第11回日本ALS協会福岡支部 支部総会に参加して

僕が初めて福岡支部の支部総会に参加したのは2000年のことだった。それまで僕は、支部の交流会の案内を もらっても余り関わりたくないそんな気分だった。またこの時総会に参加したのも、会社を休職したばかりで 暇を持て余していたのでその暇つぶしと、その前年妻の友人の紹介でメール交換をしていた同じ病気を患って いるKさんが総会に参加すると聞いて、一度だけ会っておきたいと思い立ち参加したという何とも消極的な 動機からだった。
会場に着いた時総会はすでに始まっていた。そこで一番後ろの通路から話を聞くことになった。そこからでは 話をされている方の顔も講演のスライドも余りよく見えなかったが僕は一向に構わなかった、何せ来た目的が 違うのだから気になるはずもなかった。
やがて3時を回って講演も終わり休憩に入った時、妻にKさんを探してもらった。Kさんは一番前にいた。そこまで 車椅子を押してもらい、お互い不自由になりつつある言葉で挨拶を交わしお互いの近況を語った。Kさんの 回りには人工呼吸器をつけ吸引している方も何人かいた。人工呼吸器をつけている人を実際に見たのは その時が初めてだったので実際かなりの衝撃を受けた。それと同時に人工呼吸器をつけてこんな風に出歩いて いる人たちがいるのを見て驚きを感じた。
やがて会場に「交流会を始めます。」のアナウンスが流れた。それを機に会場を立ち去ろうと思っていたが そのまま交流会の主役の人たちの輪の中に取り込まれてしまった。そして会長のFさんやKさんそれに他にも 同じ病気を患う参加者の方々やその家族の方々が何らかの目的を持って生きている、また社会に対し積極的に 働きかけたり難病や障害を持つ人が社会参加をすることがどういうことか、またボランティア必要性を説き 育成に力を注いでいることを聞き、僕も今のまま漠然とすごしていてはいけないと思うようになった。この時 支部総会に参加したことで僕の社会観が変わったといっても言い過ぎではない。そしてまた新しい力を もらったとも言える。


5月に入ったある日、今年もまた支部総会案内のはがきが来た。しかしこのところの僕は精神的にも肉体的にも 色んな事が重なってすっかり出不精になっていて、年に一度の支部総会でさえも出かける気が起きなく なっていた。そこで6月18日にサッカーのワールドカップ日本対クロアチア戦があることに目を付け、万全の 体調でクロアチア戦を見たいということを理由にして支部総会に参加することを拒否した。
その日から妻の説得工作が続いた。「支部総会に年に一度参加するのは、年に一度の同窓会に参加するのと 同じで大切な事だと言っていたじゃないの。」とか、「もう出席すると書いてはがきを出してしまったから 行かない訳には行かないし、みんなも会えるのを楽しみにしているよ。」とか、今回はいつもレスパイト入院を 引き受けてくれている病院・病棟の若い看護師さんも同行してくれることになっていたから「彼女にとっていい 経験になると思うけど。」などと言って説得を続けた。確かに病棟の若い看護師さんが福岡での支部総会を 見ることは、これからの彼女の看護師生活できっとプラスになると僕も思っていたので、妻も痛いところを ついてきた。それでも僕が説得に応じることはなかった。
ところが支部総会の一週間ほど前、妻はにんじんをぶら下げる作戦に来た。そしてそのにんじんに釣られ僕は ついに陥落した。きっと僕の中にも行きたいという気持ちがあってそれが触発されたのだと思う。子供たちに 日ごろから「一度交わした約束は必ず守れ。」と口を酸っぱくして言っている僕だから、一度うなずいて しまったものを覆す訳にはいかない。そのような訳で僕は今年も福岡支部の総会に参加することになった。

福岡支部総会当日の朝も僕はいつものように5時過ぎに目が覚めた。でも今日だけはいつものようにパソコンに 向かう時間はない。9時半には福岡に向かって移動する予定だったから、6時遅くとも6時半には経管栄養を 始めておかないと移動の際きつそうだ。ところが6時を過ぎ6時半を過ぎてもエンシュアは来ない。7時を 過ぎた頃妻がエンシュアを持って部屋に入って来た。この時間からでは少しきついかなという思いが頭を よぎる。
8時半少し前に経管栄養が終わった頃、今日の総会に同行してくれる訪問看護師さん二人が到着、すぐに 自動車で移動する準備に取りかかった。今日の訪問看護師さんは室内でのベッドから車椅子への移乗や 自動車への移乗・自動車内での吸引は慣れていたが、人工呼吸器をバッテリーに接続した状態での車椅子への 移乗と移動の補助の経験はなかった。それが僕を不安にしていた。

9時半過ぎに自動車に乗り込み病院・病棟の看護師さんとの待ち合わせ場所の役場へ向かう。役場で病棟の 看護師さんが自動車に乗り込むとすぐに「待っている時カメムシが私のところに飛んできて困った。手で 払いのけていると臭いが移ってしまいました。臭いですか?」と聞いた。呼吸器を着けている僕には 分からなかったが臭いはしたらしい、笑いが起こった。でも彼女のこの言葉で車内は随分和やかになった。
みんなを乗せた自動車は一路福岡へと向かう。運転は総会が行われる福祉プラザまでの道を知っている妻が 担当する。この唐津経由で福岡に行く道は、福岡の会社に勤めていた僕が有田の実家に帰る時にいつも 利用していた道だ。車窓から見えろうどん屋さん・コンビニ・ラーメン屋さん・風景など全ての景色が 懐かしい。
出発してから1時間が経過した頃、痰の吸引をしておこうと思い二丈・浜玉有料道路に入ってすぐのところに ある駐車場に自動車を止めてもらう。今日は曇っていてよく見えないが、この駐車場の展望所からは眼下に 海岸線が広がり正面に唐津湾と高島が、左手に虹ノ松原から唐津城・呼子の七つ釜?に連なる海岸線が、 右手には糸島半島とその向こうに玄海島がかすんで見える風光明媚なところだ。
さらに前原バイパス・西九州自動車道福岡前原道路とまっすぐに進んでいくと、今宿と姪浜の境で 福岡都市高速道路に繋がる。この場所にも若かりし頃の思い出があった。
もう二十数年も前のことだが・・・・・
ラリーをやっている友人と二人で海に遊びに行った帰りのこと、ここまで帰ってきた時に友人が道路脇の 山すそで展開されている工事現場のダートを見て少し走り回ってみたいと言い出した。夕闇迫る工事現場には もう誰もいない、僕も一も二もなく賛成した。友人はすぐに工事現場のダートに自動車を乗り入れ快調に 走り回っていたし、僕も助手席で振動とスリルを楽しんでいた。が、突然自動車が斜めに傾き止ってしまった。 二人で力を合わせ脱出を試みたが、自動車の底が地面に当たってしまっていて微動だにしなかった。 万策尽きた僕らはこう小山を降り工事現場を出て公衆電話を探しJAFに救いの手を求めた。JAFが着くまでの 1時間余りの間、真っ暗になった工事現場の入り口で僕らはバリ取りの内職をしながら時間をつぶした。JAFが 着くと友人は牽引装置付のJAFの自動車に乗り込んで現場に向かった。しばらくすると友人の自動車がJAFに 続いて工事現場から出て来た、JAFに牽引してもらい無事脱出できたとのことだった。少し無謀なことを してしまったがこれが若者の特権かなとも思ったものだ。若かりし頃の苦い思い出である。
福岡都市高速に入り自動車は百地出口に向かってまっしぐらに進んでいった。この福岡都市高速が できているところの下の道は若い頃何度も通ったはずなのに車窓から見える風景には全く見覚えがない。 カーナビゲーションの画面を見ても自動車がどのあたりを走っているのかほとんど見当がつかなかった。 福岡タワーが見えたところでようやく現在位置が分かった。出口はもうすぐだ。百地出口を出てシーホーク ホテル・ふくおかヤフードームの横を通り5分ほど走ったら、総会が行われる福祉プラザに着いた。時間は 11時半、唐津までが少し混んでいたから1時間40分のドライブだった。福祉プラザで駐車場の入り口を探すのに 少し途惑ったが、係員の誘導で無事地下の障害者用駐車場に止めることができた。


自動車を止めるとすぐに車椅子に移譲する準備に取り掛かってもらう。車椅子に人工呼吸器とバッテリーを 乗せる大をセットし呼吸器とバッテリーを乗せる、そして僕の自動車の助手席から車椅子への移乗。不安を 感じていたが妻のフォローもあり訪問看護師さんts地が無難にこなしてくれて・・・・・僕の取り越し苦労に 過ぎなかった。車椅子に移ったらすぐにエレベーターで総会の会場のある6階へ移動し、妻が受付を済ませる。 その間に若い学生さん二人が僕のところに「今日お手伝いさせていただきます。」と挨拶に来た。いつもの ことなのだが、この支部総会では近くの(天神?)リハビリテーション学院の沢山の学生さんが ボランティアとして参加してくれている。嬉しいことだしうらやましいことだ。
受付を済ませ控え室の方に移動していくと、福岡支部のF会長の奥さんの顔が見え元気のある声が聞こえてくる。 そして控え室に入るとすぐにKさん夫妻の姿が、さらに僕のために用意してもらったスペースのほうに進んで 行くとF会長の姿が見えた。1年振りに会えた嬉しさ懐かしさと共に今日来て本当によかったという思いが 浮かんできた。
控え室でここにも思い出がある西公園辺りを眺めながら経管栄養を落としていると、学生さんがF会長に 質問しているのが聞こえてきた。学生さんたちは毎年真剣にそして熱心に接してくれるのだが、今年はその上に ALSに対する知識も事前に身に着けて来ているようだった、質問の内容にその事が窺えた。しばらくして僕の ところにも学生さんが来てくれて不慣れな手つきながら文字盤を使ってコミュニケーションを楽しんだ。
今年の控え室ではかわいいお子さんの声も聞こえてくる。F会長の奥さんから「私たちにも孫ができた。 お子さんはいくつになったの?」と声がかかる。「今年中1と小4と小2になりました。」と答えると、「あと10年も すると孫ができるかも。孫ができるまでは元気でいなくてはね。」と。そんな会話を楽しんでいるうちに「総会を 始めますので会場に移動してください。」とのアナウンスが流れた。
いしで準備を終えて会場に移動したが・・・・・今年も少し遅れて入ってしまった。僕の席は一番前の右の方、 Kさんの横だ。会場を見回すと見慣れた顔が見える。その中に国会議員の姿もあった。この福岡支部総会に 参加していていつも思うのだが、ここの福岡支部総会の開催はALSを患う患者や家族・事務局の方々・顧問の 先生方・リハビリテーションの若い学生さん等沢山の人たちの協力と参加で成り立っているのが分かる。そして 政治家にも毎年総会開催の案内が行っている。我々難病に苦しむ者や障害を持つ者が社会人として人間らしく 生きていくためには政府や自治体など行政の支援と協力が必要だから、行政サイドに我々の生活の実情と実態を 知ってもらう事は必須の要件だ。残念ながら現在行政が行っている施策は我々の生活の実情や実態とは かけ離れたものが多い、法案を作っている人たちが実情や実態を知らないか分かっていながら目を つぶっているかだ。だからこそ政治家をあらゆる機会を通じて巻き込む事が必要だと僕は思う。総会の議事は 粛々と進められていった。その後来賓として政治家2名と秘書の方が紹介された、来賓として参加した方が 与党だけだったのが寂しかったが。そして見たことのある政治家二人が挨拶、その端的な短さと率直な 言い回しに好感が持てた。
総会が終わると休憩を挟み記念講演、この記念講演を聞くのも福岡支部総会参加の楽しみのひとつだった。 今回の記念講演のテーマは『「こころのケアー」と「音楽療法」』、講師は矢津クリニックの矢津先生、 クラリネット片手に登場した姿からも先生のユニークさが窺えた。以前娘が音楽療法師になりたいと 言っていたのを思い出し、連れてくれば良かったと一瞬思った。矢津先生の講演は非常に興味を惹かれる話で、 しかも話し方も上手だったのでとても面白かった。まずクラリネットの演奏で聴衆の心を掴みそれから話に 入っていった。他の人もそうだと思うが僕もすぐに矢津先生の話に引き込まれた。矢津先生は我々 神経難病患者の心の動きをよく推察しておられると思う。その上で我々患者の目線に立って音楽療法を活用し 寂しさや不安を取り除き、喜びや楽しさできれば生きる目標を与えてあげようと努力されている様に思えた。 僕は矢津クリニックに関わってもらえる在宅療養の方をうらやましく思いながら話を聞いていた。
講演が終わると15分の休憩が入った。その間に親交を深め合う。隣に位置していたKさんが僕の方を向き 近付いてきてくれて、手と手を重ねあい(もちろん自分たちでできる訳もなくKさんの奥さんが 重ねてくれたのだが)目と目で「お久しぶりです。お元気そうで何よりです。あまり連絡をいれず ご無沙汰していてすみません。でも今日ここでこうして会えてよかった。」と言葉の無い無言の挨拶を交わした。 傍から見れば二人ともまばたきをし合うだけで滑稽に写ったかもしれなかったが、お互い心を込めた精一杯の 挨拶だった。
次に宮崎支部事務局長のTさんが来てくれて「お元気そうですね。こういう風に出かけている事や毎日 少しずつでも車椅子に座っていることがいいのでしょうね。」など地域の近況も含め色々な事を話してくれた。
その後親睦会が始まり患者・家族から近況を話すことになった。Kさんや大分からいつものように看護学部の 学生さんと一緒に来られた女性の方や内科医で発病されている方など色々な方が近況を話された。また 宮崎支部と鹿児島支部の事務局長さんが近況と福岡支部の支部総会に参加しての感想を話された。それぞれの 方の話の中にそれぞれの思いがこもっているなぁと感じながら聞いていた。僕の妻は、気管切開してから 3年以上経った事・気管切開するかどうかという時に親の責任夫の責任子としての責任を果たす様に僕に迫った 事・最近はホームページ作りにはまっている事などを話した。それから難病支援室?の紹介があり、顧問の 一人である九大医学部神経内科のK先生から締めの話しがあり、矢津先生のクラリネットを伴奏にみんなで 「上を向いて歩こう」を歌って閉会となった。僕も久しぶりに歌を口にした。最後に日本ALS協会福岡支部の 垂れ幕を手に参加者全員で記念写真を撮って散会となった。この4時間強の時間は僕にとってとても楽しい ひと時だった。


総会が終わるとすぐに帰り支度を始める。小用を済ませ車椅子の背もたれを倒して身体が横になるようにして 十部に痰の吸引をしていると、毎年のことながら僕らがエレベーターになるのが最後になった。それでも今日 僕のフォローについてくれたボランティアの学生さんたち数名が、地下の駐車場まで荷物を持って ついてきてくれて最後の最後まで見送りまでしてくれた。そのやさしさに感謝、ありがとう。5時に 福祉プラザを出てきた時と逆のルートで帰る。帰りは渋滞も全くなく快調に進む。ただ会場が僕にとっては 少し寒かったのか自動車の中で鼻水が出てきて仕方がなかった。会場では僕ら患者は長袖で他の人のほとんどが 半そでしかも室温は高めに設定してあると思えるのだが、体感温度が画2-3度違うのだろう僕にとっては 少しばかり寒かったのだ。自動車の中で訪問看護師さんに何度も鼻水を拭いてもらいながら帰った。6時半に 自宅に到着、すぐに自動車の座席から車椅子車椅子からベッドへと身体を移して着替えをしてもらいようやく 人心地ついた。腰とひざが痛かった。一日に長くても2時間しか車椅子に座っていない僕が、今日は9時間余りも の間座った姿勢を保っていたのだからこれも仕方のないことだろう。訪問看護師さんたちに背骨・ 背筋伸ばしのストレッチをしてもらってようやく痛みから解き放たれた。そして7時過ぎにようやく 訪問看護師さんと病棟から応援に来てくれた看護師さんを解放した。
今日一日僕に付き合ってくれた看護師さんたち、それにずっと運転してくれた妻、お疲れ様ご苦労様でした。 そして本当にありがとうございました。おかげで楽しく有意義な一日を過ごすことができました。<本当に ありがとう。