い。これは熱が出るなと ピンと来た。訪問看護師さんが着くとすぐに「今から熱が出る。」と告げ体温を測ってもらうと体温計の表示は36.3℃と 意外に低い。こんなはずはない様な気がしているのだが・・・・・。
今日のケアは洗顔・清拭・排泄、看護師さんが「清拭します?」と聞く。今日手伝ってくれるヘルパーさんはFさん、大概の 変化には対応出来る人なので「手早くして欲しい。」と答えた。
ケアが終わってもう一度体温を測ってもらうと36.9℃、やはり熱が上がってきた。「これはもう解熱剤を使って汗をかいて 下げるしかない。」と思い、訪問看護師さんに胸と背中にタオルを挟み寝汗対策をしてもらってお袋に「嫁さんが帰って来たら 熱があるから解熱剤を使う。」と伝言を頼む。
ところが当の嫁さんがなかなか帰ってこない(後で聞いたらクリスマス対応をしていたという事だった)。僕はいつ嫁さんが 帰って来て薬を使ってもいいように経管栄養を入れていたのだが。3時になって訪問看護師さんたちが車椅子に 座らせに来てくれたので体温を測ってもらうと37.4℃、「薬を入れて。」と頼む。普通の人にとっては37.4℃では解熱剤を 使うほどの体温ではないのかもしれないが平熱が36℃未満の僕にとっては意外と辛いのである。
薬が聞いてきて身体が少し楽になった夜パソコンに向かった、どうしても今日中に済ませておきたいメールが あったためだ。それにしても今回の発熱は今までとどこか違う、解熱剤を使っても汗がすっきりとは出ないのだ。 いつもなら汗をびしょびしょにかいてそして熱が下がってそれですっきりしたものだ。でも今回は汗を思ったほど かかないし熱の下がり方がもうひとつなのだ、このまま無事熱が下がってくれればいいのだが。

12月15日 長崎県北地区ALS患者・家族の集いに参加
今日は午後からいつもお世話になっている病院で長崎県北地区ALS患者・家族の集いが催される日、でも痰がいつもより かなり粘っこいし身体も重い。こんな日は後でよく熱が出るので気も進まないのだが、僕が参加する事を条件に隣町の MMさんも参加する事になっているのだからと嫁さんに強い口調で説得され重い腰を上げた。
同行してくれるのはいつもお世話になっている訪問看護ステーションのM所長とFさん、僕が外出する時はやり繰りして ほとんど同行出来る看護師さんをつけてくれる訪問看護ステーションだ。中にはもっと大人数の看護師を抱えているにも かかわらずやり繰りもたまの外出支援の検討すらしない訪問看護ステーションもあるという世の中なのに。理解ある 訪問看護ステーション・看護師さんたちに囲まれ支えていただいている僕は幸せ者だ。本当にありがとうございます。
定刻を少し過ぎた頃今日の会場のある病院の玄関に到着、それでもスタッフ(病院の看護師さんたち等)は玄関の 寒い中で待っていてくれた。お世話になります。準備を整えて早速車椅子で会場となっているリハビリ室に移動する。 このリハビリ室には7年前から約2年通ったものだ。懐かしい。
リハビリ室に入ると集いはもう始まっていて参加者患者・家族の自己紹介が行われていた。会場には50人以上は いるだろうか、その大部分が患者・家族のようだ。僕は佐賀県のALS患者・家族の集いにも5回以上参加しているが 参加者は極めて少ない。当然患者の参加はまれで人工呼吸器装着者はほとんどの会場で僕一人。今日は少なくても 4人はいらした様だ。佐賀県と長崎県のこの参加するという意識の差はどこから来ているのだろうか。県民性だけで 済ませていいものかどうか・・・・・。
自己紹介の内容に耳を傾けているとどうやら僕やこの病院に入院しておられるM先生が今日の参加者の中で病気の 年長者の様だ。聞こえてくる内容のほとんどがこれまで僕が経験してきた事だった。皆さんが口にしている事は、 胃ろうを創る前後・気管切開する前後の本人の状態と心境、気管切開後人工呼吸器を着けて在宅療養に移行する時の 準備と家族および介護者の心構え、本人・家族の不安・苛立ちの解消法や経済的な問題等だった。ほとんどの課題は 他の体験者(患者・家族)や嫁さんが説明してあげていたが、時には言葉足らずかなと思えるところもあった。でも今の 僕にはこの集いの時間内に説明する術を持っていない・・・・・。
尋ねられて説明に最も苦慮するのは経済的な問題である。出来る限り社会福祉制度を利用する様にと言うしかないのだが、 日本の社会福祉制度は全て申請主義だからこれが中々難しい。まずどんな社会福祉制度があるのか見つけるのが難しい。 次にどこに申請したらいいのかが分からない。僕らも厚生障害年金の存在を長い間知らなかったし申請手続きには かなり苦労した。それに集いの中でも出ていた事だが、所定の窓口で相談しても受け答えをしてくれた方がその道の プロフェッショナルとは限らない。不確かな説明をする人もいるのだ。僕も厚生障害年金の説明をしてもらいに 社会保険事務所に出向いた時に不確かな説明を受けたひとりだ。
経済的な問題に明快に答えてあげるには患者本人およびご家族の利用している社会福祉制度や所得控除の内容を 詳しく聞かなければ対処できない。社会福祉制度で受給出来るのは介護サービス(最大1割負担)だけではない。 障害年金・医療費助成(特定疾患・身体障害者手帳)・障害者手当・各種の減免措置や費用助成等金に絡むものも たくさんある。それに年末調整の所得控除だって色々な種類がある。所得控除だって塵も積もれば山となる。本来ならば 社会福祉制度全般に精通し詳しく説明が出来るプロフェッショナルを公的機関に置いておくべきだと思うのだが・・・・・。 今は自分の専門の社会福祉分野しかご存じない専門職が公的機関には多すぎる。
集いが終わると日本ALS協会長崎県支部の支部長でもあるIさんに挨拶をする。Iさんとの面談は昨年のこの集い以来だから 1年振りである。思っていたより症状が進んでいない様なので安心した。Iさんとは話したい事があったのだが僕からの 話は文字盤を使って訪問看護師さんに伝えてから通訳してもらっている訳だし僕も伝えてもらう言葉を短くしようとして 話をはしょってしまうから上手く伝わらない。そこで「メールを入れる。」と約束して別れた。Iさんの別れの言葉は 「また来年もここで。」、その言葉に様々な想いが感じ取れた。僕がIさんと挨拶を交わしている間嫁さんは嫁さんで 色々な方と挨拶を交わしたり相談を受けたりしていた様だ。それからしばらくして看護師さんたちに見送られながら 病院を後にした。
家に着くとすぐにベッドに移乗してもらって着替えを済ませた。それから念入りに痰の吸引をしてもらったが 相変わらず痰の出・切れが悪い。それにひざが痛かった、久し振りに4時間余り車椅子に座っていたからだろう。 そこで上の息子を呼んで足腰の屈伸運動をしてもらったら、ようやく人心地ついた。また懸念していた熱も出なかった。
今回も外出で訪問看護師さん二人にとてもお世話になった。本当にありがとうございました。またお願いしますね!。

12月12日 病院の看護師さんが訪問
午前中いつもレスパイト入院でお世話になっている病院・病棟の看護師さんたちが訪ねて来た。自宅療養に移る患者さんの ケアや準備の検討の参考にしたい?という事の様だ。僕の在宅療養の様子を見たところでどこまで看護師さんたちの 役に立つのかは分からないが、病棟の看護師さんたちが色々なグループに分かれて自宅療養に移行したそれぞれの 患者さん宅を訪問しているという事だからそれぞれのケースを持ち寄れば良い検討が出来るだろうし良い資料が 出来上がるだろう。
訪れたのは病棟の看護師さんたちIさん・Kさん・Nさん、ほぼ4ヶ月振りに会う、なんだかんだ言っても懐かしい。 看護師さんたちが帰ってから嫁さんが「若い女性が来るといつもと違ってニコニコしていたね。」とを言う。僕はそれ程 違う事はなかろうにと思うのだが。

12月11日 コールに対する認識の違い
僕らにとって痰が詰まるという事は、健常者が身体を縛られて身動きが取れない様にした上に顔に濡れタオルを 掛けられた様なものなのに。そんな生き死にのさなかに不自由な身体でコールを押しているかもしれないのに。家でも 病院でもコールに対する認識の違い・危機感の違いを時々感じてしまう。
僕の心臓はコールが鳴らせない事に気付いた瞬間ドクンドクンと異常な音を立て始めそして鼓動が凄まじく速くなる、 その様子を巧く筆舌する事は僕には出来ない。ただ言えるのはその瞬間に死の恐怖が鎌首を持ち上げるという事だ。 この筆舌し難い気持ちは体験した事のある人以外には分かりはしないだろう!!。

12月11日 身体がだるい
朝起きたら身体がだるい、朝一番からはパソコンをしたくない程に。それにひざや足首も痛いしひじも少しだるい。 こんな事は久方ぶりの事である。昨日主治医の先生との間でほぼ毎日連絡を交わしているALS介護支援システムの中で 記載してあった今流行しているという嘔吐・下痢症にかかり始めたか、気持ちの落ち込みがついに身体に出始めたか。 ともかく家にいて朝からパソコンもせずテレビも見ず訪問看護師さんが来るまで何もせずにじっと寝ているのは 何年振りだろう。
何かが足りない・何もしたくない・何をすべきか分かりたくない、そんな気持ちで家にいるのも結構辛いものだなあ。

12月7日 ライトプレーンを作り始めたよ
上の息子が自分からライトプレーンを作り始めた、嬉しい事だ。昨日夜遅く(11時)までかかって後は翼に和紙を貼るだけと いうところで見せてもらったら気になる点がいくつかあった。ひとつは垂直尾翼がやけに大きい気がしたのだが設計図の 通りの大きさなのかなあ?。もうひとつは翼が少しねじれている、特に水平尾翼が。これでどんな影響が出るのか僕には よく分からないが、和紙を貼る前に言うべきか飛ばしてみてからにするか?どうしようかな!。
今日は下の息子もライトプレーンを作り始めた(実は昨日から下の息子も作っていた様だった)。嬉しいー!。何とか ある程度は飛ぶ様にしてあげたいが、紙(orスチロール)の翼のライトプレーンはやった事がないからどうなることか。 作るのは貼り付けるだけだから簡単だろうが上手く飛ばすにはどうすればいいのかどこをどう調整すればいいのかは やってみないと分からないなあ。
夜までには息子たちのライトプレーンは出来上がった様だった。持ってきて見せてもらうとどちらも初めて作ったにしては 良い形をしていた。部屋の中で飛ばしてみると上の息子のライトプレーンはある程度スムーズに飛んだ様だが下の息子のは 前から落ちた様だ、「全然飛ばない!。」と騒いでいた。そこでもう一度持ってきてもらって見ると紙の翼はやはり重くて 強度不足の様だ、飛ばすと主翼が上に折れ曲がってしまう様な気がする。それに主翼がまっ平らだ、これでは揚力が 生まれてこない。少なくとも主翼だけは紙からスチロールの翼に変えるべきだろうし主翼に揚力が生まれる様に 弧を描くように変形させるべきだろう。でもこの事を小学3年の下の息子に理解させるのはまだ難しい。そこでお兄ちゃんに 伝えて一緒に改良してもらう事にした。ついでにお兄ちゃんのライトプレーンにもひと言「翼に霧吹きで水を降りかけると 翼がピーンと張るよ。」。これで2人のライトプレーンがもっと飛ぶ様になれば良いのだが。

12月4日 口腔クリニック
今日は歯医者さんが来てくれる日、知り合いの歯医者さんが2週間に1度歯科衛生士さんを派遣してくれている。 おかげでここ数年間歯が痛んだ事がない(1年ほど前歯茎が腫れて痛くなった事はあったが)。ありがたい事である。
口が段々大きく開かなくなってきている僕の口腔クリニックはさぞやりにくくて大変な事だろう。でも歯科衛生士の Yさんはやさしく声掛けしながら根気強く行ってくれる。頭が下がる思いがしている。そんなYさんに僕は全幅の信頼を 置いているのだが口の方が嫌がって勝手に閉じようとする。本当に申し訳ない事だ。
僕が物を口にしない様になってからもう2年?が経つ。何も食べなくなって嚥下機能や口を動かす筋肉が急速に 衰えた。でも仕方のない事自分で選んだ道だ、食べる時間より車椅子に座る時間を選んだ結果だから。しかし毎日 2時間を目標にして車椅子に座れなくなった今、この選択が正しかったのか・・・・・?。それにしても何も口にしていないの だから口の中ぐらいは清潔を保ってくれても良さそうなものなのに、食べる楽しみを奪っておいてここまでするとは 不公平で弱い者いじめだよ神様。まるで今の政府みたい。

12月3日 野球・星野JAPAN 北京オリンピックへの道
昨日の野球日本代表・星野JAPANの韓国戦は壮絶で手に汗を握る試合で、日本・韓国どちらが勝ってもおかしくはない 試合だった。その中で日本代表は全員が死力を尽くして戦い4-3の僅差でものにした。この試合のすざましさ・勝って 当たり前だと思われている試合に勝つ事の難しさは試合後の星野監督のコメントと笑顔・ほっとした顔が全てを 物語っていた。それに野球はその歴史の長さからアジアでは勝って当たり前だと言うが、韓国代表も台湾代表も強いし いい選手がそろっている。特に韓国代表はほかのスポーツの試合でもそうだが日本戦にはすざましいばかりの執念を 見せる。兵役免除もあるのかもしれないが日本に対する歴史観がそうさせているのだろう。インローのボールを 逃げないでぶつかっていくところにこの執念がよく出ていた。でもこの日の日本代表の執念も負けてはいなかった。そして 見事に勝利を勝ち取った。久々に感動を与えてくれるすばらしい試合だった。
今日の台湾戦も結果は10-2だったが決して楽な試合ではなかった。
1回の表1番西岡がセカンドエラーで出塁、川崎が慎重に送りバンドを決めた後3番青木が微妙な判定でアウト(僕には 1塁セーフに見えたが)、そして4番新井がタイムリーを放ち先制。ここまでは良かったのだがこの後はチャンスは作るものの 台湾の先発ピッチャーに要所要所を押さえられているうちに調子に乗せてしまいだんだん打てなくなった。一方日本代表の 先発はエースダルディッシュ、だが調子は今ひとつで毎回の様に先頭バッターの出塁許すピンチの連続、でも何とか 押さえて台湾に得点を許さずにいた。いやなムードが漂い始めた6回の裏、ダルディッシュが3番にヒット4番にホームランを 打たれ1-2と逆転を許してしまう。しかし日本代表は全く気落ちする事はなかった。ダルディッシュが後続をぴしゃりと 押さえた後の7回表、勝ちを意識し始めた台湾の先発ピッチャーから村田・稲葉が連続ヒット、そこで星野監督が動いて 2塁ランナーを宮本に代えて里崎に送りバンドを命じる。ところが里崎のバンドはピッチャー前に転がってしまう。 ピッチャーは迷わず3塁に放ってホースアウトで万事休すかと思ったが、これを救ったのがキャプテン宮本。素早い スタートと上手い走塁でフィルダーチョイスにしてしまった。ノーアウト満塁で星野監督が勝負をかけた、サブローに スクイズを命じたのだ。バッターのサブローも3塁ランナーの宮本もこの星野監督の期待に応えた。サブローはきっちりと スクイズバンドを決め宮本がホームインして2-2の同点。さらに1アウト2・3塁で西岡・川崎が連続タイムリーを放ち 押せ押せムードに変わった。結局この回6点を奪い7-2でほぼ勝利を手中にした。後は7回・8回・9回をダルディッシュ・ 藤川・上原がきっちりと押さえ10-2で台湾に勝利した。
この台湾戦のMVPはなんといってもあの場面で2塁代走・スクイズという勇敢な決断をした星野監督だろう。それに 星野監督の期待・起用に応えた選手たち・我慢と気迫の投球を続けたダルディッシュだろう。
この台湾でのフィリピン・韓国・台湾に三連勝した事で野球の北京オリンピックへの道が堂々と開けた。北京 オリンピックでも今回の試合で見せた様な執念・気迫溢れたプレイが出来れば、金メダルへの道も開けるだろう。



11月
11月30日 今年最後の紅葉
今日嫁さんが通院の帰りに町内の紅葉の名所に立ち寄ろうとしてくれている様だが、今日の僕はなんだか気が 乗らなくてさえない。だから自動車に移乗してもらって通院の途中に車窓から外を眺めていてもいつものように景色が 新鮮には入ってこなくて色付いている山々を見ても気持ちは高揚してこなかった。
病院についてもフィルムスイッチはU先生の手元にないと聞いたし(応急手当は一応してもらって今は何とか快調に 動いている)レスパイト入院の期間は長くなりそうだし僕のテンションは一向に上がっていかなかった。まあ今回の レスパイト入院が長くなりそうなのは、僕の意に反してはいるが人口呼吸器を代えるという事だし何より僕が年末年始を 病院で過ごしたいとこだわるからだ。
僕が年末年始病院にいる事を選択したいのは年末年始の家族の行動を妨げたくはないからだ。僕が家にいると誰かが必ず 家にいなければならないからだ。子供たちが「どこかに行きたい、連れて行って!。」という声を聞くのは本当につらいし 寂しいものだ。僕のクリスマスイブから年末年始はほとんどの時間どうせ独りでテレビを見ているだけ(どうせ何かを食べれる 訳でもあるまいし)、家にいても病院にいても僕には余り違いはない。せめて訪問看護師さんでも来てくれたなら家族も ちょっとは出かけれるし僕だって気もまぎれる、でも年末年始5日間お休みはちょっと厳しい。子供たちの寂しい声を 聞くぐらいなら自分が寂しい方がましである。
診察が終わると嫁さんは町の相撲場(歴史資料館?)に紅葉を観にそれから特別天然記念樹(?文部省の文字が見えた)の 大公孫樹(おおいちょう)の黄葉を見に連れて行ってくれた。相撲場の紅葉を見て嫁さんたちは「去年より赤が鮮やかに見えるね。」と 言っていたが、僕は去年の方が相撲場全体にコントラストがあって美しく思えたのだが。時期の問題化それとも気持ちの 問題か?、11月末日ともなると木々の葉っぱもかなり焼けて枯れかけている、どうやら少し遅過ぎた様だ。ただ自動車が 止まった目の前にあった楓だけは鮮やかに赤くて小さい一杯の掌の中に少しだけだが黄色い掌も残っていて赤と黄色の コントラストが綺麗だった。
大公孫樹はテレビでも紹介されていたから色々な人が見に来ていた。大公孫樹の樹齢はどのくらいなのだろうか、木の 胴回りの太さから見てもかなりのものだ。大公孫樹に実際に腕を回してみた訳ではないからよくは分からないがもしかしたら 屋久島の縄文杉の半分ぐらいの径はあるかもしれない。嫁さんが「見事な黄葉だった。空の青さと相まって銀杏の黄色が 映えていたね。そう思わない?。」と言うのだが、自動車に乗っている僕のところからは木の根元しか見えないし身体を 前に倒す事も出来ないから見上げて銀杏の木の葉の黄色く光り輝く様を見る事も出来ない。ただ大公孫樹に続く通路の 黄色い絨毯とドン塀の風景には少しだけ感激した。後は嫁さんの撮ってくれたデジカメの画像を見ながら過ぎ行く 秋の紅葉をしんみりと味わうだけだ。

11月29日 右手薬指で押すスイッチがまた動かなくなった
火曜日の夕方になって突然右手薬指用のスイッチが反応しなくなった、さっきまで感度が良過ぎて呼び出しに使用している (充電対応の)コードレスインターホンがしょっちゅうビィー・ビィーなっていたのに(指のスイッチを長押しすると 呼び出し用のコールがなる仕組みになっている)。仕方がないのでこの日の夕方から足でトラックボールマウスだけを 使ってハーティラダーで入力したが久しぶりの事でなかなか大変だった。
この指用のフィルムスイッチはやはり2ヶ月が限度?、もちろんこのフィルムスイッチは元々がパソコンの入力用ではないので このフィルムスイッチの耐久性から見ると使い過ぎなのだろうが。金曜が通院日なので作業療法士のU先生の手元に予備の フィルムスイッチはあれば何とか修理してもらえるようにお願いする事も出来るのだろうが、ハーティラダーにはメールの 設定をサボってしまっているのでU先生に直接連絡を取るのは難しい。せめてメールの送信設定だけはしておけば 良かったと思うのだが今となっては後の祭りだ。
大至急作りかけになっている手の指用のスイッチを作りたいのだが、僕の応援者であり物を作る時僕の手となってくれる 唯一無二の存在である上の息子が風邪ひきさんでひどい咳をしているので如何ともし難い。せめて今ハーティラダーで 出来る事息子にどのように作ってほしいかを書いておく事にしよう。絵に描けないので言葉ではかなり分かりにくいだろうが 仕方がない。最悪この文章で息子に手でのスイッチを作ってもらわなるかもしれないのだから心を込めて出来るだけ詳しく 書く事にしよう。
ところで今日の午前中のケアの時に「右手用のスイッチが使えなくなった。」と訪問看護師さんに話したところ、 訪問看護師さんが手用のスイッチを二日振りに呼び出しコール(○ボタン)につないで見たら、なんとちゃんと音が するではないか(でも午後からの車椅子に座らせてもらう時には最初はまた鳴らなくなっていたし少し経ってからまた 試すと今度は反応したが)。僕は始め長時間のスイッチの使用で静電気が貯まってしまって誤動作でも起こしているのかとも 思ったが・・・・・、どうやら見えない部分で接触不良を起こしている様だ。
パソコンにつないで使ってみたら今はまだ反応しているがいつまた動かなくなるかわからない。何とか今度 レスパイト入院する時までごまかしながら使えないかなと思っている、それが出来ればU先生にゆっくり修理を お願いする事も可能かもしれないし・・・・・。

11月21日 改正入国管理法の施行
昨日から改正入国管理法が施行され日本に来た外国人は顔面の撮影・指紋捺印と照会が行われる様になったという ニュースが流れた。日本国内における外国人による犯罪の急増と犯罪の急増とテロを未然に防ぐため(テロリスト 入国阻止)の水際作戦という事だが、賛否両論がある様だ。外国人による犯罪を減らす事には有効な手段になる かもしれないが、もし当局が犯罪と無関係な外国の方の(採取した)顔写真や指紋をデータベース化しているとすれば それは人権蹂躙である。政府は同時に正しくそしてまともに働いている海外から来た人たちの生活や労働環境を改善し 保護する事が大事かつ急務だと思う。また今現在日本の生活に長年溶け込んでしかも日本人と同じ様に義務を 果たしてきた外国人家族を、希望に反して強制送還する事などない様法律の改正も視野に入れて政治家に検討して 欲しいものだ。
先日これもニュースで国民健康保険と国民年金を連動させる法律も施行されているというのを見た。なんでも国民年金 未納者に対しては国民健康保険申請・継続時に短期の国民健康保険証しか発行しない事が出来る裁量を市町村の 役所に授けるというものだった。裕福で国民年金の保険料を払えるのに払わない人に対してならいざ知らず、その日 暮らしの国民健康保険だけはと思って何とか支払っている人にとっては全くもって酷な法律を作ったものだ。その日 暮らしをしている人に将来の事など考えている余裕があろうはずがない。この法律をむやみに行使する事はまるで貧乏人は 病院などかからず死ねと言ってるかの様にも聞こえる。せめて市町村の役所の担当職員が温情をもって国民年金の 減免措置を詳しく説明してあげるとか、国民健康保険についての常識ある裁量を発揮して欲しいものだ。でも国民年金の 減免措置は何年も遡れるのかな。
法律には知らない条文や項目が多数含まれている事がよくあるようだ、この法律や障害者自立支援法の様に。本来ならば 法律として公布される前に我々が気付くべきなのだが、法律の立案段階でそのような過程をとる仕組みになっているとは 言い難い。せめて法律を立案・審議する議員の方々は現場をよく見て現場の実情をよく鑑みた上で、多数の利益だけを 考えるのではなく対象となる人々のセーフティネットを検討した上で決定して欲しいものだ。

11月20日 人の死
先日主治医の先生との間でインターネットを利用してほぼ毎日展開・情報交換しているALS介護支援システム (主治医考案)の中で「先日の学会?で尊厳死(話の流れから僕はそう解釈したのだが)について話題に上ったとの話が 出た。」と紹介があった。
それに対し僕は「尊厳死にはそれぞれに背景があるのでよくは分かりません。ただ我々ALS患者の場合は、まず人工呼吸器を 装着する時と生き続ける事を諦めて外す時と死を迎えるという決断を下す場面が二度ありそうですが、外した時に 息苦しいという意識があるのは怖いですね。意識がもう無くなっていればいいけれど。臓器提供は可能なのですか? 」と 返した。どうせなら死んだ時ぐらい病気で苦しんでいる人・医学会の役に立ちたい、そう思ったのだ。ALSに むしばまれている僕の身体でも、角膜・心臓・肝臓・腎臓ぐらいは役に立つだろう、アイバンク登録も臓器提供の意思を 表す黄色いカードもまだ持ってはいないが。
それにしても最近「人の死」について考えさせられる事件が続いている。後を絶たないいじめを苦にした自殺・ ホームページの殺人請負サイトを介した殺人依頼・武雄の整形外科病院での人違い銃殺・大阪の病院の盲目糖尿病 患者置き去り・坂出の祖母と孫3人がいなくなった事件、それにこのところあまり聞かないがホームページを利用した 集団自殺等々、まったく人の命を軽んじているとしか思えない。どうしてこんな日本になったのか、誰が日本人の意識を こんなに変えてしまったのか。
「三丁目の夕日」の中の向こう三軒両隣の世界にノスタルジー?・哀愁を感じるのもこんな索漠とした想いを見ている時は 忘れられ昔の日本は良かったと思えるからかも。若人がこの映画を見て向こう三軒両隣の良さ・近所付き合いの ありがたさを認識してくれたら嬉しいな!。

11月19日 風邪引きさんがいっぱい
僕の家の中には今風邪引きさんがいっぱいだ。
最初の風邪は下の息子がもらってきた。それが上の息子・お袋・お姉ちゃん・親父と広がってついに嫁さんにまでうつった。
風邪をひくと子供たちは僕の部屋には出入り禁止になる、風邪が僕にうつるのを防ぐための様だ。でも風邪の菌は 空気感染だし僕は人工呼吸器を着けているから風邪の菌が僕の気管や肺に入る機会は気管から吸引する時以外は ないはずだ。確かに風邪の菌が直接抵抗力の弱い肺や気管に入ったらおおごとだろうが、その場面はあまり多くはないし 呼吸器の空気吸入口も壁際にあるから風邪の菌が呼吸器を通して僕の肺に入りこむ可能性は少ないと思うのだが。
ともかくみんな早く治って欲しいものだ、そうでないと寂しいし僕も何か時を使ってしまうからね。

11月17日 手作りおもちゃ
今日インターネットで注文していた手作りおもちゃ・ライトプレーンと和凧が届いた。DSでゲームばかりしている息子たちや 友達を何とか外で遊ばせたいと思って買ったものだ。
僕らが子供の頃は自分たちの遊ぶ物はほとんど自分たちで作って遊んだ(紙玉鉄砲・弓矢・凧・竹馬等々)ものだった。 それにライトプレーンは小学校の図工の授業で強制的に作らされてその上市郡規模の大会まで行われる程盛んだった。
でも今は家でも学校でも刃物を扱わせる事もないし刃物の扱い方を教える事もなくなったのではないのではなかろうか。 昔は鉛筆をかみそりで削るのは当たり前の事で、こんな事を通して刃物の正しい扱い方を覚えたものだった。それに稲刈りや 薪割りも手伝わされていたから鎌や鉈(なた)の正しい使い方も親父やお袋から教え込まれた。今の子供たちが (遊ぶ)物を作る事の楽しさ・外で遊ぶ事の本当の面白さ・刃物などの正しい扱い方を知らないなんて、ある意味 不幸な事だと僕は思うのだ。
上の息子にライトプレーンと和凧を買った事・友達と一緒に作って外で飛ばして遊ぶ様に伝えると「分かった。」と 喜んでくれたが、下の息子の反応は違っていた。下の息子は見もしないうちから「不器用だから作れない。」と言い張るのだ。 僕は「三年生用のものを買ったから辛抱強くやったら作れる。」と言ったがなかなかうなづいてはくれなかった。
下の息子は元気で明るくて良い子なのだが、欠点は辛抱が足らない事だ。下の息子の言動は僕の子供の頃の言動と よく似ていると僕の子供の頃を知っている人は言うのだが、僕はそんなに辛抱強くなかったのだろうか?。僕も どちらというと不器用な方だったが辛抱は出来た方だと思うのだが。
それに下の息子もそれほど不器用だとは僕は思っていない。半年ほど前に息子の作った泥団子(僕らはお団子 チャンピオンと呼んでいたが)を見せてもらったが、少し金色がかった様に黒光りしていてまん丸に見えて見事な出来だった。 あれだけ黒光りする泥団子を作るには何度も手でこねて何度もやわらかい土にまぶして手で何度も丸めて固めたはずだ。 あれだけまん丸な泥団子は不器用な手で出来るはずがない。下の息子はもっと自信を持てばいいのに。

11月14日 入浴日
今日は午後から入浴車の来る日。僕は入浴車は町の社会福祉協議会にお願いしている。
僕はまだ入浴車そのものを見た事はないが、入浴車は『24時間テレビ・愛は地球を救う』に応募して寄贈してもらったという 噂を聞いた事がある。あのチャリティー番組がこんなに僕の身近に存在しているとは驚きであった。僕はチャリティー 番組にはそれまでフィナーレ以外関心が湧く事はなかったが、その噂を聞いて以来チャリティー番組にも少しは関心が 向くようになった。社協のヘルパーさんの中には今でもずっと番組の当日にはボランティアとして参加されている方々が いらっしゃるそうである。
今日のお風呂は社協さん側の手違い?で5人の美女に?囲まれながら入れてもらうことになった。5人の井戸端会議とも なれば色々な話が飛び交う。近日オープンしたスーパーの安売りがいつまでだとか化粧の話とかが次々と続く、時には手も 止まるほどに。でも庶民的な話が聞けるのはこの入浴車の時だけ、お風呂は色々な俗世間の話が聞けていつも楽しく 入れてもらえる時間である。

11月13日 夢
最近毎日夢を見る。それも奇妙な事に登場人物があまり付き合いのなかった人たちばかり。何でだろう。夢にリクエストが 出来るなら時にはこんな夢を見たいものだ。
息子たち自転車にキャンプ道具一式を積んで九州一周をする夢。家を出て伊万里から海岸沿いを呼子へと向かう。呼子から フェリーで壱岐・対馬と渡って福岡のベイサイドブリッジへ。一気に南下して薩摩半島を回り鹿児島港から屋久島の 宮之浦港へ。宮之浦だけを人上りして帰りに縄文杉に二十数年ぶりに挨拶しついでに島を一周して温泉に入り鹿児島港に戻る。 与次郎港から垂水にフェリーで渡り大隈半島を一周して都井岬・鵜戸神宮・日南市・都城を経て宮崎へと入る。宮崎から 九州山地方面へと向かい椎葉村から高千穂へと入る。高千穂から阿蘇高森へ回り竹田の岡城址を経由して大分・別府へと入り 共同浴場で一服、湯布院から豊後森・耶馬溪・中津・行橋へ行き海岸線を北九州・遠賀・岡垣・宗像・津福・古賀まで行く。 そこから内陸に入り、飯塚・小石原・浮羽・久留米を経て有明海沿いを佐賀・鹿島・島原まで行く。普賢岳を登って雲仙・小浜を 回って諫早・長崎に入り、野母崎まで行って海岸線を時津・西海・佐世保を経て平戸まで北上、松浦市を通って家に帰る。 途中途中でこれまで縁のあった方々を訪ね当地の美味しいもの・珍しいものを食らう。
夢でも楽しいだろうなあ!!。

11月9日 紅葉はまだ?
今日は通院日、外に出るとツワブキの黄色い花やピンク色をした花・薄いピンクのバラが見えた。この時期には庭に咲く花は かなり少なくなっている。そんな中をモンシロチョウが2羽ひらひらと舞っていた。でも何でこの時期にモンシロチョウが いるの、僕の子供の頃にはモンシロチョウは秋には見なかったと記憶しているのだが。
病院に向かう時車窓からは秋の紅葉の気配はまだあまり感じられなかった。街路樹の銀杏の木も一日中日に当たっている 所は黄色く色付いているが日陰になる所はまだまだ緑がいっぱいだし、山も所々色付いてきてはいるが紅葉を語るには 早すぎる。ただはぜの木だけは真っ赤に染まっていた。
病院からの帰り道嫁さんにちょっと遠回りしてもらって、町内で紅葉に最も早く染まると思われる竜門峡を自動車の中から 散策。紅葉はさすがに他の所より進んではいたが味わうにはまだまだの状況。ただ駐車場の脇川沿いの紅葉一本だけが 真っ赤に染まっていて紅葉の雰囲気をかもし出していて綺麗だった。
次の通院日は3週間後の11月の末、その頃には紅葉は終わっているか、今年は紅葉の真っ盛りは残念ながら 見れそうにないのかなあ・・・・・。

11月8日 パソコンで絵を描くのは難しい
この2-3日パソコンで地図も土器を描くのに夢中、でも上手くいかない。息子たちはペイントで器用に描いて色付けまで していたというのに。僕はまだペイントではオペレートナビを使って細かいところまでは上手く扱えないからパワー ポイントを使って図形や線で絵を描いているが、なかなか綺麗には描けない。オペレートナビを使って綺麗な絵を 描いている方がいると聞いているがどんなアプリケーションを使ってどんな風に描いているのやら。きっとさぞ 我慢強い方なのだろう。
僕には元々絵に関わる才能はかけらもない。小学4年の時ゴム版画で木に止まった鳩を描いて市群の版画コンクールで 特選をもらった事があるにはあるのだが、その時以外は少しもほめられた事もない。その遺伝子は娘が受け取って しまった様だ、気の毒な事だ。
僕も何とかしてパソコンを使って人に見せれる絵を描ける様になりたいものだが。

11月6日 民主党小沢代表辞任騒動
このところの民主党の小沢党首の一連の行動(自民党福田総裁との党首会談における大連立構想・役員会で拒否された事を 受けての代表辞任の会見・一連の留意劇・辞任撤回)を受け、僕の想い・意見を書かせてもらう。
僕は十数年前から小沢シンパだが、政策協議は法案毎に大いに行い是々非々で対応すべきだが大連立はいけない。日曜日の 辞任会見で小沢氏はマニフェストの実現が政党政治の第一義で責任政党として最も優先すべき事、その約束を守るには 大連立を組み政権与党になるのが早道という訳だ。確かに民主党の党としての約束・マニフェストを実現するためには 小沢氏の言う様に大連立を組むのが早道なのだろう。けれども7月の参議院選挙で民主党に投票した国民の大多数は 民主党のマニフェストの早期実現を願って投票した訳ではないはずで、政権交代の足がかりを作る事を願ってまた国会での 審議の正しいあり方をないがしろにして暴走?を続ける自民・公明の両党にお灸を据える為に民主党に投票したと思うのだ。 小沢氏の理論も分かるが大連立はこの時民主党に投票した人々の民意をないがしろにするもので役員会で全員一致で 否決されたのも頷ける。でもこの事がどうして辞任に繋がるのか。
それは党内から表立ってそれもマスコミを通して複数の有力議員から堂々と(小沢)代表批判が飛び出したからだろう。 ある議員は「大連立を組もうとの提案があった時になぜ即座に拒否しなかったのか。」と批判していたが、結論を 持ち帰った事をどうして批判されなければならないのか、一国の総理大臣から提案があった事をその場で結論を出す事こそ 失礼に当たると思うのだ。まして大連立をその場で受諾したらまだしも持ち帰って役員会で結論を出したのになぜマスコミを 通して批判する必要があるのか。まあそれが民主党の若さ・未熟さなのだろうが。
小沢氏は辞任会見で「今の民主党は政権担当能力不足」「次期衆議院選挙で勝つの(与野党逆転)は難しい」とも 言っている。これに対しても大多数の民主党国会議員から非難する声も上がった。確かに党首が公の席で口にする様な 内容ではないが、客観的に見るとほとんどの国民が頷いているのではと思う。第一遅くても洞爺湖サミット前(僕は 2008年度予算成立後と見ているが)に衆議院議員の総選挙があると噂されているというのに野党共闘(共産党除く)しても 未だに全選挙区で立候補者も決まっていない、その事に加えて民主党の衆議院議員の中で前の衆議院選挙において 選挙区で当選した者または惜敗率90%以上で復活当選した者がどのくらいいるのか。小沢代表の前でも参議院選挙の 勢いで次期衆議院選挙でほぼ勝てると言えるのはこの人たちだけだろう。それで選挙区でいくつ増えるのか。次期 衆議院選挙で民主党は議席を増やし自民党は議席を減らすというのが大方の見かただ。でもそれは当然の事でブームに 乗っただけで政治家になった人もいるのだから。あの方々は今どうしているのか、政治家として日夜精進していれば 支持も出来るがそうでなければ無駄で定数から減らすべき議席数と言える。いくら与党が不利でも一度の衆議院選挙で 与党を過半数に追い込むのは難しい。野党が共闘した上でもいいから選挙区で過半数を確保しなければ政権を取れないし 当然選挙に勝ったとは言えない。小沢氏は当たり前の事を口にしただけだと僕は思う。一説では民主党の緩んだ空気を 引き締めるためにあえて口にしたという話もあるにはあるが。
民主党の政権能力にしても現有勢力を党役員・大臣・副大臣・主要委員会の委員長に当てはめてみると、委員会で議論を 展開できるだけの実力と経験を備えた議員がどのくらい残るのか。次期衆議院選挙で大臣も務める事が出来るくらいの 実力者を候補に立て当選させる事が出来れば別だが、議員の層の薄さは歪めようもない事実だ。
小沢代表の辞任会見の後、民主党は党役員・所属国会議員の総意という形で留意に勤め、結局小沢氏の辞任撤回と いう事で幕を下ろした。この間小沢氏・党役員・おのおの議員がどんな思惑で動いたのかは知る由もないが色々な報道が 流れている。どの報道を信じたらいいのか僕にはよく分からないが・・・・・。僕は民主党が十分に話し合える・風通しのいい 政党になって一致協力して政権交代が出来る政党作りを目指して欲しい。そして次の次の衆議院選挙までには 政権責任政党に見合う実力を付け政権交代を実現して欲しいものだ。

11月3日 文化の日
今日は文化の日、日本国憲法(昭和憲法)が公布された日だ。子供たちに「文化の日はどんな日だ?」と聞いて見たいと 思ったが、いつの間にか聞く機会を無くしてしまった。最近みんなと話す機会が少なくなったなあ。
僕は祝日は好きではない、それは訪問看護が休みになるから。最近祝日にはヘルパーさんが来てくれるのだがまだまだ 何かが違う。1週間に一度の訪問でしかもいつも訪問看護師さんの補助をする立場だから、僕に対する介護のやり方にもまだ あまり慣れていない様なので一生懸命やってもらっているのだがひとつひとつの作業にどうしても時間がかかってしまう。 それに文字盤の使い方にもあまり慣れてはいないから意思の伝達にも時間を食ってしまう。今日も「(上半身を清拭する時は) 呼吸器を外して。」と伝えるのに5分あまりかかってしまった。正直これだけで疲れてしまった。痰の吸引の契約を結ぶ事が 出来れば訪問に来てもらう回数も増やせるのでもっと意思の疎通も取れるようになるしもっと慣れてくると思うのだが、 今のままでは痰を吸引する必要が生じる度に家族の誰かに来てもらわないといけないので家族が出かける事も 出来ないから訪問介護に来てもらう意味をほとんど成さない。何とか出来ればいいのだが訪問介護事業所にその意思が ないのだからどうする事も出来ない。
10年前の文化の日には千葉の幕張メッセの東京モーターショーの会場にいた。あのころは病気は徐々に進行していたが まだ病名も知らなくて元気に仕事をしていた。モーターショーと聞く度にあの頃の事そして仕事仲間の顔を思い出す。



10月
10月30日 福岡のAさんのお宅へ遊びに行く
今日は訪問看護師さんたちに同行してもらって福岡県に住んでいるAさんのお宅へいよいよ遊びに行く日。 訪問看護師さんたちにはいつもお世話になっています、今日もご面倒をおかけしますがよろしくお願いします。
Aさんと知り合いになったのは2年半ほど前の事、Aさんのホームページを見て前向きな生き方に感銘を受けてメールを 送ったのが始まりだった。それに対し明るく丁寧な返事をいただき気軽にメールの交換をする様になった。
10時過ぎに出発、武雄北方ICから九州自動車道に乗る。金立SA・須恵PAで少しばかり休憩し古賀ICで九州自動車道を出る、 ここまではすごく順調だった。ところが国道495号線(僕には旧3号線と呼んだ方が馴染みが深いのだが)に入ると急に 自動車がのろのろ運転になった。こんなところで渋滞に巻き込まれるとは予期していなかった。その上Aさんのお宅の 近くまで行ってからも道に迷ってしまった。これで予定より30分近く遅れる事になり訪問看護師さんと嫁さんの昼食が 後回しになってしまった。本当に申し訳ない。
午後1時過ぎにAさんの家に到着、Aさんのお宅は海の近くにありとても静かで周りを緑の木々で囲まれた素晴らしい 場所にあったのでまるで避暑地のような感じがした。Aさんのところへ訪問介護に入っているヘルパーさんに導かれて 家の中に入ると、Aさんは昔からの友人を出迎えるかの様にやさしい笑顔を向けてくれた。その笑顔を見た時、僕は Aさんとは今日が初対面という事を忘れていたし、今日会いに来て本当に良かったと思った。
Aさんと僕と嫁さんと3人でいろんな事を話した。僕が人工呼吸器を着けた時の事、愛犬の事、ヘルパーさんの事、僕の 後ろの水槽の中にいる金魚の事、等等・・・・・。Aさんのところには朝訪問看護師さんが来てその後はヘルパーさんが 交代で入ってくれると言う、もちろん痰の吸引も行ってくれるそうだ。元々Aさんは痰の吸引を行ってくれる事を条件に 介護支援の契約を結んだそうだが、痰の吸引を行ってくれる介護事業所が近くにある事・若い男性もヘルパーの一員として 加わっている事は羨ましい話だ。
僕の言いたい事は嫁さんが文字盤を使って伝えてくれるのだが、Aさんは同じ様に人工呼吸器を着けているというのに Aさんが声を出せる事が不思議に思えてならなかった。どういう事なのだろうかな。
Aさんと話し始めてしばらくした時Aさんの娘さんが帰って来た。Aさんの娘さんの事はホームページを見て少しは 知ってはいたが、綺麗で思い描いていた通りのお母さん思いで努力家のすばらしいお嬢さんだった。それに ヘルパーさんもある程度長い期間介護に入っている様でAさんや娘さんともまるで家族の様に接していた。実際は 見える部分とは大きな違いもあるのだろうがある程度遠慮のない会話が飛び交わされている様に見えるしなんとも 羨ましく思えた。僕のところへもヘルパーさんが2回入っているがあくまでも訪問看護師さんを補助する役目、吸引の 約定は交わさないから本当の意味で単独で来る事はない。
午後3時前、後ろ髪を引かれる想いだがもう帰らなければならない時間、あっと言う間に2時間が過ぎてしまった。短い 時間だったけれど楽しいひと時だった。Aさんは最後にもう一度「これから最低でも10年間は友達で(生きて)いようね。」 「今度はお子さん達も一緒に連れて来てゆっくりしていってくださいね。」と告げた。僕は今日Aさんのところへ来て Aさんからまた元気と勇気をもらったような気がした。
Aさんの家を出ると今度は国道495号線の渋滞に巻き込まれないために出来るだけ早く国道3号線に出る道を選択し、 10分余りで古賀ICから九州自動車道に入る事が出来た。九州自動車道を順調に進んで行き、金立SAでしばしの休憩、 金立を休憩場所に選んだのは、明日から始まる佐賀バルーンフェスタに参加する気球がもしかしたら見れるかも しれないと思ったから。しかし残念ながら気球は飛んでいなかった。金立SAを出て武雄JCTを通り西九州道を 波佐見・有田出口を降りる。出来るだけ長く高速道路を使う事で家に着く時間を20分は短縮出来る。そして5時少し前に 家に着いた。計画より30分遅れの到着だった。
すぐに訪問看護師さんたちにベッドに移乗させてもらい着替えや手足・腰のリハビリをしてもらう。普段は車椅子には 1時間程しか座る事がないものだから、7時間も座っていた今日は腰とお尻が痛かった(手や脚はサービスエリアなどに 止まる毎に訪問看護師さんたちが動かしてくれていたので痛くなる事はなかった)。でもリハビリのおかげで腰やお尻の 痛みもほとんど無くなった。訪問看護師さんたちそれに嫁さんには今日一日本当にお世話になりました、 ありがとうございました。
今日Aさんに会いに行って本当に良かった。Aさんには元気を分けてもらっただけではなく生き続ける事の意義を 教えてもらったし人と会って一緒に話せる事の楽しみや喜びも教えてもらった。人と時間が許せばAさんにまた会いに 行きたいものだ。僕も訪問看護師さんには恵まれていると思っているが、訪問看護師さんはみんなそれぞれ家庭を 持っているからあまり無理を言う訳にはいかない。何とかならないものかな。 他に応援してくれる人はいない・・・・・?。

10月26日 右手薬指で押すスイッチを直してもらった
共通印した際に右手薬指用のスイッチを直していただけるように作業療法士のU先生にはメールで事前にお願いしていた。 それでスイッチを病院に持って行ってくれるか自動車から降ろしてくれるかが気になって嫁さんや同行してくれている 訪問看護師さんに何度となく確認した。二人はそんなに信頼がおけないのかと言いたげだったが、U先生は昼休みの時間を つぶして直しに来てくれるのは分かりきった事だったから万全を期して期過ぎる事はないU先生を待たせる訳には万が一にも いかないと僕は思っていた。
主治医の先生の診察が終わると早速U先生を呼んでもらう。U先生は壊れたスイッチを見て「見事に切れていますね。」と 感心していた。僕の右手薬指用のスイッチをセットしてくれるのは家族や看護師さんたちでみんなで9人いるがそれぞれ やり方が異なる。時には見ててハラハラする事もあるがやり方を徹底するのはなかなか難しい事だ。
U先生は壊れたスイッチをリハビリ室に持って帰りものの10分もしないうちに直してきてくれた。その速さに 同行してくれていた訪問看護師さんも大いに驚いていたし感心もしていた。右手薬指用のスイッチが直った事で安心して 使える様になったし入力もスムーズに出来る様になるだろう。
U先生お世話になりました、そして本当にありがとうございました。

10月26日 通院日
今日は2週間ぶりの通院日、車窓から僕の目に入ったのはまずはカーキ色に色付いた柿、去年は色付いた柿の実はほとんど 目に入らなかったというのに今年は柿の当たり年なのだろうか?。柿の実を見てふと昔の事を思い出す。みかん山にあった 柿の木は今頃どうしているのだろう、本家の西ん岳の田んぼの掘っ立て小屋の脇にあった柿の木は今頃どうなって いるのだろうかと。子供の頃に稲刈りやみかん取りの手伝いに連れられて行かれた時に真っ赤に熟した柿をよく木に登って 食べたものだった。今の子供たちは木に登ったままで熟した柿を食べるなんて思い付きもしないだろう。考えれば かわいそうなものである。そういえば子供たちの冬の自由研究は「干し柿を作る」というのもいいなあ。
次に目に入ったのは稲刈りの終わった田んぼと大豆(だと僕は思っているのだが側に行って見る事は出来ないから 分からないが)の収穫が近い田んぼが共存している様子だった。波佐見には大豆と麦の二毛作を行っている農家が結構 あるようだ。大豆も麦もほとんど輸入に頼っているし今はバイオエタノールの機運が高まりすぎて小麦も大豆も生産量が 世界的に減っているから、米よりもある程度の農家が麦や大豆を作るのも面白いかもしれない。でも大豆ってここでは どうやって収穫するのかな?、まさか手・・・・・?。
政府自民党は農業の国際競争力を高めるために大規模農家の支援・育成と減反政策に予算を取っている。一方民主党は 農家の生活補償を打ち出している、だが詳細は見えてこない。僕は食の自給率を高めるためには農業に携わる人をいかに 増やしていくかだと思う。体験型農業・米や作物のオーナー制度・農地の部分貸し出し大いに結構ではないか、予算を 設けてでも進めるべきだ。それに兼業農家を締め出したり減らすべきではない。政府は世界に通用する農業を育てると共に 農業に少しでも携わる事が出来る人を増やすような政策を実施して欲しいものだ。
病院に着くといつも通りの診察を受けカニューレを交換してもらう。その合間に嫁さんと僕の主治医の先生が呼吸器に ついて話しているのを聞くと・・・・・、僕の主治医の先生はこの冬僕がレスパイト入院する時に呼吸器を何としても違う 機種と交換するつもりのようだ。先生の意識の中では気管切開した患者が着ける呼吸器としてはバイパップの信頼性は 低くなってしまっている様だ、僕はこのバイパップがかなり気に入っているのに。この呼吸器バイパップは今の僕の 呼吸常態にすごく合っている様な気がしているし何よりも回路が簡単だ。確かに充電電池内蔵の対応が無いなどの欠点は あるがそれなりの対策は取ってきたつもりだ。どうにかして僕が呼吸がしづらくなったと感じるまではこのバイパップを 使い続けたいものだが、誓約書を書いて渡してもだめだろうか!。
どんな呼吸器も壊れる可能性は当然ある。でももし壊れた時にはこのバイパップにこそ大きなメリットがある、それは 呼気孔がカニューレの近くにある事だ。自発呼吸が少しでもあればこの穴が近くにある事で少しの間は息が出来る。 もし呼吸器が変わってそれが壊れたら1分と持たないだろう。
回路や呼気量のパイプの仕組みが変わる事にも大いに抵抗がある。呼吸器が変わると回路はかなり複雑になり、生活が 大きく変わる可能性もある。特に気になっているのは入浴車や呼気回路からの水漏れだ。嫁さんはアンビューバックを 使って入浴は可能と思っている様だが、実際問題としては現場ではかなり難しいだろう。
何とかならないかなぁ。

10月24日 入浴車
今日は入浴車の日、午後1時過ぎ入浴車のスタッフが参上、今日はどんな井戸端会議を展開してくれるか楽しみだ。
今日の話題は最近の事件とダイエットの話、まずは加古川の女児刺殺事件の犯人がまだ捕まっていないという話、全員から 「かわいそうね。」と言う声が飛ぶ。次は警察官がストーカー行為をして挙句の果てに自殺したという話に話題が移る、 そこで一人からすかさず「それ佐賀県内での話し?」「他の県よね。」「佐賀だったらみんなで抗議しなくちゃ、検挙率も 低いし。」とボケとも突っ込みともとれる会話が続く。僕はこのやり取りを楽しんだりよく佐賀県の検挙率が低い事を 知っているなと感心したり。それから県内のJRの駅で飛込みがあり列車が遅れて通学している子供が苦労していたという 話が出た。僕は補償金の話まで飛び火するのかなと少し期待したのだがそこまでは行かなかった。
僕がちょっと他の事を考えている内にいつのまにか話題はダイエットのお茶に移っていた。一人が「昼休みにスーパーで 3Kg痩せるというお茶を飲んできたからこんなに汗が出るのかな?。」との話を出すと、もう一人が「たった1回飲んだ くらいで聞く訳がないじゃない。更年期よ、でもどこで飲んだ?。」、「スーパーの店内に何回も3Kg痩せると繰り返し 流れていたけど気付かなかった?。」「特売品を買うのに夢中で聞こえなかった。」。そこへ別の一人が「どうせなら 一月ぐらい飲み続けてみて試してみてよ。」、まるでこんとのように進む会話とテンポである。
僕はこんな環境の中で楽しくお風呂に入れてもらっているのである。
(一部フィクション?)

10月21日 寒くなった
この1週間で随分と寒くなった。1週間前の夜は薄手のタオルケット1枚で寝ていた。でも夜中になって寒気がしてきたので 厚手のタオルケットに変えてもらった。次の晩は厚手のタオルケットを、その次の晩はタオルケット2枚で、次の晩は軽い 布団を、次の晩は軽めの毛布を二重にして、そして昨日の晩はついに暖房を入れてしまった。秋はまだ半ばだというのに これでこの冬を越せるのだろうか。
何となくこの自分の身体が年々暑さ寒さに対して弱くなっている様な気がしている、暑さ寒さに対して年々耐え得る温度の 範囲が狭まって来ている様な気がしている。真夏も真冬もあんなに好きだったのに、真夏の真っ赤な太陽の下でも真冬の 山の上の北風が吹き荒れる中でも真っ黒になって元気で遊んでいたのに・・・・・。
全くもって情けない。

10月20日 Webカメラの取付台がようやく完成
上の息子との合作でWebカメラをパソコンに取り付ける台がようやく完成した。
Webカメラを買ったのはおそらく2年ぐらい前だからもう随分前の事である。外の景色を何とかして少しでも見たいなと思い 購入した。USB接続のカメラにするかLAN接続の物にするか迷ったがひとまず接続が手軽なUSB接続の物にした。けれども あまりにも安いWebカメラを買ったから僕のパソコンには取り付ける事が出来なかった、ノートパソコンには取付可能と 書いてあったのに。
それからずっとWebカメラは机の上に転がっていたが余りにもみすぼらしく無様に思えてきたので、上の息子にこのカメラを パソコンに取り付ける方法を考えてくれと頼んだ。息子は「分かった。」と頼もしい返事を返してくれたのだがなかなか 取り掛かろうとはしない。「どうして?」と理由を尋ねると「取り付ける方法が思い浮かばない。」と言う。そこで僕が 考えていたやり方で息子に作ってもらう事にした。
材料はダンボールと硬めのスポンジとガムテープ、部屋の中を見回して適当なダンボールを見つけて取らせて切って まずパソコンモニターに引っ掛ける部分の形を作る。でも文字盤を使って言葉で説明するから僕の意図するところは なかなか上手くは伝わらなかった。息子も僕もかなり歯がゆい思いをしながらも続けていくしかなかった。だから これだけでもかなり時間がかかってしまった。息子は今5年生、友達と遊びたい盛りだからいつまでも引き止めておく訳にも いかない。だから少しずつ進めるしかない。その日はそこまでにして続きはまたの日に手伝ってもらう事にした。
またの日?切り取ったダンボールをガムテープとスポンジで補強、これでパソコンのモニターに引っ掛ける土台が出来た。 ここで息子が「よくこんなやり方を思いつくね。」と嬉しい事を言ってくれた、少しは父親の威厳を示す事が出来たかな。 またまたの日今日はWebカメラを取り付ける台を作る。スポンジを適当な大きさに切り取ってガムテープで回りをしっかりと 補強する。次にモニターに引っ掛けた土台とカメラの取付台を釘でつなぐ、Webカメラの首振りを可能にするためだ。最後に Webカメラを取り付けてようやく完成した。
見かけはまだ完全とはいえないし随分時間もかかったが、息子との共同作業で物作る事が出来た事はまた物作りのやり方を 少しだけでも伝える事が出来た事は僕にとっては久々にとても嬉しい事であった。また子供たちとこのような形で 共同作業が出来たらいいなあ。

10月17日 今度はスイッチが壊れた
マウスが直ってきてからはまだ上手く扱いきれない事もあって足でマウスを手の指でスイッチを変わりばんこに 操作する事にした。足で上手く入力出来なくなってきたり疲れてきたら指で、指が疲れてきたら足でマウスを操作して 打ち込む様にしたのだ。これでようやく以前並みのスピードで文字は入力出来る様になってきた。
ところが痰を吸引してもらい手の指の位置合わせをしてもらったら突然スイッチが反応しなくなった、ほんのさっきまで これでようやくストレスなくパソコンの操作が出来るなと思っていた矢先の出来事だった。パソコンが上手く 扱えなくなってくると僕はイラついてくるのだ。嫁さんにスイッチ周りをよーく見て確かめてもらうとフィルムスイッチの フィルムに貼り付けてある接点とコードを繋ぐか細い線が切れていた。この部分はこのフィルムスイッチの稼動部に 当たるから最も断線しやすい所だったのだろう。このスイッチ一式を作ってくれたU先生からこのフィルムスイッチは 耐久性が弱いから2‐3ヶ月しか持たない事があると言われていたので気にはしていたのだが、退院してから丁度2ヶ月で 壊れてしまった。確かに僕はこのスイッチをほぼ毎日車椅子に座る時に呼出コール用の丸スイッチに繋いで使っているし、 この3週間はパソコン用のスイッチとして頻繁に使っている。この過酷ともいえる様なペースで使っているからこそ 壊れたのは当たり前の事かもしれない。
今は嫁さんが断線した部分に銅線を貼り付けて応急手当をしてくれたので指で押すスイッチは何とか動いてはいるが、 ただ単に切れた部分に銅線をテープで貼り付けただけなので非常に不安定でいつ動かなくなるか気がきではない。やはり 出来るだけ早めにフィルムスイッチを作ってもらうか手の指で押せる新しい方式のスイッチを作らなければなるだろう。 でも新しくフィルムスイッチを作ってもらうとなるとまたS高専のM准教授にお願いしなければなくなる。マウスを 直していただいたばかりなのにまたフィルスイッチを作ってくださいと続けてお願いする事は、いくら僕でもやはり 気が引けるなあぁ。

10月17日 出張床屋さん
今日は出張理髪屋さんに来てもらって散髪をした。散髪は大体3ヵ月に1度ぐらいでする事にしている。鏡を見る事ももう なくなった僕は髪の長さなど無頓着なものなのだが、周りから(暑苦しいから?)「もうそろそろ髪を切り時ですね。」との 声が頻繁に上がってきた時と鬢の毛が目に入りそうになり目の横が痒くなり始めたら出張して髪を切りに来てくれる理髪店 リリアンさんに頼んでもらうようにしている。
リリアンさんとの付き合いは僕が老人健康施設のデイケアに通っていた頃からだからもう7年にもなる。だから何も 言わなくてもただ目で相槌の合図をするだけできちんと切ってくれるしベッドに横になったまま散髪してくれるので あれこれと余計な気を使わなくてすむ、ただ横になっているから気楽なのだ。それにリリアンさんの二人の持つ雰囲気が 以前勤めていた会社の仲間?に何となく似ているのも僕に安心感を与えてくれるのだろう。
リリアンさん、いつもありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

10月15日 マウスが直った
S高専のM先生にお願いしていたマウスの修理が終わって戻ってきた。相変わらず素早い対応をしていただいた様で マウスが着いた翌日には修理を終えて発送していただいた様だ。素早い対応本当にありがとうございます。
実際に使ってみると左クリックの誤動作はほぼ発生しなくなっていた。ただこの1週間マウスに触れていなかったので足の 方がマウスの感触をもう既に忘れてしまった様で上手く操作出来なくなっていた。ほんの1週間だというのにまったくもって 情けない身体だ。これはもう足でのマウス操作にまた慣れるしかない。
M先生はマウスと一緒に手紙を添えて くれていた。その中にダブルクリックの誤動作についてのアドバイスも記してもらっていた。M先生の説明によると指が 震えてしまってダブルクリックになるのではなく僕の様に一度しか押していないのに何故かダブルクリックになってしまう 場合は、ダブルクリックの反応速度をやや遅めにするのが良いそうだ(その理由もM先生はきちんと説明して くださっていたが、僕にはあまり理解できなかった)。僕は逆に考えてダブルクリックの反応速度を最速にして しまっていたからダブルクリックになる誤動作をかえって生じやすくしていた様だ。早速ダブルクリックの反応速度を 遅くする事にしよう、でもどこで変える事が出来たかな?。

10月13日 叔父さん来たる
夜11時過ぎI叔父さんが着く、そして親父と晩酌を始めた。家に戻れば何を差し置いてもまず壱杯、僕にはその気持ちは よーく分かる。僕だって元気な頃はどんなに遅くなろうともたとえ大酒を飲んでいようとも家に帰ってくればまずは ビールを飲んでいた。でもお酒を飲まない人にはこの酒飲みの気持ちは理解出来ない様だ、家で何の気兼ねもなく飲む酒は また格別で別腹なのだ。それほどI叔父さんにとってこの家は我が家に近い存在なのだ、いや実家そのものと言っても いいだろう。
I叔父さんは親父がここに家を建てた時からずっと親父の建てた家に住んでいたそうで高校もここから通ったそうだ。そして ここから就職して行ったそうだ。I叔父さんにとって年がずいぶん離れた兄(僕の親父)は親のようなものだった様で、 I叔父さんが就職した時に親父が親代わりとして挨拶に行ったという話しを聞いた事があった。僕がもの心ついた時には もう就職していて家にはいなかったが元の家には叔父さんがいた痕跡が確かに残っていた。だからだろう、僕と姉ちゃんは I叔父さんのことをI兄ちゃんと呼んでいたものだった。
晩酌が終わった後叔父さんは僕の傍に来て話をしてくれた。叔父さんは気の合った同級生と一緒に黒部ダム?に 行って来た様でその時の風景をビデオに撮ってきているので見せようかといってくれたが、残念ながら叔父さんは文字盤の 使い方を知らないからビデオ端子のあるところを教えられなくて見る事は出来なかった。その代わりに叔父さんは手足を 優しくもんでくれた、多分僕がホームページに足の動きが悪くなってきたと書いていたからそれが気になっての事だろう。 僕か右手の薬指や足を動く分だけ動かして見せると「まだ動く。」と嬉しそうに笑ってくれた。僕は相変わらずみんなに 心配を掛け続けている。それが申し訳ないし・・・・・。

10月12日 通院日
昨日の夜は寒くてなかなか寝付けなかった。そこで夜中に2度コールを押してお袋を起こして肩にタオルを掛けてもらったり 上半身にバスタオルを掛けてもらったりしてようやく寝付けた。寝る前に嫁さんが厚手のタオルケット?を掛けてくれたので それでしのげると思っていたのだが、甘かった。10月に入って少し寒くなったと思っていたら皮下脂肪のない僕は寒くてもう 風邪を引きそうだ。変温動物に近いこの身体を何とかしたいし何とかして欲しい。なんて泣き言を言っても始まらない。 今日の夜から軽めの布団を掛けてもらう事にしよう。
今日は2週間に1度の通院日、外に出ると日差しがまだまだ暑くて肌が焼ける様な気がした、夜中から朝にかけては肌寒く 感じて仕方がないのにまったく僕ら変温人間?にとっては難しい季節だ。病院に向かう道すがら窓の外を眺めるともう秋の 装い、田んぼのところどころではもう稲刈りが終わっているしコスモスやススキは今が盛り、道路沿いの街路樹の 銀杏並木も少しずつ色付いてきていた。
病院に着くと看護師さんが明るい笑顔で「お変わりはないですか。」と迎えてくれた。そして主治医の先生が来て少し会話を 交わしてから診察とカニューレ交換、いつも通りの風景だ。診察が終わり外に出て玄関前のロータリーにある池を見ると 亀が2匹甲羅干しのために日向ぼっこをしているのが見えた。ほのぼのとした気分になれた。

10月10日 ホークス敗退
ロッテとのクライマックスシリーズ、1勝1敗で迎えた勝負の第3戦は今シーズンのホークスの戦いぶりをよーく表した試合と なった。ノーアウトで出たランナーを送りバンドで送れない・機動力を使わない・バッターからは走者を何とかして先の塁に 送りたい何としても出塁したいという気概工夫が感じられなくて振り回してばかりいた。あれでは勝率・防御率の2冠を 獲得した成瀬を打ち崩せるはずがない。工夫なき打線は当然の事のように抑え込まれた。また投手交代も遅かったし 中継ぎ陣も相変わらず踏ん張れなかった。
昨日の試合では送りバンドを一発で4度決め打線も小林に対して反対方向に打ち返しつながっていたし、待ち望んでいた 松中の一発も出た。これで短期決戦の戦い方を掴んでなおかつ流れにも乗れたかなと思ったのだが・・・・・、ホークスの 完敗だった。これで今シーズンのホークスの戦いは終わった。
今シーズンパ・リーグの中でホークスは頭二つ分位抜きん出た戦力を持っていた。それなのにどうして 勝てなかったのか?。確かに斉藤投手の不振や負傷があった、斉藤が例年通り活躍していたら10は貯金が 増えていただろう。4番打者松中選手の不振もあった、主力選手の負傷も多かった。それでも若手選手が出てきた事もあって 戦力的には他球団より劣っていたとは思わない、先発投手陣も外国人投手のそれなりの活躍(中盤まではよく抑えていた 様に見えた)もあって12球団の中で最も整っていたと思う。それなのになぜ?
僕は思う、足を絡めた攻撃が出来なかった。走れる選手が結構いるのに盗塁があれ程少なかったのか?、試合が膠着して 動かなくなってしまっているのにベンチはエンドランなどの手を打とうとしなかったのか?。その上中継ぎ投手人が 不甲斐ながかった。今シーズン7-8回を抑え切っていたら十数勝もの勝ちが得られたろうか。安心して見ていられる 中継ぎ投手が水田投手だけでは7-8回の2回は抑える事は出来ない。昨年退団した吉武がいてくれたらと何度思った事か。 来シーズンは機動力を駆使した野球と中継ぎ投手陣の整備を図って欲しいものだ。

10月8日 マウスの修理を依頼
今まで足で操作してきたトラックボールマウスの具合がかなり悪くなってきたので通院している病院の作業療法士の U先生経由でS高専のM準教授にお願いして見ていただく事にした。M先生とは長崎コミュニケーションフォーラムに 参加した時に僕の主治医にお願いして挨拶を交わした事かあった。M先生はフォーラムではよく肢体不自由者のための スイッチ・それも身近にある安価な部材でできるスイッチの作り方について発表されていた。そして1年前もこのマウスを 直していただいたし今使っている右手薬指用のスイッチの心臓部のフィルムスイッチだってM先生の研究室の学生さんが 作ってくれたものだ。そう考えるとM先生には本当にお世話になっている。ありがたい事である。
このマウスを使い始めてもう4年8ヶ月になる。このマウスは気管切開した時似4ヶ月の入院で手でマウスが操作出来なくなり S養護学校のS先生に足でパソコンを操作したいと相談したところ「このトラックボールマウスはもう製造中止になっている 物だけど良かったら使ってみて。」と頂いたものである。
あれからいくつもトラックボールマウスを買ったりもらったりして試してみたが、このマウスだけが足にしっくりきて パソコンの操作をする事が出来た。もしこのマウスが直らなかったらマウスによるパソコンの操作を諦めなくては ならなくなるだろう。そしてスイッチ操作だけに切り替えなくてはならなくなるだろう。
足でスイッチの操作をする事は多分出来ない事もないだろうし足でスイッチの操作をする準備も一応は出来ている。 けれども僕はトラックボールマウスを足で操作し続けていた事で足の筋力をある程度は保つ事が出来ていたと思う。 だから僕は出来るだけ長く足でマウスの操作をしていきたいと思っていたのだが。上手く直ってくれればいいのだが、 M先生よろしくお願いします。

10月7日 新しいFTPソフトを使用開始
最近これまで使っていたFTPソフトで急にホームページのアップデートが出来なくなった。それに今まで使っていた FTPソフトではポインタを大きく動かしてローカルフォルダのツリーの中からアップロードしたいデータファイルの 入っているフォルダをクリックしなければホームページを更新出来ないという(よーく探せば他の方法が多分あったのだと 思うが)僕にとっては致命的な欠陥があった。これまでは子供たちに代わりにクリックしてもらったりして急場をしのいで きたが、マウスを上手く扱えない様になってきた今はなかなか上手くアップロード出来ない様になって来た。
そこで意を決して新しいFTPソフトを使う事にした。FTPソフトは元々今まで使っていたソフトをダウンロードした時に 同じVectorというホームページの中からついでにいくつかダウンロードしていたものの中の一つを 使ってみる事にした。
元々今まで使っていたFTPソフトだって内容とか使い方をよく吟味して選んだという訳ではなく解説をちょこっと読んで 名前が面白かったから決めただけだった。今回は最近メールでヴァージョンアップ通知がたて続けに来たものにした。 そして実際に使ってみるとマウス機能は使わずにキーボード上にあるキーだけで操作出来そうだった、このソフトの ヘルプはちょこっとしか読んでいないからよくは分からないが。でもスイッチ操作に慣れていない僕にとっては ありがたい事である。何とかこのFTPソフトを使いこなせる様になってホームページを楽にアップロード出来る様に なりたいものだ。

10月○日 息子の誕生日
今日は一番下の息子の誕生日だ、けれどもいつもの事ながら僕は何にも<してあげられない。寂しい事だし結構つらい事だ。 一番下の息子は僕のこの手で抱っこした事はほとんど無い、手をつないで歩いた事など全く無い、上の二人は 曲がりなりにも出来たのに。それだけにふびんに思えてくる、まあ息子本人はそれほど気にしないでいてくれているのかも 知れないが。
最近時々思う、発病するのがせめてあと5年遅かったならと。5年待っていてくれたなら上の息子の喘息もおそらく 出ていなかっただろう、僕が海へ山へと引っ張り回して連れて歩いていただろうから。下の息子ともそれなりのふれあいと 思い出作りが出来ていただろう。なにより嫁さん一人に子育ての負担をかける事もなかったはずだ。どうして天はあと5年を 待ってはくれなかったのか!、僕がこれまでに天も許されざる事でもしてきたというのか。そうだったら誰か教えて くれないか。
寄るみんなでケーキを真ん中において記念撮影、これを至福の時と思うべきなのだろうが・・・・・。それだけで 終わるのが僕にはちと寂しい。

10月1日・3日 所信表明・代表質問初日
1日福田新総理の所信表明演説を聞いていていかにも福田総理らしさが出ているなと思ったり、総理付けの官僚が福田総理の 気持ちを汲み取ってこれだけの事をよく書けるなと感心していた。野党からはいろいろな批判が出てるし確かに演説に華は なかった。でも国民の生活意識の中に格差感が拡大し閉塞感が渦巻いている今は華よりも地道に自立と共生・生活者第一を 訴えた今回の福田総理の所信表明は良かったと僕は思った、たとえそれらの言葉を誰がそしてどこの党が使っていようとも 必要な事はどの政党が政権を獲っても必要なのだから。僕はかえって民主党からそう言われる事を承知で演説に取り入れた 福田総理に図太さと安心感を感じた。
そして3日福田総理の所信表明を受けて代表質問(初日)が行われた。この日質問に立ったのは、自民党と民主党。民主党の 鳩山幹事長は最初から衆議院の解散を迫った。まだ参議院選挙の勢いがある内に衆議院選挙をやりたいという パフォーマンスなのだろうが、実際問題としてはどうなのだろう。基本的には今回成立した福田政権がどんな政策を 行うかをある程度見てからの事だろうから、平成20年度の予算および予算関連法案が成立してから国民の信を仰ぐと いうのが通常の考え方だろうから、総選挙は早くとも5月以降だろう。
次に質問に立ったのは自民党の伊吹幹事長、さすが政権与党の幹事長でほとんどが福田総理を擁護する質問だったと思う。 代表質問としては少し異様だと感じたのは次に質問に立った長妻議員、内容が細かく多すぎて代表質問としては不釣合いに 思えた。けれども民主党のこれからの方向性をテレビを通して国民に表すには良い機会だっただろうから時にはこういう 代表質問もありかもと思えた。
これから福田政権がどのような政策を展開していくかは未知数だが国会でいろいろと深い議論が展開されていくだろう、 一聴衆としては楽しみでもある。



9月
9月28日 通院日
今日は通院日。外に出ると空は快晴で澄みきった青空が広がって鮮やかな秋晴れ、けれどももうすぐ10月だというのに 信じられないくらいあつーい。病院へ向かう自動車の窓からは今が盛りの彼岸花やケイトウ・ちらほらと花がつき始めた コスモスやススキが見えた。そういえば親父が西岳の稲刈りは終わったと数日前に話しに来た。季節は秋と植物たちは 感じている様なのにいったいこの暑さはいつまで続くのだろうか?。

9月26日 福田自民党総裁・総理誕生
23日の自由民主党の総裁選挙で福田康夫氏が事前の大方の予想通り自民党の総裁に選出された。けれども麻生太郎氏は 国会議員票132・地方票65の合計197票(全体の37.5%)を獲得したから麻生氏はかなり善戦したと言えるだろう。そして本日の 国会での首相指名選挙で福田康夫氏は内閣総理大臣に指名された。
福田氏が総理に就任したのは小泉−安倍ラインで推進した弱者に苦痛を強いる改革・中ば強引とも取れる数の力に物を 言わせて押し通す手法に7月の参議院選挙で疑問の声を投げかけ改革の方向を一時立ち止まって熟考する事を促した国民の 選択の順当な帰結なのだと思う。これまで麻生さんは政権の中枢にいたのに対し福田さんは現政権からある程度距離を 置いていたのだから。僕は小泉元総理の改革を否定する気は毛頭ない、あの閉塞感が蔓延していた時代には必要な 改革だったと思っている、少々やり過ぎた感は歪めないが。本来ならば福田氏は一年前に総理になっているべきだったと 思っている。
けれども安倍総理の誕生が無かったら7月の参議院選挙での与野党逆転も実現していなかっだろうし、捻じれ国会が 生まれた事によりこれから国会内で盛んな議論が行われる事にきっとなるだろう。僕は政権交代が可能で政・官・行の 癒着の起こりにくい議論が活発に行われる国民生活に目を向けた政治の実現を願っているから福田政権が長期安定政権に なる事は望んではいないが、国民の目線に近付けようとしているかに見える・与野党協調を図ろうとしている福田総理に 民主党がどんな風に相対していくか、民主党に政権を執らせていいかどうかを占う意味でも興味深い。

9月22日 I先生一行我が家に来たる
午後2時過ぎN大学のI先生が4人の学生さん等を同行して我が家に到着、大勢引き連れて来たのは僕の足でのマウス操作を 他のALSの患者さんのパソコン操作の参考にしたいからとの事だった。
それでまず僕の足でのマウス操作右親指でトラックボールを操りポインターを動かして左小指でクリックを見てもらってから 僕がお願いしていた機器を右手薬指スイッチに早速接続してもらった。この機器はスイッチを押す長さによって二つの ON/OFF信号を出せるという優れもので、当然の事ながら押す長さに応じて出せる信号が調整出来る。僕はこの機器の存在を 以前長崎コミュニケーションフォーラムに参加した時I教授がそこで説明されたのを見ていて知ったのだった。僕は この機器をオペナビのスイッチコネクターと呼び出しコール用の丸スイッチいにつないでもらった。もちろん長押しは 呼び出しコール押す長さは0.6sに設定してもらった、それ以上押し続ける自信は無かったからである。その結果オペナビは 不恰好ながらスキャンして動く(不恰好なのは僕のオペナビの設定のまずさ)し同時に長押しで呼び出しコールも鳴る様に なった。
次に他の患者さん用として作ったという曲げスイッチを試させてもらった。このスイッチは関節部に取り付けるという簡単 設置の優れもので、どういう原理かは僕には理解出来ないが関節を曲げる事によってスイッチのON/OFFが出来るという。 僕も右手薬指に着けてもらったが取り付けも簡単で指を曲げたら見事に反応した。いつの日か僕もこの曲げスイッチを I先生にお願いする時が来るかもしれない。
今回僕はN大学のI教授の研究室にとてもお世話になった。けれども僕がI研究室にお返し出来る事といったらこの障害を 持つ身体を使って研究に協力する事だけだが、I教授の研究室は僕の協力を受けてくれるだろうか?。

9月21日 マウスがもう使えない・・・・・
このところ朝でしかもお袋がセット・微調整してくれないとほとんどマウスが足で操作出来なくなってきた。このまま 足でのマウス操作が出来なくなっていくのかと思うと大いに不安と恐怖心が募ってくるがいかんともし難い事と諦めるしか・ 耐えるしかない。この不安と恐怖は通常のマウス操作が出来る人には決して出来ないだろう。
それで僕も重かった腰を上げてついにスイッチ操作をする決心をしその準備を始めた。まずアルファテックに足での スイッチの製作を頼み以前フォーラムで顔見知りになっていたN大学のI教授にひとつのスイッチで二つの事が出来る機器の 製作を依頼した。そのI教授が明日依頼していた機器を持ってきてくれるとの連絡が入った。
訪問がこんなに早いとは予期していなかったので急きょワンスイッチによるオペナビ操作の準備を始める事にした。 でも始めてみると分からない事はかり、今まで使っていたマウス用のキーボードを単にグループ分けすればそれだけで うまくいくと思っていたのだがオーバースキャンしない。結局オペナビとスイッチコネクターのオンラインマニュアルを 夜遅くまでかかってもう一度読み直して不恰好ながら何とか走るようになった。これで明日I教授を何とか迎える事が 出来る。僕も安心して眠れる。

9月16日 運動会
今日は息子たちが通っている小学校の運動会、今年は嫁さんに頼んで訪問看護師さんに応援してもらって見に行くように していた。気になるのは空模様、天気予報では九州の西海上を北上している台風の影響が出て昼から雨が降るとか、それに 昨日の夕方から数時間は激しい雨が降った。
10時前に訪問看護師さんが到着、着替えを済ませ外出の準備をしてもらって自動車の助手席に移乗させてもらった。空を 見上げると濃く灰色がかった雲が南から北へと流れていく。どうやら今日の天気予報は当たりそうだ。後は何時まで もつかだ。
11時少し前に小学校のグラウンドに着いたら嫁さんが事前に学校側に連絡してくれていたとの事で、先生が飛んで来てくれて 本部テントの近くまで僕の乗った自動車を誘導してくれた。これでかなり近くで声援出来運動会の雰囲気を味わえる様に なった。ありがたい事だ。
運動会のプログラムは雨の影響を考えてか随分早く進行していて丁度下の息子のレク走が始まったところだった。 でもメガネの度が遠距離用には合っていなくて息子の姿を鮮明には捉える事が出来ない、やはりもうひとつ度の強い メガネを持ってくるのだった。それにしてもいくらレク 走だとはいってもみんながチンタラ走っている様に見える、僕らの 運動会の時分はたとえ障害物競走であってももっと懸命に走っていたものだが。それに高学年の徒競走も120mと随分 短くなってしまっていて体力を鍛え競争を重視した昔の運動会とは違っている。息子たちはこれでやっていて面白いと 感じているんだろうか。
いずれは雨が落ちて来ると考えているのだろう、プログラムは早め早めに進行していく。そしていよいよ上の息子たち 高学年の子たちが演じる運動会名物大山ソーランの時間がやってきた。夏休みの最後の週からずっとがんばって練習していた 様だからきっと今日もがんばっていてくれているだろう。けれども僕にはやっぱり良く見えない。そこで自動車に 同乗してくれていた訪問看護師さんたちが都度息子がどこで演じているかを実況してくれた。それで僕は息子の 大山ソーランの雄姿を雰囲気だけは味わう事が出来た。
当初の予定ではここで昼食をはさむ様になっていたが、雨が心配という事で分団対抗応援合戦・・・・・と競技は 続けられた。しかし空が少し明るくなってきた事もあって分団対抗競技の玉入れ・綱引き・リレーを残して昼食に 入る事になった。
昼食の時間みんながちりじりに散って行く。そんな中僕と訪問看護師さんは自動車の中にいた。訪問看護師さんたちが昼食の おにぎりをほおばった後かき氷を買ってきて食べさせてくれた。何年ぶりかに口にしたかき氷はとても甘くてやっぱり 冷たかった。
昼食の時間が終わりに近付いた頃空がにわかに曇り始めてひとつ二つと雨が落ちてきた。そして分団対抗玉入れが始まった 時には土砂降りになって雨がグラウンドを覆った。ついに中断・中止になった。僕らはしばらく自動車の中で様子を 伺っていたが諦めて帰った。家に着いた時幸い雨が小降りになっていて濡れずにベッドに戻る事が出来た。
今日一日みんなのお陰で運動会の雰囲気を楽しむ事が出来たし同級生など懐かしい人にも会えて有意義な一日となった。 有難い事である。

9月12日 安倍総理の辞任
午後1時前テレビを見ていると突然『安倍総理辞任』のテロップが流れてきた。僕は一瞬自分の目を疑った、それぐらい 驚きが大きかったのだ。
同じ総理を辞任するにしても自衛隊のインド洋での他国船への給油活動に関する法律を成立させた後国会を混乱させた 責任を取って辞めるというのなら話も分かるが、所信表明を一昨日に済ませ代表質問が直前に迫った今この時期に辞意を 表明するとはあまりにもタイミングが悪すぎる。これでは政権を投げ出した・敵前逃亡したと受け取られても仕方のない 辞め方だ。こんなひどい辞め方は十数年前の細川元総理以来だが、今回の安部総理はそれよりずっとひどくて同情の 余地など全くない。これで安倍さんの政治生命も終わった、いや終わりにしてもらわないと国民が 迷惑するというものだ。
2時からの安倍総理の辞任会見を聞いても安倍総理が今この時期に総理を辞任すると言っているのその理由が全く見えて こなかった。安倍総理は記者会見の中で自分が国民の信任を得られなくなっているとかこう着した国会の事態の打開を 図るためには自分が辞任する必要があると決意したと話していたがちっとも説得力がなかった。第一国民の信任を 云々するのなら参議院選挙で大敗して参議院で与野党の逆転が決まった時に辞任すべきだったし、また今安倍総理が 辞任してもテロ対策特別措置法になんら打開策が生じるはずもなく、どんな打開策が出てくると安倍さんは 考えたのだろうか?。結局安倍という人はバックに多数という権力がある間は強行採決までして自分を主張していたしまた 主張出来てもいたが、バックの力が半分ほどに近くなりかつ国民の心が自分から離れつつあると遅ればせながら認識できた とたん政権を運営維持する自信がなくなって逃げ出したという事だろう。
それくらい心の弱い坊ちゃん育ちの政治屋だったのだ。こんな弱くて逃げ出す様な政治屋に教育再生や憲法改正を語る 資格があろうはずがない。もし安倍さんがもう一度政治家になりたかったら最低5年間は医療や介護や初等教育の現場に身を 置いて修行・経験を積むべきだろう。

9月8日 人がいっぱい
今日の訪問看護の時間には人がいっぱい集まった、何でももう少ししたら自宅に戻ってゆくALSの患者さんをの訪問看護を 担当するという事で他の病院の訪問看護の看護師さんたちが僕の部屋の様子とケアのやり方を見に来たとの事だった。結局 この日は僕が日頃お世話になっている訪問看護ステーションの看護師さん二人とヘルパーさんそれに見に来た看護師さん 二人と総勢五人の女性に囲まれてケアをしてもらう事になった。
今日のケアのメニューは洗顔・洗髪・清拭・リハビリ、このメニューを五人の女性に囲まれてハーレムに似た状態?で ケアしてもらった。その途中で誰かが「もしこんな風に(自分が)男の看護師に看護してもらってるとしたらきっと 恥ずかしいよね。」と言った。そうなのだ、僕だって最初は恥ずかしくてたまらなかったのだ。でもいつの間にか ・・・・・慣れてしまった。僕のところに来ている看護師さんの一人が少し前に腰を悪くして入院した時男の看護師に 清拭やらなにやらしてもらった時には恥ずかしい思いもしたと言っていた。嫁さんやお袋も含めて看護や介護に携わる 人で介護される立場を経験した事がある人は実際ほとんどいないだろう。だから看護・介護される立場の人間の心持を本当に 理解して欲しいと思う事こそ無理で無茶な事だと思うべきなのだろう、寂しいけれど。でも出来れば理解してみようと いつも心掛けていて欲しいなあ。それに一人でも身体看護を受けた経験のある看護師さんが僕の側にいてくれている事は 本当に嬉しい事だなあ。

9月6日 マウスが巧く扱えなくなった!
1週間ほど前から突然急にマウスが巧く扱えなくなってきた。突然なものだから原因や理由をあれこれ考えて身体以外に 求めてみようとマットレスの状態を変えるとか寝る位置を変えてもらうとかいろいろ工夫を凝らしてみたが巧く いかなかった。やはり身体がある日突然変わってしまったと考えるしかないようだ。こうなると小手先の工夫や対応では 上手くいくはずがない、それなりの根本対策を講じなければパソコンを操作できなくなってしまうだろう。 恐ろしい事だ。
その上7月中旬ぐらいから始まっていたマウスの誤動作すなわち左クリックを押した時ダブルクリックなってしまうと いう事が頻繁に起こる様になった。ひどい時には三回に一度の割合で起こる。まさに泣きっ面に蜂の状態だ。入院中に 作業療法士のU先生に見てもらってダブルクリックの反応速度を早する方法を教えてもらったりマウスを分解してもらって 左クリック部の応急修理をしてくれて一時的には少しはよくなったかのように見えたのだが、またダブルクリックに なるようになった。やはりU先生が言われたように左クリック部のタッチセンサーそのものが誤動作を起こしている様だ。 根本的な修理となると右クリックはほとんど使わないから左右のクリックのタッチセンサーを入れ替えてもらえば いい訳だけど、それを頼める人が今の僕の周りでは簡単には見つからない。
最近ではお袋しかマウス位置の微調整が出来なくなっているからこのマウスを使うのもそろそろ潮時になってきている のかもしれない、寂しい事だけれども。

9月○日 秋の気配
夜になって寝る時に電気を消すと床下から鈴虫やこうろぎの鳴く声が聞こえる様になってきた。わずかに窓から見える空も 澄んで少しずつ高くなってきている様だし夜寝る時にエアコンを切っても過ごせる様になってきた。暮しのあちこちで秋の 気配を感じる様になってきた。もう秋はすぐそこまで来ているんだなあ。



8月
8月○日 久々の嬉しい事
最近下の息子がようやく文字盤を使うようになって少しだけだが二人だけで会話が出来る様になった。まだ忍耐力が 足りなくて長い会話は難しいが、少しでも下の息子とも二人だけで会話が出来る様になってくれた事は僕にとっては 久しぶりに嬉しい事だった。これからは下の息子とも大いに会話を楽しみたいものだ。

8月28日 自分の無力さをまたもや思い知る
夏休みも残りわずか、子供たちも今宿題の追い込みの真っ最中。「何が残っているか。」と聞いたなら、「絵画と 自由研究。」・「自由研究。」・「自由研究。」という答えがみんなから返ってきた。まったく文部科学省も都合のいい 課題を考え出したものだ。でも小学校低学年にはちと荷が重過ぎる、せめて幾つかのテーマと手順書を書いた用紙を与えて それに従ってやらせるぐらいの配慮がいると僕は思う。
「何をやるか決めているのか?」と聞いたら「まだ。」と言う。そこでテレビで今日の夜皆既月食があると言っていたのを 思い出し、「皆既月食を自由研究のテーマにしたらどう?。みんなで6時から20分毎に外に出て月がどうなっているか見て 絵に描くようにしなさい。」と一番下の子に伝えるように、また「みんなの学年に応じて皆既月食を自由研究として まとめたらどうか?」とお姉ちゃんにアドバイスした。けれども僕の意図するところは子供たちには 理解されなかった様だ。下の息子が皆既月食中の赤黒い満月の絵を1枚描いていただけだった。
先日の事、嫁さんが夏休みの工作用としてソーラーパネルとモーターを買い与えた、これで工夫して部品を集めたりして ソーラーカーを作ったらと言う。問題はモーターの回転をどうやって駆動輪に伝えるかまた伝えるための部品 ギアボックスを見つけてくるかだが、下の息子には多分難しすぎるかなと思っていた。案の定、下の息子はギアボックスを 見つけきれずに立ち往生した。そこで「どうして作らないのか?」と尋ねたら「部品がないから作れない。」と言う。 それで「ペットボトルにソーラーパネルとモーターとソーラーセットに付いていたプロペラをつけて作れ。タイヤは ペットボトルに穴を開けてストローを通して付ければいい。」とアドバイスした。下の息子は一応は「分かった。」と 返事を返した。それでも2・3日経っても一向に作ろうとしない。それでもう一度下の息子を呼んで少し詰問調で「なぜ ソーラーカーをペットボトルで作らないのか?」と聞くと、泣きながら「作り方が分からない。」と言った。そこで 作り方を出来るだけ詳しく書いて渡したのだがそれでも難しいようだった。
月食の観察にしてもこのソーラーカー作りにしても結局のところ率先して実際にやって見せないと作っているところを 見せないと意図する事はうまくは伝わらないようだ。自分の無力さをまたもや改めて思い知らされた。

8月24日 玄海エネルギーパーク
夏休みの息子たちとの思い出作りにと嫁さんと訪問看護ステーションのM所長とが相談して玄海町の玄海エネルギーパークに 連れて行ってくれた。
11時過ぎに自動車に乗り込み11時45分家を出る。今日同行してくれるのはM所長とFさん、お世話になります。国道204号 唐津街道で伊万里市瀬戸・黒川・波多津・唐津市鎮西町を通って玄海町へと向かう。この道を通るのは娘が小学1年の 夏休みに呼子に遊びに行った時以来だから実に6年振りの事である。懐かしい風景だ。
波多津に入るとすぐにMさんが右折するように促した、こっちの道の方が近道になるという。しばらくして運転を嫁さんから Mさんに交代、Mさんの運転は僕が思っていたよりはるかにおとなしかった。Mさんはしばらく行くと左折して山の方へ 入っていく。この道をナビで見てみると海岸線を回る国道に比べると確かに近道になっていた。M さんの運転を見ていると Mさんがドライブするのが好きなんだなと感じるし以前このあたりも良く走り回っていたからこんなマイナーな道も 知っているのかと感心してしまった。
鎮西町に入ると国道を離れて海岸線に近い県道を行く。この道は6年前にも走ったのだが、いろは島や棚田が一望できる 風光明媚な道である。ところが途中からMさんがまた脇道に入って行ってしまった。この時嫁さんがナビの画面を 縮小してくれたので見てみると、この道が玄海町へのショートカットになっている事に気付いた。全く以ってMさんの 道知り?には驚いてしまう。玄海町に入ると風力発電用の風車が遠くの方に何基も見えてきた。僕は風車がある風景が 何となく大好きなのだ。もし僕がいつの日にか西岳に小屋を作る事が出来るとすれば、そこには絶対に発電用のミニチュアの 風車を作るだろう。
玄海エネルギーパークに着くとすぐに同行してくれている訪問看護師のMさんとFさんに車椅子に移乗させてもらって自動車の 外に出て車椅子に人口呼吸器をセットしてもらう。外は真夏の暑さでどこかでせみが鳴いていた。その暑さに耐えかねて 急いで玄海エネルギーパークの建物の中に連れて行ってもらった。建物の中は僕には異常とも思える程冷えていた。そこで 僕は胸にタオルを当ててもらい寒さ対策をした。それから建物の中を眺めてみるといくつかの催しが目に入った。その中で 係員の方に玄海エネルギーパークを案内してもらうコーナーを予約する。そしてそれまでの空き時間を利用して奥の コーナーを見て回る事にした。
奥のホールに入った時の時刻は丁度午後1時、陶器の時刻盤を備えたからくり時計が動き出した。時刻盤の真ん中が割れ、 鉄球のからくりが現れる。その動く様を見ているとついNHK教育の「ピタゴラスイッチ」を思い出した。なかなか面白い 仕掛けだった。その後隣から奥に広がる九州の祭りのブースを見に連れて行ってもらった。まずはご当地唐津くんちの コーナー、14体の曳山のミニチュアとくんちの模様を撮ったビデオが流れていた。さらに長崎くんち・小倉祇園太鼓・ 博多山笠とコーナーは続く。この後には伊万里トンテントン祭のコーナーもあるという。博多祇園山笠の大きな飾り山の 前で家族揃っての記念の写真を撮ったところで玄海エネルギーパークの案内を予約した時間が来た。そこで入口の エントランスに戻る事にした。
エントランスに着くと係員の人の案内でからくり時計とは反対側へ向かう。と、そこは玄海原子力発電所の建物の概要を表す コーナーになっていた。ここ玄海原子力発電所には原子力発電棟?が4基あり1日に合計100万KWの発電能力があるという。 これは九州で消費される電力の40%(沖縄を除く)を占めるとの事。一方鹿児島の川内原子力発電所には原子力発電棟が 2基あり1日に合計80万KWの発電能力があるそうだ。我々九州人は実に電力の75%を原子力発電に依存しているという事だった、 こんなに原子力発電の依存度が高いとは全く驚いてしまう。説明を聞いている途中で新潟沖地震の事を思い出したので ついでに玄海原子力発電所はどの位の地震に耐える様に設計されているのですか?」と聞こうかなとも思ったが、少し 意地悪になるかなと思って止めた。
エレベーターで2階に上がり次に原子力の仕組みを説明してもらう。今この玄海原子力発電所ではウランを使って発電が 行われている。ウラン93に中性子を高速でぶつけると核反応を起こしプルトニューム94に変わる、この時同時に 熱エネルギーが発生する。ウランがたくさんあると連続して核反応が起こるから膨大な熱エネルギーが発生するから その膨大なエネルギーを発電に利用しているという。まるで昔の物理の授業を受けているという想いがした。
ウランの燃料棒にはウラン鉱石を精錬して出来た純度の高いウラン粉末を固めて作った直径5mm高さ20mm大の円筒形の チップがたくさん詰まっているという。そして原子炉の中にはその燃料棒がたくさん入っているという。その原子炉の中で ウランのチップに固められたウラン原子に次々と中性子をぶつけぶつかる事で核反応が連続して起こり膨大なエネルギーを 発生させる事が出来るそうだ。また核反応を制御するには中性子を吸収する制御棒を原子炉の中で上下させる事で 出来るそうだ。制御棒が中性子を吸収する物質から出来ているとは驚きであった。3階では2階で説明を受けた原子力の 仕組みをアニメでもう一度紹介してくれるので分かりやすかった。
4階では原子力発電の仕組みを説明してもらった。原子炉棟と発電棟?との間に循環する水が詰め込んだ1本の巨大で頑強な パイプが走っている。原子炉の核反応によって生み出された熱エネルギーはパイプの中に詰め込まれた水を高温に加熱する。 その水がパイプを通って発電棟の中の海から引き込んだ海水をパイプの中から間接的に熱する。熱された海水はものすごい 勢いの蒸気となって発電用のタービンを回す。そして電気を生み出すという次第だ。なおタービンを回した蒸気はその後 水に戻って海に排出されるそうだ。このような話は僕にとっては興味深いのだが息子たち特に下の息子には難しいのか 飽きてしまったのかよその子が遊んでいるコーナーばかり気にしだした。そのコーナーに行くとそこは人の身体の中に 持っている放射能を測定するコーナーだった。息子たちは喜んで測定していたが結果がどうだったのか?
最後に案内されたのは展望室、この展望室からは玄海原子力発電所が一望出来る他背後には玄海灘が広がってなかなかの 絶景だった。今日は霞がかかって見えなかったが晴れ渡った日には壱岐や対馬まで見る事が出来るという。玄海町の あちこちに発電用の風車が見える、全部で15基あるそうだが全て個人か企業が所有していて九州電力が電気を 買い上げているという。あんな大きな風車を個人で持っているとは世の中にはリッチな人がいるものだ。いったい1基 作るのにどれくらいかかるのだろうか?玄海原子力発電所の敷地内には発電の余熱を利用した巨大な温室もあるという。 今回は暑くて車椅子で移動するのが難しいだろうと言われたが、今度行った時にはぜひ温室を見に行きたいものだ。
玄海エネルギーパークを一通り見て回った後はみんなの遅い昼食の時間、昼食が取れる場所は着いた時にMさんが確認して くれていたからその場所へ移動する。けれれどもそこは子供たちに占拠されていて備え付けのゲームの音やらがうるさくて とても食事が取れるような雰囲気ではなかった。でも僕が一緒にいてゆっくり食事を取れる場所がこの玄海エネルギー パークの中にそうそうあるはずもなく、諦めてここで食べる事にした。みんなが食事をしている間僕は一休み、のんびり 外を眺めていた。高電線の塔の上で風力計が回っていた。その様子が珍しく面白くてしばらくじっと見ていた。 息子たちは食事が終わると見過ごしたコーナーを見に行ったりあの騒々しいゲームをしたり外の公園に出たりして 思い思いの事をして遊んでいた。
しばらくここで一息入れた後玄海エネルギーパークを後にした。玄海エネルギーパークに滞在していた時間は3時間あまり、 人工呼吸器を着けている僕には程よい時間だった。帰りに通った道も行く時とほとんど同じだったのだが運転していない 僕ではこの近道は覚えきれそうにはなかった。家に着くと別の訪問看護師さんたちも待っていてくれて、すぐに自動車から ベッドへと移乗してくれてみんなで外出で汗ばんだ身体を拭いて着替えをしてくれた。そしてそこでリハビリの先生と バトンタッチ、今日は訪問リハビリの日でもあったので理学療法士の先生が久しぶりのドライブで疲れた身体をほぐして くれた。みなさんのおかげで息子たちとの今年の夏休みの良い思い出作りが出来ました。ありがとうございました。 そしてこういう機会を設定してくれた嫁さんにも感謝しています、ありがとう。

8月22日 佐賀北高夏の高校野球優勝
夏の高校野球決勝戦・エース野村を擁する広陵とがばい旋風・勢いで勝ちあがった佐賀北の戦い。前評判はもちろん広陵、 試合が始まったらその前評判どおりの展開を見せ攻守とも広陵のペース進んだ。1回の表こそ佐賀北の先発馬場に 押さえ込まれたが、2回には早くも猛攻をしかけ2点を先取、佐賀北はエース久保にスイッチして何とかこの回のピンチを しのいだがその後も毎回広陵に攻め込まれピンチの連続、それを持ち前の堅い守りで耐えしのんで行く。しかし7回の表 ワンアウト一二塁で相手ピッチャーの野村に左中間を破るツーベースヒットを打たれ2点を追加される。
一方広陵のエース野村の調子は良かった。1回の裏こそ2番井出にヒットを打たれてセットポジションからの制球を乱し 連続フォアボールでワンアウト満塁のピンチを背負ったもののそこを乗り切ると尻上がりに調子を上げてきた。 広陵のピッチャー野村の調子は前日の準決勝常葉菊川戦よりも良かった様で佐賀北のバッターは手も足も出なかった。 特に良かったのはコース低めの制球、佐賀北のバッターはボールになるスライダーをことごとく振らされていた。
8回の表を終わって4-0で広陵のリード、この時ほとんどの人は広陵がこのまま勝利すると思っていただろう。でも佐賀北の 選手は誰一人諦めてはいなかった。ワンアウトの後8番久保が三遊間をしぶとく破り久々にヒットを放つ。それに少し 動揺したのか野村が制球を乱しフォアボールを与える。ワンアウト一二塁で次のバッターは1番辻、ここでさすが広陵の エース野村は立ち直り低めにボールをコントロールしてきた。しかしこの日の辻は佐賀北で唯一野村の低めのボールの 見極めが出来ていたバッターで、ボールカウント2-3からの内角膝元に落ちるスライダーをしぶとく見極めフォアボールを 選ぶ。ワンアウト満塁で打席に立つのは井出、その井出のボールカウント1-3からの5球目に野村はアウトローによく コントロールしたストレートを投げ込んできた。このボールは本当にすばらしい玉でストライクのコールがあっても おかしくはない程微妙な玉だったしおそらく井出もボールカウントが1-3だったから見送れたのだと思う。それ程良い 球だった、・・・・・がしかし主審の右手は上がらず押し出しのフォアボールで4対1の3点差になった。これで野村は少し 気落ちしたのか次のバッター副島のボールカウント1-2からの4球目のスライダーが真ん中に入ってしまった。おそらく この1球はこの試合で野村が投げた唯一の失投だっただろう。けれども副島はこの1球の失投を見逃さなかった。思い切り 良く振りぬいた副島の打球は左中間のスタンドに飛び込む満塁ホームラン、これで佐賀北が5対4で大逆転して初めて試合の 主導権を握った。
これで追う立場になった広陵も当然諦めてはいなかった。野村がこれで気落ちする事もなく後続の市丸・大串を抑えた。 そして広陵の9回の表の攻撃、先頭のバッターがヒットで出塁しノーアウト一塁。ここで広陵はまずは同点を狙って送り バンドを見事に決める。ここでランナーは佐賀北のサード副島がサードベースから離れているのを見て果敢に三塁を 狙った。しかし副島も一塁のバックアップに入っていた田中もこの走塁に冷静に対処して三塁でタッチアウトにする。 この走塁は結果的には暴走になってしまったが、もし副島が気付くのが遅れてサードベースに帰るのが遅れていたら もし田中が慌てて暴投でもしていたら好走塁になっていたはずだ。ここはランナーの走塁を責めるよりも佐賀北の 鍛え上げられた佐賀北の守備を褒めるべきだろう。これでツーアウトランナーなし、久保は野村をアウトローに落ちる スライダーで三振にしとめ試合終了。夏の高校野球は開会式後の第一試合から戦った佐賀北が、決勝の広陵戦でも粘る 野球・守る野球を貫き逆転満塁ホームランで全国制覇を決めた。佐賀北高校、おめでとう。
佐賀北高が優勝出来たのは甲子園で勢いに乗ったという事があるのだろうが、それよりも佐賀北が甲子園で普段通りの 野球が出来練習で備わった力を甲子園という大舞台でも全く臆する事無く十分に普段通りの力を 発揮出来たからだろう。
佐賀北高の野球は守りの野球である、徹底的に粘り強く守って少ないチャンスが巡って来るのを粘り強く待ってそれを 生かして勝つ。その佐賀北高校の野球には我々難病を患う者にとっても見習う事が沢山あると思う。我々の病気も今の ところはその原因も治療法もまだ見つかってはいない。でもいつの日にか治療法が見つかる日が来るかも・・・・・ しれない。その日まで粘れるかどうか?

8月19日 発表
今日は厚生労働省の研究班のひとつ「今井班」でモバイルスタジオを利用して発表を行う日。発表のテーマとして 与えられたのは「特定疾患患者の自立支援体制の確立に関する研究」班に期待する事。
でもまあ実際のところ僕のやる事は発表用のスライドと読み上げ原稿を作り上げて送信した時点でほとんど終わっていて 今日は顔見世といったところか、後はファンコムの松尾社長に全てお任せ。
その松尾社長は11時前に到着、すぐにモバイルスタジオをセッティングし通信状況を確認、通信は問題なくうまく 行ったようだった。ただ気になるのは高校野球の行方、今佐賀北が帝京と戦っている、このまま順調に試合が進めば 発表の前に終わるだろうがもしもつれでもしたら重なってしまう。そして危惧していた事が起こってしまった、試合が 延長戦に入ってしまった。後ろ髪を引かれながらも発表の体勢に移った。
発表も無事終了、僕の発表がどの位反響があったかはカメラ付携帯電話の外部出力の映像をテレビに映し出して見ている 僕には分からなかったが、ALSになった事で病気する前に持っていた知識まで破壊されたと思い込んでいる人も 中にはいるようだからそういう人にはそれなりの影響は与えただろう。
その後もしばらくはテレビに映し出された会場の映像とモバイルスタジオの音声で会議に参加していたが、携帯電話の 解像度ではスライドが見えないのと高校野球が気になったので中継を終了してテレビを切り替えてもらった。佐賀北は 延長に入ってからの帝京の猛攻に耐え忍んでいた。そして延長13回ワンチャンスをものにして勝ってしまった。佐賀北の 守り勝ち・粘り勝ちといったところか。それにしても佐賀北高野球部の守りに徹し耐え忍んでいればいつかきっと チャンスは巡って来るという精神には病気の我々も見習うべきものがある、たいしたものだなあ。

8月18日 十八夜
正午の合図に花火の空砲が轟き渡る。今日は僕らが住んでいる旧西有田地区で「ぎおん」と呼ばれている夏祭りの中で最も 規模が大きくてにぎやかな祭り『十八夜』の日だ。ぎおんは7月の下旬から初まって8月の終わりまで続く。ほぼ毎日 どこかの地区(昔は部落と呼んでいた、だから僕にとっては僕には部落と呼んだ方が馴染みがあるのだが今の日本では 「部落」という言葉は差別用語になっている。今の若年層は部落とか同和とかいう言葉は意識していない、というより 知らないという方が正しい。今の日本の一般の社会では「同和」は既に死語になっていると僕は思っている、生まれて この方僕の周りで同和がらみで就職や結婚で駄目になったという話を聞いた事がないから。)で浮立の笛や鐘や太鼓が 鳴り響いている事になる。
十八夜は僕の生まれた地区に住んでるあるいはこの地区で育った人々にとっては単なる夏祭りではない、それ相応の 思い出と思い入れが詰まっている祭り・十八夜なのだ。小さな頃はたくさんのお客さんが家に来た、その中に混じって年に 一度のご馳走をおなか一杯食べられた、それだけで嬉しかった。小学生になると十八夜用にと特別なお小遣いがもらえた、 それを持ってお寺の境内へ行き出店でヨーヨーや綿菓子・カキ氷を買うのが楽しみだった。高校生になると祭りの主役 (裏方?)のひとりとして十八夜会に属して、事前の浮立の稽古や18日当日の朝早くから夕方まで丸々一日かかっての 準備、そして夜8時から(今は7時から)の十八夜本番・それから翌日の後片付け・打ち上げ・その後のソフトボールの時と 大人の人たちに混じって動いている内に、十八夜の浮立や昔から受け継がれてきた伝統の花火ジャーモンや宿若の ナイアガラの仕掛け花火そして大空に大輪の花を咲かせる打ち上げ花火、それに十八夜そのものが楽しくなっていた。 この頃から僕の夏には十八夜はなくてはならない特別な存在になっていた。大学時代もこの十八夜の時期は必ず家に 帰って来ていたし仕事に就いてからも出来れば家に帰ってきたいといつも考えていた。
病気になった今でも出来る事ならばジャーモンを見たいのだが、それはもう無理なのでせめて打ち上げ花火は 見たいものだ。
でも最近の僕の家の十八夜はなんとなく寂しくてなんだか十八夜という気がしない。訪れる人もすごく少ないし 子供たちを見ていてもわくわく感を感じない、どうやら我が家では十八夜もただの夏祭りの日になって しまったようだ。

8月17日 退院の日
午後2時過ぎ嫁さんと訪問看護師のIさんが到着、準備を済ませ新受持ちのYさん・旧受持ちのOさん・看護師長さんらに 見送られながら病院を後にする。
病院を出る時嫁さんが「どこかに寄って行く?」と聞いたので一応「龍門。」と答えたが本当は特別養護老人ホームにいる ばあちゃんに会いに行きたかった、何せ昨日はばあちゃんの誕生日だったから。でも急に行くと言うと特老側の準備が 大変になるから簡単に口には出来ない、自分の足で歩いていけないからつらい所だ。窓の外に目を移すと稲の背丈が この3週間でだいぶ大きくなっていた。麦を刈った後にはジャガイモ?大豆?僕にはよくは分からないが栽培してある。 外の景色もこの3週間でかなり変わった。
龍門に入ったところで訪問看護ステーションのM所長からお袋がばあちゃんの誕生日だけど特老に会いに行かなくて 良いのかと言ってると誘い水とも思える電話が入る、僕は一も二もなくOKサインを出す。
「龍門ダムの水はいっぱいだから今年は水不足の心配はない。」とか「ダムの向こう岸に釣り場のような ものがある。」とかダムに入ってくる沢を見て「子供が水の中で遊んでる、涼しそう。」とかと嫁さんとIさんが教えて くれるが、僕の座っている位置からはそんなものは見えない。僕はただ山や木々の碧を見るだけだ。今日龍門に来たのは 緑を楽しむためと車椅子でどこまで行けるか見たかったから、僕が最後に龍門峡に入ったのは3才の娘を連れて黒髪山に 入った時だからもう10年も前の事、だから洞窟のお地蔵様の群れのある所までは相当変わってしまっている様だ。今度 車椅子で行ける所まで行ってみたいものだ。
龍門から出て広瀬山を出るところで嫁さんが「どっちの道を行きたい?」と妙な事を聞いてきた、特老に行くなら進む 方向は決まっているのにと思いながらもあごを使って合図した。通りすがりにある中学校を見て嫁さんが「ちょっと 寄って行く?」と聞きながら体育館の方向にハンドルを切っている。体育館はいつ新しくなったのだろう。それさえ 知らない程長い事中学校には来ていないという事だ。その体育館に男子のバレー部が入っていく。うちの娘そうだが 夏休みのほとんどをクラブ活動で過ごしている。このような夏休みの過ごし方は本来の中学生の夏休みの過ごし方と違う・ 遊びも勉強も含めて色々な事が出きるときだしさせる時だと僕は個人的には思っているのだが、本人も保護者も 納得してクラブ活動に専念しているのだから僕ごときが口を挟む事ではない。
嫁さんは自動車を校舎の正面の方へと向かわせた。その時昔あったはずのテニスコートが無くなっている事に気が付いた、 体育館は昔のテニスコートの真上に建っていた。だから体育館の北側に自動車が通れるだけのスペースが出来たのか。 それに立志と刻まれた大きな石と広場?も消えた、立志の石はどこかに移設されているのだろうが広場が 見られなくなったのはやはり寂しいものだ。
校舎の正面まで来た時に「このあたりはあまり変わってない?」と嫁さんが聞く。僕は入口の玄関の下駄箱と校舎正面の 蘇鉄を見て頷いたが大きく変わっている物が目に入っていた。それは職員室の前面に掲げられた大きな看板である。 その看板には『校訓 至誠一貫』と描かれていた。でも待てよ、我が中学の校訓は至誠一貫で終わりではない。 『至誠一貫、自ら進んで学業に励み、以って国家社会に有用な人間となれ』と続いているはずだ。こういう端折ってしまう ところに今の中学校の姿勢・体質が出ていると僕は思う。中学生の本分はまずは学業、それは校訓にも謳ってある。それを 校訓の看板からはしょるとは。それに看板も無地ではセンスがいまいち、厚めの縁取りをして背景に極薄めの緑を入れれば 我が中学校の校訓の看板らしくなると思うのだが。でも口は挟むまい。校庭も少し変わった様に僕には見えた。
中学校を出てしおり橋を渡ると嫁さんは右?にハンドルを切った。旧道は僕の通学道、両側の景色にも思い出が 詰まっている。農協の手前で左折して特老へと向かう。
特老に着くとIさんが連絡を入れに行ってくれる。そしてばあちゃんが特老のスタッフとお袋と一緒にやって来た。 ばあちゃんと会うのは1年振りの事である。ばあちゃんは今年で103才になったという。年の割には元気だと 言うべきなのだろうが、僕の頭の中には本当に元気な頃のままのばあちゃんの姿しか残っていないので今のばあちゃんの 様子を見ると寂しくなってしまう。それはばあちゃんも同じ想いの様で二人が顔を合わせるといつも二人とも涙目に なってしまう。僕が子供の頃はばあちゃんはいつも傍にいてくれた、そして色々教えてくれた、色々な所にも 連れて行ってくれた。ばあちゃんっ子だった僕は昔も今もばあちゃんの事が大好きなのだ。もしも僕が元気だったら ばあちゃんを色々な所に連れて行ってあげられるのに。
ばあちゃんが僕に話しかける事はほとんどない、ただ僕の顔を見つめて少し口を動かしている、そして僕の傍に来て僕の 手をやさしくさすってくれる。僕にはそれだけでもう十分にばあちゃんのやさしさが伝わってくる。それから軽トラックの 中にいた親父を呼んで記念撮影。そして別れの時。今度ばあちゃんと会えるのはまた一年後の事だろうか、でもそれなら それでいい。僕は今度も元気なばあちゃんに会いたい・会えればいいのだから。
ばあちゃんたちに見送られながら特老を離れて家に向かう。家に着くと訪問看護師さんたちが待っていてくれて優しい 笑顔で「お帰りなさい。」と迎えてくれた。そしてすぐに僕を自動車からベッドへと移乗してくれて、汗ばんだ身体を 暖かく湿らせたタオルで拭き着替えをしてくれた。底で僕は人心地つきゆっくりと部屋の中を眺めた。今日はやけに 僕の部屋が小さく見えた。今日からまたここで暮らす事になる、みんなに迷惑をかけながら・・・・・。

8月17日 退院の日
今日退院するという事で、朝一番にお風呂に入れてもらう。経管栄養が終わったばかりの胃と肺にはちと負担を感じたが ありがたくお風呂をいただいた。そして残りの時間でこうしてパソコンを打っている。
今回の3週間の入院を振り返ってみてもほとんど不自由を感じる事はなかった。以前からいる看護師さんたちが 新しく病棟に来た看護師さんたちに上手く僕の情報を伝えてくれていた様だ。ありがたい事だし嬉しい事だ。

8月14日 U先生のリハビリ
今日のリハビリにはK先生の代理として作業療法士のU先生が来てくれた。
U先生にリハビリをしてもらうのは初めてだけどこれまでU先生には色々な事でお世話になってきている。マウスや家で 使っている呼び出し用のコードレスのスイッチを見てもらをらったりもした。そして前回入院した時には右手の薬指用の スイッチを作ってもらった。これはなかなかの優れもので家ではこれをコードレススイッチに無理やり接続して右手薬指で 押せるスイッチとしても利用していた、残念ながら今回入院する直前に作動しなくなってしまったが。
今回も入院すると直ぐにまたお世話になった。足でおすナースコールが見つかっらなくて結局U先生に作ってもらった。 その上右手薬指の修理までお願いしてしまった。
K先生とU先生とではリハビリの質が少し異なる。それが理学療法士と作業療法士との違いからきているのかどうかは僕には 分からない。でもどちらのリハビリも僕には心地いいしありがたい。それにリハビリ中に二人が話してくれる話も大分違う。 K先生はリハビリ中には社会情勢の話をしてくれる、それに対してU先生はリハビリやスイッチに関する話が中心だ。 僕にとっては二人の話はそのどちらも面白く興味深い。
前回入院した時も今回もU先生は色々なスイッチの部品やセンサーを見せてくれたりスイッチの原理を話してくれたり スイッチを目の前で作って見せてくれた。そして今回入院した時に依頼していた右手薬指用のスイッチの修理も間違いなく すませてくれている。そんなU先生の様子を身近で見ていたので、僕も自分で自分の身体に合ったスイッチを作って みたくなった。もちろん上の息子が強力な助手に成ってくれればの話だが。

8月10日 リハビリ
夕方6時前理学療法士のK先生がやって来て入院してから5回目のリハビリをしてくれた。
昨日立たせてもらった時から感じていたのだが、立たせてもらってから立位を保持している時に前に倒れそうになるのを 大分我慢出来る様になっている気がした。その事はK先生も感じた様で昨日から立ち上がり・立位保持・腰ひねりに加え 身体を左右に動かす運動も追加してくれた。
僕は思うのだ、たとえALSでも全ての筋肉が同じスピードで萎縮・退化していく訳ではないのだから、残っている筋肉や まだ動いている部分を出来るだけ自分で事ある毎に動かせる分だけ積極的に動かす、そしてリハビリの先生や 看護師さんたちに少しぐらいは痛いかなと思うぐらいによく動かしてもらう、こうする事でいつまでも動く可能性は あるはずだと。
K先生は来週は夏休みとの事、次回K先生に会えるのは順調に行けば冬休みの予定だ。K先生は自分が休みの間も何回か リハビリを受けられる様に人の手配までしてくれていると言う。ありがたい事である。

8月6日 保健室は
昼過ぎに嫁さんと共通の友人のYが一緒に遊びに来た。その時のYとの雑談の中の話によると、最近の生徒の保健室に訪れる 目的が昔とは変わっていると言う。
僕らが児童・生徒の頃は、遊んでいて怪我をした時やさせた時に保健室に行って保健室の先生に消毒をしてもらったり 赤チンを塗ってもらっていたものだった。そういえば高校2年?の冬、朝方に寒くて目が覚めて雪が積もっていると 感じたので、始発の6時前の列車に乗って学校へ行き、誰の足跡も付いていない校庭を走り回り満足感に浸りながら 雪だるまを作って遊び回った。そしてその後保健室に行って、授業開始のチャイムが鳴るまでストーブの前に居座って 凍てついた身体を温めていた。僕の保健室利用法はこのくらいのものだった。
ところがYの話によると最近の保健室は生徒のカウンセラー室を兼ねたようになっていて、友達にも親にももちろん 先生にも打ち明ける事が出来ない悩みを抱えた高校生がYのところに話をしに(相談しに)来るのだと言う。そういえば 以前テレビで教室に馴染めない児童や生徒が一日を保健室で勉強しなが過ごす姿が映し出されるのも見た事もあった。
僕は想いを内に溜め込むような性格では元々ないから学校に行っている時に人に相談しなければならない程悩んでいた という覚えはないし、周りを見回してもそれ程悩み思い詰めていた仲間は一人しか思いつかない。児童や生徒たちが心の 内にこれほどの悩みを抱えるようになったのは一体何故なのだろうか?
僕には日本国民のある種の豊かさ・裕福感が子供たちの心の内に苦悩や悩みを与えてしまったのではないかと思える。 そしてそんな子供たちに育ててしまったのは、昭和30年以降に生まれた僕らの世代だと思うのだ。
僕らが子供の頃には色々な物を分け合ったり持ちあったりしながら育った。遊びの時も近所のあんちゃんたちか 色々な物の作り方教わり、それらを使って一緒に遊んでもらっていた。そんな家庭や近所との関係の中から人を思いやる 心や助け合う心それに人としての礼儀が自然に身に付いた。
ところが僕らが子供の時にみんなでもやいっこしていた反動か、僕らの子供たちには一人一人にいろんな物を 買い与えてしまった。食事にしてもひとつの食べ物を分け合って食べる事は少なくなりそれぞれ皿に一人一人の食べる分が きちんともりつけられ、食いっぱぐれもしない代わりに譲り合いもする必要がない。遊ぶにしてももう既に出来あいの物を 買ってもらっているから、近所の兄ちゃん姉ちゃんに色々な物の作り方や遊び方を教えてもらったりみんなで集まって 大空の下で何かをする事も少なくなっていると思う。そのような状況の中で人を思いやる心や互に助け合う気持の希薄な 子供たちが少しずつ増えてきたのではないだろうか。また外でみんなと遊ぼうとしない様な子どもたちの中から極端に 人付き合いが出来ない子も出てきているのではないだろうか。
僕は家庭でも学校でも礼と義は昔の様に厳しく教えてしつけなければいけないと思っている。しかしYによると僕らの世代の 思いや考え方は今の若い世代には通じないというより理解出来ないのだと言う。だから今の高校生の世代に合わせた 考え方で説明しなければならないそうだ。難しいものだなあ。

8月4日 息子たちと遊びに行けたら
3時過ぎ車椅子に座らせてもらっている時に両親が息子たちを連れて遊びに来た。昨日まで4人で新幹線に乗って 姉ちゃんのところまで遊びに行っていたので、その報告もかねて会いに来たのだ。
そこで「どうだった?」と聞くと、「面白かったけど疲れた。」という答えがかえってきた。「どこに行った?」と聞くと、 上の息子が日付ごとに教えてくれたのだが行ったことが無い場所ばかりだったので全然様子は分からなかった。それで 「今度の事を作文に書いたら?」と言うと、上の息子は「夏休みの宿題に作文は無いから・・・・・。」とつれない返事、 下の息子は今書かされているところだとの事だった。本当は息子たちの書いた作文でも読ませてもらって息子たちの様子を 少しでも知りたいと思っていたのだが、仕方がない。
もし僕が元気だったら、もし発病するのが後20年遅かったら、夏休みの暇な時には息子たちを山や川や海に連れ回して キャンプや釣りや貝取りをして遊び回っていただろう。そしてそこで僕が子供の頃に親父から教えてもらった事やいつの 間にか身に付けていた事を、息子たちに得意げに教えていた事だろう。でも今となってはそれは不可能だ。
せめて息子たちが僕が親父から教えてもらった事を聞く気にでもなってくれれば、親父に頼む事も出来るのだが。今では 息子たちの周りには楽しく遊べるものが一杯あるかなかなか親父(おじいちゃん)について行きたいという気には ならないようだ。
僕が子供の頃には親父の運転するバイクの後ろに乗って川や海に連れて行ってもらって、ツカニ取りや鰻取りや貝取りを したものだった。その意味では川や海では親父は僕の遊びの師匠だった。その遊びを息子たちに伝えてあげられないのは 悲しい事である。

8月○日 物はいつか必ず壊れる!
作られた物はいつか必ず壊れる、それは当たり前の事だ。そして壊れたらもう一度直せばいい、どうしても直らなければ また自分たちで買うからいい、もう5-6年も使い古した物なのだから。本当に気にする事はないんだ。たとえ人の手が 加わっていても、また頼めばいいんだから。
僕が本当に恐れるのは、今までに築いてきた人と人としての関係が崩れる事、君が今までと同じ表情を見せて くれなくなってしまう事だ。君が初対面の時の表情に戻ってしまうのが怖いのだ。
君には・君達にはこれまで一杯世話になってきたし、これからだってまたいろいろ世話になるのだから。もし僕の手や 指さえ動けば、その場で確認出来たのに・直ぐに直せたかもしれないのに。今の僕には「気にする事はないよ。」と だけしか言えない。



7月
7月31日 久し振りのK先生のリハビリ
夕方理学療法士のK先生がリハビリに来てくれた。K先生にリハビリをしてもらうのは前回入院した時依頼だから 4ヶ月振りになる。
K先生のリハビリはいつものように丁寧でやさしい。それに手足を動かしながら政治や社会の情勢などの話もしてくれる、 それが僕には合う様なのだ。
手足を一通り動かしてもらったら首と脚に装具を着けてたつ練習、この時の装具の着け方もK先生は最も上手くて立った 時でも首がぐらつく事はほとんどない。
K先生はまずベッドに座らせて上半身を引き上げる。その時脚やひざや腰に力を込めると装具さえ着けていれば何とか 立ち上がることが出来るのである。ただこのところ立ち上った時に腰骨の上に上手く上半身を乗せる事が 出来なくなってきて前に倒れそうになるから、元の立位の体勢に何度も何度も戻そうとするのだがそれがなかなか 難しくなってきている。きっと体幹の機能が更に弱ってきているのだろう。悲しい事だが 諦めるしかない・・・・・のかなあ。
K先生は立ち上がりそれに立位保持と腰のひねりの運動を合計5回繰り返し練習してそしてベッドに戻し最後に ナースコールを調整してくれる。K先生のリハビリの時間は約30分だが、僕にとってはとても楽しみにしている時間に なっている。リハビリは週に2-3回だがK先生と病棟の看護師さんたちが毎日1度は車椅子に座らせてくれているから、 病院でもある程度運動機能を保つ事が出来ているのだろう。ありがたい事である。

7月30日 参議院選挙の結果
昨晩は遅くまで選挙の報道番組を見てたし、今日も朝早くからテレビを点けてもらって参議院選挙の最終結果を見た。 それにしてもテレビの出口調査はたいした精度だ。僕は昨日はテレビ朝日系の選挙特番を見ていたのだが、出口調査と 最終結果とがほとんど一致した。
結果はもうご存知の事と思うが政権与党の惨敗、民主党の大躍進に終わった。自民党の50議席割れは当初から各局で 連日のように報道されていたから、選挙当日になって自民党があまりにかわいそうとの揺り戻しさえなければ 負けるだろうと思っていたが、ここまで大負けするとは思ってもいなかった。
結局安倍総理の年金問題が表面化してからの対応の鈍さ・鈍感さ(2月に野党から5000万件の宙に浮いた年金問題を 指摘されながらも、実際に政府がこの対応に動き出したのは参議院選挙が巷の話題に上りだした5月から)と、 安倍総理の重要法案は参議院選挙前に何が何でも成立させるという強い指示の下我々の将来を大きく左右する 教育基本法改正法・国民投票法・政治資金規制改正法・公務員法改正法(天下り禁止法:俗称)・社会保険庁解体法などの 重要法案を衆参国会で十分に時間を費やして審議する事もしないで、問題点を多数含んだままかつ抜け道まで残して 強行採決までして強引に通した自民党の国会運営のやり方に無党派層だけではなく一部の自民党支持者も鉄槌を 下したという事なのだろう。
それにしても以外だったのは、公明党が議席を減らした事である。元来公明党は創価学会という頑強な支持基盤を 保持している。だから投票率が低ければ議席を伸ばし投票率がかなり高ければ議席を減らすとの構図のはずだった。 ところが今回の参議院選挙の投票率は、50%半ば?とさほど高いとは言えなかった。だのに公明党は議席を減らした、 それは何故?。公明党は元々は中道路線をとっていて庶民生活に軸足を置いた政治を目指しているはずだ。そのいい例が 10年程前の事になるが、政界の一部からは馬鹿げた政策と揶揄された『地域振興券』を一定所得以下の世帯に支給した 事があった。僕も個人的には地域振興券という一時的なばら撒き政策は評価していなかったが、僕の家も助かったし よその家々も喜んでいただろう。また地域の商店街もその時期には潤っていたに違いない。その時の公明党は間違いなく 庶民生活に軸足を置いていた。でも今の公明党は政権の中枢に留まるために自民党に擦り寄っているようにしか見えない。 もしかしたら、創価学会の会員も同じ様に感じているのかもしれないし強行採決に賛同した公明党にも憤りを 覚えているのかもしれない。そうした中の一部の創価学会の会員が今回は選挙活動に参加しなかったし投票に 行かなかっただけかもしれない。
一方大躍進した民主党は、政権交代のための二大政党制の競技のスタートの準備が出来たに過ぎない。政権交代の スタートラインに立ってスタートをきり走り始めるためには、いずれそう遠くない時期に行なわれるであろう 衆議院選挙までに民主党でも政権能力をになう力がある事の一端でも国民の前に示さなければならない。そのためには まずは国民生活に密接した法案・政治家の金の流れを自ら正す抜け道の無い法案を議員立法で提出し、与野党間で白熱した 議論を展開した上で成立に導かなければならない。またマニフェストに示した内容の政策を実現するための財源を 一般会計・特別会計の中からどのようにして予算化するかの道筋を、次期衆議院選挙までにある程度国民の前に示す 必要がある。それと同時に、民主党の中にくすぶり続けて自衛隊の国際貢献のあり方や憲法などのイデオロギーの ばらつきを、開かれた形の話し合いである程度党としての方向性をまとめる事が必要になると思う。
個人的には速く政権交代が出来る二大政党(群)が存在する国になって欲しい。政権交代が起こる国になれば 現在のような官製談合も極めて少なくなるだろう。そしてその結果今も刻々と増えつつある国の借金をようやく 減らす事の出来る国になれるのかもしれない。

7月29日 参議院選挙当日
朝からテレビを点けてもらい参議院選挙の投票率を見ているが、なかなか前回の3年前の投票率を上回らない。 結局夜時半の推定投票率は44.8%と前回を2ポイントほど下回っていた。幸い期日前投票を行なった人が 1000万人強いるという事だから前回の参議院選挙の投票率を下回る事はないだろう。
今回の参議院選挙は、安倍政権および政権与党の政治姿勢を問う(宙に浮いた年金の処理の問題・政治と金の問題・与党の 国会運営における政治姿勢)選挙だったのに、今回も低投票率に終わった。行政も投票時間を午前7時から午後8時までに 延長したり不在者投票(選挙当日仕事など特別な理由が認められる場合のみ事前に投票が可能)から期日前投票(当日 レジャーに行きたいから等という特別とは言えない用事の場合でも事前に投票できる)も出来るように改善したのに、 それでもなかなか投票所に足を運ぼうとしない我ら日本国民はなんと政治に関心を示す事の苦手な民族なのだろう、 行動を起こす事の嫌いな人間なのだろう。
今日は今から夜半まで選挙特番を見る事になるだろう。結果が心配でもあり楽しみでもある。

7月27日 病院に着いて
12時過ぎ病院に到着、早速病棟へと向かう。今回の病室も前回3月まで入院していた時と同じ病室で同じ場所だ。だから 窓から目に入る木々や空も何ら変わらない。でも日頃27-8℃に部屋のエアコンの温度を設定している僕にとって夏の 病院は寒すぎた。
ただ4月の初めに人事異動があったようでしかも新人も入ってきているので、病棟のスタッフもかなり代わったと 聞いている。新しいメンバーと上手くコミュニケ−ションが取れるのか少しばかり気になるところでもある。それに今回の 人事異動で病棟で4年間僕の受け持ちをしてくれていたO看護師も他の部署に移動になり、代わってY看護師が新しく 受け持ちになってくれた。でもまあYさんとは十分に意思の疎通が取れるし話もよく聞いてくれそうだから不安は 感じてはいない。また、たまたま病室に来た顔見知りの看護師さんたちもみんな「いらっしゃい。」と声をかけて くれるから・・・・・、「まあ良いか」という気になってくる。
一通り別途の周りの整理が済んで最後の仕上げというところで問題が発覚、僕が長年慣れ親しんできたナースコール用の スイッチ(オーバーテーブルの下に貼り付けて右足の先で蹴り上げて鳴らすスイッチ)が行方不明になっているとの事。 そこで作業療法士のU先生に代替品のスイッチを作ってくれる様に依頼していると言う。そのためスイッチが 出来るまでの間、嫁さんと僕の様子を窺いに来てくれていたO看護師は僕の傍についてくれていた。その間に交わしていた 話のついでに「最近右手用のスイッチの反応が不安定になっているのでU先生に見てもらいたい。」とお願いした。Oさんは U先生に連絡を取ってくれてから仕事に戻って行った。
しばらくしてU先生がナースコール用の代替スイッチを持って来てくれてオーバーテーブルの下に設置し始めてくれたので 嫁さんは安心して帰って行った。ただU先生の持ってきてくれたスイッチはこれまで使っていたスイッチの三分の一ほどと 小さく、しかもスイッチとナースコールとの接続部がミニジャック方式なので少し不安だが、以前使っていた ナースコールが見つかるまでという事なので都度コールが鳴るか気にかけておく事にしよう。
みんなが去った後はベッドにひとり、また病室の天井の模様と代わり映えのしない窓の外の景色とテレビとパソコンを 見ながらしばらくここで過ごす事になる。

7月27日 今日から入院
今日からまた3週間あまりレスパイト入院、今週に入って何故か急に足でのマウス操作がし辛くなり、またマウスも クリック操作がダブルクリックに頻繁に感知されてしまうというパソコンを扱うには最悪のそれに入院の日が刻々と 迫って来てその上退院を遅らせてくれないかという嫁さんの希望もはいって、発表用の資料作りには四面楚歌に似た コンディションの中で発表用のスライドと読み上げ原稿の原案をやっとの事で作って送った。その代わりメールの対応は 2週間以上放っておいたままだった。申し訳ない。
今回のスライド作りは上の息子がかなり手伝ってくれたので助かった。

7月22日 参議院選挙まで1週間
参議院選挙まで残すところ後1週間、鷹派色の強いそして強引な手法で国会運営をしてきた安倍内閣・政府与党と退路を 経って参議院による与野党逆転とその先の政権交代の最後の機会と訴える小沢一郎に国民はどのような審判・判断を 下すのか、投票率はどこまで上がるのか興味深いと同時に国民の認識・良識が問われている選挙だ。願わくは投票にだけは 行って欲しい、投票しないという事はどこも支持しないのではなく結果として選挙に勝った方を支持した事に なるのだから。
安倍内閣は多くの法案を成立させた。その中には国民生活に密接した法案や国の将来を左右しかねない重要法案も多数 含まれている。でもそれらの重要法案に内容が伴っているかというとはなはだ疑問が残る。内容に不備があったり 抜け道が隠されていたりして議論が尽くされているとは言い難い、いささか急ぎすぎの感があるのは歪めない。でも なぜそうなのか、結局与野党が伯仲していないからだし政権交代されるという緊張感がないからだ。もし今まで政権交代が たびたび行われていたら、今ほど天下りに起因する製観談合も行われてはいなかっただろうし極端な話社会保険庁の ていたらくも無かったかもしれない。
僕は今まで他の人の投票行動を左右する行為はすべきではない事として忌み嫌っていたが、今回だけはみんなに野党に 投票して欲しいとお願いしたいと思っている。

7月20日 事前確認
今日午前11時ファンコムの松尾社長が僕の家がFORMAの通信エリアかどうか・モバイルスタジオが使用可能かどうか事前に 確認に来た。実は2週間ほど前の事になるが松尾社長経由で「厚生労働省関連の研究班の集まりで特定疾患患者の自立に ついてモバイルスタジオを使って自宅から発表しないか。」との話が持ち込まれていた。特定疾患患者の自立とは 難しいテーマだから自分の考えをまとめる事が出来るかどうか不安を感じたが、多くの神経内科医にヘルパーによる 吸引が田舎では進んでいない-そのために家族の介護の負担が相変わらずあまりにも大きくて共倒れしかねないという 現状を訴える良い機会だし、それに最近落ち込んでいる自分自身の精神状態を回復させるきっかけにもなると思い 引き受けた。
僕の家での松尾社長の確認はどうやら上手く行ったようだ。これで家族の夏休みの計画が立てられる。
発表用のスライドも上の息子に手伝ってもらって出来上がりの優劣を別にすれば段々完成に近づいている。なんとか 27日のレスパイト入院の日までには出来上がりそうである。後の読み上げ原稿はある程度の資料をノートパソコンに コピーしておけば入院中に作る事が出来る。発表原稿は19日までには十分間に合いそうである。

7月17日 ホームページの更新
久々にホームページの更新をした。前回更新した日付を見てみるとひと月ぐらい前になっていた、ひと月も更新するのを サボっていたとは我ながら情けない話だ。
ひとり言のページは時々書いていたからそこまでサボっていたとはちっとも思っていなかった、僕としては 2週間ぐらいにしか感じていなかったのにこれほどとは自分でも驚いたし情けなかった。ホームページを書き始めた頃の 思いはどこへ行ったのか、反省しきりの一日だった。

7月15日 博多祇園山笠
今朝4時半無事起床、コールを足で押してお袋を起こし吸引を済ませてからテレビをつけてもらう。今日は博多祇園山笠の 追い山の日。この日は毎年朝早く起きてテレビを見る事にしている。この日だけはテレビを見ながら福岡人に 戻るのだ。
4時59分、追い山が始まる。一番山が櫛田神社に入って来て『祝いめでた』を謡っている時と八番山の上川端通の かざり山が櫛田神社に入って来る瞬間が大好きなのだ。感激していつも思わず涙があふれてしまう。
それにずっと映像を見ていると懐かしい風景が時々映し出される、櫛田神社・祇園町・旧呉服町通?・大博通・大博通から 櫛田神社方向に曲がった直ぐの所にある石製の大鳥居・旧土居町通?・・・・・、仕事の後に時々通ったものだった。 ただただ懐かしい。
多分1999年だったと思うが上の二人の子供を連れて博多駅前のかざり山を見に行った。子供たちは全く覚えていない様だが、 僕にとっては山笠と子供たちとの唯一の思い出である。

7月13日 ドライブ
13日の金曜日、欧米では不吉な日という様だが何故・・・・・。
訪問看護ステーションのM所長さんが十日ほど前から「今度の金曜日に2-3時間の外出をしようと思っていますが、山が いいですか?海がいいですか?」と聞いてきた。そこで僕は考えを巡らしした挙句、「腰岳の公園の奥の駐車場。」と 答えた。あそこは木陰で涼しそうで鳥のさえずりや風の音を聞きながら昼寝をするには良い場所に思えたのだ。そして 今日がそのドライブの日なのだ。
台風4号が近付いているとあって今日は今朝から少し小雨模様のようだった。でも訪問看護師さんたちが着いた10時半には 雨は上がっているとの事だった。出発の準備を済ませて自動車に移乗させて今日は所長のMさんが同行してくれるとの事、 いつもお世話をしてもらってその上色々と気を使っていただいてありがとうございます。
嫁さんの運転する自動車は広瀬山から腰岳へと向かう。細い一本道で対向車でも来たらとてもじゃないが離合も出来ない。 舗装された細い道の端には枯葉が落ちていて幾分腐葉土化しているようにも見えた。元気だったら道の掃除を 装って土や枯葉を集めて畑の栄養にするのになあとふと思う。
腰岳の下の公園に着くと数年前まだ動ける時に行っていた頃とは様相が全く変わっていた。街路樹の桜やつつじの根元にも 広場にも雑草が生い茂り、僕に言わせれば公園の様相を呈していないと思えた。広場には木製のジャングルジムや シーソー・ターザンロープやアスレチックやお弁当を食べるのに丁度いいベンチがあったはずだが助手席に座っている 僕からはその面影も見えなかった。この公園はおそらく十数年前に作られたのだろうが十数年が経過し当時植えられた 桜やつつじも育っていて、春には花を咲かせて我々の心を潤し和めるくらいにはなっているだろうに。もし元気だったら 暇な時にこの公園に来て草刈でもするのにとまたもや思う。
広場の横に自動車を止めて「これから何処へ行く?」と嫁さんが聞いてきた。僕が今日の目的地としていた公園の奥の 駐車場へ入る道にも入口に車止めのブロックが施してあって進めない様にしてあった。暴走族対策か何かだろうが これでは駐車場を作った意味がない。それどころか公園の維持管理が出来ないのであればお金をかけて元々の自然を 壊してまでもこの公園を造った事自体意味を成さなくなる。せっかくきれいな公園を作ったというのになんとも勿体ない 話だ。それとも作った公園の草刈をシルバーさんにもお願い出来ないほどわが町の財政は窮していると言うのか、 それともこの公園の存在をわが町は忘れてしまっているのだろうか。いずれにしても勿体ない話だ。
僕がなかなか返事をしないものだから腰岳の山頂広場への遊歩道に至る取付道を指差して「こっちに行ってみようか?」と 言って自動車を進めた。この道の両側にも桜やつつじが街路樹として植えつけてあるのだが、ここも雑草があふれていた。 残念なことである。この取付道は数回通っているはずなのだがもう記憶から外れてしまっていた。遊歩道の駐車場に 入るところで嫁さんがまた「どっちに行く?」と聞く。ここでようやく僕の記憶の扉が開いた。多分この取付道は腰岳の昔の 林道を利用したようだ。この駐車場まではコンクリートで固めて舗装してあるがここから先は昔のままの泥の道で そこかしこにと雑草が生い茂っている。それにこの道は薄暗い林の中に入っていく。以前一度だけこの道を真っ直ぐに 進んで行った事があった。確かトラピスト修道院のところに出たと記憶しているが自動車の底をこすったりして本当に 悪路で苦労した覚えがあった。この道は車高の高い軽トラックか4WDの小型車しか進めそうもない、車重の重い家の 自動車で行くなんてとんでもない話だ。そう思って駐車場でUターンして戻るように促した。
公園まで戻るときれいに舗装された林道で峠を越えてピノキオの家の横を通りトラピスト修道院へ向かう。修道院に 続く道に入ると所々に青紫色をした大きな紫陽花が咲いていた。こんなに大きな紫陽花を見るのは今年初めてなので ついつい感激して顔がほころんでしまう。トラピスト修道院の駐車場に自動車を止めるとしばらく休憩、M所長が 手足を曲げ伸ばしたりほぐしたりしてくれた。これでまた身体が楽になった。それから座席を倒しドアを開けっ放しに してもらった。外からは鶯の「ほーほけきょ」と鳴く声や小鳥のさえずりが聞こえてくるしそよ風が自動車の中に 注ぎ込んでくる。今日はこういう小鳥のさえずりが聞こえそよ風を肌で感じれる自然の中でゆっくりしたかったのだ。 僕が休んでいる間に嫁さんとM所長は修道院にクッキーを買いに行った。今日始めて修道院を近くから見たが 思っていた以上にトラピスト修道院はきれいで新しいように感じた。
トラピスト修道院を後にして、鍋島藩の焼き物鍋島焼きを受け継いでいる大川内山の窯元の上の方を走る林道 腰岳−青ら線を通って伊万里市街地方面へと下りて行く。県道に出た時痰の吸引のために側道に自動車を 止めてもらってひと休憩、M所長にドアを開けて吸引してもらう。その時道端の生垣の方からミンミンゼミの鳴き声が 聞こえてきた。梅雨真っ盛りのこの時期でも夏はすぐそこまで来ているようだ。
家へ戻るルートは伊万里大橋を通って帰る事にした。僕が元気な時には伊万里大橋は出来ていなかったから今回が 僕にとっては渡り初めである。
伊万里の市街地を抜け伊万里大橋へと向かう。その途中伊万里湾内のカブトガニの産卵地に立ち寄りちょっと休憩。 そのカブトガニの産卵地の入口にある民家の小屋兼案内所の巨大な水槽の中にカブトガニがいるのをM所長が 見つけて教えてくれた。そこで自動車を小屋に横付けしてもらって水槽を見る。するとそこには30-40cmはあろうかという 大きなカブトガニが手足をゴソゴソと動かしていた。僕がカブトガニを見たのはいつ以来だろう、若かりし頃会社の 同期の仲間と福岡の西の浦に海水浴に行きその帰り道ひどい渋滞に巻き込まれて、暇つぶしに一人で今津湾沿いを ぶらついていて石垣のミナでも取ろうかと思って覗き込んだ時に石垣の間に挟まって身動き出来ないでいるカブトガニを 見つけて今度遭った時は恩返ししろよと言いながら海に放してやってからだからもう二十数年経っている。 あのカブトガニは今どこでどうしているだろうかなどと思いながらカブトガニの産卵地を後にして 伊万里大橋へと向かう。
伊万里大橋は思っていたよりも広く4車線分のスペースが確保してあった。今使っていないこの2車線分のために どのくらい余計な建設費が浪費されたのだろとついつい思ってしまう。もちろん将来建設予定の西九州道路唐津・ 伊万里・松浦・平戸・佐世保線の完成を見込んでの事だろうし伊万里湾を埋め立てて工場を誘致している企業との 約定もあるのだろうが。そもそも僕は西九州道路唐津・佐世保線は不要論なのだ。
今日一日久々に近隣のいろんなところを走り回ったが昔とは様相が一変していて残念でもあり驚きでもあった。でも 気分転換する良い機会になった。嫁さん・M所長お世話になりました。

7月11日 雷と停電の不安
昨晩は眠る時になってはげしい稲光が光り雷が鳴り始めた。こうなると停電するのではないかとの不安で 寝るどころではない。夜になると家の家族は誰も停電した事には気付かない。人工呼吸器には外付けアラームが付いていて 停電した時には確かに鳴る。でもアラームの音が聞こえるのは家の中ではおそらく僕だけだろう。だからこそ停電した 時には僕が(充電対応の)コードレスインターホンのコールスイッチを押してお袋を起こさなければならないのだ。
僕は人工呼吸器としてバイパップを使っているから充電装備は内蔵していない、そのため停電したら呼吸器はすぐ止まる。 だからといって慌てる必要はない。そのためにパソコン用のUPSを買ったのだから。UPSがあれば停電しても5分は呼吸器が 動く。5分あればお袋を起こして嫁さんを起こしてもらえる。それに大方の停電は5分以内には十分に回復すると九電の 担当者から聞いている。裏返して考えれば5分以上停電する時は長引くということなのだろう。だからその時には それなりの準備と対策をしなければない。
稲光が光り雷の轟きが聞こえてくる間隔を何度も何度も数えて雷との距離を測ると、雷は近くなったり遠くなったり していた。やがて稲光の2秒?後に大音響を轟かせて雷が近くに?落ちた。その後少しずつ遠ざかって行き・・・・・ 静かになった。これで安心して眠れる・・・かな?

7月10日 歯のクリニック
火曜日は10時から訪問看護師さんによるケアの時間、僕にとってはちょっとだけ時間が早いから最初はいつも眠気眼で ケアを受けている。ケアが終わるとそのまま車椅子に乗せてもらい1時間ぐらい経ったらまたベッドに戻してもらう。 ちょっと慌しい気もするが身体が車椅子に座って1時間もたない時がたまにある、嫁さんに無理はさせられない以上 仕方のない事だ。
そして2時からは歯医者さんの時間、Y歯科クリニックの歯科衛生士のYさんが口腔内ケアに来てくれた。僕が今日まで 数年間まがりなりもほとんど歯が痛む事もなかったのはY院長と歯科衛生士のYさんのおかげだろう、有難い事である。 この日もYさんが丁寧に僕の中のケアをしてくれた、僕があまり口を大きく開く事が出来ないのにである。歯ブラシを 使って歯を磨くのも歯垢や歯石を取り除くのもさぞやりにくいだろうにYさんはいつも笑顔で接してくれている。 2ヶ月ほど前左下奥歯の歯茎が腫れてきて違和感を覚えたのだが、その違和感も今は無くなった。これもYさんのおかげだ。 本当に有難い事だ。。
約30分の口腔ケアを終え2週間後の訪問を決めてYさんは帰って行った。Yさん本当にお疲れ様、そしていつも ありがとうございます。

7月6日 
今朝は激しい雷鳴で目が覚めた。今日は通院日、今のままでは久しぶりにずぶ濡れになるだろうなと思っていたら、僕が 自動車に乗り込む時間には偶然にも雨は上がっていた。今の内にと訪問看護師さんたちに自動車に移乗させてもらい 早々に出発した。それでも途中から小雨が降り始めたので病院では雨の振り込まない造りになっている玄関に自動車を 止め、主治医の診察・処置の受けられる救急処置室へ移動した。通りすがりの車窓から紫陽花を探してみたが、僕の通る 道にはやっぱり大きな花の束を付けている紫陽花はほとんど見なかった。
処置室に入ると主治医を待っている間に入院中のMさんが自分から会いに来てくれた。そこで嫁さんが前回来た時に撮った 写真を渡すと嬉しそうに微笑んでくれた。最近何となく面白くなく落ち込み気味だった僕の心に少しだけ光が 差し込んで来た一瞬そんな気がした。Mさんは大分元気なったようだ、Mさんのお母さんも「手術して息苦しさが なくなった様で笑ってくれるようになった。」と喜んでおられた。自分から僕に会いに来ようという積極性?も 出てきた事だしもう大丈夫だろう。これでひとまず安心だ。主治医と入れ替わりにMさんは病室に戻って行った。
主治医の診察はいつも通り、そして夏休みの入院について一言二言言葉を交わす。僕から主治医に改めて言う事はない、 何せ主治医とはインターネットの介護支援システムで毎日連絡を取り合っているのだから。
通院の帰りに川を見ると濁って太っていた。この雨はいつまで続くのだろう。水不足も解消したようだし もういいのになあ。勝手な事を言うなと怒られるかな。

7月3日 さくらんぼ
今日の午後会社に勤めていた頃の後輩Mからさくらんぼが届いた。このところ落ち込んでいたので嬉しかったし元気を もらった。
最近親父が元気がないし些細な事?で行き違いが生じるしで僕自身落ち込んでいる。こんな病気になってほぼ楽しみを 感じる事のない世の中で僕が生き続けている事にどんな意味があるというのだ、家族に大いに迷惑をかけてまでも。
僕は親父の背中を見て育った。僕が見ていた頃の親父はいつも強かった。でも最近の親父は線が細い。僕がこんな病気に なったことがすべての元凶だという事は分かっている。それでも親父にはいつまでも強い存在であって欲しいのだ。
僕は子供たちに背中を見せる事は出来ないし嫁さんに対しても何もしてあげられない、それどころか生き続ける事は 苦労を背負わし続けるばかりだ。それでも生き続けろと・・・・・。
さくらんぼはそんな僕の心を癒してくれるだろうか。

7月1日 七夕飾り
今日嫁さんは朝からお出かけ、嫁さんの入っているサークル活動で遠くまで行った様だ。嫁さんの行き先を僕が聞く事は ない、ただ訪問看護師さんたちとの会話が耳に入ってくるだけだ。
今日は日曜日で訪問看護師さんが来ない日でしかも嫁さんは自分はケア出来ないという事でヘルパーさんを頼んで くれていた。そのヘルパーさんたちが10時前に来た。そしてその時七夕飾りを持って来てくれた、丁度お兄ちゃんに 「今年は七夕さんをしたいから笹を取ってきて。」と頼もうかと思っていたところだったので嬉しかったし 丁度良かった。
さて短冊には何を書こうか、『元の元気な身体にして欲しい』と書くのも白々しい気がするし・・・・・。



6月
6月30日 竹炭シーツ
数日前パソコンに向かっていた嫁さんが突然「竹炭シーツを買っていいか?」と聞くのでOKを出した。どうやら嫁さんは 寝たきりの僕のマットレスが毎日寝汗でびっしょりになりしかもだいぶ前に買っていた竹炭シーツも黒かびまみれに なってきていたので質の良い竹炭シーツを探していた様だった。その竹炭シーツが昨日届いた。見ると6年前嫁さんが 作ってくれた竹炭シーツと同じ様に和紙と砕いた竹炭で出来ていて、今まで買っていた竹炭シーツの様に竹炭の粉を 練りこんだ物と違い立派なものだった。
そこで早速訪問看護師さんにマットレスの下に敷いてもらうと更に柔らかくなった用で寝心地も悪くなかった。ところが パソコンを使ってみると足でマウスが操作出来なくなっていた。竹炭シーツが立派過ぎて厚みがありしかも少し短いので 押さえが出来ないしクリックが利かないのだ。これは困った、クリックが利かないのでは工夫の仕様がない、 ハーティラダーさえ使えないのだから手も足も出ない。2・3日使っても慣れなかったらこの竹炭シーツは諦めなければ ならない。嫁さんに何て言ったらいいのか・・・・・。

6月28日 倦怠感?
この数日間肘や膝の関節が少し痛いし体が少し熱っぽくってだるい。精神的なものからきている?それとも気温の変化に 身体が付いていかないのか?。
我々の様な体温調節をする事の難しい身体を持つ者にとってはどうしても身体に合わない時期があるものだ。僕の場合、 気温(室温)がある程度を超えると体温も上がってしまい熱が出た時と同じ様に肺を動かす筋肉が弱ってしまって疲れて 来る様だ。
夏も冬もアウトドア派だったこの僕がこのように気温に左右される身体になってしまったなんて。夏の週末には 毎週のように海へ行き真っ赤な太陽の下で真っ黒になって遊びまわっていたのに、冬にはスキー場の息も凍るような 所までリフトで上がってスピードとスリルを楽しんでいたものだったのに。我ながら情けない話だ。
今ではエアコンのわずかな温度の変化にも微妙に反応する身体になってしまった。エアコンの冷房・除湿の設定温度の 27℃と28℃の間に大きな壁を感じるのだ。27℃では露出している部分は寒いけどバスタオルがかかっている部分は ああせばむ、28℃は暑過ぎる。いっその事室温を極端に下げて冬支度で過ごそうかとも思うのだが・・・・・。 省エネが叫ばれている中そうもいくまい。

6月22日 
通院日、夜半から激しく降っていた雨も僕が通院する時刻にはすっかり上がっていた。これで今日も濡れずに 済みそうだ。
訪問看護師さんたちにベッドから自動車まで移乗させてもらってしばらく庭を眺める。でもこの時期僕の家の庭には 色鮮やかな花は僕の座っている座席からは見る事が出来なかった。梅雨の時期に一番似合う花は紫陽花だけど、僕の 家の庭には紫陽花は植えてはないのだ。だから今日の通院では車窓から紫陽花の花を探しながら行こうと思っていた。 けれども紫陽花の花は路傍の道端や家々の垣根にはなかなか見当たらなかった。また見つかったとしても紫陽花の 小さな花の束の集まり方が少なくて目に入らなかった。紫陽花はたくさんの葉っぱの中に大きな花の束が咲くから 綺麗なのにポツポツ咲いていても様にならない。なぜだろう、今年の気候が関係しているのだろうか?。
病院に着くと主治医が来るまでのしばしの時間看護師のOさんとバイタルをとってもらいながら雑談、僕は 気になっていた一週間前に気管切開の手術を受けたMさんのその後の様子を聞く。するともう1階の病棟に戻って 来ていて経過も順調で精神的にも安定しているとの事、僕は気持ちの部分を心配していたのだがこれで一安心。
主治医の診察を受けこれといって大きな変化はない事を確認してもらいカニューレを交換してもらったら今日の診察は 終了。その後Mさんが車椅子に乗りお母さんに押してもらって会いに来てくれた。Mさんは顔色もよく表情も豊かに なっていて笑顔も見せてくれた。Mさんのお母さんによれば気管切開して呼吸が楽になった事で顔色が良くなったし 痰の吸引の回数も多くはないとの事。この事を聞いて僕は肩の荷が少し下りた気がした。それから写真を撮り さよならした。お別れする時にMさんに対して「どうにかしてどこかでスイッチを押せる様になるように。」と注文を 出したら、Mさんは悲しそうな顔をした。でもスイッチが押せるようになれば何とかすればパソコンも使えるようになる。 パソコンが使えるようになればMさんの世界もまた広がる。僕はMさんにも少し外に目を向けるようになって欲しいのだ。 諦めないで動くところを自分で認識して動かして欲しいのだ。
病院からの帰り道川を眺めてみるとかなり増水して濁っていた。夜半からの雨は結構降ったという事だ。これで お百姓さんも喜んでいるだろう。そういえば麦の刈り取りがすんだ田んぼ以外の田んぼはもう田植えも 終わっていたなあ。

6月17日 福岡へ
日本ALS協会福岡支部の支部総会へ出席するため福岡へ行く。今回は看護師さんたちの都合がつかなかったために ボランティアで運転を買って出て下さった役場の健康福祉課の課長さんと嫁さんの3人で行く。その意味で今回の 外出は初めての体験となった。
障害者療養施設のヘルパーさんたちに自動車へ車椅子を使って移乗介助をしてもらう。初めての事で不慣な点は あるけれど文字盤でコミュニケーションを取って一つ一つの動作を確認しながら確実に進めていってくれる。 長年の付き合いで何もかも分かってやってくれる訪問看護師さんと違ってその分時間はかかってしまったけれど、 この際それは問題ではない。如何に気分良く相対してくれたかだ。その意味でも今日のヘルパーさんの介護は 十分だった。
運転していただける役場のM課長さんや嫁さんも自動車に乗り込みヘルパーさんたちやお袋に見送られながら福岡に 向かっていざ出発、夜半から激しく降り続いていた雨も自動車に移乗してもらった時には上がっていて幸先のいい スタートだった。国道202号線・唐津バイパス・二丈浜玉有料道路・今宿バイパス・西九州自動車道福岡前原線・ 福岡都市高速道路1号線を通り福岡都市高速道路を百地出口で降りた。そしてヤフードームの横を通って総会の 会場である福祉プラザへ向かう。福祉プラザの地下駐車場に待っていてくれた言語聴覚士を目指すボランティアの 学生さんたちに車椅子へ移乗してもらい車椅子を押してもらってエレベーターに乗って会場へと向かう。受付を 済ませて総会の会場に入ると総会は始まっていた。呼吸器を着けている関係で電源の置いてある会場の一番前まで 学生さんに連れて行ってもらうと、すぐ隣に会長のFさんと奥さんの姿が目に入った。でもF会長さんたちの他はいつも 参加しておられるメンバーの姿は見当たらなかった。今回の総会はなんとなくいつもと少し違う雰囲気がした。
粛々と議事が進行していく中で来賓として招かれている国会議員の挨拶を聞く事が出来る時間が来た。ほんのわずかな 時間だが我々?の選出した国会議員の生の声を聞く事が出来る機会は他にはない。我々の選出した代議士が国会の中で 福祉や難病対策に対してどのような動きをしてくれているかを聞く事が出来る唯一の機会である。その意味でも総会に 参加する楽しみのひとつのにもなっている。
総会の議事がつつがなく終わると今度は基調講演の時間、この基調講演を聴ける事も総会に参加する楽しみのひとつだ。 本日の講演の講師は佐賀大学理工学部の新井教授そして講演のテーマは「視線入力システム」。これまで新井先生には数回 お目にかかり研究室で開発中の視線入力システムは何度も体験しているが、視線入力システムの原理を聞いた事は なかったので講演を聴けるのを楽しみにしていた。
新井先生の講演が終わると少しの休憩を挟んで交流会に入った。司会はいつも二人が勤めていた、この二人の姿を見て 僕は少し安心した気分になった。司会の指名により応対している患者・家族の受け答えを聞いていると、F会長と 僕のところ以外の患者・家族は初めて参加されている様だった。しかもこの一年以内に告知を受けている様だった。 そのため多くの方がこれからの生活と看護・介護の不安を口にされていた、丁度僕が2000年に初めて総会に参加した時の 心境・状態なのだろう。
交流会が終わると記念撮影をして解散、そこへALSで寝たきりの患者さんを担当しているという理学療法士の方が どのように接したらいいかと質問に来た。そこで出来る事ならば体幹と呼吸機能を少しでも維持するために毎日 わずかな時間でも良いから座らせてあげてくださいと答えた。また帰りの準備を手伝うために多くの言語聴覚士を 目指す学生さんも集まって来た。学生さんたちは何か質問したいが何を聞いていいのか分からないという風に見えた。 そこで嫁さんは僕と言語聴覚士の先生との出会いや言語・嚥下訓練がどんなに大切かという事また言語聴覚士を はじめとするリハビリの先生にももっと早い段階から関って欲しいと言っていたし、僕も怖がらずに積極的に接して 欲しいし妻の言った事を他の学生さんにも伝えて欲しいと告げた。
それから学生さんたちに地下の駐車場まで連れて行ってもらい自動車に乗せてもらって学生さんたちに見送られながら 福祉プラザを後にした。こうして希望を抱く若い学生さんたちに接する事が出来る事も福岡の支部総会に参加する 楽しみのひとつになっている。
福祉プラザから福岡都市高速百地入口までの道はヤフードームでソフトバンクとジャイアンツの野球の試合がある事も あって思った以上に混んでいて行く時の3倍以上の時間がかかった。それでも都市高速に乗ってしまうと後は順調で 1時間半弱で家に着いた。
家にはヘルパーさんたちが待機してくれていてすぐに自動車からベッドへと移乗してくれた。それから着替えを済ませ 僕の足腰の曲げ伸ばしやマッサージを丁寧にしてくれた。日頃長時間座る姿勢をとる事のない僕の足腰はかなり 痛がっていたがヘルパーさんたちのマッサージで元気を回復した。そして・・・・・M課長さんとヘルパーさんたちは 帰って行った。一人残された僕は今日の余韻を振り返る。
M課長さんそして障害者療養施設の相談員のMさんならびにヘルパーの方々それから学生さんに嫁さん、今日一日本当に お世話になりました。ありがとうございます。皆さんのおかげで貴重で有意義な一日を過ごす事が出来ました。 これを機会に外出のやり方を考えてみたいと思います。

6月16日 友遠方より来たる、また嬉しからずや
会社に勤めていた頃から友人Mが嫁さんを伴って午後3時過ぎに訪ねてきてくれた。そしてかなり前から接触不良を起こして 動かなくなっていた右手薬指を使っての呼び出しコール用のスイッチを修理してくれた。いや修理してもらいたいがために 遠くに住んでいるMをわざわざ呼び出したと言った方が正確だろう。田舎にいる気軽に修理を頼めるだけの友達の名が 思い浮かばなかったのだ。田舎ではそれほど浅い付き合い方しかしてこなかった事の裏返しだろう。若い時からの自分の 行いを反省するしかない。
Mにやってもらった事は、@以前近所の電気屋さんに丸スイッチ内部の回路に右手薬用のスイッチからのコードを 接続してもらって右手薬指でも家のインターホンが鳴る様にしておいたのだが、丸スイッチの内部の回路の接続部で 接続不良を起こして右手薬指ではインターホンを鳴らす事が出来なくなっていた、その修理A右手薬指用の利便性を 増やすためコードの途中にミニジャックのオス・メスを付けてもらう事Bパソコンの画面をテレビにも表示できる様に テレビコンバータを買って設定してもらっていたのだが、雷の影響?で誤作動を起こす様になっていた、そのオール リセット。特に丸スイッチ内部の接触不良を直すためにはおそらく精密部品の半田付けが出来なくてはいけない。それが 出来る友人は会社時代の友人MとOしか思い浮かばなかった。丁度そんな時Mからメールが入った。僕は渡りに船とばかりに Mにメールで頼んだのだった。
Mと奥さんが仲良く作業をしている様子を僕は車椅子に座りながら見ている。さすがに本職だけあって上手い。本当は 上の息子にMが作業している様子を見せてあげたかったのだが、前日の雨に打たれて気分が悪いといって寝ていたので 仕方がない。
Mには昔からずっと迷惑をかけていたし世話になっていた。それに若い頃はよく一緒に遊んだものだ。Mは昔から自動車の 運転が好きだったのでもっぱらMの運転で近くの山々から耶馬溪・九重・阿蘇・高千穂付近を走り回ったものだった。 四国も走ったこともある。また海でもよく一緒に遊んだものだった。それが高じて沖縄や先島あたりにも数回グループで 行って遊んだ。そのグループの中にMと僕は必ず入っていた。今でも時々その頃の事を思い出す。
これからも家族・Mをはじめとする会社時代の友人や田舎の友達・僕が自宅で療養生活を送る為に関わってくださっている みなさん・病院の主治医や看護師さんやリハビリの先生・行政関係者などたくさんの人たちに迷惑をかけながら 生きて行くのだろう。楽しみなどほとんど見出せない中で自分がどうして生き続けているのかと思い悩みながらも生きて 行くのだろう。たまに来る「また嬉しからずや」の出来事を楽しみにしながら。
これまでほんとうにありがとうございます。そしてこれからも皆様にはご迷惑をかけ続けますがどうぞよろしく お願いいたします。

6月15日 コムスン
最近テレビでは連日コムスンのニュースを流している。確かにコムスンおよび親会社のグッドウィルの行った事すなわち 申請時より訪問介護事業開始時のヘルパーの人数を減らしていたのに自治体に対して補助金を水増し請求していた事・ そしてその事が発覚すると連座制が適用される前に事業所を廃業して連座制逃れを意図的にしていた事など許される 事では決してない。だが利用者の立場から見た時今回の厚生労働省の処分の内容すなわちコムスンの各地の介護事業所の 次回の更新を認可しないという処分内容はあまりにも厳しくてまるで見せしめのように思える。
そもそもどうして連座制が必要なのか。確かに介護事業の運営には会社のトップの方針が左右するだろう、しかし 介護そのものは基本的にはここの介護事業所の所長およびヘルパーさん個人の資質が大きく左右するものではないか。 自治体が介護事業所を認可・運営の許可を与える時に申請時の書類を見ただけで認可を与えるのではなく、介護事業 開始時に現地に実際に足を運んで申請内容に間違いが無いかチェックする事を怠った自治体側にも問題が あったのではないか。
それに会社のトップがノルマを課していることも利用者にとっては一概に悪いとは思えない。というのはノルマが あるからこそ、24時間365日介護が必要な人や我々のような吸引が必要な者の介護も引き受けてくれているのでは ないだろうか。今後訪問介護事業がコムスンから他の法人に移ったら新しい法人は24時間365日介護の方針を引き継いで くれるのかまたその中で吸引をおこなうヘルパーを派遣してくれる訪問介護事業所が現れるのかはなはだ心配である。 利用者の立場からすれば出来る事ならコムスンの各々の訪問介護事業所に対して再度訪問介護事業の申請を出し直させ 現地調査をした上で継続か廃止の裁定を各々の事業所毎に下す、法人としてのコムスンおよびグッドウィルに対しては 厳しい訓告処分や新たな事業登録を一定期間認めないという社会的制裁を与えるぐらいの制裁内容にとどめて、利用者 保護を第一に考えて欲しかったのだが・・・・・。難しい事だったのだろうか?。

6月14日 予行練習
今日午後3時前訪問看護師さんたちにベッドから車椅子に移乗させてもらう時に、17日に福岡に行く際の参考に したいからと自動車まで移乗介助してくれる身体障害者療養施設R苑の訪問介護ヘルパーさんたちと相談員の方が予行 練習を兼ねて来てくれた。皆さん訪問看護師さんの動きを注視し言葉に耳を傾けとても真剣な様子だった。また コミュニケーションの手段にもすぐに注目してくれても地盤を使い方を習って片言ながら会話もしてくれた。初めてで これだけ会話してくれるとは正直驚いてしまったし感心してしまった。
車椅子からベッドに戻る時今度はヘルパーさんたちが介護してくれる事になった。でも外出の予行練習として今回は足に 装具を着けていたしまた文字盤を使ってもらってコミュニケーションが最初からとれた事もあって僕の気持ちの中に あまり不安の影は生じて来なかった。そして車椅子から立たせてもらった瞬間日曜日はほぼ大丈夫だと思った。それほど 立たせ方に安定感と安心感があったのだ。>BR> 後で嫁さんにそう告げると案の定普段から今回来てくれたヘルパーさんたちは重度に身体に障害のある方の介護を しているとの事。それでその後のヘルパーさんの一連の動きも含めてそつの無さと安定感が感じられたのかと納得した。 後日聞いた話によると今日来てくれたヘルパーさんたちが大勢で押しかけたので僕が疲れたのではないかと 心配してくれていたとの事。ご心配なく、あれぐらいで疲れるようなやわな身体や神経は持ち合わせていない。 かえって文字盤で新しい会話が楽しめたし新たな出会いもあって新鮮でわくわくしたぐらいですよ。

6月13日 お風呂と歯のクリニック
水曜日の午後は入浴車によるお風呂の日。今日も美女4人に囲まれながらお風呂に入れてもらう。今日も美女たちの 井戸端会議の話題は昼のドラマ・年金の問題・学校の事と多様に渡る。でもこの時間が世間の風に触れられるそして世間を 味わえる唯一の時間なのだ。それにしてもおばちゃんいや美女たちの話は興味深いしとっても面白いし話の切り替えが 早い。だから油断していると話題に乗り遅れてしまう。今日も楽しいひと時を過ごさせていただきました。入浴車の 美女たちに感謝。
3時過ぎから今度は歯科衛生士の方に来てもらい久しぶりに歯と歯茎のクリニック。実は一週間ほど前から左下の歯茎に 違和感があり奥歯を噛み締めたり歯軋りする(奥歯を鳴らす)と少し痛みが生じていた。音を出す事が出来ない 僕にとってみんなから嫌われっ子の歯軋りが身近にいる人を呼び止めて僕の方に振り向かせ用事がある事を促す唯一の 手段なのだ。だからこそ昔から旧知の中である歯科クリニックの院長に早めにメールを入れたのだった。でも・・・・・ 連絡を入れるのは本当はとても気が引ける、なぜって歯科衛生士をボランティアで派遣してくれているから。
歯科衛生士のYさんが部屋に入ってくると「お久しぶりです。」の挨拶をお互いに交わす。それから早速口の中を 見てもらう。最近は口を動かす事が随分少なくなっているから口を大きく開ける事が出来ない。Yさんご迷惑を おかけします。歯ブラシを使って歯茎をやさしくマッサージしてもらっても、久しぶりだから痛い。でも我慢我慢。 そして歯間ブラシや歯医者特有の器具を使って歯垢や歯石を採ってもらって後は消毒。その間約30分、お疲れ様でした。 前回痛んだ時ほど腫れてはいないし膿も持っていなかったと聞いて一安心。
それにしても最近の消毒液は苦くなくなった、いやむしろ甘くなったなあ。Yさんの世話になりました。院長 ありがとうございました。

6月11日 五者協議
今日午後3時半から先週の役場の健康福祉課の訪問の時の提案・回答内容を踏まえて健康福祉課が音頭を取ってくれての 五者協議?が僕の部屋で行われた。本当に役場の健康福祉課の動きの早さには驚かされるが有難い事である。
集まってくださったのは僕が住んでいる地域の保健福祉事務所の保健師さん・役場の健康福祉課の課長さんと担当の方・ ケアマネージャー・訪問看護師さんそれに障害者施設の担当の方々、テーマは17日の外出支援をどうするかと 障害者施設における呼吸器装着者のショートステイ受け入れの可否について問題点がどこにあるか。
議論しあった結果、外出支援は今までは訪問看護師さんの好意に甘え訪問看護師中心に支援してもらっていたが今回は 訪問看護師さんたちに用事が入っていて難しいという事で、健康福祉課の課長さんがボランティアで自動車の運転を 引き受けてくれて嫁さんが呼吸器の管理と吸引を担当・移乗と移動介助をヘルパーさんに手伝ってもらうという事で 話が決まった。
またショートステイの方は佐賀県には夜間も看護師さんが常駐している障害者施設は二つしかないとの事、それも僕の 住んでいる地域とは離れている所に。それにそれらの施設は無条件で呼吸器装着者を受け入れてくれるのかな?。基本は 各保険福祉事務所管内に呼吸器装着者を受け入れる障害者施設があるべきだと思うのだが。
話し合いの中で保健師さんがよく「吸引は医療行為だから・・」・と口にしていたか、保健師さんがそんな事を言っている 間はヘルパーによる吸引は進むはずがないよね。「医療行為だけどちゃんと研修を受けた上できちんとした手順で 行えば吸引はちゃんと出来ますよ。」と言ってくれないと困るのだ。その方針を掲げて指導してもらわないと、 最終的には人工呼吸器を着けないと生き続ける事が出来ない我々は自宅で生活する事は出来ないではないか。

6月9日 
土曜日のケアは訪問看護師さんとヘルパーさんの体制で洗顔・洗髪・清拭をしてもらう。
土曜日に来てくれているヘルパーさんは僕のところへ来るようになってまだ実質三ヶ月、その上ローテーションがあるし 若いから慣れていない点もみうけられる。だが文字盤を使ってコミュニケーションをとろうとしてくれているし研究熱心で 吸引にも興味を示してくれてもいる。そのうち段々慣れて行ってくれるに違いない。
ヘルパーさんが吸引についてどのように感じているのかちょっと確かめてみたくて、訪問看護師さんにアンビューバッグの 存在している意味と使い方をヘルパーさんたちに簡単に説明してもらった。ヘルパーさんによると介護師資格2級には 吸引の研修もあるとの事だが、「吸引は医療行為だから出来ないし・・・・・。」という言葉がすぐ出て来る事からも 推察するにヘルパーさんの頭の中には吸引は自分たちの業務にはなり得ない・まだ自分の仕事にはしたくはないという 意識が働いているように思える。
気管切開部からの吸引には確かにリスクが伴う。しかし正しい手順で行えばリスクが発生する可能性は極めて低いし 口や鼻からの吸引に比べればやり方もやさしいはずだ。清潔・不潔に対する正しい認識があり清潔・不潔に対する 意識を常時持ち合わせていれば、何の問題も起きないと思うのだが。

6月7日 通院日
今日は木曜日だがなぜか通院日。2週間前の金曜日今日が次回通院日だと言われた時も何かあるのかなぐらいにしか 感じなかったが・・・・・。それにしても今日は予定目白押しの通院日だ。11時に病院に着いて生命保険の月々の掛け金の 支払いの減免を申請をするための身体の障害度の測定を受けてから主治医の定期診察を受けカニューレを交換、その後 同じ病気の方と面談をするというハードなスケジュールだ。
11時に病院に着くためにはおのずと朝の過ごし方も変わってくる。朝のパソコンを7時前に終え経管栄養を落とす。 この時間が僕の第二の睡眠時間となる。10時前通院準備のために訪問看護師さんたちが来ても僕の身体は目覚めていない。 そこでタッピングなどをしてもらい強制的に身体を目覚めさせ痰を出来るだけ出し吸引してから自動車に移乗してもらう。 自動車で移動中の吸引は面倒くさいから出来るだけ避けたいのだ。
10時半過ぎ予定通り自動車に乗り込む。今日の日差しは強いな・もう夏はすぐ近くまで来ていると感じながらぼんやりと 庭の花や草木を見ていた。まだバラが咲いていた、なすびの丈も大きくなってきた。それにしてももう出る時間なのに 「今日は時間がないから急いで。」と言っていた嫁さんが一番のんびりしているように見えた。しばらくして嫁さんの 運転で病院へ向かう。自動車の窓から見える山々の緑も大分深みを増してきているしほとんどの田んぼも水が張ってあり もう田植えも間近だろう。自然や世の中はもう夏の装いを身に着け始めている様だ。
病院に着くとすぐに看護師さんたちに救命室で痰を吸引してもらった後急いでリハビリ室に連れて行ってもらった。 リハビリ室は昔より利用者もリハビリの先生も増えたようでずっとにぎやかに見えた。以前は物静かな雰囲気の リハビリ室だったが今は活発な雰囲気だ、リハビリ室はこうでなくてはいけない。リハビリ室に入るといつも入院した時 お世話になっている理学療法士のK先生と前回入院した時右手薬指用のスイッチを作ってくれた作業療法士のU先生が 迎えてくれた、久しぶりに会って懐かしかった。今日はU先生が測定してくれるとの事、やはり顔見知りの先生が 測定してくださると思うとそれだけで安心できる。前回測定してもらったのはおそらく2年前、その時から身体の動きは どれくらい衰えからだの関節は固くなったのだろう。測定の度に申請書のコピーをしてと嫁さんに頼もうと思うのだが いつも頼み損ねてしまう。
12時前に測定を終え救命室に戻る。今度は主治医による診察の時間。主治医とはホームページを活用した『ALS介護支援 システム』(主治医考案)で毎日連絡を取り合っているから一言二言で僕の状態は分かってもらえる。それからカニューレを 交換してもらって本日の診察は終了。
そして面談の時間。面談の相手はmさん、隣の町に住む年の大きく離れた妹?のような存在だ。どうしようもない事だが 確実に僕の後を追ってきている。2週間ほど前に体調を崩して入院したとの事だが思いのほか元気そうだったので、 一安心。彼女は僕を笑顔で迎えてくれた。僕は彼女に対して何もして上げらない、自分の経験してきた事を語る事しか 出来ない、「大丈夫だよ。」と声をかける事しか出来ない。それが彼女にとって気休めにしかならない事は分かっていても。 彼女も聞きたい事は山ほどあるだろう。でも聞きたい事を言葉でどう表現すればいいのか分からないのだろう、口に するのも怖いのだろう。彼女の別れ際の態度がそれを物語っていた。僕は「また来るから。」と言って分かれた。
分かれた後も心に重いもの・難しいものを背負ったように感じてしまっていた。

6月4日 役場へのメール
午後4時半過ぎ、訪問看護師さんに車椅子からベッドに戻してもらっていると玄関でインターホンのチャイムの音がする。 聞き耳を立てているとどうも役場から来た人のようだ。一昨日の朝役場宛に『ご意見・ご提案等』と題してメールを 送ってはいたが、ずいぶんレスポンスの早いもだ。一週間ほどで何かしらの形で返信メールが帰ってくるとは 思ってはいたが、これほど早い訪問があるとは想像もしていなかった。
その後(訪問)リハビリをしてもらいながら役場の健康福祉課の課長さんと担当の方の説明を伺った。リハビリを 受けながら説明を聞くという行為はわざわざ説明に来ていただいた方々には失礼な話だとは十分に分かってはいたが、 リハビリを担当していただいている理学療法士の先生が町内に住むもう一人のALSの患者の方のリハビリをしている 事も知っていたから一緒に聞いてもらった方が良いと思ったのだった。
僕が役場にメールした事柄は何点かあったがその内健康福祉課に関わる事は、障害者自立支援法の内容を直接面談の上で 説明してもらいたいという事とこの地域ではヘルパーが吸引してくれる介護事業所が存在しないがその点について どう思うかという事の2点だった。それらの事について僕が十分に納得出来るとはいえないまでも誠意が感じられる様な 説明をしてくださったし、それ以外の事柄についても後日関連部署から連絡があるだろうし分かる範囲でだがと 前置きしながらも誠実に説明してくださった。不謹慎な言い方かもしれないが楽しい時間を過ごせたという 感じである。
それにしても一介の町民の戯言のメールをこれほど素早くしかも真剣かつ誠実に受け止めてくれるとは、わが町は 捨てたもんじゃない、いやすばらしい町だ。それに健康福祉課の課長さんの顔懐かしかったなあ。

6月2日 外出
今日は午後から佐賀県のALS患者・家族の会の総会へ参加するためお出かけ。唐津での交流会には昨年参加したが、 総会への参加は今回が初めてでそれも嫁さんと訪問看護ステーションの所長さんの強い説得を受けて参加を承諾したのだ。 最近の僕は色々な想いがあり外出が億劫に思えているのだ。
今回の外出に際しても訪問看護師さん二人とケアマネージャーさんに同行の応援をしていただいた。いつもご迷惑を おかけし申し訳なく思う。僕が外出するとなると大掛かりになり周りの仕事を増やしてしまう。それも・・・・・。
正午前から準備を始めたが出発したのは12時45分、思いのほか時間がかかってしまった。行きは高速道路を使う、体力に 自信がなかったから。1時20分過ぎ佐賀大和ICで高速を降りる。高速道路の所要時間約30分、まあこんなものだろう。 料金所で身体障害者手帳を提示、これで高速料金は半額になる。1時45分頃会場である難病相談・支援センター到着。 佐賀市内が少々混んでいた事と会場の支援センターの場所が分かりづらくてまた迷って道を間違ってしまって時間が かかってしまった。一度通った道なら大概覚えている僕でも難病相談・支援センターへ向かう道は指示出来なかった。 それほど支援センターは分かりにくい所にあるという事なのだろう。
会場に入ると今日はどんな人が何人ぐらい参加しているのだろうと思いながら会場の中を眺めた。会場には前回唐津の 交流会で顔見知りになっていた運営委員の患者Yさんと家族のKさんそれに宮崎支部事務局長のTさんの姿は見えたが、 車椅子に乗った患者とか僕のように人工呼吸器を着けた患者は来ていない様だった。家族の方は何人かは見えていたかも 知れないが患者の参加はおそらくYさんと僕の二人だけなのだろう。総会や交流会への患者の参加をいかにして 増やしていくか、これが佐賀県のALS患者・家族の会の今後の大きな課題だろう。そのためには患者が参加出来るように なるための環境作りと総会や交流会そのものが患者が参加したくなるような魅力あるものになる事が必要だろう。僕の 場合は理解ある訪問看護ステーションやケアマネージャー・訪問リハビリの先生に囲まれているからこうして 参加できているし僕のQOLを高めようとして嫁さんや訪問看護ステーションの所長さんが参加を進めてくれるが、 外出支援は出来ないと断る訪問看護ステーションもあるように聞いている。いくら経営方針には口を挟めないとは 言ってもこういう時こそ地域の保健福祉事務所として指導力を発揮するとか参加出来るような方策を考え出すとか して欲しいのだが。
午後2時沿う開会開催、来賓の挨拶話・ミニ講演・総会議事説明・議事決議・質疑応答を経て4時過ぎ閉会、5時頃解散、 いつもの事ながらこういう集まりに参加すると時間が早く過ぎて行くように感じてしまうものだ。
それにしても今回も患者・家族の会の組織力の幼さを感じてしまった。この佐賀県のALS患者・家族の会が今後大きく 成っていくためにはまだたくさんの課題が横たわっているようだ。まずは組織作りだろうが、これが中々大変そうだ。 僕も同じだが会のメンバーの中には組織作りを指導してくれたり組織作りにいい影響を与えてくれそ与えてくれそうな 知り合いはいなさそうだ。だから一人一人に当たっていくか行政組織のトップダウンを頼るしかなさそうだ。この 会としての組織作りに平行して患者・家族の会への加入・啓蒙も図っていかなければならない。こちらは地域の 保健福祉事務所と協力して地道に入会を勧めたり会の活動報告をチラシにして患者宅にまめに配布していくしか ないのだろう。でも・・・・・『言うは易し、行なうは難し。』である。
5時10分過ぎ難病支援センターを出る、帰りは多久・若木経由で帰る。6時50分過ぎ、家に到着。皆さん、今日一日 お疲れ様でした。

6月1日 多数の横暴
最近の国会中継の様子がテレビで映し出される模様を見ていると、我々の住む日本という国の方向性を決める最高の 国権機関である立法府国会で強行採決という多数決の横暴・暴挙が繰り返される様を見ていると僕は空恐ろしさを覚える。 われわれは学校で多数決の原則は少数意見の尊重の上に成り立つと教わったはずだ。少数派の意見も十分聞いて議論を 尽くした上で決を採り多数を占めた意見を採用する、それが多数決の原理原則だと学んだはずだ。しかし今の国会の 模様からは議論を尽くした様子は見えてこない、ただ政府・与党の横暴さと拙速さが感じられるだけだ。
どちらの意見や考え方が正しいとか間違っているとかは個人個人の考え方によるものだから一概には言う事は出来ないが、 議論を十分に尽くしたという様子を大多数の国民に感じさせないまま強行採決という手段をとる政府・与党のあり方は いかがなもの、決して許されるとは思えない。
しかし政府・与党にこの暴挙を許し安部内閣総理大臣を思い上がらせたのはほかでもないわれわれ国民なのだ。我々が 前回の衆議院選挙で与党を勝たせすぎた事が与党の多数決による横暴を生み出したのだ。今の国会で議論を十分に 尽くさせるためには与野党を伯仲させるしかない。政権交代可能な二大政党が出来るまでは与野党を伯仲させて それぞれの案件に是々非々の態度を取る少人数政党を誕生させなければならないのだ。その意味で7月の参議院選挙に おける我々国民の責任は大きいと思うのだ。だからこそみんなに選挙に出向いて自分の信念に照らし合わせて投票して 欲しいのだ。



5月
5月27日 予想外
今日も上の息子を呼んで頼み毎、それはずっと前自動車のディーラーに頼んで外していたコンソールボックス下の小物置を 取り付けてもらった事。でも僕は追々取り付けてもらおうと思ってはいたが今日はそこまで期待していなかった。だから 僕は息子には外していた小物置の現物を見ながらも「これを車に合わせてみてビスの位置を確認してきて。」としか 言わなかった。
ところが息子は予想外の動きをしていた。確認するだけの割にはやけに時間がかかったなと思って戻って来た息子に 「どうだった?(ビスを取り付ける位置は分かった?)」と聞いたら「付けてきた。」との答えが返ってきた。これには僕も びっくり。実は取り付けるにはもう少し詳しく指示を与える必要があると思っていたのだ。結局上の息子は僕が 思っていたより成長しているしこの方面の能力はあるということか。何となく嬉しくなってしまった。
そこですかさず次のお願い。「お父さんが足を小物置の下にぶつけて怪我をしないように小物置の下にウレタンを 貼り付ける方法をいつでもいいから考えて。」と言って厚手のウレタンシートのある場所を教えた。すると息子は 「分かった、考えてみる。」と言ってくれた。どんな方法を考えるか楽しみだ。

5月26日 紙玉鉄砲
午後から上の息子と一緒に竹で紙玉鉄砲を作る。と言っても僕は文字盤を使って作り方をあれこれとアドバイスする事しか 出来ない。僕の子供の頃は竹で弓矢・紙(楠)玉鉄砲・凧・竹馬と色々な物を作って遊んだものだった。鎌やのこぎりの 使い方親父やお袋が使っているのを見て見よう見まねで覚えたものだった。今の子は出来合いの遊ぶ物が一杯あるから 作ることはほとんどない。まして材料を自分で取って来て一から作る事などほぼ皆無?だろう。それに今の子供たちは かみそりや小刀で鉛筆も削れない子が多いと聞いている。でも親がカッターを持たせようとしないのだから当たり前の 事だ。僕は手先が器用な上の息子には鎌や鋸は気軽に使える様になって欲しいのだ、上の息子にならこんな僕でも 紙玉鉄砲の作り方を伝える事が出来ると思うのだ。そして上の息子が下の息子や友達に作り方を教えるの一人で勝手に 期待しているのだ。
ところが当の息子は相変わらず紙玉鉄砲作りにはあまり興味はなさそうだった。そこを半強制に近い形で僕の部屋に 呼んで紙玉鉄砲作りを一緒に始めた、強制的に作らせても息子に興味を抱かせる事が出来ないのは分かってはいるのだが 今日がそのタイムリミットの様な気がしたのだ。
部屋に親父が取って来てくれた素材の竹を持ち込ませ切る場所を教えてのこぎりを引かせる、僕が作った時にはこの位の 細さの竹ならなた鎌を使って切っていたがやって見せる事の出来ないこの身体では鎌の使い方を教える事は無理だと 思いながら。また部屋の中で作ったら切り屑がちりばるから嫁さんが嫌な顔をするのは分かっていたが、今日は特別だと 言ってくれると思ったので。
次に玉を押す部分の作成。もうひとつの細い竹を持って来させて切る長さを計るためさっき切った銃身用の竹に 通させてみるとほんのちょっと太くて通るには通るがスムーズには動きそうもない。これでは中に入る方の竹を削るか 箸を使うしかない。そう思っているところへ親父がやって来て「外で作ろう。」と言った。寂しいけれど竹を 削るためには鎌を使った方が良いから後は親父に任せた方が良いと思う事にした。
後で息子を呼んで完成した紙玉鉄砲を見せてもらうと、予想通り玉を押し出すための中の竹は見事に薄皮一枚 削られていた。でも結果的には紙玉鉄砲は息子の手で出来たし親父が鎌を使って竹を削るところを息子に見せる事も 出来たから全て良しと言うところか。最後に「もう少し細い竹を取って来て作れば楠の実を玉にする事が出来るよ。」と 言ってから息子を解放した。
最近上の息子には頼み事をすることが多い。息子はえらく難しい事を頼むなと思っているかもしれないが、お父さんは 出来るだけ能力があるから頼んでいるんだよという事を知っておいてもらいたいのだ。そしてこのことは嫁さんに頼み事を する時もお姉ちゃんや下の息子に頼み事をする時も同じで、僕はみんなが普通にがんばったら出来る事を頼んでいる つもりだ。その事覚えておいて欲しいのだが。

5月25日
2週間ぶりの通院日、空はあいにくの雨模様。好天続きで渇水が懸念されている世間から見れば僕が出かける時ぐらいは 晴れていて欲しいと贅沢な事など言える訳がないのは分かってはいるが・・・・・。
その思いが運悪く?通じたのか僕が出かけている間は雨が上がっていた。2週間振りに見る外の様子はがらりと姿を 変え、庭の花もほとんどなくなっているし田んぼも麦が植えてあるところ以外はもう耕してありもう水を張って田植えを 待っているようだった。所々の田んぼの麦も見事に色づいており、遠くから見ると麦の黄色と耕された田んぼの土の色の コントラストがなかなか見事だった。山々の緑も少しずつ濃くなってきているし最近蒸し暑さも感じる様になってきたし 季節は暑い夏に向かって一直線の様だ。
今回の診察の結果もいつも通り変わり無し。ただ昨晩人工呼吸器バイパップの1分間に送り込まれる呼吸回数(自発呼吸の 間隔があきすぎたときの予防のための回数)を睡眠モードに変更してもらっている時に、吸気時に送り込まれてくる 空気圧が少し弱くなったような違和感を覚えた。そのため病院でメーカーの人に見てもらったのだが異常なし。けれども 安全のために機械を交換しておく事になった。そして新しい呼吸器を着けてみると微妙に違う。ただしこの違いは 測定器にも現れないほどの違いのようだ。だから難しい。バイパップには個々に固有の癖がある様で、その癖・微妙な 差を身体が感じるようだ。

5月23日
お風呂の日、今日のメンバーの井戸端会議の話題は事件のこと。マンションの燃えるゴミ置き場に生後間もない乳児が 置き去りにされていた事・山口県光市の母子殺害の元少年の差し戻し裁判の事・神戸の『サカキバラセイト』と名乗った 元少年が医療少年院を出て社会復帰の道を歩き始めている事の是非について、いずれも寝てテレビばかり見ている僕に 比べて中途半端な知識だが世間一般の働いている奥さんだちの意見とはこういうものかと感じられてなかなか面白い。
それにしてもこの二十年精神的に未熟な事件が多発しているのか。思うに核家族化・近所付き合いが薄くなってきた中で 育った世代すなわち我々の世代が子育てを間違ったのだ、思いやる心・物がある事の有り難味を知る心の希薄な 子供たちを育ててしまったのだ。確かに国民皆中流意識・飽食の時代という時代背景も関係していると思うが。
しかも国民生活に範をなすべき政府・一部の行政・政治家の対応も世間知らずで国民意識と乖離している。やはり 世間一般の暮らしをした事のない二世議員には政治を任せておけないと思えてくる。

5月20日 中学校の運動会
今日はお姉ちゃんの通っている中学校つまり僕の母校の運動会(体育祭?)。朝外が白みかけた時小鳥のさえずりが 聞こえたからきっと五月晴れだろう。
それにしても5月の運動会はピンと来ない。昔は10月の体育の日前後日曜日と相場が決まっていた。もう亡くなった本家の 伯父が酒を飲んで酔っ払った時に「国見傘下に秋満ちて(中略)今日は楽しい運動会」と歌っていたものだ。それに大分前に 嫁さんにプログラムを見せてもらったが徒競走は選抜と全員リレーだけの味気なさ。クラブ活動ではあれほど勝負に こだわり学業ではすべてのテストで公に公表はしないまでも順位付けして競争心を煽っているのに、たかが運動会で 個々の徒競走を忌み嫌うのか。僕は徒競走も早い方の部類に属していたからか個々の徒競走をそれほど嫌う理由が理解 出来ない。運動会は個々が勝った負けたに一喜一憂してこそ楽しいし思い出に残ると思うのだが。個々の徒競走が 体力的ハンディが反映されやす過ぎると言うのならせめて障害物競走ぐらいは個人で競わせてもいいと思うのだが。
まあ一度ぐらいは母校の中学で行われる子供たちの運動会を見てみたいものだが。

5月17日 蛍
夜息子たちが蛍を捕まえて見せに来てくれた。蛍を一匹捕まえてペットボトルに入れて部屋の明かりを消して見せて くれているのだが、入れ物がペットボトルだからぼんやりと白っぽい明かりが灯っている姿しか見えない。 昔は麦の茎で篭を編んで中に蛍を入れていたから暗い部屋で蛍が灯るのを見ていると麦の茎で編んだ篭に蛍の光が反射して とても情緒があったものだが、ペットボトルではあまり情緒が感じられない。大きな水槽でもあったらその中に ミニチュアの小川と岸辺を作って蛍を何匹も飼ったら夜は楽しいだろう。息子たちは僕にひと目蛍を見せたらすぐに外に 逃がしに行った。
うちの近所でも二十五−六年前の農地整理の後蛍はずっといなくなっていた。でも町民の水を綺麗にしようという努力の 結果、蛍の生息場所が少しずつ広がっていった。最初は線路脇の溝のそばまでわざわざ行かなければ見る事の出来なかった 蛍がここ数年は昔の様に僕の家のそばでも見れるようになったと言う。僕ももう一度蛍の乱舞する風景を自分の目で 見たいものだが、それはもう夢のまた夢。
瞼とじ 蛍の乱舞 描けども 思い浮かばぬ ことのさびしさ

5月15日 保険は難しい
今日の午後生命保険の調査員の方が来た。最近の保険金支払い不履行による金融庁の指導を受けて再調査に来たものと 思われる。でも僕の場合疾病特約による入院給付金もALSに関しては1疾病の制限ぎりぎりまで請求し給付を受けているし 再調査をしてもらうには思い当たるふしがない。
そこで嫁さんに「何のために調査に来るのか?」とたずねたところ「今の寝たきりの状態が月々払込みしている生命保険の 掛け金の重度障害による支払い減免の対象になるかどうかを家訓人に来る。」と言う。そして「先日来たお知らせの 手紙には疾病による重度障害は減免の対象には入っていなかったので放って置いた。」と付け加えながら手紙を 見せてくれた。
しばらくして保険の調査員の方が来て奥で嫁さんと話しているのを聞いているとどうやら減免の対象になるらしい。 それどころか入院特約の方もまだ制限日数に達していないので同じ病気でも入院が半年あいたら請求が可能だと言う声も 聞こえてきた。
もともと僕は保険嫌いで通っていてこの生命保険も前の年に会社を辞めた娘に頼み込まれて初めて入ったものだ。 だから額も小さいし年金型だ。入院特約だってその娘に説得されて断るのも面倒くさくなって付けたものだった。 それがこんな形で生きてくるとは夢にも思わなかった。その人が今どこにいるかも知らないが感謝。
保険証書は大きな文字しか読んだことがなかった。小さな文字は初めから読む気がしなかった。また読んでいたとしても これらの内容には気付かないだろう。保険の外交員の方でも知っているかどうかは疑問だ。保険は難しいなあ。

5月12日 口のリハビリ
最近口の周り特に上唇が突っ張って気になる事が多くなったような気がしていた。口パクでみんなに簡単な事も 通じなくなってきているのも口の周りの筋肉が硬くなってきていて口の動きがより悪くなってきたためだろう。
そこで火曜日に訪問看護ステーションの所長さんがケアに来てくれた時に「出来れば一日5分でいいから口の周りを 動かして欲しい。」と頼んでみた。所長さんは快く了解してくれた。
今朝以上に早く目が覚めたので何気なく歌を口ずさんでみた。すると思ったよりも口が動いているなと感じた。 そこで久し振りに「あいうえお・・・・・」「あかさたな・・・・・」「あえいうえおあお・・・・・」と口を動かして みると、上唇に少しだけ力が入るのを感じた。ほんの数日間訪問看護師さんに口の周りの筋肉をリハビリ・ マッサージしてもらっただけで少しずつでも効果が出てきたのかと思うと嬉しくなった。出来るだけ早く所長に 報告したいと思っていたらこの日のケアの担当看護師さんは偶然にも所長さん。早速「口に少し力が入る様になった。」と 告げたら「それじゃあこれからも続けていきましょう。」と意外とそっけない返事、当てが外れてしまった。

5月11日 通院日
今日は2週間に一度の通院日、空は爽やかな五月晴れ。筋肉と脂肪のほとんど付いていない僕には夜半から朝方の寒さは まだこたえるが日中は暖房が要らなくなった。自動車の助手席に座らせてもらう時一瞬感じる日差しもじりじりと暑い。 庭に目を移すとバラや名も知らぬ花々が一杯咲いている。元気だったら手作り弁当を引っさげて家族揃って野山を 駆けずり回りたい、そう思わせるほど爽やかな陽気だった。
でも自動車の車窓から見る新緑の風景の色鮮やかさはもうひとつ、春霞のせいそれとも身体がなんとなく重いから それが影響しているのかはたまた本当に今年の木々が違うのか?。ともかく僕の目には少し違って見えるのだ。
変わらないのは病院の前の池にいる亀の親子ののんびりと日向ぼっこをしている姿だけかなあ。でも亀の親子が のんびりそしてほのぼのと生きている様子を見ていると、一番下の子が亀を飼いたいと言っていた気持ちが 分かるような気がするなあ。

5月9日 口内炎
先日吸引の際に噛んだ舌の一部が口内炎に変化して昨日今日と痛みがピークを迎えている。口を少し動かしただけで したの上下に出来た口内炎が歯の裏側に当たってとても痛い。毎度の事ながらこれからの一週間を口内炎の痛みに 耐えなければならないと思っただけで気が重くなる。
足の装具の右足かかと部分を内側に少し広げるためと指先のマジックテープ強度アップのため装具を修理に出した。 金曜日の夕方には仕上げてくれると言う。その間訪問リハビリでは立つ練習は中止、そのためリハビリに何となく 物足りなさを感じてしまう。
訪問看護師さんにベッドから車椅子に移乗させてもらう時も足に装具を着けていたから装具なしのこの五日間は 苦労をかけている、ベッドに寝ているから足首と指先がより変形して立ち上がれる状態には馴染んでないからだ。 そのために足首と指先をより入念にストレッチし曲げ伸ばしした後で車椅子に座らせてもらっている。本当に 余計なご苦労をおかけしてすみません。それにしても足の装具なしではほとんど立てないまでに僕の身体は いつの間にこんなに弱ってしまったのだろうか。

5月8日 病院によって対応がこれほど違うとは!
本日午後旦那さんがALSで現在長崎市内の病院に入院中の方のご家族の訪問を受けた。今回の訪問については連休前に 地域の保健福祉事務所の保健師から事前に連絡が入っていたからオンスケジュールの事である。そしてその場で一から 紹介してもらっても応対する心構えもあるし対応が難しいし相手の方に無駄な時間を取らせて迷惑をかけても いけないからと保健師から簡単な基礎知識と訪問の意図だけは事前に入手しておく事にした。それによるとひと月ほど 前に特定疾患の申請を受け付けた事・入院中に様態が急変して人工呼吸器を着けた事・奥様が在宅療養を強く希望して おられる事・そのために在宅療養の様子を見ておきたいとの事だった。
しかし実際に奥様の話をよーく聞いていると在宅療養に向けて転院すると聞いていたのに在宅用の人工呼吸器も 決まっていない、それどころか主治医との話の中では在宅用の人工呼吸器の話題すら出ていないと言うのだ。僕が 気管切開して人工呼吸器を着けた時には、気管切開してひと月も経っていない内に病院の呼吸器から今も使っている バイパップにすでに代わっていてバイパップに身体を慣らしている状態だったし車椅子に座らしてもらったり 経管栄養の合間に五分粥の食事もたべさせってもらっていて在宅療養に向けての準備に入っていた。ふた月が 経過した時には在宅療養を目前に控えて関係者を集めてのカンファレンスも実施されていた。あいにくその後体調を 崩し退院が2ケ月延びたが、その際にも再びカンファレンスが行われたし受け持ちの幹が資産からは看護のための 手作りのマニュアルまでいただいた。同じALSで入院し同じ様に気管切開して人工呼吸器を着けたというのにその後の 対応において病院によってどうしてこれほどの差が出るのか?、我が町の神経難病の専門医の全くいない病院なら いざ知らず一応名の通っている病院ではないか。結局今日は在宅療養においてどんな事を準備した方がいいのか・ どんな心構えがいるのかまで話は至らなかった。
保健師さんの家族の方が帰られた後ふとどこがで見た「間違いだらけの病院選び」という本のタイトルを思いだした。 今の病院といいこれまでかかっていた病院といい僕は幸いにも病院には恵まれてきたと言えるだろう。

5月6日 分かっちゃいるけど
ゴールデンウイーク最終日。嫁さんと子供たちは映画を見に出かけた。分かっちゃいるけど一人取り残された様で 寂しさを感じてしまう。まあ元気だったらやれ仕事だやれ付き合いだと言って「時には家族サービスをして。」と 叱られているかもしれないが。
みんなが帰ってきてからお兄ちゃんに「何を見たの?」と聞いたら、「コナン、予約してあったから後ろの方の席で ヨーク見えたよ。」と嬉しそうに答えてくれた。祖笑顔を見たら子供たちが映画にいけて本当に良かったなと 思えてきた。

5月5日 子供の日
昨日の夜アマガエルの鳴く声が聞こえるなと思っていたら夜半からあいにくの空模様。外の見えない僕でも屋根を叩く 音で雨の様子は分かるのだ。
今朝は息子たちが僕の部屋に来てベッドに横になっている僕の両側に寝転がってくつろいでいた。それだけで僕は 幸せ気分、嫁さんに頼んでその小さな幸せをカメラにパチリと収めてもらう。
今日はこどもの日、昔は班内の子供たちが寄る班長の家に集まってみんなでご馳走を食べて歌を歌ったりゲームをして 遊んだりして楽しんだものだが、今はしなくなったようだ。善しにつけ悪しにつけ近所付き合いが薄くなってきた事の 表れだろう。惜しむらく事だ。
昨日今日と祝日にもかかわらずヘルパーさんが来てくれて身体のケアをしてくれた。ありがたい事である。ただ この介護事業所のヘルパーさんには去年の12月からお願いしているが、週に1回のペースでお願いしているだけだし 間に3ヶ月間入院していたし重度障害者のケアは初めての様だしでまだまだ不慣れでぎこちない、まあ仕方のない ことだろう。でも熱心で一生懸命で熱意も感じられるからその内慣れてくれるだろう。長い目で見ていくしかない。 それに若いし綺麗だし、多分。吸引も出来るようになってくれるといいのになあ。
ただこの辺りで介護に関わっている人はおそらくみんな吸引は医療行為の一環だから介護事業所ですべき事ではないと 思っている、吸引はヘルパーでも条件さえ満たせば出来ることは頭では理解している人もいるのだがそんな苦労と リスクは出来るだけしょいたくないと言ったところか。この意識を変えるには強制力を伴わなければ無理だろう、 多分。それが出来る人を僕はこの辺りではひとりしか心当たりがない。動くべきか動かざるべきか、 難しい・・・・・。

5月3日 誕生日
今日は僕の49回目の誕生日。もうこの年になると誕生日のお祝いをして欲しいとは思わないが、せめて「お誕生日 おめでとう。」の声掛けぐらいはみんなにして欲しいものだ。そう思っていると朝から子供たちが次々に現れて 「お父さん、誕生日おめでとう。」と言ってくれた。その言葉を聞いただけでおもわず顔がほころんでしまう。
夕方突然の訪問者H(ご近所さん、今は嫁いで行ってしまった妹?)が「誕生日おめでとう。」と言いながらプレゼントを 持って現れた。プレゼントは観葉植物の鉢植え、水コケでイヌ?クマさん?が形作ってあってその横に「メル友に なれる?」のメッセージカードが添えてあった。そのHらしい演出に涙もろくなっている僕は思わずほろり。でもHは よく僕の誕生日を覚えていたものだ。
子供たちからのプレゼント・リハビリ券、一番下の子が作ってくれた。僕には理解するのが難しい絵が描かれているが リハビリけんとたんじょうびおめでとうの文字それに思いやりの心が読み取れた。そのリハビリ券を使い子供たちに 早速リハビリしてもらう。お兄ちゃんは巧いがお姉ちゃんと次男は不器用でどちらかと言うと力任せ、でも触れ合って いるだけで心のリハビリなる。まだまだがんばって生きていかねばと思うのだ。ありがとう。そして何も出来ない 父親でごめんね。
今日は嫁さんと子供たちと心も身体もふれあいを久々に本当に楽しみ味あう事が出来た。

5月2日 僕が王様?
義弟夫婦に待望の子供が生まれたと今日聞いた。母子ともに健康で写真を見ると笑顔のかわいい赤ちゃんのようだ。本当に おめでとう。一時は二人が子供を欲しくないと思っているのかと個人的に心配していたのだが、良かった。
連休中は訪問看護に来ないからといつもは車椅子に座れない水曜日に、車椅子に座らせてあげようと訪問看護師さんが 時間を遣り繰りして時間を作って僕を座らせるために来てくれた。ただ9時半前と時間が早かったために僕の身体が 完全には目覚めておらず痰が中でない。だから座っている途中で痰が出ないかと心配しながらも車椅子に 座らせてもらった。1時間後車椅子からベッドに戻してもらいしばらくすると今度は訪問リハビリの時間、 訪問リハビリも連休中は休みになるから今週はこれが最後のリハビリとなる。首と足に装具を着けて立たせてもらうと 右足の指先とかかとが装具から少しずつ外れそうになる。この数ヶ月の間に足の変形がさらに進んでしまった ようだ。それに身体を起こすための筋肉・背筋や体幹も少し弱ってきている様だが如何ともし難い。
午後からは入浴車の時間。4人の若い美女?に囲まれて気持ちのいい・楽しいひと時を過ごすのだが、その様はまるで ハーレムの王様?女性に囲まれて裸体をさらす事は最初はどうしようもなく恥ずかしかったが、もう慣れた。 それに入浴車の人たちの井戸端会議を聞くと、久し振りに世間の(王様なら下々の?)空気に触れた様で 楽しいものである。

5月1日 ホームページを書くのは難しい
僕の雑記帳は心の描写が多い。一日中天井を見て過ごしている・同じ情景しか目に入ってこない僕に心の 描写以外いったい何が書けると言うのか?もうホームページで書き続ける自信がなくなった。
今日も訪問看護師さんにケアと車椅子への移乗をしてもらう。いつもお世話なります、ありがとう。 今日もまた平穏・無事な一日。


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