だれかに向かって話しているわけではありません。でも、ときにはだれかに聞いて
いただきたいこともあるのです。そんな思いの一部を綴ります。
つまらないことだらけですがよろしければ聞いてください。


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2013年

不快?
最近僕と相性の悪い訪問の方の尊顔を拝顔するだけで不快を感じる様になった。この方、玄関を何も言う事なく 入って来て僕の部屋に入って来た時もどこに向かって挨拶している事やら。猫には必ず声をかけるのに僕とは訪問中 ほぼ一度も目を合わせない、当然向こうから声掛けしてくれる事も帰る前の「吸引しますか?。」以外ほぼない。 リハビリもどんな目的でしているのか僕には見えないし(スケジュールに組み込まれているからただ こなしているだけ?)、肩が冷える事を僕が嫌がる事は知っているはずなのに清拭の時上半身1枚、この方のケアには 思いやりが感じられない。まあ僕も必要最低限以外は完全無視だから一緒かな。

自動車を買い替えるって
我が家の自家用車Welcab VOXYもそろそろ丸11年、妻から「(我が家の愛車VOXYは)次の車検ではタイヤも替えないと いけないし燃費もものすごく悪いから自動車をハイブリットに買い替えたい。」と相談を受けたので僕は一応了解した。 僕が去年我が家のVOXYに乗ったのは何回あったろう、1-2回or3-4回、最近は入退院も訪問看護の時間効率と(訪問) 看護師さんの体力の消耗を少なくするためか訪問看護師さんの運転する介護事業所のリフト車利用だ。そこで僕は提案、 「Welcabはもう買わなくていい、もしも外出する時にはWelcabのレンタカーを借りればいい」と。妻とはそれから いくらかは意見が衝突したが最後は納得した様だ。
ゴールデンウイークのレスパイト入院中妻はプリウスの見積書を持ってきて見せた。今回は妻自身の名義で買う 自動車だし僕が乗る事は絶対にないのだから自動車の車種なんか妻の好きにすればいいと考えていたが、障害年金で 生活している世帯にプリウスは相応しくない/贅沢過ぎるとの想いがつい顔に出た。妻は僕の雰囲気を微妙に感じ取って 「高いから駄目なの、じゃあいくらだったらいいの?。」と詰め寄ってきた。仕方なく僕は「200万(円)」と答えた。 後日妻はアクアの見積もりを持ってきた。妻によるとアクアは「昔のスカーレットクラス」との事、僕は了解OKの合図を 送った(内心「クラスはもう少し上じゃないかな」と思ったが…)。
Welcab車不要の提案をした時、僕は「外出はもうすることはないな」と今日以降の外出を完全に断念・諦めた。以前妻は 「娘が免許を取ったら家族だけでも出かける事が出来る様になる。」と話していたが実際は無理、だって 訪問看護師さんがいなければベッド→車椅子→自動車の移乗が出来ないから外出はあり得ないもの。まあ今はそれでも いいって感じ、もう期待する気もなくなったもの。でも時には家の周りくらいは車椅子で散歩したいな。

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2012年

義母がいなくなった
妻の母が突然亡くなった、11月17日の夕方の事だ。母の病気食道癌が見つかったのは今年の1月、妻からは最初はもうそう 長い命ではないと聞いていた。だけど母はそれから免疫療法・抗がん剤投与・放射線治療と頑張っていた。最近母は 嬉野医療センターから自宅近くの病院に転院していて妻からも「母の体調は悪くはない状態。」と聞いていた。だから 母の状態にもちょっと希望を持ちかけていたし安心しきっていた。
しかし母が亡くなる2日前に様態急変の電話が入ってきて見舞いに行って夜遅く戻ってきた妻から「今日のところは 落ち着いたがもう長くはない。」と告げられた。そして翌日母は逝ってしまった、個室で療養していた母の急変に 病院側が気付かなかったという。後日妻に「(一度は危篤状態だった母に)どうして(生体)モニターを 着けていなかったの?」と聞くと前看護師だった妻からは「個人病院では医師にモニターを着けるかどうかの権限が あるから医師が不在だった時は個人病院の看護師では判断できないのよ。」と諭された。僕には母にモニターを 着けていなかった事がどうしても気に入らない。もしあの時母にモニターが着けてあったら、母が個室で呼吸不全に なった時に病院側は絶対気付いて何らかの対処をしたはずなのに。そうすれば母を一人っきりで逝かせる事は なかったに。悔しいなあ。
それにしても個人病院というものはそんな程度のものなのか、僕は今まで国立病院機構の病院にしか入院した事が ないから分からないや。

世の中にはどうしても心が通じ合わないって人間がいるんだな
昔は感じが良いと思っていた人でもある日突然言葉あるいは行為が気にさわる様になる事がある。そしてその日から ずっとその人の言動が気に入らなくなってしまう。他の人なら同じ言葉使い同じ行為をしてもなんとも思わないのに その人なら気にさわる。何故だろう?。
僕はあの人の言葉や看護?介護の行為に思いやりがない心がないと思っている、この人は時間内にやるべき事は きっちりとやってくれているのだが、それ以下でも以上でもない、余計な事は一切しないし声掛けも一切ない。僕も この人には必要最低限しか話しかけないしこの人の時は時間オーバーする事は絶対と言っていいほどない。僕が気に 入らない分だけ相手も僕の事を嫌っているのだろうなあ、まあ全然構わないけど。

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2011年

やっちゃおれない!
昨日2週間の入院から退院してきたらもうその晩から早速ひと騒動。おやじのうう酒のみが原因でギッタンバッタン・ ギシバシと親父がお袋に殴られてひぎずられていく様子が部屋越しに聞こえてきた。声さえ出たら大声で「うるさい!」と 怒鳴り散らしたいところだがそれも出来ない。親父の大酒飲みは僕の病気を親父自身の気持ちが理解出来ない事が原因、 「昔のおじいちゃんは凄かった・お父さんはおじいちゃんに何でも教わった・お父さんはおじいちゃんの背中を背中を見て 育った。またおじいちゃんはお父さんが大学に行く事について何の意見を口にする事もなくお父さんの意志を 尊重してくれたしおじいちゃんの共済組合の給料やおばあちゃんの焼き物会社パート勤務の給料の中から毎月五万円を 四年間一度も欠かす事なく仕送りし続けてくれた、当時の家の状況では毎月五万円の仕送りは家の家計をかなり 苦しめたはずだ。それにおじいちゃんは家や田んぼや山を独りで一生懸命に守り増やしてきた、お父さんやその家族に 残し託すために。だからおじいちゃんはお父さんが最も尊敬する人なんだよ」なんて言っても、子供たちが今の覇気の ない親父の姿を見ていたら想像だに出来ないだろう。こんなの見聞きしていたら生きていくが嫌になるよ。家族みんな 不仲の遠因は総て僕がこんな病気になった事にあるのだから。本当に嫌になる。
運命って過酷だし残酷だな、もう負けたい。「ばあちゃんもうそっちに逝っていーい?、ばあちゃん 孝行するからさ」。
生きていってても何か楽しみってある?、俺は治る事を諦めてからこの数年間楽しみなんて全然見えないよ!。

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2010年

妻の表情
妻の顔にいつもの表情が戻ってきて僕は嬉しい。妻曰く、「インフルエンザ予防接種を受けてから気分がすぐれなくてその上 首筋が痛くてどうしようもなかったのよ。」と。それがここ数日妻の顔がすぐれず機嫌が良くなかった原因の様だ。
僕は妻のこの部屋以外での表情をもう10年近く知らない。その代わり妻がこの部屋に入ってきた瞬間、妻のその時の機嫌や 雰囲気を感じ取って、まるで鏡の様に妻にそのまま返している様だ。妻が笑顔の時は笑顔で(僕はそのつもりなのだが僕の 表情筋はそうは動いてないらしい)妻の機嫌が悪い時は僕もブスくれた顔を妻に向けている様なのだ。
撲はいつもと同じなのに妻は僕がブスくれてると早とちりして勝手に思い込む事がある様なのが困る、かな。

勉強会、止めたー
夏休みになってから上の息子の英語の復習を息子と一緒にやる事にした。とはいっても息子は乗り気でないから半強制的な 勉強会だ。こういう勉強会は去年の年末から2ヶ月間近くやっていた。内容は今回と同じ教科書を読んで訳す、ただ それだけ。僕は横で聞いて意味や発音を覚えていなさそうな、そして僕にとって珍しい英単語を書きとめておく。次は 教科書の単元ごとに覚えるべき文と息子のウイークポイントと感じた箇所を課題プリントとして作成し解かせる、もちろん 課題フリントには息子が覚えていないと思われる英単語の問題も入れておく。その教科書と課題の繰り返しの勉強会の 成果は年度末のテストでちゃんと出てきた。
僕は英語はまず教科書の十分な理解・次に教材による復習フォローと、冬の勉強会を通して英語の学習のやり方を伝えた つもりだった。だが残念ながら僕の意図した内容は伝わってはいなかった。息子は5教科総ての学習方法として教材による 予習・復習を中心のやり方に選んだ。息子に教材の活用状況を見せてもらった時、英語以外の4教科はこのやり方を 続けていればそれで十分大丈夫だと確信した。しかしこと英語に関しては、深考がない・浅過ぎると見た、訂正の雑さにも それが出てた。2年の中間テストにもそれがそのまま結果として出た。別に息子が英語をがんばっていないとかじゃない、 でも息子の英語の学習のやり方には何かが足りないのだ。
僕はまずい・このままでは息子の英語は伸びないと思った。だから夏休みに息子との英語の勉強会を 再開しようと決めた。
ところが息子は現時点の自分の勉強のやり方に自分自身では十分に納得している様で僕との英語の勉強会には乗り気で なかった。それでも夏休みにはいり息子との英語の勉強会は5回はやった、まあお互い我慢比べだったのかも しれなかったが。その5回目息子は約束は忘れていたしガムをくちゃくちゃかみながらだったし更に乗り気ではなかった、 「分からない。」を繰り返した。クラブでの試合・練習続きで疲れがピークに達していたのかもしれない。だけど僕には それがやる気がないと映った。並び替え問題だから分からないはずはないのだ、考えようとしてないだけだ。それで妻が 部屋に入ってきたのをきっかけに「今日はもう止めよう」と言うと「分かった。」とあっさりしたものだった。息子がここまで 僕との英語の勉強会に乗り気でないとは、やっても意味は半減息子の英語の学習意識の改善には繋がらないと感じた。僕は 妻がよくしげしげと言っていた塾の話を切り出した。
息子が約束の19時半に僕のところへ来なかった時点で今日の勉強会を延期する選択肢はなかったのか?。僕にはなかった、 今日を外したら夏休み中にProgram4(1学期にここまで終わったとの事)まで終わらないと考えていたから。
もうこれで僕から息子に勉強会を持ちかける事は今後もうないだろう、寂しいけれど。妻は「成長期だから こんなものよ。」と言うが、部屋に呼びつけて尋ねないと会話が成り立つ事はない子供たちと僕、日常会話の中にいる妻と 子供たち、この大きな違い分かる?。

レスパイト入院
僕は入院している間暇な時は天井の模様を眺めながらあるいは目をつぶりながらいつも色々な事を考えて暇つぶしを している。今回のGW中のレスパイト入院ではパソコンを持ち込まなかった(大きいパソコンは置く場所がないし邪魔になる・ このノートパソコンは落ちてもし壊れでもしたら困る・昔のノートパソコンは今のところマウスしか使えないので今はもう 使う事が出来るかどうか)のでなおさら考える時間が出来てしまった。
今回レスパイトの間天井を見ながらしていた事は、@小倉百人一首を覚える事A日本史年表を思い出す事B世界史で 習った事を思い出す事C過去の思い出に浸る事&もし病気をしてなかったら今頃何をしてたと考える事。
ただ百人一首は空で覚えているのは七首だけ、どうやって増やすの?。日本史も結構忘れてしまっていた。世界史は元々 覚えていないから考える事自体難しかった。もしもこんな病気でなかったらこの連休中は家族で山に登り大潮の日には 息子たちを連れて海へ行き潮日狩りや岩場で蜷(巻貝)を取ったり石蠣を石で割って海の水で洗って食べる、連休の内一日は 親父や息子たちと一緒に田んぼへ行き百姓の仕事を教えてもらう、・・・とか色々空想を膨らました。でも・・・・・ 最後はどんなに創造しても結局は何も何も出来ないと悟る事になる。でも入院半ばには天井を見ながら考えていても 突然目の前で白い物が弾け飛んで以後は頭の中に何も思い浮かばなくなってしまった。一度目の前で弾けたらそれからは 何度考えようとしても何も思い浮かばなかった。
そんな日の入院7日目妻が3日ぶり顔を出した。そして次の様な事を口にした。
@「おかげで久しぶりにみんなと色々なところへ行って一緒にゆっくりと遊ぶ事が出来た。」。みんなは楽しかったかも しれないが僕は寂しく暇してた。僕だって時にはみんなと遊びに行きたい・・・・・。
A「もう少しで退院だから。」。どこがもう少し?、まだ入院半ばも過ぎてはいないのに。妻は連休が終わりいつもの日々に 戻って一区切りついたかもしれないけど、いくら世間が連休だといっても僕はこの間ずっと天井を見ながら考え事をして 過ごしていたのだから。そして僕にとってはようやく6日過ぎだけ、入院期間はまだ半分以上残っているのだから。 それなのに「もうすぐ」なんて言葉の使い方はおかしいと思うのだ。
また妻は僕のところへ来ても30分模したら「もう帰らなくちゃ。」と口にする。これじゃあ妻が僕のご機嫌伺いに来たのか ただ単に用事(洗濯物回収)を済ませに来たのか分からない。僕は一日中暇でいるのだから、来たときぐらい2-3時間傍にいて 僕の寂しさを紛らわせて欲しい、僕は妻が黙っていても傍にいてくれるだけで幸せな気分になれるのだから。
今回のレスパイト入院中に胃ろうチューブを交換する事になっていた。今この病院では胃ろうチューブ交換は胃カメラ室 (内視鏡室)で行うものと定められている様である。以前は胃ろうチューブを外来に来た時に交換した後レントゲンで状態を 確認しそのまま帰ったなんて時代もあったのだが、過去に胃ろうのチューブ交換で何かトラブルでもあったのだろうか。 水曜日(13日目)9時半僕はそれなりの覚悟をして(胃カメラはしんどいのである、あの辛さは経験した者しか分からない) 主治医や病棟の看護師に見守られながら胃カメラ室に入った。胃カメラ室には二人の医師(執刀医師?と胃カメラ担当? 医師)と看護師が待っていて今までになく重苦しい雰囲気を感じた(今までは胃ろうチューブの交換自体は主治医が 行っていたから)。交換の直前僕は移動中から気になっていた事を主治医に尋ねた、「今日はアンビューバッグのままで するのですか?」と。その間に執刀医?は交換する胃ろうチューブを箱から取り出してみていて「ジャンパータイプか。」と 呟いた。その言葉に主治医が鋭く反応、「ジャンパー?、バルーンを指定していたはず。この患者さんは以前 ジャンパーにして出血をした事があるから。」と。しかしこれで延期が決定、僕らはこのまま病室に戻る事になった。でも 僕がもしあそこで質問をしていなかったら交換までは行かなくとも注射の1本は打たれていたかもしれない。病室に戻った後 発注担当部署の看護師長や担当看護師が謝りに来たりして大変だった。胃ろう交換のための入院は今回の入院の1週間延長・ 近い内に2泊3日で短期入院・次のレスパイト入院時まで持ち越しの3案が提示されたが、入院中に何もする事がなく 飽き飽きしていたので入院の延長はなし。前回胃ろうチューブを交換してからもう1年以上経つから妻は出来るだけ早い方が いいとの主張だったので時期レスパイト入院時も没、それで日程を各方面と調整した上で出来るだけ早くに 決めようという事になった。
ということで今回のレスパイトも無事?終了した。

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2009年

スキンシップのつもりだったけど?
子供たちが学校から帰ってくると僕は必ずといっていいほど「どうだった?」と尋ねる。僕にとっては子供たちとの数少ない コミュニケーションそしてスキンシップの機会だと思っているが、子供たちはそうは捉えてはいなかった様だ。向こうの 部屋で「疲れて帰ってきているのに荷物も下さないうちに文字盤を使って会話させれてますます疲れてしまう。」と嫁さんに こぼしてるそうだ。
嫁さんは「(息子も)思春期に入っているから話したくない事も色々あるのよ。自分は中学生になっても親と話していた?。」と 子供たちをフォローするが、絶えず自分の部屋閉じこもっている(しかない)僕とはかなり事情が違う。僕も中学生になると 親とは必要最低限の事しか話していなかったと思う。けれども朝晩の食事時や居間でテレビを見ている時は家族同士が お互い目の届くところにいていつでも会話は始められた。でも今僕は家族の日常の生活の場とは別の空間にいて、呼んで わざわざ来てもらわないとコミュニケーションは成り立たないのだ。子供たちにもそれぞれ独自の行動があるのだから、 どうでもいいことでも何か話がしたいなといちいち呼び出すよりも学校から帰ってきて「ただいま。」と挨拶に来た時に 呼び止める事がお互いに最も効率的だと思っているのだが。
でも子供たちがそんなに嫌がっていると分かったからは寂しいけれど自粛するしかないなぁ。

僕の命ももうあまり長くはないな
僕の部屋の室温は25℃以上あるっていうのに、首にはタオルを巻き方にはバスタオルを二重にしてかけ厚手の毛布と厚手の バスタオルをかけて寝ているっていうのに僕は寒くて堪らない。それどころか日に日に寒さが身に凍みる様になってきた。 僕の命ももうあまり長くはないな、とそんな気がする。せめて順番だけは守りたかったのだが、それはまああっちの世界で 謝る事にしよう、あればの話だが。
まだ死にたくないし死ぬのは怖いがこれも運命だと思ってそろそろ覚悟を決めなければ。さあ残されたあとわずかな時間に 僕は何ができるのか何をすべなのか。多分泣いている時間はもうない、今すぐ始めなければ。
まずは妻への感謝の言葉と先に旅立つ事や子供たちの育児を任せっ切だった事を許しを請う言葉・これからも一人になるけど 頼む旨を読める形で残さなければ。子供たちにもみんなで仲良くがんばれという事・お母さんやおじいちゃんや おばあちゃんを頼むという身勝手なお願い・子供たち一人一人のその成長に見合った時々に送る言葉を残しておかなければ ならないと思ってはいるのだが・・・・・。

僕に楽しみはあるの!?
最近暇で何にもしていない時・入院していてやる事が何も無い時にボーっとしながらずっと考えていたのだが、何の楽しみも 無くただ死に向かっていっているだけの僕が何故にこうして生き続けているのだろうかと!。会いに来てくれた多くの方々が 「お子さん方が立派に成長していっている姿は見ていて楽しみですね。」とよく声をかけていかれるが、子供たちの成長ぶりを 見る事は僕にとってもその時々の喜びではあっても僕自身の楽しみでは決してないと思うのだ。僕にとっては喜び≠楽しみで あり、喜び=短期的なもの・楽しみ=長期に渡るものの様なのだ。
それに妻はよく「年寄りは食べる事しか楽しみがない。」と言っているが、ある意味でそれは当たっていると思われる。 入院している時同室のお年寄りの方々を何とはなしによく見ているのだが、入院しているお年よりの方々が嬉しそうな 顔をするのはお孫さんや曾孫さんが会いに来てくれた時と食事の時だけ。それを見ていると僕と同じ様に棺おけに片足を 突っ込みただ死に向かっていくだけの(病気の)お年寄りの方々にとって食べる事が確かに最大級の楽しみのひとつ なんだろうなと思えてくる。けれど首に管をお腹にチューブをつながれた僕は食べる楽しみもない。いっそのこと経管栄養の 代わりにもっと短時間で栄養補給する方法があればもっと楽で時間も無駄?にならなくて済むのに。
暇だからテレビで旅番組やグルメ番組・料理の番組を自分ではチャンネルを変えられないからそのまま何気なく 見ているのだが、独身時代を思い出し自分でもあんな料理を作りたいという気になってくる。子供たちは僕が料理を 作っていたなんて思ってもいないだろう。僕の子供の休みの日の朝昼にはお袋が7時半には仕事に出かけていた事もあって 台所に立っていた、そうしないとおかずは漬物だけだった。自分の食べたいものは自分で作るそれが当たり前だった、 まああの頃僕が作れるものといったら玉子焼きと棒ラーメンぐらいだったが。でもあの頃自分で作っていた事が大学時代の 自炊へとつながり、大学時代お袋の手料理と味を思い出しながら自炊してた事が僕の料理のレパートリーを増やすとなった。でもうちの子供たち特に息子たちは台所に立とうともしないし立たせようともしない。これで良いのか・・・・・、息子たちがい 将来一人暮らしをする時にどうするのか・・・・・、心配になる。
今回入院していた時に珍しく高校生と同室になった。彼は病気については当然の事だがかなり気になっている様で夜も 眠れないほど落ち着きがなくかなり落ち込んでいたが、友達がひとたび見舞いに来ると雄弁に鳴りその明るさといったら 前途洋々という感じで楽しみいっぱいの人生向かって行っていると見えた。やはり片足を棺おけに突っ込んでいる 僕らとは違うなあ。
何の楽しみもないこんな人生をいつまで生き続けていかなければならないのかと考えていくと 結局いつも次の事に行き着く。
・子と生まれたからにはばあちゃん(今年多分105歳)や両親より先に逝ってはいけないな!
・子供をもうけたからには子供たちがそれぞれ自立するまで(僕は高校を卒業したらひとまず一人暮らしさせたい)は 自在にコミュニケーションが取れる今の状態を保っていたいな!
その後は・・・・・、どうでも良い、というより誰にも迷惑をかけなくて済む所に行きたい・・・・・。
最近は前途に希望も何も持てないからもろもろに何もやる気が起きなくて・・・・・。

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2008年

見舞に来た時下の息子は
今日妻が病室に息子たちを連れてきたのだが下の息子はいつもの様にベッドに頭をくっ付けぐずぐずしていて僕の 呼び掛けに反応しようとしない。ようやく僕の傍に来たと思ったらふてくされた様な顔をして文字盤を使い出した。 そこでついに堪忍袋の緒が切れて僕は言ってしまった、「そんなに嫌なら始めから来るな!!」とお兄ちゃんに 代弁してもらって。
でも僕は下の息子が見舞いに来て病室に入った途端眠そうな顔をしたりぐずぐずしたりする彼の気持ちが分かる様な気が するのだ。彼は以前「病院は消毒臭いから嫌い。」と言っていたがそれが彼の言動の要因になっているとは思えない。 おそらく彼はこんな病気の僕でも僕が父親が病院にいる事自体が嫌なのだと思う。レスパイトで入院するって事が 僕の病状が悪くなって入院するのではないって事ぐらい4年生の彼にはもう分かっているはずだ。それでも・・・・・。
もう三十数年前の事だが夜中に親父が吐血して救急車で病院に運ばれた(この騒ぎの中僕は目も覚めず朝この事実を 知ったのだが)。そして親父は胃潰瘍で胃を三分の二切除する大手術を受けた。親父の入院していた病院は僕が通っていた 高校の通学路のすぐ側にあったのだが、しかし僕は一度たりとも親父の見舞いには行かなかった。しかもお袋が幾度となく 親父が親父の所に寄って来るようにと頼んでもだ。今でも親父はその時の事を良くは思っていない様で時にはぶつぶつと 愚痴をこぼしている様だ。
だが何故僕は親父の入院している病院へ行かなかったのか?・行こうとはしなかったのか?。僕は親父に有無を言わさず 田んぼの手伝いや海や川に貝取りやツガニ取りに連れて行かれたものだ。そんな僕にとって親父はいつも・いつまでも 強い存在だったのだ。それだけ僕のイメージの中で強かった親父が病院のベッドに横になっている姿なんて僕は 見たくもなかったし弱っている親父の姿なんて僕の中にある強いはずの親父のイメージに加えたくはなかった。
下の息子もおそらく同じ様なものだと思う。レスパイト入院の場合病院にいても家にいても僕の状態は変わらないのだが 同じ病室の患者さんたちと一緒にいる僕の姿を見ると僕が弱っている様な気がするのだろう。

子供たちは誰似?
上の息子が部屋に入って来た時にヘルパーさんが「君はお母さん似なのかなあ?」と聞いていた。僕がこれまで聞いていた ところによると上の息子が僕の幼馴染のおばちゃん連中に会った時にはよく「お父さんの小さい頃にそっくり。」と 言われていた様だし、息子もそう言われて満更(不快)でもなくどちらというとお父さん似と言われる事を喜んでいる 風だった。そこで慌てて僕が「僕似」と打ち消しておいた。
一方下の息子は「おじいちゃんに似ていると言われた」と言っていた。そういえば僕も小さい頃はよく「寛蔵やんのう孫。」と 呼ばれたものである。その時分それはそれで悪い気はしなかったと記憶しているが息子は果たしてどうだろうか。ただ僕が 覚えている祖父の顔は本家の壁に掛かっている写真だけ、それに比べれば子供たちは幸せだと思ってくれなければね。 まあその分祖母が今まで40年以上長生きしてくれているが。
数年前幼馴染(男)が十八夜に遊びに来てくれた時に下の息子の言動を見て「(僕の)小学生の頃とそっくり。」と 言った事があった。その時から改めて息子たちを見ていて気が付いた。上の息子は先天的な性格が僕によく似ている様だ。 それに対して下の息子は顔は義弟の子供の頃に似ているというがガタイと後天的な性格が僕によく似ている様だ。 ま、逆に下の息子の先天的性格と上の息子の後天的性格は妻から受け継いだものと思われる。
それにしてもお姉ちゃんはどちら似?。いずれにしても子供たちには僕らの良い所だけ似て欲しいし僕等の言動・行動を見て 自分で良いと感じた所だけ受け継いで欲しいものだ。

教育方針?の違い
僕と妻とでは子供たちの育て方や教育に関する捕らえ方・考え方がかなり違う。この違いはどこから生まれたのだろうか?、 妻はこんな僕に父親としてこの方面にどこまで動いて欲しい・言って欲しいと期待しているのだろうか?。
僕は子供たちに行動にしても勉強にしても基本的に自分の責任で動いて欲しいいや動くべきだと思っている、そして親は 精神的・経済的なバックヤードを整えてやれば良いと。よく遊びよく学べ、それが中学までの本来のあるべき姿だと 思うのだ。そりゃあ勉強は出来ないより出来た方が良いに決まっている。でも勉強が出来る出来ないは本人の勉強に対する 考え方・やり方・取り組み方次第、個人の能力に差がある事は確かだから理解するのに時間的な差は生じるだろう。 でもある水準までは諦めさえしなければ誰でもなれるはずだ。後は自分にあった能力や技能を見つけて自分で伸ばせば 良い。ただ『働かざるもの食うべからず』の諺のごとくお金の持つ意味とお金の働きだけは正しく伝えなければならないと 思っている。
一方妻は勉強する環境を具体的に整えてやる事までが親としての責任だと思っている様だ、子供にとって役に立つ教材は 何かを十分に情報収集してこれはと思う教材を揃えていった。昔学研の学習やみんなの科学で遊ぶ一部の同級生を 尻目にかって欲しいと口にしてはいけないと思っていた僕の子供の頃とは大きな差で羨ましい限りだが、 家の子供たちは妻の心遣いのありがたさと想いを分かっているのだろうか?・感じているのだろうか?。
それにしても僕と妻との想いの違いはどこから生まれたのか、育った環境の差なのかなあ。僕は勉強の仕方にしても 進路にしても自分の思う通りにやってきた。今にして振り返ってみるとあの時ああやっておけば良かったと思う事も あるがこの道は全て自分で選択した道だ、自分で選んだ道の責任を自分で取るのは当たり前の事だ。子供たちには 自分の道は自分で自分の意思と責任で選んで欲しい。

娘が吸引
あの出来事にもかかわらず娘がまた僕の吸引をしてくれた。嬉しかった!!。
娘は僕が思っているよりズーッと強くそして逞しく成長していたようだ。知らぬは親父ばかり也か!。
息子たちも僕が気付かない内にきっと成長している?。そういえば下の息子もいつの間にか背が伸びたなあ。

エアコン
エアコンを27℃の冷房に設定しているといつの間にか身体から熱が奪われてしばらくするといつも寒気がしてきて 鼻づまりになる。エアコンの28℃冷房設定は動き回っている妻には暑いのだろうが、僕は動けなくてベッドの上で 常時じっとしているしかないし元来身体から肉と脂肪を喪失した僕の身体とは熱の捕らえ方・放出の仕方が違い過ぎるのだ。 情けない身体だと思うが自分ではコントロール出来ないししようがない事なのでその辺は分かって欲しいのだ。

諍い・想いのすれ違い?
僕が妻の事を一番頼りにしている事は 分かっているはずだ、妻自身が充分肌身に感じているはずだ、僕が一々口に出さずとも分かっているはずだ。それなのに 何故妻は娘に吸引の仕方を教えようとしないのか?、自分の信頼出来る分身を作ろうとはしないのか?。あんなに 激しい口調で(医学・看護の見地からの)「清潔・不潔」を指摘したら折角僕の吸引をやってもいいかと思い始めた娘が二度と 吸引をしようとはしない恐れがある。はたしてどうなる・・・・・。
妻の言っている事は正しい。吸引を教える際はまず「清潔・不潔」を正しく身に着けさせなければならない。それは僕も 十分分かっている、でもそれを厳密に言い過ぎると大多数が「出来ない」吸引する事に尻込みしてしまう。だから僕は 家族やヘルパーさんに吸引を覚えてもらいたい時は正しい手順で吸引しさえすれば気管からの吸引は難しくはないと 感じてもらうのが先と思うのだ。そこが看護師だった妻との見解においての大きな相違だろう。
僕の考え方が変わったのはほぼ2年前だ。それまではいつも吸引にはかなり神経質でやり方を目で常にチェックしていた。 外来で初めて接した看護師に吸引の手順が違うと意見した事もある。病棟に入院している時も吸引の操作・手順で 気になる看護師が数人いたのでいつか病棟の看護師長にその事を指摘して病院の吸引に関する看護師に対する指導は どうなっているのかと意見を求めるつもりだった。でも2年前のある日気が付いた、病院で吸引のやり方が変わった (セッシからソフトグローブを使うように変わりカテーテルが使い捨てになった)時に気管からの吸引の「清潔・不潔」の 基準も変わったのだと。だからあまり「清潔・不潔」を気にしても仕方ないと思う様になった。
今はお袋にしても娘にしても吸引してくれる時は準備をどうしているのか見えない事もあるがセッシを落とす等よほど 不潔な操作をしない限りは細かな事は指摘しない様にした。その結果もし肺炎等を起こしたとしてもそれを運命だと 思って受け入れるつもりだ。

ささやかな幸せ?
先日二日続けて下の息子がむくんでパンパンに腫れ上がっている僕の左手をベッドに添い寝して懸命に揉んでくれた。 その動作はぎこちなく若干痛い時もあったけれど精神的気持ち的に心地良かった。息子はしばらく揉んだ後「少し小さく なった。」と言って「いつもこうやって揉んでいれば元の様になる?。」と聞くのだが果たしてどうだろうか?。でもこれを ささやかだけど幸せな気分と言うのだろう。
昨日はお袋に促されて娘が気管切開部からの吸引をしてくれた、これまで吸引の前後の準備と後片付け・サイドからの 吸引は時々してくれていたのだが気設部からの吸引は初めてだった。嬉しかったし思っていたより上手かった。それに 今日娘と上の息子が傍でパソコンをしていて吸引する必要が生じた時にお姉ちゃんが自ら「やってみようかな。」と言って 吸引してくれた。傍にいた息子に「その内お兄ちゃんも吸引出来る様になって欲しい」と言うと、「姉ちゃんが高校生に なったらしなければいけないね。」と肯定的に捕らえていた。
子供たちの将来や今現在および今後の生き方・生きがい・行動に制限を与える様な事はしたくもないしするつもりもないが、 こんな風に子供たちが次から次へと僕への吸引や介護のやり方を覚えて助けてくれるとしたらこんなに幸せな事はない。 やはり家族は出来るだけ助け合っていかなければならないと思っているから、まあ僕が家族は助け合いが必要だと 思い始めたのは大学三年になってからだけど。

娘の気持ちは?
夜10時前娘が「日曜の今頃帰ってくるね。」と言って鹿児島(の何所かは?)でのクラブの対外試合合宿に出かけて行った。
娘が2泊3日の合宿で鹿児島に行く事は昨夜遅く妻から聞かされた。ついでに娘が最初は合宿の参加を断っていた事・ 友達から参加しないのは娘だけだと言われて参加する事にしたのだとも聞かされた。でも娘はどうして僕には何も 言わなかったのか?。家の経済的な事を心配したのか、子供たちにとって必要なものにはお金を支払う経済的余裕は 十分あるつもりなのだが娘に心配させるとは情けない父親だ。それとも僕が娘の顔を毎日見ないと寂しがるとでも 思ったのか、寂しいのは寂しいけれど娘が何も言ってくれなかった事がもっと寂しい。何にしても娘が子供たちが必要だと 感じる事はもっともっと気軽に話して欲しいものだ。

自殺者多数
最近硫化水素による自殺者が後を絶たないとニュースをよく耳にする。また先日高校の時の同級生が自殺したと妻から 聞かされた、硫化水素によるかどうかは知らないが。高校の同級生といっても僕は顔を見た事はあるという程度なのだが 妻によると積極的で責任感もある性格だった様だ。その生真面目な性格故に悩み苦しんだ挙句人間が持つ個々の キャパシティを超えてしまって病気になり追い詰められ自分を追い詰めた結果自殺という道を選んだとの様だが、 身体を動かす事の出来ない状態にある僕らから見れば動ける身体を自ら捨てるなんてたとえ心の病を発症していたとしても 大馬鹿野郎だ。不謹慎な言い方だが捨てるくらいならその身体をくれと言いたいところだ。
身体さえ動けば何だって出来る何度でもやり直せる、今の状態に苦しみの要因があるなら捨てれば良い、捨てて新しいところで 家族と共に最悪ひとりででも新しい状態をまた作れば良い。残された側から見ればどんなに言い繕おうとも捨てたのと 同じなのだから。どうして身体が動かせる事の喜びとすばらしさを味わおうとしないんだ・働けるって事だけでも幸せなのだと 分かろうとしないんだ。まあ身体が動かせる間はその有難さに気付かないものだが。
これから自ら死への道を選択しようという若者よ、その前に僕にメールをくれないか。動ける事の有難さと君たちが この社会でどれ程必要とされているかを一緒に考えてみようよ。

僕の身体に何かが起こっている
この頃僕の身体がまた変わってきた。春になって十分に暖かくなってきているのに僕はいつも寒さを感じている、肺の中から 寒さが全身に広がっていったかの様に身体中が寒々?してブルブル震えている。まるで雪山の山頂で目一杯深呼吸を した時の様だ。僕の身体の中でまた何かが起こっている様だ。
僕の身体は病気になって肉が落ちやせ細ってからは外気によって僕の体温も左右される変温動物の様になってしまった。 それでも室温さえ上手く保ってさえいればそれほど暑くも寒くも無かった。でもここ1年ほどの間に寒くてたまらない様に なった。特に経管栄養が終わって数時間が経つと途端に寒さを感じる様になってきた。おそらくエネルギー切れを 起こす様になってきたのだろう。でもここ数年で体重も5-6kgは増えているのに今さら何故?。それに最近は右手薬指の 動きも悪くなってきた。もうすぐ手ではパソコンも入力出来なくなるだろう。寂しいし悔しいな!!。

下の息子にとって僕は?
下の息子にとって僕はどういう存在なのだろうか?。姿かたちだけ残っている置物のような父親?、でもそれは下の 息子にとっては仕方のない見方なのかもしれない、なにせ僕は彼に父親らしい事は何一つ出来ていないし していないのだから。下の息子とは手を繋いで歩いた事もないし抱っこやおんぶをした事もない、お馬さんや飛行機をして 遊んであげた事もないのだから。
もう9年ほど前まだ福岡に住んでいた頃の事、一度だけ1歳になったかどうかの下の息子を抱っこしてマンションの部屋を 出ようとした事があった。ところが玄関のドアを出たすぐのところで手の力が急に入らなくなり幼い息子を頭から 真っ逆さまに落としそうになった。その時は幸い息子の両足のすねのあたりを両腕と胸の間に挟んで逆立ちに吊るして しまったが落とす事はなく大事には至らなかった。けれど自分のしでかした事にぞっとしたし生きた心地がしなかった。 それからの僕は子供たちを抱っこする事はなくなった。
今下の息子は何か分からない事があっても父親としての僕に尋ねて来る事はない、相談をしに来る事も僕が呼ばなければ 話をしにくる事もない。僕は息子にとって母親との遊びやお出かけの邪魔をするだけの存在なのかもしれない。そんな僕が 今後どうすれば父親としての役割を果たす事が出来るのだろうか、どうすれば親父らしい背中を見せる事が出来るのか?。 僕は親父の背中を見て育ったのだから僕も子供たちに生きていく背中を見せたいものだが・・・・・、なかなか難しいなあ。

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2007年

籠の中の鳴こうとしないカナリヤ
あまりも自分の想いと回りの想いが違う事が続いていくと段々気がめいってくる。その上僕の言う事には耳を貸さない・ 貸したくても出来ないとなると、もう僕は何かを言おうとする気力さえなくなっていった。
口に出してもどうせ何も変わらないのなら最初から何を聞いても馬耳東風で口を噤んでいた方がいい、今回入院して嘔吐・ 下痢症の感染者に決められるまでの過程や人工呼吸器の二転三転する話の中でそう思う様になった。
だから僕は『籠の中の鳴こうとしないカナリヤ』になると決めた。今の僕の心の中は人間不信の嵐がかってない程 大渦を巻いている。

面白い事がもうない世の中で何故・・・・・
お袋が「ばあちゃんはいつも苦虫を噛み潰した様な顔をしている。何故・・・・・?」と言う。けど僕には分かる様な気がする。 「生き続けていても何も面白か事はなか。そいでなんで生きとかないけんとか?。」とでも言うのだろう。そうなのだ今のまま 生きていたって面白い事は恐らく何もないだろう。面白い事が我が身には起こらないこんな世の中をこれからも何故・ どうして生き続けなければいけないのか!とこのところいつも心に疑問を抱えている。
僕は心が広くない人間だから他人が面白がっている様子を見ると羨ましく思うし妬ましいし嫉妬する、たとえそれが家族で あっても。そんな僕を自分自身でも浅ましい・どうしようもない心の持ち主だと思うが、こればかりは如何する事も 出来ないなあ。!

ライトプレーンの行方?
息子たちやその友達を外で遊ばせ様と思ってライトプレーンを買ったのだが・・・・・、やはり無駄だった。まあライト プレーンは来年でも作って外で遊べるから・・・・・、まあ・・・・・。
でもお正月には和凧は作って外で飛ばして遊んで欲しい、正月ぐらいは日本の正月らしい遊びをしてもらいたいと思って せっかく買ったのだから。こんな事を地道に子供たちに伝えていかないと日本のお正月の風習はいつの間にか お年だけになってしまうかもしれない!。

祝祭日のヘルパー利用について
ケアマネージャーと嫁さんとが話して祝祭日にヘルパーを利用しないかと進めに来た。しかし痰の吸引の契約をしていない ヘルパーが祝祭日に単独で来て何をするというのか?。洗顔・整髪だけなら一日ぐらい伸び放題でも僕はちっとも気に ならない。元々僕の髭の伸び方はあまり早くない、休み明けにケアに来てくれた方がよく「朝髭を剃ってもらったの?」と つぶやくのを聞いたものだ。
元来訪問に入ってもらうのは家族の介護が少しでも楽になる様に、出かけたりしてリフレッシュ出来る様にするためだ。でも 痰の吸引が必要なる毎に互いのコミュニケーションが取り難くなる度に嫁さんやお袋を呼んでいたら二人の気の休まる暇が 取れない。それこそ時間と介護保険費用(家も町も)の無駄遣いだ。
もし介護事業所の理解が得られてヘルパーさんとの痰の吸引の契約が結べるのなら、お互いにコミュニケーションを 取る努力をしながらヘルパーさんに日曜祝祭日だけではなくてもっと多くの時間応援してもらえるのに。その時は 最低2時間はいてもらって必要に応じて痰の吸引と排泄解除、それにパソコンのスイッチ類の設置応援、時には 話し相手になってくれたらいいな、それ以外の時は本でも読みながら傍にいてくれるだけでいいのに。ついでに日曜 祝祭日は洗顔・整髪・手足の曲げ伸ばしをしてもらえれば嬉しいのに。

どうしてそんなに機嫌が悪いの?
朝いや最近は午前中いっぱいの事もよくあるけどどうしてそんなに機嫌が悪いの?、忙しいのは察するけれど。そして 自分では気付いてはいないのかもしれないけれど顔色を見ている者もいるんだよ。そんな顔をしていたらみんなの元気も 出なくなっちゃうよ。エンジンだしバロメーターなんだから。
「そんな不機嫌そうな顔を見てニコニコ出来ると思う?。」と僕によく言ってたけど、僕も入って来た時の顔を見て声を 聞いて反応するんだよ。鏡の様なもんだよ、みんな。「子供たちに対してはいつもニコニコしてる。」って言うけど、 あれは子供たちが無邪気な顔でいつも僕を見てくれるから。
僕だって夜は笑顔を見せるだろ、それだって鏡だから。

僕はなぜ生き続けているのか?
僕は今なぜ生き続けているのだろうか?。最近よく疑問を感じて自問自答しているが、出口は一向に見えてこない。僕の ホームページの表題に「いつの日か直る日が来る事を信じて待つ」と掲げているが、段々たいそれた事だと思えてきた。
僕はゲノム解析に大いに期待を寄せていた、原因や治療法は見つからないまでも何らかの糸口ぐらいは見出せるのでは ないかと期待していた。本年度はゲノム解析の最終年度の筈、なのだが・・・・・。何かが見つかったと言うニュースは ちっとも流れてこない。やはり僕が生きている間は無理なのかなあ。こんな希望も夢もない世の中でしかも僕がいる事で 家族内に不協和音まで生じさせているというのに僕が生き続けていることが本当に良い事なのだろうか?。僕がこの家から いなくなる事は家族が二つに割れる事につながる可能性が生じてくるのだろうが、家族が割れる事で家族間の不協和音が ほぼ無くなるのであればそれはそれで良い様な気もするのだが。それに僕がいなくても嫁さんさえいれば子供たちは立派に 育っていくと思うのだ、今だって外での事柄はいつだって嫁さんが一人で対応してくれているのだから。

健康な人には分からない、だんだん身体が動かなくなっていく事によって生じてくる気持ちの揺れ・不安は
限られた訪問看護の時間の中では出来ることも限られているし、人はどうしても楽な方に流れる。一度簡易リフトによる ベッドから車椅子への移乗は介護してくれる人にとっては楽だし僕にとっても多分身体は楽だろう。
でもただでさえ車椅子に座っている時間が短くなって肺機能が少し落ちてきているし足の指が次第に鷲になって きているのに、リフトを使ったらベッドの端に座ったり立ち上がったりする機会が極端に減ってしまう。
日ごろ自分で座ったり立ったりする事の出来ている人間は、座ったり立ったりする時脳から神経を通して筋肉へ 動けという命令が発せられ伝わっている事や関節や筋肉がきちんと動いているかを意識した事がないから座ったり 立ったりする事の大切さ・出来る事のすばらしさを分かっていない。命令を発する事が少なくなれば神経が伝え方を 忘れてしまい筋肉も座ったり立ったりする動きを忘れてしまう。たとえ車椅子に座らしてもらっていても常時背もたれに 背中をくっつけているからあまり体幹を使っていることにはならない。これは寝たままのリハビリでは補えない日々の 積み重ねで始めて維持できる事だ、関節は寝ていても動かせるけど。訪問リハビリが毎日来てくれて立たせて もらえるなら別だけど、それが出来ない今は訪問看護に頼るしかない。

「寂しさも 中ぐらいなり? おらが春」
今回3ヶ月の入院を経て退院してからというもの、嫁さんも子供たちも僕の相手をあまりしてくれなくなった。嫁さんは まだ首の調子が思わしくなく子供たちはそれだけ成長したということだろうと分かってはいるが、でも正直言って 寂しい・・・・・。コールを鳴らしても真ん中の子以外は「何か用事?忙しいのになぁ。」という表情が読み取れる。 用事がないと呼べない・用事がないとこない部屋になってしまったようだ、僕の部屋は。だから子供たちが出かける時と 帰ってきた時に挨拶しに一瞬顔を出してくれるのが嬉しいし、息子がたまに僕のベッドの上でごろごろしてくれるのが 嬉しい。
先日嫁さんが出かけるというのでためしに「寂しいなぁ。」と言ってみた。すると「何を今更馬鹿なことを言うの。」と 一蹴されて「最大のお友達のパソコンさんがいるじゃない。」と・・・・・。所詮動ける者には動けない者の本当の 寂しさは分からないのだろう。

NEGATIVE
会社に勤めていた頃の後輩のMの年賀状に最近の僕のホームページの内容が暗くNegativeになっていて僕らしくないと 叱咤激励してあった。まさにその通りなのだ、分かってはいるのだが・・・・・。
患者数の多い医学の領域や手術技術・他の科学の分野はこれほど目覚しく進歩しているのに、ことALSに関しては なかなか新しい情報が入ってこない、遺伝子の研究も5年計画の後半に入っているはずなのに何か見つかったという 話はほとんど聞こえてこない。その事に対し妙な苛立ちがあるのだ。
60までは待てるつもりだったのにもうしびれを切らしている、我ながら情けない話だ。

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2006年

今年得たもの・失ったもの
早いもので今年ももうあと十日余、少し振り返ってみると・・・・・。
得たものは、今日まで一年間何事もなく生きているという事実・子供たちの日々の成長・多少の紆余曲折は あったとしても家族が無事暮らしていけていること・少しばかり広がった人の繋がりの輪
失ったものは、嚥下の能力・運動機能における人には分からない理解できないかも知れないそれでいて自分にはそうだと 確認できているレベルで日々低下していっているという事実・訪問看護ステーションユートピアとの縁などなど
そして今薄れつつ失いつつあるものは、いつかは治って見せるという自信や希望・人を信頼あるいは信じようとする心 それに顔の表情かな。
最近の心情は、「To be or not to be,it's a question.」。いったい何故そしてなんのために・・・・・。

相性
相性はほんの些細な出来事?で変るものだと知った。たとえ相手がそれほど意識した行動ではなかったとしても、人の 心に暗い陰を落とすこともある。そして一度落ちてきた陰はなかなか晴れはしない、相手のことを心から信頼していたと したらなおさらだ。そして一度相性が合わないと思い出すと一挙手一投足の全てが気になりだすから不思議だ。あれほど 任せきっていたのに、あれほど安心できていたのに・・・・・。

ゲーム機
先日ついに痺れを切らしたのかお袋が「ゲーム機をカってやれ。」としつこく言い寄ってきた。周りがみんな 持っているのにうちの息子たちだけが持っていないのがかわいそうだし、いつもゲームをしに行ってよそのお宅に 迷惑をかけていて気の毒だというのがお袋の言い分だ。でもお袋はゲームをすることによって起こる弊害の可能性に 思いを巡らしたことがあるのかと言いたい。
僕は近年の若年層による暴力的な犯罪の増加の一因がゲームにあると思っている。家庭用テレビゲームで外でみんなで 遊ぶことを忘れた子供たち、それが引きこもりを助長しているし遊びを通して創意工夫することや集団行動における ルールの形成を阻害しているとは思わないのか。CG技術を駆使したリアリティのあるバーチャル画像のバトルゲームが 間違った倫理観に基づき自分より弱いものはゲーム感覚により暴力で従わせるまた排除してもいいと思う心を形成する 可能性があるとは思わないのか。うちの子もそうだが最近の子供たちは『殺す』という言葉をいとも簡単に使う。 あれも多分ゲームの影響だ。
テレビドラマでもそうだが人が登場人物に感情移入してしまうことはよくあることだ。昔のゲームキャラクターなら 漫画チックで現実離れした形をしていたので自分を重ねることもなかった。でも今のCGを駆使したバーチャル リアリティのキャラクターには感情移入してしまう可能性は大いにある。そしてバトルゲームでは殴られる痛さを知る事・ 感じる事なしに殴る手の痛み・心の痛みを感じる事なしに快感や爽快感だけを見につけてしまう。近年頻繁に起きている 青少年によるホームレス襲撃事件も犯人の成長過程においてバトルゲームが影響していると僕は思っている。最近の 青少年の自殺願望も人生もゲームのように簡単にリセットして生まれ変われると思っているからかもしれない。
外で遊ぶ方法はいくらでもあるし工夫次第でいくらでも楽しめるに、どこのうちも何故ゲームにこだわるのか。もし僕が 元気だったら、鎌やのこぎり・小刀などの使い方を教えて竹馬や紙玉鉄砲・パチンコやたこなどを一緒に作って 遊ぶのに。キャッチボールもして遊ぶのに。他の家でゲームばかりして迷惑をかけているとしたら他の形でお返し したらいいと思うのだが。僕は今度の冬休みに息子たちと彼らのいつもの遊び仲間に凧作りセットを買ってあげたら どうかと思っていたが・・・・・、予算の廻り合わせが着かなくなった???

我が愛しの子供たちへ
お父さんは病気で動けなくて働いていない我が身を恥ずかしいと思ったことは一度もない、ただ働くことを 通して社会に貢献することが出来なくなったことは社会に対して申し訳なく思うし、働くことが出来ない・ 働ける場がないことは寂しく思っている。
お父さんたちは今障害年金を国から受給してもらって生活しているが、そのことも決して恥ずかしいとは 思わない。これはお父さんが二十数年間懸命に働いてきてお年寄りを支えてきたことに対する当然の 権利だと思っている。だから我が愛しの子供たちよ、お父さんが今働いていない・働けないからといって 恥ずかしがる必要はまったくない、お父さんもお母さんもそれだけのことはしてきたし今も懸命に生きている。 もしお父さんが仕事をしていない・障害年金で暮らしているとあざけり笑う人がいたら年金を受け取っている すべての人・お年寄りを笑っているようなものだ。そんな人は社会のシステムを理解していない世間知らず・ 恥知らずだと反対に笑い飛ばしてしまえ。


最近よく夢を見る。年齢不詳、登場人物も中学の時の何でもなかった同級生が出てきたり勤めていた会社の 同期や先輩・仲間が出てきたりとばらばらだ。内容も支離滅裂。ただ、最初は呼吸器を着けて車椅子に 座っていてもいつの間にか元気に動き回っている。願望の現われ・ただの欲求不満???。

いじめと自殺
最近いじめによる自殺の問題がテレビでよく流れている。いじめは僕らの子供の頃もあったが、最近のいじめは 陰湿化しているようだし、もはや犯罪と呼ぶべきものも起こっている。なのにテレビでは一様にいじめと 呼んでいる。なぜはっきりといじめと犯罪とを区別して言わないのか。いじめと呼ぶことは当事者たちの罪の 意識を失くしてしまうあるいは小さくしてしまうではないか。埼玉や北九州のものはカツアゲだし恐喝の恐れも あり立派な?犯罪だし、富田林のものにしても会社の中ではセクハラという犯罪になる。何故いじめと犯罪を 区別しないのか、子供たちに犯罪だとはっきりと教えないのか。
それにしても、いじめによる自殺の問題もそうだし以前よくニュースに出ていたインターネットによる 集団自殺の時も思ったのだが、何故簡単に自殺するのか。生き続けていれば自分で動けさえすれば、 面白いこともいろいろ出来る可能性も大いにあるしやり直すこともいくらでも出来るのに。まして生き続けて いたいと思っていてもいくら自由に動きたいと思っていても出来ないものも大勢いるのに。不謹慎なことを 言うようだが、もし神様が実在するならどうしても死に急ぐ人と行き続けたい人の寿命と健康を入れ替えて くれても良さそうなものなのに。
一度子供たちにいじめと自殺の問題についてどう思うか聞いてみなければと思う。

親父
親父はとても不器用だ、酒の勢いを借りないとほとんど僕の部屋には入ってこない。僕が病気で動けなくなって 最も落ち込み続けているのは、多分親父だろう。
親父は家のため・家族のためずっと頑張り続けてきた。お袋と結婚して分家してある程度の田畑を 分けてもらってからは、それらを守り大きくすることを目標にまい進してきた。何のために? 分かりきったことだ。僕にできるだけ良い常態で渡してやるため、僕に残してやるために頑張ってきたのだ。
田畑を姉ちゃんよりもずっと多くいつも僕だけ手伝わせる両親に反発してこんな家は早く出て行ってしまいたい、 と思っていた時期もあったが、今は親父に百姓仕事を一から教えてもらいたい・親父と一緒に田畑や山に行って 仕事がしたいと思うがもう遅い。
僕は親父の背中を見ながら大きくなった。大酒のみで不器用な親父だが、僕はそんな親父が結構好きだし、 尊敬もしている。そんな親父の77回目の誕生日がもうすぐ来る。だが僕は何もしてあげることはできない。 寂しい限りだ。

バラバラ
心もバラバラ、気持ちもバラバラ。
思いがうまく伝わらない、うまく表現できない、どうしていいのか分からない。
何をしていいのか、何をしたらいいのか、何をすべきなのか、
それが分からない、それさえ分からない。
時間よ止まれ、いや、早く過ぎてしまえ。
何が起ころうと・・・・・

無力であること
子供にやる気を出させることさえできない、自分に力がないことをこのごろ改めて思い知らされる。もし 健康だったら、いやせめて言葉だけでも発することが出来たならばもっともっと分かり合う事もできただろうに、 僕のもいをぶつけることも出来たのに。子供を導いてやることもできないなんて、父親として失格だなぁ。 自分の無力さを知った今日この頃。

僕の部屋がうらやましい?
最近僕の部屋に訪れる人が部屋に入って来た時に何気なく「この部屋は別世界ですね。」とつぶやく。また 子どもたちが「お父さんの部屋涼しい。うらやましい。」と言う。確かに僕の部屋は冷房が効いていて涼しい。 それどころか風が少しでも当たるとかえって僕には寒いくらいだ。
僕がうらやましいことは全くない。僕にとっては汗を拭き拭きしながらも部屋を行き来できるみんなが うらやましくてたまらない。もし神様が僕に健康な身体を返してくれるなこの先エアコンのない生活を 強いられても構わない。
元々僕は独身時代はエアコンのない生活をしていた。初めて買った新車にもお金が足りなかったので初めは エアコンを付けなかった。それどこか部屋には扇風機も持っていなかった。それでも工夫をして暮らしていた。
暑くて我慢出来ない時は水風呂に入っていた。ただ一度だけどうしても暑さに耐え切れなくなって、自動車の 中でエアコンをかけて眠ったことがある。その後アイスノンを買って来て250l?(300l?)の冷蔵庫に入れて 冷やして夜頭に当てながら寝ていたものだった、丁度今一番下の子がやっているように。
人は一体いつからこんなにも暑さに弱くなったのか。確かに地球温暖化の影響で僕の子供の頃に比べると 0.数℃上がっているだろうし、大都会ではヒートアイランド現象で1-2℃上がっているとのこと。でも 自然界はまだしも人は0.数℃の変化なら十分に対応できるはずなのに。それなのにうちの子供たちでさえ 「暑いから外で遊ばない。」と言っている。また僕の子供の頃と比較してしまうが、子供の頃には暑い時には 子供心に涼しさを求めて山の中で基地を作ったり蝉取りをして遊んだものだ、川や小川に入って一日中魚とりを 楽しんだもんだ、おにぎりを作って人魚山へ行き頂上からヤッホーと叫んだものだ。そこで湧き水のおいしさや 自然の生き物と肌で触れ合う楽しさを感じたものだった。
今は家の中で遊べるものが腐るほどあるから外に遊びに行く必要もない。その上農地改良や側溝整備・ 河川整備が行われたために魚や貝がすめる小川がなくなったり、河川整備の影響で川や川底の形が変わり 棲む魚の種類や数もめっきり少なくなった。誰が何が悪かったのか。
幸い僕の住む町には自然もたくさんあるし、一度はいなくなっていた蛍も町ぐるみの洗剤に対する取り組みで 二十数年前に戻ってきて最近は僕の家のそばでも蛍が現れ始めた。この僕の住むでも自然が なくなっているのだ。
それにしても今年の夏の暑さはやせ細って変温動物になった僕の身体にはこたえる。なんだかんだと言っても エアコンなしでは今年の夏も超えられそうにないなぁ。

朝の出来事
僕の朝早い、いつも5時前には目が覚めている。目が覚めるといつもただ漠然と天井を見つめている。やがて カーテンの隙間から朝の薄ら明かりがのぞき始める頃、家の中の様子を窺い頃合を見計らって足でコールを 押して母ちゃんに来てもらう。そして吸引など麻の行事を一通りやってもらう。
それからパソコンのセッティング。パソコンの位置・ベッドの高さと身体の位置合わせや足の間に置くマウスの 位置合わせなど僕の要求は複雑で多岐多様なのだが、母ちゃんも今は慣れてきてうまくセッティングして くれている。朝のこの時間が足が最も良く動く時間なので今日すべき事や大切な事はこの時行うようにしている。 でもうまく入力できなくてなかなか思い通りに進まないので、時々いらついてしまう。
6時半に近付くと障子の向こう隣の部屋から子供たちが起きてきた声が聞こえてくる。最初の声はいつも一番 下の子、「おはよう」と言う大きな声が向こうの方から聞こえてくる。時には6時前に起きて来て僕の部屋に顔を 見せ元気よく「おはよう」と叫ぶことも。次はお兄ちゃん、僕の部屋にいつも顔を出し「おはよう」と声をかける。 時には僕の部屋で時間をつぶしてくれることもある。
7時を過ぎると出かける準備、下の子の「もう行ってもいい?」と聞く声が聞こえてくる。家を出るのも 下の子がやっぱり一番、みんながどこにいても聞こえるほどの明るい大声で「行ってきます。」と叫ぶ。だから 時には僕のところに来なくても学校に行ったのが分かる。次に出かけるのはお兄ちゃん、必ず僕のところに 顔を出し「行ってきます。」と言いに来てくれる。最後に出るのはお姉ちゃん、お姉ちゃんは学校に 行く時だけでなく出かける時は決まっていつも「行ってきます。」と言いに来てくれる。中学生になった お姉ちゃんの持ち物は多くて重そうだ。お姉ちゃんやお兄ちゃんが学校を休んでいる時は挨拶に来ないから すぐ分かる。一番下の子はほとんど休んだことがないから「行ってきます。」の声が聞こえなかった時には 聞くようなってしまった。
子供たちが出かけてしまうと家の中が静まり返る。そして7時半を過ぎたら、嫁さんがそろそろエンシュアを 持って部屋に入って来て「もういい?!」と告げる。早くパソコンを終わらせなさいと促しているのだ。 そこで僕はパソコンを終わらせる。
これがいつもの朝の風景だ。

ふれあい
心のふれあいは大切だけど、肌のふれあいも時には必要だ。嫁さんに車椅子からベッドに移譲してもらう時、 まれに嫁さんのほっぺに僕のほっぺが触れることがある。その時嫁さんのほっぺのひんやりした中に暖かさと やさしさを感じ取れて妙に嬉しくなる。僕は自分の手で自分の力では触れることはできなくなっているから 余計にそう思うのだろう。確か谷川建設のTVCMだと思うが、海岸で旦那さんが奥さんに向かって「おんぶして やる。」というほほえましく言うのが流れている。僕もいつか言いたいものだ。

居場所と存在意義・存在価値
最近会社一筋で生きてきた男が、定年を迎えた途端無気力・無関心になったりして、挙句の果てには蒸発したり 痴呆の症状が出てきたり熟年離婚されるケースが急増しているという話をTVでよく聞くようになった気がする。 会社では社会的地位を認められていた男が定年を迎え何もすることがなくなって家の中でごろごろとしていると、 家族からは粗大ごみ扱いされる、身につまされる思いがする。今まで仕事一筋でこれといった趣味も持たず ご近所活動をしてこなかったために、会社という居場所がなくなった途端唯一の居場所と思っていた家でも 粗大ごみ扱いで家が自分の居場所でないことが分かって驚き、自分の居場所が無くなり存在意義・価値が薄れていると いる事を初めて知り驚愕・愕然としていると言ったところか。
最近僕も居場所がない気がしている。僕の部屋は異次元空間、形はあっても同じ次元には存在していない、 みんなと空間や次元を共有していないそんな気持ちに捕われて仕方がない。僕の被害妄想だろうか。
居場所がないと感じることは自分の存在意義や存在価値があるかどうかに疑問を感じてきているということ。 自分が家族や家庭・両親やご近所・地域や社会にとって存在する意義や価値があるか、いやそれよりもむしろ 存在していてもいいのかということ。粗大ごみよりももっと厄介な存在の本当に動けない僕が果たして 生きている・生き続けていく価値があるのだろうか?何らかの形で家族の役に立ちたい、社会に貢献したい、 存在する意義を示したい。社会におんぶされたまま生きていくのは嫌だ、それではあまりにも辛い辛すぎる。

親父の顔
今回の発熱中一時的に薬が効いて熱が収まっている時に、急に親父が僕の部屋に入ってきて「大丈夫か?」と 声をかけた。親父が僕の部屋に来る事は同じ一つ屋根の下に住んでいてもほとんどない事。その時久し振りに 親父の顔をまともに見た。親父の顔はさらに小さくなってしわも増えていた。
親父の顔を見ると今まで親父が大事に守ってきた家や田んぼ・畑や山などを受け継げなくて申し訳ないという 思いが頭をよぎる。一緒に働いて百姓仕事を教えて欲しかったし一緒に楽しみたかったという思いが頭に浮かぶ。 親父が僕の部屋にあまり近付かないのはそんな僕の寂しさを親父も感じ取っているからかもしれない。
少し前になるが、本家の伯父さんの三周忌が行われた時に兵庫と宮崎に住む叔父さん達が僕の部屋に顔を出した。 親父の6人兄弟はじいちゃん似とばあちゃん似に見事に分かれていた。そして宮崎の叔父さんはじいちゃん似の 本家の叔父さん系の顔だと今までずっと思い込んでいた。それが5月の連休の後にも来て僕の部屋を再び訪ねて 来てくれた時によくよく見ると、顔をもう少し細くしてしわを増やせば親父の顔に瓜二つだった。結局今も 元気なのはばあちゃん似の親父系の顔をした4人。早く良くなってばあちゃんを囲んで親父や叔父さん達と 一緒に酒を酌み交わして楽しみたいものだが、それは夢のまた夢かなぁ。

重い病気・難しい病気
レスパイト入院をしている時、僕はこの病室で何番目に重い患者なのだろうかとよく考える。上肢・下肢・ 体幹・嚥下・呼吸の運動機能は障害の大小はあるにせよ、間違いなく僕が劣っているだろう。しかし僕が この病室では一番若いし症状も安定している。そして目の輝きや強さも多分強いほうだろう。でも僕の 病気が直ること・進行が止まることは、現時点ではない。一体病気が重いとはどういう事を言うのだろう、 完治するまでの距離が遠い・健常者の動きとは程遠い動きしかできない、そんなことは病気が重いとか 軽いとかには関係しないのだろうか?
現在の医療報酬制度は多分病気が直るかどうかの過程・結果よりも診療・診察・治療や投薬・処置の有無や 頻度に重点が置かれているのだと思う。それが長期入院や療養型入院を病院に受け入れにくくしているのだと 思う。病院の基本は一度預かった患者は完治させて自宅に返す事、また最近時々耳にする地域で連携型 総合医療体制?を組んでいる場合は、掛かりつけの病院から託された患者が持ってきた問題や課題を 解決してから元の病院に返すべきだと思うが、現在の医療報酬制度の体系ではそれも難しそうである。
われわれの病気は現時点では治す方法はまだない。だから症状が安定したら、ほとんどの病院から在宅療養か 難病患者長期受け入れ認定?病院への転院を促される。僕のように自分から在宅療養を強く希望ししかも ある程度の受け入れ体制が整う場合は在宅療養も可能だが、そうでない場合は転院となる。何がそう させるのか、難しい病気でも命を直接左右する状態でない場合は病気は重くはないと判断されるのか? それならそれでもかまわない、ただどんなに難しい病気でも医療研究機関にはそれらの病気を直すために 大いに努力して欲しいし政府も十分な予算をつけて欲しい。
この4月1日から障害者自立支援法が施行された。現代社会における自立とは、十分な社会生活がおくれ かつ社会的責任を果たすことだと思う。そのためには経済的基盤を構築するための仕事が必要になる。 死後を提供し生活していくのに見合う(障害年金を加味しても可)報酬を保証するのと同時に障害者の利用する サービスに対し新たな負担を求めるならばそれでこそ自立支援といえると思うが、職安の紹介強化をいくら 盛り込んでいるとはいえ仕事を提供する具体策のないまま負担だけを先行させているのは片手落ちの法律だと 言えると思う。
今政府はニートー・フリータ対策に多額の予算を計上していると聞いている。働こうと野意欲はある フリーターを定職に就かせるために対策を打つのは大いに結構なことだが、働く意欲も見せないままに 親や世間に対し甘えているニートに予算を割くくらいなら、働きたくても働けない・働いても生活するのに 十分とはいえない報酬しか受け取ることのできない障害者のための支援として予算を使って欲しいと僕は思う。

孤独感
最近しばしば孤独感にさいなまれる。3年ほど前気管切開した時には家族全員で病気と立ち向かい、また 周りの人もみんないつまでも応援してくれると一人で信じていた。確かにみんな応援してくれる、でも その形は時と共に変化していった。身体は少しずつ弱っていく、しかも嫁さんも訪問看護師さんも年々年を とっていく。それなのにいつまでも気管切開した当時と同じ事をしたい・同じ事をさせて欲しい・同じ対応を して欲しいと望む事は無理強いの我がままで間違いなのか、ただ甘えているだけ・自立していないだけなのか?
子供たちは年々大きくなっていく、それは嬉しいことだ。でも成長に応じお父さんのそばで遊んでくれる 回数は減る。自分の子供の頃のことを思えば当然のこと、僕も親父について来いと言われたらいやな顔を していた。分かってはいるのだけれどそれでもさびしい。
仕事でもしていれば気もまぎれるのだが出来ないから、暇は持て余している。だからつい暇な時はいつも パソコンに向かう、パソコンに向かっていれば時間を忘れることが出来る。でもその時はよほど真剣な顔を しているのだろう、子供たちは邪魔をしてはいけないと思ってか返って側に来なくなる。悪循環だ。

ALSと共に生きてきた方の死
先日担当の保健師さんが訪ねて来てくれて話を聞いていた時に、話題の最後に鹿島のNさんが亡くなられたと 告げられた。
Nさんと初めて会ったのは5年程前に佐賀中部保健所で行なわれた『ALS患者・家族の集い』の時だった。 確かご主人に車椅子を押してもらってこられており将来に対する不安を口にされていたが、明るく上品で おしゃべりが好きそうな方だった。私が何人か参加しておられた患者の中でNさんのことが気になったのは、 Nさんの状態が2年程前の自分と重なって見えたからだった。これからNさんも私が感じ思い悩んできた事と 同じような事を思い描きながら過ごしていくのだろうなと思うと、少しだけでも思いや不安・悩みなどを 分かち合えれば、また私がこれまでに経験してきた事を手紙やメールに綴ることで少しでもNさんの役に 立てればいいなと思ったのだった。
その後Nさんとは数回手紙やメールでやり取りもしたし、お互いの担当の保健師さん経由で状況を 教えてもらったりもした。
最後に会ったのは、2年位前の秋に私がレスパイト入院?をした時のことだった。その時Nさんも同じ病棟に 入院していると伝え聞き会いに行ったのだ。その時のNさんは以前会った時よりは少しばかりやせてはいたが 元気そうに振舞っておられるように見えたので安心したものだった。
そのNさんが亡くなったという。私の担当の保健師さんに聞いたところによると、Nさんは最初から人工 呼吸器は着けないとの意思表示をされていたそうだ。私にはNさんがそのように決心されるまでの心の 揺れ動きを慮ることは出来ないし、また治療や生活していく(生きていく)状態の過程では個人の意思が 最も尊重されるべきだと思う。Nさんも自分に与えられた命の限りの中で、できるだけ悔いの少ない人生に するために勢一杯生き続けようと努められてきたと思うしそう信じていたい。
私自身の経験からも人工呼吸器を着ける前と着けた後では生活が一変した。個人的には生活空間や目に入る 範囲が極端に狭くなり、自由度が少なくなってしまっな。それにもまして家族の生活パターンは180度変った。 訪問看護師さんが付き添ってくれている2時間ぐらいの間以外は、家族の誰かが私の呼び出すチャイムの 聞こえる範囲にいなければならないという制約を受ける状態に陥ちいったのだ。なぜならいつ何時 吸引をする必要が生じるか分からないからだ。そのため遊び盛りの子供達にも不自由で寂しい思いを させている。その上経済的な負担も以前より増しているだろうし、私の障害も年々も更にずっと重くなって 行くだろうから家族の介護の負担の比重も重くなっていく。その上コミュニケーションもますます取り辛く なってくるだろう。
自分自身のことは何とか耐えることは出来ても、家族に今以上の負担を強いることは忍びなくて 耐えられないと人口呼吸器の装着を断念・拒否する方もいるという話はよく耳にするところである。 もし日本の政府や行政・自治体が、(寿命による死を抜きにして)生きていたいという人間にはなんとしても 生きてもらうという政策を掲げ、知恵を出しその方針に向けて研究・開発や社会福祉に予算を割き まい進するならば、難病自体も減るだろうし少なくとも家族だけに負担を強いるのではなく社会全体で 介護を分かち合う社会にする事も出切るだろう。そうなれば病気や介護を苦に死を選ぶ人・家族にこれ以上の 負担をかけたくないと死を選ぶ人もいなくなるに違いない。
しかし残念ながら今の政府の政策は財政再建という大義名分の名の元に、医療制度改革や障害者自立支援法等 弱者救済とは逆方向の政策を推し進めようとしているのではないかと感じているのは私だけだろうか。
昨年の春私がレスパイト入院している時にNさんたちがお花見にいかれるらしいと耳にした。その時は上手く 連携が取れなくてご一緒することが出来なかった。後で聞いた話によれば楽しい時間を過ごされたとのこと。 できることならばその花見の輪の中で僕もNさん達と楽しさを共有したかったというのが今の素直な気持です。 それができなかったのがNさんとのことで少しばかり心残りです。
私はこれからも自分の出来る範囲で勢一杯がんばって生き続けて、いつか直る日が来るのを気長に 待っていたいと思っています。Nさんも空の上から見守っていてください。これからも落ち込んだり 挫けたりしてしまう事も多いでしょうが、その時は枕元まで叱りつけに来てくださいね。

背中がパジャマのしわのせいで痒い
今朝5時過ぎ痰の吸引に来てくれた母ちゃんに「パジャマの背中のしわを伸ばして欲しい。」と頼む。 母ちゃんは不慣れな手つきながらも何とか伸ばしてくれた。お前はA(僕の次男の子)と同じで小さな事を 気にするね。」と。でもそれは違うよ、母ちゃん。健康な人は夜寝ている時自然に何度も寝返りを しているんだよ。でも僕は上半身は一日中微動だにもできない。だからパジャマやシーツの小さなしわが 少しずつ背中に食い込んできて痛くなるんだ。顔に目には見えないようなほこりがついたときも同じこと。 みんなは「何にも無いのに何言っているんだ。」って顔をする、でも僕にとっては痒くて痒くて たまらないんだよ。そこのところを理解して欲しいんだ。
これって無理なお願い?

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