これが基本J


阿弥陀如来と釈尊


わたくしたちは、釈尊という歴史のうえに現れた仏を知ることができました。
この世に生まれ、修行し、さとりをひらいて仏となり、教えを説いて人びとを救い、八十年の生涯をおえて入滅されました。

この釈尊はたしかにわたくしたちとおなじ人間として誕生されました。
しかし誕生はおなじでも、われわれとちがって「さとり」という体験をされ、仏陀になられたということを忘れてはなりません。

そのさとりの内容は、永遠に変わらない真実の法であります。
”この法は、わたくしが勝手につくりだしたものではない。
また、わたくしがこの世に現れても現れなくても、それには何のかかわりもなく、真実の法はつねに存在している。
わたくしはそれをさとっただけである”とご自身がのべておられます。

釈尊をして、仏たらしめているものは、この永遠不滅の真実の法にあるのであります。
この、永遠不滅の真実の法そのものを、久遠の仏といいます。


さとりをひらいていない、わたくしたち人間の心では、久遠の仏を直接に知ることはできません。
親鸞聖人のことばをかりていえば「いろもなく、かたちもましまさぬ」この久遠の仏である法性法身が,迷いの世界にむかって動きだし、わたくしのおろかな心をめざめさせ、迷いの衆生を救おうとして、仏になられたのが、阿弥陀如来であり、この如来を方便法身といいます。


すなわち、阿弥陀如来は、わたくしたちを救ってくださる真実の救主であり、釈尊は、この阿弥陀如来の救いを説いて,如来の本願を信ぜよとすすめてくださる、歴史のうえにあらわれた教主であります。

親鸞聖人は「釈迦・弥陀は慈悲の父母」(和讃)といわれましたが、阿弥陀如来は救いの母であり,釈迦如来は教えの父であるといえましょう。

  つづく

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