第569回 十の恵み 十の念仏

 平成15年 12月 18日〜

妙念寺電話サービスお電話有り難うございます。

前回、多くの恵みに気づかない私たちに阿弥陀さまが呼びかけて
下さっていると申しましたが、お釈迦さまがお説きになったお経の中で、
親鸞聖人が、これこそが私のための教えと、知らせていただいた、
大無量寿経。


その中で最も重要とされるのが、第十八願です。

現代語訳では、
「わたしが仏になるとき、すべての人々がこころから信じて、
わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、
もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」
とあります。


南无阿弥陀仏、南无阿弥陀仏と、十回でも口に称えたならば、
間違いなくすくい取るということです。


 よくお説教を聞き、朝晩のおつとめは勿論、歩きながら
仕事をしながら、お念仏を口にしておいでの方は、ことによると
遠くのお浄土のことばかりではなく、まずはすぐ身近なところに
思いをいたし、これも阿弥陀さまの働き、あれもお働きと、
喜んでおられるのではないかと、感じます。


阿弥陀さまの浄土へ生まれさせていただくことは、当然の喜び
でしょうが、なかなかそういつもお浄土のことばかりは、
味わえないものです。


ところが、出会った小さな出来事や、口にする食べ物など
全てについて、深く広く感謝と喜びを味わうことは、少しの
練習で出来るようにも思います。


昔は、お米のことを農家の方が八十八回もご苦労された
ものだから、大事にしなければいけないといったものです。


米という字を分解すると八十八となるためでしょうが、
見るもの聞くもの、食べるもの、みんな、当たり前になって
何も感じない生活よりも、多くの方々がご苦労していただいて
始めて、ここにあることを味わえたら、わたしの喜びも感謝の心も、
大きくなっていくのではないかと思います。


ご飯を食べるとき、お米を洗って炊いて戴いた方、お米を
精米してくれた方、お店に運んでくれた人、稲を刈り取って
くれた人、肥料や草取りをしてくれた人、田植えをしてくれた人、
モミを蒔いてくれた人、人間だけの苦労ばかりでなく、種籾、

太陽、水、肥料、風や空気、こうしてかぞえていくと、多くの
恵みによって私は生かされていることを感じます。

何か一つのものと出会ったときに、少なくとも十ぐらいは、
恵みを思いつくことが出来る、そういう生活を始めてみると、
どんな小さなことでも喜んでいけるのではないか、感謝する
ことが、沢山あることに気づきます。

せめて、一つの物や一つの出来事に、少なくとも十ぐらいの
ご苦労を思いつく、そうした人生を送れれば、喜びも感謝も
私のすぐ身近にあることを知らせていただけそうです。


第十八願は、十回の念仏と言われますが、
一つ思いつくごとに一回、南无阿弥陀仏と口にすれば、
すぐに十回くらいのお念仏は出来そうです。


私の周りで見逃している多くの恵みを思いつく生活をすること、
それがお念仏をいただいた正定聚の方の生活なのかもしれません。


わずか十回でも念仏をということを、わずか十回でも恵みを
思いつき南无阿弥陀仏と口にする生活と、置き換えてみると、
また違った味わいが出てくるものです。


わずか十回でも、思いつくままにお念仏が出来る私にさせて
いただきたいものです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、12月25日に新しい内容に変わります。