'01天狗谷跡発掘調査速報

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町白川
 調査主体:有田町教育委員会




● 9月25日(火) 実は…、今年も天狗谷窯跡の調査してました…。 



 別に隠してたわけじゃありません。たんに、なまけ…、いや、忙しくてHPの更新できなかっただけです。
 ということで、実は、今年も9月3日(月)から、天狗谷窯跡の調査やってました。もっとも今年はサワリ程度なので、13日(木)までにほとんど予定ヶ所は掘り終わってしまい、今は休止中です。
 たぶん保存・整備の基礎資料を得るための調査としては、今回が最後になると思いますので、遅ればせながら今回の調査とこれまでのまとめを、何度かに分けてご報告してみたいと思います。小難しい内容はこれまでにちゃんとお知らせしてきましたので、今回は、できるだけ、やさしく、やさしくお伝えします。



今までの天狗谷窯跡(西から)

 そうでした。たぶんお知らせするの忘れてたような気がします。
 まずは、これについて触れないと、話しがややこしくなってきます。

 実は、天狗谷窯の風景一新しました。

 保存・整備の一環として、今年の3月までに、操業当時の景観に近づけるための工事を行ったためです。窯の周辺を覆っていた樹木を大々的に伐採、物原上を覆っていた昭和40年代の調査時の廃土も除去しました。それから、窯体を挟むように下部にあった大小の建物も全部撤去しました。つまり、昭和40年代の発掘調査当時に戻したっていうことでもあります。



現在の天狗谷窯跡(西から)

 今までと比べ、ずいぶん広々として、圧迫感はなくなりました。本当にすっきりしたので、以前のイメージを抱いている方は、同じ場所だとは思えないかもしれません。でも、逆に窯場の周囲を取り囲む岩盤の露出した崖が目立つようになり、ちょっと荒々しささえ感じます。

 それに、頭では分かっていたつもりでしたが、視覚的に元地形を目の当たりにすると、あらためて、なぜこんなところに最初の本格的な磁器専焼窯が築かれたのか、今さらながらに強い疑問を抱いてしまいます。

 それでは、ちょうどいい機会ですので、風景の一新を記したついでに、今日はこの地形について、あらためてもう少し詳しく説明してみることにしようかなと思います。



伐採直後の天狗谷窯跡(東から)

 たしかに窯業に水は不可欠です。原料の生成や成形をはじめ、水なくしては営めません。しかし、その生産工程において、唯一窯体そのものは極度に水を嫌います。水分が多いと温度管理も容易ではなく、製品がうまく焼けないためです。そのため、通常登り窯に接した山側には、窯体に沿って上から下まで長い水切り溝が掘られます。また、焼成の際にも、窯体そのものをよく乾燥させる意味もあって、まず最下部の胴木間に一定時間火が入れられます。

 ところが、天狗谷の窯体は、周囲の岩山から流れ落ちる水が、逆に集中する谷部に築かれています。しかも各焼成室の出入口、そして、それに続く物原を山側(南側)に設けている関係で、山側にあるはずの水切り溝が見当たりません。これでは、うまく流水を抑えることができなかったに違いありません。

 また、失敗品を廃棄することによって形成される物原の立地は、通常の窯場では、窯体よりも低い谷側が選ばれます。これは現在の不燃物などの処理方法と共通しています。埋め立てて平地ができれば、その部分の二次利用も可能です。登り窯の場合も、こうしてできた平地の上に新たな窯が築かれている例も珍しくありません。ところが、前述したように、なぜか天狗谷窯の場合は物原が山側にあります。そのため、徐々に失敗品が蓄積してしまい、現在も窯体に隣接して小山のようになって残っています。この状況では、失敗品の廃棄も一苦労だったはずです。

 それに、現実的には、隣接して谷がないわけでもないのです。たしかに窯体の上半部は両側(南北)山になっていますが、下半部の北側には谷が控えています。窯体を少し下にずらせば利用できなかったはずはないのですが、試掘した状況を見ても、なぜか見向きもされていません。

 実は、3年前に発掘調査をはじめる前には、物原部分の地山面はいくらかでも谷になってるのではと想像していました。急速な磁器生産の進展に伴い、当初予想した以上に生産量が伸び、浅い谷が埋まって山のようになったのでは、という希望的観測を持っていたわけです。ところが、現実は小説より奇なりといいますが、いささか受け狙いもほどほどにして欲しいってとこでしょうか。まったく谷の痕跡すらなく、地山面は南側の崖に向って徐々に傾斜して上っていたのです。何度目をこすって凝視しようが、逆さから見ようが、この事実は如何とも動かせません。これはすでに窯体上・中・下部横の物原で確認しているので、もはや現実のこととして受け止めなければなりません。天狗谷窯の廃棄場所には、たしかに最初から谷はなかったのです。



今年掘った物原部分で出土した岩(北から)

 もう一つ、一連の調査を通じて、はからずしも最悪の条件(?)を目の当たりにすることとなりました。岩です。昭和40年代の調査の際にも、二番目に古いA窯の焼成室床面に、人力では動かせないほどの大きな岩が転げ落ちているのが発見され、A窯廃棄の原因ではと疑われたこともありました。ところが、そんな生易しいもんじゃなかったのです。

 ここ3年間で窯体や物原の部分などで、すでに20ヶ所ほどの試掘を行っています。その物原部分の試掘溝のほとんど、それから窯体の床下なんかでも、大きな岩がそこかしこで発見されています。もちろん周囲を取り囲む岩山から崩れ落ちたものであることは、容易に想像できます。つまり、この窯場の操業期間である30年前後ほどの間に、E窯、A窯、B窯、C窯と頻繁に窯体が築き直されている背景には、こうした岩の崩落が一つの原因ではなかったかと考えられるのです。



天狗谷窯跡からみた周辺の風景(東から)

 なぜ、こうした一見最悪とも思える地形が窯場として選定されたのでしょうか?ちなみに、この窯場の経営に関わった最有力候補である金ケ江三兵衛に関する『金ケ江家文書』の記述では、第一には水と木の便が良かったからだと記されています。たしかにこの窯場が立地する地形を考えなければ、至極まっとうな理由のように思えます。山に囲まれているため木もたくさんありますし、近くに川もあります。でも、付近にはほかにもさらに窯場の立地として適切な地形はいくらでもあります。だから、あえてそこでなければならない理由の説明にはならないのです。

 単なる空想の域としては、当時は、まだ町も形成されていない山中のことなので、たまたま行き当たったのが、現在の天狗谷窯の場所だったという想像もできます。しかし、残念ながら、発掘調査などの考古資料からは、それを推測できる材料は見当たりません。

 思いつきや偶然というものは、人の営みの中においては必ず存在しています。ところが、考古学的資料を積上げる方法でそれを証明することは、ほとんど不可能なことなのです。なぜならば、考古学的手法では、あるものが存在すると、必ずその原点となったものは何かを追及します。それによって、系統的にそのものの位置付けが明らかになってくるからです。思いつきの場合はまだしも、過去の経験に裏打ちされて、それがものという物質に反映された可能性もあるため、場合によってはまったく歯が立たないというわけではありません。しかし、偶然だけは、「これは偶然です」とでも書いてない限り、根本的にそれが偶然であることの証明ができないのです。

 本当は、思いつきでも偶然でもないのかもしれません。そこには、これまで考古や文献資料等からは抽出できない、何らかの意図が働いていたのかもしれません。いずれにしても、主として合理性、整合性を念頭にしがちな現在の机上の論理の中では、なぜ、ここに最初の本格的磁器専焼窯が築かれたのかという答えは、準備できないというのが現実なのです。



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