み光のはたらき ( 願いに応える人生 )


 先月(一九七九年七月)の二十日過ぎでありましたけれども、
宗派の仏教青年の活動といたしまして 「 真宗青年の集い・
洋上大会 」 というものが開かれました。

これは、簡単に申しますと、全国の本派関係の青年の集いを、
例年でありますと、どこかの教区にお願いして開いていただく
のですが、今回は 「 さくら丸 」 という大型の船を貸し切りまして、
沖縄・神戸間を往復した、ということであります。 


 「 本願寺新報 」 の記事にも出ていますように、この大会の
テーマは 「 響 」 というものでした。

これは、音が響くという響きでありますが、その選ばれたもとを
たどりますと 「 正覚大音、響流十方 」 というところの
「 響流 」−ー響き流れるといいうことばからとられたのであります。

そうしたことを考え合わせながら 『 讃仏偈 』 の最初のところを、
少し味わってみたいと思います。


『 讃仏偈 』 は、

光顔巍巍 威神無極 ・・・

・・・・正覚大音 響流十方 と続くわけであります。

 お経というのは、どうも何をいっているのかわからない、
ということで、一般にわからぬものの代表のように使われています。

ですから、 「 お経のように 」 ということばは、どうもよくない響きを
もっておりまして、残念なことであります。

この 『 讃仏偈 』 の最初の部分の内容を味わってみましても、
この短い部分だけで、非常にハッとさせられるようなことが
述べられてあります。

お経の中の話の展開の順序から申しますと、阿弥陀如来が
仏さまにおなりになる前、世自在王仏という仏さまの前で、
仏道に志を立てられる、その決意をなさるところなのであります。

仏さまを讃えるおことばも、実は、法蔵菩薩が世自在王仏を
お讃えになっていることばであります。

これは、阿弥陀さまが理想として師事された仏さまということで、
仏さま全体に通じる意味と受けとらせていただいてもいいと
思うのであります。



 棒読みいたしますと、何のことかわかりにくいのでありますが、
読み下してみますと、このようになります。



 光顔巍巍として威神極まりなくまします。かくの如きエン明、
ともに等しきものなし、日月魔尼、珠光のエンヨウも、
みなことごとく隠蔽せられて、なおし聚墨のごとし。

如来の容顔は、世に超えたまいて倫なし。
正覚の大音は、響き十方になる。


 実は、また、これは西洋音楽の節につけまして、意訳された
『 さんだんのうた 』 として、特に若い方々の礼拝の場で、
よく用いられておりますので、皆さまもよくご承知のことかと思います。


 光りかがやく かおばせよ


 みいずかしこく きわもなし

 炎ともえて あきらけく

 ひとしきものの なかりける


 月日のひかり かげかくし

 宝の玉の かがやきも

 みなことごとく 蔽われて

 さながら墨の ごとくなり


 世自在王の おんすがた

 世に超えまして たぐいなく

 さとりのみこと 高らかに

 あまねく十方に ひびくなり


 戦後、現代語訳に翻訳されたものでありますが、
仏さまのお顔はギギとして輝いている、そのイジンを、
ここでは 「 みいず 」 と訳してあります。

偉大なお力と申しますか、徳は限りがなくて、等しきものがない、
その輝きは並ぶものがない、ということでありましょう。 

その次のところで 「 日月魔尼 」 とあり 「 日月 」 とは太陽と月、
そして 「 マニ 」 というのは、インドのことばで宝石のようなもの、
宝のようなものということですから、今日風に申せば、宝石の輝き
といえると思います。



 そういったこの世にある美しい光、力強い光も、みなことごとく
蔽われて、さながら墨のようであるというのです。

ということは、仏さまの輝きの前に出ますと、そういった光さえも
カスんでしまって、墨のようになってしまう、ということであります。

世自在王仏のお姿は、そのように他に比べるものがなく、
そのお声は十方に響き渡っている、ということであります。

この最初のところで、仏さまの光は、太陽や月、また人間、特に
女性の方が憧れる宝石の光、そうしたあらゆるすべてのものを
蔽いかくしてしまう光であるということは、ある意味で、かなり
厳しいたとえ方であると思うのであります。



 と申しますのは、ふつう、私たちは、光の代表として、太陽を
思い浮かべます。

自然に存在いたします最も力強いエネルギー、今日の研究に
おれば、原子核のいろいろな作用でおこってくるエネルギーで
ありましょうが、そういったこの世に存在するエネルギーとしては
最高のものが、太陽あるいは星の光であります。

そして、宝石と言うものを少し拡大解釈しまして、私たちがこの世に
ありまして美しいと思うもの、心を寄せ憧れるようなものと考えまして、
そうしたものの放つ光を拒否する形で、仏さまの光が述べられて
あるわけであります。



 現実には、恐らく、今日の科学研究によれば、太陽の光、
原子核のエネルギーよりも強い光は存在しないかと思います
けれども、仏さまの光は、太陽が世界を明るく暖かくする、
宝石などの美しい輝きをもつものでこころを喜ばせる、などと
いったことが比較にならないほどの力をもつものだ、ということなのです。

たとえば、冬の寒いときに、太陽の光は、暖かく気持ちがいいものです。
また、ダイヤモンドの輝きは、持っている人の欲望を満足させるという
意味で、たいへん素晴らしいものであります。

そういった気持、満足とは比較にならない、この世の出来事を
超えた光が、仏さまの光である、ということです。

この目で見る光、目で見て喜びを感ずる光が、太陽や宝石の光で
あるとしますと、仏さまの光は、真実のこころで見る光であるとでも
いえましょうか。



 したがいまして、私たちには、仏さまの光を、そのまま拝見する
ことはできないわけでありますが、こうしたことを考えてみますと、
仏教の教えているものが私たちを離れてはない、阿弥陀さまと
いう仏さまが私たちのためにいらっしゃる、ということ、自ら
あきらかになってくるように思います。

それは、私たちの日常生活を、ただ楽しく、豊かにし、心を満足
させてくださる、ということではないのであります。

逆に、そういった日常生活の中で、私たちが出会っておりますものが、
本当の依りどころとはならない、ということを教えてくださっているので
ありましょう。



 今日、世の中がだんだん変わりまして、昔のような形では、
宗教が大きな力を持てなくなってきている、といわれております。

確かに、長い伝統を誇っております仏教やキリスト教は、かつての
ように、大きな力を目に見えるような形で世の中で発揮いたしては
おりません。

それに比べまして、私たちから見れば、にせ物の宗教と申しますか、
そういったものは、今日もいっこうに衰えるきざしがみられない、
まじない、占い、今日では、西洋でも星占いがたいへんはやって
いるように聞きますが、そうした怪しげな宗教、人間のこころを
本当に開いてくれるとはいいがたい宗教が流行し、何か神秘的な
ことばや行いで、人間の理性をくもらせ、そうした形でこころの
不安を満たそうとしているのであります。

そういう宗教は、今のところ衰えるきざしがみられないのであります。 



 あるいは、また、宗教ではないものが、宗教の役割を果たしている、
ということも感じます。

特に、自然科学の力がたいへん強くなりまして、それがしばしば
いき過ぎて、科学万能という形をとってまいります。

これは、宗教ではありませんけれども、宗教に求めるべきものまで
科学に求めるという人が出てくる、ということであります。

さらに、政治的な動きの中でも、社会主義国家、共産主義国家など
では、宗教を国の方針で否定するような政策をとっているところが
ありますけれども、実は、そのかわりに、国の元首や主席といった
人が、神の代理をつとめるというような傾向が、しばしばみうけられます。



 そういう形で、社会科学が進歩して、古い宗教の価値を否定した
はずなのですが、実は、今日、また違った形で、この世にあるものを
人間の最後の依りどころであるかのようにする考え方が、非常に
強くなってきているのであります。

しかも、その傾向は、ますます強くなってきています。



 『 讃仏偈 』 の最初のご文で、仏さまの真実の光が
「 みなことごとくおおわれて、さながら墨のごとくなり 」 といわれて、
この世にあるすべてのものを超えたものであると教えられて
いることは、実に、味わい深いことであります。

そのことは、もちろん、この世をまるっきり否定して、逃げ出して
しまえということではありません。

人間の最後の依りどころがどこにあるのかということを、
阿弥陀如来の真実の光に照らされる中で、もう一度、じっくりと
考えさせていただくことが大事なのではないかと思うのです。

私たちは、そうした意味で、南無阿弥陀仏のお念仏を喜ばせて
いただきたいと思います。



 仏さまの光そのものは、私たちの肉眼ではみることが
できません。

お声そのものも、私たちの耳で聞くことはできません。

けれども、南無阿弥陀仏のお念仏の中には、阿弥陀さまの
お呼び声があらわれ出てくださっています。

仏さまの真実の光は常に私たちにはたらきかけてくださって
いるのであると、深く味わさせていただきたいと思うのであります。


昭和54年8月8日
  

 

  浄土真宗本願寺派 大谷 光真 門主述
    本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より

 (内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

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