救われるということ
(願いに応える人生)

 
浄土真宗に限りませんけれども、仏教−−お釈迦さまの教え、仏さまの教えがめざしておりますのは、ふつう、この私が仏になるということであります。

これは、成仏とか、生死を超えるというふうにも言われております。

  しかし、それだけでは、もう一つはっきりいたしませんので、特に私たちの仰いでおります浄土真宗の教えでは、むしろ、救われるということばをよく使ってきたのではないかと思うのであります。

親鸞証人ご自身も、救済というおことばを使っていらっしゃいますが、これを仏教読みいたしますと「くさい」となります。

私たちの生活実感から申しますと、救われると言うことばは、一面、よくわかりやすいことばであると思われますけれども、ともすれば、今日、その救われるということばが、広い意味を持っておりますために、浄土真宗の本当の救いの意味がはっきりしなくなってきているというような面も感じるのであります。

 また、今日、私たちの宗門に対する誤解にもとづいた批判なのですが 「 真宗では、死んだ後の救いばかり説いている 」 というようなことを言う方もありまして、改めて、私たちは、本当の救いということが
どういうことかを、確かめなくてはならないような時期に来ているとも思うのです。


 もちろん、先ほど申しましたように、浄土真宗も、その目的は、仏に成る、成仏することであります。

この世に生きている限り、仏にはならないとするならば、往生成仏−−いのちが終わってからの成仏ということで、死後の世界のように受けとられる面があることは確かであります。

しかし、同時に、従来の少し固いことばで申しますと、現生正定聚といわれますように、この世に生きている今、ここに生きている私が、仏さまのお救いにあずかっているという面も、同じくらい大切なのであります。


 ともすれば、その片方だけが強調され、受けとられたために、この世で仏さまの救いをいただくという面が、十分には理解されていなかったように思うのであります。

そこに、死んでから後のことは浄土真宗にお頼みして、生きている間は別の宗教、あるいは倫理の教えに従おうとする傾向が見られますことを、私としては残念に思うことであります。

けれども、よく考えてみますと、お念仏の生活ということ、この世でどういう形で救われているのかという面の解明が、十分ではないということも考えられるのです。

 先日、米国のある高名な社会学者、日本のこともたいへん深く研究していらっしゃる方が、竜谷大学の招きで来られまして、私も少しお話しをお伺いしました。

米国では、禅の教えはたいへん普及しているけれども、浄土真宗は、ごく一部の人たちに限られているということでした。

そして、今日の教育を受けた人に、浄土というようなものが信じられなくなっている、それが原因の一つではないだろうか、というようなことをおっしゃっていました。


 ただ単に、死んだ後どこかの世界に生まれるというような意味で、お浄土を考えているなら、今日の学校教育だけでなく、マスコミなどを通じての一生涯の教育を受けている私たちとしては、たくさん疑問がわいてくるのも、当然なことと思うのであります。

けれども、死ぬという意味での来世ではなくて、もっと本質的な生死をこえるという意味でのお浄土ということを、深く解明していく必要を痛感するのであります。

そこで、来世のことは、少しおきまして、いま生きている間に、どういう生活をおくらせていただくのが、浄土真宗の教えであろうか、ということを、もう少し考えてみたいと思います。


 お念仏をいただくもの、信心をいただくといってもよろしいでしょうが、そういうものは往生するに間違いない、ということについて、現生正定聚ということばが、従来から使われております。

往生することが決まった位にある人、他力の信心を得たものは、必ずお浄土に生まれることができるのであります。

信心正因ということばも、ご承知のとおりでありますが、そういう言葉が、とかくお浄土に生まれるに決まっているという面だけで理解されますと、何かこの世には、お浄土に生まれるために、ただ待っているだけの意味しかないように聞こえるのではないかと思うのであります。


 もちろん、お浄土に生まれるに決まったということには、お浄土に生まれることを待っているという意味も、中に含まれておりましょう。

けれども、ただ単に待合室に座わっているような人生であるはずはないのでありまして、実は、より深い意味があります。

それは、真実の生命の依りどころを与えていただき、今ここにある私のいのちの尊さに目覚めていくことであると思います。

それは、また真実の自己に目覚める、といってもよろしいでしょう。


 人間の成長段階を考えてみますと、この世に生まれまして、ある年齢に達するまでは、両親やそういった立場にある人びとの保護のもとに成長してまいります。

そして、幼いなりにも、少しずつ、自分の欲求、欲望というものを持ってまいります。

けれども、人生における大きな筋道ということでは、なんら自分の主体的な考え方は持っていないのでありまして、周囲の人たちの言うなりに従って生きていく、そういう段階が、必ず人間には、あるいは動物にもあることは、ご承知のとおりでしょう。


 しかし、自我の確立、自我の目覚めということばがありますように、小学生、中学生となってまいりますと、だんだん、自分のことは自分で決めるのだ、親がうるさく干渉してくれるな、という気持が強くなってきます。

青年時代というのは、そういう自分でなんでも決めて実行したいという願いと同時に、社会的にはまだ一人前の力を持っていないために、いろいろな精神的な不安といったものもあるわけであります。

そういうふうにして、青年時代に、自分自身というものを確立いたします。

物質的な意味ではなくて、精神的な意味で、親がいなくても生きていける自分自身というものが、育つわけであります。

ふつうは、ここまでしか考えません。これで一人前の大人になって、一生を終わるというのであります。


 しかし、そこで、私たちが考えなければならないことは、さらにもう一つ、次の段階ということがあるのではないか、ということであります。

自分自身が、自分の行動を決め、自分の考えに従って日々の生活を続けていくということは、一応、それで大人の生活でありますけれども、実は、その自分自身というものをかえりみました時に、果たして、それが本当にすべてであるかどうか、ということなのです。


 浄土真宗の教えを聞かせていただくということは、自分自身が最後の依りどころにはならないということを教えていただく、という面があると思います。人間の真実の姿、本当の依りどころが、人間自身の中には見つからないということを知らせていただくのであります。

それは、同時に、人間の本当の依りどころは、生死を超えた阿弥陀如来のおこころの中にあるということを、知らせていただくことでもあります。


 もちろん、ただ単に、知識として、頭の中に入れるということではなくて、それが本当に身についたものなら、それが信心ということだと思いますけれども、そういう知り方、納得の仕方、段階に至って、本当の人間になっていく、また、なったといえるのではないでしょうか。


 今日、信仰に目覚めることを、新しい主体の確立という言い方をする方もあります。

同じ大人の生き方であっても、人間を最高のものとし、人間の知性、あるいは意志といったものを最高の依りどころとし、最後の依りどころとして生きている人が大半であります。

また、そうした人たちの作っております人生、社会が、今日の世の中といってもよいでしょう。


 しかし、それをもう一歩深く、仏さまの光りにあてて振り返って見ます時に、それだけでは生きていけない人生であり、社会であることを、知らされるのであります。

そこに、私は、阿弥陀如来のおこころに支えられた生き方を味わわしめられることであります。

この世で救われるということの本当の意味は、お浄土に生まれることに決定する、生命の根本が明らかになるという意味であります。

けれども、もう少し、それを広げて考えますと、そういう仏さまに支えられた自分自身、ただ今、ここにいる私の生命が、仏さまの生命に支えられた生命として味わわれる、受けとれるということであります。

そうなりますと、この人生は、ただ単に、死んだ後、お浄土に生まれるための待合室ではなくて、一日一日が、阿弥陀如来のおこころの中に包まれた貴重な一日一日なのであります。

私の持っている力を出しきって、生命のともし火を燃やし尽くして歩むべき尊い一日が、きょうの一日であることを知らせていただけるのであります。


昭和54年6月10日


浄土真宗本願寺派
大谷 光真 門主述
本願寺出版社刊
「願いに応える人生」より

(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

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