願いに応える人生 ( 願いに応える人生 )



  今日、科学・技術の進歩と経済の発展は、めざましいものが
あります。

それは、苦しい生活を少しでも楽にしよう、困っていることを少しでも
解決しよう、という人類の素直な願いがもたらしたものであると
申せましょう。


 それは、一面、確かに望ましい結果、期待されるような結果を
生じてきたといえるのであります。

そうした中で、今日、特に私が感じますことは、自動車、汽車、
飛行機などの交通機関の発達ということです。

少し前までは、健康に恵まれた人、足腰の丈夫な人だけが、
遠くまで旅をすることができましたし、足の速い人は、早く目的地に達し、
足の遅い人、弱い人は、よけいに時間がかかりました。

まったく能力に応じて目的地に着いたのであります。
しかし、今日では、乗り物にひとたび乗りますと、人間の能力には
かかわりなく、老いも若きも、また足が自由に動こうと不自由

であろうと、まったく区別なく、同じ時間に目的地に届く、私は、

たいへん大きな進歩であり、望ましいことであろうと思います。


 また、私たちのお寺、あるいは宗教活動にかぎってみましても、
声を拡大する拡声機の設備ができて、たいへん便利になりました。

これまでですと、大勢の人の集まっておられるところでは、法話を
いたしましても、たいへん苦労があったわけであります。

耳の不自由な方には、一層の困難があったのですが、拡声機
あるいは補聴器といったもので、そういった一人ひとりの持って
いる障害は、しだいに克服されてまいりました。
たいへんありがたいことであります。



 そういった意味で、最近、問題になっておりますことの一つに、
足の不自由な方、車椅子に乗って生活されている方が、お寺に
お参りする場合に、まだまだ設備が不十分であるということがあります。

本願寺におきましても、こんどの宗門発展計画の中に、そういう
関連の設備を整えようという計画が入っておりますけれども、
目の不自由な方に、お聖教、仏教関係の書物を読んでいただく
ために、点字に写すとか、あるいは録音テープに吹きこむというような
ことなど、まだまだ私たちに残されている課題は多いように思われます。

そういったことも、私たちの努力によって、少しずつ改善されて
いかなければなりません。


  しかし、そういった好ましい面が、逆に、人間の持っている怠け
ごころを引き起こすということも、いえるのではないでしょうか。

本願寺と京都駅の間は、一キロあまり、二キロにも足りない
距離であります。

若い方でありましたら、決して歩いて困るような距離ではないので
ありますが、ついつい車に乗りたくなってしまいます。

あるいは、拡声機が進歩いたしますと、大きな声を出さなくても
すむために、だんだん大きな声が出なくなってまいります。

そういった人間自身の体をきたえるとか進歩といった意味では、
むしろ、さまたげになってしまう場合も、その一面にあります。

そうした点に気をつけた上で、科学の進歩、技術の進歩ということも
考えなければならないと思うのであります。



 また同時に、機械を使って一人で何でもできるようになりますと、
お互い助け合うという気持ちが薄れていくのではないでしょうか。

私は、直接には存じませんけれども、今日の農業におきましても、
たいへん多くの機械が導入されまして、おそらく以前に比べれば、
助け合って協同で仕事をなさるという機会は減ってきていると思うので
あります。

そういったことが、心の面にまで影響して、お互いに助け合う、
力を合わせるというこころが失われてしまったのでは、たいへんな
ことでありますが、そういう一面がないとは言えないでありましょう。

特に、今日の都会の生活には、そういった傾向が、しばしば見られる
のではないでしょうか。



 こういった現実の問題をヒントに考えてみたいことなので
ありますが、浄土真宗は、誰でも救われる教えであり、
もっともやさしい教えであると言われております。

確かに、その通りなのでありまして、今朝、皆さまといっしょに
おとなえしましたお『正信偈』の中、龍樹菩薩を讃えていらっしゃる
部分に、


 顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽

 《難行の陸路、苦しきことを顕示して、

  易行の水道、楽しきことを信楽せしむ》とあり、
親鸞聖人は、難しい修行、厳しい修行を重ねていくことを、
陸路の道を歩いていく苦しみにたとえられ、阿弥陀如来の
ご本願に救われる易行、やさしい行を、水の上を船に乗って
いく楽しさにたとえておられます。


 このように、宗教におきましても、肉体的にたいへん厳しい行を
重ねていくという立場もあれば、そういったことはまったくはなれて、
阿弥陀如来のご本願ただ一つに救われていくという教えもあるのです。

私たちは、その中の最も純粋な教えとして、浄土真宗を仰いでいる
わけです。



 それは、すべてを阿弥陀如来の救いの中にまかせてしまうので
あります。

私たちが、“自力”と呼んでおります厳しい行をなさる方に、いろいろ
お話をうかがっておりますと 「 最後のところは仏さまの力に依っている 」
とおっしゃっています。

けれども、そういったギリギリのところだけではなくて、すべてを
阿弥陀如来のお慈悲におまかせするのが易行の道であります。

従ってこれを私自身のよしあし、こころのよしあしということも超えて、
等しく救われていく道なのであります。

阿弥陀如来のお慈悲を信ずる、ご本願を信ずるという、その私の
こころすらも、実は阿弥陀如来のおこころが至り届いたものなので
あって、そういう無条件の救い、他力廻向の信心というものを、
最も純粋な形、また徹底した形で説かれたのが、親鸞聖人で
ありましょう。


 そういう教えを、私たちは仰いでいるわけなのでありますが、
それは、人生のギリギリの問題、根本問題と申しますか、
生死を超える問題についていわれていることなのであります。

ところが、私たちは、しばしば、誰でもすべて救われる、悪人こそが
救われる、とい教えを聞き違えまして、悪いことをしてもいいのだ、
あるいは努力をしないでもいいのだ、という方に転落してしまう
ことがあるのであります。

これは、人間のもっている本能ともうしますか、安易な道に行きたく
なる私たちの習性によるところでありましょうが、たいへん大事な
点であろうと思うます。決して、それは、私たちが日常生活の上で、
自分ですべきことを阿弥陀如来にお願いしてお任せしてしまうという
ことではないのでありまして、やはり、私たちは日常生活の上で、
自分でなすべきことは自らがすすんで取り組んでいかなくては
ならないのであります。



 けれども、しばしば、そういった過ちに陥るということが反省させ
られるわけであります。

今日、他力本願ということが、何もしないで安易に他の人に頼って
いる姿をいうことばに変わってしまったのは、たいへん残念なことで
あります。

その何分の一かの責任は、私たちの生活態度にある、と振り返ら
ざるをえないのであります。

そういったことを考えますにつけても、絶対他力で救われると
いうことは、日常生活で私たちが積極的に努力していくということと、
決して矛盾しないことを、深くこころに味わいたいと思うのです。


  では、どうして、絶対の他力、阿弥陀如来のご本願一つで
すくわれるのであるか、救われなければならないのであるか、
その根本問題にさかのぼりますと、人生というものが、たいへんに
難しいものであるからだ、と思うのであります。

先ほど、自分の責任は自分でとるべきであろう、自分に課せられた
役割は積極的に果たしていくべきであると申しましたけれども、
実際の日常生活の上で、皆さまお一人おひとりがお感じになって
いる通り、自分の責任と思いたくないようなことでも、責任として
負わなければならないようなことがたびたびあります。

特に、組織の中で、上の方に立っていらっしゃる方は、末端で
いちいち何が起こっているのかを、ふだん、全部目を通すことが
できないにもかかわらず、何か大きな事件が起こった時には、
長たる者が責任を負わなくてはならないというのが、世の中の
仕組みであります。

そういう意味では、本当は責任があると言われても、どうにもならない
ことでしょうし、負わなければならない責任が課せられてくることも
ご経験になる通りです。



 親鸞聖人が、そういった人生を、難度海、渡り難い海、渡るのが
困難な海ということばでたとえていらっしゃるのも、もっともなことで
あります。

嵐の海を船で渡っていく時、自分自身がいくら努力しても、
それ以上の大きな波が寄せてくるのが、人生でありましょう。

そういったことを考えますと、人生には、私個人の力ではどうにも
ならない問題が、次から次からやってくる、そうであるからこそ、
人生の根本が阿弥陀如来に支えられている、そこに気づかなければ
ならないのであります。


 人生におけるあらゆる問題の一つひとつに、真剣に取り組んで
いきますと、とても人間の力では及ばない大きな問題が、その背後に
横たわっていることが知られるのであります。

そこに思い至りますと、なるほど、阿弥陀如来のご本願に遇って、
南無阿弥陀仏によって救われねば生きていくことのできない私で
ある、そうでなければ、この人生を全うすることのできない私である
ことが知らされるのであります。

そこに、私たちは、阿弥陀如来のご本願を、その具体的な
あらわれとしての南無阿弥陀仏を受け取らせていただくのであります。

それは、同時に、こころに受け取らせていただいたところが信心
であり、また、それは、思いが内にあれば色が形にあわられます
ように、お念仏となってわき出てくるものなのです。



 それは、ちょうど阿弥陀如来のおよび声ということばが
ございますように、阿弥陀如来に声をかけていただけば、
ハッと応えずにはおれない私たちの姿であろうかと思われるので
あります。

そういう意味で、私たちの人生は、阿弥陀如来の願いの中に、
おこころの中に包まれてありつつ、そのおこころに応えて生きる
人生でありたいと思うことであります。

そこに、怠けものの宗教ではない、また、やさしいようにみえても
本当はたいへん純粋で厳しい道を歩もうとしている教えであることを、
正しく受けとめていきたいと思います。


昭和54年5月16日


 

  浄土真宗本願寺派 大谷 光真 門主述
   本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より

 (内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

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