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讃嘆のうた

親鸞聖人はご自分のことについて、ほとんど語っておられません。
しかし、親鸞聖人ほど自分自身の披瀝を吐露された人はないといわれます。

「ご和讃」には、讃嘆する人の心があらわれます。
決して偶然に湧き出てくるものではなく、讃嘆されるところの功徳が
讃嘆する側の身に徹底して染みついていなければあらわれません。

そこから湧き出てきたものが和讃であるといえましょう。
そういう意味で、親鸞聖人の和讃の一つひとつには
聖人自身の信心のよろこびがにじみ出ています。

「浄土和讃」の中から、幾首かの和讃について、白川晴顕先生の
『浄土和讃を読む』(本願寺出版社)から、現代語訳部分を中心に
掲載させていただきます。

詳しい解説や内容は、ご本をお求めの上、直接お味わいください。




二、冠 頭 讃




  弥陀の名号となへつつ
 

  信心まことにうるひとは


  憶念の心つねにして
 

  仏恩報ずるおもひあり


現代語訳
  衆生を信じさせずには おられないという阿弥陀如仏の
  名号を称えながら、
  称える心が名号のいわれを そのまま信ずる身になった人は、
  如来のはたらきを いつも憶えて忘れない心が具わるとともに、
  仏恩報謝の念が自然にほとばしり出てきます。







 誓願不思議をうたがひて

 御名を称する往生は

 宮殿のうちに五百歳

 むなしくすぐとぞときたまふ


現代語訳
 本来、成仏できるような要素をまったくもち合わせていない
 凡夫を 信心一つで浄土往生させると誓われた勝れた
 はたらきを疑って、
 自分が称えた念仏に功績を期待して往生しようとすれば、
 方便化土と呼ばれる世界に五百年のあいだ止まって、
 いたずらに虚しい時を 過ごさなければならないと
 『大経』の「胎化得失の文」には説かれています。







三、十劫成仏の阿弥陀如仏





弥陀成仏のこのかたは

いまに十劫をへたまへり

法身の光輪きはもなく

世の盲冥をてらすなり


現代語訳
 阿弥陀仏が一切の衆生を救いたいという願いを発して
 仏になられたのは、
 十劫という気の遠くなるような昔にさかのぼります。
 以来、その願いは実際に力となり、
 無限のいのちをもって今日に至るまで止むことなく
 はたらき続けています。
 しかも、そのはたらきは光がどのような暗闇の世界で
 あろうともあまねく照らし尽くしていくように、煩悩の闇に
 惑わされて真実の智慧をもたない私たちを一人残らず
 真実に目覚めさせてくださいます。







四、無量の光



 智慧の光明はかりなし

 有量の諸相ことごとく

 光暁かぶらぬものはなし

 真実明に帰命せよ


現代語訳
 真実に目覚めた阿弥陀仏の智慧は、
 光となってあらゆるものを照らし、
 そのはたらきは凡夫の心で到底量り知ることが
 出来ないために無量光と呼ばれています。

 そして、ちょうど、光があかつきの闇を破るように、
 迷いの衆生を一人残さず照らして、
 限りある智慧しかもたない存在であることを知らせます。

 ですから、ありのままの真実の相に気づかせてくださる
 阿弥陀仏にすべてをまかせずしてどうして
 おられましょうか。






五、無辺・無碍の光



解脱の光輪きはもなし

光触かぶるものはみな

有無をはなるとのべたまふ

平等覚に帰命せよ


現代語訳
 煩悩の束縛から解放されて自由自在の功徳を
 具えた阿弥陀仏の光明は、
 どこからどこまで照らすという辺際がないために
 無辺光と呼ばれています。

 そして、その光に触れれば誰もが執着に惑わされた
 誤ったものの見方から解放され、
 因果の道理に適った正しいものの見方ができるように
 なるといわれます。

 ですから、執着を離れて平等無差別のさとりを
 得られているとともに、
 一切衆生を分け隔てなく平等に救うはたらきを
 もたれた阿弥陀仏にすべてをまかせずして
 おられましょうか。






光雲無碍如虚空

一切の有碍にさはりなし

光沢かぶらぬものぞなき

難思議を帰命せよ


現代語訳
 阿弥陀仏の光明は、大空を雲がかけめぐるように、
 いかなるものにも障碍されることなく迷いの衆生を
 救う広大なはたらきがあるために無碍光と呼ばれています。

 また、雲は雨を降らしてあらゆる生きものをうるおすように、
 光明のはたらきのうるおいを受けない人は誰一人として
 いません。

 ですから、凡夫の心で思うことが難しいほど勝れたはたらきを
 具えた阿弥陀仏をたよりとせずしてどうしておられましょうか。






六、無対の光


清浄光明ならびなし

遇斯光のゆゑなれば

一切の業繋ものぞこりぬ

畢竟依を帰命せよ


現代語訳
 煩悩の穢れのない阿弥陀仏の光明は、
 他に比べるべきものがないほど清浄であるために
 無対光と呼ばれています。

 この光に遇って如来の本願のはたらきを信ずる身になれば、
 いかに罪業が重く苦悩のどん底にあっても、
 罪業や苦悩の束縛から離れることができます。

 したがって、あらゆる衆生の究極のよりどころともなる
 阿弥陀仏をたよりとせずしてどうしておられましょうか。






七、災王の光



仏光照曜最大一

光炎王仏となづけたり

三塗の黒闇ひらくなり

大応供を帰命せよ



現代語訳
 阿弥陀仏の光明の照らし輝くさまは、
 十方世界にあまねくゆきわたり、
 諸仏の光明に勝れて、
 光明中の極尊であるため炎王光とも呼ばれています。

 それは諸仏の光明の照らさない三悪道までにも至り届いて、
 よくその闇を破り、極重の悪人を救います。

 まさに一切衆生の供養を受けるにふさわしい資格を
 具えておられる阿弥陀仏をたよりとせずして
 どうしておられましょうか。






八、浄土の菩薩とそのはたらき


弥陀初会の聖衆は

算数のおよぶことぞなき

浄土をねがはんひとはみな

広大会を帰命せよ




現代語訳
 阿弥陀仏が成仏されて最初に説法されたとき、

 その浄土の会座に集まっておられた菩薩の聖者方は、

 とても数えきれないほど多くおられました。

 












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 掲載者 妙念寺住職 藤本誠
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