平成14年 6月 西嘉穂組 壮年会一泊研修  
                                   14、6,22

            会所・ 福岡教区・西嘉穂組・光妙寺

1、遺伝子の中の飯塚

 @ あいさつ

何かとお忙しい中、こうして、一泊研修に ご参加、誠にありがたいことです。

泊りがけ、なかなか決心がいるもので、同じ一泊でも、これが温泉だと、
参加者が大分違うのじゃないかと思いますが。

私も、今日一日で失礼しますが、明日が日曜で、・・・法事はお昼近くじゃないの
という顔をされた方もあるようですが、

こちらは、月忌参り、月参りというのがございますか?、
毎月命日にお参りする。
一番早いお宅には、午前9時過ぎに伺います。
決まった時間に、参っておりましたら、少しでも遅れると

大変に心配いただいて、日曜でも、法事の前にお参りします。
まじめすぎも、良し悪しで、お互いに困るものでございます。


  A いつもと違う期待

ところで、今日は、テレビ屋さんの話、きっとコノ、楽しい愉快な話しだろうと
大いに期待して、・・・・出てくる時も、タンタカタンと、出バヤシでも
鳴るのではと・・・
残念ながら、普通のフホウを着ておりまして、・・・・
ステージ衣装ではございません。


TV屋さんといっても、画面に出るテレビ屋さんと違って
裏方でありますので、ご期待に添えるかどうか・・・・・

毎晩、お酒を飲まないと眠れない方も、・・お寺では、何故か、寝酒なしで・・・
どうぞ、遠慮なくごゆっくりと。
せっかく訪れた眠気ですから、無理に押し殺すことはございません。


  B 伺った理由

えーこの私は、元来、人前に出るのが、好きではありませんで
気が弱んです。出来るだけ避けておりますが、

こちらのお嬢様が、佐賀のお寺においでになって
大変お世話になっておりますし、また組長さんも佐賀のご出身でありまして
そういうご縁で。

あまり期待されると、がっかりして、熱でも出されると・・・
ゴルフでは、ホールインワン保険というのがあるそうですが、
まだ研修会保険というのは、無いと思いますし、加入もしておりませんので
損害賠償を請求などは、どうぞ、ご遠慮ください。

いつもと同じように普通に、気楽に、決して期待せず
お付き合いいただきいと思います。


 C 福岡県民の親しみ

お引き受けした理由のもう一つは、私も福岡県の生まれでございます。
もう佐賀に、10年以上も住んでおりますが、どうしても本籍を佐賀に移すことが
出来ませんで。
姓名の姓は、抵抗なく変えたのですが、
本籍だけはどうしても変えきっておりませんで。

運転免許証の本籍欄には、
この山一つ越した どっちですかね。甘木市秋月と書いてあります。
ですから、こんな小さな、子供のころから、山の向こうは、飯塚は


 D 山を挟んで

山のあなたの空遠く幸い住むと人のいうーーーー飯塚というところは
すばらしいところだ、幸い住むところだと、と思っておりました。


というのも、秋月は黒田藩でありまして、参勤交代は、こちらの方に出てきて、
江戸へ登ったようですね。
私の先祖たちは、何度も何度もこの飯塚を通って、
江戸へ、また国許へ繰り返し通ったと思います。
この飯塚は、江戸への入り口、文化の扉だったんですね。


 E 歴史的な記憶

そこで、私の遺伝子の中には、飯塚は、深かーく記録されていると思います。
家族と別れ、江戸へ行く、期待と不安を抱いて通った道、
あるいは、はやる心を抑えて、もう少しで、もう少しで、国許へ帰り着く、
家族の待つ秋月は、あの山の向こうだと、私の遺伝子の中にはちゃんと
この飯塚の地は、記憶されているのだと思います。

ですから、お話しをするのもそこそこに
「漫才ではありませんが、早く終わってかえろうよーーーー」と。
急いで帰りたい、意識が働くのだと思います。

本人が意識しなくても、そうした記憶がたくさんに、記録されているんでしょうね。

腹がたったり、悔しかったりした時に、噛み付いてやろうかとか、
蹴飛ばしてやろうかと。、
あれは、昔昔、まだ動物だった頃の記憶が蘇ってくるのでしょうね。

酔っ払うとすぐ脱ぐ人がいますね。
そう2〜3日前に亡くなった。山本直純さんも酒が強くて、すぐ脱ぐ人でしたね。
朝まで返してくれない、お酒の強い方でした。
皆さんの周りにも、酔っ払うと、高いところに登りたがったり、
くねくねするのも、昔昔の動物の記憶が、頭をもたげてくるのでしょうね。


F 親鸞聖人のお言葉が記録された

歎異抄に、「一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり。
      いづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候べきなり・・」(5条)
とありますが、

現代語では「命のあるものはすべてみな、これまで何度となく生まれ変わり
死に変わりしてきた中で、父母であり 兄弟・姉妹であったのです。
この世の命を終え、浄土に往生してただちに仏となり、
どの人をもみな救わなければならないのです。・・・・}
親鸞聖人はおしゃっていたようでありまして、「命のあるものはすべてみな、
これまで 何度となく生まれ変わり死に変わりしてきた中で、父母であり
 兄弟・姉妹であったのです。


私が生まれ変わる、死に換わる、そんな馬鹿なことがあるかと思いますが、
先ほどお話しした、遺伝子というレベルで考えてみると、
この私は、命が終わっても、次の世代にちゃんと受け継がれていく。

それと同じように、過去の記憶もちゃんと受け継いで、働いている。

これはどうも現代科学を勉強された方の言葉ではないかと、
感じますね。親鸞聖人のこうした言葉は、現代科学でも何の問題なく通用する。

日本人は、民謡や演歌が好きですね。黒人はジャズが好きで、リズム感があるのも
うなづけます。

サッカーで騒ぐ民族も、昔狩猟をしていたか、海賊として活躍した記憶が残って
働いているのかも知れませんね。


G 善悪は、宿業

同じく歎異抄に、「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。
悪事のおもわせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。
故聖人の仰せには、『卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもるくる罪の、
宿業にあらずといふことなしとしるべし』と候びき



現代語訳では、「善いこころがおこるのも、過去の世の善い行いがそうさせるからです。
悪いことを考え、それをしてしまうのも、過去の世の悪い行いがはたらきかけるからです。
今は亡き親鸞聖人は、『うさぎや羊の毛の先についた塵ほどの小さな罪であっても
過去の世における行いによらないものはないとしるべきである』と仰せになりました。

とあります。
これも遺伝子レベルで味わってみると、少しはうなずけるようであります。
私は大丈夫と思っていても、ついつい口にしなくて良いことを、口にし
思わなくていいことを思い。やらなくていいことをやってしまいます。
私自身をコントロールできないことばかりですね。



H 変なところが、伝わっていく  
  
こんな話しをしちゃいけないのでしょうが、業務上知りえた話ですから。
でも、名前を出すわけではないので。

お寺で法事の時に、トイレのスリッパが、めちゃくちゃになるご家族と、
きれいに並べてある御家族とがあるんです。
誰か代表が並べているのかも知れませんが、
ほんの小さなことでも、一族に、次の世代に伝わっていくものですね。

人のことはいえないのですが、私は、字が下手で。こうしてワープロばかりですが、
本堂に張り出す年回表までも、ワープロです。
一族、兄弟みんな同じ下手な字を書きます。

競馬、飯塚はオートバイでしたか。競馬は無くて。
競馬の馬、早い馬の子供は速いそうですね。
遅い馬の子供は、可能性は薄いようで。
農業でもそうでしょう。いい品種の子孫は、いい味、収穫も多いもの。
突然変異はあっても、大多数は、前の世代の特徴を受け継いでいく。


I 遺伝に加えて、親の後ろ姿を見て
   
じゃあ、良い遺伝子でなければ、夢も希望もないのか。
ところが、人間は、遺伝だけでなく、親の振り見て、受け継いでゆく。
酒好は、案外受け継がないケースもありますが、
浮気っぽいのは、引き継ぎますね。
わたしのことではありませんよ。
問題起こすのは、家庭騒動は、親も子、良く似ています。
そう考えると、次の世代への責任は、大変に重大であります。

遺伝子は、修正できないとしても、私の背中をどう見せるのか。
悪い部分は、出来るだけ残さず、良い部分がなんとか伝っていくように、
努力して修正をしていく必要があるようです。



J もう一つの因縁

ところで、告白いたしますと、私の遺伝子の中には、もっと深く大きく
この飯塚の記憶があるのです。実は。
母親が、私の母が、この飯塚の稲築というところの出身であります。

飯塚出身のその母ももう96歳になり、まだ健在で、飯塚の人は、長生きですね。
今、山の向こうの秋月で一人住まいをしております。
96歳で一人住まいですよ。

K 久しぶりの法座

10年ほど前、佐賀の法座にきまして、恩徳讃を歌いましたら、昔の恩徳讃と
歌が変わったのねと、聞きます。
昔は、短調のニョウライダイヒノオンドクハだったようですね。


L 若い日の思い出

嫁ぎ先が、「浄土宗」の家で、浄土真宗のお説教は久方ぶり
若い頃、日曜学校でオルガンを弾いていたよ。
大谷光瑞さんに、上海の別院で紹介されたことあるよ。
そんなことを言っておりました。

ともなって、私もその母の子供で、浄土宗の家に生まれ育ったわけで。
今日ここの、ほぼ全員が、子供の頃から、浄土真宗の家に
生まれ育っておいででしょうが、私は、浄土宗、法然上人の浄土宗、
しかも、お寺育ちでありませんので、僧侶の仲間から、まるで宇宙人のようだ
予想外のものの見方、考え方をすると思われていると、思います。


M 外人的な立場から


そのことは、ことによると、お寺で育っていない皆さんが
日頃疑問に持ちながらも、プロのご住職には、なかなか聞けなかった、
尋ねることができなかったことと共通しているのではなのかとも考えております。・・・                         
                            
                                   15分



2、音頭をとる人、踊る人、そして見る人

@ 顔出す人出さぬ人、テレビでの仕事は

時間がもったいない、身の上話はいいから、もっと面白い話をしろと、
顔に表れていますので、お寺では聞いたことがない、私が経験しましたことを、
お話してみたいと思います。

勤めが、TV局と知ると、アナウンサー、記者それともカメラマンですかと、聞かれます。
一般に、TV局の人は、全員顔出しをしているのかというと、そうではなく、
画面に出る人は、ごく一部で、表で出ない沢山の仕事がございます。

映画では、監督とか、助監督、製作とかいう仕事がよく知られていますが、
TVでも映画監督のような役目の仕事が必要です。

みんなが集まって、好き勝手に動いては、まとまりがつきませんので、
まとめ役が必要なのです。20年以上、その仕事をしていました。

で、同じ部屋には、和田勉という、ゴリラみたいな顔をして大声でまくし立てる。
それに宗門に関係深い、大原誠、勧学の大原性実さんの息子さん、
ご住職方はよくご存知の、勧学と言う浄土真宗の学問の上での最高の役職であります
勧学の大原性実の息子さん、大原誠さん。まこっちゃん。
それに、深町幸男とか、そう三田佳子の旦那で、高橋康夫、先日息子が
覚せい剤で捕まった三田佳子のその旦那ですね。
これらの有名人も、同じ部屋にいました。

ですから、こうして、頼りなさそうにおりますが、
私も、演出とか製作の担当でありまして、出るところに出ると、それなりに
お付き合いいただいておりました。
画面上にも、名前が出ておりまして、一枚看板で。
あの名前と言うのは、他人にはどうでもいいのですが、親戚とか同級生とか
には、大変に意味深いものであります。


A 映像の世界の思い出

子供の頃から、映画で見てた人に、丁寧に頭を下げられると、
最初は大変恐縮するものです。そのうち人間は、すぐに慣れるもので
でも鞍馬天狗の「嵐勘十郎」さんに、アラカンさん等に、「これでいかがでしょうか」と
いわれると、少々ビビリますし、悪い気持ちはしないものであります。

そうですね。暗いセットの裏で、出番の切っ掛けを出すために、吉永小百合など、
自分とは別の世界の人と思っていた人と二人だけでいるとき、
「青春だったな・・・と思いますし、ついつい
北風そよふく、寒い朝は、と歌ったりしますと、吉永小百合の現物が
時代劇の衣装のまま、「こころひとつで、あたたかくなる・・・」
と途中からつけて歌ってくれると、ドキドキするものですね。
仕事を忘れて、なんか、青春映画の中にいりこんだような。

セットの裏、誰も見てない、暗闇に乗じて、肩でも触って、
合図をだそうかとか、今から思えば、セクハラですね。
普通は、目の前で、手を振って合図をするものですが、


B 仕事をスムーズにするには リーダーとは

脱線いたしておりますが、
音楽の世界、オーケストラの世界でも、コンダクターというか指揮者というか
リーダーが必要。テレビや映画でも、そうしたリーダーの仕事があるものです。
ところが、もともと、オーケストラには指揮者がいなかったそうですね。

第一バイオリンのコンサートマスターが、指揮者だったようで。
合図をして演奏をコントロールしていたようです。

そうそう、バイオリンの弦の上げ下げは、皆そろっているでしょう。
あれを決めるのも、コンサートマスターだそうですね。
綺麗に見せる、音をそろえるという。
今度、クラッシックの演奏を見るとき、よくご覧になると、全員同じタイミングで
上げ下げします。

ところが、演奏する人数がだんだんと増えてきますと、遠くの人には、
見えなくなるし、管楽器や打楽器まで加わると、誰か音頭をとらないと、
うまくいかなくなってきた。指揮者が生まれた。


映画では監督といいますが、TVでは、デレクターなどと申します。
特別の技能を持ったものばかりではなく、普通の入社試験で採用されて
研修を受けて、経験をつませて一人前になっていくわけでありますが、
よく考えると、工事現場の現場監督さんと同じで、事前の準備は
大変ですが、現場に出ると、スタジオに入ると、自分で直接仕事をするよりも、
周りの人々に動いてもらい、自分は直接手をくださない、
ただ言葉で支持することがほとんどであります。


C 特別の人種ではなく

で、私も、NHKに採用されて、研修を受け、私ははじめは福岡放送局、次に佐賀放送局、
そして東京へ、ここでドラマ番組部という、ドラマのセクションにいましたが、
結果的に一番長い時間を東京で過ごしてしまいました。

新人の頃、福岡放送局にいましたが、ここ飯塚には一回しか仕事で来たことは
ありませんで、何故かというと北九州に放送局機能が、まだありましたので、飯塚は
北九州の放送局が当時は、担当していたのです。


D 経験体験で覚えるもの


番組を作るということは、スタッフ全員に内容が分かるように、挨拶の言葉から
説明質問の内容、カメラで写すものを順番に、みんな書き込んだ台本というのを
作らなくてはならないのです。

一番若くても、まとめ役は、まとめ役です。台本を作る。

その習慣で、今日も、お話する内容をこうして、全部書き込んでおりますが、
順番どおり、スタジオの全員に分かるよう、くわしく書き込んでおく。

このカメラで、何を、あのカメラでゲストの顔と
最初から最後まで、全部決めておいて、最後のまとめの言葉まで時間内に入るように
何度か練習して、時間を計って、生番組のようにセーノので始めるわけです。

一発丸ごと、最初から最後まで一本収録の時代でした。



E 具体的に準備することが、スムーズに進む

TVというのは、段取の世界だとつくづく感じさせられました。

表に出て、いろいろとやる人だけではく、その裏にいて、まとめる人が
いなければ、スムーズには進まない。
計画して、準備して、それぞれの人が、それぞれに力を出していかないと
ことはうまく運ばない。

お寺も、住職が、一人で頑張っていては、動きは小さくなるものです。
「阿弥陀様の一人働きではなくて」、住職の一人働き、
坊守さんにも手伝ってもらえず、現状は、一人で何から何まで、
中小企業というより、家内工業で頑張っておりますが、

ご門徒の多くの人に関わってもらうためには、全員を動かす、動員し指揮し、
積極的に動いてもらうために、プロジューサーというのか、演出家というのか
裏方さんがたいへんに重要であると思います。

表面に出るリーダーよりもむしろ、リーダーを補佐し、動かす人の方よほど
重要ではないかと思います。


F 私にできることは

そうした図式で考えると、総代さんの立場、壮年会の立場、婦人会、
あるいは門徒推進員のやれること、やるべきことが、それぞれの立場で、
お寺がスムーズに運営できるようにするには、自分は何ができるか
見えてくるのではないでしょうか。

人間、10人集まれば、10人の意見やアイデアがあるものです。
しかし、それを全部取り入れることは、難しい。
ところが、人間は、自分の思いつきや、意見が通らないと、まったく協力しないとか、
中には、返って、邪魔する人が出てきますでしょう。
難しいですね。
でも、それだから、人間は面白いですね。


指揮者の元で、急ぎすぎたり、遅れたり、一人だけはみ出して乱さず。
外れないようにどう活躍するのかが、集団で活動する時には、大変重要なことだと、
テレビの世界からお寺の世界に入って、感じることです。

そう、最も感じるのは、振り向かない人が多いことかな。
笛吹けど踊らず、無関心な人が多いことが、一番ショックでした。

世の中の人は、皆、一緒に走ってくれるもの
声をかけなくても、皆集まって、いいものを作ろうと、時間を惜しんで
協力してくれるものと、思っておりましたもので、
お寺というところは、傍観者が多いことに驚きました。
                                 12分(最初から27分)




3、仏教との出会い

 @ たまたまのご縁

どうして一人の僧侶が、誕生したのか
仏教とはまったく関係ない男が、よほどのご縁があったのだろうと、ご注目をいただく
ことと思いますが、
歴史的に見ても、僧侶になるということは大変なことですからね。

聞くも涙、語るも涙の大変なドラマがあった。
面白い話があるだとうと、期待しておいででしょうね。
とかく他人の不幸は、楽しいものであります。
そこで。どうして仏教に出会ったのか、その話をさせていただきます。


NHKには、東京オリンピックの年に入りました。
地理的な感覚があったほうが、すぐに使えますから、
とりあえず、生まれ育った近くへ全員配属になりました。

オリンピックが終わり、やがて大幅な人事移動、私は、お隣の佐賀へ
「オイ、全国で県域放送がスタートするから頼むよな」とおだてられ、
意気揚々と佐賀へ転勤しました。
県域というのは、各県単位でローカル放送を始めるためです。


A 地理的なご縁

佐賀はまだ、独自の電波を持たない時代、熊本の電波でローかル放送を行っていました。
放送局も、県庁の前の商工会館に、借家住い。
番組の収録も、熊本まで出かけたり、中継車を借りてきて、佐賀で収録したり、
大変でしたが、のんびりのびのびした良い時代でした。

NHKの予算、決算というのは、全部国会に提出し、審議をいただくのですね。
そういう意味では、特殊法人の中でも、昔の三公社五現業と比べても
なかなかチェックは厳しい。毎年会計検査院も年2回おいでになります。。

組合活動が盛んでしたが、組合の委員長が参議院議員になるくらいですから、
上田哲という人ですが、社会党から出ていたわけで、
その嫌がらせなのか、人件費の抑制がシビアな時代でした。

そこで、正社員は増やせず、臨時のアシスタントとして、お嬢さん方が、
来ていたのです。雑用をお願いして、職員を増やさず、多くの仕事をさせようと。

そうした中に、お寺のお嬢さんが紛れ込んでいたわけです。
女ばかり姉妹の長女、跡取り跡取りと子供の頃から言われていたようで、
何とか、お寺から脱出したい。学校だけは、県外で許されたが、卒業するとすぐに
佐賀に呼び戻されて、ご門徒の紹介で、目先の変わったアルバイトをさせて
佐賀から脱走しないようにしていたようであります。

しかし、本人は何としても佐賀から、お寺から脱走するチャンスを狙っていたようで
そこに世間知らずの坊やが転勤してきたというわけです。


B 親の気持ち、子供の気持ち

皆さんも自分のお子さんのことでは、ご苦労があるだろうと思います。
自営業の方、農業の方など、子供に後を継がせたいものの、本人が好きな、
希望する、もっとすばらしい世界があるのではないかと、悩まれますね。

残って後を継いでくれるのもうれしいが、果たして、この後、自分たちの
時代のように、うまくいくのか。時代が変わるとどうなるか。
複雑な気持ちだろうと思います。

お寺の跡取りさんも、悩みが多いのだと思います。
素直にお寺に残るべきか、それとも、自分の世界に生きるべきか。
大きなお寺だと、そうでもないでしょうが、
ご門徒の少ないお寺のお子さんは、悩まれると思います。

寺に生まれたら、当然寺を継ぐべきだと、他人事ですから簡単に言えますが、
ご自分の子供として考えていただくと、どうですかね。
もっと別の世界に行かせてやりたいと思われるのではないですか。
もし、皆さんのお寺に跡取りさんが、ちゃんと、お寺に残っていただくのだったら、
本当に有難いことですよ。
決して、口には出さないものの、大決心をしてお寺に残られたことだと思います。
粗末にしてはいけませんですよね。


C 摂取して捨てず

ところで、私の方に話を戻しますと、脱走希望の跡取り娘は、転勤族と結婚すれば
自動的に佐賀を脱出できると、計算したようで。

この作戦に気づかずに、お寺の娘と、跡取りと結婚したのが、今日こうして
皆さんの前に現れて、皆さんの前でしゃべっている、みなさんの不幸の始まりです。

女ばかりの4人姉妹、その長女が脱走したもので、慌てたのが、次女
跡取りにと決められたとたん、さっさと自分で相手を探してきて結婚、これも脱出
三女も慌て転勤族と結婚、末っ子の4女も、自分がつかまってはなるものかと
相手を決めて結婚したいと言い出して、誰もいなくなった。

一抜けた、二抜けた、三抜けた,四抜けたと、全員がパスしてしまった。

もうその頃は、私は東京におりまして、佐賀のことは、頭にはまったくありません。
朝のTV小説か大河ドラマを担当していて、希望に燃えていました。
テレビに出る人ばかりの中にいて、新聞や雑誌にすぐ反応が出る。
世界は、自分のために動いていると思える生活をしておりました。


D 天下分け目の京都会談

そんなあるとき相談がある、京都で逢いたいと佐賀の親元から連絡がありました。
約束の京都にいってみると、佐賀の両親が、お寺の跡取りがなくなったので、
他人にお願いすることとなろうが、長女の夫である「誠さんだけには」相談したい。
了解いただきたいとの話ですね。

どうぞ、どうぞ、いい人があるといいですね。
これからは、心の時代でしょうからと、異議なしと、まるで
配役をキャステングするときのような気持ちで、僧侶の配役をするように、
軽やかに返事しました。

誰が、面白いだろうな、高橋秀樹では、若殿だろうし、石立鉄男のとぼけた
姿もいいかなーとか。意外と女性もいいかもね。週刊誌は喜ぶだろうなとか。

ところが、ところがですね。
隣にいるお寺の娘、我妻は、様子がおかしいのですね。
イイワヨー。どうぞどうぞと言うのかと思ったら、そうではないですね。
亭主がオーケーといっているから、素直に了解すればよいのに様子がおかしい。
イヤでイヤで、寺を逃げ出したのに、ぐずぐず言い出す。

長女としては、他人に譲ってしまうと、妹たちが帰りたくても、帰る家が
なくなる。それでは、申し訳がない、出来れば自分が跡をとりたいと言い始めた
のであります。

エッツ、エーどういうこと、女房は佐賀に帰りたいという。
ということは、別居するのか離婚するのか、

子供も小学校に入ったばかりですし、どういう意味なのか。
そんなこといっても無理だよ。とても無理だよ
これは、どうもヤバイことになったな、離婚でも切り出されると
困ったことになるなあ、と思っているところに。


E 方便しておわえとる

いいタイミングで、父親の住職が、今すぐにとは言わないが、将来跡を取って
くれるのであれば、ご門徒に紹介したい。
本当にいいタイミングで、解決案が出てくるのですね。

時間と勝負のTVの世界は、どこかで妥協することが重要です。
映画のようにとことん頑張るということが出来ない世界です。
いつも最高ではないが、最上の妥協点を探し、そこで満足する。
特に、深夜になってくると、次の日には、そのセットも俳優もいなくなるので
あせってくる。
スタジオには、多いときでは、100人ぐらいいますから、
最終電車も出てしまうと、全員タクシーで送らなくてはならなくなる。
莫大な経費ですから、気が抜けない。

フランスだったか、イギリスだったか、偉いさんが見学に来て質問を受けました。
この大河ドラマは、どのくらいリハーサルをするのか。
本読み一日、立ち稽古一日と答えると、一ヶ月かと聞き返す。イヤ一日
一週間か、イヤ一日。

撮影は、放送一本分のために何日準備しているか。3日間。3ヶ月か、ノー、3週間か。ノー
いや、三日間。ウソ、それで、よくあれだけのものが作れるなー
俳優組合は、組合はよくOK言うものだなーーと驚いていました。
イヤ、俳優は、掛け持ちできると喜んでいますよ。
訳す必要なし、
外国では、組合が強くて、日本のように、ハイスピードで
撮影するなどということは、決してないようですね。

日本の特に、NHKの撮影時間の短さは、世界一だと思います。
ですから、ちょっと気を抜くと、あっという間に、時間がなくなってくる。
一箇所で、60秒、判断が遅れると、一日に2から3時間のロスになる。

演出というのは、イエスかノウか、即断が必要です。映画のように迷っている
暇はない。待っている時間はない。

お寺の後継者になることも、今ではなく、将来のことだからと、とにかく
今日のところは、その場を切り抜けないと、終わらせないと。

定年後でいいとのこと、まだまだ20年先のこと、なんどかなるだろうと、
「分かりました。それでは、将来ということで、ハイ、オッケー」と、
次に行こうと、とりあえずスタジオの習性で、その場を乗り切りました。


F どうせ将来のことと思っていたが

人間は、いいかげんなもので、自分中心で何事も考えます。
定年後、定年後とは、まだまだ先の先。
ところが、定年が延長になるし、ちょうど関連会社が出来始め
先輩たちが、関連会社の社長だ、専務だと、おいしいことになっていく、
鹿児島出身の川口幹夫といドラマの部長さん、直属の部長が、番組制作局長だ。
放送総局長だ、どんどん偉くなっていく、
総局長というのは、紅白歌合戦のときに優勝旗を渡す役ですね。

こっちまで引きづられて、面白いようにどんどん給料も上がっていく、
そんな実力はないのに、軍団の御蔭、流れに乗ると何でも思い通りに進む、
ちょうど徳川幕府に、紀州から将軍が出ると、紀州藩から付いてきたものが
実権を握り、優遇されるようなそんな感じ、
これで将来もバラ色、早まった、しまった佐賀に帰ると約束したのが、
しまったなあーと思っていました。



G ふと気づくと

坊守の妹も、NHKの技術の者と結婚して佐賀を脱出しておりまして、
東京の社宅のマンションすぐ近くの部屋に住んでいました。
姓が違うし、職種も違うので、姉妹だとは分かりません。
女房の希望を聞いて、横浜のその妹のいる社宅へ引っ越してきたのですが、
もう、自分で決済できる立場でしたので、非の打ち所のない理由をつけて、
自分で決定印を押して、引っ越してきました。

ところが、佐賀の母が入院しましたので、帰らせて下さい。食事は妹のところで
子供たちは、おばちゃんのところで、大丈夫といっていますから。

ああ、そうですか。
年末年始は忙しいので、佐賀に帰らせていただきます。食事は、妹のところで
ああ、そうですか。
その頃から、お盆だけはお参りの手伝いに私も、帰っていたように思います。
東京から、佐賀まで、自分の車で、帰ってお盆が終わると、また、東京へ
1100キロありますが、会社の仕事が終わると、その足で運転をはじめて
次の日には、佐賀に着く、これを、10年以上続けました。


H 銅像も建つのだ

浄土真宗は、他力の教えといいます。自分の力を頼りにしてお浄土へ生まれようと
するのではなく、仏様にお任せし、自分で出来る日常生活を精一杯努めさせていただこう
自力ではなく、他力の教えです。

こうして、僧侶になった今、振り返ってみると、私の選択ではなく、
みなさんの計らい、仏様の計らいではなかったかと、感じられるようなりました。

こんなこともありましたね。サラリーマンですから、給料が上がること、
名刺の肩書きが変わっていくこと、うれしいし、励みになるもの。
やった、やったぞと、女房も喜んでくれるだろう。
急いで帰って、辞令や昇給明細を見せると、機嫌があまりよくない。

当時は、給料が、20パーセント、30パーセント上がった時代ですからね。
皆さんも覚えがあるでしょう。
電卓片手で、大喜びしているのに、お寺のお嬢さんがおっしゃるのは、
いくら頑張っても、いくら偉くなっても、「会社に銅像は建たないわよね。」
エー、それ何。「お寺をちゃんとやれば、きっと銅像ぐらいは建つんじゃないの。」
そりゃそうだなー。総局長になろうと、会長を何年努めても、銅像は出来ないよな。

そういえば、お寺には銅像があるところもあるなー。と
そうか、お寺に帰れば、みんなに喜ばれて、銅像までも建ててもらえるのか、
それほどまでに期待されているのかと・・・・。
今から考えればバカな話ですが。知らないということは、怖いものです。
お寺にある銅像というのは、住職の銅像ではなく、親鸞聖人の銅像なんですね。
そのことは、ずっと後になって知りました。


I 大きな力に引き付けられて

皆さんはタバコをやめられた方がありますか。
コマーシャルで、私は、これでタバコをやめました。私はこれで会社を
辞めました。というのがありましたが、冗談で、私もそう申しておりました。
事実タバコも止めたのですが、会社も辞めました。
そのきっかけが、寺の娘と結婚してしまったためです
まさしくこれで、会社を辞めました。
昭和天皇の葬儀をちゃんとやり終わってからでした。
50歳直前、今思うと昭和天皇に殉じて、会社を辞めたようなタイミングでした。


皆さんも自分の人生を振り返ってみると、この飯塚に残ったのも、
あるいは、いったん都会へ出ていたのに、帰ってきたのも、自分の力以上の
何かに引きづられた、引っ張られたという感覚がおありではないでしょうか。

それにまた、こうして、お寺にお参りになるきっかけ、しかも一泊研修会に
参加するという大変なご縁を作っていただいた方が思い当たられるのではないかと、
思います。
あいつのために、こんな生活をしなければならない・・・・という人生と。

あの方の御蔭でこうして、心安らかな毎日を送っていますという
受け取り方の違いはあるでしょうが。
自分の力、自分の判断だけではない、大きな力が働いていることを感じることは
ありませんか。


「ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、
まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。
思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。
もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく
長い間迷い続けなければならないであろう。
如来の本願の何とまことであることか。
摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。
世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、
疑いためらってはならない。・・・・・・・」  

やっと、この意味が味わえるようになってきました。
                          22:00(49)







4、TVというもの

@ 写真が嫌いなのは

写真が嫌いな方がいらっしゃいませんか。
写真写りがよくないから、写真は嫌いだと逃げ回る方がいますよね。
写真だけが悪いのか、現物が悪いのか。
写真嫌い方は、写真だけが悪いと考え、本人以外は、現物と余り変わらないと
感じるもの。
本当の姿を知らないのは、その本人だけなのですね。

一昔前までは、宗教とは、鏡に自分を写すようなものだといわれて
いたようですが、鏡に写る自分は、自分の都合の良いとこだけしか
見ないのが人間、本当の自分を見ることはなかなかできないものです。

写真と同じように、ビデオカメラに映された自分を見ると、もっとはっきりと
自分自身の特徴を発見することになるものです。
そこに映っている自分が、他人から見た本当の自分であるわけです。

宗教というのは、お念仏の教えというものは、
このカメラに映る自分を見るように、客観的に自分を知ることなのかも
知れません。

鏡に写っている自分も、本当の自分の姿を写しているのに、
私たちは、自分の姿の都合のよいように見ているようです。


A 客観的に映し出す

ところが、その点カメラは、正面からだけではなく、自分の知らない違った角度
から、客観的に私の姿を映し出してくれるものです。

これは、テレビの番組を制作して、そのあとお念仏の教えに出会ったものでないと
気づかないことだろうと思いますが、大変にすごいこと、すばらしいことを
教えてくれるものです。
ですから、この話は、日頃みなさんがお寺でお聞きになっている先生方、
ご講師さんからは、絶対に聞けない大変な真実であります。


ご存知のように映画という世界は、
一台のカメラだけで撮影していくのが基本ですから
細切れに何度も何度も繰り返し演技をして、さまざまなカメラアングルから
ワンカットワンカット撮影していくわけです。

例えば、この会場を撮影するとすれば、最初は、入り口から全体が見渡せる
広がりのある映像。次にこうしてお話しする、私の姿。
それを聞く皆さんの姿、私の姿の後ろに阿弥陀様の姿があり、私の顔をぼかしていくと
ピントを送ると、そこに阿弥陀様のお姿がある。真剣に見つめるあなたの顔のアップ。
お内陣の中にカメラを移動して、話す私の後ろ姿、越しの皆さん。
ろうそくのアップなどと映像の構成をするとします。
これは、私がお話をしているのではなく、阿弥陀様のお取次ぎをしている
それが、こうした法座であり、研修会であることを表現しようとするわけです。

そのためには、カメラを、あそこにおいて、照明を全体に落とし、阿弥陀様と
私のところが、浮き立つように工夫をする。
それで、お話をして、はいオッケイ。
カメラ移動します。私の正面からをとります。
はい、オッケイ。次は、場所を少々盗んで、盗んでといっても、ものを
取るわけではなく、私と阿弥陀様の関係が一番撮りやすいところへ、
演台を動かして、ビンとを送り、私が話しているのではない、
阿弥陀様の話をみなさん聞いているのだと、主張する映像をとり、
こんどは、カメラをお内陣に移動。逆の方向から、照明を全体に変えて
撮影、最後に、皆さん方の顔をアップでとる。
こうしたことを、映画ではするわけですね。

劇場映画は、大きなカメラと照明を移動させて、丁寧に撮影して
いくわけです。ですから、時間がかかる。経費がかかる。一年がかりで一本。
半年一本でもいいわけです。


B 意味を持たせた映像を作る

ところが、
これに対して、TVは毎週毎週、毎日毎日放送していくために、量産する必要がある。
このため、基本的にはスタジオで、昼も夜も、雨の日も風の日も撮影できるよう
計画的に製作できるような体制をとっています。

お寺で撮影すると、お寺までの移動時間がかかり、照明器具もスタンドで立てて
畳の上に直接置くなとか。金箔に、強い光を当てるなとか。
いろいろと文句を言われるわけです。
頭をさげさげ、遠慮して撮影するぐらいなら、スタジオの中に、お寺のセットを
組んだ方が、よっぽど早く、安く上がるわけです。

スタジオというのは、天井にバトンという鉄棒が縦横の設置してあり、
しかもそれは、スイッチひとつで、ゆっくりと降りてくる、作業しやすい高さまで
降りてくるわけです。


ちょっと脱線しますが、渋谷の放送センターをご覧になった方があると
思いますが、あの中にTVや、ラジオのスタジオが、数えきれないほどあります。
見学者通路からごらんになると、天井に近いところから地下室のようなスタジオを
見下ろすようになっています。
すぐ目の前に、照明のバトンがいっぱい見えるはずです。



C 数字のいろいろ

昔、ステージ101というのがありましたが、あれは、何か。
101ワンちゃんというのは、101匹の犬が登場しましたが、
ステージ101とは、何か。
スタジオの長い方が、101メートルあるのか。
101坪の広さがあるのか。


クイズです。どなたか。
答えは単純です。マンションと同じで、1階にある一番目のスタジオ
一階の第一スタジオ。百番台が階数、
後がスタジオ番号になっています。
102,103,104,105,106と続き
大河ドラマと朝のTV小説が、106というスタジオを三日間づづ使う。
金曜土曜月曜が、TV小説、火曜水曜木曜が大河ドラマと決めていますので
スタジオのセットも全部必ず壊し、建て替える。それも一晩のうちに壊して
新しく建て替える。



D 量産するには、光が大事

見学に行くのだと、日曜日と言うのは、意外とスタジオを使っていない。
普通の曜日の方がスタジオの稼働率は高いはずです。
それに、午前中は準備期間、テレビスタジオはあまり変化がない。
遊んでいるわけではなく、夜のうちにセットを壊してしまい、朝新しいセットを
組み立てるわけですから、昨日まで、時代劇のセットがあったのに、
一夜あけると、現代劇のセットに作り変えられてしまっている。

そこで朝9時ごろに、スタッフが一同に集まりスタッフドライと言う仲間だけで
動きや場所を確認して、それから照明を全部下ろして方向や数を調整する
照明というと余り大事な仕事のようには感じませんが、実は女優さんに
一番もてる職種のようです。
技術スタッフの中で、照明さんは別格です。
映像や音声は、素人でも良し悪しが分かりますから演出スタッフの誰かが気づき
ますけれども、照明については、よくよく見ないと見落としてしまうものです。

写真をおやりになった方だと、よくご存知だと思いますが、
明かりの当て方一つで、表情が非常に変わるものです。

極端な例では、落語、夏場に怪談、幽霊の話をしますが、あれは、明かりで
怖さをだしますね。下から明かりを当てて、どろどろ、どろどろと・・・・
懐中電灯で、下から明かりを当てて、遊ばれたこともあるでしょうが、
明かり一つで、表情が変わってくるものです。


E 平等なひかり、選択のひかり

明かり、光、どこかでよく聞くことだと思われるでしょうが、浄土真宗は、
仏様の働きを、光で表現しています。
脱線しているようですが、雑談のようですが、実は、本筋の話なのです。
光については、平等に照らすのが阿弥陀様でしょうが、

その平等ではイヤなのが、女優さんなのですね。
自分だけ特別、自分が一番でないと面白くない。
自分がきれいでなければ、うれしくない。
他人のことはどうでも良いというか、他人に光があたって自分の方に光がないと
ご機嫌が悪い生き物です。

光が当たる、当たらないというのは、こうゆうところから来たのかもしれませんね。

そこで、技術スタップの中では、照明さんが大事にされる。
生かすも殺すも明かり次第。
飲み会があると、女優さんは照明さんの所で、よく話していることが多い、
今日は、近づかないなおと見ていると、マネージャーが、あるいは、若いかわいい
付き人がちゃんと照明さんを、フォローしているケースが多いものです。

立体感をだすのも美しさを出すのも、照明、明かりが重要な位置を占めますね。
アイライトと言うか、目の中に光を入れるとまた一段と美しく見えること
間違いなしです。

顔のアップ、顔の大写しで、感情が入った場面では、目の中に明かりが入っている。
偶然に入るのではなく、意図的に入れるわけです。



F 人工的なあかり、自然のひかり、仏のひかり

しかし、人間が作り出す明かりは絶対ではない。
光が当たる人、当たらない人との差があり、みんな平等とは
いかないものです。
強い弱いがあり、影があり、スイッチをきれば真っ暗になる。

明かりの働きは、自然の太陽光はすごいものですが、それでも、影もあり夜もある。
そこで、正信偈にもありますね。
何ページですかね。
お疲れでしょうから、皆さん一緒に呼んでみますか。

無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光
不断難思無称光 超日月光照塵刹
 と十二の光、十二光でとかれているのだと思います。

12の光、12という数字で思い出したのですが、
また、余談ですが、渋谷の街中に、スタジオ107というのがありました。
今はどうなのでしょうね。マージャン屋さんなのですね。
NHKには106までしかない。107というスタジオはない、NHKの客を
狙ったものだったのか、それとも記者クラブの記者を狙ったのか
放送記者クラブがあって、新聞雑誌などの記者が常駐しているのですね。
はたして今は、107は、現存するのかどうか、

もう一つ、渋谷には、109というデパートがあります。
どなたか、これは、お分かりの方があると思いますが。

東京急行、東急ですから、10と9、東急というわけですが、
0101というのは、丸井というデパート、
しゃれた言い方ですね。
ところで、この線でいくと飯塚を数字で言うと、
何かあるんですか。しゃれた言い方は。?

112「か」が困るのですが、
かー車ですから、1129ということも言えるかもしれません。
電話番号とか車の番号につかえるかもしれませんね。



G ひかりを記録する

光とは、不思議なものだ、ということを話から脱線しておりましたが
そのひかりを記録するのが、カメラであります。
光がなければ、映像として見ることが出来ず、記録することもできない。

そのカメラも一台ではなく、同時に3台も五台もおいて、お芝居を各方面から
撮影していくわけです。
前から後ろから横から、各方面からの撮影をするわけです。

ただ、技術的なことですが、対話線というか、二人の人が話している
その線をまたいでカメラを置くと、何がなんだか分からなくなってきます。
そうですね。テニスの試合でもいいのですが、こっちと、こっちに
右と左にカメラを置くと、
おかしなことになります。

左手のカメラで、私が打つと、上手から下手へ、画面の右側から左手に玉を打つ。
右手のカメラで、相手を撮ると、これも右手から左手へ打つことになる。
画面上をみると、みんな右から左へと玉を打つことになり、打ち合うのではなく
打ちっぱなしで、玉が帰ってこないことになる。
刀で切りあいをしても、二人のショットはいいものの、お互いが切りあわなくて、
同じ方向を向いていることになる。
サッカーでも同じゴールへ両方入れているように見える。
カメラを何台も使うことは、注意しなければならない。


H 日本の文化、伝統というもの

今、上手下手ということを言いましたが、これは、踊りなどをおやりのかたは
常識としてご存知でしょうが、日本人は、向かって、右側を上手、左側を下手とします。

そんなことお寺と関係ないだろうと思いますが、
お内陣の中を見ると、親鸞聖人が上手であり、蓮如上人が下手ですね。
これは、TVの世界でも、NHKの場合は、新人の研修でちゃんと教えますので、
対談番組などでは、お客様が右手に座り、司会のアナウンサーが左手
下手に座るようにしていますが、民放の場合はそうした日本文化の
伝承と言うことがなされていないようです。
右手左手といっていたのでは、本人のか、向かってか、判断が難しい。
そこで、上手下手で表現する。
ちょっと右へ、というわれうと、自分の右か、相手の右かわからない。
混乱する。

これは、お雛様、昔は、男性が向かって右手、上手でした、
ところが明治天皇が洋服を着て写真を撮られたときに、左手に立たれたので、
それいらい男性が左手になったようですね。
結婚式では、どうでしたかね。

仲人を良くやっておられる方、
それでは、ヨーロッパ型ですかね。

日本の古来の文化では、上手下手とう考え方があったことを
お考えになると、何かと便利なこともあるものです。
知ってしまうと考え方の基本が出来てくるものです。
お芝居の花道というものも下手から出てくるのが基本、上手からは出てこない。

嘉穂劇場もそうなってませんか。花道は下手に。
昔の上下関係など、古典芸能では、そうした配置をしていまに
のこるものがあるのではないか。
確かめてください。


I 知ってしまうと、気になること

知らなければ、何でもないことなのに知ってしまうと気になることの一つに
お経さんは、直接畳には置かない。大事なものは、必ず下に何か引いてその上に
置くものですが、これも知らないと何でもないですが、知ってしまうと
大変に気になるものですね。
お茶を出すときに茶たくなしだと、なんだか変な感じがするのと
どこか近いのですかね。
我々が座布団に座らせていただくのも、大事にしていただいている表現ですね。

そうもう一つ、ロウソク立てや、花瓶、香炉など、3本の足がある場合
手前に一本、奥に2本が正解ですね。
狭いお仏壇だと、手前の方を、二本にしたほうが、安定して落ちないように、
思いますが、決まりは、手前が二本の方がよさそうですが、正しくは、一と二です。


J 主観的な映像、客観的な映像

  
何の話でしたかね。カメラの話でしたね。

何で、この話を始めたかというと、私たちは、自分の目でものを見て
いますので、必ず、正面だけを見ています。
後ろは見えません。鏡などを使えば、自分の後ろも少しはみることが
できます。
車のバックミラーや、サイドミラーがまさしくそうだろうと思います。

ところが、日常は、自分の目を通して、自分が見るものだけが
すべてであると感じています。

主観的な映像それがすべてだと思い込んでいます。
ところが、TVをご覧になって感じられると思いますが、
主人公の主観だけではなく、客観的な映像で成り立っていることに気づかれていると
思います。
私の目から見た世間だけではなく、見られている私、世間の中の私、
そうしたものを感じさせてくれるものです。


K 阿弥陀様の目、優しい目

阿弥陀如来という存在は、私自身の主観的なものの見方だけではないですよ、
客観的なものの見方があると、表現し指摘していただいているように感じます。

人間同士お互いに、主観と主観のぶつかりあいがある時、自分は決っして間違いが
ないわけです。間違いがあるのは、相手であり、それは、この目で見て、
よく分かっているわけです。
私の主観的な目が見て間違いないわけです。

しかし、TVカメラのように、客観的な位置からその二人を見ると、また違って
映ってくるものです。
私の主観と相手の主観、それだけではなく、客観的な目。
これを仏様の目と見たらいかがでしょうか。

私が見ている映像、皆さんが見ておられる映像、それに、仏様の目あるのだと、
こうしたものの見方をする訓練をつんでくると、世の中のことがある程度
はっきりと見えてくるものです。

そして、その仏様の見る目は、
あら捜しをして、いろいろ批判しようというものではなく、
優秀なものだけを選び取ろうという選別の目でもなく、
一人残さず、すべてのものをなんとかして救わなければおかないという目です。
こうしたものの見方が出来るようになると、人生も面白くなっていくものであります。


L 現実を客観視する目

私たちの日常は、主観的に生きている。さっきのカメラで言えば、こちらからの
カメラだけで世の中を見ています。
アメリカの同時多発事件が起これば、テロはゆるされないと、被害者側、アメリカ側。
報復攻撃側だけのニュースになりますし、相手のことは意識の中では抹殺しています。
ちょうど、蜂に刺された後の私たちのように、蜂は怖いので追っかけてまでしては
殺しませんが、蚊に刺されたときのように、追っかけていっても殺したい。
許せない腹が立つ。

これと同じように、先ほどの中国との間も、北朝鮮との間も、私たちは一方的な
立場でものを見ていきます。
ところが、ドラマを作るということは、一方だけをみるのではなく、
双方、両方の思いを描かないと面白くないものです。


野球が好きな方は、野球こそ筋書きがないドラマであるとおっしゃいます。
どこで、どう動くのか、予測しながら、やったの、しまったのと、一緒になって
一喜一憂するわけですね。

そして、あそこで松井が、一発出ればとか、高橋がどうすればとか。
振り返っているわけです。


M どう引き付けるか

で、ドラマを作るということは、どうすれば予想を満足させ、あるいは裏切り
はらはらドキドキさせることができるかということです。
ところが、一つ忘れてはいけないことがあります。
ただ面白ければそれでよいというものでは、時間つぶしだけになってもったいない。
何かを主張したいその主張を素直に受け取っていただくために、
どう面白くするかということだと、思います。

民放さんは、なんと言ってもスポンサーが一番大事。
お金を出していただいている方が満足しなければ、意味がない。
そのためには、娯楽に徹してしまうことも出来ると思いますが、
国民全員がスポンサーのNHKは、ただ楽しければそれでいいじゃないか
では済まされない。その楽しみの内に何かを感じてもらうもの
それが重要なのですね。

こうして貴重な時間をいただいて、私ごとをお話しているようですが、
それはそれなりに、是非お話し、したいことがあって、こうして
お伺いしているわけであります。
  


N 創作とは主張することである

今、朝のTV小説は、ハワイから来た日系女性の目を通して、日本の現状と、
忘れつつある日本人の心のようなものを、再確認しようとする
趣旨のようです。

日本人だけでは、当たり前になって仕方がないと思っているが、果たしてそれでいいのか
仕方がないとあきらめないで、今、やっておくべきことがあるのではないか。
そういう目線を持ったもののように思います。
そこに、製作者の主張、これだけは言っておきたいということが込められているわけです。


作り手側には、筋書きが全部分かった上で、逆算してお話しを作っていくものです。
結論が分かった上で、どんな順番で持っていくの効果的かを決めていく。

これは、お経をよく読んでいる方には、お分かりいただくのだと思いますが、
お経と言うもの、お釈迦さまが説かれたもの、その多くが物語りタイプで記録されて
いますよ。
これも、自分の理解した内容を、どのように表現すれば
わかってもらえるかという、計算がされて、語られ、記録されている。
お経を読むときに、脚本、台本との発想で読み直してみると、
新たな発見があるものです。

この物語は、何が言いたくて書かれているのか、一つ一つの具体的な表現だけではなく
全体的にとらえてみると、それが分かるものだと思います。

                         33.00(81)




5、物語というもの

  @ 隠されたねらい
 
ここには、専門家の方々が沢山いらっしゃいます、教学の上でも
基幹運動の上でも、全国的に世界的に最も恵まれたといってもよい、
立派な先生方がいらっしゃいます。
これから申し上げますことは、例えとしては少々問題であると、お叱りを受ける
ことを承知の上で、味わいですから、お許しをいただきたいのですが、
イソップ物語でしたか、父親が亡くなるときに
息子たちを集めて、遺言したという話がありますね。

うちのブドウ畑に、宝物を埋めたと、遺言した。
どうも、余り出来の良い息子ではなかったのでしょうね。
そこで、父親は、ブドウ畑に宝を埋めたと言って死んでいった。

欲に目がくらんだ、息子たちは、父親の葬儀もそこそこに
ブドウ畑で、宝探しを始めた、埋めたところを書いた地図とか
宝の内容とか、深さとか手がかりがなかったのでしょう、
とにかくめちゃくちゃに掘って掘って、隅から隅まで、くまなく掘り返した。
でも、宝物は見つけ出せなかった。

父親に、いっぱい食わされた、最後になってだまされた、仕返しされた、
無駄なことをしたと、息子たちはガッカリ、ぼんやりしていましたが、
やがて実りの季節、なんと、なんと素晴らしいブドウが実り、
どこのブドウ畑よりも立派なブドウが実ってしまった。
兄弟たちは父親の言葉の本当の意味が、やっとわかって、濡れ手で粟の
努力しないで結果だけを期待する生活ではいけないと、それからは畑をちゃんと
耕すことが、実りを多くすることであると学んだという
物語がありますね。


A 親の願いを端的に

内容に少々違いがあるかも知れませんが、だいたいこうした話が
ありますね。
よく似た話で、因幡の源左さんという方、ご存知だと思いますが、
この方も、突然に父親に先立たれ、亡くなる直前に父親は
「おらが死んだら親さまにタノメ」といって、息を引き取った。

まだ若い源左さんは、どういう意味か分からずに、聞きまわった、
訪ね回った。いつもその父親の言葉を思い出し、親さまとは、
タノメとは、どういうことか、訪ね歩き、そしてついに
南无阿弥陀仏に出会ったと言う物語というか、これは事実でしょうが
どこか似ていますね。

ここで、共通なのは親が残してくれたものを、一生懸命に探し発見した。
そして、宝物を手に入れたということです。
両方とも、行動していますね。
畑を掘り返す兄弟、訪ねあるき、お説教を聴きまわった源左さん。
ただぼんやりと、留まっていただけでは、宝物は、受け取れないのでは
ないかと思います。


B ここにある遺言の品

そういう意味では、皆さんのお父さん、おじいさんは、具体的に遺言を
してくれましたか。
多くのみなさんの祖父母やそのまた先輩は、宝物を残したと、具体的に
言葉を残してくれなかったかもしれませんが、遺言を残してくれなかった
かもしれませんね。

しかし、ちょっと考えてみると、この本堂、こうした立派なお寺を残してくれました。
なんでこんな大きな建物を作って、お金をかけて補修して残してくれたのか。
自分の家のことは、後にして、お寺のためにお金を使って、残したのか。
これが、形にした先輩の遺言なのかもしれませんね。

そして、そのお寺に来ても、だまって聞いているだけでは、何にも受け取れない。
行動しなければ実践しなければ、受け取るものが、受け取れない。
本当に大事なものが見つからないのだと思います。

じゃ何をすればいいのか、座禅を組むのか、お百度参りをするのか
水をかぶるのか。
そういう行動ではなく、お念仏一つでいいいとの仰せである。
何で、南无阿弥陀仏なのか、そんなことで、どうして
というのが源左さんでしょうし、私たちの多くのお念仏の先輩だったと
思います。


C 実践することで見えてくること

行動することが大事なのでしょうね、実践することが大事なのでしょうね。
今日こうしてここに座っていらっしゃるのも行動しておられるわけですね。
ただ、座ったはいいが、そうですかと聞いていただけでは、何かもう一つ
はっきり分からずじまいだと思います。

朝晩、正信偈のお勤めとご和讚をしまようよと蓮如上人はおっしゃる。
それを、はい、わかりましたと、実践する。行動することが大事でしょうね。
そんな朝から時間がないといいながら、ニュースから天気予報、今日の運勢まで
見ているし、新聞もじっくり見ているものです。
目先のことだけに気をとられて、本質にせまることを忘れている。
軽視している。

ただ、反対に余りにもまじめに取り組みすぎると大事なものは
発見できないもののようです。
「畑に宝が埋まっている」それならばと、楽をして早く全部手に入れようと、
トラックターを持ってきてブドウの木までも根から掘り起こして
しまったら、秋になっても、実ることなく父親の願いは、分からずじまいですね。

どうも、現代は、行動しない人と、反対にまじめすぎ完璧主義でブドウ畑を
全部掘り起こしてしまうような方々と両極端だろうと思います。
行動しない人も、まじめすぎる人も、せっかくの宝物を発見できずにいる。
ですから、その宝物の価値を、まったく知らない人が多いようです。


D 日常生活を大事にすること

因幡の源左さんの場合も、父親の残した田んぼ畑を一生懸命守り続けながら
お寺での聴聞を欠かさなかった。
お寺の法座があるときには、いつもより早起きして畑仕事をちゃんと済ませてから、
お聴聞を欠かさなかった。
そして、早朝の農作業のときに、朝露に濡れた草を刈って、重いその草を、
牛の背中に乗せたとき、「ふいっと分かしてもらったいな」
自分の力で受け取ろうとしていた、自力のはからいに気づかせていただき、
父親の願いがはっきり理解できた。

「ようこそ、ようこそ、さてもさても」

これが、余りまじめすぎで、仕事を止めて、農作業もそこそこにお寺通いばかりでは、
発見できなかった。お念仏に出会えなかった。
私のように仕事を止めて、専門職の僧侶になってしまったり、
あるいは仕事をサボって、やるべきことをやらないで、お聴聞だけしていたのでは、
決して、真実には出会えなかった、分からなかったのだと思います。


E お経は、何を伝えようとしているのか

そういう意味で、お経とは、何を伝えたいのか。
親の願いとはどういうことをいいたいのか、捜し求める
行動することが重要なのでしょう。
ただ、余り真っ黒になって本来のやるべきことをやらないのでは
日常生活を、大事にしない生活では、その内容はなかなか
理解できないということでしょう。



ご和讚で、浄土和讚、観経をたたえた
弥陀・釈迦方便して 阿難・目連・富楼那・韋提
達多・闍王・頻婆裟羅・耆婆・月光・行雨等

ドラマの配役表のようですね。
原作、演出、出演はという配役表にそっくりです。
お経は、物語にして、真実を伝えようとされたのですね。
物語の中に、隠された真実を発見すること、それが大事だと思います。
                    9.30(90)





6、往生ということ

@ ハッピーエンド

新聞広告に、カメラですが、他力本願からの脱出というのが
出たようですね。
きっと、他の御宗旨で、自分の力を頼りにしなさい。他力じゃだめだと
おっしゃっているところが、今も昔もあるのでしょうね。
そういうことで、他力とか、往生とかは、間違って使われているわけです。
往生するも、あいつら修行もしないで、南无阿弥陀仏でお浄土にいけるなどと、
困ったものだ、何が「往生」だ、まったく往生するとおっしゃっているのでしょうね。

じゃあ、阿弥陀如来の願い、すべてのものを必ず救うとは。
必ず浄土に往生させるとは、いったいどういうことか。

いろいろ波乱万丈の人生であっても、最後は必ず、浄土に往生させる。
自分の理想の国に生まれさせる。
そこに生まれると、生きがいある喜び一杯の世界がある。

ドラマで言えば、必ずハッピーエンド、最高の結末である。
途中経過はいろいろあっても、最後には、最高の結末が待っている。

しかし、そこで完結するのでなく、最終回ではなくて、
最高の状態が連続していくわけです。

画面に、完結の完の字幕がでるのではなく、終わりの字幕が出るのではなく
つづくの字幕が出る。
今回で、終わってしまうのではなく、
まだ次の物語に続くわけです。

私の人間編が終わるものの、人間としての生活はハッピーエンドですが、
それで終わってしまうのではなく、つづいてお浄土編が
スタートするのですね。

仏の仲間となった私の物語が、私が主役の物語がスタートする。
私が主役の、最高に楽しい喜び多い、生きがいいっぱい、やりがいある
お浄土へ生まれてからの物語が始まる。

これが浄土真宗の教えの根本ではないかと、思います。


A 念仏の人の喜び

皆さんの周りには今でも、いらっしゃりませんか。
一昔前までは、あちらこちらにいらっしゃった。
他人から見ればかわいそうなお祖母ちゃん、経済的にも、健康の面でも、
家族関係でも同情しても同情しつくせないような方が、

「南无阿弥陀仏南无阿弥陀仏・・・・」とお念仏をしならが、
ニコニコ笑っていらっしゃる。
やせ我慢なのか、虚勢なのか。
そうではなく、本当にお念仏を喜んでいらっしゃいました。

お念仏の私は、命終われば必ずお浄土へ生まれる、そこで自分だけ楽しむのではなく
仏様と一緒になって、すべての人々に働きかけ、お念仏を勧め喜ぶ顔を見たい。
「待たれている・・・・」という表現を使いますが、
私がお客様として待たれているのではなく、一緒に生きがいある働きをしようと、
共に働く仲間として待たれている。

あんたじゃなければだめじゃ、あんたに手伝ってほしいのだ。
他の人ではだめ、あなたじゃなければ、役にはたたん。
待っているから、急がんで良いけど、早く来て一緒に働いてくれと待たれている。

昔の結婚は家と家の結婚でしたので、お嫁にいくということは、その家の働き手になる
ことだったのでしょうが、婚約が決まって、結納が終わって好きな男が待っている
結婚式はまだだけど、あの家に嫁に行きたい。
好きな男の親たちも、早く来てくれ待っている。

働き手のあなたが早く来てくれるのを待っていると、
何度も何度も呼びかけられているようなものではないでそうか。
これはうれしいことですね。誰よりも期待されて待たれている。
他の誰かではなく、この私が待たれている。うれしいでしょうね 。


B 待たれている、期待されている

男の場合は、今、就職難だと言われますが、就職試験を受けて、面接を受け、
期待しています早く来て頑張って欲しいと、貴方ような方を探していた。
是非来て下さい。一緒になって頑張りましょう。と
社長さんが何度も何度も呼びかけてくれるようなものです。

それも、すべての人を救うというのですから、中小企業ではなく、
大企業の中の大企業、何億もの人が何百億もの社員のいる世界一の会社の社長が
じきじきに、あなたに来て欲しい、あなたが欲しいと、何度も何度も
言われているようなものでしょうね。

時々電話をかけてきて、そう言われるだけではなく、会社からわざわざ出かけてきて、
私の所まできて、私の耳元で、是非、お願いしますよ。
私の国に来てください。待っています。
お願いしますよ。必ず来てくださいと。貴方に来てほしいのですと、
何度も何度も呼びかけてくださる。
すべての人を救うという世界一の大企業の社長さんがですよ。

公務員経験者だと、総理大臣がわざわざ訪ねてきて、何度も何度も訪ねてきて、
是非、力を貸してほしいと、君に頼みたい、大臣になってくれと
言われるようなもの。いや、自分と同じ権限をあたえるのでと、頼まれるようなもの。
でも、総理大臣は、日本の国民だけですから、小さい小さい。
阿弥陀様は、すべての人、全世界の人が相手、人間だけではなく、生きとし生きるもの
すべてのことを、救おうという、もっと大きな責任と能力、そして使命を
持った方であるわけです。
その阿弥陀様が、この私を頼りにして、待っていてくださる。



C 貴方がほしい、貴方でなければ

男は、あなたでなければと言われるのに、実に弱いですね。
歴史的に考えて、男と言うのは、バカな動物で、頑張ってといわれて
殺し合いの戦争に出かけていく、おだてられて命がけの戦いに出かける
期待されおだてられ、望まれると男は命を投げ出すもの、強いようで実に弱いものです。
そして、今阿弥陀さんは、お前でなければ勤まらない是非来てほしい。
助けて欲しい、手伝って欲しいと呼びかけておられるのですね。

これが、阿弥陀様と私との関係なのでしょう。
君じゃなければ勤まらない。
遠慮することはない、自分と同じ権限を与えるから、自分と同じ地位をあたえるので、
是非来て欲しい、君でなければだめ、あなたが来てほしい。
心配しなくていい、君ならきっと大丈夫、南无阿弥陀仏を口にする君なら出来る。
来てくれ来てくれと、待っている待っていると、呼びかけてくださっている。


D 浄土と極楽の違い

ところが、普通の人は、死んだ後で行く世界など無いと思っている。
この世だけがすべてで、次の世は何も無い。

しかし、そうは言うものの、もしあるとすればそれは極楽である。
極楽、楽しい世界に、何不自由ない世界に待たれていると思いますよね。
朝寝朝酒朝湯があって、きれいどころがそろって出迎える。
地獄があると思っている人も少ないでしょうね。

死んでいくのでも、わが身を喜ばせる極楽を期待します。
お念仏の人がいく、世界は、そうした、極楽ではなく、
働き手としての私が待たれているのだと思います。
人間期待され、頼りにされることほど、嬉しいことはないですね。
生きがいある、やりがいのある世界、そこに生まれることが出来ると。

人生の最終回が分かると、人間の人生を楽しみながら、体験していけるのではないかと
思います。

そういう最終目標がある人は、いちいち小さなことに気にしないでいい。
いろいろあっても、波乱万丈であればあるほど、人生は楽しいもの。
やがて、私は、お浄土に生まれるのだからと、


E 人生の最終目標が見えぬ人

ところが、現代は、目標というか、方向というか、それがはっきりしない人ばかり
そこで、親切な誰かが、 将来が不安なので、お金が大事だと言えば、
「そうだ、そうだ、お金が第一だ、お金お金と・・・」
保険が必要といえば、「そうだそうだ、ガン保険」。健康が一番といえば、そうだそうだ。
塩の取りすぎがいけないといえば、「そうだそうだ」塩さえ注意していればそれでいい
お塩の量だけが気になって気になって。
太っているとだめと言われると、ダイエットダイエット。

他人の言葉に左右されて、ウロウロ、ハラハラ、イライラの人生を
送っているようであります。

教行信証の教文類には、このように書いていただいています。

「つつしんで、浄土真宗すなわち浄土真実の法をうかがうと、
 如来より二種の相が回向されるのである。
 一つには、わたしたちが浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、
 二つには、さらに迷いの世界に還って衆生を救うという還相が回向されるのである。
 往相の回向の中に、真実の教と行と信と証とがある。」(教行信証・教文類・現代語訳)

必ず、往くことの出来る世界がある。
阿弥陀様から回向されている。
行くだけで終わりではなく、還って働く場所がある。
                            13.00(103)




7、三度の誕生で本当の人間になる。

 @ 人間になるには

亀井勝一郎という方がいらっしゃいました。
亀井さんでも静香さん、うるさい静香さんではありませんで、
評論家であって、浄土真宗直接関係の方ではないのですが、この亀井勝一郎という方が、
こんなことをおっしゃっています。

人間は3度誕生して、はじめて、人間になると。
三度も誕生出来るか、一度だけではないかと思いますが。
赤ちゃんを三度生むことはできるでしょうが、それも女性の場合だけです、
人間は三度誕生して本当の人間になるとおっしゃいます。

赤ちゃんとして、この世に生まれてくる、これが一回目。
これは誰でもりかいできますね。
次に思春期自我が確立する、自我が誕生する。
お母さんお母さんと言っていたのが、ある日突然、俺が俺がとなってくる。
普通は、これで、大人になっていくといいますが、自我が誕生すれば、
それで終わりではなく、これに加えて、宗教に出会ってはじめて人間は
人間になるということを、おっしゃっています。
それが第三の誕生であると。


A 自我の誕生だけではまだ、人間ではない

自我が確立する、自分を持つ、自分自身をはっきりと自覚する、認識する
と言うことは大変に、いいこと素晴らしいことです。
というのは、いい大人になっても、いつまでも子供のような人がいますから、
やはり、自我が確立するのは、絶対必要なことです。
ところがそれだけでは、人間ではないと言うのです。

じゃあ宗教と出会うと言うことは、どういうことか、これは、なかなかご縁がないと
そのチャンスがないものです。
お酒やタバコ、誰かに勧められて、はじめた方もあるでしょうが、
ほとんどは、知らず知らずに習慣となってしまうものです。
宗教もどうもそういうところがあるようです。

ですから、2度目の誕生が自我の確立が出来ても、なかなか三度目の誕生
宗教と会うことは難しいことです。
なんで、宗教と出会わないと人間にならないかということですが、
私たちは、生きている限り動物的な要素は、無くなすことはできません。
自分がかわいいし、お腹がすけば何か食べたくなるし、美しいものを見れば
欲しくなる。
それも自分の方が上でないのなかなか満足しないように出来ているようです。

口伝鈔に源空上人の言葉として
法師には三つの髻(もとどり)あり。いわゆる勝他、利養、名聞これなり。
とあります。
これは、僧侶のことを言われていますが、いかがでしょうか、
皆さんも、他の人よりも勝れているという思いを持ちたくありませんか。
利益を得ようと図りませんか。
世間の人々から、誉めそやされることを願う心は、ありませんか。


自我が確立し、おれが俺がという人間同士が生活していくのは、なかなか
難しいものです。
宗教と言うのは、こうした人間が人間として生きていく最も重要で
効果的で、必要なことを教えてくれるものであるように思います。



B 誤解された宗教

宗教は嫌いだと言う方があります。
今戦争が起こっているところは、そのほとんどが、宗教との関わりがあるものです。

中東のイスラエルとアラハトさんところも、ユダヤ教イスラム教。
アフガニスタンもイスラム教とキリスト教との戦いだという見方も出来ます。
人間が人間らしく生きていくことを教えるはずの宗教が、戦争を起こすことは
どうしてなのか。

ここで、注意しなければならないのは、宗教と言うくくりでものを見て
考えていますが、そう単純にはいかないということです。

親鸞聖人は、そこを、宗教には、真偽仮の三つがあるとおっしゃっています。
これは大変に明快な分析だと思います。
本物の宗教と、真実の宗教と、偽ものの宗教、それに仮の宗教、
これは本物の宗教へ導入する、導き入れるための方便の、手立ての宗教ということです。


C 本物と偽物

この分析でいうと、子供のように甘えて、何でも自分の欲しいものを求める
宗教、これは問題ある宗教、偽物の宗教だと思いますね。
病気が治る、商売が繁盛する、入学試験に通るなどと、頼めば頼れば
何でも叶えてくれるとうことを言う宗教は問題ある宗教だと思います。

また、自分だけ、自分の家族だけ、自分と同じ考えの人だけ、
自分の民族だけの幸せを認め、ほかの民族、国家、宗教を認めないものも
問題があるのではないかと思います。

真実の宗教とは、すべての民族、すべての人に受け入れられるものでなければ
真実の宗教とはいえないのだと思います。
現在戦争をしている宗教は、自分の民族だけが幸せになることを願うものの
ようです。そのためには、他の民族を否定してしまうところに、争いが起こり
不幸なことになっているのではないでしょうか。


D 日本人も誤りを犯した

ふと、考えをめぐらして見ると、日本の神道というのも、日本民族の幸せだけを
求めるものではなかったか、そして、自分を頼ってくるものだけを
幸せにしてくれると、受け取ってしまっているところに、問題があるのかも
しれません。八紘一宇とか、大東亜共栄圏などは、自分を認めてくれる
者だけを仲間として、行動しています。

これは、神道の教義、正しい教えがそうなっているのかどうか、知りませんが、
私たちが勝手にそう信じてしまっているのかもしれません。
自分の仲間、日本人だけの幸福のために、他の国の人々のことは、無視し、
排除してもいいのだ。
自分の主張、自分の考え、自分の利益に反するものは、みんな敵であり悪であり
それを抹殺することは、正しいことだと、考えてしまったところに
問題があるようですね。

自分に不利益なもの、自分に反抗するもの、自分を害するものはその命を
奪ってもよいのだということを考え、実行したところに、問題があるようです。
  
ここ飯塚は、夏に蚊がいませんか。
佐賀は、蚊が多いところです。特にお寺は、お墓の花立にぼうふらが繁殖し
沢山の蚊がいます。
蚊に刺されると、腹が立ちますね。このやろうーと叩き殺します。
殺してしまうと、少しは腹立ちが収まりますが、逃げられてしまうと
くやしいし、一層痒い感じがします。

蚊がさしてきたので、殺されて当然だというのが、私たちの考えです。
刺すのがよくない。殺した私は被害者であって、当然であると。


E 教えに外れて生きている

他人に迷惑をかけてものは、殺されても当然だと、考えて行動することが、
当たり前だと思っているということは、
浄土真宗でも、親鸞聖人の教えていただいたことと大きく外れて、
自分の欲望を満たしてもらう、わがままを許してくれる
そういう宗教だと誤解してしまっているのかもしれません。

神も仏もみな同じ、信仰することはいいことだ、とおっしゃる方もありますが、
こういう方は、本物の宗教にであうことなく、本物の宗教を偽物の宗教に
してしまっているのかもしれません。

第三の誕生、宗教に出会ってはじめて人間になるということは、
どういうことかと考えてみると、人間が自分というものを認識し、同じく
自分と同じ人間が存在し、その人間を認めあうことが出来るそういうことが
分かること、それが宗教に出会うということを言おうとしているようです。

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8、先祖が守ってくれる

@ 甘えの精神

 私どもは、境内に墓地があります。本堂にはお参りしなくても、
よくお墓参りだけをされる方があります。
そして、その方々がおっしゃることは、ご先祖様を大事にしてさえおけば、
先祖さえ、ちゃんと祭っていれば大丈夫とおっしゃります。。
その先祖も、自分が知っている先祖、写真でみたり、話で聞いたりしたような
近い先祖だけのイメージを持っておいでの方が多いようであります。

また、うちは先祖がないのでとおっしゃる方もあります。兄貴が見ているので
うちには先祖がない。
「じゃあ突然変異でお生まれになったのですか。」といいたいが
さすがに遠慮していますが、
人間である限り、父母、祖母祖父、そのまた
父母と、そのまた父母と、どこまでもどこまでも限りなく、先祖はあるはずですが、
ところが、ごく近い先祖だけを考えておいでのようです。

そして、先祖を大事にすれば、私に良いことが起こる、大事にしなければ悪いことが
起こると、ここでも私の方に中心があるようです。

先祖のことを考えているふりをして実は、自分のこと、自分の家族のことを
考えているように思います。
先祖が可愛いのか、自分が可愛いのか


A どんな子や孫に育ってほしいのか

みなさんは、お子様、中には、お孫さんをお持ちの世代だと拝見しますが、
先祖となる予備軍としての立場で、お考えなっていただきたいとおもいますが、
かわいい子供や、孫のことを思うと、本当の幸せとはどうゆうことかと、
考えますよね。

経済的に豊かなことも大事なことですが、なんといっても
みんなに認められ、かわいがられることが、一番ではないかと思います。

自分のことばかりを考えて、仮に成功しても、長続きはしないもの
周りに、可愛がられることこそが、一番だと思います。
先ほどの、三度の誕生の二番目の誕生で終わるようでは、決して幸せではないと
感じます。


B わがままは本人のためにはならない

自己中心的な成功というのは、長続きしないし、本人も余り楽しくないはずです、
社会の中で生きている、生かされている。協力して生きている。
そういう味わいを持てて初めて、心からの喜びが沸いてくるものでは
ないでしょうか。

子供の頃、自分だけ違ったもの贅沢なもの、なかなか手に入らないものを
持った経験はありませんか。
とても得意ではあるものの、最初は、皆うらやましそうに近づいて来るものの
やがては、気まずい気持ちになっていくものです。

自分の子孫に、ご先祖となる皆さんは、欲しいものは何でも与える
他人以上の物を持たせてやることが大事ではなく、もっと他に、本当に
必要なことがあるはずです。それは何かというと、
わがままもほどほどにして、助け合って生きていくことを学ばせるのが
ことによると、宗教の一部分ではないかと思います。

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9、宗教にもいろいろあります
  宗教とはいったい、何でしょうか。

@ 年のはじめは、まず神様

やっと本筋に本題に入ってまいりましたが、では本物の宗教とは、どんな
ものでしょうか。

東京の渋谷というところに、会社がありまして10数年間通いましたが、
すぐ近くに明治神宮という、すばらしい環境の神社がありました。

朝の散歩をしようと、出勤前に原宿という駅で降りて、若者の町の原宿ですが
この明治神宮の入り口なのです。
朝、8時過ぎにここを通ると、すばらしい自然があるものです。
森の中を歩くようなもの、全国から集められた木だというのですが、
もう人間の手では計り切れないほどに大きくなっています。
6〜70年で条件がよいとすくすくと育つのでしょうが、立派なものです。

道も広く、朝、そこを大きな箒を持って、専門に掃除をする人が何人もいます。
通りぬけるのに、一時間近くかかるほどの広い森が続いています。
しかも、その中の道路もとても広い、どうして、そういう広い道が
必要かというと、正月の初詣のときには、この道にあふれるほどに
人々が押しかけてくる。
そのために必要のようです。

いまはどうでしょうかね。正月は三が日、ご門徒がお見えになるので
テレビは見れませんが、私が渋谷に勤めていたころは、必ず明治神宮。
川崎大師など何百万の人手で、今年は多かったの少なかったの、
一万円札が多かったの小銭が多かった、小切手があったのと、ニュースに
なっておりました。


A メッカ、モスク、初詣

NHKの中には、海外に映像を配信する、交換する施設があるようですし、
海外の放送関係者が、選んだものや、自分たちで取材したものが
衛星で世界に送られていました。

で、正月は必ずこの初詣の様子が日本の国民の行事のように海外では
放送されていました。
みなさんモスクというイスラム教の教会でお祈りしている姿とか、
メッカというのでしたか、何万人、何百万の人が集まってぞろぞろと回っているのを
見て、びっくりしますが、日本人も正月には全員そろって神社に参る国民だと
海外の人は思い込んでいると思います。

それに子供のころから、団体で学校行事で、京都や奈良のお寺参り、
神社参りをさせている。

また、外国人が観光旅行で日本に来ても、お寺の町、京都を訪ねることが
多いでしょうし、明治神宮も日頃は、日本人より外国人の姿の方が
多いのではないですか、観光バスの数は、断然日本人より外国人の方が
多いものです。


B 天皇の神を崇拝する国か

それに気づいていなかったのですが、明治神宮の外苑に美術館があるのです。
ここにも外国人がいっぱい訪れているのです。
中に入ると大きな絵が並べてありまして、明治天皇時代の功績を
絵画にしたのではないかと思います。大国ロシヤを破ったただ一つの国
日本であることが強調されています。
日本海海戦。「天気晴朗なれども、波高し」のあの日本海海戦や
旅順でしたか地上戦でも、日本はロシヤに勝っているのですね。

世界の国の中で、ロシアに勝ったのは、日本だけだと強調されています。
ナポレオンもナチスドイツ、ヒットラーも、ロシアを攻めたものの結果的には
負けていますね。
日本だけがあの大国、強国のロシアに勝った唯一つの国と言う感じ。

そして、その時の天皇、明治天皇は、亡くなって神様になったのだ、
その神様になった明治天皇の神社に、毎年正月、まず一番に参拝する。
何百万人もの人が、おすなおすなと、お参りする。

ところが、日本人は、明治天皇が神様になったと意識して、明治神宮に初詣に
出かける人が、はたして何割いるのか、せいぜい1割、多くても3割ぐらいの
人しか、明治神宮と明治天皇をくっ付けて意識している人は、
いないのではないかと思いますが、皆様は、いかがでございましょうか。
明治天皇と、明治神宮を、くっ付けてお考えですか。


C 身近すぎて意識せず

ここ飯塚でも、深く考えていませんが、こうした神社仏閣が多いのではないですか。
比較しちゃなんですが、学校の数より、交番の数より、郵便局の数より、
コンビニの数より、お寺お宮の数が多いはずです。
ここには、地名までお寺の名前がついています。
日本人は意識していないものの、客観的に見てみると、日本ほど
宗教関係施設を身近に持っている国は世界の中でも類がないのかもしれません。


ところが、この日本人が自分は宗教を持たないと思い込んでいる。
海外に派遣されて仕事をしている人など、あなたの宗教はと聞かれると、
無宗教ですと、自慢げに誇らしげに言う人が多いといいます。
外国人から見ると、無宗教ということは、どう聞こえるのでしょうね。

裏返して、日本人にいる外国人が、アパートを借りるときに、
私は、秩序を守ることは嫌いです。約束を守る必要はないと思います。
自分の好きなように生活します。余り干渉しないでください。
私は勝手に気ままに生活することが大好きです。
と言われているように聞こえるのかもしれません。


D 宗教が生きている国々

外国の宗教は、ほとんどが神様との約束を守る、道徳を守る。
秩序を守ることが大事なように見受けられます。
人間である限り、社会人である限り、よき家庭人である限り
社会的な地位がある限り、宗教を持ち、教会に通い、生活していなければ
信用を得ることは出来ないようですね。

つくづく思うのは、アメリカの大統領の就任式の様子をご覧になったこと
ありますか、あれは、聖書バイブルに手を置いて、誠心誠意努力することを
誓っているのですね。
イギリスのダイアナ妃の葬儀の時に、イギリスの首相は、聖書の中の
一節を朗読する。


日本人の感覚では、総理大臣が、進み出て、お経の中の一節を読み上げることに
近いのかもしれませんが。


E 日本人の宗教イメージ

それに対して日本人は、どう考えているかというと、
○ 宗教とは、弱い人間のためのもの、
○ 古い過去の伝統のもの、亡くなった人のためのもの
○ 亡くなった人が待遇が悪いと怒り出して、意地悪しないために
  沈めてもらうもの、
○ ターゲットを絞って、詐欺とか脅迫とか犯罪に近いところを
うまく切り抜けているもの。そうしたイメージをもっている
人が意外と多いものです。

ですからあなたの宗教はと聞かれると、無宗教ですと応える。
その言葉の中には、
○ 私は、誰かに頼らなければならない弱い人間ではありません。
○ 私は、過去の因習にとらわれず、科学的な現代生活をしています。
○ ただ伝統ですから、親の年忌とか墓参りは家族にやらせています
○ 私も仕事で忙しくないときには、出来るだけ出かけて、勤めを果たしています。
お寺には、そのうち時間ができたら、いかねばならぬと思っていますが、
お墓参りをちゃんとしていますので、まあ、それで十分だと思っています。
 

F お見舞い、ご機嫌うかがい

近頃、老人施設が非常に完備されました。
母親や父親を預けているときに、よく出かける人とまったく出かけない人、
奥さんにだけ任せている人。
世間体があるので時々は出かけるといった感覚で、
命終わった、亡くなった後は
お墓に見舞いに行く、

そういった感覚が現代の多くの方の宗教の見方だと思います。
今日ここにおいでの方は、どうも違うな、そんな事ではないが、
そういえば、自分の息子もどうも、親父に任せておけば、お袋に任せておけば
それでいいと思っているようだ。
二人も三人もお寺に行くことはない。ちょうど自治会の町内清掃のようなもの。
誰か一人代表が出ていればそれでいいのではないですかな。

と、若い者は思っているように感じられませんか。
宗教というよりも、お寺との付き合い、ご近所との付き合いの延長線上に
宗教があるようにも感じているのではないかと思います。
                            12.00(131)





10、宗教は誰のためのものか

 @ 私の宗教

 じゃあ、宗教とはどんなものなのか。
誰のためにあるのか。救いとはどういいうことかと、
若者に聞かれたとき、どう応えたらいいのでしょうね。

この質問は、すぐに答えられるようで、なかなかやっかいです。
家族の宗教から、私の宗教へということを言われた時代もあるようです。

うちは、仏教、うちは浄土真宗、うちはお念仏、うちは南无阿弥陀仏から、
私は、お念仏の教えです。私は浄土真宗ですと言えるということは、どういうこと
でしょうか。

これが、はっきり言える人は、ご住職ぐらいのもので、総代さんも壮年会の方も
次の質問が怖くて、あまりはっきりとは言えないのではないかと思います。
どういう質問かと言えば、どんな教えですか。何でですか。どうゆう効果があるのですか。
などとの不躾な質問です。

これが、アメリカの人とか、ヨーロッパの人とかは、はっきりと言える人が
多いのはどうしてでしょうか。


A 生活の中にある宗教

それは、食事の前に家族で祈ったり、寝る前にベットで祈ったり、日曜日には
教会にいったり、宗教が生活の中に入り込んでいることで、私の宗教だと、
言えるのだと思います。
宗教というものは、頭で考えるものではなく、生活の中に生きているものだと思います。

頭だけで考えるのは、宗教ではなく学問であります。哲学であり、心理学であり
ことによると医学であるのかもしれません。

皆さんの中にも、毎朝お仏壇の前に座っておられる方が多いと思います。
しかし、どうも私は浄土真宗とは、はっきり言うには、後ろめたいと感じておいでの
方もあるのではないかと、思います。

子供の頃から、お寺にこられていた方、あるいはご両親が熱心なお念仏の人で
その姿を見て育った人などは、何の不審もないでしょうが、
近頃になって、お寺に来るようになった方は、どうも分からないことが
いろいろとあるものです。
しかし、なかなか、言葉に出して聞くだけの勇気もありません。


B 基本的なことが分からない

それは、「救われる」ということとか、「悪人」ということとか、「お浄土」とか
「往生」とか、いうことなどだと思います。
感覚的に理解してはいるものの、もう一つしっくりとこないのではないかと、
思います。
「救われる」とは、いったいどういうことか。


仏教で言う救われたということは、どうも時代によってその味わいが
変わってきているように思います。
ですから、私たちの心の中にある、救われたと言うことも人により
経験により、環境によりかなりの違いがあるようであります。

仏教は、因果の道理を説くものです。因果応報という
自分で作った原因は、自分でその結果を受け取ると説くもの。
自分の一生だけではなく、自分の過去作った原因も、私が受け取るもので、
この人間の一生の間に、その結果が出なくても、次の世に、生まれ変わった
次の世界で、その結果からは逃れられない。
ということを、言うものです。

ですから、出来るだけ良いことをしよう。悪いことをしないようにしようと
努力してきました。
もし悪いことをしても、そのことに気づいたら、反省しその悪を打ち消すような
よい行いをしようと、正直、慈悲、柔和など励んでいたものです。


C 特権者の宗教

しかし、日常の生活に追われている人には、とてもそんな余力がありませんので
鎌倉時代以前は、仏教は豊かで時間の余裕のある一部の人のための
教えであったようです。
それも、この世で、幸せになるようにと努力する時代と、この世の幸せが
あの世にも続くようにとの願いに変わってきたようであります。

それが、鎌倉時代、一部の特権者だけの教えではなく、一般大衆の教えにと
変わってきたとき、この世での救い、生きている間の救いは、とても無理だと諦め、
次の世の救い、生まれ変わってからの救い、彼岸の救いを願うようになる。
お彼岸の彼岸ですね。この世でなく生まれ変わって後の彼岸での救いです。

この世を諦め次の世のために、努力する。
次の世のために、どんな苦しみも耐えて努力して生きていく、
これは、どこか受験生の毎日の生活に近い感じがします。
試験に合格すれば、明るい世界が待っているので、すべてを投げ打って、
頑張りましょう。

今頑張らねばいつ頑張るのと、本人だけではなく、
家族も鳴りを潜めて、テレビも見ないで一緒になって耐え、頑張る。
受験勉強は、限られた期間だけですが、修行をしておられる方は、
長い間、あるいは一生涯、苦しい努力の毎日を送られたようです。

どうも、これは、聖道門と言われる修行をして、悟りを開こうとされる方々の
ご努力に近い気がします。人間が決めた修行の内容を、あるいは先輩が
実践して成果のあった修行を追体験して、自分も将来幸せになるために
今苦労を努力をしようという考え方です。

しかし、これをするには、時間と暇があり、またその苦しみに耐えていけるだけの
能力が必要です。すべての人にそれを求めても無理な話です。
そこで、一部の選ばれた人だけのものの教えでしかありません。


D 大衆の宗教へ

それに対して、鎌倉時代に、すべての人が救われる教えが仏教であると、
おっしゃっていただいた方々がお出になったのです。
親鸞聖人は、法然上人の元で、浄土三部経に説かれているのは、お念仏の教えであり
これが、お釈迦さまの教えの中心、真髄であるとおっしゃっていただいたのです。

地位や権力、財産や名誉があってもなくても、難しい修行が出来る選ばれた人だけで
なく、日常の生活を精一杯しながら、お念仏をすることで救われる教えこそが、
お釈迦さまの教えであると、勧めていただいたのです。

そして戦国時代、江戸時代、明治に入っても多くの人々がその教え、お念仏に出会って
豊かで、喜び多い人生をまっとうしました。


E 貴族のような生活をする現代人

ところが、私たちは、その教えに出会って良かった、助かったとなかなか
思えません。どうしてなのか。
それは、現代の生活は、ほとんどの人が、貴族のような豊かさの中で生活しています。
食べるものがなく、飢えるということは、現代の日本ではほとんど見られません。
病気になっても、健康保険で医者に係り、痛みも苦しみも少しは和らげられます。
支払うお金がなくて、お医者さんに行けないという人は、もうないのではないか。

お浄土の描写のように、冷暖房が効き、思いのままにお湯も使える。


F 因果の道理を信じない世代

もう一つ、私たちは、自分で作った原因は、自分でその結果を受け取るものとの
意識がほとんどありません。
交通違反と同じように、見つからねば大丈夫。みんなやっているから大丈夫と
自分の行いに責任を持つということがなくなりました。
罪の意識がなくなりました。お金で解決すればそれで、すべて解決してしまった
ように思っています。

仏教では、殺生ということを戒めています。
生き物が生き物を殺すことは、慎むべきことと、そして、生き物を殺せば
自分も殺される、この世は無事でも、あの世で地獄が待っていると
教えられ信じていました。

どうでしょうか、生き物を殺すこと、人間を殺せば殺人罪という犯罪ですが、
人間以外の動物や虫などの生き物を殺すことに罪の意識を持っておいでの方が
ありますか。
農家の方は、農薬で害虫を駆除しておられます。お蔭で私たちは、おいしいお米を
いただいています。虫食いのない、野菜、果物もいただいています。
しかし、農家の方も、私たちも、虫を殺した、その罪で、この私が
苦しみを受けなければいけない、殺されなければならないとは、決して思っていません。
大事な、農産物を傷つけ食べる悪い害虫は、殺されて当然、虫を殺すのは
良いことをしたのだと、思い込んでいます。


G 他の人を批判はするものの

いま、久留米の方では、看護婦さんが保険金のために人を殺したと批判しています。
人を、助ける仕事の看護士さんが、お金のために殺してしまう、許せないと
いっています。

ところが、農薬も、蚊取り線香も、ゴキブリ取りも、よく考えると
自分の利益を得るために、他の生き物を殺しているのです。
自分のために平気で、他の生き物を殺して何の痛みも感じていません。

人間でないからいいじゃないかというのは、人間の勝手であり、仏様の目からすると
生き物が生き物を殺して、何の痛みも感じないのは、困ったものだ
看護士さんが人を殺すのも、良くないが、それと同じように写っているのでしょうね。

動物との関係ではなく人間の関係でも、人をだませば、だまされる。
人の悪口を言えば、罪になる。みんな自分に帰ってくることを、信じていません。

自分の責任、自分の行為の結果もたらす問題、人へ与えた痛みなどを感じられない
時代となってきました。

ですから、救われるとか、罪を犯したとか、申し訳ないとかいった感覚が
芽生えないのだろうと思います。


 H 戦後の教育の責任

これは、こうしたことが起こるのには、原因があります。
私は、戦後の日本の特徴だと思います。

戦前は、自分のことは次にして、まずは、国のため、人のため、親のためと
自分以外の人のために行動することがすばらしいことでした。
ところが、戦後は、自分のことに重心がおかれ、他人のことは関心がなくなりました。

今日も私は、最初の頃は、私のことをお話しました。
一昔前までは、私事で恐縮ですがと、断りを言わねば恥ずかしいことでした。
自分のことは、公の場では言えない、それはミットもないことだったですね。

ところが、現代は、私、私と、自分中心になってきました。
若い人を見ていると、親と子供の関係も、親も親の立場中心ですし、
子供も子供中心で、皆自分中心であるようにも思えます。

それは、戦前がお国のため、親のためと、自分を殺してきたことへの反省と、反動だろうと
思いますが、ほんのこの頃までは、社会主義・共産主義というのは、進歩した考え方
やがては、資本主義は滅びると思っていた人がいたものです。

これに危機感を持った自由主義というか、資本主義側は、人々が連帯して行動する
協力して仕事に当たる、弱いものへの同情をすることを、否定するように
教育を進めてきました。
それが、競争主義の原理です。アメリカンドリームと言うのですか、人間は
努力すればどんな夢も叶えられる。夢を叶えるためには、わき目を振らずに努力を。
スポーツの世界だけではなく、会社の経営も、サラリーマンも。競争の世界に
組み込まれていきました。
そして、子供たちも、受験戦争に勝ち残ったものだけが幸せになる。
負けた人間は、幸せになれないと親たちがいうもので、受験勉強に必死になりました。


I 生涯競争の時代

昔は、大学受験ぐらいが受験でしたが、今では幼稚園に入る時から、お受験の時代です。
とにかく競争に勝つことが、生き残る手段と思い込み、協調する助け合うなどと
いうことは、忘れ去られてしまったようです。
何でこうなのか、競争社会を作り出すことこそ、資本主義が生き残れるのです。
みんな協力して、仲良くやろうという社会主義では、人間は満足しないように
欲望を駆り立てるように、仕向けていったのです。
民放というのは、欲求不満をもたらすために、電波を使います。
商品を売る、コマーシャルということは、欲望を駆り立てる。そういうことです。

仏教は、浄土真宗は、みんな平等、協調、協力と現状に喜びを感ずる
ということは、資本主義の原理からは
外れているようにも思います。
集団がまとまると、必ず権力とぶつかっていくものです。
現在権力を持っているものには、不都合なことです。
  

 J 新たな悩みの出現

社会主義共産主義が、理想と違って衰退したのは、一部の権力者が、多くの大衆の
ことを忘れて、みんな平等にという目標を見失ったためなのかもしれません。
そして、大衆の意思を意見を押さえ込んでしまったからだと、思います。
一部の選ばれた人のための世界になったためだと思います。

今日お集まりの皆さん、私たちの世代までは、こうした動きの中で生きてきました。
そして、精一杯努力し、それなりに充実した人生を送ってきました。
しかし、生まれたときから豊かな物の中で育って、競争馬のように勝てば
良い人、負ければ人間としては最低と、評価されてきた世代には、
我々の知らない、若い世代には、若い世代の大きな悩みがあるようです。

この競争社会で大きな利益の恩恵を感じるのは、ごく一部のエリート集団だけです。
大多数の人々は、勝てなかった競争に敗れたコンプレックスを持ち、わずかに核家族的な
小さな幸せをしっかりと守って生きています。


K 個性を認めあった時代

思い出すと、一昔まで、この子は、面倒見の良いこと、弟の世話を良くやくとか。
よく手伝うとか、何かその子供の特徴を周りが見つけ、ほめていましたね。
勉強は好きではないが、何かその子供の救いになるようなことを、大人たちは指摘し
ほめてやっていた。
ところが、今は、子供たちが活躍する場も、大人たちが認める場も、
無くなってしまって、ただ、学校の成績だけが問題とされるようになってきた。
勉強さえすれば、自分の部屋にこもって、勉強している様子さえ見せれば
大人たちは、安心する。
そんな、価値判断しかしていません。

現代における宗教の救いというのは、こういう時代の若い人々に、必要重要ではなかい。
信仰を得たことを切っ掛けとして、生きる自信を与えること。
人生の喜びを与えることではないかと、いう方がいます。


L 勝ち組も、負け組みも皆孤独

ごく一部の勝ち残ったエリートは、他人を、友人を、隣人を蹴落とすことによって
希少価値を得ることで、エリート競争を勝ち抜いた。
そのため、人間不信、人間疎外がうまれ、耐え切れない孤独感の中に
生きているのではないか。

また反対に、競争社会で思い通りの結果を得られなかった多くの人々は、
こちらの側が多数派ですが、
コンプレックスに悩み、自分は社会の落伍者ではないかと、
やっかいものでは、社会にとって無駄なのではないかとの思い込みで、
積極的に行動できない、こじんまりとした消極的な人生を送る人も多い。
しかし、本物の宗教に出会うことで、別人のように、自信と勇気に
あふれた人間に変貌する例も少なくないのです。

宗教に出会うことで、相互信頼と心の触れ合いによって、学校で、職場で、
社会生活の中で孤独感を解消する役割を果たすものです。
必要とされている、この私に出来ること、やるべきこと見えてくる。
 

M ますます広がる心の空虚

そして、これこそが、現代の救いであろうと思います。
これは、競争社会に生きた意識のない世代には、理解しがたい悩みと救いかも
しれませんが、そこに、お念仏の教えが、現代に通じる教えであることは、
確かであります。

自分のお子さんがお孫さんが可愛ければ、是非、お念仏の教えを残して置くことが
どんな財産よりも高価な、価値ある残しものとなることでしょうか。
自分が理解できなくても、お念仏の生活を始めてみると、そうした若者の
悩み苦しみも、うなずけてるくるものです。
自分のためだけではなく、一番大事な人のために、お念仏を相続されますよう、
期待しております。

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