人生の尊さを知る
(願いに応える人生)
 

 私がずっと以前から疑問に抱いてきたことでありますが、ご法話を聴聞いたしますその中に、しばしば不幸に遇われた方のお話しが出てまいります。

例えば、非常に重い病気にかかって明日の生命さえもしれないという体験をした方のことや、あるいは、親、兄弟、子どもといった家族を亡くされて悲しみの中にある人、また交通事故に遇って九死に一生を得たような人の話が、よく出されます。


 確かに、この人生は明日をも知れない、あるいは次の瞬間さえ知れない人生でありまして、お釈迦さまが “諸行無常” と、すべてのものは移り変わっているとおっしゃっておりますように、いま健康で穏やかに過ごしていますこの私も、次の瞬間どうなるのかわからないのです。

そういう意味で、大事件に遇われた方、人生の危機に遭遇された方のお話しも、おろそかに聞くことはできないのであります。


 しかし、人生は必ずしも目に見えるような危機に直面しているばかりではありません。

平均寿命が男子でさえも七十歳を超えた今日、多くの人がそこまでは生きながらえるであろうと考えれれます。

同時に、不幸に遇われた方のお話しだけでなく、この世を生きていくという面でのお話しも聞きたいものではないか、というようなことを考えております。

皆さまは、そういうご感想をお持ちになったことはないでしょうか。


 もし、阿弥陀如来の救いのおめあてが、不幸に遇われた方に対してだけというのであれば、それは一時的な気安めを与える宗教とあまり大きな違いが見られないのではないでしょうか。

これは西洋のことですが、「 宗教は民衆のアヘンで、抑圧された生き物の溜め息であり、宗教上の悲惨は現実的な悲惨の表現である 」というような批判をした人があります。

それは今日でも問題になっておりますけれども、そういったように、どうにもならない不幸を慰めるだけが宗教であるのかという疑問がわいてまいります。

それは、一歩理解を誤りますと、いまの不幸は前世の業であって、あきらめてお念仏しなさいという間違いを起こすことにもなるのです。

もう少し、救いのめあてについて、はっきりした受け取り方ができないものかと考えております中に感じましたことを、少しお話ししたいと思います。 


 阿弥陀如来のお救いは、必ずしも目につくような顕著で悲惨な状態にある方々だけをめあてにしているのではありません。

もちろん、そういう人びともめあてでありますが、苦しみそのものをなくすということとは限らないといえましょう。


 例えば、職場での悩みや不満、あるいは家庭での悩みや不満などを、お酒を飲んでまぎらすという話がよくございます。

軽く飲んでいる時は、それも大した問題ではないのですが、それがたび重なり、ひどくなってきますと、アルコール中毒というような事態に進んでまいります。

それは、ごく一時的に苦しみを忘れさせるという解決方法で
しかありません。

そして、アルコールがなくなった時とか、酔いからさめれば、元に戻ってしまうというような、一時的な気安めにすぎないといえましょう。

しかし、浄土真宗の救いは、不幸な事態そのものをただちに心の持ち方を変えるだけで忘れてしまうということではないと思います。

むしろ、そのような出来事を通して、日頃忘れていた人生の根本問題に気づかせていただくご縁として受けとるところに、問題の大きな点があるのです。


 また、普段、健康でありますと、健康であることの尊さ、ありがたさにはあまり関心を持ちません。

しかし、病の床に就きますと、自由に動き回れることだけでも大変なことであり、健康をおろそかにできないことがわかってまいります。

そこに人間としての生命の尊さ、生きていることの尊さを知らされるのです。

いま申しましたようなことを通して、日頃忘れている私自身のあり方を気づかせていただく、ということが大切であると思うのであります。


 そういうことを考えますと、たとえ私が大きな事件や悲惨な出来事に直面していないとしましても、実は人間のもっている根本問題は内に隠されているだけであって、自分自身の懐にいつも抱えていることには違いないのです。

むしろ、気づかないだけに、いっそう重大であるといえましょう。

 もう一歩話を進めますと、何か外側からの大きな出来事を通して人生の根本問題に気づかれた方は、そういうご縁があったわけです。

しかし、出来事に遇わなかった人や、あるおは遇っても深く考えを巡らさなかった人は、この人生の尊さを、生命の尊さを本当に知らせていただくことができないまま、一生を終わってしまうかもしれないのです。


 さらに、日頃、私たちは、自分自身の外面をなんらかの形で飾って生活をいたしております。

例えば、衣服を身につけることも、本来の寒さを防ぐということだけではなくて、自分自身の姿を美しく見せよう、あるいは自分の職業をあらわそうなど、いろいろな目的のために身につけております。

それは、形の上での衣服だけでなくいろいろ身にまとうことによって、自身のこころさえをも包んでしまっている服なのです。

本心を見せないで、表面上のところだけで、他の人とおつき合いをしているといっても過言ではないかもしれません。


 そうしますと、ふだん、隠されている自分自身の姿に気づかせていただくということが、たいへん重大なことになってきます。

この点に、浄土真宗のみ教えを聴聞させていただかねばならない私自身の姿があると思うのであります。


 不幸な出来事にも遇わず、何の心配もないかのような平穏無事な生活を送り、さらには宗教がなくても立派に生活していけるではないかという人がたくさんあるようですが、外見では確かに宗教なしに立派な生活が送れましょう。

しかし、こころ深く、自らを振り返ってみますと、とても自分一人では解決のつかない問題を内に持っている私であることに気づかされます。


 そういたしますと、不幸な出来事に出あわれた方の体験を通して、共通な体験をしておられる方はもちろん、こころを同じくしてお念仏を喜ぶことができるわけです。

もしもそうではなく、自分の生活は平穏だからだいぶん違っておるという方でありましても、実はそういった方々の極端な体験を通して、自分自身の気づかない内面を知り、本当の姿をおおい隠し、ごまかしている私であることに気づかせていただくのであります。

そういうご縁として聴聞させていただけば、決して他人事とはなってこないはずです。

そこには、明日といわず、次の瞬間さえもわからない、この移り変わっていく人生の中に、本当の依りどころをえさせていただくということにもなりましょう。


 浄土真宗のみ教えを聴聞させていただき、み仏のお慈悲を喜ぶということは、そういう意味で、ふだん隠されております自分自身に少しずつ気づかせていただき、この私自身が人生の依りどころとはならないということを知らせていただくことでもあります。

このような私が、難渡海−ー渡り難い海と親鸞聖人がおっしゃったこの人生を本当に渡っていくことができるのは、阿弥陀如来のお慈悲に支えられみちびかれるからであります。

ここにお念仏に生かされた人生のみが、真実の歩みをさせていただく人生であるということを深く味わわせていただくのであります。


 そういう意味で、お念仏のみ教えは、一時的に苦しい状態を忘れさせるといったような救いでは、決してなく、苦しいことは苦しいままに抱きながら、力強く人生を歩ませていただくみ教えであると受け取らせていただくのであります。


昭和54年7月11日
                 



浄土真宗本願寺派
大谷 光真 門主述
本願寺出版社刊 
「願いに応える人生」より

(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

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