中国・福建省と肥前の窯の比較(2)


 


 前回は、福建省やしょう州市の位置や概要について説明してみた。つづいて今回は、そのしょう州地区の窯体の規模や外形の構造について、紹介してみることにする。

    *文中「しょう」は、漢字ではさんずいに「章」と書くが、日本の文字にはないため平仮名で示す。以下同じ。



 

 


  しょう州地区の陶磁器生産は、青銅器時代〔中原の殷・周代(B.C.1600〜B.C.770年)〕に遡るという。しかし、規模が拡大するのは宋・元代(960〜1368年)で、主として青瓷や青白瓷などが生産されていた。また、明・清代(1368〜1912)にはさらに窯業は盛んになり、主として青花や白瓷などが生産された。この明・清代にしょう州地区で生産されているような製品は、以前はもっぱら広東省の汕頭(スワトー)から輸出されたと考えられていたため、ヨーロッパなどでは“SWATOW”と称されてきた。しかし現在では、しょう州付近の製品は厦門市境の月港がその主な輸出港であったことが明らかになった。よって、この明・清代のしょう州地区の窯は、現在ではしょう州窯と総称されるようになった。  


                  (位置図)


  

 

                             (龍窯/東溪窯Y3/文献1)

   



 この地区では、宋・元代には龍窯と称される窯が一般的であった。龍窯は丘陵斜面利用して構築される長細い窯で、龍に似た形状からその名称が付されている。細かくいえば床面の構造や隔壁の有無など多様な種類があり、あえて日本の窯を当てはめれば、古代の須恵器生産に用いられた穴窯から、肥前で初期に用いられた割竹式の窯まで幅広い種類の窯が該当する。ただし、中国の窯は通常磚を積んで構築されており、日本のように塗り壁式のものは見当たらない。また、どの程度窯差があるのか知らないが、中国の龍窯の場合、窯体の側面に投柴孔と称される薪の投入口が並んでいるが、日本の窯にはこうした構造のものは確認できない。
 


  

 

                (横室連房窯/陂溝窯Y1/文献5)

   



 しかし明代の青花や白瓷生産窯では、日本流でいえば連房式登り窯が一般的になる。ただし、“鶏籠窯”と称される肥前の窯に一般的な側壁が丸みを持つようなタイプではなく、“横室連房窯”と称される側面が直線的な窯が一般的である。

 この横室連房窯の一つの例が、前に紹介したことがある平和県の洞口・陂溝窯である。再度おさらいしておけば、2基の窯体がありそれぞれ98PDY1、同Y2と命名されている。

 Y1は全長が7.3mで2室、Y2が全長8.3mで3室の焼成室を持つ全面磚積みの窯である。焼成室の幅は、Y1が3.1〜3.3m代程度、Y2が2.7〜3.2m代、奥行きはY1が2.4〜2.5m代、Y2が2.0〜2.6m代である。
 



               

 (花仔楼窯Y1/文献3)

   



 この数値を単純に比較すれば、焼成室数や全長など肥前の登り窯などと比べると格段に規模が小さい。東溪窯(華安県)Y15など、清代の登り窯には残長が17.6mを計り、焼成室も4室以上という比較的大規模な窯も発見されてはいる(ただし、同時期の肥前の窯はさらに大きい)。しかし、明末・清初の窯に限れば、これまでしょう州地区で4室以上の焼成室を持つ窯は発見されておらず、全長も確実に10mを超えるものは見られない。ただし、ほかの調査例では、もう少し横幅は広いのが一般的で、最も大きい花仔楼窯跡Y3で4.40m、最も小さい同Y1でも3.92mである。したがって陂溝窯とくらべ焼成室はもう少し横長である。

 こうした連房式の窯の場合は、通常出入り口は各焼成室前部の両側に設けられている。また、丘陵斜面を削って構築されるため、最後部は丘陵がほぼ直角な崖状を呈しており、この前に数10cmの間をおいて磚製の隔壁(=最上室奥壁)を作ることによって、崖面との間を煙突としている。
 



 

 ということで、次回は窯体内部の構造について触れてみることにしたい。

 【参考文献】

 1.栗建安「東溪窯調査紀略」『福建文博第`93−1・2』1993
 2.熊海堂『東亜窯業技術発展与交流史研究』1995
 3.福建省博物館『しょう州窯』1997
 4.福建省博物館「福建平和県南勝田坑窯址発掘報告」『福建文博1998年第1期』1998
 5.福建省博物館「平和五寨洞口窯址的発掘」『福建文博199年増刊』1998


 



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