幸平遺跡発掘調査速報

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町幸平二丁目1521・1522番地
 調査主体:有田町教育委員会




● 2月2日(金) 



 本日からいよいよ調査がはじまった。最近にしては珍しく晴天。調査も晴れやかにと行きたいところだが、調査地点は絶えず水が湧き出し、土の色もよく分からないほどぐちゃぐちゃ。長靴や発掘道具もすぐに泥だらけ、何となく今一つ足取り軽やかな気分とはいかない。それに暖房でなまりきった体。九州とはいえ、やはり寒いものは寒い。


 


幸平遺跡位置図

 幸平遺跡は、有田町のやや東側、内山地区のほぼ中央部に位置する。東西をそれぞれ大樽、赤絵町地区と接し、北側は白川地区と接している。幸平地区に位置する遺跡としては、谷窯跡、白焼窯跡などがあるが、近辺には比較的多くの登り窯跡が点在している。



 今回の調査面積は、わずか100平方メートル弱。4m×4mで6つのグリッドを組んだが、まともな正方形が取れるものはなかった。東(写真右)側をA区、西(写真左)側をB区とし、北(写真上)から南(写真下)へ1〜3区とした。
 調査開始時点で、すでに現在の地表面からは1m以上も下がっており、その上隣接する道路や家屋の安全対策のため調査区の周囲に打ち込んだ矢板がさらに上へと伸びているため、なんだか解放感がない。また、それを支える鉄骨が目の高さあたりに東西南北に渡してあるため、よけいに狭苦しい。もちろん、よくこの鉄骨に頭をぶつけるので、ヘルメットは必需品である。


調査区全景


 調査面には、杭や柱などが露出していたため、掘りはじめる前から遺構があることは間違いなかった。しかし、どの時期の遺構なのか、あるいは、現地表面が全体的に同時期の面なのか皆目検討がつかなかった。とにかくぐちゃぐちゃで、本来の土の色すら分からない。


調査地点の地表面の状況



 最初は、B−2区とした西側の南北方向真ん中の調査区から掘りはじめた。10cm程度掘り下げたところで土質に変化が見られ、遺物は18世紀前半以前の製品が主体であった。ただし、ところどころ二次堆積土が被っていたこともあってか、18世紀後半頃の製品もいくらか出土している。


B−2区調査状況



 次にその北側のB−1区を掘りはじめた。するとすぐに赤褐色の焼土面が現れ、ほかのグリッドにも続いていることが分かった。その焼土面の上面は煤状に黒く変色しており、あるいは火災面である可能性もある。もしかしたら、有田の内山全体が焼失したという文政11(1814)年の火災面かとも思ったが、時期的に19世紀まで下りそうな製品は皆無であった。


B−1区調査状況



 焼土面付近から出土する製品が1700年前後、それを覆う層からは18世紀前半を中心とした製品、また、この焼土面を切って掘り込まれている土壙状の遺構からは18世紀後半頃以前の製品が出土していることから、やはり文政11年の大火面ではなさそうである。この焼土層は、続いて掘りはじめたその東側のA−1区でも確認された。本日は、このA−1区の掘削途中で調査を終了した。


A−1区焼土面上に被る層の出土品の例(皿の内面と外面)*画像をクリックすると拡大画像が見れます


 以上が、現在までの調査状況であるが、予想どおりというか、18世紀頃の製品は染付が中心で、ほとんど色絵製品は含まれていなかった。色絵製品は、調査の最中に目に付いたものとしては、18世紀後半1・2点、18世紀前半の金襴手小皿の細片2・3点に過ぎない。それに比べ、意外に多く出土したのはハマやトチンなど本焼き窯用の窯道具や素焼片であり、素焼片の中には絵付けした状態で廃棄されているものも、かなり含まれていた。
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