`00天狗谷窯発掘調査速報

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町白川
 調査主体:有田町教育委員会


 


 先日ご報告したとおり、10月25日から再び国指定史跡天狗谷窯跡の発掘調査がはじまった。期間は、おおむね1ケ月程度を予定しており、主にB窯の窯体や物原を中心に行うつもりである。ここでは、その進ちょく状況に合わせて、随時調査の概要をお知らせしていくことにする。

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■ 天狗谷窯跡全体図(拡大図)

 

 

■ B窯排水溝検出状況
        (拡大写真)

 

 

 

 

■ X窯検出状況
        (拡大写真)

 

■ 調査地点全景
        (拡大写真)

● 11月1日(水) 



 調査がはじまって一週間が過ぎた。この間、5日間の作業を行っているが、どうやら今日は雨。一息つきそうなところで、これまでの経過をまとめておきたい。

 天狗谷窯跡では、昭和40年代の発掘調査でA〜E・Xの各窯が発見されていることは、このHPでも何度も記してきた。これらは古い順にE・A・B・Cと順次構築され、部分的に発見されているD窯とX窯については、層位的には前後関係は不明である。
 この中で、今回は、今後復元を予定しているB窯の窯体を中心に、正確な位置関係や構造などを再調査することにした。

 最初は、B窯の下から11室の後ろ側にある排水溝を確認する目的で、掘削をはじめた。このB窯は、途中で規模の修正が行われており、昭和40年代の調査の際の報告書では、当初11室であったが、後に13室に拡大されていることが報告されている。つまり、排水溝は12室の部分に構築されていることになる。
 とりあえず、B窯の幅で掘り終わった時点での成果としては、報告書に記載された図面とは、ちょっと断面形が違った点であろうか。そういう懐疑的な目で見はじめると、B窯11室をはじめ、ほぼ直立するはずの各窯の最上焼成室の奥壁の立ち上がりの傾斜が内傾ぎみに記されているなど、報告書の図には不可解な部分も多い。

 次に溝が窯体側面にどのように回り込んでいるか調べるために、掘削溝の両側(南北)を拡張した。しかし、北側(登りの左側)はすぐに窯跡を囲っている柵のちょうど真下に達してしまい、とりあえず先には進めなくなってしまった。南側は以前の調査の際には認識されていないが、A窯の北側壁がB窯の溝の幅で基部から壊れており、10cm程度の深さで、A窯14室の床面を掘り込んで13室方向に続いていることが判明した。しかし、13室は階段状に下がっており、すでに以前の調査の際に床面まで掘られてしまっているため後の祭、今となっては、溝の端部がどこまで続いたいたのか確認することは不可能である。

 続いて、B窯は11室後ろの排水溝が埋められ、13室に拡張されたと解釈されているため、さらにその上部のX窯まで含めて、排水溝の部分に続けて掘削溝を拡張した。この付近の遺構も、実は、報告書の図面には謎が多い。
 まず、13室の後ろには、通常あるはずの11室後ろのような排水溝が設けられていない。天狗谷では、最上室が判明しているほかの窯体でもすべて確認されているため、ここだけがないことになる。また、X窯が単一の窯体でない可能性は、以前の調査の際にも指摘されていたが、それ以前に、報告書の図面と現状の地表の高さが、あまりにも違い過ぎる。報告書の断面図の方が1mくらいも高いのである。この高差がB窯とX窯が別の窯と解釈されてきたことの最大の原因であるが、もし、現地表面の下からX窯が発見されれば、話しの展開はまったく違ってくる。
 13室は予想通り、X窯は新展開、いずれも地中から発見された。しかも、X窯は報告書では、B窯とは登りの方向が大きく異なるように描かれているが、かなり脚色が加わっているようで、実際にはほとんど変わらない。つまり、B窯13室の後ろに排水溝がないことから考えても、X窯とB窯は一つの窯である可能性が高くなったのだ。
 ただし、X−A〜C室とされた3室の中で、真ん中のB室は平面的な位置や構築面から考えて明らかに別な窯体のものである。これは以前床面から出土した製品でも違いが指摘されており、A・C室が連続する古い窯体で、B室が新しい窯体であることは間違いない。おそらくこのB室は、B窯のほぼ真上に築かれたより新しい窯体であるC窯の一部であろう。
 しかし、まだ問題が残されている。X窯の窯体の後ろには、やはり排水溝がないし、後から延長されたB窯の続きにしては、出土している製品が古すぎるのである。排水溝が確認されていないことはC窯でも同じであるが、X−B室に繋がる上室に当たる部分はちょうど防災用の擁壁が築かれており、遺存していたとしても、現状では確認できない位置に当たる。

 このB窯の問題を解決する糸口の一つは、さらに上方に位置するD窯との関係である。やはり、報告書の図面ではかなり高い位置に示されているが、実際にはもう少し低い可能性もある。さらに、出土している製品も、X窯のA・C室に近い。
 ということで、10月31日の時点で、D窯の掘削に取りかかったところである。前にも記したことがあるが、昨年調査した下方の物原部分で、D窯と類似した製品の出土する土層が、A窯の作業段の上に堆積した状態で確認されている。ということは、位置関係からA窯やその直下E窯の土層とは考えられず、C窯のものにしては古すぎる。つまり、こうした点から見ても、D窯はB窯の一部であった可能性が高いのである。D窯の後ろでは排水溝が発見されているため、この点もクリアーできる。しかも、もしB窯の一部であることが確定できれば、すでに下部では以前の発掘の際にA窯の調査で壊されて残っていない作業段の状態や覆屋の柱穴、排水溝の状況など、B窯復元の際に不足する情報を得られる可能性も高い。

 残る問題は、X窯A・C室やD窯がB窯の一部と仮定すると、以前の調査でB窯で出土している製品よりも古い可能性が高いため、窯体の改修に関して、報告書の解釈とは矛盾が生じてしまう点である。つまり、逆に当初D窯の部分まであった窯体を、後に11室までに縮小したことになってしまうのである。これについては、すでに調査済みの部分であるため土層が遺存しておらず、直接検証することはできない。しかし、報告書の12室の床下土層図や記述でみる限り、12室には明確な火床がなく、火床にあたる部分には砂床と同じ砂が被っていたように記されている。つまり、可能性としては、否定はできないのである。これについては、今後、B窯、X窯、D窯の連続性を確認した上で、D窯部分の物原の調査を行い、間接的に関係を探って行くしか、現状では方法がなさそうである。
 物原部分については、昨年度調査した部分をさらに奧側(南側)に拡張すべく、周囲の樹木を伐採し、重機で厚く堆積した表土層を除去している段階である。その際に分かったことだが、意外にも厚く堆積しているのは、昭和40年代の発掘調査の際に、窯体部分の堆積土を積み上げている土であった。厚いところでは1.5m以上にも達し、それを除去すると、まったく地形が変わってしまった。これについては、また後日、物原の調査がはじまる頃に、詳述してみたいと思う。

 ということで、現在までの状況をご報告し、本日は終わり。
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■ 天狗谷窯跡全体図(拡大図)

 

 

■ D窯検出状況(東から)
        (拡大写真)

 

 

● 11月8日(水) 



 ちょっと更新までに間が開いてしまったが、結局先週は雨続き、今週二日間調査が出来たに過ぎない。
 現在までにD窯の窯体を掘り終わり、以前の調査とほぼ変わらない状態で遺存しているのが確認できている。
 新しい知見としては、一つはやはりというか、以前の報告書に示された全体図(左)は、X窯と同様に1m程標高が高すぎる。これで高度的には、B窯、XーA室、X−C室、そしてD窯と続くことに違和感がなくなった。
 残る問題としては、図上ではD窯の方向が、B窯よりもむしろ弓なりにA窯の方を向いていることであるが、百聞は一見に如かず、これについても意外なほどあっさり片が付いてしまった。なんと、これもたんに図が違っていただけだったのである。D窯の焼成室は、図ではほぼ方形を呈しているが、実際にはかなり胴部の張った丸みのある形状を呈していた。つまり、奥壁と側壁の接点は直角ではなく、やや緩やかな角度で接続している。上から4室目の部屋は削平され右(南)奧隅の部分しか遺存していないため、単純に遺存している側壁のラインをまっすぐに延長してしまうと、A窯の方向に向かってしまうことになるのだ。つぶさにみれば、床面に側壁の赤化したラインがくっきり残るし、上部の焼成室で平面の形状は確認できるため間違えることはないのだが、やはり、手探りで行っていた当時の調査の限界というところだろうか。しかし、それにしても、焼成室の形状まで違っているとは。ほかの部分も含めて、いったい報告書の記述をどこまで信用していいことやら。頭の痛いところである。
 とりあえず、さらにD窯の上から2室目の焼成室で、報告書には記述されていないが、新たに火床が遺存していることが確認でき、しかも改修が行われ新旧2枚の奥壁や火床が発見された。また、上から1室目も同様に火床が改修され、その位置が火床1つ分前にずらされていることが判明した。
 現在は、作業段の状態や覆屋の柱穴など、窯体の外の構造を調査中。上から1・2室間の南側で柱穴が一つ検出されている。さらに、B窯との時期関係を捉えるため、1・2室の南側を1m幅で南西方向に拡張し、物原の状態を確認中である。
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■ 天狗谷窯跡全体図(報告書より)
(拡大図)

 

 

■ B窯11室付近平面・断面図
        (拡大図)

● 11月23日(木) 



 11月10日〜16日の日程で、中国の景徳鎮などに行ってきた。そのため、現場を1週間ほど留守にしてしまったが、現在のところ一応D窯の調査を終え、先週から物原部分の調査に入っている。
 懸案のB窯、X窯、D窯の関係については、さらに新しいこと(?)が判明した。何と、D窯は報告書に記載された位置よりも実際には多少北側に寄っており、X窯ももっと南北に近い方向に向いているようだ。つまり、先日、D窯とX窯の標高が実際には報告書の図よりも1mほども低いことをお知らせしたが、平面的にも違っていたのである。これで、断面的にも、平面的にも、X−A・C室、D窯はB窯の一部であり、X−B室はC窯の一部であることは、ほぼ間違いなくなった。
 残る課題は、窯規模の拡大・縮小の時期的な関係である。まず、出土品等から間違いないのは、おそらく当初D窯の位置まであった窯体を、後にB窯11室まで縮小していることである。つまり、この縮小だけが行われたのであれば、後に焼成室を加えたとする報告書の捉え方と正反対となる。しかし、現実的に報告書ではB窯11室まで使用されていた際の排水溝上にも焼成室(12室)の床面が残っていたと記述している。つまり、これを信じるならば、さらにもう一度、規模の拡張が行われたという解釈以外には成り立たないことになるのだ。
 前回記したように、報告書の断面図では、排水溝上部にあたるB窯12室火床部分には、砂床から続く砂が被っていたように示されており、明確な火床が見当たらない。遺構の遺存状況から見て、これは明らかに不可解であり、あるいは、ほとんど高差なく重なっているC窯の床面の一部を誤ってB窯の床面と捉えている可能性も皆無とは言えないだろう。感触としては、この再拡張にはかなり懐疑的であるが、一度調査してしまっているため肝心な部分が遺存しておらず、今のところ、これを再確認する方法を見つけ出せずにいるというのが現実である。
 いずれにしても、今回の調査の新知見として、D窯はA窯の一部でも単独の窯でもなく、B窯の一部であること。X窯A・C室もB窯、同B室はC窯の一部であることが判明した。これにより、天狗谷窯跡は、順次構築されたE・A・B・Cの4基の窯体で構成されていることが明らかになった。
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 物原については、昨年度調査したA窯11・12室境の南側の部分で引き続き試掘を行っている。現在は、盛り上がった物原部分の中央付近を幅2.5mほどで掘削し、その後、北側へとトレンチを伸ばし、昨年度の試掘部分と繋いでいる最中である。ただし、途中ちょうどトレンチの東際の部分に大きな木の根があるため、完全な形で繋げられるかどうかは分からない。地山までの深さは、重機で二次堆積土を除去した段階の表面から2m前後で、途中B窯、A窯の物原層が確認されている。
 土層は、地山面に乗った黒色の旧表土面の上に黄色土を用いて土地を整形しており、その上にA窯の物原層が堆積している。つまり、黄色の整地面は、A窯構築の際のものである可能性が高く、旧表土とその整地層の間で、E窯のものと推定される製品が出土している。そして、A窯の物原層の上に部分的に整地層を挟んで、古い段階のB窯の物原層が堆積していた。
 このことから、懸案のE窯の物原層については、発見されるとすれば、黒色の旧表土と黄色の整地層の間である可能性が高く、さらに窯体寄りの位置と推定される。しかし、すでに昨日の段階で、昨年度調査した部分との間の未調査部分は3m弱ほどしかなく、正直なところ、掘ってみなければ展開が分からないというところである。ちょっとピンチというところだろうか。でも、今流行のねつ造だけはしないので、ご安心を。             ページの最初に戻る

 


(1)物原調査前(北から)             (2)物原掘削中(北から)


(3)物原層堆積状況(東壁) 
(拡大写真)    (4)物原層堆積状況(南壁)(拡大写真)


(5-1)旧表土面出土製品〔E窯〕(内面)      (5-2)同(外面)


(6-1)B窯物原層出土製品(内面)        (6-2)同(外面)

 


● 11月24日(金) 



 本日は、昨日に引き続き、物原部分を昨年度調査のトレンチ方向へと拡張を行った。物原層は斜めに複雑に堆積しているため、同じ高さでも1mほども離れると別の層が頭をのぞかせてしまう。これが窯の調査のだいご味の一つであることは間違いないのだが、次々に現れる土層を的確に、しかも素早く把握して掘る必要があるため、かなり疲労困ぱいしてしまう。本日は、B窯の物原と推定される層を調査している途中で終了した。
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(1)物原拡張風景(南から)             (2)物原層掘削中(東から)
  大きな木の根が邪魔で、土層の繋がりが分かりにくい。   物原は土層が複雑なので、調査員と作業員がほと
                             んどマンツーマン状態で調査を進めていく。


(3-1)B窯物原層出土変形皿(内面)        (3-2)同(外面)
  B窯の物原層の中でも新しい1650年代後半頃の層から、大量の「龍鳳見込み荒磯碗・鉢」などとともに出土。
  天狗谷窯で、こうした良質な変形皿は比較的珍しい。

(4)B窯物原層出土製品 (3)の出土層よりも下層の1650年代前半〜中頃の土層の出土製品。
               日字鳳凰文皿」(左上)や「蹲る鹿文皿」(左中)なども出土。ごくわずかに
              「龍鳳見込み荒磯文碗・鉢」なども出土する。

 


● 11月27日(月) 



 本日は、先週に引き続き、物原部分の調査を行った。しかし、多少トレンチが深くなったかなという程度で、見た目にはほとんど違いが分かりにくいのではなかろうか。たしかに部分にもよるが、50cm前後しか深くなっていない。その原因は、とにかく土層が複雑で、一筋縄ではいかなかったためだ。
 やや極端に言えば、物原層の土の色は、“赤”、“黄”、“黒”の3色の組合せが原則である。窯の修復や失敗品を廃棄した際の層が“赤”、整地層が“黄”、自然堆積層や炭層などが“黒”である。これが都合よく交互に堆積していてくれれば、慣れれば比較的識別は簡単である。ところが、今日掘った部分では、“赤”の下に“赤”、さらにその下に“赤”。違うような違わないような…。おかげで、恐る恐る剥ぎ取るようにしか、調査が進められなかった。ただし、こうした“赤”の層は、通常“もの”だけは大漁である。おかげで、次々に出土する遺物を次々に出土地点を記して袋詰めする作業も加わり、てんやわんやの1日であった。
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(1)物原調査区全景(北から)           (2)本日掘った物原層の一部(東から)
  手前側の左に見える土のうが昨年度調査した部分。    窯の廃材の詰まった土層が直接数層重なっていた。
                             


(3-1)B窯物原層出土製品(外面)        (3-2)同(内面)
  B窯の比較的古い段階と推定される層が検出された。写真は出土品の一部、染付柳文碗、青磁碗、染付将棋駒。
 

(4)B窯物原層出土製品 (3)とほぼ同時期の1650年代前半頃の層の出土遺物の一部。

 


● 11月28日(火) 



 本日は、写真でも分かるとおり、相変わらずどこを掘ったのかと言いたくなるくらい、見た目には大きな変化がない。昨日にも増して土層の堆積が複雑になり、一度には掘れなくなってきている状況である。
 土層が複雑になってきている最大の原因は、いよいよ全体が一様に物原の土層ではなく、北側では窯体の脇に設けられた作業段の土層がからみはじめたからである。実は、こうなると意外に土層の名称の振り方が難しくなってくる。
 なぜならば、窯の土層の堆積順から言えば、当然、整地を行って作業段を構築した後に、廃棄した製品の層が堆積する。ということは、絶対に作業段を造った際の整地層は物原層と連続することはなく、各物原層の間に入り込むことになる。この作業段の構築が窯の造り変えや修復の際に繰り返され、しかも使用中にも土層は堆積するため、物原の層との間に極めて複雑な層位関係が生じるのである。
 たとえば、南寄りの物原層の部分で上から1、2、3層などと付けてきた土層の間に、北側では予想もしなかった層が現れる。すると、名称の振りようがないので、枝記号を付けて3b、3c、3d、…層などとしている。しかし、掘り進めて行くと、たとえば再び3b層と3c層の間に新しい層が現れ3b2層などと付けざる得なくなってしまう。ところが、これを繰り返すと名称が複雑に成りすぎ逆に層位の把握が難しくなってしまうのだ。
 それに、作業段の層は通常数cm程度と薄く、その間に複数の物原層が絡んでくるため、その前後関係を捉えることは想像以上に難しい。したがって、まさに基本に忠実に、調査区全体の中で地道に最も新しい層から順に掘っていかなければ、すぐに土層の前後関係が把握できなくなってしまうのである。という事情があり、そこらじゅう掘るというわけにもいかず、どうしても、作業ペースが落ちてしまっているのが本日の状況である。
 窯の調査で最も楽しくもあり、かといって、1日中土層、土層に追われてへとへとになってしまうのが今日のような日である。あと何日、今日のような状況が続くことやら…。
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(1)物原調査区全景(北から)          (2)物原層の一部(東から)
  見た目には、昨日とほとんど変化なし。        点々と見える丸いものはカーペットピン。こうして
                           土層ごとに目印を付けて掘らないと、後から複雑で分
                           からなくなる。
                             

(3-1)B窯かA窯の物原層出土製品(外面)   (3-2)同(内面)
  1640年代末〜50年代前半と推定される土層から出土した小坏。一般的に縦鎬を外面全体に迴らす小坏(左)
 は、窯ノ辻窯跡(山内町)の資料がよく知られているが、天狗谷窯跡でも焼成していることが確認された。
 

(4-1)B窯かA窯の物原層出土製品(内面)   (4-2)同(外面)
  (3)とほぼ同じ時期の層から出土した変形皿。内面には、片側に流水桜花文を配し、一方には地文と丸文が
 見える。こうした製品は、これまでのところ天狗谷窯跡では類例が知られていない。

 


● 11月29日(水) 



 相変わらず、物原層の作業段寄りの部分の調査に終始した。A窯の構築面である作業段面と推定される土層が検出されたが、より確実性を考慮して、北側に拡張して窯体の一部を出し、高さや土層の繋がりなどを確認した。そして、その下層にあるA窯側壁構築層の下に潜り込む層を剥ぎ、E窯の作業段を検出した。これで、とりあえず、北側の作業段付近の部分については、掘削が終了したことになる。
 それにしても、今日の作業も相変わらず難航した。土層は昨日までと比べると比較的単純になってきたが、とにかく狭くて進まない。これは、安全面を考慮してトレンチの壁面にいくらか傾斜を付けているからで、もうこれ以上は無理かなというところで、ちょうど地山に到達した。 
 明日は、トレンチ中央部に凸状に残った部分を調査する予定である。この部分の南側(山側)は、今回物原を掘りはじめた際にすでに地山面まで掘り下げているため窪んでいるのだが、北側(窯側)の落ち込み面は、おそらくA窯構築時に作業段など平らな面を造るために、丘陵をカットした際のものである。この凸状に残った部分の下には、遺物の出土する最下層が潜り込んでおり、運が良ければ、最も古いE窯の物原層が検出される可能性もなくはない。ただし、これまで出土しているE窯のものらしい製品などを見ても、ほとんど時期幅は感じないため、それほど期待していないというのが本音である。まあ、明日のお楽しみというところか。
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(1)物原調査区全景(北から)           (2)作業段の調査状況(南から)
  北側を拡張して窯体を一部出し、高さの関係や土層    深さはすでに2mほどもあり、とにかく狭い。
 の繋がりを確認した。
                             

(3-1)A窯物原層出土製品(外面)       (3-2)同(内面)
  1640年代と推定される土層から出土した染付の碗と皿。碗は外面に山水文を描き見込みに「大福」銘を配し
 ている。皿は口縁部を波状に切り込みを入れたもので、見込みの文様は不明である。
 

(4)E窯作業段堆積層出土製品
  A窯作業段構築層とE窯作業段の間に堆積した炭混じりの層の出土製品。1630年代末〜40年代前半頃と推定
 される。

 


● 11月30日(木) 



 とうとう物原の未調査部分もすべて完掘した。正確に言えば、当初はさらに奧側(南側)へとトレンチを伸ばす予定であったが、今年はどうやらできそうもない。予算と期間の関係である。これから実測や埋め戻しなど、まだまだ現場での作業は続くが、今回の調査の掘削は今日で終わりにすることにした。
 E窯の物原を確認して、天狗谷窯跡は磁器発祥の窯ではないことを証明し、窯場の位置付けを明確にするのも今回の一つの目的であった。これについては、まだまだ実証資料の点から、完全に否定できるまでには至らなかったが、さらに可能性が高まったことは間違いない。
 それにしても、いったいE窯の製品がいっぱい詰まった物原層はどこへいってしまったのだろうか。E窯の製品が出土する土層はトレンチの南半を四周しており、その上に同様に黒色土が被さり、その直上に黄色のA窯構築時の整地層が堆積している。つまり、A窯の整地の際にE窯の操業時の面を削ってしまっている可能性はほぼ皆無といっていいのだ。ただし、トレンチの北側(窯体側)は作業段を構築するため、E窯時にも丘陵斜面を寸断していたと考えられるが、これはA窯構築時に壊されているらしい。それを差し引いても、あまりにも出土遺物が少なすぎる。
 考えられることの一つとして、まあ、今回調査しなかったさらに奧側(南側)に残っている可能性もないとは言えない。しかし、丘陵の傾斜を考慮すれば、あまり期待できる状況でもない。もう一つは、本当に操業期間が短かった可能性。E窯操業時の層でなくとも、より新しい層の出土品中にE窯の製品が混入している可能性は高いが、少なくとも1630年代中頃より前と考えられるような製品は皆無である。続くA窯の構築は、1640年代前半から中頃と推定されるため、あるいはそれほど焼成回数が多くなかったのかもしれない。これについては思い当たる節もあるが、後日もう少し整理して説明することにしたい。
 ということで、今回は、本来はさらにB窯の胴木間なども調査したいと考えていたが、上部の焼成室が予想外の展開となってしまったため、どうやら無理のようである。まだ、整備まで期間はあるため、来年度以降の調査で、徐々に問題点を潰して行くことにしたい。
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(1)物原調査区全景(北から)           (2)調査部分の状況(南東から)
  トレンチの中央部に残ったA窯構築時の整地面、さらにE窯操業時の面を掘り下げ地山まで出す作業を行った。
                             

(3)掘り上がりの状況(トレンチ西壁/南東から)
  地山面の上に薄く黒色のE窯操業時の土層があり、その上にA窯構築時の整地層が乗っている。この整地を行
 う際に北側(窯側)に窯体と同じ高さの平地面を造り出すため丘陵を深く削っているため、E窯操業時の層も寸
 断されている。またこの整地層の上にA窯の物原層が被っており、さらにその上にB窯の物原層が堆積している。

(4-1)E窯操業時の土層出土製品(内面)    (4-2)同(外面)
  A窯整地層の下にあったE窯操業時の層から出土した製品。染付皿や瓶、壺の蓋などがある。
 

(5)E窯操業時の土層出土製品
  出土製品から見る限り、E窯は操業年代が1630年代中頃〜40年代前半には収まる可能性が高い。



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