`00天狗谷窯の調査 はじめに

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町白川
 調査主体:有田町教育委員会


 


 今年も、いよいよ国指定史跡天狗谷窯跡の発掘調査がはじまった。当初、10月23日の月曜日から行う予定であったが、天気の関係で、25日水曜日からのスタートとなった。まだ、掘りはじめたばかりで、特におどろくほどの成果は得られていないが、とりあえず、現在の状況をまとめておくことにしたい。



 

● 調査の目的 



 今回の国指定史跡天狗谷窯跡の発掘調査は、昨年度に引き続き、窯跡の保存・整備を目的とした調査である。現在の予定では、今後9年前後をかけ、B窯跡の復元、発掘遺構の露出展示をはじめ、保存や整備を進めていく計画となっている。昨年度までに用地の取得や基本設計を終え、本年度から本格的に事業に取りかかった段階である。
 本窯跡はすでに1965〜70年には、大規模な発掘調査が実施されている。しかし、具体的に潰しておく必要のある問題も多く残っており、事業の進展に合わせて、徐々に再調査を進めることにしている。今回は、主として復元予定のB窯の全容を把握すべく、窯尻や胴木間の構造を把握することや、その上部に位置し、帰属関係の判明していないX窯の位置付けを明確にすること、そして、昨年度は途中で断念した物原の調査などを計画している。


 

 

 

 

 

 

 調査準備の整った天狗谷窯跡  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


窯体の配置図

● 天狗谷窯跡の位置付け 



 天狗谷窯跡は、長い間、日本磁器発祥の窯と考えられてきた。現在でも、「元和二年(1616)に李参平が最初に磁器を創始した窯」とする記述も目にするが、最新の研究成果では、最初の窯でないことは確実と言っていい状況である。しかし、初の本格的な磁器専焼窯として、その生産ノウハウを蓄積し、磁器生産を産業として育成する基盤となった窯である可能性は、極めて高いものと考えている。つまり、天狗谷での営みがなかったら、あるいは、その後有田は磁器の生産地としては生き残れなかった可能性すらある。このことは、ある面で磁器の創始に匹敵する偉業であり、“もう一つの磁器創始窯”と言っても過言ではないだろう。

 

● これまでの調査のまとめ



 1965〜70年の調査は、窯体を中心に進められ、A〜E、Xと命名された窯体が発見されている。これにより、6基以上の窯があったと記される場合も多いが、正確にいえば、古い順にE窯、A窯、B窯、C窯の4基が順次構築され、D窯とX窯はそれらのある時期の窯体の一部であった可能性が高い。また、不明なため当時X窯としてまとめられた窯については、一つの窯体の一部ではなく、複数の窯の一部である可能性が高い。
 こうした状況を踏まえた昨年度の調査では、露出展示を予定しているA・E窯の焼成室の遺存状態の再確認やA・B窯の胴木間の再確認、物原の堆積状況の確認を行っている。
 A・E窯の焼成室は、70年以降特に劣化は進んでおらず、良好な状態で検出された。
 A窯の胴木間は、70年までの調査をまとめた報告書の図では、類例のないかなり不可思議な形状をしていたが、これは調査の際の掘り方の誤りであったことが判明した。しかし、当時はまだ調査例が少なく手探り状態であったことを考慮すれば、仕方のないことであろう。B窯の胴木間については、調査地点では確認できなかったため、本年度あらためて確認することにしている。
 物原については、このHPでも逐一ご紹介してきたとおり、かなり中途半端な状態で調査を終えることになった。その詳細については、まだ昨年度分の調査報告もこのHP上に残しているため、ご確認いただきたい。しかし、その後、少し考え方をまとめてみたので、ここで触れておくことにする。
 昨年度調査した物原の位置は、A窯の下から第11・12室境の南側(右側)の部分である。昨年報告したように、突如として掘らければならない状況になったが、特殊な小山のような物原で、頂部は樹木が密集している状態では、奥行きは3mほどが限界であった。
 ここでは、A窯とE窯の作業段が重なった状況で検出され、その上に物原層が堆積していた。当時は、この物原層の位置付けやA・E窯の物原の位置の想定に、やや迷いがあった。
 しかし、現状での考え方をまとめてみれば、検出した物原層は、A・E窯の作業段の上に堆積しているため、帰属する窯はA窯よりも北側に位置し、より新しいB窯かC窯ということになる。しかも、土層から出土している製品には、B窯と同等かより古いと考えられてきたD窯の製品と類似したものが多いため、必然的にD窯はB窯の一部で、検出された物原層はB窯のものとなる。
 C窯の製品についても、表土層からは多く出土している。しかし、昨年度の調査では明確な当時の層は検出できておらず、A窯の調査の際にすでに壊されてしまったか、もっと奧側に位置するのか、今回の調査で判明するはずである。
 また、古いA窯やE窯の物原層については、やはり当時の廃棄スタイルを考えれば、さらに奥側に位置する可能性が最も高いように思われる。

● 現在の調査状況



  ということで、まだ水、木、金の3日しか調査を行っていないが、現在の状況をご紹介する。
 詳細はまた後日逐一お知らせするが、現在は、B窯11室後ろの排水溝を確認中であり、70年代の調査では気付かれなかったようだが、A窯の焼成室床面に浅くB窯の溝の痕跡が残っていることが判明した。また、併せてX窯の位置までトレンチを伸ばし、B窯との関係を確認する作業も進めている。
 物原については、昨年調査した部分をさらに奧側に掘り進める予定で、現在は頂部の樹木をやや広めに伐採し、重機で厚い表土層をはぎ取っている段階である。実は、この表土のはぎ取り作業で判明したことだが、もともと物原部分の地形の形状は、現状とはずいぶん違っていたらしい。報告書の写真などからも、70年までの調査で、掘削した土を物原部分に積み上げていたことは分かっていたが、それが高い部分では2m弱にも及んでいたのにはいささか驚いた。今回は何とかE窯の物原層を確認し、目的の一つである、天狗谷窯の開窯時期の確定ができればと考えている。



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