第611回 聞法の大切さ

 
平成16年 10月 7日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

「聞法の大切さ」という広島の浄円寺のご住職、桑原浄昭さんの文章に
出会いました。


その一部分をご紹介します。

私たちは毎日いろんなものを見たり聞いたりして得る情報をもとに生活を
しています。

「見ると聞くとは大違い」とか「百聞は一見にしかず」と言うことわざからすると、
聞くよりも見る方を優先しているようです。


また見聞きするという割にはなかなか人の言うことを聞かないお互いでもあります。

 ところで、私たちは二つの眼でいろんなものを見ているつもりでいますが、
身近にありながらどうしても見えないものが二つあります。一つは私自身であり、
いま一つは相手の心とか思いです。


私のことは私が一番知っていると思っている人は多いでしょう。
しかし、私の眼は本当に私自身が見えているのでしょうか。


また、相手が何を思ったり考えたりしているか、これも眼で見るわけにはいきません。

しかし、よく聞いてみるとわかってくるものです。
相手の思いとか考えについては、よく聞いてみると「ああ、あなたの思いはそうなんだ」と
受け取れます。


 さて、私のことを知り抜いて、その実態を指摘してくれる人は、一般に親とか
友人が考えられますが、そう多くはいないでしょう。
ところが、私のことを一番よくご存じで、しかも私のことをいつも案じて下さる方、
それが阿弥陀さまです。


阿弥陀さまの眼に映った私の姿は、殺生はする、人の物には手や目がいく、
よこしまに走る、嘘やお上手を言い二枚舌を使い分けて人の悪口を言う、
むさぼりと怒り腹立ちと妬みそねみの毎日です。

しかも、自分に都合の悪いことは他人や世の中のせいにしています。

このようにすさまじくも浅ましい罪業悪業を重ね続ける私の姿は、仏智に
照らされて初めて知らされるのであって、とても自分の眼で見通せるものでは
ありません。


このような私を目当てに本願を誓われたのです。
本願の尊さは、阿弥陀さまに「助かってほしいと願われている私」であったと
気づかされるところにあります。


 先哲は「南無阿弥陀仏 声はひとつに 味ふたつ 親のよぶ声 子のしたふ声」と
詠まれています。


眼で見ることを優先していますが、聞かねばわからないこと、聞けば目覚める
世界があります。


阿弥陀さまの思いである本願と名号のおいわれを聞かせていただくとき、
喚び声となって私にかかり果ててくださる阿弥陀さまの仏徳がしみじみと偲ばれます。
ただ、「ようこそ、ありがとうございます」と、仏恩を喜ばせていただく世界が
開けてまいります。


と書かれていました。(大幅に省略しております。お許しください。)

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

次回は、10月14日に新しい内容に変わります。

     大乗  平成16年10月号       みほとけとともに より一部分