第579回 救いと 生き方

 
平成16年 2月26日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
こんな文章に出会いました。

お救いと生き方 光照寺の若林眞人ご住職の法話です。

希望の高校に入学して一カ月、十六歳になったばかりの少年が
亡くなりました。

頑丈なスポーツマンで、ラグビーの選手をめざして、練習中に
たおれられたのです。


ご家族はもちろんのこと、友人たちも、先生方も驚きの思いで
いっぱいです。そして深い悲しみの中に、お葬式、中陰の
ご法事が続きました。


校長先生、クラス担任の先生がお参りくださったある日のこと。
ご一緒にお正信偈のお勤めをさせて頂いたあと、校長先生が
おっしゃりました。


「この漢文のご文には、深い意味が説かれているのでしょうねえ。
なにか人生訓とか、生き方に役立つことが書かれているのでしょうか。」

校長先生のお言葉を聞きながら、はて、と、想いをめぐらします。


「いいえ、人生訓とか生き方は、一つも説かれてはいないですねえ。」

「ほほう、それならどんなことが説かれているのでしょうか。」

「そうですねえ。お救いが説かれているだけです。」こんなご縁が
きっかけになって、阿弥陀さまのご法義と、私たちの生き方ということに、
思いが広がりました。


 仏教が、何か生き方の役に立つと考える立場のお方がおられます。
例えば、スポーツマンが山寺にこもるとか、政治家が座禅をくむとか。
ここでの主体は世俗の論理であって、仏教は利用すべきものと
考えられているようです。


”為になる”という考え方です。

蓮如上人のお言葉に「仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。
仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあいはたらくべきこと
なりと云々。」


主客の逆転にこそ、救いの意義があるのではないでしょうか。

「もし、お救いの中に生き方の規定があるとすれば、そこから
はみ出した者は、もれてゆかねばなりません。
『一人ももらさじ』との、お救いには、生き方の規定はありえないのです。
私たちは訂正不可能な日々を生きております。それぞれの個性を
日々いきております。一人一人をめあてとする平等のお救いには、
条件はありえないのです。」


お話を聞いてくださったクラス担任の先生が、「校長先生、何か
教育現場に欠けている問題のようですね。」と、おっしゃって
くださいました。


阿弥陀さまは、私たちの生き方の変わるのを待って、それから
救おうとなさるのでなく、変えようのない凡夫と見抜かれた阿弥陀さまは、
自らが変わってくださいました。
南無阿弥陀仏と名告りはたらくおすがたとなってくださったのです。


私の口もとに「安心なさい、そのままでいいよ、南無阿弥陀仏は
今ここにおるよ」と、私の身に入り満ちておってくださいます。


工夫十分なるお救いによって、凡夫の自性はひとつも変わら
ぬままに、広大な値うちものの身にならせていただくのです。


そこにこそ、世俗の価値観から脱却した、真の仏弟子としての
生き方が恵まれてあると申せましょう。                


という文章です。

「安心なさい、そのままでいいよ、南無阿弥陀仏は今ここに
おるよ」との呼びかけ、 皆さんどうお考えでしょうか。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は3月4日に新しい内容に変わります。