第435回 苦しみに意味を見出す

 平成13年 5月24日〜
妙念寺電話サービスお電話いただきありがとうございました。

こんな文章に出会いました。

仏法を聞いたらどうなるのですか
という質問に対する応えです。

「よく、仏教の話は年よりの慰めもののように考えている人がいます。
私たちのまわりでもよく見かけます。

『今度の報恩講、お参りください』とビラを配っても、
『もうちょっと年をとったら、お参りします』と言う人がいます。


言っている人は、若い人ではなく、もう六十歳を
過ぎている人なのです。


年をとってから法を聞くと言っても、ちょっと
手遅れなのではないでしょうか。


年を取ってから聞いたら、わかりにくいのじゃないかと思います。

また中には『難しい話ですね』という人がいます。

話が難しいのではなく、聞き慣れていないからということもあるようです。

蓮如上人は、『わかきとき仏法はたしなめと仰せ候ふ。
としよれば行歩(ぎょうぶ)もかなわず、ねぶたくもあるなり、
ただわかきときたしなめと候ふ。(蓮如上人御一代記聞書・六十三条)


この蓮如上人のお言葉は大事な意味をもっていると思うんですよ。

『頭がしっかりしているときに、足腰のしっかりしているときに、
しっかりと聞き込め。そうでないと、実り多き人生は生きられないぞ』と、
おっしゃっています。


これは大事なことと思うのです。

仏教というと、死ぬときの準備みたいに思っている人が多いのですが、
悩んでいるのは現実なんですから。
ただ今、現実に惑っているんですから、将来ではなく今必要なものです。 

ところで、ここで注意しておかねばならないことは、仏法を聞いたら、
現実の生活についての迷いや苦しみがなくなるのではなく、迷いや
苦しみに耐えられる人間になるんです。

人生の苦しみがなくなるというのは、迷信です。
仏さまを信じたら苦しみがなくなるとか、神さまを信じたら災難が
なくなるとか、そういうのは迷信なのです。

人生というのは、そんなに甘いもんじゃない。
どんなに仏さまを信じている人でも、どんなことが出てくるかわかりません。
それが人生なのです。


何が出てくるかわからん不気味さを秘めている。
それが人生の恐さでもあるのです。


 しかし、何が出てこようと、その苦しみにたえられるだけの、
いやたえられるだけではなく、その苦しみに意味を
見出す心の眼を開いてもらう、それが仏教なのです。


だから、悩むがゆえに、迷うがゆえに、その迷いに耐えられる人間を
つくらなければならないのでしょう。


その悲しみに、苦しみに絶えて、逆にその苦しみの、悩みの意味を
変えて、そこに豊かな世界を味わってゆくような心の視野を開いて
いくのが浄土真宗なのです。


だから若いときに、悩み多いときに、仏法はきかねばならないのです。
しかしまた中年の人、壮年時代というのは、やはり家庭的にも
社会的にも責任のある時代ですから、それだけに悩みも多いし、
いろいろと人には言えないような辛いことや悲しいことが
多いわけなのでしょう。

だから、そういう中にこそ、導きの光として仏さまの教えが
仰がれていかねばならないのです。」


苦しみに意味を見出す教え、それがお念仏の教えです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、五月三十一日に新しい内容に変わります。


 苦しみに意味を見出す心の眼」

    仏教のおしえ 浄土真宗入門百選 より