力強く生き抜く道 ( 願いに応える人生 )



 皆さまの中には、指導者の立場に立って若い青少年を引っぱって
いってくださる方もあれば、自らが中心になって運動をして
いらっしゃる方もありまして、同じ教化活動といっても、その内容に
ついては、少し、お立場が違っているように思いますけれども、
共通していることは、僧侶であるか門信徒であるかということも
含めて、宗門の門信徒会運動の精神を、実際の上で体験し、
実践してくださっているということだと思います。



 門信徒会運動という運動が起こりました理由については、
申すまでもありませんけれども、現在、全員伝道・全員聞法という
点に中心を置いて、活動がすすめられておりますことも、
ご承知の通りであります。

全員聞法ということにおいては、おそらく、きょうおいでの方以外でも、
宗門の関係のある方は、皆さん、反対をなさる、疑問を感じられる
ことはないと思うのでありますが、全員伝道となりますと、どうも、
もう一つ、素直に受け取れない方もいらっしゃるようであります。



 皆さま方は、聞法という活動、運動を通して、どうしても、
それは、自分一人に凝り固まってしまってはならない、広がって
いく運動でなければなならい、そこに、広い意味での伝道ということ、
み教えを伝えていく、喜びを伝えていくということがなければならない、
ということを理解してくださっていると思うのであります。

非常に狭い意味で、ご法話をするのが伝道であると限ってしまいますと、
これは、不得意な方もあるし、立場上、難しい方もありましょう。

広い意味で、伝道ということを受け取っていただけば、何か活動を
していらっしゃる方は、皆、伝道の一端を担ってくださっていることに、
気づいていただけるのではないかと思います。



 そういったことで、私が感じますことは、伝道といったことを含めて、
私たちが何か行動、動きを始めるというところに、逆に、また、
聞法の機縁が開かれてくる、ということも言えると思います。



 よく、宗教というのは、何か悩みをもった人が入っていくところである、
というふうに受け取られておりますし、そういう考え方も、必ずしも
間違っておりません。

こころの悩みをもった方が、宗教の門をたたかれる、お寺に
やってこられるということは、たいへん大事なことであります。

けれども、逆に、お寺に縁ができる、仏教に縁ができることによって、
今まで気がつかなかった問題が、新しく気づかれ、掘り起こされて
くるという点も、忘れてはならないと思うのであります。



 毎日の人生のこと、ここにきょう私が生かされているということを
深く考えますと、必然的に、教えの門をたたかなければならなくなる
わけであります。

何の疑問も湧いてこないということは、むしろ、そのことが問題で
あります。

もちろん、差し迫った経済的な心配ごととか、家庭の中での心配ごと、
差し迫ってあるかどうかということは、それぞれの人によって、
違うことでありますけれども、そういっ差し迫った問題に限らず、
広く人生ということを考えてみますと、たとえ、どんな幸せそうに
見える人生であっても、ほっておけない問題が、その裏には
含まれていることがわかるのであります。

私たちの聞法の運動は、むしろ、そういった今まで気づかずにきた
人生の問題点を掘り起こしていくということに、特徴があるのでは
ないかと思うのであります。



 親鸞聖人の 『 ご和讚 』 の中に、曇鸞大師のことを讃えていらっしゃる
ところがあります。 

  罪障功徳の体となる


    
こおりとみずのごとくにて  

  こおりおおきにみずおおし

   
 さわりおおきに徳おおし

というご和讚でございます。

もうおわかりかと思いますけれども、罪障、罪のさわりは、
功徳の体となるとおっしゃってあります。

ふつうは、罪やさわりというものは、宗教的な値打ちから申しますと、
むしろ、マイナスのもの、ない方がいいものでありますけれども、
親鸞聖人は、逆に、それが功徳の体となる、真実の功徳につながる
大切なものである、ちょうど氷と水のようなものであって、
氷が多ければ多いほど水も多い、さわりが多いと、それだけ徳も
多いのである、というような意味だと味わうのであります。

決して、それは、救われるためには悪いことを重ね、それが原因で
救われるということでは、もちろんございません。



 私の生きているという、このいのちを振り返ってみますと、必ず、
さまざまな罪、さわり、罪障、罪業というようなものによって、
成り立っております。

ですから、深く、それに気がつけば気がつくほど、同時に、私を
救ってくださるお慈悲のありがたさにも、気づかされるということに
なりましょう。

私は、行動を通して、聞法の運動を通して、わざと罪を犯す、
わざと好ましくないことをするということではなく、一生懸命、
良いことをやろうという努力を重ねる中に、実は、私がさまざまな
罪障の人間であるということを気づかされていく、そこに、教えの
尊さを知らせていただく大きな価値があるということではないでしょうか。



 浄土真宗の教えは、従来、そして今日でも、たいへん消極的な
教えのように、一般に受け取られております。

人間は罪悪生死の凡夫であるというふうに申しますし、また同時に、
他力、本願力によって救われていく、自力によっては救われないと
いうようなことをいいます。

これを、日常生活の次元そのままで捉えますと、何か非常に頼りのない、
生きていく力を失ったような頼りない人間が救われるように
受け取られることも、表面上、やむを得ない面もあるかと思います。

けれども、全く残念なことだと思います。

むしろ、私たちは、真実の教えにあわせていただく、他力、本願力に
支えられることによって、より力強い人生を歩ませていただくことが
できることを、身をもって示さなければならないと思うことであります。



 では、罪悪の凡夫であるということ、それが、どうして消極的な
人生に受け取られるのでありましょうか。

これは、罪を重ねるということはよくないから、罪を重ねるというような
ことをしなければそれですむのではないか、また人間の行いは罪を
重ねていくことだから、何もしなければ罪を重ねることにならないん
じゃないかというふうに誤解をなさったところから出るのであって、
そこに、消極的な人生が生まれてきたのではないかと想像いたして
おります。



 考えてみますと、私が、何か運動をいたしますと、当然、それに
伴ったさまざまな問題が生じますけれども、そういうことを恐れまして、
何もしないで、一人とじこもっておりますことも、私は行動をする
ことにもまして、大きな罪をおかしている、ということだと
思うのであります。

何もしないということは、自分だけの幸せを願う、自分中心の
非常に利己的な人生を送るということになってしまいます。

困っている人があっても、私の知ったことではない、自分さえ
幸せであれば、というふうになってしまいます。

消極的な人生というのは、ともすれば、そういう怠惰な生活、
怠慢というものに結びつきます。

そういう罪を犯すということにおいては、私は、自力・他力という
論議を別にいたしまして、やはり同じように大きな問題を
持っているように感じます。



 結局、私たちが行動する、活動的に動くということが、罪を
作るのであって、何もしないことは罪を作らないですむというような、
そういう次元でいっているのではないのであります。

何もしなくても、また何か活動すればするで、私の人生というのは、
さまざまな問題を持っております。

そこに、人間の力だけでは解決しないこのいのち、私のいのちが
あるという一つの次の段階として、私は、他力ということ、
み仏の救い、如来のお慈悲ということを受け取らなければ
ならないと思うのであります。



 そういう次の段階を考えてみますと、私自身、この何十年かの
人生を、しっかりと生きていく依りどころというようなものが、
自分にあるかどうか、ふりかえらざるを得ません。

他の人と比べて、たまには、自分の力がしっかりとしていると
思うこともあることは、あるかも知れません。

自分よりも若い人と比べますと、私の方が人生経験が豊かだと、
満足をおぼえることもありましょうし、また逆に、自分より年上の方を
みますと、自分の方がこれからの人生は長いんだ、だから、
それだけ、まだ仕事がたくさんできそうだというふうに満足を
感じることもありましょう。

そういう人間同士の比較の上では、自分にも何かとりえがあると
思われることも、確かにございますけれども、私の人生というのは、
実は、他の人と比べて成り立っているだけではないのでありまして、
生まれた時には、素裸で、何も身に着けずに、名前すらない状態で
生まれるのであります。

また、この世を去る時にも、いろいろな人生の経験を持って
おりましても、財産を持っておりましても、全部、それは、
この世に残して去っていかねばなりません。

そういうことを考えますと、人生の根本は、他の人と比較して
自分の方がいいとか悪いとか、たくさん持っているとか持って
いないとかという問題ではない、ただ一人の問題が根本にあると
いうことに思い当たるでありましょう。



 そういうことで自分自身を考えてみますと、この何十年かの
人生を力強く生き抜く、しっかりした依りどころを、自分だけで
自分の中に見つけ出すということは、とても困難である、はなはだ
困難なことであると気づくことであります。

しかし、そこに、私は、み仏の真実、み仏が私を呼んで
くださっていますおことば、南無阿弥陀仏というものだけが、
ただ一つの依りどころになるということの尊い意味が
あると思います。



 しかし、南無阿弥陀仏に頼るということも、決して簡単なことでは
ありません。
こちらのはからい、私のはからいを残してたよろうとするからであります。
本当に頼るというのは、こちらの条件、こちらの能力というものを
あてにせずに、すべてみ仏のお力、お慈悲で救ってくださると
受けとることであります。

そこに、私は、人生の根本問題である罪悪生死の問題を
解決し救ってくださる、み仏の真実ということが味わわれるので
あります。

私は、日常生活の上で、自ら積極的に行動する、自ら正しいと
思うことに積極的に取り組んでいく中で、むしろそういうことを通して、
人間の力の及ばない範囲があるということ、人間の力の範囲は
どこまでであるか、どこからは人間の自身の力では
解決出来ないものであるかといったことが、明らかになってくると
思うのであります。



昭和53年10月15日

  

    浄土真宗本願寺派 大谷 光真 門主 述
     本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より

         (内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

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