第342回  「他力」に想う

    平成11年8月12日〜18日

 妙念寺電話サービス、お電話ありがとうございます。
親鸞聖人の教えをいただく浄土真宗の本願寺派の
現在のご門主は、二十四代目です。
このご門主さまが、本願寺新報の最新号に 
「他力」に想う ということを
書いていただいています。

今日は、この文章をご紹介します。

「現代人にとって、わかり易そうでわかりにくい言葉の
一つが「他力」です。
真宗用語としての他力とは、本願力とも言われるように、
阿弥陀如来さまの願いが力となり、はたらきとなって
私を救ってくださることです。
混乱を引き起こす元は、阿弥陀如来さまの願いと
私の願いとを混同するところにありそうです。
私の願いといっても、口に出せないような恐ろしい
ものから、世界平和・人類の幸福までありますが、
理想を語ることはできても、現実には自分中心の
思いが混じってきます。
それに対して、阿弥陀如来さまの願いは迷いの衆生を
さとりへと至らせることです。
そのはたらきが「他力」です。

混乱に輪をかけるのは、他力の「他」を阿弥陀如来さま
ではなくて、他の人々や生き物と考えることです。
それでは、仏教と関係ない話になってゆきます。

ところで、「さとりに至る」と言うだけでは、現代人の
生活人生にどうかかわるのか、わかりにくいかも
知れません。

従来、「おかげさま・生かされている」という言葉が、
他力に気付いた喜びや感謝の表現として
用いられてきました。
私が修行をし、善根を積んで、さとりを開くのではなく、
阿弥陀如来さまのお力で、往生成仏させていただく
のですから、たしかに、「おかげさま」です。
そして、阿弥陀如来さまに救われて、この世を生きる
意義を知るのですから、今ここに「生かされている」のです。

親鸞聖人のご和讃に

『本願力にあひぬれば  むなしくすぐるひとぞなき 
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし』

とありますように、阿弥陀如来さまに救われたものは、
この人生がむなしく終わることはなく、功徳が満ち
あふれています。
ですから、私の日常生活は阿弥陀如来さまのお慈悲の
中にある、すなわち、おかげさまで生かされているのです。

ところが、「おかげさま」という言葉が、ご先祖のおかげと
いう意味や、世の中のことは、総て相い依り互いに支え
合っているから、めぐまれた幸せを喜び、つらいことも
乗りこえていこうという意味で、用いられることがあります。

それも大切な意味のある受け止め方ですが、それだけで
阿弥陀如来さまの願いがはっきりしません。
ということは、私が生死に迷い、罪を犯して生きている
という自覚も曖昧になります。

 仏教の縁起の道理から考えても、この世のことは、
相い依り互いに支え合って成り立っています。
私のいのちもそうです。
そこで、ただ受け身になるだけではなく、阿弥陀如来さまに
支えられ、導かれて、あらゆるいのちへの責任を負って
生きようとするところに現代の念仏者の課題があるのでは
ないでしょうか。」

このように、ご門主はおっしゃっております。
妙念寺電話サービス、次回は、8月19日に
新しい内容に変わります。