中国・福建省と肥前の窯の比較(3)


 


 今回は洞口・陂溝窯の内部構造について説明してみたいと思う。


    *文中「しょう」は、漢字ではさんずいに「章」と書くが、日本の文字にはないため平仮名で示す。以下同じ。



 

 

(陂溝窯Y1平面図)

 



  福建省・しょう州市の窯は、これまで調査されたすべての窯が同様な構造をしており、この陂溝窯のような例がごく一般的なスタイルであったと考えて間違いないだろう。

 陂溝窯の焼成室をみると、平面プランが方形に近く、前部に燃料を投入する火床、後部に製品を焼成する砂床が配置されている。また、燃料は薪で各室の火床の側面に焚口が設けられている。こう記すと一見肥前の窯と類似しているようにも思えてしまうがいくつかの点で決定的な違いがある。
  



  

              

 (中国と肥前の窯詰め方法の違い)

   



 一つは窯詰め方法の違い。中国の窯では、陂溝窯に限らず一般的に匣詰み焼成が基本であり、匣鉢を積み上げることによって量産を試みている。しかし、肥前の窯の場合、トチンハマという焼台に一点ずつ載せて焼く裸詰めが基本であり、匣鉢は高級品だけに用い、逆に下級品は裸詰めで同種の製品を目積みして直接重焼きする。しかも、通常匣鉢は17世紀前半までに限ればほとんど重ねるという意識はなく、まれに積んでも数段以内である。これは、肥前の生産技術が中国ではなく、朝鮮半島の李朝の技術をベースにしているからで、朝鮮半島では同様な方法が一般的である。
 


                  (陂溝窯の窯詰め模式図)

 



 もう一つは窯構造の違い。やはり窯詰め方法が異なるため窯構造にも違いが認められる。たとえば、焼成の際、製品の温度をできるだけ均一にするため、通常、火の通りにくい製品下部はいくらか焼成室床面から浮いた状態にされる。肥前の場合は、トチンやハマなどを用い、匣鉢なども焼台を敷いて底面に空間ができるようにしている例が認められる。ところがこうした簡易的な方法では、匣鉢を詰高く積み上げるような場合は、安定感を保つことができない。そこで、陂溝窯の場合は、焼成室の前後方向に磚をずらっと数列並べて一種のロストル風の施設を作っている。この磚列と磚列の間を跨ぐように匣鉢を載せて焼成するのである。
  


                 (奥壁構造の違い模式図

 



 この磚列の間を通った炎は、奥壁に開けられた通焔孔(温座の巣)を抜けて上の焼成室に至る。上室の火床床面は下室砂床とほぼ同じ高さで、同室の砂床との境が一段高くなっている。つまり、通焔孔を通った炎は一度火床と砂床との境の壁にぶつかり、上方向に上るような構造になっている。こうした構造は、岸岳(佐賀県)周辺の初期の窯などでは一般的であるが、朝鮮半島の窯も基本的には同様であり、即中国的ということには結びつかない。また、肥前のごく一般的な窯構造はこれとは異なり、段差は各焼成室間に設けられ、通常、同じ焼成室内の火床と砂床にはそれほど大きな段差は設けられない。


  



 

 
 以上、前回ご紹介した外部構造なども加味して考えると、しょう州地区の窯のようないわゆる呉須手を生産した窯の技術は、少なくとも肥前の基本的な窯構造の規定には直接関わりが感じられない。しかし、肥前磁器の生産には、こうした中国南部の技術が関係していたことはほぼ間違いないため、その関わり方を探ることが今後の課題となるだろう。

 



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