第535回 生老病死に驚きを

 平成15年 4月24日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

こんな文章に出会いました。
石田慶和先生の文章の一部です。

『本当の宗教というものは、現代ふうに言えば、
宇宙からの語りかけに己をむなしくして耳を傾け、
その語りかけによって、いのちを与えられ、
よみがえることだと思います。


その語りかけは、歴史を通して、具体的に
語りかけられるのであって、そこに、それぞれの
宗教の個性というものが生まれるのです。


浄土の教えで言えば、「南無阿弥陀仏」という
名号こそがその語りかけにほかなりません。
その語りかけを、己をむなしくして聞くということが
「信」ということです。


そういうことが理解できないという人は、
宗教というものとは無縁の人です。


人々の中には、宗教に何の関心ももたない人が
あります。
そういう意味では、宗教は普遍的な事柄では
ありません。


釈尊と同じように、世の生老病死に驚きを
起こす人だけが、宗教に関わるのです。


生老病死は普遍的な事実ですが、そのことに
驚きをもつことは、決して誰にでも起こることでは
ありません。
そのことを忘れてはなりません。


たとえ寺院や教会に属していても、そうした
「人生無常」ということに驚きを持たない人は、
寺院や教会とは無縁の人です。


自分のいのちに限りがあることに大きな恐れを
感じ、また自分のなすことが必ずしも人びとを
助けない、むしろ場合によっては傷つけることが
あるということに気づく人が初めて、自らの問題
として宗教と関わるのです。(中略)


親鸞聖人の教えの核心は、人間を罪業に
まつわられた存在ととらえ、その罪業から本当に
解放される道は、仏さまの呼び声にめざめる
ことしかないということにあったと、私は思います。

そしてその教えこそが、時代を超えて人間を
救済し続ける教えであると考えています。
それを現代の人々が理解できるようにすることが、
現代教学の使命でなければなりません。(後略)


という石田慶和先生の文章の一部をご紹介しました。
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、5月1日に新しい内容に変わります。

(宗報 15年 3月号より一部抜き出しました。)